弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

赤坂離宮

残暑の中この連休は元赤坂の赤坂離宮に行ってきた。思えば中学一年の終わり頃、始めてこの場所を訪れた。二月の寒い夜、正門前に立って、日本にもこんな素晴らしい宮殿があるのかと驚き、心惹かれてから二十七年。ようやく積年の想いが叶って、その内部へ足を踏み入れたが、そこはやはり日本で唯一のパレスであった。

この離宮が完成したのは明治四十二年(1909)。大正天皇東宮御所として造営されたが、当初の予算をはるかにオーバーし、そのあまりの豪華さに明治天皇は「贅沢すぎる」とお怒りになったというが、さすがにこれだけの建築、百年を経た今では、赤坂の森にしっとりと落ち着いている。設計は片山東熊。東京駅を設計した辰野金吾と並ぶ明治近代建築の巨匠だ。他に京都と奈良の国立博物館東京国立博物館表慶館が片山の代表作である。いずれも外観はネオバロック様式で、重厚で絢爛たる建築は、西洋への劣等感から生まれた賜物であろう。一見そうしたものは感じさせない優美さだが、明治日本人の気迫が秘められている。赤坂離宮には鎧兜や桐の文様など、随所に日本古来の意匠が違和感なく配されている。この威容は世界に誇れるもので、日本の近代建築の先導役を果たしたといえよう。そしてこの赤坂離宮の落成したその時が、明治日本西洋化の集大成であったと思う。

赤坂離宮東宮御所として造営されたものの、大正天皇はその生涯で一度もお住まいになったことはない。御所としては昭和天皇が新婚時代に一時住まわれただけで、戦争が色濃くなってからは、あまり人が出入りすることはなかった。昔の写真や絵葉書をみると、正門や高いフェンスはすべて黒塗りであったが、戦後迎賓館に改修されたときに、今の純白に塗りかえられた。戦後は雨漏りや設備の老朽化が著しく取り壊しも検討されたが、やはり歴史的価値が高いため残ることになった。弾劾裁判所国会図書館を経て、東京五輪組織委員会本部が設置されたが、その時は室内のシャンデリアでは暗いため、シャンデリアに蛍光灯を取り付けるという無茶をやっていたようだ。その後、国際会議や国賓公賓を迎える機会も増えたため、国の迎賓館に改修された。最初に宿泊したのはアメリカのフォード大統領、それからエリザベス女王夫妻をはじめ、世界のVIPを迎えてきた。泰平の世になってようやくこの宮殿は日の目を見ることになったわけだ。今から七年前には本館、正門、主庭の噴水が国宝になった。赤坂離宮は皇室から国へ、そして日本国民の共有の財産となったのだ。これまでは年に数日だけ、抽選での公開であったが、今年から広く一般公開されるようになった。参観した日は三連休のこととて正門前から長蛇の列。予約をしてもずいぶん並ばせられて辟易したが、それでも一見の価値はあった。

赤坂離宮で以前から私がもっとも見たいと思っていたのが、「花鳥の間」の七宝である。「花鳥の間」は晩餐会が開かれる大食堂で、他の絢爛たる部屋に比べて、落ち着いた木の温もりを感じさせる部屋だが、よく見れば天井画や柱には精緻な彫刻が施されていた。壁には三十枚の花鳥の七宝焼が据え付けてある。耳をすますと、水鳥の羽音や小鳥の囀りが聴こえてきそうなほど繊細で美しい。この部屋に日本の自然の代名詞ともいえる「花鳥風月」の情趣を添えているこの七宝こそが、明治七宝界の巨匠、濤川惣助の作品だ。明治時代の七宝界は風前の灯であった。そこに彗星の如く、二人のナミカワが現れる。一人は東の濤川惣助、もう一人は西の並河靖之である。奇しくもこの両巨頭、字面は違えど苗字は同じナミカワであった。 

明治維新はあらゆる分野で変革をもたらしたが、美術工芸の世界も例外ではなかった。宮内省は時の工芸作家の作品を数多く買い上げ、宮中を飾る美術工芸の製作を依頼して、伝統工芸の保護育成と工芸作家の庇護奨励が図られた。明治二十三年(1890)には帝室技芸員制度が設けられ、卓越した技能と感覚を持つ工芸作家を任命した。彼らはその期待に応えるべく、帝室に相応しい造形と品格を備えた美術工芸品を生み出した。今でいう人間国宝に近い存在といえよう。その中から七宝という世界において、東の濤川惣助と西の並河靖之が同時代にあいまみえることになる。

並河靖之は幕末の弘化二年(1845)京都に生まれ、明治初年に七宝を始める。名古屋七宝の技法を会得して、伝統的な有線七宝の技法を駆使し、不可能と思われた黒色透明釉薬を開発する。この黒色透明釉薬を使った至宝が、現在皇室が所蔵する「七宝四季花鳥図花瓶」である。七宝焼は一歩踏み外せば低俗にもなりかねない危うさもあるのだが、これほどまでに気品漂う作品が世にあることが奇跡であり、七宝全体を高く底上げしていると言っても過言ではあるまい。前に一度この作品を見たことがあるが、全体に妖艶な黒光りを放ち、ちりばめられた極彩色の花鳥からは、その景色の中の薫風まで伝わってくるようであった。

