弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一平等院鳳凰堂一

いよいよ藤原道長が世を去る時がやってきた。道長は死の二年前から東宮妃嬉子、小一条院妃の寛子、子息でただ一人僧籍に入っていた顕信、そして皇太后姸子の四人の子女に相次いで先立たれている。道長の悲嘆はいかばかりであったか。この頃道長は還暦を迎えて、太皇太后彰子は祝賀を主催したが、相次ぐ子女の死に、疫病の流行、そして自らの病で、素直に喜んではいられない状況であったようだ。それが、歌にもよく表れている。

上東門院より六十賀行ひ給ひける時よみ侍り

数へ知る人なかりせば奥山の 谷の松とや年をつままし

上東門院とは彰子のことで、女院がいなければ、私の歳を知る人もおらず、私は奥山の谷の松のようにひとりひっそりと歳を積んだことだろうか、と寂しげに詠ずる。ここへきてついに望月は欠け始めたのである。万寿四年(1027)、道長の病は重篤になってゆく。糖尿病が原因で様々な病を併発し、痢病、背中の腫物は日に日に酷くなってゆき、もはや手の施しようはなく、飲食も受け付けなくなって、十一月二十一日に震えが止まらなくなり危篤に陥った。それでも道長はまだ生きていた。位人臣を極め尽くし、この先当面は自らの敷いたレールがこの国を支配する筋をたしかにし、この世のすべてを見尽くしたであろうにも関わらず、道長はまだ此の世に未練があったのか。あれほど憧れている彼の世へはなかなか行かない。いや行けないのであろうか。十一月二十五日、道長は自らが精魂傾けて建立した此の世の浄土”法成寺”の阿弥陀堂正面の間に病床を移した。九体阿弥陀像の前である。此処で九体阿弥陀像と自らの手を五色の紐でしっかりと結び、居並ぶ僧侶に読経をさせながら往生を待ったとも云われるが、これは定かではなく、実際は臨終間際まで踠き苦しんでいたとも云われる。道長は師走の声を聴くまで粘った。そしてついに、十二月四日、ようやく往生を遂げたのである。享年六十二歳。

摂関家は次代の頼通が率いた。藤原北家でもっとも長く権力の中枢にいた頼通だが、これまでも述べてきたとおり、彼が悠々と廟堂に頂点に座り続けることができたのは、むろん偉大なる父の磐石な布石があったからだ。しかし、後一条、後朱雀、後冷泉と三代半世紀もの間摂関の地位を維持した頼通が、凡人であったとはとうてい思えない。さすがに名うての藤原氏と思わせる人物であったに相違ない。頼通は二十六歳で父より後一条天皇の摂政の地位を譲られた。天皇の外祖父であった父とは違い三代の天皇とは甥と叔父の関係であったから、道長より天皇との関係が弱いのだが、道長を境にして摂関は代々道長嫡流たる御堂流に定着したため、この関係性についてはあまり問われなくなった。穏やかな人柄が天皇家や廟堂の人々に慕われたようで、その人徳から「恵和の人」とも呼ばれたようだ。父の指示を忠実に守っていたが、道長が亡くなると、頼通とて多少は権勢欲が生まれたようだ。そして荘園の整理をするなど、力を示すことも度々あったと云うから、決して凡庸なわけではなかったのである。しかしこの荘園の整理は結果的に彼ら権門に利のある政策であって、抜本的な構造改革には至らなかった。

頼通の仕えた三代の天皇についてはこれまで少しずつ触れてきた。一条天皇の第二皇子で彰子を母に持つ後一条天皇は、祖父の道長に導かれて九歳で即位された。幼帝であったゆえに道長、頼通が摂政となったのだが、育たれた環境からか政にはあまり関心を示されず、成人されてからも頼通を関白として一切を任された。叔母の威子を中宮とされると、二人の内親王を設けられたが、皇子には恵まれなかった。皇太子を当初は前代の三条天皇の皇子敦明親王を立てるも、親王は辞意を示され、代わって同母弟の敦良親王が皇太子となられた。長元九年(1036)、後一条天皇は二十九歳の若さで突如崩御された。糖尿病を患われていたと云うが、あまりに突然のことであった。

兄帝を継がれた後朱雀天皇はこの時二十八歳。やはり道長の六女嬉子を東宮時代に妃とされ、後の後冷泉天皇を授かるも、嬉子は産後の肥立ちが悪く、産後二日後に急逝した。後朱雀天皇も治世のほとんどは頼通政権に一任されており、政に口を挟まれることはなかった。天皇とは”天子”として権威のみを保持するような孤高の存在となりつつあった。これを摂関政治が助長したのはいうまでもない。さらには道長が敷いた外戚による政治体制が、天皇にとっても、玉体安穏護持のみ果たせたならばよいと云う考えを持つに至らしめたのではないかと思う。このあと白河院後白河院が一時専制君主となり、あるいは南北朝の初期後醍醐天皇が親政を試みられたことはあるものの、江戸の幕末まで、”天皇とは天子”として祀り上げられて、君臨すれども権威のみと云う存在になってゆくのである。後朱雀天皇は肩に悪性腫瘍を患い、即位より九年後の寛徳二年(1045)一月十六日、後冷泉天皇に譲位された。その二日後に出家されたが、同日三十七歳で崩御された。最愛の二人の子息に先立たれた太皇太后彰子の失意はいかばかりであったか、察するに余りある。

二十一歳で即位された後冷泉天皇もまた、叔父帝、父帝と同じく関白頼通に政を委任している。頼通は娘の寛子を入内せしめ、皇后とし、何とか皇子の誕生を期待したが、いっこうに皇子は生まれない。後冷泉天皇は同じ後朱雀天皇の第二皇子で異母弟の尊仁親王を皇太弟とされた。次代の後三条天皇である。尊仁親王の母は、三条天皇の皇女禎子内親王で、藤原氏外戚に持たない。このため頼通は冷遇したと云うが、因果応報。ついに後冷泉天皇と寛子の間に皇子は生まれなかった。このことが摂関政治の終焉の発端となるのである。治暦四年(1068)四月十九日、後冷泉天皇は四十四歳で崩御された。

頼通はまだ生きていた。晩年精魂を傾けたのは、むろん御堂流が権力中枢に居座り続けることであったのだが、それに翳りが見え始めると、父と同じく浄土信仰に深く帰依し、自らの極楽往生を切に願うようになった。

宇治の平等院は今や国宝であり、世界遺産でもあるが、この寺を建てたのは頼通である。頼通は父道長の顰に倣い浄土信仰に傾倒してゆくのである。道長が土御門殿に隣接して建立した平安京最大の浄土寺院たる”法成寺”を参考に、宇治の別荘に極楽浄土を現出させる。 日本が末法の世に入った永承七年(1052)、頼通は父から譲られたこの場所を寺院に改めることにした。本堂の阿弥陀堂は、あたかも鳳凰が翼を広げた姿に似ているため鳳凰堂と呼ばれる。安置される本尊の弥陀如来座像は、平安の大仏師”定朝”の唯一の遺作とされ、人々は池を挟んで対岸よりこの浄土を拝んだ。平等院阿弥陀如来像はまさに藤原時代を象徴している。この平等院に晩年の頼通は棲んだ。おそらくは摂関政治の終焉を見据えてのことだったに違いなく、頼むべきはみほとけの救済のみになっていった。絢爛たる極楽浄土を現出させることで、自らの安らぎと成し、それが極楽往生できる最高の功徳であると考えていた。

