弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一白河院政一

平安貴族の長藤原氏藤原氏による藤原氏のための政治は終焉を迎えた。期せずして新たに権力を掌握し強固な実権を握ったのが白河天皇であった。ことに譲位されて上皇となられてからの権勢欲は凄まじいもので、およそ四百年も続いた平安時代において白河院ほどの専制君主はいなかったであろう。いうまでもないが院政とは、天皇の位を退いた太上天皇上皇(院)が、天皇家の事実上の主であり、「治天の君」として、天皇を後見し国政を主導する政治体制のことである。この場合臣下に権力はなかった。院政を敷いて確固たるものとしたのも白河院であり、白河院が藤原時代を終わらせ、ひいては平安時代の終焉を招くことになるのである。平安末期はここから始まる。

白河天皇は天喜元年(1053)後三条天皇の第一皇子として御誕生、母は権中納言藤原公成の娘茂子である。先に述べたとおり、すでに父帝の御代から藤原摂関家を抑制した政は始まっており、院政の下地も後三条天皇が道筋をつけられてはいた。その父帝は志半ばで崩御されたが、父帝の遺志は白河天皇に着実に宿っていた。事実父帝の行われた親政による荘園整理事業を継続して取り組まれ、摂関の力を削ぐことに注力されている。しかし、父帝が白河天皇の次は異母弟の実仁親王を皇太弟と定めたことには不満を持たれていたに違いない。後三条天皇が若くして白河天皇皇位を譲られたのは、実仁親王立太子を目指していたからだとも云われるのだ。白河天皇の生母茂子は、関白藤原頼通の異母弟藤原能信の養女であるため、藤原摂関家とは外戚関係となる。一方の実仁親王の生母は三条源氏源基平の娘源基子で、摂関家とは外戚関係がないのである。これが摂関家の弱体化を画策していた後三条天皇の狙いであった。こうなると白河天皇実仁親王即位までの中継ぎで終わる可能性が高くなる。白河天皇がこれに危機意識を持たれなかったはずはあるまい。ところが、広徳三年(1086)、実仁親王は疱瘡を患い十五歳の若さで夭逝してしまう。これを機と見た白河天皇は電光石火の行動を起こされる。わが子の善仁親王東宮に立てて、その日のうちに譲位、善仁親王は八歳で堀河天皇となられた。いつの世も権力者は強運と実力兼備しているものだが、白河院もその例に漏れない。そしてその運を逃さずに最大限に活かすことができるのが、権力者なのである。加えて藤原摂関家の内紛(頼通家と教通家による権力闘争)によって、摂関政治の体制が大きく揺らいだことにより、白河天皇は父帝時代から垣間見えていた天皇親政を推進することができた。そして前九年の役後三年の役など、各地での世情不安から、白河院が強力な専制君主になられたのは必然であったと思う。

白河院は院御所にて政治を行われた。院御所では上皇女院に関する家政が執行されていたは、白河院は院御所に近臣や公卿を参集させ、国政の問題を審議し、白河院の決済によって諸問題の解決を図るというシステムを確立する。この時をもって院政が開始された。藤原氏摂関政治は、摂政・関白の職にある藤原氏が、天皇を上に戴くことで権力を行使するシステムであった。国政に関わる審議は、院御所ではなく内裏の陣座で公卿らによって行われていた。この政治はあくまで天皇を奉じて藤原氏が政を代行するシステムである。しかし院政においては、天皇の位にいた上皇はその権威も加わり、今上天皇の上に立つことが可能である。摂関政治天皇の承認を必要としたが、上皇は自らの意思によって政務を執行できるのである。白河院は自らの立場を巧みに利用し権力を掌握されたのである。