一方の濤川惣助は、弘化四年(1847)下総国に生まれた。各地の七宝技術を研究した末に、ついに宿願の無線七宝という技術を編み出し、絵画的文様を七宝において実現した。惣助の作品は靖之の作品とは対照的に、静謐で地味だが、決して軽薄な印象ではなく周囲の風景と同化するが如くナチュラルな作品が多い。「花鳥の間」の三十枚はその極みであろう。

日本の七宝焼は愛知県海部郡七宝町(現在のあま市)が原産地といわれるが、万葉の頃にはすでに存在したという。中国より伝来したことは言うまでもない。そもそも七宝とは「七宝荘厳」という言葉からきており、仏教的色彩を帯び、宝玉をちりばめた美しいものを形容する言葉である。仏教経典の無量寿経では、金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙の七つ、法華経では、金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰の七つの宝玉を七宝と呼ぶ。例えば浄土系寺院では、堂宇を極彩色に彩ることがあるが、この極楽浄土を表す意匠こそ七宝荘厳を体現するものといえるだろう。

奈良県明日香村にある牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)からは日本最古の七宝とされる亀甲形の金具が出土している。この古墳は斉明天皇の陵墓といわれるが、女帝を彩る副葬品として一緒に埋葬されたのであろうか。正倉院には七宝鏡と呼ばれる「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」がある。正倉院で七宝の宝物はこの鏡のみであり、天平時代にはまだまだその技術も確立されていなかった。それだけ貴重なものであり、故に神の依代とされたのであろう。以前博物館で見たことがあるが、幾何学文様も彩色もとても美しいけれども、その妖しい輝きはどこか薄気味悪い呪術的なものを感じた。宇治の平等院鳳凰堂の扉止め金具の一部は、藤原時代の七宝である。藤原時代の七宝は数が少なく貴重なものだが、「極楽いぶかしくは、宇治の御寺をうやまへ」と謳われた平等院を彩ったのも、宜なるかなと思う。室町から戦国にかけてはいわゆる侘び寂びの流れとなり、七宝は一時廃れかけたが、復活するのは桃山末から徳川初期で、秀吉や徳川家にその華麗さが好まれた。戦乱がおさまり、世が安定すると人々は麗しさを求めるのであろうか。名古屋城御殿の襖の引き手、そして日光東照宮の唐戸金具、建物の装飾、刀の鞘や鍔に至るまで彩りを添えた。七宝は日本史の中で浮沈を繰り返し、不死鳥の様に生き残ってきたのである。

近世までの七宝は、鏨や金槌で彫金模様を打ち出し、釉薬を透して彫金模様が浮かび上がる「象嵌七宝」という技法であった。今日私たちが目にする七宝焼は、近代七宝の父と云われる梶常吉の研究から生まれたもの。享和三年(1803)尾張藩士の次男に生まれた梶常吉は、家督を継ぐことがないため、精魂傾けていた焼き物に没入した。日夜様々な焼き物について勉強していたが、元亀元年(1570)に刊行された古書から七宝焼を知り、その復元を企てる。しかし、一向にその技法がわからず途方に暮れていたところ、オランダから渡来した七宝焼と出会い、それを求めて研究した。ついにはそれを砕いて、七宝焼とは銅の素地に模様を金属で植線し、そこに釉薬を付して焼くという製法を解き明かすのである。その後もさらに研究を重ねて、有線七宝の技法を生み出した。有線七宝は、銅や金の胎に描いた下絵に沿ってリボン状の金属線を模様に細工して植線を行う。その線で釉薬の色を分け、焼成、研磨して仕上げる。近代七宝においてもっとも基本的な技法である。時を経て明治、並河靖之はこの有線七宝の技法を雲上の高みにまで押し上げたのだ。有線に対して無線七宝は、金属線を使わずに釉薬の色分けをする。明治十三年(1880)濤川惣助によって考案された。途中までは有線と同じ工程だが、植線を取り除き、その後まで消してしまうという技法で、省線七宝ともいわれる。

二人のナミカワが同時代に七宝という世界で、鎬を削ったライバルであったことに私は感動を覚えずにはいられない。同時代を生きたライバルであったからこそ、綺羅星の如き作品が生まれ、受け継がれたのだ。本人たちは果たしてライバルという意識があったのかはわからないが、神様は時としてこういう悪戯をする。赤坂離宮を彩る七宝は東のナミカワに軍配が上がったわけであるが、どちらが上ということはない。二人のナミカワが残した七宝はこれからも日本の宝であり、私たちは世界に誇るべきだろう。二人のナミカワの功績は永久に称えられよう。