平等院は数年前に平成の大修理が行われて、眩い色彩が甦った。この平等院を私はまだ見ていない。私が行ったのはもう十三年も前のことで、夏の暑い日であった。その日の京都は夜明けから暑くて、宇治には午前中に行ったのだが、すでに猛暑であった。平等院の境内も強い陽に照射されていたが、鳳凰堂の内部に脚を踏み入れると、嘘のように涼しい。池の面から心地よい風が吹き込んでくる。これぞ極楽浄土であると思った。 藤原時代の夢のよすがである。

極楽いぶかしくば 宇治の御寺をうやまへ

極楽浄土を知りたいならば、宇治の平等院を拝みにゆけとの意であるが、末法の世に戦慄を覚えながらも、浄土信仰が沸点に到達した藤原時代の人々はかく謳い平等院を敬い、一縷の望みとしたのであろうか。

なおすけの古寺巡礼 下野紀行

下野薬師寺

坂東平野の真っ只中にある栃木県下野市。此処は昔、下野国の中心地であった。今も街道筋には白壁の塀や蔵がある古い町並みが遺っており、たしかに歴史ある境域だと実感する。元は毛野国(けぬのくに)と呼ばれていたが、いつしか都に近い方を上野(こうずけ)、遠い方を下野(しもつけ)との二国に分かれた。大和朝廷和銅六年(713)に全国の国名を漢字二文字に統一したが、その時に”毛”の文字が消えて、上野国下野国になったとも云われる。私は以前からこのあたりにとても関心があって、いつか歩いてみたいと思っていたが、この春、桜の便りを聴いて、花の名所である"天平の丘公園"を訪ねた折、良い機会なのでいくつかの寺へお参りした。

下野薬師寺飛鳥時代の七世紀末、この地を治めていた下毛野朝臣古麻呂(しもつけあそんのこまろ)によって創建された。古麻呂は此処から都に赴き、官僚として頭角を現し、後に兵部卿や式部卿まで務め、『大宝律令』の編纂にも携わるなど、中央の政治に大きく貢献した。よって力も富も獲得し、律令時代の総仕上げとして仏教に鎮護国家を担わせると云う一派において、東国を代表する旗頭であった。古麻呂が亡き後も薬師寺は発展を続けたのも、奈良時代に日本の薬師信仰が沸点に達していたからであろう。八世紀の前半には、東国仏教の中心的役割を担い、法隆寺などの中央の諸大寺院と同格とされた。此処には全国に三ヶ所しかなかった”国の戒壇”が置かれるなど、奈良時代までは国家的に重要な寺院であった。戒壇とは導師が戒律を授けて僧侶の資格を正式に与えた場所で、南都仏教ではことに重要視された。当時、税から逃れるべく勝手に得度した私度僧が蔓延り、加えて政界と仏教界が癒着し、南都仏教は堕落の兆しを見せ始めていた。そこで朝廷はもう一度仏教を鎮護国家の要とすべく、戒律の権化としてすでに名僧の誉高い鑑真和上を唐から招聘した。まずは東大寺戒壇が設けられ、後に太宰府観世音寺、そして下野薬師寺にも戒壇が設置された。これらを総称して「本朝三戒壇」と呼ばれ、後には「天下の三戒壇」と云われた。

あの悪名高き道鏡は都を追われ、此処で晩年を過ごして、二年後に死んだ。称徳女帝に擦り寄って、自ら皇位に就こうと企んだが、”宇佐八幡宮神託事件”でその野望潰えて、女帝が崩御されると、ついには下野薬師寺へ左遷されたのである。それでも別当として三戒壇の一つのトップを任ぜられたのだから、まだしも温情的な措置であった。平安時代になると平安京を鎮護する比叡山に新たな戒壇が設けられたり、空海と云うスーパースターが現れて、日本仏教に新風を吹き込むと、南都仏教は衰退し、かつての戒壇は意義が薄らいでしまう。

さしもの下野薬師寺も平安末にはかなり衰微してしまった。その後は「破壊転倒甚だなし」と言われるほど荒廃したが、鎌倉時代に慈猛(じみょう)と云う坊さんが再興した。そして南北朝の動乱を経て足利尊氏が政権を獲ると、聖武天皇が全国に国分寺を建立されたひそみに倣い、新たに臨済禅の安国寺を各地に建立する触れを出した。下野国薬師寺が安国寺と改称され、法灯を二十一世紀まで連綿とつないできたが、平成三十年(2018)に再び薬師寺と改称している。往時は二町四方の中心伽藍、そのまわりにも多くの堂宇や塔が立ち並び、坂東平野の只中に、忽然とその姿を目にした古代の人々にはさぞや壮観であったに違いない。今ではささやかな本堂、戒壇院の跡の六角堂、発掘調査をもとに古代の工法により復元された回廊のほんの一部があるばかり。一方で鎮守社の薬師寺八幡神社はまことに立派であった。

龍興寺

下野薬師寺から少し南へ行くと、古い町並が続き、立派な屋敷が次々と現れる。その奥にある龍興寺はもとは下野薬師寺の一部であった。坂東の寺々はいかにも無骨な雰囲気を持っているものだが、こちら龍興寺はまことに閑雅な佇まいで美しい。あたかも大和の古寺を彷彿とさせる。 さすがに「天下の三戒壇」として、古代中央の大寺に引けをとらぬ格式を与えられていただけのことはある。 此処には道鏡の墓とされる塚がある。弓削道鏡は、文武天皇四年(700)に河内国で生まれ、若年より仏門に入り後に東大寺の良弁に師事した。早くから宮中の仏殿に入ることを許され、孝謙女帝の頃には禅師と称された。 命がけの皇位継承の渦中に少女の頃から身を置かれた孝謙女帝は、淳仁帝へ譲位され、病を得て一時は生死の境を彷徨われた。道鏡孝謙上皇の平癒を加持祈祷した。道鏡には薬学の心得もあって、薬を調合するなど献身的に看病をする。道鏡の心遣いの虜となられた上皇は精神的に昇華されてゆく。これを不快に思った最高実力者の恵美押勝は、道鏡を退けるよう上皇に進言した。激怒された上皇は出家され平城京へ還幸、同時に天皇大権を淳仁帝より奪い、道鏡配下の信頼できる側近を集めて密かに軍備を整えさせた。押勝もまた戦いに備うべく、自らが先頭に立って兵を集め、淳仁帝を奉じて乱を起こすがあえなく鎮圧される。

