弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと②

宝泉寺

中央線の日野駅のほど近くに鎌倉時代創建の静かな禅寺が在る。宝泉寺と云い、此処に新選組六番隊組長井上源三郎は眠っている。井上源三郎は、文政十二年(1829)、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として日野の地に生まれた。十八歳で天然理心流宗家三代目の近藤周助に入門、近藤勇土方歳三沖田総司の兄弟子にあたる。勇や歳三とは六つ、総司とは十三も年長で、彼らはまことの兄のように慕い、源三郎も弟のように想っていた。源三郎は剣の腕は中程度であったが、無口で生真面目な性格で、周助の身の回りの世話から道場の雑務まで黙々とこなした。近藤勇が宗家四代目を継ぐと、周助から「勇についていてほしい」と頼まれて、実直にその言い付けを守った。 勇が浪士組に参加すると付き従い、新選組が発足してからは、局長や副長の影にひなたに暗躍し、対外交渉を担当、両雄の信頼は絶大であった。免許皆伝まで十三年を要した剣の腕よりも、人柄で幕末を生き抜いたのが井上源三郎であった。が、池田屋事件では八人の浪士を捕縛する活躍もみせている。源三郎、勇、歳三、総司の四人が育んできた多摩以来の絆が、新選組の結束を揺るぎないものとした。慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、新選組は幕軍の誰よりも前線に出てよく戦った。一月五日、淀千両松に布陣し、新政府軍を迎撃したが敗退。新政府軍は錦旗をかざして官軍となった。旧幕軍は近くの淀城で立て直しを計ろうとしたが、淀藩は官軍と戦う気はなく、門を開いてはくれなかった。旧幕軍は男山、橋本方面に撤退。井上源三郎はこの戦いで腹部に銃弾を受けて死んだ。享年四十。土方歳三の腕の中で絶命したとも云われる。亡骸はいったん墨染の欣浄寺に葬られたが、後に宝泉寺へ改葬された。皆から慕われた源さんは、故郷で静かに眠っている。寺の近くには”新選組ふるさと歴史館”や”井上源三郎資料館”も在る。源さんは図らずも幕末の動乱に紛れこんでしまったが、泰平の時代に生まれていたら、安穏に長生きしたであろう。近藤勇新選組に捧げた人生であった。私は墓に手を合わせながら問うた。「源さん、楽しかったですか?」

若宮八幡神社と西光寺

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕軍は、大坂城へ退却し、将軍慶喜に出陣を催促した。これを受けて慶喜は、「最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と鼓舞し、すぐさま支度するゆえ、各々持ち場にて待てと命じた。だが慶喜は、会津藩松平容保桑名藩主定敬兄弟や、老中板倉勝静らを伴い、深更、大坂城を密かに脱出し、大坂湾に停泊中の開陽丸で江戸へ逃げ帰ってしまう。これにて一会桑政権は消滅した。残された幕軍を担ったのは、幕軍最強の新選組を率いた近藤勇土方歳三。彼らは慶喜逃亡を知り、一時は絶望したが、持ち前のタフネスぶりを発揮して、関東にて官軍を迎撃すべく、榎本武揚に通じて富士山丸で江戸に帰還した。 幕軍は、三方から江戸へ迫る官軍を止める要は、甲府と定め、何としても官軍より先に甲府城を抑えたかった。当時甲府天領で、官軍も此処を拠点にして江戸を攻略しようと考えていた。徳川時代甲府城武田信玄を敬愛する家康が接収し、西国で挙兵された場合の出城とした。また、江戸城で一朝事あらば将軍の退避所とするために整備していた。ゆえに代々親藩や譜代が治め、後に天領となったのである。半蔵門から真っ直ぐ西へ向かう甲州街道は、有事の際の軍用道路であった。天下泰平では行軍などなかったが、幕末、その機能が初めて日の目を見たのである。甲府城死守は新選組に託され、”甲陽鎮撫隊”と改名して隊士を増強。かくして、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、甲州街道を一路甲府へと進軍を開始した。