 

天賦の奏に解かされて

今日は早くも重陽。残暑厳しい日が続いているが、夜もすがら虫たちの涼やかな合奏を聴いていると、近くに秋を感じてうれしく思う。この夏、紀尾井ホール三浦文彰君のヴァイオリンを聴いた。若くして溢れる才能を滾らせた、実に堂々たる彼のヴァイオリンをついにライブで聴くことが叶った。私にとっては、今年もっともエキサイティングでロマンティックな時間であった。私は心底胸を打たれると、しばし放心状態となり凍り付いてしまうことがある。凍り付く前に何とか文章にしようと試みるが、なかなかうまく言葉を紡げない。それは音楽であったり、絵画であったり、時に風景であったりする。今から七年前になるが、長い間憧れていた京都の高山寺へ初めてお参りした時も同じような気持ちになった。また昨年、敬愛する井伊直弼公の足跡を辿るべく、彦根を旅したのだが、やはり凍り付いてしまっている。何から文章を起こせばよいかわからないのである。簡単には語りたくない、語れない、大切に思えば思うほど書けないことがあるものだ。それは言い換えれば、言葉は余計で必要のないもの、私自身が納得して芯から感じ入っている証でもあった。こういう場合、生涯書けないかもしれないし、ある日ふと書くのかもしれない。そしてまた、三浦君のヴァイオリンは簡単に文章にできぬほど神韻縹渺たるものであった。

しかし、どうやらその三浦君のヴァイオリンが凍り付いた私をゆっくりと解かし始めたようだ。彼のヴァイオリンを聴けば聞くほどに溶解してゆく心地がする。そしてやっと少しずつではあるが、書いてみようという心持ちになってきた。無論、私の拙い文章力では、彼の迸る才能について何も言い表せないのは重々承知している。それでも書いてみようと思うようになったので少しずつ書いてみよう。

パガニーニはその超絶技巧を悪魔と契約し手に入れたと言われ畏れられた。人々は彼がヴァイオリンを奏でると十字を切ったとも言われる。しかし、三浦君のヴァイオリンはそういうものではない。低音は重厚でありながら、高音はどこまでも柔和で優しい。その音色は決して邪悪なものに憑かれた音ではない。喜び、哀しみ、花鳥風月、そして寂莫を切り裂く日本刀のような鋭さ。動はダイヤモンドの様に硬く、静は琥珀の様に柔らかい。聴衆を極限まで惹きつけておきながらも、何者も近づけぬ圧倒的なオーラがある。天賦の才を持ちながら、他の追随を許さないのは、弛まぬ努力と決意に人生を捧げているからであろう。彼のヴァイオリンからはそういうものが澎湃として湧き上がってくるのを、私は感じずにはいられなかった。

三浦君は両親ともにヴァイオリニストの家に生まれた。彼には生まれた時から傍にヴァイオリンがあった。幼少の体験はその後の人生において、多大な影響を及ぼすもの。私如きも、両親が離婚し、決して家庭円満な我が家ではなかったが、菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、今の今まで私が仏教に関心を寄せる出発点となったのは間違いない。これも一つの仏縁であったと思う。小学生から高校生にかけては、ピアノを少しばかりと吹奏楽部でクラリネットやアルトサックスを吹いていた。当時の私はひたすら楽器に専心した。青春は楽器を演奏することだったと言って良いだろう。この経験がクラシック音楽への誘いとなり、ほんの入り口には過ぎぬが、西洋音楽に関しては全くの無知ではない。

最初に自分で買ったクラシックがカラヤン指揮のベルリンフィルベートーヴェンの第五番とビゼーカルメンであった。これが私の音楽鑑賞の源である。小学五年生でカラヤンに惚れ込み、ベルリンフィルを聴きこんだものだ。自分でも演奏したことのある、バッハ、ベートーヴェンブラームスホルストは若い頃から本当によく聴いた。それからパガニーニショパンビゼーチャイコフスキードヴォルザークスメタナサンサーンス、リスト、ラフマニノフハチャトゥリアンはずっと好きだ。モーツアルトハイドンは何故か食わず嫌いであったが、大人になってから小林秀雄大岡昇平の文章を読んで、改めてじっくりと聴いてみると、やはり筆舌に尽くしかねるものを感じているところだ。これらの大作曲家についてはいろいろと思うところもあるので、これからは少しずつ入っていきたいとは思っているが、果たしてこの先どうなるかはわからない。私の音楽遍歴は極めて偏重で浅薄であるが、流されるようにその時々の心身が希求したものを聴いてきた。これからもそうなのであろう。

私自身が管楽器を吹いていたこともあり、弦楽器はほとんど踏み込めない領域にあった。中でヴァイオリンはオーケストラの花形。楽器自体が崇高に思えていたので、遠くから拝むといった風なのだが、個人的にはハイフェッツフランチェスカッティを愛聴してきた。私はその術中に嵌り、魔法にかけられたおかげで、すっかりヴァイオリンという楽器のプリンスに魅了されてしまった。そして今、三浦文彰君を知った。もう彼のヴァイオリンの虜である。