孝謙上皇重祚して称徳女帝として再び即位された。 道鏡への御寵愛は恋ゆえとも思われる。籠の中の小鳥の如く育てられ、致し方なく天皇となり、”ヴァージンエンペラー”として国家と契りを交わされた。 そこへ病を治してくれた優男が現れた。初めは大いに戸惑われたに違いない。が、次第に惹かれてゆく。初恋であった。歳を経て、権威権力を纏った女帝の初恋である。この想いは、可憐な少女の初心な恋とは違い、時に陰湿で邪悪なるモノまで秘めてしまった。道鏡は付け入るように女帝に寄生する。或いは道鏡も本気で恋をしていたのかもしれない。歴史は勝者によって作られてきた。すなわち勝者に都合の良い歴史である。 しかし称徳女帝を止められる人物は誰もいなかった。道鏡太政大臣に据え、法王と呼ばせて、仏教理念を軸に政を行なう。あまつさえ、女帝は道鏡に譲位をすることを模索し始める。 そしてついに”宇佐八幡宮神託事件”が起こる。称徳女帝は側近の中臣習宣阿曾麻呂より、「道鏡皇位継承すれば天下泰平である」との神託があったと奏上を受ける。たぶん女帝と道鏡の謀に相違なく、阿曾麻呂はそれを忖度した。大激震の公卿らはいよいよ道鏡排斥へと動く。焦った女帝は、宇佐八幡宮に正式に勅使を派遣して、再度神託を得ることにした。派遣された和気清麻呂は、神託を持ち帰りこう奏上した。 「皇国は開闢このかた、君臣のこと定まれり 臣をもて君とする、いまだこれあらず 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ 無道の人はよろしく早く一掃すべし」 これにより道鏡皇位継承の芽は摘まれた。

神護景曇四年(770)、称徳女帝が崩御。以後江戸初期の明正天皇まで850年も女帝が立てられなかったのも、この事件が主因であろう。 道鏡は失脚し、突如下野薬師寺別当へと左遷され、二年後に没している。一時は皇位継承寸前まで上り詰めながら、東国の下野国へ文字通り”下野”した道鏡の失意は容易に察することができる。が、道鏡が左遷だけで済んだ事を考えてみると、この神託事件がでっち上げであった可能性もある。皇統を乱そうとした大罪人として、処刑や流罪にならなかったのは甚だ疑問だ。 道鏡は庶人として葬られた。 権勢を欲しいままにした者の墓とは思えぬ慎ましい墓だ。彼は此処へ来て何を思ったか。 龍興寺は今、彼の汚名を晴らすべく努めておられる。

下野国分寺跡

聖武天皇は、仏法による鎮護国家の要として、全国六十数ヶ所に国分寺国分尼寺を建立する詔を発せられた。 国分寺は正式には”金光明四天王護国之寺”と云い、国分尼寺は”法華滅罪之寺”と云う。 言うまでもなく総国分寺東大寺であり、総国分尼寺法華寺だ。 国の予算で運営される国営の寺で、国分寺には20人の僧、国分尼寺には10人の尼僧を置くことが定められていた。 僧たちは国家安泰のため経典を学び、仏法によって鎮護国家、玉体安穏を祈念すべく修行した。災害や疫病流行の際には特別法会を行っている。また定期的に勉強会を催し、学術研究機関としての役割も担って、言わば大学の様な場所でもあった。 私の自宅からそう遠くない所にも、武蔵国国分寺跡が在る。 各地の国分寺国府庁のそばに在って、下野国分寺もその例に漏れない。

国庁跡は思川の西岸に在り、今は栃木市に入っている。 下野国分寺は天平十三年(741)に建立された。伽藍配置は東大寺式で、南北一直線上に南から南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は回廊で結ばれていた。 南大門は東西21メートル、南北9.6メートル、金堂は東西33.6メートル、南北21メートル、回廊の外の東側には高さ60メートルの七重塔が聳えていたと云う。寺域全体は東西413メートル、南北457メートルもあったと云うからその壮観が偲ばれる。 東に600メートルほどの場所に国分尼寺跡があって、伽藍配置も国分寺と同様であったが、塔はなく、規模も少し小さく造られていたようだ。 下野国分寺跡一帯は史跡となっており、桜の名所として名高い”天平の丘公園”として整備されている。俯瞰図を見ると寺の周りは古墳に取り囲まれており、上古以前より此処が聖地であったことがはっきりとわかる。 下野国分寺は十二世紀頃に廃寺となったが、此処から北へ1キロほどのところに、”国分寺”と云う真言宗の寺が在る。古代の国分寺の法灯を継いでいるとも云うが、定かではないらしい。 下野市には古墳や古代遺跡が至る所に点在しており、”東の飛鳥”と呼ばれている。 東に鬼怒川や田川、西には思川と姿川が流れ、古来より開けた、肥沃な土地であったようで、旧石器時代から人の営みの痕跡がある。飛鳥時代に下野薬師寺が建立され、奈良時代国分寺国分尼寺が建立されると、古代東国の仏教文化の中心地となった。 今、基壇のみしか遺されてはいない荒涼とした遺跡に佇み、かつて此処に大伽藍があった時代に私は想いを馳せた。春風がそよ吹き、抜けるが如き青空の下、手をいっぱいに広げてみた。国分寺の大きさに改めて感嘆する。 何にも無いことが、かえって私の想像を逞しくする。

一皇位継承一源氏物語一

権勢を極め尽くした道長政権運営にあたり、廟堂を意のままに操った。『小右記』 には「右衛門督以下恪勤上達部伺候云々、以七八人上達部世号恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟」とある。右衛門督とは斉信のことで、左府が左大臣道長のこと。要するに「斉信以外の上達部たちは、皆、道長に従者に成り下がってしまった」と云うのである。事実、多くの上級貴族は道長と姻戚関係を結ぼうとした。中でも道長に忠誠を誓い、政権を支えた有能な公卿がいた。藤原斉信源俊賢藤原公任藤原行成の四人で、斉信が大納言、ほかの三人が権大納言である。彼らは官位から”四納言(しなごん)”と呼ばれた。そのうち、源俊賢は妹を道長と結婚させ、ほかの三人は娘を道長の息子と結婚させて関係を強めようとした。四納言は道長の影にひなたに暗躍し た。また、道長は常に部下たちに目配りも忘れなかった。『御堂関白記』には貢物をした公卿や受領たちの名と贈り物がいちいち記されており、これを人事の考課にしたのではないかと云われている。気配りの人だったゆえ長期安定政権を築けたのである。 

