弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 下野紀行

下野薬師寺

坂東平野の真っ只中にある栃木県下野市。此処は昔、下野国の中心地であった。今も街道筋には白壁の塀や蔵がある古い町並みが遺っており、たしかに歴史ある境域だと実感する。元は毛野国(けぬのくに)と呼ばれていたが、いつしか都に近い方を上野(こうずけ)、遠い方を下野(しもつけ)との二国に分かれた。大和朝廷和銅六年(713)に全国の国名を漢字二文字に統一したが、その時に”毛”の文字が消えて、上野国下野国になったとも云われる。私は以前からこのあたりにとても関心があって、いつか歩いてみたいと思っていたが、この春、桜の便りを聴いて、花の名所である"天平の丘公園"を訪ねた折、良い機会なのでいくつかの寺へお参りした。

下野薬師寺飛鳥時代の七世紀末、この地を治めていた下毛野朝臣古麻呂(しもつけあそんのこまろ)によって創建された。古麻呂は此処から都に赴き、官僚として頭角を現し、後に兵部卿や式部卿まで務め、『大宝律令』の編纂にも携わるなど、中央の政治に大きく貢献した。よって力も富も獲得し、律令時代の総仕上げとして仏教に鎮護国家を担わせると云う一派において、東国を代表する旗頭であった。古麻呂が亡き後も薬師寺は発展を続けたのも、奈良時代に日本の薬師信仰が沸点に達していたからであろう。八世紀の前半には、東国仏教の中心的役割を担い、法隆寺などの中央の諸大寺院と同格とされた。此処には全国に三ヶ所しかなかった”国の戒壇”が置かれるなど、奈良時代までは国家的に重要な寺院であった。戒壇とは導師が戒律を授けて僧侶の資格を正式に与えた場所で、南都仏教ではことに重要視された。当時、税から逃れるべく勝手に得度した私度僧が蔓延り、加えて政界と仏教界が癒着し、南都仏教は堕落の兆しを見せ始めていた。そこで朝廷はもう一度仏教を鎮護国家の要とすべく、戒律の権化としてすでに名僧の誉高い鑑真和上を唐から招聘した。まずは東大寺戒壇が設けられ、後に太宰府観世音寺、そして下野薬師寺にも戒壇が設置された。これらを総称して「本朝三戒壇」と呼ばれ、後には「天下の三戒壇」と云われた。

あの悪名高き道鏡は都を追われ、此処で晩年を過ごして、二年後に死んだ。称徳女帝に擦り寄って、自ら皇位に就こうと企んだが、”宇佐八幡宮神託事件”でその野望潰えて、女帝が崩御されると、ついには下野薬師寺へ左遷されたのである。それでも別当として三戒壇の一つのトップを任ぜられたのだから、まだしも温情的な措置であった。平安時代になると平安京を鎮護する比叡山に新たな戒壇が設けられたり、空海と云うスーパースターが現れて、日本仏教に新風を吹き込むと、南都仏教は衰退し、かつての戒壇は意義が薄らいでしまう。

さしもの下野薬師寺も平安末にはかなり衰微してしまった。その後は「破壊転倒甚だなし」と言われるほど荒廃したが、鎌倉時代に慈猛(じみょう)と云う坊さんが再興した。そして南北朝の動乱を経て足利尊氏が政権を獲ると、聖武天皇が全国に国分寺を建立されたひそみに倣い、新たに臨済禅の安国寺を各地に建立する触れを出した。下野国薬師寺が安国寺と改称され、法灯を二十一世紀まで連綿とつないできたが、平成三十年(2018)に再び薬師寺と改称している。往時は二町四方の中心伽藍、そのまわりにも多くの堂宇や塔が立ち並び、坂東平野の只中に、忽然とその姿を目にした古代の人々にはさぞや壮観であったに違いない。今ではささやかな本堂、戒壇院の跡の六角堂、発掘調査をもとに古代の工法により復元された回廊のほんの一部があるばかり。一方で鎮守社の薬師寺八幡神社はまことに立派であった。

龍興寺

下野薬師寺から少し南へ行くと、古い町並が続き、立派な屋敷が次々と現れる。その奥にある龍興寺はもとは下野薬師寺の一部であった。坂東の寺々はいかにも無骨な雰囲気を持っているものだが、こちら龍興寺はまことに閑雅な佇まいで美しい。あたかも大和の古寺を彷彿とさせる。 さすがに「天下の三戒壇」として、古代中央の大寺に引けをとらぬ格式を与えられていただけのことはある。 此処には道鏡の墓とされる塚がある。弓削道鏡は、文武天皇四年(700)に河内国で生まれ、若年より仏門に入り後に東大寺の良弁に師事した。早くから宮中の仏殿に入ることを許され、孝謙女帝の頃には禅師と称された。 命がけの皇位継承の渦中に少女の頃から身を置かれた孝謙女帝は、淳仁帝へ譲位され、病を得て一時は生死の境を彷徨われた。道鏡孝謙上皇の平癒を加持祈祷した。道鏡には薬学の心得もあって、薬を調合するなど献身的に看病をする。道鏡の心遣いの虜となられた上皇は精神的に昇華されてゆく。これを不快に思った最高実力者の恵美押勝は、道鏡を退けるよう上皇に進言した。激怒された上皇は出家され平城京へ還幸、同時に天皇大権を淳仁帝より奪い、道鏡配下の信頼できる側近を集めて密かに軍備を整えさせた。押勝もまた戦いに備うべく、自らが先頭に立って兵を集め、淳仁帝を奉じて乱を起こすがあえなく鎮圧される。

