弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一平等院鳳凰堂一

いよいよ藤原道長が世を去る時がやってきた。道長は死の二年前から東宮妃嬉子、小一条院妃の寛子、子息でただ一人僧籍に入っていた顕信、そして皇太后姸子の四人の子女に相次いで先立たれている。道長の悲嘆はいかばかりであったか。この頃道長は還暦を迎えて、太皇太后彰子は祝賀を主催したが、相次ぐ子女の死に、疫病の流行、そして自らの病で、素直に喜んではいられない状況であったようだ。それが、歌にもよく表れている。

上東門院より六十賀行ひ給ひける時よみ侍り

数へ知る人なかりせば奥山の 谷の松とや年をつままし

上東門院とは彰子のことで、女院がいなければ、私の歳を知る人もおらず、私は奥山の谷の松のようにひとりひっそりと歳を積んだことだろうか、と寂しげに詠ずる。ここへきてついに望月は欠け始めたのである。万寿四年(1027)、道長の病は重篤になってゆく。糖尿病が原因で様々な病を併発し、痢病、背中の腫物は日に日に酷くなってゆき、もはや手の施しようはなく、飲食も受け付けなくなって、十一月二十一日に震えが止まらなくなり危篤に陥った。それでも道長はまだ生きていた。位人臣を極め尽くし、この先当面は自らの敷いたレールがこの国を支配する筋をたしかにし、この世のすべてを見尽くしたであろうにも関わらず、道長はまだ此の世に未練があったのか。あれほど憧れている彼の世へはなかなか行かない。いや行けないのであろうか。十一月二十五日、道長は自らが精魂傾けて建立した此の世の浄土”法成寺”の阿弥陀堂正面の間に病床を移した。九体阿弥陀像の前である。此処で九体阿弥陀像と自らの手を五色の紐でしっかりと結び、居並ぶ僧侶に読経をさせながら往生を待ったとも云われるが、これは定かではなく、実際は臨終間際まで踠き苦しんでいたとも云われる。道長は師走の声を聴くまで粘った。そしてついに、十二月四日、ようやく往生を遂げたのである。享年六十二歳。

摂関家は次代の頼通が率いた。藤原北家でもっとも長く権力の中枢にいた頼通だが、これまでも述べてきたとおり、彼が悠々と廟堂に頂点に座り続けることができたのは、むろん偉大なる父の磐石な布石があったからだ。しかし、後一条、後朱雀、後冷泉と三代半世紀もの間摂関の地位を維持した頼通が、凡人であったとはとうてい思えない。さすがに名うての藤原氏と思わせる人物であったに相違ない。頼通は二十六歳で父より後一条天皇の摂政の地位を譲られた。天皇の外祖父であった父とは違い三代の天皇とは甥と叔父の関係であったから、道長より天皇との関係が弱いのだが、道長を境にして摂関は代々道長嫡流たる御堂流に定着したため、この関係性についてはあまり問われなくなった。穏やかな人柄が天皇家や廟堂の人々に慕われたようで、その人徳から「恵和の人」とも呼ばれたようだ。父の指示を忠実に守っていたが、道長が亡くなると、頼通とて多少は権勢欲が生まれたようだ。そして荘園の整理をするなど、力を示すことも度々あったと云うから、決して凡庸なわけではなかったのである。しかしこの荘園の整理は結果的に彼ら権門に利のある政策であって、抜本的な構造改革には至らなかった。

頼通の仕えた三代の天皇についてはこれまで少しずつ触れてきた。一条天皇の第二皇子で彰子を母に持つ後一条天皇は、祖父の道長に導かれて九歳で即位された。幼帝であったゆえに道長、頼通が摂政となったのだが、育たれた環境からか政にはあまり関心を示されず、成人されてからも頼通を関白として一切を任された。叔母の威子を中宮とされると、二人の内親王を設けられたが、皇子には恵まれなかった。皇太子を当初は前代の三条天皇の皇子敦明親王を立てるも、親王は辞意を示され、代わって同母弟の敦良親王が皇太子となられた。長元九年(1036)、後一条天皇は二十九歳の若さで突如崩御された。糖尿病を患われていたと云うが、あまりに突然のことであった。

