弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 總持寺

これまで日本各地の寺を訪ねてきた。私は初めて訪れる土地に行く前は、仕事であっても、遊びであっても、必ずその土地の地図を見る癖がある。土地の歴史や史跡、寺社を調べて、時間が許せばちょっと訪ねてみようと地図を広げる。思えば私は地図を見ることは幼い頃からの趣味であった。唯一の趣味といえるだろう。歴史を学ぶこと、史跡や寺社を訪ねること、読書、美術鑑賞などは、自身の明日への糧として培っているものであり、趣味ではない。この夏からは茶の湯の稽古をはじめたが、茶の湯は心身修養であり、決して趣味ではない。地図は気楽で楽しい。眺めているだけで、私はいつでもその場所へ行ける。日本地図も世界地図も飽くことなく延々と眺めていたい。この本山を巡る旅も、地図を眺めながら目的のお寺を訪ねるだけではなく、時に道草を食いながらになるだろう。

川崎大師を後にして、私とT君は鶴見の總持寺へ向かう。私もT君も方々の寺を訪ねてきたが、總持寺にはついぞ行ったことがない。私はかつて横浜の磯子に住んでいたが、一度も行く機会がなかった。電車の窓や首都高横羽線から總持寺の大屋根が見える度に、横浜にもあんな大寺があるのかと感心していた。そのあと都内へ移ったが、總持寺は今の私の住まいからは、中途半端な位置にあるのだ。都心部の寺ほど近くもなく、多摩地区よりもアクセスが不便。私の家から京浜地区には品川方面へ回るか、南武線で川崎へ出るか、いずれも回り道なのである。そしてどうせ横浜方面へ出るならと、鶴見を通り越して鎌倉へ向かってしまう。でも、總持寺永平寺と並ぶ曹洞宗大本山であることは知っていたので、どうしたって行かねばと思っていた。 鶴見駅の周辺は今では京浜工業地帯の真っ只中であるが、江戸の頃は海を臨む東海道筋であり、少しばかり寺社が点在したが、静かな漁村であった。ここより少し横浜方面へ行くと生麦がある。幕末、文久二年八月二十一日、薩摩藩国父の島津久光率いる行列が、東海道を西へと上っていた。久光は幕政改革を唱え意気揚々と江戸へ乗り込んだが、目論みはあえなく潰えてしまい、失意の道中であった。そんな鬱屈した行列と、横浜の居留地から、馬を駆った四人の外国人がすれ違う。四人は川崎大師へ向かうために東海道を下っていたという。薩摩藩の供回りが下馬するように言ったが、相通じず、四人はそのまま乗馬で進行、その後、あまりに藩士が激高するので引き返そうとしたところ、いきなり藩士数人が斬りかかり、乗じて銃声が響いた。女性一人は流れ弾がかすめたが無傷で、何とか居留地へ舞い戻ったが、他三人は負傷。そのうち英国商人のチャールス・リチャードソンが深手を負い死亡した。これが生麦事件である。この事件は薩英戦争の火種となり、英国は徳川幕府にも多額の賠償金を請求。幕府瓦解のいったんとなったのは間違いない。この頃から、このあたりの景色も様変わりしていく。横浜開港後は急激に開発が進み、東海道は文字通り明治維新の大動脈となっていった。明治五年(1872)新橋横浜間に鉄道が開業し、鶴見駅が設置されたことも、このあたりの都市化に拍車をかけた。それから百五十年余り、今では鶴見地区は日本を代表する工業地帯となっている。

話もついつい道草を食ったが、そんなところに日本の禅宗の一翼を担う曹洞宗大本山總持寺の伽藍が甍を並べている。ここは横浜屈指の大寺院である。総門を入り、緩やかに坂を上がると、堂々たる三門が高く聳えている。通称鶴見が丘と呼ばれる山上は、そのまま天へと抜けるように広大で、七堂伽藍が整然と配されている。いかにも禅宗大寺院の風格を備えているが、それに威圧されるというよりも、何か心身をズドンを打ち抜かれるような感覚だ。残暑厳しい中にお参りしたが、境内は意外に緑が多く、禅宗大本山の霊気が涼やかな風を運んでくる。道元禅師によって開かれた曹洞宗は、四世螢山禅師によって広められた。道元は越前に永平寺を開き、螢山は能登總持寺を開いた。 私は二十年ほど前に能登總持寺祖院を訪ねたことがある。どんよりとした暮れの寒い昼さがりであった。日本海は冬の荒々しい波飛沫が、繰り返し岸壁に押し寄せていた。そんな日であったからか、祖院の境内は静寂であった。その時は曹洞禅にさほどの関心もなく、一回りしただけであったが、静かな山内は清清しく、いかにも北陸の寺を思わせる力強くも楚々とした佇まいが印象的であった。付近には門前町というより、寺内町といった風の町並があり、あの地域の人にとって總持寺は今も大きな存在であることがうかがえた。

