弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

桜守

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

桜の頃、私はいつも業平のこの歌を口遊む。暑さが苦手な私は、春夏よりも秋冬を好む。梅が散って冬が終わり、花の便りが届きはじめると、若干鬱々としてくる。春空の下、私は己が雲路の中を彷徨う。でもやっぱり桜は気になってしまう。方々で花開き、名所や名木の花を見れば、心逸る気持ちを抑えることができない。こうして桜は、春の私に追い打ちをかける。桜が無ければ、もう少しのんびりと、いつまにか初夏になり、夏になってゆくだろうに。桜は慌ただしく、四季の移ろいを急き立てるのだ。が、桜が無ければ、日本人の春は来ない。そして私は、和泉式部のこの歌を口遊む。

のどかなる時こそなけれ花をおもふこころのうちに風は吹かねど

桜はソメイヨシノだけではない。寒桜に始まり、御室の桜や奥の千本まで咲き誇ってもなお、北国の桜が終わるまで、桜は日本の春の句読点である。最近はどうもソメイヨシノを貶す輩もいるが、植木職人や研究者のように、桜に携わっている者が言うならばいざ知らず。聞き齧りでソメイヨシノや、それを日本の桜と信じる花見客を、鼻で笑う連中がいる。いっそ私は、彼らにこそ憐れみを覚える。確かに、日本に古来からある彼岸桜、山桜、八重桜、枝垂れ桜などは名状し難い。私だってお気に入りに桜は、エドヒガンの老木である。が、ソメイヨシノソメイヨシノで良いと思う。あれほど明るく、全体に花をつける桜はない。江戸人が創り出した賜物で、言うなれば桜のサラブレッドである。ソメイヨシノは、もの想うことに苦慮する今世には、わかりやすくて、似つかわしい桜だと思う。そして、数ある桜の中で、ソメイヨシノはもっとも寂しさを纏っている気がする。明暗表裏一体の桜といえようか。ソメイヨシノには、明るさと寂しさが同居する。花に罪は無い。どの花も同じように愛したい。

私にも、お気に入りの花見スポットがある。それは、誰もが知っている場所から、知る人ぞ知る場所までいろいろとある。どこの桜も好きだ。なるべくならば、人の居ない静かな所で、たったひとりで、いや桜と二人きりで対面できる所がベストだが、千鳥ヶ淵や上野公園、飛鳥山や吉野のように、たくさんの花見客で溢れる所も悪くはない。如何にも、現代日本の花見を象徴していると思う。まあ、マナーの悪い乱痴気騒ぎはどうかとは思うが、老若男女が心を一にして、春を寿ぐことは、素敵なことだと思う。

私はこの季節になると、愛読書も桜をテーマとした小説や、物の本になる。今年は水上勉の櫻守を読んだ。先年、小説の舞台である海津の清水の桜を知り、早く読みたいと思っていたが、買ってすぐには読まないで、この時季まで待っていた。私には時々こうした本がある。買うには買うのだが、しばらく置いておいて、読み時が来たら読む本だ。もちろん買ってすぐに読む本もある。本にも、時節、自らの体調、心境によって、読むタイミングがあると思っている。

話は逸れたが、櫻守を読んで、すっかり水上勉に落ちてしまった。ここでこの物語を事新たに言うつもりはないが、水上さんの言葉紡ぎは、まったくナチュラルで美しい。いかにも桜の花弁が舞うかの如く、はらはらと、瞬く間に読み耽ってしまった。衝撃的なラストを迎えた時、私もさすがに涙を抑えることできなかったが、主人公の弥吉は、人生を桜に献げ、愛した桜の下で眠れるなど、思えば幸せなことである。桜の下で眠ると云えば西行とてそうだ。

春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり

風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり

願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

櫻守には、日本各地の桜の名所名木が出てくる。櫻守を読むことで、私自身もその場で、弥吉らと同じ桜を眺めている様であった。それが何とも心地よくて、うれしくて、切なかった。櫻守のモデルとなった笹部新太郎氏は、文字通り全生涯を、桜を守り育てることに献げられた方だ。今でもその意志を引き継ぐ人がいて、私たちの知らぬところで、桜を守っている人たちがいる。桜は、ほったらかしでは上手く育たないらしい。定期的に剪定し、土壌管理、蔦や宿木の除去、虫食いの治療や予防など、人の助けがないと生きられない桜は、人の近くで、人と共に生きている。あれだけ美しい花をつけるのも、受粉だけではなく、人を呼ぶために、桜が身につけた術なのかもしれない。桜だけではない、いつもどこかで樹木を、森を、山を、川を、海を人知れず守っている人がいる。彼らは行政などでは到底できぬ、きめ細かな愛情を持って寄り添っている。ただ、花を眺めるだけではなく、私たちはそんな人びとにも想いを巡らせながら花見をするのも、たまには良いのではなかろうか。

 櫻守を読んで、もっとも印象的だったのは、日本中の有名無名の桜を、水上さんの微に入り細に入りした、写実的な筆致で堪能できたことである。それぞれの花の名、由緒、姿、色が、まことに丁寧に描かれている。水上さん自身も、桜をかなり研究されたに違いない。そして何よりも、桜を愛した方であったと思う。花を愛でる人にしか描けぬ文章である。櫻守を読んだおかげで、この春は多くの名木と、花に取り憑かれた人びとに囲まれた私。なんだか今年の花見は、もう終わったなという気でいる。

おしなべて花はさくらになしはてて散るてふことのなからましかば