今回のコンサートで三浦君が演奏したのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調Op.64。ジュニアオーケストラとのコラボであったが、オケの少年少女たちもまた、三浦君に刺激を受けながらリードされて素晴らしい演奏。円熟とか卓越とかとはほど遠いのだが、むしろ初心で純真な奏は私には好ましかった。それからメンデルスゾーンである。この度の演奏を聴いて、私のメンデルスゾーンに抱いていたものは根底より覆えされてしまった。メンデルスゾーンにはこれまでさほどの関心もなく、金持ちボンボンの道楽の音楽くらいに思っていた。生ぬるい音楽というイメージだ。だが果たしてそんなものではなかった。これほどに荘厳なる悲哀を秘めた音楽であったのかと、今ではすっかりメンデルスゾーンに落ちてしまった。これも三浦君のヴァイオリンが教えてくれたのだ。私はどうもコンチェルトが好きで、ピアノやクラリネット、トランペット、ホルンなども本当に良いのであるが、世界三大ヴァイオリンコンチェルトに挙げられるこの曲を聴いて、個人的にはコンチェルトはやはりヴァイオリンに極まると思った。

私の逢いたい人や尊敬する人は歴史上の人物や作家など、その多くがすでに鬼籍の人ばかりなのだが、三浦文彰という天才と同時代に生きていることに、私は無上の喜びを感じている。彼の存在する時代を生きたことは、後世の人々に誇れる財産である。そう思える人は、好きな競馬の武豊騎手やスポーツ選手やアーティストにも何人かいるが、彼らは皆、およそ一般とはかけ離れた人智を超えた境地にいる。三浦文彰君もまたその中の一人である。これから彼のヴァイオリンはどうなっていくのだろう。とても湧く沸くしている。私に生ある限り、三浦君と同時代に共に在ることは、私の生き甲斐であり続けるだろう。三浦君のヴァイオリンは現在の私の精神を均衡に保つための最良薬なのである。

観音の里

近江にはずっと強い憧憬がある。歴史に想いを馳せるとき、私の心はいつも近江に向かう。古代より近江を制する者が天下人となった。近江宮を造った天智天皇も、それを廃都に追い込んだ弟の天武天皇も転機は近江の地であった。信長や秀吉は近江から天下取りの礎を築いたし、家康も近江は西国と東国を結ぶ蝶番と心得ていた。そして私が日本史上もっとも敬愛する井伊直弼のふるさと、彦根が近江の真ん中にある。

淡海の海 夕波千鳥汝が啼けば 心もしのに いにしえおもほゆ

このあまりに有名な人麻呂の歌を、私は中学二年の古典の授業で覚えた。歌を覚えてからしばらくは、茫漠たる琵琶湖は想像できても、果たして広大無辺な近江に近づくことはできなかった。だが、いつかは戦国の夢のあとや、幕末動乱を生きた人々を辿る旅をしたいと思っていた。後に白洲正子さんの「かくれ里」や「近江山河抄」を愛読するようになって、近江に少しずつ迫っていけるようになった半面、その奥の深さに気づき、圧倒されて、また遠ざかるといった感じである。近くて遠い。容易には掴めない。近江は私が生涯をかけても掴みきれぬ土地であることを思い知ることになった。謎めいた近江に、私は白洲正子と同じように取り憑かれている。

近江は仏像も光芒を放っている。奈良や京都のような洗練された感じはないが、近江のほとけさまは、寺で拝む木仏にも野山に憩う石仏にも言い様のないうぶさがある。それは奈良や京都の王侯貴族や権力者によって培われてきた仏教美術に対して、いかにも名もなき市井の人々の信仰によって造られて、守られたきた土着のほとけたちである。ことに湖北は古くから観音信仰厚きところで、高月の渡岸寺の十一面観音は有名だ。私にとっても観音像の中では一番であり、好きな仏像を挙げても五指に入る。この至高の観音さまが千年以上もひっそりと里人に守り継がれてきたことに私は胸が熱くなる。

先日、芸大美術館で「びわ湖・長浜のほとけたち」という展覧会を見てきた。長浜といえば、私などは真っ先に小谷城長浜城、賤ヶ岳や余呉湖を思い浮かべる。信長や秀吉の天下取りの舞台としてイメージするのだが、一方で長浜は観音の里としても昔から知られたところであった。昨今の仏像ブームも手伝い、東京でも近江の仏像展は何度か開かれており、この展覧会も二度目であった。 最近は上野公園の一角に、「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」なるスペースもできている。天海大僧正が江戸の鬼門の守護として建立した東叡山寛永寺。今の上野公園一帯は全山寛永寺の境内であった。西の比叡山から天台総本山をこの地に移した時に、琵琶湖に見立てたのが不忍池だ。蓮池に浮かぶ弁天堂は竹生島。そんな不忍池のほとりに、平成の今日、長浜の観音様がおられるというのも誠に心にくいが、実にこれ以上のロケーションは東京にはあるまい。

