弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

一皇位継承一 一家三后 一

この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

あまりにも有名な藤原道長絶頂の歌である。この歌が詠まれたのは、寛仁二年(1018)十月十六日の夜のことと、道長と同時代を生きた藤原実資の日記『小右記』にはっきりと記されているから、確かであろう。この日、道長の三女威子を孫の後一条天皇に入内せしめ、晴れて皇后に冊立された祝宴であった。 宴もたけなわ、道長は実資に「これから歌を詠もうと思うが、返歌をお願いしたい」と問い、「やや自慢げではあるが、即興なので、」と前置きして此の歌を詠んだ。実資は内心は「こんな自慢たらしい下手な歌に付き合うのはごめんだ」と思いながらも、道長にはおくびにも出さず、「あまりに優美な歌ゆえに私にはとても返歌できません。代わりに皆で此の歌を吟詠致しましょう」とかえした。これに快く思った道長咎めもせず、満月夜のしじまに響き渡る我が歌に聴き惚れていたに違いない。この宴は土御門殿にて開かれた。道長枇杷殿、一条殿、二条殿、高倉殿、東三条殿など平安京に何件もの邸宅を持っていたが、この頃はこの土御門殿が主邸となっていた。今の京都御苑内、京都迎賓館の前にその跡地が遺されているが、此処が道長の栄華を象徴する舞台となった場所である。内裏が焼けて一条天皇がしばし逗留されて里内裏となったこともあり、彰子が懐妊して里下りしたのもこの土御門殿である。彰子は土御門殿で二人の皇子を産み、嬉子も皇子を産んだ。この三人の皇子が後に後一条、後朱雀、後冷泉の三代の天皇になられる。土御門殿はもとは道長正室倫子の実家である。当時、平安貴族の婚姻は婿入りが普通であり、道長は倫子の実家の源雅信家をまるっと相続したのである。道長は結婚当初は両親と住む倫子のもとへ通っていたが、彰子が生まれると土御門殿に住むようになり、雅信夫妻が一条殿へ転居している。結婚するとはそういうことであった。この夜の宴には北家一門はむろん、名だたる公卿も侍り、道長家の繁栄を寿いだ。実資は日頃から道長に対しては反感を持っていたが、この日ばかりは屈服せざるを得ない状況であった。それほどに道長の権勢は揺るぎなきものとして完成したのである。

一条天皇崩御されると、皇太子居貞親王践祚三条天皇として三十六歳で即位された。三条天皇の母超子は道長の姉で、一条天皇と同様、道長の甥にあたる。その東宮になられたのが、一条天皇の第二皇子で、彰子の産んだ敦成親王であった。道長は甥よりも血縁の濃い孫の敦成親王が即位することに執念を燃やす。一方で壮年の三条天皇は予てより自ら理想とする政を実現されたいとの想いを抱かれており、摂関政治を停止して、天皇親政を望まれていた。もっとも当初は道長に関白就任を打診されたが、道長はこれを固辞して、内覧の地位にのみとどまっている。そこには道長の思惑が透けて見える。関白となれば天皇の第一臣下として天皇を補佐しなければならず、親政の実現に協力せねばならなくなるためだ。道長三条天皇に次女の姸子を嫁がせたが、三条天皇にはすでに娍子と云う后がいた。道長は姸子を中宮に押し込んで、娍子を皇后とし、一条天皇の時と同じく二后並立を強行したのである。娍子立后の日に道長は姸子の入内をわざとぶつけて立后の儀を妨害した。立后の儀に参列したのは実資ら四人の公卿のみで、ほとんどの公卿は道長を憚り参列を辞退している。しかし、姸子には皇子は生まれず皇女が生まれた。この時道長は不快な気持ちをあらわにしたと云う。何よりも外孫の敦成親王の即位を一日も早く望むようになる。

