弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

一皇位継承一源氏物語一

権勢を極め尽くした道長政権運営にあたり、廟堂を意のままに操った。『小右記』 には「右衛門督以下恪勤上達部伺候云々、以七八人上達部世号恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟」とある。右衛門督とは斉信のことで、左府が左大臣道長のこと。要するに「斉信以外の上達部たちは、皆、道長に従者に成り下がってしまった」と云うのである。事実、多くの上級貴族は道長と姻戚関係を結ぼうとした。中でも道長に忠誠を誓い、政権を支えた有能な公卿がいた。藤原斉信源俊賢藤原公任藤原行成の四人で、斉信が大納言、ほかの三人が権大納言である。彼らは官位から”四納言(しなごん)”と呼ばれた。そのうち、源俊賢は妹を道長と結婚させ、ほかの三人は娘を道長の息子と結婚させて関係を強めようとした。四納言は道長の影にひなたに暗躍し た。また、道長は常に部下たちに目配りも忘れなかった。『御堂関白記』には貢物をした公卿や受領たちの名と贈り物がいちいち記されており、これを人事の考課にしたのではないかと云われている。気配りの人だったゆえ長期安定政権を築けたのである。 

さて、日本の有史以来もっとも長い平安時代もたけなわである。平安時代以前は中国の文化に感化、影響されてきたが、世が泰平となってきた平安中期には唐風文化からの脱却がみられるようになり、いわゆる日本独特の国風文化が開花した。それこそが王朝時代であり、王朝文化が満開を迎えたのが何おう道長と息子頼道が摂関を担った時代であった。この頃、貴族の教養としては漢詩と併せて和歌を巧く詠めるということが重要な要素となっており、数々の名歌が競って生まれた。そして何より、日本文学の礎はこの時代に成長し、ほぼ完成をみたと云って過言ではないと思う。むしろ王朝時代以降現代に至るまで、日本文学は進化をしながらも、ある種行き詰まっている感がある。それは、この時に誕生した我が国が世界人類に誇る不朽の大長編小説『源氏物語』が存在があまりに大きいからである。

源氏物語』が書かれたのは間違いなく道長黄金期の頃のこと。寛弘五年(1008)十一月一日の夜、道長の土御門殿で開かれた敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生祝いが開かれた。先に挙げた藤原公任もこの宴に招かれていたが、酒に酔って厠へ立った帰りに、紫式部のいる部屋の前を通りかかった。その時公任は「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(このあたりに若紫の姫君はおられますか)」と声を掛けた。すると几帳の中から「源氏に似るべき人もみえたまはぬに、かの上は、まいていかでものしたまはむ(源氏の君に似ている方もおられないのに、まして紫の上がどうしてここにおりましょう)」と。このやりとりは『紫式部日記』に書かれており、この時点で『源氏物語』が”若紫”のあたりまでは書かれていたことが確実であり、宮中ではベストセラーとなっていたことがわかるのである。光源氏のモデルは在原業平源融と云われるが、紫式部道長を意識しなかったはずはない。プレイボーイのシーンはいざ知らず、権勢並ぶべき者なくなった往年の光源氏は、道長を彷彿とさせる。妻として迎えた女三の宮と柏木の不義密通を知った光源氏が、柏木を己が存在感のみで追い詰めてゆくところなどは鬼神のようであり、恐ろしい。間近で権力者をみてきた紫式部にしか書けないであろう。そんなところに道長を当てはめたのではあるまいか。紫式部道長の愛妾の一人であったとも云われる。あれほどの長編小説を描く環境や経済的支援、紙や墨や筆を与えてパトロンとして紫式部を盛り立てのが道長であるが、紫式部もまた道長がそばにいたおかげで、宮中や平安貴族の表も裏も見尽くすことができた。ゆえに奥行きのある味わい深い、千年の名作を生むことができたのである。『源氏物語』は生まれるべくして生まれたのである。

彰子のサロンには紫式部のみならず、赤染衛門和泉式部と云った、当代一流の女流歌人が侍っていた。むろん道長がスカウトしてきたのである。ことに平安王朝最高の女流歌人とも称される和泉式部は、夫のある身ながら、冷泉天皇の第三皇子の為尊親王、第四皇子の敦道親王兄弟の求愛を受け、これが宮中を揺るがす一大スキャンダルになるなど恋多き女性として知られているが、紫式部は日記にの中で和泉式部のことを「素行は悪いが、歌や恋文は抜群にうまい」と評している。道長和泉式部のことを「浮かれ女」と呼びつつも彼女の歌の才能には惹かれており、それを認めていたからこそ、サロンを任せたのである。