さても展覧会は圧巻であった。合計五十体近くもの仏像が居並ぶと、少々異様であったが、どのほとけさまも純朴な印象で、庶民に守れてきたあたたかみを感じた。なかでも石道寺の躍動感溢れる多聞天持国天は、生き活きとしてすばらしい。石道寺といえば、やはり十一面観音が有名だが、この展覧会の期間中、寺を守る屈強な二天が不在の近江で、待っておられる観音さまは、さぞや心細かろうと思ったりした。

湖北の菅浦を紹介する展示もあった。肉厚の阿弥陀如来座像は力士の如く逞しかった。長くつらい湖北の冬に閉ざされた人々は、あの阿弥陀さまに身も心もすがりつき、心細さの拠り所としたことであろう。荒々しいけれどもどっしりと力強い。きっと阿弥陀さまも人々を暖かく包んでくださったに違いない。「菅浦絵図」も見ることができた。鎌倉時代の菅浦地区の自治境界線を示したこの絵図は、白洲さんが「かくれ里」で紹介されている。白洲さんはその絵図に惹かれて、湖北や菅浦に行ってみたくなったというが、本当に一刷毛で湖北の風景を表現したこの絵図を眺めていると、私も近いうちに菅浦に行って、村の境界線や須賀神社淳仁天皇の伝説、そして目と鼻の間に望む竹生島を見てみたいと思った。

展覧会の最後まで来て私がもっとも感銘を受けたのは、安念寺の芋観音である。朽損仏と呼ばれるもので、手先や腕、胴体が欠けて原形はほとんど留めずに朽ちてしまっており、掘り出したばかりの芋の様なお姿のため芋観音と呼ばれる。安念寺はもともと七堂伽藍を持つ天台宗の大きな寺院であったが、姉川、小谷城と二度の合戦を経て、ついに賤ヶ岳の合戦の折にその伽藍は焼失した。しかし、仏像は信仰の篤い村人たちが、寺から運び出して、川底や田んぼの中に埋めて罹災から守ったとのこと。戦国の世が終わってずっとあとの江戸文政年間に、田の中に埋められていた諸仏を子孫たちが掘り出して、余呉川で洗い清め、借りのお堂を建てて仏像を安置したのが今の安念寺だという。こういう時を超えた村人の信仰心に、私は感動せずにはいられない。これこそが日本仏教本来の信仰のかたちだと思う。歴史好きはついつい戦国乱世に、ある種の浪漫を感じるもので、名におう私もその一人であるが、戦は信仰も奪う。こういうものを見ると、やはり平和を守ることは大切なことだとつくづく思う。それは伝承や信仰を、日本文化をも守ることであり、そこに生きる人々を守ることである。  

近江は石の都でもある。日本国中これほど石の文化が根付いて、穴太衆の卓越した石工技術を継承し、全国に派遣してきた土地もあるまい。一方で寒冷かつ湿潤な風土である近江では、あたたかな木の文化もまた大きく育まれてきた。木地師と呼ばれる木工人が、日本の衣食住を根底から支えていた。近江を大きく分ければ、琵琶湖を中心に湖東、湖南、湖西、湖北の四つの地域になり、それぞれが風土や色彩が微妙に異なる仏国土を形成している。近江は広い。或いは信楽甲賀、葛川や比良山の麓、伊吹山、若狭の入り口までも加えるともう宇宙である。私は近江に憧れてはいるが、専門家ではなく、研究をしているわけではない。近江の歴史と土着の風習と信仰の賜物にただただ興味津々なのである。さながら日本という国の縮図をそこに見出す様だと言いたいが、そんな簡単な言葉で片付くようなところではない。白洲正子は「近江は奈良や京都の舞台裏」だと言った。実に当を得ていると思う。次はいつ、私は近江に近づけるであろうか。

ターニングポイント

未来の人々に、平成という時代はどんなふうな印象を与えるのだろう。今私達の生きる平成時代は、ITから派生した第三、第四の産業革命があり、世界大戦ではないが方々で終わりなき小競り合いを繰り返し、ある程度まで国家が成熟すると環境とか個々の精神とかの問題に突き当たっている。我が日本も、 頻発する大災害、超高齢化社会社会保障問題、格差、貧困、教育、多発する犯罪等々、ある意味においては負のラビリンスから抜け出せないでいる。歴史上その時々で常に難局はあるものだが、ここまで問題が林立して、何一つ打開の糸口が見つかっていないというのが現状だ。これはもう「お上」のみに任せておけばいい問題ではなく、国民一人ひとりが真面目に考えなくてはいけない。確かに我々は大政を政府に委任しているわけであるが、解決できていない以上は各個人においても、できることから何かを取り組んでいかなくては、経済財政のみではなくて、いずれ本当にこの国は破綻してしまうであろう。