三条天皇に対して道長は露骨に譲位を迫る。天皇は近臣に無礼千万な道長への不満から、食事も喉を通らず、眠れない、不安で仕方がないと漏らされた。こうしたストレスが原因なのか三条天皇は目を患い、視力も衰えてゆかれた。そこで道長は闘病に専念するべきとさらに強く譲位を迫った。実資は『小右記』で道長の態度を「大不忠」と非難するも、現実では道長に対面して苦言を呈することはなかった。そして長和五年(1016)、御在位五年の三条天皇は第一皇子の敦明親王東宮にすることを条件に、敦成親王への譲位を受け入れられた。敦明親王の母は娍子で、敦成親王の即位を優先した道長もこればかりは譲歩した。新造の内裏がわずか二ヶ月で焼失し、三条天皇の心労もピークに達していた。譲位せざる得ない状況を道長が誘発するように仕向けていたのである。

かくして敦成親王は九歳で践祚され、後一条天皇となられた。ここで道長は初めて摂政となる。平安時代を通して外祖父として摂政となったのは、良房、兼家、道長の三人のみ。ほとんどの摂政は天皇とは叔父と甥の関係であった。外祖父摂政がいかに強大な力を持てたかは、三人をみれば明らかである。摂政就任の年の暮れ、道長左大臣を辞任して、摂政専任となった。ここで嫡男頼道が内大臣になっており、廟堂は息子に任せて、自らは摂関の足場固めに専念した。その一年後の寛仁元年(1017)、三条上皇は失意のうちに崩御された。後見を失われた敦明親王東宮から退かれてしまう。道長が強要した可能性もあるが、敦明親王は争いを好まれず、機を読むことに長けておられたのであろう。このあとは東宮の経済特権を有したまま生涯を気楽に送られたと云う。代わって東宮となられたのが、後一条天皇の弟宮の敦良親王で、これにより道長天皇東宮の外祖父となった。

ここで道長は摂政を頼通に譲り、暮れには太政大臣となる。自らの目の黒いうちに摂政の地盤を道長家すなわち御堂流の世襲とすることを確実なものとしながら、自由な立場から頼道を後見し、権力を強大なものにしようとした。ちなみに道長は後に「御堂関白」と称されるが、関白になったことは一度もない。一条朝、三条朝の二十年を左大臣兼内覧として過ごし、後一条朝の摂政も一年にも満たない。それでも隠然たる力を保持し得るだけの基盤が出来上がっていたのである。道長が当主の父「大殿」として行った政治が、後の院政の原型となった説もあり、さらにずっと後までも、徳川時代の大御所や明治政府の元老など、日本独特の二元政治の原型となったとも云えよう。これには藤原氏特有の権勢欲と、彼自身が元来病弱であったことが起因していると云う説もある。ゆえに先を見越して先手を打ち続けたのではあるまいか。

道長は摂政を辞すると外戚としての摂関政治の仕上げに取りかかる。寛仁二年(1018)、三女の威子を、外孫である後一条天皇に女御として入内せしめた。元服したばかりの天皇は御年十一歳、威子は九つも年長の二十歳。そして威子は女御から中宮に昇り、皇后冊立となった。威子に皇子が生まれ、天皇となれば道長家は外戚としてさらに長い間権力を維持できる。これが道長の策略であった。甥と叔母の結婚を二段構えで行うと云う前代未聞の強行策は、今ではあり得ないことであるが、当時としても極めて異例のことであった。威子が中宮となったその日、土御門殿で開かれた宴が、冒頭の宴である。そこで道長は、この世は私のためにあるようなもの。満月が欠けることなく、完全なるものであるように、私の思うようにならないことは何もない。まさしく絶頂であった。道長は自分の娘で三代の后を独占した。すなわち太皇太后が彰子、皇太后が姸子、皇后が威子、この一家三后は、日本史上、後にも先にもこの時だけである。このあと道長は四女の嬉子までも敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁がせ、道長の没後に親仁親王(のちの後冷泉天皇)が生まれている。これにより頼通の摂関在任が半世紀にも及んだのであるから、道長の敷いた道は確かであった。道長の権力への執念たるや凄まじいものがあるが、一方で無念なり三条天皇のご心中も察するに余りある。百人一首にも採られたかの有名な歌に、三条天皇はその胸中を赤裸々に吐露されている。

心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

同じ月を詠んでいても、かほど道長の月とは違うとは。まこと冷たく哀しい月であるが、歌の軍配は明らかである。