さて、日本の有史以来もっとも長い平安時代もたけなわである。平安時代以前は中国の文化に感化、影響されてきたが、世が泰平となってきた平安中期には唐風文化からの脱却がみられるようになり、いわゆる日本独特の国風文化が開花した。それこそが王朝時代であり、王朝文化が満開を迎えたのが何おう道長と息子頼道が摂関を担った時代であった。この頃、貴族の教養としては漢詩と併せて和歌を巧く詠めるということが重要な要素となっており、数々の名歌が競って生まれた。そして何より、日本文学の礎はこの時代に成長し、ほぼ完成をみたと云って過言ではないと思う。むしろ王朝時代以降現代に至るまで、日本文学は進化をしながらも、ある種行き詰まっている感がある。それは、この時に誕生した我が国が世界人類に誇る不朽の大長編小説『源氏物語』が存在があまりに大きいからである。

源氏物語』が書かれたのは間違いなく道長黄金期の頃のこと。寛弘五年(1008)十一月一日の夜、道長の土御門殿で開かれた敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生祝いが開かれた。先に挙げた藤原公任もこの宴に招かれていたが、酒に酔って厠へ立った帰りに、紫式部のいる部屋の前を通りかかった。その時公任は「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(このあたりに若紫の姫君はおられますか)」と声を掛けた。すると几帳の中から「源氏に似るべき人もみえたまはぬに、かの上は、まいていかでものしたまはむ(源氏の君に似ている方もおられないのに、まして紫の上がどうしてここにおりましょう)」と。このやりとりは『紫式部日記』に書かれており、この時点で『源氏物語』が”若紫”のあたりまでは書かれていたことが確実であり、宮中ではベストセラーとなっていたことがわかるのである。光源氏のモデルは在原業平源融と云われるが、紫式部道長を意識しなかったはずはない。プレイボーイのシーンはいざ知らず、権勢並ぶべき者なくなった往年の光源氏は、道長を彷彿とさせる。妻として迎えた女三の宮と柏木の不義密通を知った光源氏が、柏木を己が存在感のみで追い詰めてゆくところなどは鬼神のようであり、恐ろしい。間近で権力者をみてきた紫式部にしか書けないであろう。そんなところに道長を当てはめたのではあるまいか。紫式部道長の愛妾の一人であったとも云われる。あれほどの長編小説を描く環境や経済的支援、紙や墨や筆を与えてパトロンとして紫式部を盛り立てのが道長であるが、紫式部もまた道長がそばにいたおかげで、宮中や平安貴族の表も裏も見尽くすことができた。ゆえに奥行きのある味わい深い、千年の名作を生むことができたのである。『源氏物語』は生まれるべくして生まれたのである。

彰子のサロンには紫式部のみならず、赤染衛門和泉式部と云った、当代一流の女流歌人が侍っていた。むろん道長がスカウトしてきたのである。ことに平安王朝最高の女流歌人とも称される和泉式部は、夫のある身ながら、冷泉天皇の第三皇子の為尊親王、第四皇子の敦道親王兄弟の求愛を受け、これが宮中を揺るがす一大スキャンダルになるなど恋多き女性として知られているが、紫式部は日記にの中で和泉式部のことを「素行は悪いが、歌や恋文は抜群にうまい」と評している。道長和泉式部のことを「浮かれ女」と呼びつつも彼女の歌の才能には惹かれており、それを認めていたからこそ、サロンを任せたのである。

王朝文学と云えば、ここに述べた女流文学が代表的であるが、貴族たちの日記も多く遺されており、道長の『御堂関白記』と藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記 』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』、菅原孝標女の『更級日記』、そして『紫式部日記』、『和泉式部日記』などなど数多あり、一級の古典資料として我々は当時の彼らの生活、政治、思想、社会、制度、対人関係、恋愛、しきたり、有職故実を知ることができる。平安貴族の社会が道長の頃に安定したゆえにこうしたモノが多く書き遺されたに違いない。 

百人一首にもこの当時の名だたる文化人が多く採られている。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れなほ聞えけれ(藤原公任

あらざらむこの世のほかの想ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部

めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな(紫式部

やすらはで寝なましものを小夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門

夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言

女流文学者たちに触れたついでに、道長をとりまく二人の妻についても簡単にみておきたい。道長には正式の妻が二人いた。平安貴族の間で一夫多妻は当たり前で、妻の家へ婿入りすると云うのが主流であった。『大鏡』にも「この殿は北の方二所おわします」とある。一人は宇多源氏源雅信の娘倫子で道長が二十二歳で公卿となってすぐに結婚した。倫子は道長より二歳年長であった。この結婚は道長が積極的に望んだと云う。この当時、雅信はばりばりの左大臣であり、嫡流的存在として宇多源氏を率いていた。そこに道長は目をつけて、自ら政略結婚を申し込んだのである。この時から道長の権力基盤固めが始まっていたのである。当時道長の父兼家は一条天皇の摂政となっていたのだが、道長が嫡男ではなかったため、雅信は倫子との結婚には大賛成はでしなかった。雅信はあわよくば倫子を后として入内せしめることを考えていたようで、青二才の道長の申し出を軽くあしらっていたようだ。このことは『栄華物語』にも記されている。これを取り成したのが雅信の妻藤原穆子で、「道長は並の男ではない、将来性がある。私に任せてください」と雅信を説き伏せたと云う。これにて二人の結婚は実現し、倫子は道長の北の政所となったらしいが、これは定かなことではないらしい。おそらく道長は倫子と結婚することに一歩も怯むことなく、また向後にたいへんな自信を持っていたに相違なく、それが周囲にも、当の倫子にも伝わったのではあるまいか。うまい歌など詠んで、倫子に贈り続けたに違いない。かくして倫子は大平安貴族の正室となったのである。倫子の産んだ子は皆出世した。二人の息子の頼道と教道は摂関となり、娘たちは順に彰子は一条天皇中宮、妍子が三条天皇中宮、威子が後一条天皇のそれぞれ中宮となり、道長の栄華の頂点を極める出来事となった一家三后を実現した。さらに下の娘嬉子は後朱雀天皇東宮時代に妃となり、後冷泉天皇を産んでいる。(嬉子は残念ながら東宮非妃の時に十九歳で薨去した)こうしてみて、道長家が繁栄したのもまさに倫子のおかげなのである。道長が頼道の結婚の時に「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参るべきなめり(男の価値は妻次第で決まるものだ。たいへん高貴な家に婿取られていくのがよいようだ)」と悦んだと『栄華物語』に記されているが、この言葉は生涯道長の中に在ったに違いない。

 道長は彰子の生まれた年にもう一人の妻源明子を迎えている。明子は安和の変で失脚した左大臣源高明の娘である。生年は明らかではないが、道長とさほど変わらなかったようだ。明子が幼少期に父は左遷され、父の同母弟にあたる盛明親王に娘がいなかったこともあり 養女として育まれた。親王と死別すると一条天皇の即位で皇太后となった詮子に引き取られた。何不自由なく暮らし、道隆兄弟が求婚してきたが、姉の詮子は二人をたしなめて目をかけてきた道長に通うことを許したのである。道長にとってあくまでも正妻は倫子であり、周囲も認識していた。たしかに明子は、倫子のように道長の妻として公的な場に出ることは生涯なく、子女たちも倫子の子らほど出世栄達はしていないのだが、夫の愛情が途切れることはなかった。