孝謙上皇重祚して称徳女帝として再び即位された。 道鏡への御寵愛は恋ゆえとも思われる。籠の中の小鳥の如く育てられ、致し方なく天皇となり、”ヴァージンエンペラー”として国家と契りを交わされた。 そこへ病を治してくれた優男が現れた。初めは大いに戸惑われたに違いない。が、次第に惹かれてゆく。初恋であった。歳を経て、権威権力を纏った女帝の初恋である。この想いは、可憐な少女の初心な恋とは違い、時に陰湿で邪悪なるモノまで秘めてしまった。道鏡は付け入るように女帝に寄生する。或いは道鏡も本気で恋をしていたのかもしれない。歴史は勝者によって作られてきた。すなわち勝者に都合の良い歴史である。 しかし称徳女帝を止められる人物は誰もいなかった。道鏡太政大臣に据え、法王と呼ばせて、仏教理念を軸に政を行なう。あまつさえ、女帝は道鏡に譲位をすることを模索し始める。 そしてついに”宇佐八幡宮神託事件”が起こる。称徳女帝は側近の中臣習宣阿曾麻呂より、「道鏡皇位継承すれば天下泰平である」との神託があったと奏上を受ける。たぶん女帝と道鏡の謀に相違なく、阿曾麻呂はそれを忖度した。大激震の公卿らはいよいよ道鏡排斥へと動く。焦った女帝は、宇佐八幡宮に正式に勅使を派遣して、再度神託を得ることにした。派遣された和気清麻呂は、神託を持ち帰りこう奏上した。 「皇国は開闢このかた、君臣のこと定まれり 臣をもて君とする、いまだこれあらず 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ 無道の人はよろしく早く一掃すべし」 これにより道鏡皇位継承の芽は摘まれた。

神護景曇四年(770)、称徳女帝が崩御。以後江戸初期の明正天皇まで850年も女帝が立てられなかったのも、この事件が主因であろう。 道鏡は失脚し、突如下野薬師寺別当へと左遷され、二年後に没している。一時は皇位継承寸前まで上り詰めながら、東国の下野国へ文字通り”下野”した道鏡の失意は容易に察することができる。が、道鏡が左遷だけで済んだ事を考えてみると、この神託事件がでっち上げであった可能性もある。皇統を乱そうとした大罪人として、処刑や流罪にならなかったのは甚だ疑問だ。 道鏡は庶人として葬られた。 権勢を欲しいままにした者の墓とは思えぬ慎ましい墓だ。彼は此処へ来て何を思ったか。 龍興寺は今、彼の汚名を晴らすべく努めておられる。

下野国分寺跡

聖武天皇は、仏法による鎮護国家の要として、全国六十数ヶ所に国分寺国分尼寺を建立する詔を発せられた。 国分寺は正式には”金光明四天王護国之寺”と云い、国分尼寺は”法華滅罪之寺”と云う。 言うまでもなく総国分寺東大寺であり、総国分尼寺法華寺だ。 国の予算で運営される国営の寺で、国分寺には20人の僧、国分尼寺には10人の尼僧を置くことが定められていた。 僧たちは国家安泰のため経典を学び、仏法によって鎮護国家、玉体安穏を祈念すべく修行した。災害や疫病流行の際には特別法会を行っている。また定期的に勉強会を催し、学術研究機関としての役割も担って、言わば大学の様な場所でもあった。 私の自宅からそう遠くない所にも、武蔵国国分寺跡が在る。 各地の国分寺国府庁のそばに在って、下野国分寺もその例に漏れない。

国庁跡は思川の西岸に在り、今は栃木市に入っている。 下野国分寺は天平十三年(741)に建立された。伽藍配置は東大寺式で、南北一直線上に南から南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は回廊で結ばれていた。 南大門は東西21メートル、南北9.6メートル、金堂は東西33.6メートル、南北21メートル、回廊の外の東側には高さ60メートルの七重塔が聳えていたと云う。寺域全体は東西413メートル、南北457メートルもあったと云うからその壮観が偲ばれる。 東に600メートルほどの場所に国分尼寺跡があって、伽藍配置も国分寺と同様であったが、塔はなく、規模も少し小さく造られていたようだ。 下野国分寺跡一帯は史跡となっており、桜の名所として名高い”天平の丘公園”として整備されている。俯瞰図を見ると寺の周りは古墳に取り囲まれており、上古以前より此処が聖地であったことがはっきりとわかる。 下野国分寺は十二世紀頃に廃寺となったが、此処から北へ1キロほどのところに、”国分寺”と云う真言宗の寺が在る。古代の国分寺の法灯を継いでいるとも云うが、定かではないらしい。 下野市には古墳や古代遺跡が至る所に点在しており、”東の飛鳥”と呼ばれている。 東に鬼怒川や田川、西には思川と姿川が流れ、古来より開けた、肥沃な土地であったようで、旧石器時代から人の営みの痕跡がある。飛鳥時代に下野薬師寺が建立され、奈良時代国分寺国分尼寺が建立されると、古代東国の仏教文化の中心地となった。 今、基壇のみしか遺されてはいない荒涼とした遺跡に佇み、かつて此処に大伽藍があった時代に私は想いを馳せた。春風がそよ吹き、抜けるが如き青空の下、手をいっぱいに広げてみた。国分寺の大きさに改めて感嘆する。 何にも無いことが、かえって私の想像を逞しくする。