弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

多摩丘陵に棲む~菖蒲と紫陽花~

初夏。多摩丘陵もみどりあざやかな時季に。鳥の囀りを携えて散策の日々。自宅から歩いて5分ほどの場所に”栗木緑地”がある。多摩丘陵の尾根道のひとつで、木々が生い茂るが、道が整備されているので、市民憩いの遊歩道となっている。時折、視界が開ける場所があり、東には都心のビル群、西には富士山、大山、丹沢山地を眺めながら歩く。さすがに尾根道でところによっては高所感もある。緑を眺めることは、疲労しきった目の保養にはうってつけらしい。こんな場所がそこかしこにある多摩へ移り住んで良かったと思う。

初夏の強い日差しを浴びて、まわりの木々もすっかり夏の装いになってゆく。 このところ朝は鶯、雲雀、不如帰の混声合唱で目覚め、夜は梟の寝物語を聴きながら眠っている。 不如帰は真夜中にも寂しげに鳴いている。 そんな夜は寝付きが悪いが、毎夜聴いているうちに、親しい友人になった気がして、つい明け方まで耳を傾けてしまう。 多摩丘陵に棲むようになって、都心に住んでいては気づかなかった季節の気配や、朧げであった花鳥風月の輪郭がくっきりとしてきた。

“何れ菖蒲か杜若”とはまことに言い得て妙。 花菖蒲のなかまは私が好きな花のひとつ。 佇まいは楚々としているのに、花は気高く可憐である。 ハナショウブ、黄ショウブ、カキツバタ、アヤメ、 イチハツ、ジャーマンアイリス、ダッチアイリスなどあるが、たしかに見分けにくい。 が、よく観察すると花の大きさや開き方が違う。 根津美術館に蔵されている、光琳の”燕子花図屏風”を観てから私はこの花たちの虜になった。 先日、荒れ模様の空の下、薬師池公園の花菖蒲たちを観に行った。今が盛りと聴いていたが、朝から風も強くて、横殴りの大雨。昼下がりまで待つも、一向に天候は回復せず。この雨で散ってしまうかも知れない。意を決して私は出かけることにした。 薬師池公園の菖蒲田には肥後系、伊勢系、江戸系など230種、およそ2200株の花菖蒲のなかまが植えられている。花の脚元には立て札があり、名が記してある。 いずれも粋な名前でいちいち感心した。 美しい菖蒲田を維持するために、晴れた日には早乙女姿の花摘み娘がいるらしいが、この日はさすがに現れず。 花摘みは、花びらが腐って病気になるのを防ぐための作業だとか。丹精が込められているのだ。 私はずぶ濡れになったが、園内には誰もいない。 実はこれは狙い通り。 おかげで花の池を独占させていただいた。 いきいきと咲き誇る花たちは、雨中になお映えて見えた。

紫陽花が見頃を迎えている。 むろん多摩丘陵もそこかしこに紫陽花が咲き乱れている。私は毎年、方々に紫陽花の名所を訪ねてゆくのを楽しみにしている。去年は文京区の白山神社へ行った。今年は久しぶりに水無月の鎌倉へ。 鎌倉には名月院や成就院など、紫陽花の名所が数多あるが、長谷寺も伽藍の背後の観音山の斜面にたくさん植えられており、 この時季は”あじさいの小径”と呼ばれている。 今年は梅雨入りを躊躇っていた関東地方は、私が長谷寺へ行った1週間前後は雨降らずであった。よって紫陽花たちは少し元気がない様に見受けられた。 恋しそうに雨を待つ紫陽花たちの願いは、開創千三百年を迎えた観音さまが、きっと叶えてくださるであろう。 一方で放生池や卍池に浮かべられたあじさいの花は、生気をとり戻して目にも綾に映る。 鎌倉の寺はいかにも質実剛健な寺が多いが、それらの中で長谷寺は異彩を放っている。 それは海が近いゆえかも知れない。 高台に在って境内からは相模湾三浦半島が一望できる。心地よい潮風が吹き、一年中花が絶えない長谷寺はまさしく観音浄土。 紫陽花越しに、由比ヶ浜の砂も明るく光って見えた。