こういう折、天皇陛下が生前の御退位についてお気持ちを内外に表明された。陛下が自ら国民に向けて、象徴天皇として、また天皇家という日本一の名家の家長として、そして何よりも一人の人間として率直に示されたお言葉に、私は大きな感銘を受けた。放送を拝聴したあと、改めて文章を拝読したが、ここ最近読んだどんな文章よりも私の心に響いた。

だが、正直いうと私は、最初に陛下が御退位を考えておられるとの報道を聞いたときは複雑であった。憲法皇室典範の問題のみならず、明治以降は退位の例がない。考えが古いかもしれないが、明治以降の歴代天皇崩御されるまで天皇であった。この国体というものが崩壊しかねない。天皇の権威も失墜はせずとも薄れてしまうのではないか。近い将来、天皇定年制になると、いつか退位を望まれない天皇がいたならばどうなるのか。天皇も一人間と考えると、退位が本意ではない天皇も現れる可能性はある。さらには、果たして今後この議論がまともに進むのかという懸念もあった。どこぞの学者が、保元の乱の二の舞になる恐れがあるなどと言ったが、それはあまりに時代錯誤にしても、私個人としては、生前に譲位されるほうが、天皇制存続の危機をいずれは助長させはしないだろうかと思った。

しかしながら、天皇陛下がご即位以来、約三十年の間、皇后陛下と共にただひたすらに日本国民の安寧と世界の平和を祈念されてきたことは、全国民が知っていることである。これだけ、国民のために真摯に尽くされてきた天皇陛下のお気持ちを、今度は私たち国民がしっかりと受け止めて、切なる願いを叶えて差し上げたいとも心から思う。本当に心から。陛下は年齢のことだけではなく、これから先、男系男子の皇位継承を維持し、いずれ悠仁親王がスムーズに御即位できるためにも、先例として御自ら発信されたのではあるまいか。宣なるかな、世論調査では圧倒的に生前御退位に賛成との結果が出た。

平成生まれが活躍する昨今、昭和から平成へ変わった日のことを知らない世代も多い。私は昭和五十年の暮れに生まれた。昭和が終わった日は中学一年の三学期であったので、さすがによく覚えている。昭和が終わる半年ほど前から、昭和天皇のご容態について、ニュースでは毎時、御熱や御脈を報じ続けた。今上陛下は摂政にはなられずに、皇太子として、天皇の国事行為を代行されていた。そして激動の昭和は六十四年と七日で幕を閉じる。昭和天皇崩御されるとすぐさま今上陛下は即位され、三種の神器を継承する「剣璽等承継の儀」へ臨まれた。ここから平成元年二月二十四日の御大葬まで日本は色のない世界であったように記憶している。どんよりとした黒白の世界。御大葬当日も冷たい雨の日であった。皇居から葬場殿のある新宿御苑まで、葬列はゆっくりと進む。大喪儀以外ではみだりに奏することが憚れている「哀の極(かなしみのきわみ)」という葬送曲が、大正天皇の御大葬以来、自衛隊皇宮警察音楽隊によって吹奏されて、沿道では多くの国民が雨の中見送っていた。 この暗く哀しい昭和が終わった日は、当時思春期の私にとって強烈な印象を残しており、天皇という存在、皇室の歴史、ひいては日本の歴史についてもっと深く学びたいと思うきっかけになった。また人間が亡くなるということはどういうことなのかと考えたり、先の大戦のことも天皇裕仁を通して少しずつ輪郭を掴み、さらに踏み込むようになったのである。この時が私の人生の最初のターニングポイントであった。

御大葬が終わると両陛下や皇族方は一年間喪に服されたが、御大葬の翌日からは急に色が戻ったような印象であった。そして翌平成二年十一月十二日。今上陛下の即位の御大礼は、まるで昭和三十九年の東京五輪のときのように雲ひとつない秋晴れの日で、あれほどに色鮮やかな日を私は知らない。即位礼での陛下は、日本国憲法の定めに従い象徴としての務めを果たしたいと仰せであった。パレードでの両陛下の笑顔は忘れられない。新しい時代が始まったのだとつくづく実感したものだ。

それからまもなく三十年。今、日本という国が、平成時代最大の転換期を迎えている。日本の歴史の転換期には必ず天皇という存在があった。大化改新壬申の乱摂関政治から院政期にかけて、保元平治の乱承久の乱建武の新政明治維新から先の大戦の終わりまで。大まかに挙げてもこれだけある。もっとも、室町中期から幕末までは蚊帳の外に置かれたような時もあるにはあったが、その権威はいつの世も絶対であった。

