弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

こいのぼり 

少年の頃、端午の節句になると、私は空ばかり眺めていた。こいのぼりが大好きだったから。何故好きだったのか?明確な答えはない。まことに漠然としているが、力強く空を泳ぐこいのぼりに、私も金太郎のように掴まっていたいという想いを抱いていたのではないか。人は誰でも一度や二度、大空に憧れるであろう。空を飛べない人間の究極の欲望とは、つまるところ舞空なのだと思う。人が鳥、雲、星、飛行機に憧れるところを、私を空へと誘うのはこいのぼりであった。

小学三年生くらいまで、こいのぼりを揚げることを楽しみにしていた私を、親や祖母は幼稚であると嘆いた。それに世間体も気にしたのだろう。世間一般にこいのぼりは、男子が産まれてから五歳くらいまで揚げるもので、小学生になっても揚げる家などないからだ。しかし私は気にしなかった。そんな私を祖父だけは許容してくれた。祖父の家は広い庭があって、好きなところにこいのぼりを揚げることを許してくれた。当時祖父は、少しばかり山林も所有していたから、山へこいのぼりを揚げる竹を伐りに連れて行ってくれた。こいのぼりを揚げるには、かなり太く長い竹が必要である。近年では、鉄やステンレスの棒で代用するようだ。その方が竹よりも頑丈だが、やはりこいのぼりには昔ながらの太い節のある青竹が似つかわしい。祖父は鉈を持って、器用に山へ分け入った。そして毎年見事な青竹を見つけてくれた。おそらく祖父は、杣道の手入れも行なっていたに違いない。祖父との山歩きは、こいのぼりを揚げるのをやめても、中学一年くらいまで続いた。懐かしく楽しき想い出だ。

伐ってきた青竹のてっぺんには矢車を嵌め込む。矢車は、風車のように回転して格好良いが、別になくても良い。矢車は時に、吹流しやこいのぼりを巻き込んでしまうこともあって、そうなると滑車で降ろすことができなくなる。仕方がないから、節句が終わるまで放っておくか、いったん竹を倒して縺れを解くしかない。戦後の日本のこいのぼりは、概ね一番上に吹流し、順に真鯉、緋鯉、その後は子供の鯉を揚げるのが一般的であろう。最近では金銀あったり、色とりどり、奇抜な柄やデザインも増えている。さらにはこいのぼりに家紋が入っていたり、金太郎がしがみ付いた真鯉があったり、こいのぼりの隣に武者幟を揚げる金持ちもいる。金持ちというよりも、おそらくは可愛い孫のために、祖父母や親戚が競って豪華なこいのぼりをはためかせるのであろう。それこそが自慢であり、愛情の賜物といえよう。母に聞いたが、私も生まれた時に揚げてもらったこいのぼりは、真鯉が七メートルもあって、緋鯉、子鯉もたくさん連ねたそうだが、残念ながら、物心ついた時にはそのこいのぼりは何処へか失くなっていた。私が小学生になって揚げていたこいのぼりは、あらためて買って貰ったり、人から譲って貰ったこいのぼりであった。

こいのぼりは何といっても真鯉である。真鯉は別格の存在であり、こいのぼりは真鯉だけでも良いのである。どの家でも真鯉だけは、特別なものを揚げたいはずだ。金色に輝く真鯉もあれば、鱗が鶴の錦模様になっているもの、先に述べた金太郎鯉もある。私がこれまでに見た一般家庭のこいのぼりで、もっともその豪華さで感動したのは、地元の某市長が孫のために揚げていたこいのぼりであった。私の家から目と鼻の先にあったので、毎日見に行ったものだ。こいのぼりを挟むように二本の家紋入りの武者幟があり、黄金の矢車に、鮮やかな吹流し、十メートルはある黄金の鱗の真鯉と、螺鈿色の鱗の緋鯉、その下に普通ならば真鯉であろう鶴の鱗の金太郎鯉、そこから下は子供の錦鯉が二筋に分かれて五匹ずつ、吹流しを入れたら十四匹ものこいのぼりは、幼心に焼き付いて離れない。あれほどの高さの青竹をどうして調達したのかもわからないが、その華麗さと、風を全身に吸い込んで大空を泳ぐこいのぼりに、私は恍惚とした。

鯉幟は我が国独自の風習である。端午の節句に揚げるようになったのは、江戸時代中頃からだという。元々は鎌倉時代に、武家の武運長久と嫡子の健やかな成長を願い、武者飾りをしたのが、日本での端午の節句の祝いの始まりとされる。今でも端午の節句には菖蒲湯に入る人が多いが、花菖蒲は端午の花であり、一説では菖蒲を尚武とかけ、菖蒲の葉を刀剣に見立てて、男子の節句になったとか。それが江戸期になってさらに発展し、庶民の間でも、雛祭り同様に端午の節句も盛大なイベントとなってゆく。鯉は滝を昇り、長寿で生命力漲る魚である。滝を登った鯉は龍になるとも云われた。鯉のように力強く、逞しく育って欲しいという願いが、鯉幟という形になって込めらていったのである。鯉幟は幕末までは江戸を中心に関東の風習であって、上方では武者飾りをし、柏餅は食べたであろうが、鯉幟が上がるのは明治以降、盛んになったのは戦後かもしれない。元来鯉幟は和紙で作っていたが、後に風雨に強い様々な布地になり、時代が降るにつれて絹などの高価なものも作られたが、今ではナイロンが主流になっている。が、やはり伝統的な和紙や絹で仕立てた鯉幟は美しい。日本の伝統美のひとつである鯉幟が、もう少し世に脚光を浴びるために、私なりにその素晴らしさを伝えてゆきたい。

広重の江戸名所百景「水道橋駿河台」は、まさに端午の節句闌の江戸市中が描かれている。目の前に逞しい真鯉がどんと描かれており、神田川の向こうは奥へ奥へずっと、武家屋敷や商家がこぞって鯉幟や幟旗を揚げている。そして最奥にはそれを見下ろす富士のお山。広重らしい大胆な構図と、見晴るかす圧倒的な空間美は、今に見ぬ和やかな江戸市中の喧騒が聴こえてきそうである。この絵をみていると江戸の薫風が漂ってくる。どこまでも広く高い江戸の大空は、見る者を捉えて離さないであろう。

端午の節句の江戸市中は、広重の絵の如く、まことに壮観であったに違いない。最近はどこへ行ってもこいのぼりを見かけなくなった。東京のようなビル群の只中では望むべくもないが、広い空のある田舎でも、私の小さい頃に比べたら、皐月の空も寂しくなったものである。こいのぼりは今、絶滅の危機に瀕しているといっても、決して言い過ぎではあるまい。新緑眩しい頃、日本の空には色鮮やかなこいのぼりが似つかわしい。こいのぼりが廃れないように、これからも影ながら見守り、私なりにその魅力を伝えていきたい。私のささやかな願いである。