開山の螢山禅師は鎌倉時代末の文永五年(1268)越前国坂井郡多禰というところに生まれた。弘安三年(1280)十三歳で永平寺二世の孤雲懐奘について得度し、三世の徹通義介について修行をつんだ。十八歳の時、大野の宝慶寺の寂円に参じ、京の万寿寺東福寺さらには紀州の興国寺で、五山派臨済禅を学んだ。やがて越前に戻り、加賀大乗寺に入りさらに禅の修行に打ち込む。一度、阿波国の城満寺に住したが、三度越前へ戻り、大乗寺二世となった。四十三歳で大乗寺を退き、加賀の浄住寺に入ったが、正和二年(1313)熱烈な支持者である能登の滋野信直夫妻に寄進された土地に永光寺を開いた。ここまで見ても流転の僧といった感があるが、曹洞禅のみではあきたらず、臨済禅も学ぶなど、この螢山という人はとても広い心の持ち主ではなかったか。ここに曹洞宗が広がり、今では日本仏教第二位の檀信徒を抱えることになる萌芽があったと思う。

では總持寺はいかにして開かれたのだろうか。かつて奥能登の櫛比庄に霊験あらたかな観音を祀る諸嶽寺という寺があった。元享元年(1321)四月十八日の晩、この寺の住職定賢は不思議な夢を見る。「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と観音菩薩に告げられた。その五日後、能登の永光寺で坐禅をしていた瑩山も同じようなお告げを聴いた。「教院を禅院にするために、一寺を与えよう」と。教院とは諸嶽寺のことで、当時は真言律宗であった。螢山はかねてよりここも禅院にしたいと念じていたという。夢の中で螢山は、諸岳寺へと誘われ、多くの僧や白山権現などの神々に迎えられる。螢山は思わず「総持の一門八字に打開す」と唱えた。しばらくして螢山は諸嶽寺を訪れ、定賢と互いに見た夢告が符合することに感動し、定賢は一山を寄進した。螢山はこれを快諾し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と、寺号を仏法(真言)が満ち保たれている総府として「總持寺」、山号は諸嶽寺にちなんで「諸嶽山」とした。これが總持寺由緒である。以来、五百九十一年もの間、永平寺と並ぶ曹洞禅の道場として能登の地にあった。厳冬期日本海から吹きすさぶ風雪に耐えて、ひたすらに修行する雲水たちの姿が偲ばれる。曹洞宗では開祖で永平寺派派祖の道元を高祖、螢山派派祖の螢山を太祖と尊称する。曹洞宗に禅の厳しくも清浄な息吹を感じるのは、永平寺總持寺も北陸という茫漠の僻地で育ってきたからに他ならないと私は思う。

