弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一悪左府頼長一

強力な院政を布かれた白河院は、平安時代の終幕を彩る多くのキャストを輩出された。主役となるのは鳥羽天皇崇徳天皇、そして平清盛である。平清盛については後でまた改めて触れるが、白河院落胤であるとの噂が絶えず、今もって賛否が分かれる。白河院時代、国政も天皇家の家政もすべては院の手中にあって誰一人として進言する者とていなかった。保安元年(1120)、白河院は関白藤原忠実の内覧を停止して謹慎を命じた。内覧とは、天皇に奉じる文書に先に目を通す権限を持つ役職で、摂政関白など高官の者のみに許される慣習であった。それを停止したと云うことは、事実上、関白の罷免である。代わって、忠実の嫡男忠通が関白になった。白河院は忠実を罷免することで、鳥羽天皇服従を要求した。藤原摂関家は、白河院の前に完全に屈服したのである。これまでは基本的に前任者によって決定されてきた摂関の任命権が、院によって掌握されたのである。皇位継承者の決定権のみならず、摂関や廟堂のあらゆる人事権を手中に収めた院の権力の大きさを思い知らされる。 藤原氏の全盛時代を築いた道長、頼通からわずか四代でなぜ摂関家はこれほどまでに落ちぶれたか。それは頼通が五十一年もの長きにわたり摂関の座にあり、あまりに長過ぎたことで、天皇家との外戚関係が切れてしまうと云う事態を招いてしまったことによる。藤原氏は代々、自分の娘を入内せしめ、誕生した皇子に皇位を継承させてきた。外戚として、藤原摂関家氏長者天皇の後見人になることが摂関政治の基盤である。ところが外戚関係を失った藤原氏は拠り所を失い、自動的にまわってきた摂関の座に就けなくなってしまった。そう云う意味で藤原氏の権力は、外戚となれるかどうかと云う偶然性に左右される、極めて不安定なものであった。白河院はそれを見知っておられたのである。

保安四年(1123)、白河院は顕仁親王東宮とされ、即日皇位に就けた。崇徳天皇である。わずか五歳での即位は、鳥羽天皇が即位された御年と同じである。鳥羽天皇はこの時二十歳。御意志の伺いもなく強制的に退位させられた鳥羽天皇からすれば、白河院への反感と敗北感は凄まじいものがあられたに違いない。が、例の三不如意以外は何一つとして思い通りにならぬことはなかった白河院も、ついに大治四年(1129)七十七歳で崩御された。天皇として十四年、上皇法皇)として四十三年、合わせて五十七年と云う長き渡り、専制的に権力の座にあったのは、我が国史白河院より他はいない。摂政関白や武家政権のように間接的に権力を長期間維持した例はあるが、一人の人物がその一番高みからたった一人で、これほど長期間、独裁した例はない。

白河院崩御され、ようやく表舞台へと出てこられた鳥羽院は、三年後の長承元年(1132)、忠実に再び内覧の院宣を与えられた。罷免から実に十二年、忠実は政界に復帰したのである。そしてかつて白河院に握りつぶされた娘泰子の入内を改めて実行するのであった。上皇の后として入内した泰子は、異例のことながら皇后とされ、忠実に報いたのである。忠実はこの縁談を進めたことで、政界の影響力を回復することに成功した。さらに忠実は地方の豪族と連携し、荘園の新規開発、拡大にも乗り出した。荘園の拡大はしばしば紛争を引き起こす原因となってため、忠実は当時、力を蓄えつつあった武士を召し抱えて、管理を任せた。道長の時代には、藤原摂関家は廟堂のほとんどすべての人事権を握っていたため、富も自然に摂関家に集まってきたが、この時代の人事権は院に移っており、忠実としては、荘園を集積して、さらにそれを守る武士団を軍圧勢力として集めて、物量的な面で藤原氏の力を高めようとしたのである。

鳥羽院は第一の近臣である藤原顕季の孫娘得子(後の美福門院)を寵愛していた。白河院御存命中は一応の体裁が保たれていた鳥羽院と待賢門院璋子の間は、いよいよ破綻の道を歩み始める。母待賢門院の面目を傷つけられた崇徳天皇はこの事に激怒された云う。鳥羽院を省みず、得子の一族や関係者の官位を止め、領地を没収された。白河院亡き今、待賢門院が崇徳天皇を頼りとしたのは当然であるが、崇徳天皇もまた白河院と母の権威こそが、御自身の正統性を主張する最大の手段であった。

