弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一大乱前夜一

平安時代天皇は概ね三十代から四十代の壮年で崩御されている。現代では働き盛りであるが、平均寿命が今よりはるかに若い当時、世の人々はだいたい四十代で亡くなることが多かった。人生五十年は本当のことで、そもそも人間の定命とはそのくらいなのであろう。八十二歳の陽成天皇や、七十七才の白河天皇、七十歳の桓武天皇は異例と云える。なかで近衛天皇は、わずか十七歳の若さで崩御された。幼くして天皇となられ、御誕生から崩御されるまで、天皇家摂関家の骨肉の争いの真っ只中におられたことほど、辛く恐ろしいことはなかったであろう。そのストレスたるや察するに余りある。

近衛天皇の次がどうなるのかは、元来、天皇家でも摂関家でも、朝廷の第一の論議となっていた。崇徳天皇から近衛天皇に譲位の際、崇徳院はわが子たる重仁親王立太子に望みをかけられた。しかし鳥羽院はそれをも阻まれる。どこまでも鳥羽院崇徳院が相入れられることはなかった。久寿二年(1155)七月、近衛天皇崩御をうけて、崇徳院の弟の雅仁親王践祚後白河天皇となられた。崇徳院後白河天皇の因果も凄まじい。名目上、御二人は鳥羽院と待賢門院の皇子であるが、これまで述べてきたとおり、実際には崇徳院の父は白河院で、鳥羽院崇徳院を叔父子と呼ばれ疎まれた。雅仁親王は幼い頃より奇行が目立ち、今様狂いの変わった親王さまであるとの噂が絶えず、誰も即位されるとは思ってはいなかった。それゆえ鳥羽院は異例のことながら、上皇の皇子として御誕生された近衛天皇を強引に即位させたのである。十二歳歳下の異母弟に先を越されても、雅仁親王の自由奔放なお振る舞いは変わることなく、はじめは御自身も皇位継承など望んではおられなかった。これまでの天皇像を覆してしまわれるのではと危惧されていたのは、雅仁親王も自覚されていたと思う。しかし、鳥羽院崇徳院の系統の皇位継承阻止に並々ならぬ執念を持たれ、雅仁親王皇位に就けられたのである。鳥羽院の最晩年は病を押されてのこの執着に尽きる。

そして元号が保元となる。鳥羽院は近い将来、皇位継承や激化する摂関家の内紛を憂い、天下大乱の因となることを予期され、源平の武士団を招集し、内裏や鳥羽殿の警護強化を命じられた。しかし病は重くなって、保元元年(1156)七月二日、鳥羽院は五十四歳で崩御された。 鳥羽院崩御の後、廟堂で権力を集めたのは、近衛天皇の実母美福門院と、後白河天皇の乳母藤原朝子の夫高階通憲で、今や出家して信西入道と呼ばれる男であった。元は信西は学者で下級貴族であったゆえか、野心家であり、権力の猛者であり、同時に平安王朝時代の終幕を予見して、朝廷改革と国に未来を見据えた思考を持っていた。その思考を実際に行動に移す気概とパワーもあった。美福門院は信西と共に後白河天皇即位にも助力し、待賢門院亡き後の後宮の支配を維持しようとされた。崇徳院はこれを大いに不満とされ、鳥羽院崩御を機に挙兵に至るのだが、事此処に至る経緯と成り行きをもう少しみてゆこう。

深刻な内部対立を抱えていた天皇家摂関家、それに有力武家を二分していった。鳥羽院の後ろ楯を失って窮地に立たされたのが藤原忠実と頼長親子だ。この二人の反対勢力はこの機を逃さずに武士を集め、頼長の邸に乗りこみ、後白河天皇への謀反の証拠を見つけたとして、頼長に流罪を言い渡した。進退窮まった頼長は挙兵を決断し、朝敵の汚名を逃れんと崇徳院に接近する。崇徳院後白河天皇を倒して皇位継承権を手に入れるために頼長と手を結ぶことを決意される。この頃武士勢力が大きな勢力となりつつあったのが平氏であった。平清盛の父平忠盛は、白河院に気に入られ、平氏は大きく躍進し、武士として初めて従四位下に進み、内裏昇殿を許される殿上人になっていた。清盛は忠盛が苦労して築いた平氏の土台の上で、それをさらに磐石とするべく向上心と野心を持って突き進んでゆく。そこには常に後白河天皇が高みにおわし、天皇が院となられてからも二人三脚で、時に対立しながらも、激動の平安末をダイナミックに.泳ぎ、煽動してゆく。その一方で源氏を率いていた源為義は猜疑心の固まりで、度量も小さく、白河院にうまく取り入った平氏と違い、不遇を囲っていた。息子の義朝はそれに見切りを付けて東国に武者修行に出かけ、逞しくなって帰還。大乱が起こるのはその矢先のことであった。崇徳院・頼長側には、平家一門から清盛の叔父平忠正、源氏一門からは義朝の父源為義が味方することになった。一方、後白河天皇と忠実の長男である藤原忠通側には平清盛源義朝が加わった。かくして上皇方と天皇の戦いは、摂関と最大の武士団である源平を二分すると云う、平安王朝始まって以来の最大の危機を迎えたのである。

京都の東山七条から東大路通を少し南へゆくと、 右手に新熊野神社の鳥居と御神木の大楠が見えてくる。 「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。 この社は後白河院の発願で、平清盛が寄進した。 後白河院の熊野信仰は崇敬厚きもので、生涯に三十四度も熊野詣をされた。 ここまで熊野に執着されたのは、信仰心だけとは思えない。 源平を巧みに利用され、後に源頼朝から「日本国第一の大天狗」と揶揄された後白河院。熊野を厚く敬ったのは、熊野を信仰する山伏や木樵などの山人、那智を信仰する漁師や水軍を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。 聖護院にある熊野神社が、京都で一番古い熊野神社だが、そちらに敬意を表して、こちらは新熊野と称されたのであろう。後白河院永観堂の鎮守として熊野若王子神社も建立され、三社を京都三熊野とされた。 泉涌寺にも弘法大師が開山の今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、京の熊野と呼ばれ都人から信仰を集めていた。その麓に後白河院は、法住寺殿を建て院の御所とされた。そして鎮守として新熊野神社を建て、別当寺として蓮華王院、すなわち三十三間堂を建立されたのである。ゆえにこの社は蓮華王院の縁起と云える。 さて、いよいよ後白河院が登場され、源平の時代が幕を開けようとしている。足かけ二年余り書き継いできた長い長い平安時代もようやく終わろうとしている。そんな時代のターニングポイントが保元・平治の乱である。