この日私たちも、修行僧の一人に案内を請うた。盆正月や大きな行事がなければあらかじめお願いしておくと、毎日定時に雲水が諸堂を案内してくれる。この案内が実に丁寧で気持ちがよかった。これも修行なのだろう。巨大伽藍を一時間ほどかけて一巡するが、總持寺の由緒から、雲水たちが日一日をどのように生きているのか、ほんの僅かばかり垣間見ることができる。まずは有名な百間廊下だ。長さ百六十四メートルもあり端から端が霞んで見える。廊下は雲水たちが毎日雑巾がけするため鏡のように輝いている。早い人はここをわずか二十秒ほどで韋駄天の如く駆け抜けるらしい。これだけでも凄いが、雲水たちの雑巾がけは諸堂をつなぐ回廊を一巡するというのだから、私など聞いただけで息が切れそうであった。上山したばかりの雲水はまずこの雑巾がけだけで、満身創痍だろう。だが毎日毎日繰り返すことで少しずつ身体は慣れていき、ひと月もやれば体力も備わってきて、こなせるようになるという。何事も鍛錬次第で人間はこなせるようになるのだと思うが、やはりある程度の基礎体力や気力がないと成せぬこともある。雲水たちはだいたいが十代後半から三十代前半くらいに見える。若さが成せることもあろう。そもそも彼らは上山の日に、屋外で二時間ばかり立ち尽くしたまま、上山の許しを待つのだという。事前に上山願は届けてあるので、これは儀礼的なものだというが、夏の灼熱の下でも、しんしんと降る雪の日でも、新入りの雲水は上山許可を寺の外でひたすら待つ。ここからもう試されているのだ。ここで根をあげるようではとても修行はつとまらない。これは永平寺も同じだと聞く。越前の冬はさらに過酷で想像を絶する。私たちを案内してくれた修行僧も、今年二月に上山したとか。誰もが通る最初の行を経て半年。眉目秀麗でおそらくは二十代後半だろうと思うが、堂々落ち着き払っている。現代社会はいくつになっても浮き足立っている人が多く、何おう私などその典型であるが、ここにいる雲水たちにはそういうモノは感じない。人生は苦難の連続で、迷い道ばかりだが、そういう時にどうすれば、自分の道を見出して、歩き続けることができるのだろうか。人はしばしばこんなことを考え、試し、また転ぶ。そんな時に一番求められるものは、冷静さと待ちの姿勢ではないかと私は思う。結果はすぐには出ないことが多い。待つこともまた人生だ。その待ちの間に良い考えが浮かんだり、或いは風向きが変わる。止まぬ雨はなく、吹く風も決して一定ではない。昔から船乗りは風待ちをやった。自分にとって追い風が吹くまでは、じっと待つのだ。私は雲水たちと接して、自分は出家はせずとも彼らの振る舞いからそういうものを感じた。

百間廊下の真ん中に中雀門があり、そこからちょうど正面にこの寺の本堂である仏殿が屹立している。入母屋二重屋根の中国風の禅宗様式で、大正四年建立というが、百年もたてばさすがに古色蒼然としてきて、七堂伽藍の中心にどっしりと佇んでいる。本尊は釈迦牟尼如来。ここでは月に二度祈祷を行っているらしいが、堂内は一般には非公開で、修行僧も滅多に入ることはできない特別な場所だという。

百間廊下を突き当たると大僧堂がある。この大僧堂こそが、總持寺の禅の根本道場となる場所だ。雲水たちが起居し、食事も、朝夕の坐禅もここで行う。雲水一人の暮らしのスペースは起きて半畳寝て一畳。ここで生きるにはこれだけで十分なのだ。内部はひたすら禅の道で修行する者以外は入れぬ神聖な場所のため、私たちは敷居の外から見学させてもらった。日中は誰もいないのだが、昼でも薄暗い堂内は清浄な空気に満ち、修行僧たちの秘められた根気と禅道に打ち込む静かなる息遣いが染みついている。ここでは多い時には百五十人もの修行僧が寝起きするらしい。無論、エアコンなどなく、夏は蒸し暑く、真冬は極寒であろう。さらに夏場は蚊が多く出るそうで、蚊と線香の煙の苦しみもあると聞かされた。

雲水たちは毎朝四時の振鈴を合図に起床し、顔を洗うと朝の坐禅。それから朝課という朝の勤行が大祖堂である。この間雲水たちの食事を司る典座寮の修行僧は朝食を作る。ここでは食事を作ることも修行で、もちろん食事をいただくことも修行なのである。朝食は粥と胡麻塩と漬物のみ、雲水たちは整然と自分の畳の上に正座し、粥をすする音も、漬物を噛む音もたてずにいただく。昼と夜はそれに多少煮物などの小鉢がつくが、無論、肉魚はない。そして時々、カレーやカレーうどんがお昼に出ることもあると案内してくれた雲水は教えてくれた。それから總持寺では、雲水が檀信徒などの客あしらいから、寺務所での作業、諸堂案内まで行うため、風呂には毎日入るが、一方の永平寺は風呂は月にわずか二、三度だという。朝は寺内の掃除や寺務所での雑務、檀家の案内、諸堂拝観の案内、こういうことはすべて作務になるのだろう。その他、仏道、禅道の勉学、僧として身につけねばならぬ教養、学問、所作、戒律、禅問答、年中行事、時には托鉢まで、睡眠中以外は一日中何かしている。そしてあとはひたすら坐禅する。この時が唯一無碍の境地に入る時なのだ。道元禅師の教えのとおり只管打座、ただ坐禅する。このために日一日を無駄にしない。ここでの雲水たちの生き方、暮らしを見ると、私は何と愚かで、無駄が多い人生なのかと今さらのように痛感する。部屋一つとっても、彼らの畳一畳に比べたらどれだけ広くありがたいことか。三度、三度、好きなだけ御飯をいただけることが何と贅沢なことか。何もしないぼーっと過ごす時間を、さも思索に耽るなどど言って気取っている自分自身の誤魔化しの人生に、半ば呆れ、恥ずかしさも通り越して、嫌悪感すら抱いてしまった。それほど、雲水の生き方は堂に入り、美しく、気高く、眩しかった。