近藤勇の地元”上石原宿”では、土地のヒーローとして歓待を受け、近藤はそれに応えるべく大名籠に乗り、土方歳三は断髪して洋装で馬に跨ってやってきた。甲陽鎮撫隊は、今の西調布駅そばに在る西光寺にて休息した。西光寺には近藤勇像がどっかと座っており、参詣者を出迎えてくれる。この寺から近藤勇はこのあたりの氏神で、自らも氏子である若宮八幡神社へ向かい遥拝し、戦勝祈願したと伝わる。今も住宅街にあって神さびた佇まいをみせるこの社の境内に立ってみれば、風雲急を告げる幕末の足音が響いてくるようであった。新選組の再起を賭け、多摩の誇りを胸に秘めて、甲陽鎮撫隊甲州路を西へゆく。

日野宿本陣

甲州街道日本橋から八王子、甲府を経て、信濃国下諏訪で中山道と合流する。昔は”甲州道中”と呼ばれ、四十四次の宿場が置かれていた。江戸から甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と云った。日野宿は甲州道中五番目の宿場である。余談だが、高井戸二宿、布田五宿とした場合は十番目にあたる。府中と八王子の間の日野宿は両隣ほど大きな宿場ではないが、多摩川の渡しを管理する道中の重要な拠点であった。今も閑静な日野は土方歳三井上源三郎の故郷。旧甲州街道沿いは、かつての宿場の面影をいくらか留めている。なかで日野宿本陣は幕末往時の姿をまるっきり遺しており、此処を幾度も訪れた近藤勇土方歳三に親しく想いを馳せることができる。本陣は大名や旗本の宿泊所で、以前の建物は嘉永二年(1849)に焼失。現存するのは元治元年(1864)に、歳三の義兄で日野宿名主の佐藤彦五郎が再建したものだ。彦五郎は此処に居住もしていた。

元治元年と云えば、京都で”池田屋事件”や”蛤御門の変”があった年で、新選組が最高潮の時である。佐藤彦五郎は歳三らが幼い頃から目をかけ、自らも天然理心流に入門し、この本陣に”佐藤道場”を構えた。歳三や源三郎は此処で稽古し、江戸から出稽古に来た近藤勇や、後に加わる沖田総司と親交を深めていったのである。すぐ傍にある八坂神社は、寒稽古をしたり、奉納試合を披露した場所で、近藤や沖田と佐藤道場の門人の名が刻まれた額と木太刀が奉納されている。慶応四年(1868)三月二日、先に述べた甲陽鎮撫隊は、日野宿にて休息をとった。地元多摩での近藤勇は「故郷に錦を飾る」思いで振る舞っている。近藤は一時の休息ではなく、せめて一晩逗留したかったようだ。官軍は甲府城に迫っており、一刻の猶予もないのだが、近藤は実に悠長に構えたと云う。迎えた親族や佐藤彦五郎ら後援者も、たいそうなもてなしをした。ただ一人土方歳三だけはこの光景を快く思わず、近藤に先を急ぐよう進言したが、近藤は「暫時」と言って、聞かなかったと云う。この衣錦の栄が一世一代であるとの想いでいた近藤勇。努めて笑顔でいたのであろう。迎えた人々もそれを感じていたに相違ない。その想いは涙を誘う。

ちなみに佐藤彦五郎は此処から甲陽鎮撫隊に参加している。沖田総司は病を押して何とか此処までついてきたが、これ以上の進軍はもう不可能であった。彼は此処から江戸へ戻ったが、療養の甲斐なく数ヶ月後に死んだ。日野が近藤勇土方歳三との永久の別れの地となった。

この日、この辺りで剣術を教わった若者が五、六十人も本陣へやってきて、甲陽鎮撫隊へ入隊を志願した。しかし近藤勇は承知せず、彼らを前にしてこう言い放った。「まだまだ諸君のする事は外に沢山あります。お志はうれしいが供は許されません」(子母澤寛/新選組始末記より) 近藤は闇雲に突出しようとする若者たちを諫め、後事を託した。この国の行く末に想いを致しつつ、無駄な犠牲者を出さないために。誠の武士であった。日野宿を訪れてみるといい。其処には近藤勇土方歳三沖田総司井上源三郎がたしかに生き抜いた証が今も燦然と遺っている。