二人の妻は、結婚当時の父の立場に大きな差異があり、そのことが二人の子女たちにも及んでいる。 倫子も明子も破格の長命であった。倫子は卒寿、永承四年(1049)に亡くなった明子も仮に道長と同年であったとしても八十四歳。今でも大往生だ。道長が六十二歳で死んでから二十年の余り、彼女たちは高位に到った子女たちに囲まれて安穏に満ちたりた余生であったと思う。

多摩丘陵に棲む一菖蒲と紫陽花一

初夏。多摩丘陵もみどりあざやかな時季に。鳥の囀りを携えて散策の日々。自宅から歩いて5分ほどの場所に”栗木緑地”がある。多摩丘陵の尾根道のひとつで、木々が生い茂るが、道が整備されているので、市民憩いの遊歩道となっている。時折、視界が開ける場所があり、東には都心のビル群、西には富士山、大山、丹沢山地を眺めながら歩く。さすがに尾根道でところによっては高所感もある。緑を眺めることは、疲労しきった目の保養にはうってつけらしい。こんな場所がそこかしこにある多摩へ移り住んで良かったと思う。

初夏の強い日差しを浴びて、まわりの木々もすっかり夏の装いになってゆく。 このところ朝は鶯、雲雀、不如帰の混声合唱で目覚め、夜は梟の寝物語を聴きながら眠っている。 不如帰は真夜中にも寂しげに鳴いている。 そんな夜は寝付きが悪いが、毎夜聴いているうちに、親しい友人になった気がして、つい明け方まで耳を傾けてしまう。 多摩丘陵に棲むようになって、都心に住んでいては気づかなかった季節の気配や、朧げであった花鳥風月の輪郭がくっきりとしてきた。

“何れ菖蒲か杜若”とはまことに言い得て妙。 花菖蒲のなかまは私が好きな花のひとつ。 佇まいは楚々としているのに、花は気高く可憐である。 ハナショウブ、黄ショウブ、カキツバタ、アヤメ、 イチハツ、ジャーマンアイリス、ダッチアイリスなどあるが、たしかに見分けにくい。 が、よく観察すると花の大きさや開き方が違う。 根津美術館に蔵されている、光琳の”燕子花図屏風”を観てから私はこの花たちの虜になった。 先日、荒れ模様の空の下、薬師池公園の花菖蒲たちを観に行った。今が盛りと聴いていたが、朝から風も強くて、横殴りの大雨。昼下がりまで待つも、一向に天候は回復せず。この雨で散ってしまうかも知れない。意を決して私は出かけることにした。 薬師池公園の菖蒲田には肥後系、伊勢系、江戸系など230種、およそ2200株の花菖蒲のなかまが植えられている。花の脚元には立て札があり、名が記してある。 いずれも粋な名前でいちいち感心した。 美しい菖蒲田を維持するために、晴れた日には早乙女姿の花摘み娘がいるらしいが、この日はさすがに現れず。 花摘みは、花びらが腐って病気になるのを防ぐための作業だとか。丹精が込められているのだ。 私はずぶ濡れになったが、園内には誰もいない。 実はこれは狙い通り。 おかげで花の池を独占させていただいた。 いきいきと咲き誇る花たちは、雨中になお映えて見えた。

紫陽花が見頃を迎えている。 むろん多摩丘陵もそこかしこに紫陽花が咲き乱れている。私は毎年、方々に紫陽花の名所を訪ねてゆくのを楽しみにしている。去年は文京区の白山神社へ行った。今年は久しぶりに水無月の鎌倉へ。 鎌倉には名月院や成就院など、紫陽花の名所が数多あるが、長谷寺も伽藍の背後の観音山の斜面にたくさん植えられており、 この時季は”あじさいの小径”と呼ばれている。 今年は梅雨入りを躊躇っていた関東地方は、私が長谷寺へ行った1週間前後は雨降らずであった。よって紫陽花たちは少し元気がない様に見受けられた。 恋しそうに雨を待つ紫陽花たちの願いは、開創千三百年を迎えた観音さまが、きっと叶えてくださるであろう。 一方で放生池や卍池に浮かべられたあじさいの花は、生気をとり戻して目にも綾に映る。 鎌倉の寺はいかにも質実剛健な寺が多いが、それらの中で長谷寺は異彩を放っている。 それは海が近いゆえかも知れない。 高台に在って境内からは相模湾三浦半島が一望できる。心地よい潮風が吹き、一年中花が絶えない長谷寺はまさしく観音浄土。 紫陽花越しに、由比ヶ浜の砂も明るく光って見えた。

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと②

宝泉寺

中央線の日野駅のほど近くに鎌倉時代創建の静かな禅寺が在る。宝泉寺と云い、此処に新選組六番隊組長井上源三郎は眠っている。井上源三郎は、文政十二年(1829)、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として日野の地に生まれた。十八歳で天然理心流宗家三代目の近藤周助に入門、近藤勇土方歳三沖田総司の兄弟子にあたる。勇や歳三とは六つ、総司とは十三も年長で、彼らはまことの兄のように慕い、源三郎も弟のように想っていた。源三郎は剣の腕は中程度であったが、無口で生真面目な性格で、周助の身の回りの世話から道場の雑務まで黙々とこなした。近藤勇が宗家四代目を継ぐと、周助から「勇についていてほしい」と頼まれて、実直にその言い付けを守った。 勇が浪士組に参加すると付き従い、新選組が発足してからは、局長や副長の影にひなたに暗躍し、対外交渉を担当、両雄の信頼は絶大であった。免許皆伝まで十三年を要した剣の腕よりも、人柄で幕末を生き抜いたのが井上源三郎であった。が、池田屋事件では八人の浪士を捕縛する活躍もみせている。源三郎、勇、歳三、総司の四人が育んできた多摩以来の絆が、新選組の結束を揺るぎないものとした。慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、新選組は幕軍の誰よりも前線に出てよく戦った。一月五日、淀千両松に布陣し、新政府軍を迎撃したが敗退。新政府軍は錦旗をかざして官軍となった。旧幕軍は近くの淀城で立て直しを計ろうとしたが、淀藩は官軍と戦う気はなく、門を開いてはくれなかった。旧幕軍は男山、橋本方面に撤退。井上源三郎はこの戦いで腹部に銃弾を受けて死んだ。享年四十。土方歳三の腕の中で絶命したとも云われる。亡骸はいったん墨染の欣浄寺に葬られたが、後に宝泉寺へ改葬された。皆から慕われた源さんは、故郷で静かに眠っている。寺の近くには”新選組ふるさと歴史館”や”井上源三郎資料館”も在る。源さんは図らずも幕末の動乱に紛れこんでしまったが、泰平の時代に生まれていたら、安穏に長生きしたであろう。近藤勇新選組に捧げた人生であった。私は墓に手を合わせながら問うた。「源さん、楽しかったですか?」