兄帝を継がれた後朱雀天皇はこの時二十八歳。やはり道長の六女嬉子を東宮時代に妃とされ、後の後冷泉天皇を授かるも、嬉子は産後の肥立ちが悪く、産後二日後に急逝した。後朱雀天皇も治世のほとんどは頼通政権に一任されており、政に口を挟まれることはなかった。天皇とは”天子”として権威のみを保持するような孤高の存在となりつつあった。これを摂関政治が助長したのはいうまでもない。さらには道長が敷いた外戚による政治体制が、天皇にとっても、玉体安穏護持のみ果たせたならばよいと云う考えを持つに至らしめたのではないかと思う。このあと白河院後白河院が一時専制君主となり、あるいは南北朝の初期後醍醐天皇が親政を試みられたことはあるものの、江戸の幕末まで、”天皇とは天子”として祀り上げられて、君臨すれども権威のみと云う存在になってゆくのである。後朱雀天皇は肩に悪性腫瘍を患い、即位より九年後の寛徳二年(1045)一月十六日、後冷泉天皇に譲位された。その二日後に出家されたが、同日三十七歳で崩御された。最愛の二人の子息に先立たれた太皇太后彰子の失意はいかばかりであったか、察するに余りある。

二十一歳で即位された後冷泉天皇もまた、叔父帝、父帝と同じく関白頼通に政を委任している。頼通は娘の寛子を入内せしめ、皇后とし、何とか皇子の誕生を期待したが、いっこうに皇子は生まれない。後冷泉天皇は同じ後朱雀天皇の第二皇子で異母弟の尊仁親王を皇太弟とされた。次代の後三条天皇である。尊仁親王の母は、三条天皇の皇女禎子内親王で、藤原氏外戚に持たない。このため頼通は冷遇したと云うが、因果応報。ついに後冷泉天皇と寛子の間に皇子は生まれなかった。このことが摂関政治の終焉の発端となるのである。治暦四年(1068)四月十九日、後冷泉天皇は四十四歳で崩御された。

頼通はまだ生きていた。晩年精魂を傾けたのは、むろん御堂流が権力中枢に居座り続けることであったのだが、それに翳りが見え始めると、父と同じく浄土信仰に深く帰依し、自らの極楽往生を切に願うようになった。

宇治の平等院は今や国宝であり、世界遺産でもあるが、この寺を建てたのは頼通である。頼通は父道長の顰に倣い浄土信仰に傾倒してゆくのである。道長が土御門殿に隣接して建立した平安京最大の浄土寺院たる”法成寺”を参考に、宇治の別荘に極楽浄土を現出させる。 日本が末法の世に入った永承七年(1052)、頼通は父から譲られたこの場所を寺院に改めることにした。本堂の阿弥陀堂は、あたかも鳳凰が翼を広げた姿に似ているため鳳凰堂と呼ばれる。安置される本尊の弥陀如来座像は、平安の大仏師”定朝”の唯一の遺作とされ、人々は池を挟んで対岸よりこの浄土を拝んだ。平等院阿弥陀如来像はまさに藤原時代を象徴している。この平等院に晩年の頼通は棲んだ。おそらくは摂関政治の終焉を見据えてのことだったに違いなく、頼むべきはみほとけの救済のみになっていった。絢爛たる極楽浄土を現出させることで、自らの安らぎと成し、それが極楽往生できる最高の功徳であると考えていた。

平等院は数年前に平成の大修理が行われて、眩い色彩が甦った。この平等院を私はまだ見ていない。私が行ったのはもう十三年も前のことで、夏の暑い日であった。その日の京都は夜明けから暑くて、宇治には午前中に行ったのだが、すでに猛暑であった。平等院の境内も強い陽に照射されていたが、鳳凰堂の内部に脚を踏み入れると、嘘のように涼しい。池の面から心地よい風が吹き込んでくる。これぞ極楽浄土であると思った。 藤原時代の夢のよすがである。

極楽いぶかしくば 宇治の御寺をうやまへ

極楽浄土を知りたいならば、宇治の平等院を拝みにゆけとの意であるが、末法の世に戦慄を覚えながらも、浄土信仰が沸点に到達した藤原時代の人々はかく謳い平等院を敬い、一縷の望みとしたのであろうか。