が、いまや権勢は鳥羽院にあった。保延五年(1139)、得子との間に生まれた体仁親王をすぐに東宮とされ、白河院が決定した崇徳天皇の系統を、鳥羽院の直系に復されようとされたのである。そして二年後の永治元年(1141)、かつて御自身が白河院に強奪されたと同じく、二十三歳の崇徳天皇に退位を迫り体仁親王を即位させた。近衛天皇の誕生である。退位を迫ったと言っても、やり方は白河院に比べてわりあい融和的であった。鳥羽院はなるべく事を荒立てずに、崇徳天皇に継母得子と近衛天皇を容認させようとされた。鳥羽院は健康不安の中で出家され、政務をとらない姿勢をあきらかにして、同時に崇徳天皇に譲位を勧め、表向きは崇徳天皇院政を布く体制となるよう示唆した。崇徳天皇もこの融和的な対応には密かに期待されたに違いない。ところが、藤原忠通の子で、比叡山に登り後に天台座主となった慈円が著した『愚管抄』には、上皇となられた崇徳院が後に体仁親王立太子した際の宣命を確認されると、崇徳天皇の「皇太子」ではなく、「皇太弟」となっていたことに気づかれたが、これは後の祭りであった。通例、皇位を退いた天皇は、新帝の父として院政を布くことになるが、近衛天皇が皇太弟として即位したのであれば、崇徳院は新帝の兄と云うことになり、院政はこれまでどおり、近衛天皇の父である鳥羽院が続けることになるのである。これによって、そもそも「叔父子」と疎まれていた崇徳院も、鳥羽院に対して大いなる不満を募らせることになるのである。国母の座を手にした美服門院得子は、待賢門院璋子の追い落としに成功し、後宮を支配した。待賢門院は失意の中、久安元年(1145)八月薨去された。鳥羽院は本当は璋子を愛されていたが、白河院への不信と嫉妬から、あえて璋子を遠ざけられていたと思われる。璋子の臨終を看取られ、号泣されたと云うのがその証であろう。

鳥羽院白河院とは違う政治路線をとられた。白河院は先代の後三条天皇以来進めていた荘園整理を積極的に推進することで、藤原摂関家をはじめとする大貴族の力を抑え、公領の収益を安定させていった。しかし鳥羽院はむしろ摂関家との協調路線をとってゆかれる。その結果、白河院時代に重用され、勢力を伸ばしつつあった院近臣や受領などの中・下級貴族たちが政界への進出を抑制される事態を招いたのである。時代が変わってきたと思い始めていた中・下級貴族たちにとっては、不信と不満がたまったに違いない。

