弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 腰越満福寺

此処は腰越。京から鎌倉に至る玄関口にあたり、江ノ島は目と鼻である。江ノ電腰越駅から歩いて3分ほどの小高い場所に満福寺は在る。天平十六年(744)、行基による開山で鎌倉屈指の古寺である。

西海に墜えた平家に代わり、源氏の世が始まろうとしていた頃、平家追討にもっとも活躍した源義経は、都へと凱旋した。一ノ谷の合戦後、後白河院より検非違使に任官された義経は、壇ノ浦の合戦後、今度は兄頼朝から伊予守を授かり兼任した。だが、これは許されないことであった。義経に従っていた西国武士団が、鎌倉の許しなく朝廷より任官されたことに頼朝は激怒し、これを預かり知らぬこととして、美濃の墨俣川より東へ入ることまかりならぬと触れをだした。義経としては、畏くも院より賜りし職を無碍に返上はできず、また兄への敬慕も強かった。鎌倉より天下に号令を発したい頼朝には、朝廷による任官を妨げ、西国武士に武家の棟梁は誰であるかを示す手段でもあったと思う。

此処に至るまで、頼朝と義経は良好な関係を築いており、頼朝はかわいい弟の活躍に喜んでいた。が、壇ノ浦で戦目付を務めた梶原景時は、義経の独断専行は兵法を逸して、統帥に乱れを生じ、あまつさえ、戦後処理までやろうとしていると頼朝に讒言した。頼朝は義経との絶縁を宿命と心得ていたのかも知れない。鎌倉殿と会見したいと下ってきた義経の鎌倉入りを断じて許さず、義経主従は腰越のこの寺に止め置かれた。

義経は取次の大江広元に弁明状をしたためた。いわゆる『腰越状』である。それは『吾妻鏡』に掲載されており、義経が自らの武功を讃え、任官恩賞の正当性を主張しつつ、涙ながらに頼朝に会いたいと切に願っている。

〈原文〉

元暦二年五月二十四日

廿四日戊午。源廷尉(義経)如思平 朝敵訖。剰相具前内府参上。其賞兼不疑之処。日来依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越駅徒渉日之間。愁欝之余。付因幡前司広元。奉一通款状。広元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。彼書云。

左衛門少尉源義経乍恐申上候。意趣者被撰御代官其一為。勅宣之御使傾。朝敵。顕累代弓箭之芸。雪会稽恥辱。可被抽賞之処。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勲功。義経無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘気之間。空沈紅涙。倩案事意。・良薬苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者実否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送数日。当于此時。永不奉拝恩顔。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極処歟。将又感先世之業因歟。悲哉。此条。故亡父尊霊不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懐。義経受身体髪膚於父母。不経幾時節。故頭殿御他界之間。成無実之子。被抱母之懐中。赴大和国宇多郡竜門牧之以来。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之経廻難治之間。令流行諸国。隠身於在在所所。為栖辺士遠国。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而為平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。為責傾平氏。或時峨峨巌石策駿馬。不顧為敵亡命。或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之為甲冑於枕。為弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年来宿望之外無他事。剰義経補任五位尉之条。当家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非仏神御助之外者。争達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王宝印之裏。全不挿野心之旨。奉請驚日本国中大少神祇冥道。雖書進数通起請文。猶以無御宥免。其我国神国也。神不可稟非礼。所憑非于他。偏仰貴殿広大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之余慶於家門。永伝栄花於子孫。仍開年来之愁眉。得一期之安寧。不書尽詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義経恐惶謹言。 元暦二年五月日 左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿

〈訳〉

義経、恐れながら申し上げます。この度、兄上の代官の一人に撰ばれ、天子様のご命令をいただき、父上の汚名を晴らすことができました。私は、その勲功によって、ご褒美をいただけるものとばかり思っておりましたが、あらぬ男の讒言により、お褒めの言葉すらいただいてはおりません。私は、手柄をこそたてましたが、お叱りを受けるいわれはありません。悔しさで、涙に血が滲む思いでございます。言い分もお聞き下さらず、鎌倉にも入れず、私は気持の置き場もないまま、この数日を腰越の地で虚しく過ごしております。兄上、どうか慈悲深き御顔をお見せください。誠の兄弟としてお会いしたいのです。それが叶わぬのなら、兄弟に何の意味がありましょう。何故このような巡り合わせとなってしまったのでしょうか。亡くなった父上の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、私は、どなたにも胸のうちを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。再会した折り、あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、既に父上はなく、母上に抱かれて、大和の山野をさまよい、それ以来、一日たりとも、安らかに過ごした日々はありませんでした。その当時、京の都は戦乱が続き、身の危険もありましたので、数多の里を流れ歩き、里の民百姓にも世話になり、何とかこれまで生き長らえてきました。その時、兄上が旗揚げをなさったという心ときめく報に接し、矢も盾もたまらず馳せ参じたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに木曽義仲を倒し、次ぎに平家を攻めたてました。その後は、ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父上の御霊を鎮めました。私には父上の汚名を晴らす以外、いかなる望みもありませんでした。私が法皇様より、五位の尉に任命されましたのは、ひとり私だけではなく、兄上と源氏の名誉を考えてのこと。私には野心など毛頭ございませんでした。にもかかわらず、このようにきついお叱りを受けるとは。これ以上、この義経の気持をどのようにお伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。度々「神仏に誓って偽りを申しません」と、起請文を差し上げましたが、いまだお許しのご返事はいただいてはおりません。わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、大江広元殿の御慈悲に頼る以外はありません。どうか、情けをもって義経の胸のうちを、兄上にお伝えいただきたいと思います。もしも願いが叶い、疑いが晴れて許されることがあれば、ご恩は一生忘れません。今はただ長い不安が取り除かれて、静かな気持を得ることだけが望みです。もはやこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断をお願い申し上げます。
義経恐惶謹言 元暦二年五月二十四日 左衛門少尉源義経 

進上 因幡前司(大江広元)殿

だが結局、許されることはなかった。鎌倉を目前にしてのこの仕打ちに、義経は嘆き、失意のうちに都へ帰ってゆくのであった。この後、兄弟は骨肉の争いを演じてゆく。満福寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が遺されている。潮騒や行き交う江ノ電の音まで、どこか物寂しい腰越の満福寺である。