若宮八幡神社と西光寺

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕軍は、大坂城へ退却し、将軍慶喜に出陣を催促した。これを受けて慶喜は、「最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と鼓舞し、すぐさま支度するゆえ、各々持ち場にて待てと命じた。だが慶喜は、会津藩松平容保桑名藩主定敬兄弟や、老中板倉勝静らを伴い、深更、大坂城を密かに脱出し、大坂湾に停泊中の開陽丸で江戸へ逃げ帰ってしまう。これにて一会桑政権は消滅した。残された幕軍を担ったのは、幕軍最強の新選組を率いた近藤勇土方歳三。彼らは慶喜逃亡を知り、一時は絶望したが、持ち前のタフネスぶりを発揮して、関東にて官軍を迎撃すべく、榎本武揚に通じて富士山丸で江戸に帰還した。 幕軍は、三方から江戸へ迫る官軍を止める要は、甲府と定め、何としても官軍より先に甲府城を抑えたかった。当時甲府天領で、官軍も此処を拠点にして江戸を攻略しようと考えていた。徳川時代甲府城武田信玄を敬愛する家康が接収し、西国で挙兵された場合の出城とした。また、江戸城で一朝事あらば将軍の退避所とするために整備していた。ゆえに代々親藩や譜代が治め、後に天領となったのである。半蔵門から真っ直ぐ西へ向かう甲州街道は、有事の際の軍用道路であった。天下泰平では行軍などなかったが、幕末、その機能が初めて日の目を見たのである。甲府城死守は新選組に託され、”甲陽鎮撫隊”と改名して隊士を増強。かくして、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、甲州街道を一路甲府へと進軍を開始した。

近藤勇の地元”上石原宿”では、土地のヒーローとして歓待を受け、近藤はそれに応えるべく大名籠に乗り、土方歳三は断髪して洋装で馬に跨ってやってきた。甲陽鎮撫隊は、今の西調布駅そばに在る西光寺にて休息した。西光寺には近藤勇像がどっかと座っており、参詣者を出迎えてくれる。この寺から近藤勇はこのあたりの氏神で、自らも氏子である若宮八幡神社へ向かい遥拝し、戦勝祈願したと伝わる。今も住宅街にあって神さびた佇まいをみせるこの社の境内に立ってみれば、風雲急を告げる幕末の足音が響いてくるようであった。新選組の再起を賭け、多摩の誇りを胸に秘めて、甲陽鎮撫隊甲州路を西へゆく。

日野宿本陣

甲州街道日本橋から八王子、甲府を経て、信濃国下諏訪で中山道と合流する。昔は”甲州道中”と呼ばれ、四十四次の宿場が置かれていた。江戸から甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と云った。日野宿は甲州道中五番目の宿場である。余談だが、高井戸二宿、布田五宿とした場合は十番目にあたる。府中と八王子の間の日野宿は両隣ほど大きな宿場ではないが、多摩川の渡しを管理する道中の重要な拠点であった。今も閑静な日野は土方歳三井上源三郎の故郷。旧甲州街道沿いは、かつての宿場の面影をいくらか留めている。なかで日野宿本陣は幕末往時の姿をまるっきり遺しており、此処を幾度も訪れた近藤勇土方歳三に親しく想いを馳せることができる。本陣は大名や旗本の宿泊所で、以前の建物は嘉永二年(1849)に焼失。現存するのは元治元年(1864)に、歳三の義兄で日野宿名主の佐藤彦五郎が再建したものだ。彦五郎は此処に居住もしていた。

元治元年と云えば、京都で”池田屋事件”や”蛤御門の変”があった年で、新選組が最高潮の時である。佐藤彦五郎は歳三らが幼い頃から目をかけ、自らも天然理心流に入門し、この本陣に”佐藤道場”を構えた。歳三や源三郎は此処で稽古し、江戸から出稽古に来た近藤勇や、後に加わる沖田総司と親交を深めていったのである。すぐ傍にある八坂神社は、寒稽古をしたり、奉納試合を披露した場所で、近藤や沖田と佐藤道場の門人の名が刻まれた額と木太刀が奉納されている。慶応四年(1868)三月二日、先に述べた甲陽鎮撫隊は、日野宿にて休息をとった。地元多摩での近藤勇は「故郷に錦を飾る」思いで振る舞っている。近藤は一時の休息ではなく、せめて一晩逗留したかったようだ。官軍は甲府城に迫っており、一刻の猶予もないのだが、近藤は実に悠長に構えたと云う。迎えた親族や佐藤彦五郎ら後援者も、たいそうなもてなしをした。ただ一人土方歳三だけはこの光景を快く思わず、近藤に先を急ぐよう進言したが、近藤は「暫時」と言って、聞かなかったと云う。この衣錦の栄が一世一代であるとの想いでいた近藤勇。努めて笑顔でいたのであろう。迎えた人々もそれを感じていたに相違ない。その想いは涙を誘う。

ちなみに佐藤彦五郎は此処から甲陽鎮撫隊に参加している。沖田総司は病を押して何とか此処までついてきたが、これ以上の進軍はもう不可能であった。彼は此処から江戸へ戻ったが、療養の甲斐なく数ヶ月後に死んだ。日野が近藤勇土方歳三との永久の別れの地となった。

この日、この辺りで剣術を教わった若者が五、六十人も本陣へやってきて、甲陽鎮撫隊へ入隊を志願した。しかし近藤勇は承知せず、彼らを前にしてこう言い放った。「まだまだ諸君のする事は外に沢山あります。お志はうれしいが供は許されません」(子母澤寛/新選組始末記より) 近藤は闇雲に突出しようとする若者たちを諫め、後事を託した。この国の行く末に想いを致しつつ、無駄な犠牲者を出さないために。誠の武士であった。日野宿を訪れてみるといい。其処には近藤勇土方歳三沖田総司井上源三郎がたしかに生き抜いた証が今も燦然と遺っている。

