弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ばあちゃんの玉音放送

時の流れは早い。だが時間はいつの世も誰にでも平等であるはずで、早いか遅いかを感じるのは時代、年令、環境などで大きく変わることは間違いないだろう。戦時中は特に時間が長かったのではあるまいか。私は戦争を知らぬ世代であるがそんな気がしてならない。七十一回目の終戦の日を迎えた。あの日の正午に昭和天皇は自ら国民に向けて前代未聞の重大なる勅語を発せられた。

私の祖母は九十九歳で今も大変元気である。さすがに耳は遠くなり、私のことも少しずつ忘れているようだが、戦争のことは本当によく覚えている。祖父の中国への出兵、疎開先での暮らし、そして玉音放送のこと。戦争の時代を体験した身内の話を生きてるうちに聴くことができて本当によかった思う。

祖母は明るい性格で、あの時代の話をするのも決して悲観的ではない。故にそれがかえってリアルに聴こえて、戦争を知らない私も追体験できてしまう。中でも、八月十五日の翌日の話は印象的であった。家の近くには飛行場や兵舎など陸軍の施設があったため、度々空襲があり、B29の銀色の腹を何度も見たという。戦争末期には毎日空襲警報が鳴った。沖縄が米軍に占領され、次は南九州に上陸するという噂が絶えなかった。祖母は大八車に布団と最低限の家財道具を積みこんで、幼い娘二人を乗せ、乳飲み子の男の子を負ぶって、数キロ先の山の麓の洞窟へ疎開した。終戦までの二ヶ月近くをそこで過ごしたという。

そして昭和二十年八月十五日を迎えた。玉音放送は、疎開していた洞窟の近くのラジオのある家に皆で集まり直立して聴いたという。正直、昭和天皇が何を話されたのかわからないところもあったそうだが、戦争が終わったことはすぐにわかったという。夕方には帰宅すると、幸い家は焼けずに残っていた。

その翌日、近所の人と寄り合い、さてまずは当面の食糧をどうするかという話になった。そこで近所にあった陸軍兵舎へ行けば、何か食べ物があるかもしれないということになり、皆で向かった。兵舎は昨日までとは嘘のような静けさで、門番すら立っておらず、簡単に中へ入れたという。労せずに乾パンや野菜などを見つけることができた。その頃は誰もが、その日の飢えをどうしのぐかに明け暮れていたが、あるところにはあるものだと思った。残っている兵士もいたので食糧を分けてくれとお願いすると、あるだけ持っていけと言われ、一同歓喜したという。帰りに倉庫の近くの一室を通りかかった時、祖母は生涯忘れぬ光景を目の当たりにした。その部屋では将校が自決していたのだ。拳銃で頭を打ちぬいていたらしい。戦争が終わって自決した軍人はたくさんいたが、ほとんどが幹部や下士官の間に挟まれた、いわば中間管理職の立場の将校であったと聞くから、おそらく祖母の見た将校も同じような立場の方ではなかったかと思う。自決した将校を見てどう思ったのか聞くと、「とても哀しいことだった。ただそれだけだった。」としか祖母は言わなかった。そして、帰宅すると将校のことは忘れて、貰ってきた食糧を子供たちに食べさせた。それからこの国は祖母たちの世代が必死で建て直してくれたおかげで、七十一年間平和を享受できている。

祖母はこうも言った「戦争はいつの間にか始まっていた」と。国民の知らぬうちにいつのまにか始まって巻き込まれていったのだ。第一次世界大戦戦没者はほとんどが軍人なのに対して、第二次世界大戦戦没者のほとんどは一般人であった。終戦から七十一年。世界情勢は世界大戦前にとても似てきている。中東は燻り続け、欧州は難民問題や英国のEU離脱で混迷し、冷戦崩壊後の唯一の超大国アメリカの力は弱まりつつある。代わって南シナ海東シナ海での暴挙を繰り返す中国、クリミアを強引に併合したロシア、挑発行為を繰り返す北朝鮮、これから世界はどこに向かうのであろうか。

私は戦争を経験した人の言うことを全面的に信ずる。私は戦争を知らないのだから、知っている人の言うことは信じる。「戦争はいつの間にか始まる」のだ。

 

 

生き存えるということ

熊本地震から四ヶ月。ようやく最後の行方不明者の学生さんが帰ってきた。この四ヶ月間のご家族のことを考えると如何許りかと言葉もない。時は止まったまま、色も匂いも味もない世界ではなかったか。御冥福を祈り合掌。 五輪や甲子園に沸きかえる夏。一方で日航機墜落事故から三十一年目、そして終戦から七十一年目の夏。日本の八月は国民総供養のレクイエムの月だ。この世に生まれたものはいつしかすべて消え失せる。永遠などない。だからこそ人も動物も植物もその日その日を一所懸命に生きている。喜怒哀楽に一喜一憂する。それが生きるということだ。