白河院は頼通の子藤原師実を堀河幼帝の摂政に就ける。師実は後に関白となったが、実際、後見したのは白河院であった。むろん当初は自らの直系に皇位を継承させようということも譲位の大きな目的でもあった。そして摂関の弱体化は進めようとされたが、潰してしまうことは避けられている。師実のあとは子の藤原師通が継いで関白となった。師通は十六歳になった堀河天皇と新たな政治を試みようとし、白河院を遠ざけようとした。『今鏡』には「今上天皇にお仕えするのが当然なのに、院御所の門前に車が止まるというようなことがあってよいのか」と言ったとある。ゆえか堀河天皇の御代、白河院政はまだ段階的であり、完全なる院政とは云えなかった。白河院は人事権は握ってはいたが、師実、師通親子とは両校な関係を構築しており、政はある程度任せていた。白河院は後見の引き際と考えられていたかもしれない。さらにはこの時、溺愛されていた第一皇女媞子内親王薨去された。失意の白河院は二日後に出家され法皇となられたが、政への意欲まで失ってしまわれたのである。よく学問し、詩歌管弦に優れ、容姿端麗であったと云われる師通は、気性もまっすぐで、度量も大きく、清廉潔白な賢人を人材登用して政をおこなったため、天下もまるく治まっていた。しかしこの師通も三十八歳で突如病死してしまう。承徳3年(1099年)六月のことで、後は嫡男の藤原忠実が継いだが、この時若干二十二歳で権大納言にすぎず、堀河天皇を輔弼することはできなかった。天皇白河院に政の相談をせざるを得なかったのである。摂関家最期の大物であった師通以降、摂関家が廟堂において権威こそあれ、政を主導することは二度となかった。師通の死で摂関政治が完全に終わったと云えよう。白河院政はこの師通の死後、本格的に軌道に乗る。

堀河天皇について少々。幼帝となられ、皇位にあられること二十二年、おそらくは何ひとつとして御自身の思うとおりにはならなかったであろう。それはこのあとの崇徳天皇にも同じようなことが云えるが、堀河天皇は偉大なる父君を尊敬し、恐れておられたに違いない。ことに師通を失ってからは、発言力はほとんどなかったと云ってよい。長治二年(1105)、忠実がようやく関白に任じられるも、師通ほどの力はなく、完全に白河院の言いなりであった。天皇にも関白にも権限はなく、執政はあくまで白河院が行った。堀河天皇は温厚仁慈なお人柄で、和歌管弦に長じ、特に笙や笛は一流であられた。が、こうした篤実な人は貴賎男女を問わず薄命なもので、嘉祥二年(1107)七月十九日、二十九歳の若さで崩御された。遺された御製は日本人として共感せずにはいられない美しい御歌ばかりである。

千歳まで折りて見るべき桜花 梢はるかに咲きそめにけり

敷島や高円山の雲間より ひかりさしそふ弓はりの月

後を継がれたのは堀河天皇の忘れ形見の皇子宗仁親王で、五歳で即位された鳥羽天皇である。鳥羽天皇の母は大納言藤原実季の娘藤苡子であるが、この生母が鳥羽天皇誕生後まもなく逝去したため、宗仁親王白河院の手元で養育され、わずか生後七ヶ月で立太子された。白河院院宣により鳥羽天皇を即位させ、さらにその摂政に鳥羽天皇外戚関係のない忠実を任じた。満天下に皇位継承は院の意志によって決定されると示されたのである。摂関家は完全に院の風下に立つことになった。余談であるが、これより数年前、内覧となっていた忠実は、源義親の濫行や、東大寺僧侶の赤袈裟着用問題を解決できず、無能の烙印を押されてしまう。さらには、白河院が忠実の叔父である興福寺別当覚信への不信から解任しようとされた際に、執り成そうとしたことが院の怒りを買い、政への関与を拒絶されている。こうした経緯からか、忠実は摂関家を”道長時代の栄華をもう一度”と云う一念を生涯抱き続ける。が、この後も鳥羽天皇の御代になって、天皇から娘の泰子を妃にしたいと持ちかけられ、天皇外戚関係を結ぶ好機と捉えた忠実はこれを受諾した。このことが再び白河院の激しい怒りを買うことになり、忠実は失脚してしまうのである。白河院存命中はずっと睨まれ続け、ついに廟堂への復帰は叶わなかった。

院中で実権を握る白河院は摂関や公卿という上達部を遠ざけて、有能で従順な中下級の貴族を重用するようになり、このうち武士階級の平氏や源氏も少しずつ登用されるようになる。これが平安貴族と院政をやがて崩壊へ導くことになるとは、この時の白河院は夢にも思ってはいなかったであろう。あるいはそれを見据えて行動されていたのであろうか。多年側近に仕えた藤原宗忠は、その日記『中右記』に白河院の治政をこう評している。

法皇は天下の政をとること五十七年、意にまかせ、法にかかわらず除目、叙位を行った。その威権は四海に満ち、廉価これに帰服した。理非は果断、賞罰は分明、愛悪は掲焉、貧富の差別も顕著で、男女殊寵が多かったので、天下の品秩が破れ、上下衆人も心力に堪えなかった。」と。白河院の専横は苛烈を極めていったことを如実に表した文である。