ここで私達も即席だが、参禅させてもらう。大僧堂の隣には、一般の人が坐禅できる衆寮という建物があり、大僧堂より一回り小さいが内部は同じような作りになっている。雲水の声かけにより坐禅。しばし瞑想する。目は閉じずに半開きで斜め四十五度視線を落とす。私は平等院阿弥陀さまをイメージして坐禅した。雲水は頭に何か考えが浮かんできても、後ろに置き去りにしてくださいという。次にまた別な考えが浮かんできたら、それも置き去りにする。そしてだんだんと空になってゆく。ほんの三分ほどであったが、静謐で涼やかな時が流れてゆく。残暑の日で、頬からは汗がしたたるのに、なぜか心身ともに爽やかな心地になる。雲水の静かな声かけで、合掌し坐禅は終わった。根本道場で坐禅を体験できたことは、私にとっても、同行したT君にとっても感慨深いものであった。これから、方々でまた坐禅を組みたいと思っている。それは場所や時にとらわれることなく、己が心のままに。

 諸堂拝観では他に位牌堂である放光堂や、尾張徳川家の屋敷を移築した待鳳館はこの寺の迎賓館だと聞いた。そして圧倒的量感を見せるのが、大祖堂である。私が首都高の車窓から良く眺めたのは、この大祖堂の大屋根であった。緑青の銅板瓦が折りからの夕日を受けてきらきらと光っている。千畳敷の堂内は螢山禅師をはじめ、歴代の祖師を祀り、朝課、晩課はここで行われる。ここがこの寺の芯柱のような印象を受けた。浄土真宗に次ぐ、国内信徒数二位を誇り、現代まで生き続ける曹洞宗大本山たるこの寺の位置づけをまざまざと感じさせられる場所である。

最後に案内されのが、紫雲臺(しうんたい)という大書院だ。ここは住持が宗門の僧侶や檀信徒と引見する部屋で、外観は質朴だが、内部の襖絵は花鳥や山水が鮮やか絢爛に描かれている。東郷平八郎の書も掲げられ、ここが禅寺であることをしばし忘れてしまう。中で私は印象的な人物画を拝観した。明治時代末に總持寺能登から鶴見に移した石川素堂禅師を描いた大きな軸である。紫衣を纏って、見る者を睥睨しておられるが、その眼差しは決して威圧的なものではなく、実に堂々たる慈愛に満ち溢れたお顔である。私はただただ圧倒されてしまった。まるで今、目の前に禅師が座っておられるようだ。生き仏に見える。写真で見るよりもこの絵の方が遥かに生き生きとしており、黙して禅の今を見て、対座する者にその姿のみで心に寄り添ってくれる気がした。