一皇位継承一 一家三后 一

この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

あまりにも有名な藤原道長絶頂の歌である。この歌が詠まれたのは、寛仁二年(1018)十月十六日の夜のことと、道長と同時代を生きた藤原実資の日記『小右記』にはっきりと記されているから、確かであろう。この日、道長の三女威子を孫の後一条天皇に入内せしめ、晴れて皇后に冊立された祝宴であった。 宴もたけなわ、道長は実資に「これから歌を詠もうと思うが、返歌をお願いしたい」と問い、「やや自慢げではあるが、即興なので、」と前置きして此の歌を詠んだ。実資は内心は「こんな自慢たらしい下手な歌に付き合うのはごめんだ」と思いながらも、道長にはおくびにも出さず、「あまりに優美な歌ゆえに私にはとても返歌できません。代わりに皆で此の歌を吟詠致しましょう」とかえした。これに快く思った道長咎めもせず、満月夜のしじまに響き渡る我が歌に聴き惚れていたに違いない。この宴は土御門殿にて開かれた。道長枇杷殿、一条殿、二条殿、高倉殿、東三条殿など平安京に何件もの邸宅を持っていたが、この頃はこの土御門殿が主邸となっていた。今の京都御苑内、京都迎賓館の前にその跡地が遺されているが、此処が道長の栄華を象徴する舞台となった場所である。内裏が焼けて一条天皇がしばし逗留されて里内裏となったこともあり、彰子が懐妊して里下りしたのもこの土御門殿である。彰子は土御門殿で二人の皇子を産み、嬉子も皇子を産んだ。この三人の皇子が後に後一条、後朱雀、後冷泉の三代の天皇になられる。土御門殿はもとは道長正室倫子の実家である。当時、平安貴族の婚姻は婿入りが普通であり、道長は倫子の実家の源雅信家をまるっと相続したのである。道長は結婚当初は両親と住む倫子のもとへ通っていたが、彰子が生まれると土御門殿に住むようになり、雅信夫妻が一条殿へ転居している。結婚するとはそういうことであった。この夜の宴には北家一門はむろん、名だたる公卿も侍り、道長家の繁栄を寿いだ。実資は日頃から道長に対しては反感を持っていたが、この日ばかりは屈服せざるを得ない状況であった。それほどに道長の権勢は揺るぎなきものとして完成したのである。

一条天皇崩御されると、皇太子居貞親王践祚三条天皇として三十六歳で即位された。三条天皇の母超子は道長の姉で、一条天皇と同様、道長の甥にあたる。その東宮になられたのが、一条天皇の第二皇子で、彰子の産んだ敦成親王であった。道長は甥よりも血縁の濃い孫の敦成親王が即位することに執念を燃やす。一方で壮年の三条天皇は予てより自ら理想とする政を実現されたいとの想いを抱かれており、摂関政治を停止して、天皇親政を望まれていた。もっとも当初は道長に関白就任を打診されたが、道長はこれを固辞して、内覧の地位にのみとどまっている。そこには道長の思惑が透けて見える。関白となれば天皇の第一臣下として天皇を補佐しなければならず、親政の実現に協力せねばならなくなるためだ。道長三条天皇に次女の姸子を嫁がせたが、三条天皇にはすでに娍子と云う后がいた。道長は姸子を中宮に押し込んで、娍子を皇后とし、一条天皇の時と同じく二后並立を強行したのである。娍子立后の日に道長は姸子の入内をわざとぶつけて立后の儀を妨害した。立后の儀に参列したのは実資ら四人の公卿のみで、ほとんどの公卿は道長を憚り参列を辞退している。しかし、姸子には皇子は生まれず皇女が生まれた。この時道長は不快な気持ちをあらわにしたと云う。何よりも外孫の敦成親王の即位を一日も早く望むようになる。

三条天皇に対して道長は露骨に譲位を迫る。天皇は近臣に無礼千万な道長への不満から、食事も喉を通らず、眠れない、不安で仕方がないと漏らされた。こうしたストレスが原因なのか三条天皇は目を患い、視力も衰えてゆかれた。そこで道長は闘病に専念するべきとさらに強く譲位を迫った。実資は『小右記』で道長の態度を「大不忠」と非難するも、現実では道長に対面して苦言を呈することはなかった。そして長和五年(1016)、御在位五年の三条天皇は第一皇子の敦明親王東宮にすることを条件に、敦成親王への譲位を受け入れられた。敦明親王の母は娍子で、敦成親王の即位を優先した道長もこればかりは譲歩した。新造の内裏がわずか二ヶ月で焼失し、三条天皇の心労もピークに達していた。譲位せざる得ない状況を道長が誘発するように仕向けていたのである。

かくして敦成親王は九歳で践祚され、後一条天皇となられた。ここで道長は初めて摂政となる。平安時代を通して外祖父として摂政となったのは、良房、兼家、道長の三人のみ。ほとんどの摂政は天皇とは叔父と甥の関係であった。外祖父摂政がいかに強大な力を持てたかは、三人をみれば明らかである。摂政就任の年の暮れ、道長左大臣を辞任して、摂政専任となった。ここで嫡男頼道が内大臣になっており、廟堂は息子に任せて、自らは摂関の足場固めに専念した。その一年後の寛仁元年(1017)、三条上皇は失意のうちに崩御された。後見を失われた敦明親王東宮から退かれてしまう。道長が強要した可能性もあるが、敦明親王は争いを好まれず、機を読むことに長けておられたのであろう。このあとは東宮の経済特権を有したまま生涯を気楽に送られたと云う。代わって東宮となられたのが、後一条天皇の弟宮の敦良親王で、これにより道長天皇東宮の外祖父となった。

ここで道長は摂政を頼通に譲り、暮れには太政大臣となる。自らの目の黒いうちに摂政の地盤を道長家すなわち御堂流の世襲とすることを確実なものとしながら、自由な立場から頼道を後見し、権力を強大なものにしようとした。ちなみに道長は後に「御堂関白」と称されるが、関白になったことは一度もない。一条朝、三条朝の二十年を左大臣兼内覧として過ごし、後一条朝の摂政も一年にも満たない。それでも隠然たる力を保持し得るだけの基盤が出来上がっていたのである。道長が当主の父「大殿」として行った政治が、後の院政の原型となった説もあり、さらにずっと後までも、徳川時代の大御所や明治政府の元老など、日本独特の二元政治の原型となったとも云えよう。これには藤原氏特有の権勢欲と、彼自身が元来病弱であったことが起因していると云う説もある。ゆえに先を見越して先手を打ち続けたのではあるまいか。

道長は摂政を辞すると外戚としての摂関政治の仕上げに取りかかる。寛仁二年(1018)、三女の威子を、外孫である後一条天皇に女御として入内せしめた。元服したばかりの天皇は御年十一歳、威子は九つも年長の二十歳。そして威子は女御から中宮に昇り、皇后冊立となった。威子に皇子が生まれ、天皇となれば道長家は外戚としてさらに長い間権力を維持できる。これが道長の策略であった。甥と叔母の結婚を二段構えで行うと云う前代未聞の強行策は、今ではあり得ないことであるが、当時としても極めて異例のことであった。威子が中宮となったその日、土御門殿で開かれた宴が、冒頭の宴である。そこで道長は、この世は私のためにあるようなもの。満月が欠けることなく、完全なるものであるように、私の思うようにならないことは何もない。まさしく絶頂であった。道長は自分の娘で三代の后を独占した。すなわち太皇太后が彰子、皇太后が姸子、皇后が威子、この一家三后は、日本史上、後にも先にもこの時だけである。このあと道長は四女の嬉子までも敦良親王(のちの後朱雀天皇)に嫁がせ、道長の没後に親仁親王(のちの後冷泉天皇)が生まれている。これにより頼通の摂関在任が半世紀にも及んだのであるから、道長の敷いた道は確かであった。道長の権力への執念たるや凄まじいものがあるが、一方で無念なり三条天皇のご心中も察するに余りある。百人一首にも採られたかの有名な歌に、三条天皇はその胸中を赤裸々に吐露されている。