さて一度は引退した藤原忠実が再び政界で存在感を増していったことで、摂関家にも新たな軋轢が生じた。忠実にはすでに関白の位にある嫡男の忠通がいたが、謹慎期間中に生まれた頼長と云う、もう一人の息子がいた。頼長は幼い頃から利発で勉強熱心であり、年を経てから生まれたため、忠実は頼長を溺愛した。そして政界に返り咲くと、兄の忠通に代えて頼長に摂関家を継がせようと考えるようになる。そもそも忠実は、白河院によって関白の座を追われ、強制的に嫡男忠通に交替させれたと云う経緯があった。それが前例になって摂関の座は院の意志によって決定されることになったのである。これを何としても元に戻したかったが、鳥羽院とて今や白河院に劣らぬほどの専制君主になられており、忠実が頼長へ摂関の移譲を働きかけるも、これを撥ね付けられている。ここで忠実の思うとおりに事を許せば、自らの権勢は揺らぐのであるから当然であろう。そもそもが当初忠通は、後継者に恵まれておらずやむを得ず頼長を養子としていたのだが、後に実子基実が生まれると、当然後継にしたいと望んだ。これが余計に忠実の不信を買ったことも原因ではあった。忠実の働きかけもあって、頼長は廟堂では一息で内大臣まで進む。この時には左右大臣が不在であり、頼長が公卿筆頭たる一上となった。そしてついに久安五年(1159)、左大臣に昇進する。これに喜んだ忠実だが、ここで満足はしない。忠実の摂関家復権への執念まことに凄まじく、久安六年(1150)ついに奥の手にでる。この年の正月、近衛天皇元服され、頼長の養女多子が入内し女御となった。ところが二月になると、忠通は藤原伊通の娘呈子を養女に迎え、鳥羽院に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上したのである。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携し、何とか忠実と頼長を抑え込もうとした。鳥羽院はこれには深く関わらないように努められ、多子を皇后、呈子を中宮とすることで収めようとされたが、摂関家の何度目かの骨肉の争いはもはや修復不可能となっていた。そして九月、忠実は忠通の住まう摂関家正邸である東三条殿や土御門邸を接収したのである。さらに藤氏氏長者の証とされる「朱器台盤」も取り上げて、これを頼長に授けた。頼長の日記『台記』によれば、「摂政は天子が授けるところ、我これを奪うを得ず。氏長者は我授けるところ、勅宣にあらず」とある。忠実は藤原氏の長であることを示す氏長者の権限を忠通から取り上げ、頼長に与えたのである。頼長は養父である忠通に対しての憚りもあったが、忠実は許さず、関白の座を弟に譲ることを拒否した忠通と親子の縁を切ってしまった。氏長者とは一族の最高位の者が就任するもので、氏神を崇敬し、一族の祭祀を司り、一族の者を従五位下の暗いに推挙する権限を有していた。律令制においては五位以上が貴族と呼ばれ、多くの特権を持つようになるため、推挙権を持つ氏長者は絶大な影響力があった。その一族の長が併せ持った氏長者と摂関の職とが分裂すると云うのは前代未聞であり、藤原摂関家始まって以来の不祥事であった。

こうして氏長者となり内覧にも任命された頼長は、摂関政治の全盛を築いた道長の政治を理想とし、綱紀粛正に取り組むことになる。その厳格さたるや並大抵ではなく、行事に遅刻してきた貴族の屋敷を燃やしてしまうほどであった。余りに強引かつ、急激なるやり方に恐怖と不満を覚えた人々は、いつしか頼長のことを「悪左府」と呼ぶようになる。左府とは左大臣のことだが、この場合の「悪」は単に悪いだけの意味にあらず、恐怖とか畏怖の意味も含まれていたと云う。

内覧・左大臣の地位に驕った頼長は、得子の従兄弟で鳥羽院の寵臣であった藤原家成邸を通行した折、腹心の随身武官、秦公春に命じて邸内に乱入させ狼藉に及ぶという大事件を起こした。この暴発に鳥羽院は激怒され、頼長を疎まれ始めた。この暴発の背景には、頼長周辺の男色関係のもつれがあったとされる。暴行に及んだ秦公春は頼長の男色仲間であり、さらにこの事件の背景には、少し前に家成の従者が頼長の従者を凌辱したことへの恨みがあり、頼長はその従者とも男色関係にあったと云われる。しかも頼長は家成の子の隆季、成親とも男色関係にあり、その接触の様子を日記に記している。この当時は平安時代を通してもっとも男色が盛んな頃で、退廃的な世を象徴するかのように乱れた事もあったと聞く。男色は一面において権力者に取り入り官職や地位をめぐる打算、他面においては侮蔑と憎しみの代償行為とも思われる。もちろん、男色の流行は頼長一人の問題ではない。現代の常識で判断するのは困難であろう。男色は摂関時代と比較して院政時代の政治史の特徴というべきほど、当時の宮廷全体に広がり、裏の政治史として重要な一面を成した。院政期においては男性自身も自己の肉体を酷使して権力の座を目指すようになっていたのである。頼長が「悪左府」とまで称された所以はここにもあるように思う。

ところで、忠実が忠通より氏長者を取り上げるにあたり、武力行使を命じた接収部隊の中心は八幡太郎義家の孫源為義であった。白河院時代は源氏は活躍の場を与えられず、一方で重用された平氏にどんどん先を越されていた。それを知っていた忠実は、源氏を子飼いにして利用したのである。摂関家の代替わり問題と骨肉の紛争において、軍事力が行使されたのはこの時が初めてである。武士を巻き込んだ内乱の時代がすぐそこに迫りつつあった。