このたび天皇陛下が示された、生前御退位のお気持ちは、我ら平成という時代を生き、平成を作ってきた日本人皆で温かく受け止めたい。平成を見守り続けてきた両陛下への感謝とともに。対岸の火事とか絵空事とか思うのが日本人は世界でも得意な人種だろう。シラを切るのが抜群にウマイのだ。一方で地域を愛し、内外を問わず人に対して心より親切に接する、おもてなしの得意な民族でもある。日本人は天皇陛下の生前御退位という歴史的な出来事をもっと真剣に見つめて考えるべきだろう。今、我々は歴史の大きな転換期を生きている。

ばあちゃんの玉音放送

時の流れは早い。だが時間はいつの世も誰にでも平等であるはずで、早いか遅いかを感じるのは時代、年令、環境などで大きく変わることは間違いないだろう。戦時中は特に時間が長かったのではあるまいか。私は戦争を知らぬ世代であるがそんな気がしてならない。七十一回目の終戦の日を迎えた。あの日の正午に昭和天皇は自ら国民に向けて前代未聞の重大なる勅語を発せられた。

私の祖母は九十九歳で今も大変元気である。さすがに耳は遠くなり、私のことも少しずつ忘れているようだが、戦争のことは本当によく覚えている。祖父の中国への出兵、疎開先での暮らし、そして玉音放送のこと。戦争の時代を体験した身内の話を生きてるうちに聴くことができて本当によかった思う。

祖母は明るい性格で、あの時代の話をするのも決して悲観的ではない。故にそれがかえってリアルに聴こえて、戦争を知らない私も追体験できてしまう。中でも、八月十五日の翌日の話は印象的であった。家の近くには飛行場や兵舎など陸軍の施設があったため、度々空襲があり、B29の銀色の腹を何度も見たという。戦争末期には毎日空襲警報が鳴った。沖縄が米軍に占領され、次は南九州に上陸するという噂が絶えなかった。祖母は大八車に布団と最低限の家財道具を積みこんで、幼い娘二人を乗せ、乳飲み子の男の子を負ぶって、数キロ先の山の麓の洞窟へ疎開した。終戦までの二ヶ月近くをそこで過ごしたという。

そして昭和二十年八月十五日を迎えた。玉音放送は、疎開していた洞窟の近くのラジオのある家に皆で集まり直立して聴いたという。正直、昭和天皇が何を話されたのかわからないところもあったそうだが、戦争が終わったことはすぐにわかったという。夕方には帰宅すると、幸い家は焼けずに残っていた。

その翌日、近所の人と寄り合い、さてまずは当面の食糧をどうするかという話になった。そこで近所にあった陸軍兵舎へ行けば、何か食べ物があるかもしれないということになり、皆で向かった。兵舎は昨日までとは嘘のような静けさで、門番すら立っておらず、簡単に中へ入れたという。労せずに乾パンや野菜などを見つけることができた。その頃は誰もが、その日の飢えをどうしのぐかに明け暮れていたが、あるところにはあるものだと思った。残っている兵士もいたので食糧を分けてくれとお願いすると、あるだけ持っていけと言われ、一同歓喜したという。帰りに倉庫の近くの一室を通りかかった時、祖母は生涯忘れぬ光景を目の当たりにした。その部屋では将校が自決していたのだ。拳銃で頭を打ちぬいていたらしい。戦争が終わって自決した軍人はたくさんいたが、ほとんどが幹部や下士官の間に挟まれた、いわば中間管理職の立場の将校であったと聞くから、おそらく祖母の見た将校も同じような立場の方ではなかったかと思う。自決した将校を見てどう思ったのか聞くと、「とても哀しいことだった。ただそれだけだった。」としか祖母は言わなかった。そして、帰宅すると将校のことは忘れて、貰ってきた食糧を子供たちに食べさせた。それからこの国は祖母たちの世代が必死で建て直してくれたおかげで、七十一年間平和を享受できている。

祖母はこうも言った「戦争はいつの間にか始まっていた」と。国民の知らぬうちにいつのまにか始まって巻き込まれていったのだ。第一次世界大戦戦没者はほとんどが軍人なのに対して、第二次世界大戦戦没者のほとんどは一般人であった。終戦から七十一年。世界情勢は世界大戦前にとても似てきている。中東は燻り続け、欧州は難民問題や英国のEU離脱で混迷し、冷戦崩壊後の唯一の超大国アメリカの力は弱まりつつある。代わって南シナ海東シナ海での暴挙を繰り返す中国、クリミアを強引に併合したロシア、挑発行為を繰り返す北朝鮮、これから世界はどこに向かうのであろうか。

私は戦争を経験した人の言うことを全面的に信ずる。私は戦争を知らないのだから、知っている人の言うことは信じる。「戦争はいつの間にか始まる」のだ。

 

 

生き存えるということ

熊本地震から四ヶ月。ようやく最後の行方不明者の学生さんが帰ってきた。この四ヶ月間のご家族のことを考えると如何許りかと言葉もない。時は止まったまま、色も匂いも味もない世界ではなかったか。御冥福を祈り合掌。 五輪や甲子園に沸きかえる夏。一方で日航機墜落事故から三十一年目、そして終戦から七十一年目の夏。日本の八月は国民総供養のレクイエムの月だ。この世に生まれたものはいつしかすべて消え失せる。永遠などない。だからこそ人も動物も植物もその日その日を一所懸命に生きている。喜怒哀楽に一喜一憂する。それが生きるということだ。