心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

同じ月を詠んでいても、かほど道長の月とは違うとは。まこと冷たく哀しい月であるが、歌の軍配は明らかである。

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと①

龍源寺

三鷹市野川公園の近くの人見街道沿いに、慎ましい佇まいをみせる龍源寺がある。此処に新選組局長近藤勇の墓が在る。近藤勇の墓と称されるところは方々に在るが、此処が菩提寺である。近藤勇天保五年(1834)、武州多摩郡上石原村(調布市)の豪農宮川家の末子に生まれた。幼名は勝五郎。たいそう腕白な餓鬼大将であったが、決して弱い者いじめはしなかったと云う。リーダーの素地は生まれながらに備わっていたと思われる。龍源寺のすぐそばに生家跡が在るが、戦前、近くの調布飛行場の拡張時に強制的に立ち退かされ、家屋や納屋は滅失した。現在、わずかな敷地に産湯の井戸と、近藤勇を神として祀ったささやかな社があるだけだが、腕白だった勝五郎少年の姿が瞼に浮かぶ。勝五郎は無心に剣術に取り憑かれていった。いつか幕末史に名を残すことになることは夢にも思ってはなかったであろうが、胸の内には彭湃として湧き起こる新時代の気運を感じていたのではあるまいか。生家の敷地内には道場もあったそうだ。近藤勇の遺志は、甥の勇五郎が継いで、天然理心流の道場”撥雲館”を営んだが、こちらも昭和後期に廃止、建物は生家跡の斜向かいに残されている。今、天然理心流は有志で継承されている。江戸に出て試衛館の道場主となり、浪士組に参加、そして新選組へ。資質はともかく、近藤勇はずっと将として人を率いた。それは時勢が彼を導いた由縁もあるだろうが、何よりも彼には人を惹きつける才が生まれ持ってあったに違いない。遺された古写真の人懐こい顔からも想像できる。土方歳三に「この人のために俺は鬼になる」とまで言わしめた。人望篤き人物であった。濃密な三十五年の生涯を終え、無言で帰ってきた近藤勇を、寺の付近を流れる野川に架かる相曽浦橋のたもとで、一族が出迎えたと云う。餓鬼大将の頃遊んだ野川だ。此の村から青雲の志を持って旅立ち、精一杯生き抜いて、此処へ帰ってきた。

石田寺

東京日野市の街外れにある此の寺に、新選組副長土方歳三の墓が在る。土方家は寺のすぐそばにあり、生家には土方歳三資料館も併設されている。土方歳三は、天保六年(1835)、武州多摩郡石田村の豪農の末子に生まれた。十人兄弟の末っ子だが、奇しくも近藤勇も末っ子。この二人が後に新選組を率いたと云うのも因縁めいたモノを感じる。土方さんと云う苗字はこのあたりにはたくさんあって、日野市では表札や看板でしょっちゅう見かける。歳三の墓は土方家の墓所にあるが、墓の周囲もほとんどが土方さん。幕末史において、土方歳三坂本龍馬と人気を二分する。端正な面差しからか、ことに女性の人気は絶大で、もはや恋をしていると言ってよいほど熱烈なファンが多い。沖田総司新選組美男五人衆も人気はあるが、なんと言っても土方歳三は写真が遺っている。これが女性の人気を決定打にした。彼を雄々しく育んだのが此処なのである。住宅は増えたが、浅川の畔から眺める多摩丘陵、丹沢から高尾にかけての峰々、その向こうに没する夕陽は、歳三が少年時代に眺めていた景色とさほど変わってはいないだろう。歳三は豊玉と云う俳号で多くの俳句を詠んだ。

差し向かう心は清き水鏡

新選組副長としての覚悟か、戊辰戦争に突入してゆく時の鼓舞か私は知らないが、才はどうあれ、どの句も素直に心境を吐露している。長閑な多摩で育ったことも一因であろう。江戸への丁稚奉公や石田散薬の行商をしながら剣術を会得した。常にギラギラと前だけを見据えた。文久三年(1863)、”壬生浪士組”は正式に会津藩預りとなり、”新選組”と命名された。歳三はこの日から鬼になった。厳格な局中法度を定め、芹沢鴨新見錦山南敬助ら反りの合わぬ幹部を謀略をもって粛清し、近藤勇を局長として奉り、自らは副長としてこれを支え、隊士を統率した。私はやっぱり鬼になった歳三に興味がある。幕末最強と云われた新選組とは、土方歳三が作った夢の武士団であった。世に名を残したいとか、人に認められたいとか云う様な、そんな気持ちは彼にはなかったと思う。歳三は戦闘することが生きていると実感することと心得ていたのかも知れない。まさに鬼神のように縦横無尽に活躍し、函館で命燃え尽きる瞬間まで自らの意志と意気地を貫いて死んだ。ラストサムライとは彼のことだ。生まれは侍ではなかった彼こそが、最期のもののふであった。土方歳三の墓は石田寺に隣接する日野高校を見守るように、あたかも「少年たちよ大志を抱け」と言わんばかりに立っている。墓の傍らには樹齢四百年以上と云われるカヤの木が今も逞しく聳える。このカヤの木を歳三も見たであろう。私はその木肌に触れてみた。

高幡不動

正式には高幡山明王院金剛寺真言宗智山派別格本山である。草創は大宝年間以前とも云われ、南多摩きっての古刹である。関東三大不動にも数えられ、多摩の不動信仰の中心でもある。 山門や不動堂は室町時代の建立で、さすがにその頃らしい柔らかな曲線美を魅せている。此処が土方歳三菩提寺。前述のとおり歳三の墓は高幡不動から浅川を渡ってすぐ、生家近くの石田寺に在るが、高幡不動の末寺である。山門を潜るとすぐに土方歳三の大きな銅像が迎えてくれる。その傍らには、松平容保が題字を揮毫した近藤勇土方歳三への顕彰とレクイエムとも云える「殉節両雄の碑」がある。 広い境内は歳三少年にとっては格好の遊び場であった。歳三も腕白な少年「バラガキ」であった。或る時、歳三は此の山門に登って、楼内の鳩の巣から卵をつかんで、参道をゆく人々に投げつけたこともあったと云う。青年になってからも、高幡不動の裏山で剣の修行をしたとも伝わる。寺宝には歳三が宇都宮城攻略時に掲げた「東照大権現」の幟や、歳三の手紙、井上源三郎が愛用した脇差、天然理心流の木刀もある。 高幡不動には何度も来ているが、私は此度初めて大日堂へ入った。大日堂の奥には近藤勇土方歳三井上源三郎沖田総司らの位牌と新選組隊士の大位牌が安置されており、拝ませてもらった。位牌と云うものは、墓石よりも哀切な感じがする。個々の戒名が刻まれているからであろうか。私は彼らと直に対峙している気がした。最期のサムライ土方歳三の不動心は、高幡不動への強い信心が彼に根差していたからに違いない。