私は神様やほとけさまを熱心に信仰してはいないが、日本各地の寺社を訪ねることや、仏像や神像を拝観することは好きだ。先月、上野の博物館で中宮寺の半跏思惟像を拝観した。中宮寺にはまだ行ったことがなく、初めてその微笑みと対面した。千四百年余りを生き存えてきた御仏。千四百年分の祈りの重みをずしりと感じる。

それにしても美しい。まさに美の極致である。とろりとした漆黒の肉体。蓮弁に乗せたしなやかな左足。右手は人差し指を顎に当てた思惟のポーズ。組んだ右足に重ねた左手はことに素晴らしい。ピアニストのような細く長い指。当時はピアニストはおろかピアノすらないのに、いったい誰をモデルとしたのか。そしてなんといってもあの微笑の唇。正面からみるとさほどわからないが、横からみると肉厚な艶かしい唇をしておられる。もしも目の前にいたら、私は思わず口づけしてしまうであろう。

私は推古時代の風習に明るくはないが、双つに結った髪形は男性とも女性ともわからない。ほとけさまには男女の別はないが、少年にも見えるし、母性的な面影もある。あるいは聖徳太子の少年の頃の姿であろうか。元は鮮やかな彩色があったとも聞くが、その想像図と比べてみても現代を生きる私たちには、やはりあの漆黒のお姿が中宮寺のほとけさまには似つかわしい。これまでも広隆寺の宝冠弥勒をはじめ半跏思惟像はたくさん拝んできたが、等身大の中宮寺のほとけさまには格別のインパクトがあった。

今まで私は中宮寺のほとけさまも弥勒菩薩と思っていたが、寺伝では如意輪観音であるという。しかし造られた時は未来を見据えた弥勒ではなかったか。私にはこの千四百年を生き存え、今を生きとし生けるものすべてが滅び去っても、この星と日本がある限り、あるいは大震災や戦災が襲わない間は、ずっと生き存えられるのだ。斑鳩の地にただ静かに坐して微笑んでいる。遠く未来を見つめ考えていらっしゃる。我らをどう導き救うことができるのかを。そして平和な今を、精一杯生きよと諭されている。やはり私には中宮寺のほとけさまは、お釈迦さまが入滅後、五十六億七千万年後に衆生を救うとされる未来仏にしか見えない。弥勒菩薩にしか見えなかった。

心の虫干し

立秋が過ぎた。連日五輪観戦で寝不足だが、さっそく競泳の王者の凄みのあるレースや体操男子団体の執念を目の当たりにして、心から感動する。感動することは人間の感情の筆頭とも言えるであろうか。感動すること、すなわち心を揺さぶられるという経験は、実のところかつての私には著しく欠乏していたように思う。あるいは自らなるべく表さないように努めてきたのかもしれない。世の浮き事は七歩くらい下がって見るように心がけてきた。これは或る意味臆病な生き方だと思うが、若い頃、暴走しては転んできたから、なるべく転ばぬように、物事を冷静に大局的に見定めたほうがいいと思うようになった。無理して飛び込むよりも、それが格好良いと決めつけているのである。私の場合はこういう生き方が合っている。ところが、三十半ばを過ぎた頃から、冷めた自制心を次第にこらえきれなくなることが増えてきた。ことにスポーツ観戦の時は顕著で、選手の活躍にしばしば涙する。そこには御来光のような透明で眩い真実がある。世間に背を向け裏街道を歩むことを好む天邪鬼の私が、仏に帰依した鬼子母神か阿修羅のように素直な眼と心でその瞬間を捉えるようになった。これはいいことなのだろうか。そう自問自答する間もなく涙腺は決壊するのだから、これが今の私なのだろう。今、私は四十。よもや歳を重ねてからのほうが感動することが多くなるとは自分でも少し意外である。だが一方では、勝てば官軍、負ければ賊軍の風潮のマスコミ、それに追従する輩には強烈な嫌悪感があり、やはり私は天邪鬼なのか。これは自分の性分であるため生涯変わらぬであろう。案外と私のような日本人は多いと信じたいのだが…。感動の沸点は千差万別であろうが、私は選手個々の勝利への過程と常人には計り知れない孤独で崇高な精神的境地に、観戦という形でほんの少しだけ勝手に触れさせていただく。これにより私の心身は曝涼される。どちらかといえばお天道様よりお月様を愛でる私が、ひととき天照の下に曝されるのだ。この虫干しは、自己の精神の浄化と果たすべき役割を遂行する上で相当な効果がある。それから激しく揺り動かされた心の振り子はしだいにゆっくりとなり、やがて真ん中で静止した時、私または裏街道へと戻ってゆく。