王朝文学と云えば、ここに述べた女流文学が代表的であるが、貴族たちの日記も多く遺されており、道長の『御堂関白記』と藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記 』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』、菅原孝標女の『更級日記』、そして『紫式部日記』、『和泉式部日記』などなど数多あり、一級の古典資料として我々は当時の彼らの生活、政治、思想、社会、制度、対人関係、恋愛、しきたり、有職故実を知ることができる。平安貴族の社会が道長の頃に安定したゆえにこうしたモノが多く書き遺されたに違いない。 

百人一首にもこの当時の名だたる文化人が多く採られている。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れなほ聞えけれ(藤原公任

あらざらむこの世のほかの想ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部

めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな(紫式部

やすらはで寝なましものを小夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門

夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言

女流文学者たちに触れたついでに、道長をとりまく二人の妻についても簡単にみておきたい。道長には正式の妻が二人いた。平安貴族の間で一夫多妻は当たり前で、妻の家へ婿入りすると云うのが主流であった。『大鏡』にも「この殿は北の方二所おわします」とある。一人は宇多源氏源雅信の娘倫子で道長が二十二歳で公卿となってすぐに結婚した。倫子は道長より二歳年長であった。この結婚は道長が積極的に望んだと云う。この当時、雅信はばりばりの左大臣であり、嫡流的存在として宇多源氏を率いていた。そこに道長は目をつけて、自ら政略結婚を申し込んだのである。この時から道長の権力基盤固めが始まっていたのである。当時道長の父兼家は一条天皇の摂政となっていたのだが、道長が嫡男ではなかったため、雅信は倫子との結婚には大賛成はでしなかった。雅信はあわよくば倫子を后として入内せしめることを考えていたようで、青二才の道長の申し出を軽くあしらっていたようだ。このことは『栄華物語』にも記されている。これを取り成したのが雅信の妻藤原穆子で、「道長は並の男ではない、将来性がある。私に任せてください」と雅信を説き伏せたと云う。これにて二人の結婚は実現し、倫子は道長の北の政所となったらしいが、これは定かなことではないらしい。おそらく道長は倫子と結婚することに一歩も怯むことなく、また向後にたいへんな自信を持っていたに相違なく、それが周囲にも、当の倫子にも伝わったのではあるまいか。うまい歌など詠んで、倫子に贈り続けたに違いない。かくして倫子は大平安貴族の正室となったのである。倫子の産んだ子は皆出世した。二人の息子の頼道と教道は摂関となり、娘たちは順に彰子は一条天皇中宮、妍子が三条天皇中宮、威子が後一条天皇のそれぞれ中宮となり、道長の栄華の頂点を極める出来事となった一家三后を実現した。さらに下の娘嬉子は後朱雀天皇東宮時代に妃となり、後冷泉天皇を産んでいる。(嬉子は残念ながら東宮非妃の時に十九歳で薨去した)こうしてみて、道長家が繁栄したのもまさに倫子のおかげなのである。道長が頼道の結婚の時に「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり(男の価値は妻次第で決まるものだ。たいへん高貴な家に婿取られていくのがよいようだ)」と悦んだと『栄華物語』に記されているが、この言葉は生涯道長の中に在ったに違いない。

 道長は彰子の生まれた年にもう一人の妻源明子を迎えている。明子は安和の変で失脚した左大臣源高明の娘である。生年は明らかではないが、道長とさほど変わらなかったようだ。明子が幼少期に父は左遷され、父の同母弟にあたる盛明親王に娘がいなかったこともあり 養女として育まれた。親王と死別すると一条天皇の即位で皇太后となった詮子に引き取られた。何不自由なく暮らし、道隆兄弟が求婚してきたが、姉の詮子は二人をたしなめて目をかけてきた道長に通うことを許したのである。道長にとってあくまでも正妻は倫子であり、周囲も認識していた。たしかに明子は、倫子のように道長の妻として公的な場に出ることは生涯なく、子女たちも倫子の子らほど出世栄達はしていないのだが、夫の愛情が途切れることはなかった。

二人の妻は、結婚当時の父の立場に大きな差異があり、そのことが二人の子女たちにも及んでいる。 倫子も明子も破格の長命であった。倫子は卒寿、永承四年(1049)に亡くなった明子も仮に道長と同年であったとしても八十四歳。今でも大往生だ。道長が六十二歳で死んでから二十年の余り、彼女たちは高位に到った子女たちに囲まれて安穏に満ちたりた余生であったと思う。