私は神様やほとけさまを熱心に信仰してはいないが、日本各地の寺社を訪ねることや、仏像や神像を拝観することは好きだ。先月、上野の博物館で中宮寺の半跏思惟像を拝観した。中宮寺にはまだ行ったことがなく、初めてその微笑みと対面した。千四百年余りを生き存えてきた御仏。千四百年分の祈りの重みをずしりと感じる。

それにしても美しい。まさに美の極致である。とろりとした漆黒の肉体。蓮弁に乗せたしなやかな左足。右手は人差し指を顎に当てた思惟のポーズ。組んだ右足に重ねた左手はことに素晴らしい。ピアニストのような細く長い指。当時はピアニストはおろかピアノすらないのに、いったい誰をモデルとしたのか。そしてなんといってもあの微笑の唇。正面からみるとさほどわからないが、横からみると肉厚な艶かしい唇をしておられる。もしも目の前にいたら、私は思わず口づけしてしまうであろう。

私は推古時代の風習に明るくはないが、双つに結った髪形は男性とも女性ともわからない。ほとけさまには男女の別はないが、少年にも見えるし、母性的な面影もある。あるいは聖徳太子の少年の頃の姿であろうか。元は鮮やかな彩色があったとも聞くが、その想像図と比べてみても現代を生きる私たちには、やはりあの漆黒のお姿が中宮寺のほとけさまには似つかわしい。これまでも広隆寺の宝冠弥勒をはじめ半跏思惟像はたくさん拝んできたが、等身大の中宮寺のほとけさまには格別のインパクトがあった。

今まで私は中宮寺のほとけさまも弥勒菩薩と思っていたが、寺伝では如意輪観音であるという。しかし造られた時は未来を見据えた弥勒ではなかったか。私にはこの千四百年を生き存え、今を生きとし生けるものすべてが滅び去っても、この星と日本がある限り、あるいは大震災や戦災が襲わない間は、ずっと生き存えられるのだ。斑鳩の地にただ静かに坐して微笑んでいる。遠く未来を見つめ考えていらっしゃる。我らをどう導き救うことができるのかを。そして平和な今を、精一杯生きよと諭されている。やはり私には中宮寺のほとけさまは、お釈迦さまが入滅後、五十六億七千万年後に衆生を救うとされる未来仏にしか見えない。弥勒菩薩にしか見えなかった。

心の虫干し

立秋が過ぎた。連日五輪観戦で寝不足だが、さっそく競泳の王者の凄みのあるレースや体操男子団体の執念を目の当たりにして、心から感動する。感動することは人間の感情の筆頭とも言えるであろうか。感動すること、すなわち心を揺さぶられるという経験は、実のところかつての私には著しく欠乏していたように思う。あるいは自らなるべく表さないように努めてきたのかもしれない。世の浮き事は七歩くらい下がって見るように心がけてきた。これは或る意味臆病な生き方だと思うが、若い頃、暴走しては転んできたから、なるべく転ばぬように、物事を冷静に大局的に見定めたほうがいいと思うようになった。無理して飛び込むよりも、それが格好良いと決めつけているのである。私の場合はこういう生き方が合っている。ところが、三十半ばを過ぎた頃から、冷めた自制心を次第にこらえきれなくなることが増えてきた。ことにスポーツ観戦の時は顕著で、選手の活躍にしばしば涙する。そこには御来光のような透明で眩い真実がある。世間に背を向け裏街道を歩むことを好む天邪鬼の私が、仏に帰依した鬼子母神か阿修羅のように素直な眼と心でその瞬間を捉えるようになった。これはいいことなのだろうか。そう自問自答する間もなく涙腺は決壊するのだから、これが今の私なのだろう。今、私は四十。よもや歳を重ねてからのほうが感動することが多くなるとは自分でも少し意外である。だが一方では、勝てば官軍、負ければ賊軍の風潮のマスコミ、それに追従する輩には強烈な嫌悪感があり、やはり私は天邪鬼なのか。これは自分の性分であるため生涯変わらぬであろう。案外と私のような日本人は多いと信じたいのだが…。感動の沸点は千差万別であろうが、私は選手個々の勝利への過程と常人には計り知れない孤独で崇高な精神的境地に、観戦という形でほんの少しだけ勝手に触れさせていただく。これにより私の心身は曝涼される。どちらかといえばお天道様よりお月様を愛でる私が、ひととき天照の下に曝されるのだ。この虫干しは、自己の精神の浄化と果たすべき役割を遂行する上で相当な効果がある。それから激しく揺り動かされた心の振り子はしだいにゆっくりとなり、やがて真ん中で静止した時、私または裏街道へと戻ってゆく。