弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

武蔵御嶽神社

浅田次郎さんの小説に『神坐す山の物語』と云う作品がある。武州青梅に座す”御岳山”にまつわる奇々怪々な説話の短編集で、数ある浅田作品で私が一番好きな本だ。母方が武蔵御嶽神社の神官の家柄と云う浅田さんは、少年時代にしばしば御岳山に登り、宿坊に起居したとか。その頃に体験した話や、伝え聴いた話は小説と実話の境目を渡るが如く神秘性を帯びている。時に戦慄を覚えつつ、私はこの小説を読んで、予てより御岳山に興味津々たる思いを抱き、この春、山を目指した。

青梅線青梅駅を過ぎると、多摩川の渓谷に沿って走る。あたかも山懐に入ってゆくようだ。この風景は実に良い。都心から約2時間、東京とは思えぬ雄大な眺めである。御嶽駅からは、バスでケーブルカーの滝本駅まで行き、ケーブルカーで関東一と云う22度の急勾配を831メートルまで一気に登る。その先はさらに歩いて926メートルの山頂の社へと参る。春闌でも山上はさすがに寒かったが、残んの山桜を存分に楽しめた。山並のはるか東方には都心のビル群もかすかに遠望される。たしかに此処も東京都なのであるが、やはり此処は東京の奥座敷で、奥多摩の入り口であり、檜原村と並ぶ幽邃の境である。

しばらく山の際を歩いて行くと、両側に大きな宿坊が次々と現れる。相州大山でも見たが、御岳山にも古くから”講”があって、”御師”と呼ばれる神職者が参詣者の登山から祈祷、宿坊の世話などを代々続けている。中には茅葺屋根の大きな宿坊もあって、近頃は茶店や食事処となっている坊もある。

それにしても静かだ。コロナ禍のこととて高尾山や大山に比べて観光客やハイカーも少ない。私が登ったのは山シーズンが始まるより少し前であったが、都心から遠い所以もあろう。ぐるりと螺旋状の参道を廻りきると、立派な随身門が現れ、ここより330段余りの石段を登りきれば、天空の神殿が待っていた。此処で振り返れば、快晴の日は絶景を拝めるそうだが、薄曇りのこの日は春霞も立って、視界良好ではなかった。それでも重畳と続く峰々の稜線は墨絵の様に美しく、刻々と表情を変える山の空に引き込まれそうになった。

武蔵御嶽神社の創建は崇神天皇の御代とも、景行天皇の御代とも云われているが、定かではないと云う。山は”御岳”と書くが、神社や駅は”御嶽”と書く。ちなみに信濃御嶽山とは信仰も無関係で、信濃は”おんたけ”読むが、こちらは”みたけ”と呼ぶ。

御岳山は古代から神々が棲まう山として崇められ、修験道の霊山であった。主祭神は櫛眞智命だが、これは蔵王権現のことで、天平時代に諸国行脚中の行基蔵王権現を安置したとされ、本地垂迹の原型を色濃く留めている。吉野、大峯、富士、白山、出羽三山、筑波、戸隠、大山、高尾山などだいだい何処も修験道の聖地は同じような型が見られる。御岳山には元は大國主、少彦名命が祀られたのが起源で、後に安閑天皇も合祀された。安閑天皇は、継体天皇の後を継がれて66歳で第27代天皇となられたが、古墳時代後期とはいえ、不明な部分も多い。私も多くを知らないが、神仏混淆では蔵王権現と同一視されたため、明治の神仏分離以降、蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多いと聞く。この神社もそうした経緯があったのだろう。蔵王権現は鎌倉武士に信仰されたが、ことに当社を厚く崇敬した畠山重成は武具や太刀を奉納している。宝物館には国宝の甲冑や重文の太刀が蔵されているが、坂東武士にとっては武神と崇められ、徳川幕府も江戸の西の護りとして、南面の社殿を東面に改めている。

社殿の裏には多くの摂末社が並び壮観である。奥宮の遥拝所もあるが、此処より拝む奥宮は鉛筆の先の様に秀麗なる円錐形の山容で、いかにも神山と云う崇高な姿である。遥拝所から奥宮までは徒歩で40分ほどだと云うが、この日はもう夕方近かったので私は断念した。奥宮に祀られているのは日本武尊で、此の山に武具を納めたと云う伝説が”武蔵”の国名の由来とも云われている。

武蔵御嶽山神社の眷属は大口眞神と云う狗神で、”おいぬ様”と通称されている。武蔵御嶽神社と云えばこのおいぬ様が有名で、肖って愛犬の健康祈願に参詣する者も多い。犬同伴で参拝可能で、大型犬でもケーブルカーに乗れる。社伝によれば、おいぬ様はニホンオオカミのことらしい。昔、日本武尊が東征の折、この山中で迷った。するとどこからともなく白狼が現れて先導を務めたと云う。日本武尊は白狼に御岳山に留まり、魔物を退治し、山を守護せよと命じた。ゆえに当社は狛犬と獅子ではなく、狛犬と狼なのである。境内の至る所でおいぬ様を見かけたが、中でも拝殿前の巨大なおいぬ様は実に迫力がある。長崎の平和祈念像を手がけた北村西望氏が奉納したものだそう。狛犬と対であたりを睥睨する圧倒的な姿に、魔物は恐縮し一目散に退散するであろう。現代東京もこんなに強そうなおいぬ様に、西の空より守られているのだ。

現在の社殿は、元禄十三年(1700)、犬公方綱吉の寄進によるものと云うのも頷ける。江戸中期以降においぬ様は魔除け盗難避けの神として、庶民に信仰された。犬好きの私もかつて飼っていた何匹かの愛犬を想い、絵馬に供養文を書いて、おいぬ様の御札を授かってきた。今、私の寝室で番犬として護ってくださっている。