弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

元禄レクイエム

私が歴史に興味を持つことになったきっかけのひとつが、元禄赤穂事件である。浅野内匠頭が、吉良上野介にどのような遺恨があって刃傷に及んだのか、真相は闇の中であるが、この事件は三百十四年を経た今日でも様々な説が飛び交い、日本人の心を捉えて離さない。私は物心ついた時分から、時代劇を見るのが好きだった。祖父が歴史や時代劇が好きだった影響もある。もちろん忠臣蔵も、映画、テレビ、芝居などで何度も見てきた。私は昔から忠臣蔵のヒーローたる大石内蔵助や、悲劇の貴公子とされる浅野の殿様よりも、ヒール役の吉良の殿様へ関心があった。炭小屋から引っ張り出された無抵抗な老人を、武装した四十七人の浪士が襲撃する。弱い者虐めのような恐ろしい光景に、私は吉良上野介を憐れんだ。実際にはあのようなシーンはなく、台所の隅に隠れていたところを見つかって、あっけなく槍で突かれて亡くなったらしい。それにしても、夜寒の中、息を殺して隠れていた吉良上野介はどんなにか怖ろしかったであろうか。やはり吉良の殿様に同情せずにはいられない。どうしてここまで私は吉良上野介に執心するのかというと、江戸幕府の組織や職制に興味を持つきっかけを与えてくれた人だからである。私が時代劇を好きになり、江戸の時代考証を勉強するきっかけとなったのは、忠臣蔵なのである。テレビや映画の忠臣蔵を見て、高家とか側用人という役職を知った。さらには幕藩体制とはどういうものであったか、五代将軍綱吉の時代がどういう時代であったのか、徳川幕府が開府から幕末まで、二百六十年どのような行程を歩んだのかに、関心が深まるきっかけとなったのが、何おうこの元禄赤穂事件なのである。

ここで私なりに赤穂事件を捜査してみよう。これは極めて私見であるからして、大いに吉良上野介義央への同情がある上での見解であることをお断りしておく。単刀直入だが、事の発端となった松の大廊下の刃傷事件、あれはどう考えても浅野の殿様が悪い。一方的に斬りつけたことよりも、問題はその場所である。ここは天下人のおわす殿中表御殿。しかも松の大廊下はただの廊下ではない。江戸城本丸御殿で、もっとも広大で格式の高い大広間から、白書院を結ぶ長大な廊下である。また単に通路として使われていたわけではなく、白書院で将軍に謁見する際や、大名総登城の折、諸侯の控える場としての役割も担っていた。また襖の向こうは、御三家や加賀前田家の控えの間が並んでいる格の高い場所であった。余談だが、映画やテレビでは、廊下の片方は開け放たれているが、実際には引き戸や障子が嵌め込まれており、昼間でも薄暗いところであった。また襖絵も、映画やテレビでは巨大な松が描かれることが多いが、実際には海辺に小ぶりの松ノ木が点在し、雲間には千鳥が飛び交うという優美な絵であった。江戸城本丸御殿は何度か焼失しているが、松の大廊下の襖絵は再建の度に同じような雰囲気の絵が描かれている。そのような場所で、事もあろうに浅野の殿様は刃傷沙汰を起こしたのである。薄暗い大廊下で。忍び寄る不気味な通り魔の如く。しかも御城ではこの日、将軍が勅使を迎えて年賀の答礼を受けるという、徳川政権にとって、年中で最も重大なる典礼の日であった。浅野内匠頭の乱心でそのすべてが台無しとなり、幕府の面子は丸つぶれ、犬公方は激怒した。

きっと吉良の殿様は、あっけにとられたに違いない。そして事の沙汰は、上意によりすぐに決した。浅野は即日切腹、吉良はお咎めなし。当たり前である。どのような恨みつらみがあったかは闇の中だが、浅野の殿様は卑しくも一国一城の主である。どんなことがあっても、ここは我慢をせねばならぬところ。仕える家臣や領民のことは何も考えずに、自分のことばかりの印象は否めない。もともと吉良の殿様は、浅野の殿様を評価していたとも云われる。内匠頭はこれより十八年前にも勅使饗応役を務めており、この時も指南役は吉良上野介であった。首尾うまくやり遂げたことに双方安堵し、未だ紅顔の少年であった内匠頭に対して、上野介は息子のように目をかけたともいわれる。さらにその一年ほど前には、朝鮮通信使の饗応役も勤めており、内匠頭はいわばこうした役目はまったくの無知ではなかったはずである。そこに上野介は期待もしていたであろうし、実直な浅野に任せておこうという気持ちも、多少なりともあったと思う。

