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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

赤坂離宮

残暑の中この連休は元赤坂の赤坂離宮に行ってきた。思えば中学一年の終わり頃、始めてこの場所を訪れた。二月の寒い夜、正門前に立って、日本にもこんな素晴らしい宮殿があるのかと驚き、心惹かれてから二十七年。ようやく積年の想いが叶って、その内部へ足を踏み入れたが、そこはやはり日本で唯一のパレスであった。

この離宮が完成したのは明治四十二年(1909)。大正天皇東宮御所として造営されたが、当初の予算をはるかにオーバーし、そのあまりの豪華さに明治天皇は「贅沢すぎる」とお怒りになったというが、さすがにこれだけの建築、百年を経た今では、赤坂の森にしっとりと落ち着いている。設計は片山東熊。東京駅を設計した辰野金吾と並ぶ明治近代建築の巨匠だ。他に京都と奈良の国立博物館東京国立博物館表慶館が片山の代表作である。いずれも外観はネオバロック様式で、重厚で絢爛たる建築は、西洋への劣等感から生まれた賜物であろう。一見そうしたものは感じさせない優美さだが、明治日本人の気迫が秘められている。赤坂離宮には鎧兜や桐の文様など、随所に日本古来の意匠が違和感なく配されている。この威容は世界に誇れるもので、日本の近代建築の先導役を果たしたといえよう。そしてこの赤坂離宮の落成したその時が、明治日本西洋化の集大成であったと思う。

赤坂離宮東宮御所として造営されたものの、大正天皇はその生涯で一度もお住まいになったことはない。御所としては昭和天皇が新婚時代に一時住まわれただけで、戦争が色濃くなってからは、あまり人が出入りすることはなかった。昔の写真や絵葉書をみると、正門や高いフェンスはすべて黒塗りであったが、戦後迎賓館に改修されたときに、今の純白に塗りかえられた。戦後は雨漏りや設備の老朽化が著しく取り壊しも検討されたが、やはり歴史的価値が高いため残ることになった。弾劾裁判所国会図書館を経て、東京五輪組織委員会本部が設置されたが、その時は室内のシャンデリアでは暗いため、シャンデリアに蛍光灯を取り付けるという無茶をやっていたようだ。その後、国際会議や国賓公賓を迎える機会も増えたため、国の迎賓館に改修された。最初に宿泊したのはアメリカのフォード大統領、それからエリザベス女王夫妻をはじめ、世界のVIPを迎えてきた。泰平の世になってようやくこの宮殿は日の目を見ることになったわけだ。今から七年前には本館、正門、主庭の噴水が国宝になった。赤坂離宮は皇室から国へ、そして日本国民の共有の財産となったのだ。これまでは年に数日だけ、抽選での公開であったが、今年から広く一般公開されるようになった。参観した日は三連休のこととて正門前から長蛇の列。予約をしてもずいぶん並ばせられて辟易したが、それでも一見の価値はあった。

赤坂離宮で以前から私がもっとも見たいと思っていたのが、「花鳥の間」の七宝である。「花鳥の間」は晩餐会が開かれる大食堂で、他の絢爛たる部屋に比べて、落ち着いた木の温もりを感じさせる部屋だが、よく見れば天井画や柱には精緻な彫刻が施されていた。壁には三十枚の花鳥の七宝焼が据え付けてある。耳をすますと、水鳥の羽音や小鳥の囀りが聴こえてきそうなほど繊細で美しい。この部屋に日本の自然の代名詞ともいえる「花鳥風月」の情趣を添えているこの七宝こそが、明治七宝界の巨匠、濤川惣助の作品だ。明治時代の七宝界は風前の灯であった。そこに彗星の如く、二人のナミカワが現れる。一人は東の濤川惣助、もう一人は西の並河靖之である。奇しくもこの両巨頭、字面は違えど苗字は同じナミカワであった。 

明治維新はあらゆる分野で変革をもたらしたが、美術工芸の世界も例外ではなかった。宮内省は時の工芸作家の作品を数多く買い上げ、宮中を飾る美術工芸の製作を依頼して、伝統工芸の保護育成と工芸作家の庇護奨励が図られた。明治二十三年(1890)には帝室技芸員制度が設けられ、卓越した技能と感覚を持つ工芸作家を任命した。彼らはその期待に応えるべく、帝室に相応しい造形と品格を備えた美術工芸品を生み出した。今でいう人間国宝に近い存在といえよう。その中から七宝という世界において、東の濤川惣助と西の並河靖之が同時代にあいまみえることになる。

並河靖之は幕末の弘化二年(1845)京都に生まれ、明治初年に七宝を始める。名古屋七宝の技法を会得して、伝統的な有線七宝の技法を駆使し、不可能と思われた黒色透明釉薬を開発する。この黒色透明釉薬を使った至宝が、現在皇室が所蔵する「七宝四季花鳥図花瓶」である。七宝焼は一歩踏み外せば低俗にもなりかねない危うさもあるのだが、これほどまでに気品漂う作品が世にあることが奇跡であり、七宝全体を高く底上げしていると言っても過言ではあるまい。前に一度この作品を見たことがあるが、全体に妖艶な黒光りを放ち、ちりばめられた極彩色の花鳥からは、その景色の中の薫風まで伝わってくるようであった。

