弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 鎌倉瑞泉寺

今年の初夏、久しぶり鎌倉へ出かけた。鎌倉には何度行ったかわからないが、まだ見ぬ寺がある。瑞泉寺もそのひとつである。鎌倉駅北鎌倉駅周辺、長谷や海岸沿いの寺はほとんど訪ねているが、まだ見ぬ寺はそれらとは逆の鎌倉の奥地にある。鎌倉では谷のことを「谷=やつ」とか「谷戸=やと」と呼ぶ。鎌倉を三方から取り巻いている低い丘陵が、町中に支脈を伸ばして作り出すこれらの谷が五十余りもあるとか。この三方を囲む丘陵は、いざという時に外敵の侵入を防いだが、平時は物資の運搬に苦労した。源頼朝が幕府を開いてから鎌倉は”もののふの都”として機能的に整備されていった。往時の鎌倉は京都に次ぐ大都市であり、道路や建物を造るための資材や日常の生活物資の量は相当なものであった。そこで戦時に敵の来襲を防ぎ、平時に交通の要路として機能するよう工夫されたのが切通と呼ばれる開削道だ。とくに、名越切通、朝比奈切通巨福呂坂亀ヶ谷坂、仮粧坂、大仏切通極楽寺切通を「鎌倉七口」、「鎌倉七切通」と呼ばれている。中には今も往時の雰囲気を遺している場所もある。今は谷を埋めるように住宅が増えたが、かつてはこうした谷の奥に寺が建立された。狭い谷を削り、その土砂で傾斜地を埋めて、平地を作った。こうして紅葉ヶ谷、広町谷、扇ヶ谷などに、今も情趣ある寺が点在している。鎌倉の寺社は谷を抜きにしては語れないのである。

瑞泉寺は紅葉ヶ谷の最奥に在る。 鎌倉駅からバスで鎌倉宮まで行き、あとは歩く。ついでにと言っては甚だ不謹慎であるが、せっかくなので鎌倉宮にも参拝した。白亜の鳥居が初夏の空と緑に映えて美しい。鎌倉宮の祭神は後醍醐帝の皇子大塔宮護良親王。ゆえに”大塔宮”と通称される。後醍醐帝には多くの皇子がいたが、護良親王は他の皇子と比べて母の地位が低かったため、皇位継承レースから脱落し出家した。比叡山へ昇り、若くして天台座主になったが、父帝が挙兵すると還俗し、”建武の新政”で倒幕の功労者として征夷大将軍になるが、独断的な暴走や、野心的な企みが発覚し、後に父帝や足利尊氏と対立し幽閉された。社殿の背後に親王が押し込められたと伝わる土牢がある。幽閉されてから一年後、護良親王は二十八歳で殺害された。鎌倉宮南朝が正統な皇統であると裁断された明治帝の勅命によって、明治二年(1869)に創建された。南朝と云えば悲運の皇子ばかりだが、護良親王の悲劇が始まりであったと云える。その怨霊も後々まで恐れられたに相違ない。傍らには、吉野で親王の身代わりとなって壮絶な死を遂げた忠臣村上義光も祀られており、今も親王に付き従っている。境内はまことに静謐な浄域なのに、何かが蠢くような、ただならぬ気配が漂っている。鎌倉の中心部からは少し離れているため、ふだんは参詣者もまばら。爽やかな陽射しを受けても、どこか儚げな雰囲気の社である。

大塔宮から瑞泉寺までは歩いて20分弱だろうか。途中、左手に急にひらけた場所があるが、此処が往時鎌倉一の壮麗な伽藍が立ち並んでいた永福寺跡である。弟義経を追い込み、奥州藤原氏を滅ぼして、奥州平定に成功した頼朝は、中尊寺毛越寺など、平泉の諸寺の荘厳さに感嘆し、この戦で亡くなった敵味方の霊を弔うとともに、鎌倉幕府の威光を示すため、永福寺と云う大寺院の建立に着手した。源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮(もとは神仏混淆の神宮寺であった)、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで勝長寿院永福寺は焼失してしまった。頼朝は中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てたのである。二階の御堂があった為「二階堂」と呼ばれた。御堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。永福寺は応永十二年(1405)に焼失し、基壇のみが遺跡となっているが、このような山あいによくぞこれだけの大伽藍を建てたものだ、と感心した。同時に、遺っていればさぞかしと思いやられる。今は二階堂という地名がその名残を伝えている。

永福寺跡からは五分ほどで瑞泉寺門前に達するが、本堂まではさらに五分ほど、木々に覆われた昼なお暗き参道を進む。苔むした石段の先に、やがて慎ましい山門が見えてくる。山門をくぐると涼やかな緑蔭が境内を包み、こんな奥まで歩いて来た疲れを癒してくれる。 釈迦如来を本尊する本堂は昭和後期の再建であるが、端正な姿がまことに凛々しい御堂である。私には鎌倉でもっとも美しい御堂だと思う。質朴な建築が多い鎌倉で、この優美さは異彩を放っている。茶室も閑雅な佇まいで良い。瑞泉寺は庭の美しい寺だが、あまり創りすぎていないところが好ましい。 一方で御堂の裏には荒々しい岩肌が剥き出しの崖が聳えている。その岩盤を巧みに削り、天女洞、池、中島、滝などが配された池泉回遊式になっている。かつては草木に埋もれていたが、昭和四十四年(1969)に発掘された。植え込みや石組を省いた簡素な庭は、鎌倉末期の庭園遺構として貴重なもので、名勝となっている。崖の上には徧界一覧亭と云う修行場があるが、一般の立ち入りは許されない。 創建は嘉暦二年(1327)。この地を禅院相応の勝地とした夢窓疎石が開山である。夢窓疎石南北朝時代に日本の臨済禅の道筋を強固にした巨人である。政治的な辣腕も奮った高僧だが、稀代の作庭家でもあった。開山や中興した天龍寺西芳寺恵林寺、永保寺など名だたる寺の庭を手がけている。此処もそのひとつだ。瑞泉寺と云えば梅。盛りの頃は全山が梅の香りに包まれ、鎌倉に春の訪れを告げる。むろん一年中花が絶えず、この日は残こんの躑躅、盛りの紫陽花、そして桔梗が可憐に咲いていた。鎌倉の最奥とも云える紅葉ヶ谷に在って、ふだんの瑞泉寺には観光客もほとんどおらず、まことに静かにお参りできた。こういう寺が鎌倉にはまだ隠れている。