内匠頭自身、赤穂では塩田開発を奨励し、質実剛健で真面目な殿様として家臣領民から名君の誉れ高かった。だが、病弱で癇癪持ちであったとも言われる。早くに父を亡くし、わずか九歳で家督をついだ浅野内匠頭長矩は、おそらくいつも心細く、プレッシャーに押しつぶされそうなつらい少年時代を過ごしたであろう。大名の継嗣問題でよくあることだが、若年の藩主は毒を盛られたり、命の危険にさらされたことも、一度や二度はあったのではないか。そして次第に疑心暗鬼となり、心身疲弊して、時に癇癪を起すようになったのかもしれない。またそれが己が敵を遠ざける、唯一の武装だったのではなかったか。それは歳を重ねるごとにひどくなり、鬱病になっていたのだと推察する。そして再びこの大役が廻ってきた。頭の中は真っ白で、かつての経験は何も活かされず、それが上野介を失望させ、また苛立たせたのであろう。

そういえば内匠頭の叔父にあたる内藤忠勝が、延宝八年(1680)増上寺で刃傷沙汰を起しており、血は争えないとの噂もあるが、私は血筋というよりも、何か因縁めいたものを感じずにはいられない。内藤忠勝は志摩鳥羽藩の第三代藩主で、浅野内匠頭の母は姉である。その日、増上寺では四代将軍家綱の法要が行われており、忠勝は参詣口門の警備を命ぜられていた。常日頃忠勝と折り合いの悪かった、丹後宮津藩の第二代藩主の永井尚長という大名は、出口勝手門の警備を命ぜられていたが、尚長は忠勝より上席にあるため、忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書を忠勝に見せず立ち去ろうとした。忠勝は奉書を見せるように求めたが、尚長が無視したため、忠勝は脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを、刺し殺した。忠勝は切腹、御家断絶となった。これには諸説あり、逆に尚長が斬りかかったが、忠勝に返り討ちにされたとも云われる。いずれこの時十三歳であった長矩少年は、大きなショックを受けたに違いない。そして自分はぜったいに叔父と同じ轍は踏むまいと決意したであろう。そのことがさらに彼を追い詰めていき、繊細で神経質な人間を形成したと私は思う。歴史とは時に無情で皮肉なことをやる。思えば徳川綱吉浅野内匠頭には、性格的に共通するところもあるように思う。思慮深く心優しい面を持ち合わせ、いかにも名君ともいえる一方で、物事を対極的に、あるいは主体的に見るというトップに立つ者としてもっとも問われる資質が、この二人には著しく欠乏していた。突発的な出来事に耐えられず、短慮な判断をしてしまう。これも元禄赤穂事件の背景にはあったと思う。

芝居や映画のように、確かにある意味、上野介による虐めともとれる出来事がなかったとはいえぬ。いつも申しているが、火の無い所に煙は立たぬものだ。しかし、仮名手本が生まれた時に、大胆に脚色されたことも間違いなかろう。吉良上野介高家肝煎として京都へ上り、徳川幕府の代表として将軍に代わり、天皇や公家へ年賀の挨拶をしていた。その緊張から解きほぐれ、ようやく春の江戸へと帰ってきたら、すぐに勅使院使の答礼の下向があり、これを取り仕切らなければならない。年末から春先まで、高家は繁忙極まりなかった。普段から有職故実を学び、武家と公家の伝承や儀式に精通、さらには茶の湯、和歌といった文化芸術にも高い見識と術を兼ね備えていた。高家は大名より家格は低いが、宮中や殿中での席次は、外様の小大名より遥かに上で、まぁ多少は鼻につくそぶりも見せたことはあるだろう。武家の中にはそれを好ましく思わぬ輩も、関ヶ原から百年余りのこの頃まではまだいたのである。浅野、吉良双方がどこかでほんの少しだけ譲れぬことがあったのだ。そしてその瞬間まで両者ともに、よもやここまでの大事件になるとは想像もしていなかったはずである。魔が差すとはまさしくこのことだと思う。

殿中で乱心した浅野内匠頭に斬りつけられ、その二年半後、武装したテロリスト集団に襲撃されて命を落とした吉良上野介。人と人との関係とはほんの少しの歪み、軋みでこういうことになる。吉良の殿様は亡くなる寸前まで「なぜ、私が殺されなければならぬのか。」と憤っていたに違いない。元禄赤穂事件の張本人たる二人をクローズアップしてみると、私は両者ともに気の毒であったと思う。ひいてはこの事件に関わり、巻き込まれていった人たち、内匠頭の妻である亜久利、弟の大学、大石内蔵助以下四十七士、その家族、最後まで討ち入りに参加するはずだったが、故あって参加できず埋もれていった志士、ある日突然解雇され浪人となった赤穂藩士やその家人たち、上野介の孫で上杉家より養子となっていた当代の吉良義周(討ち入りで深手を負うも助かったが、その後改易となり、信州諏訪藩にお預け。病に伏しがちとなりわずか二十一歳で逝去)、吉良家家臣団、皆一様に気の毒でならない。多くの人々の人生が波乱破滅となった。封建制の黒い部分といえばそれまで。だが、私は元禄赤穂事件が、現代を生きる日本人に多くのことを問うているように思う。後世、美談として語られている忠臣蔵であるが、どうもそれだけでは片付けられそうもない。いつかそのあたりを私は小説に書いてみようと思っている。今日、泉岳寺では義士祭が行われる。元禄赤穂事件に関わったすべての人へ心より冥福を祈念したい。