一方の濤川惣助は、弘化四年(1847)下総国に生まれた。各地の七宝技術を研究した末に、ついに宿願の無線七宝という技術を編み出し、絵画的文様を七宝において実現した。惣助の作品は靖之の作品とは対照的に、静謐で地味だが、決して軽薄な印象ではなく周囲の風景と同化するが如くナチュラルな作品が多い。「花鳥の間」の三十枚はその極みであろう。

日本の七宝焼は愛知県海部郡七宝町(現在のあま市)が原産地といわれるが、万葉の頃にはすでに存在したという。中国より伝来したことは言うまでもない。そもそも七宝とは「七宝荘厳」という言葉からきており、仏教的色彩を帯び、宝玉をちりばめた美しいものを形容する言葉である。仏教経典の無量寿経では、金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙の七つ、法華経では、金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰の七つの宝玉を七宝と呼ぶ。例えば浄土系寺院では、堂宇を極彩色に彩ることがあるが、この極楽浄土を表す意匠こそ七宝荘厳を体現するものといえるだろう。

奈良県明日香村にある牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)からは日本最古の七宝とされる亀甲形の金具が出土している。この古墳は斉明天皇の陵墓といわれるが、女帝を彩る副葬品として一緒に埋葬されたのであろうか。正倉院には七宝鏡と呼ばれる「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」がある。正倉院で七宝の宝物はこの鏡のみであり、天平時代にはまだまだその技術も確立されていなかった。それだけ貴重なものであり、故に神の依代とされたのであろう。以前博物館で見たことがあるが、幾何学文様も彩色もとても美しいけれども、その妖しい輝きはどこか薄気味悪い呪術的なものを感じた。宇治の平等院鳳凰堂の扉止め金具の一部は、藤原時代の七宝である。藤原時代の七宝は数が少なく貴重なものだが、「極楽いぶかしくは、宇治の御寺をうやまへ」と謳われた平等院を彩ったのも、宜なるかなと思う。室町から戦国にかけてはいわゆる侘び寂びの流れとなり、七宝は一時廃れかけたが、復活するのは桃山末から徳川初期で、秀吉や徳川家にその華麗さが好まれた。戦乱がおさまり、世が安定すると人々は麗しさを求めるのであろうか。名古屋城御殿の襖の引き手、そして日光東照宮の唐戸金具、建物の装飾、刀の鞘や鍔に至るまで彩りを添えた。七宝は日本史の中で浮沈を繰り返し、不死鳥の様に生き残ってきたのである。

近世までの七宝は、鏨や金槌で彫金模様を打ち出し、釉薬を透して彫金模様が浮かび上がる「象嵌七宝」という技法であった。今日私たちが目にする七宝焼は、近代七宝の父と云われる梶常吉の研究から生まれたもの。享和三年(1803)尾張藩士の次男に生まれた梶常吉は、家督を継ぐことがないため、精魂傾けていた焼き物に没入した。日夜様々な焼き物について勉強していたが、元亀元年(1570)に刊行された古書から七宝焼を知り、その復元を企てる。しかし、一向にその技法がわからず途方に暮れていたところ、オランダから渡来した七宝焼と出会い、それを求めて研究した。ついにはそれを砕いて、七宝焼とは銅の素地に模様を金属で植線し、そこに釉薬を付して焼くという製法を解き明かすのである。その後もさらに研究を重ねて、有線七宝の技法を生み出した。有線七宝は、銅や金の胎に描いた下絵に沿ってリボン状の金属線を模様に細工して植線を行う。その線で釉薬の色を分け、焼成、研磨して仕上げる。近代七宝においてもっとも基本的な技法である。時を経て明治、並河靖之はこの有線七宝の技法を雲上の高みにまで押し上げたのだ。有線に対して無線七宝は、金属線を使わずに釉薬の色分けをする。明治十三年(1880)濤川惣助によって考案された。途中までは有線と同じ工程だが、植線を取り除き、その後まで消してしまうという技法で、省線七宝ともいわれる。

二人のナミカワが同時代に七宝という世界で、鎬を削ったライバルであったことに私は感動を覚えずにはいられない。同時代を生きたライバルであったからこそ、綺羅星の如き作品が生まれ、受け継がれたのだ。本人たちは果たしてライバルという意識があったのかはわからないが、神様は時としてこういう悪戯をする。赤坂離宮を彩る七宝は東のナミカワに軍配が上がったわけであるが、どちらが上ということはない。二人のナミカワが残した七宝はこれからも日本の宝であり、私たちは世界に誇るべきだろう。二人のナミカワの功績は永久に称えられよう。