明治三十一年(1898)四月十三日夜、能登總持寺の本堂より出火、瞬時にして全山が紅蓮の炎に包まれた。慈雲閣、伝燈院を残し、伽藍の多くは灰燼に帰した。總持寺、檀信徒、ひいては曹洞宗全体を襲った大災厄であった。明治三十八年五月、本山貫首となられた石川素堂禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、總持寺存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、明治四十年三月に官許を得、明治四十四年(1911)に現在の地に移転を決断した。これは大英断であった。能登ではかなりの移転反対の声があったらしいが、今に曹洞宗の繁栄があるのは、都会に移って、布教に成功したからに他ならない。罹災して力強く復活するには、これで良かったのだと思う。石川禅師には先見の明が合ったのだ。 今から百年前の鶴見は、生見尾村(生麦・鶴見・寺尾)といい、眺望の素晴らしい閑静な漁村であった。その上、帝都東京と開港された横浜の中間にあり、交通の便に恵まれていた。正面は海、遠く房総半島、西南は富士と箱根を望む風光明媚なところで、現地を視察した時の記録によれば、「地味豊穣にして禾黍穣々、樹木は繁茂し、清水は湧き、遠く俗塵を隔だて、解脱悟道の霊場となすに適当なる地勢」と記されている。当時は總持寺を建立するのに相応しい景勝の良さと檀信徒の訪問にも最良の土地であったのだ。更に、鶴見移転が有力になった最大の理由は、副監院の栗山泰音師と、この地にあった成願寺の加藤海応住職が親しい関係であったからだ。能登の住民は總持寺の再建に期待を抱いていたが、明治三十九年七月十日には永平寺貫主森田悟由禅師から移転同意の承諾を得ている。鶴見の住民は移転には大変協力的であった。でも能登の住民には移転は死活問題になりかねない。六百年近くも總持寺と共存してきたのだ。生活も信仰も、地域の絆のためにも總持寺は不可欠で、あまりに大きな拠り所であったことだろう。こうした様々な困難、それこそ禅問答のような議論を経て曹洞宗大本山總持寺は、鶴見が丘に建立されることになり、成願寺が土地を献納した。現在、成願寺は山の麓に移転しているが、總持寺から色衣着用、内部寺院という待遇を受けている。また、總持寺の禅師の交代行列は成願寺から出発することになっている。元来、ここには寺があったのだ。こういう紆余曲折の歴史を調べてみて、私はようやく鶴見移転の意味がわかった。石川禅師は今でも移転を決断した總持寺中興の祖として、雲水や檀信徒に崇敬されている。石川禅師が、臨機応変な時代の流れを読む力を持っておられたのも、やはり明治という日本史上最大の変革期を生き揉まれたからに違いない。總持寺という寺は鶴見に移転する運命だったのだろう。曹洞宗にはやはりどうしても、かの永平寺と鶴見の總持寺の二つの大本山が必要なのだ。一方は曹洞禅の第一道場として、一方は宗門と曹洞禅の世界的な布教のための前線基地として、それぞれが役割をしっかりと担っている。こう考えると実に合理的でシンプルな体制だと思う。これが現代の日本仏教の一つの形と言ってよいだろう。

境内を一巡したあと、私たちは黄昏の大祖堂で今日一日を振り返った。ひと気のない堂内では、新入りの雲水に、先輩の雲水が一所懸命、なにか教えている。朝夕の勤行のためなのか、あるいは仏事の段取りなのか丁寧に指導していた。こうやって何百年も受け継いできたのだろう。千畳敷の大祖堂にこだまするのは若い坊さんの声だけで、ここが横浜であり、それも京浜工業地帯であることを忘れさせる。帰りがけに、もう一度大僧堂の前に行った。庭には小さな日時計の台座のような石のテーブルが置いてある。ここには雲水たちが、小鳥たちのために残してあるご飯を置くのだと聞いた。圧倒的大伽藍にあって、私はここに厳しさと優しさを兼ね備えた曹洞禅を見た思いがする。總持寺には観るべき仏像も、文化財も大したものはない。だが、そんな歴史的価値云々よりも、大切なものがここにはたくさんある。それは現代を生きる私たちに合った、いや必要であるはずの、現代の仏教と禅の姿であった。

文学VS音楽

今年のノーベル文学賞にボブディランが選ばれた。正直驚いたが、ノーベル委員会もなかなか粋なことをするなとも思う。文学賞は世界中に数多くあるが、ノーベル文学賞はもともと少し異色な気がする。そして今回のボブディランの受賞。さもありなん、世界的権威のノーベル賞が真っ先に革新的な選考をしたことが何とも気持ちが良い。私はボブディランをよく知らないが、「Blowin'The Wind~風に吹かれて~」という曲は好きだ。というより、私はそれしか知らないのだが、この曲はアメリカンフォークソングの極みともいえる一曲であろう。反戦歌であるが、どこか仏教的な慈悲や悟りの境地までをも内包したかのような詞が印象的である。そして風に吹かれて生きていたいという想いは、人間誰もが心に抱き、人生において何度か感じるものであろう。いやもしかすると私たちは、いつも風に吹かれて生きているともいえなくもない。この曲には、詞にも曲にもそういう隠者の孤独の魂と、それへの憧れが凝縮されているように私は思う。

そして改めて痛切に感じたのは、やはり文学は音楽には敵わないのかという、少しばかりやるせない気持ちだ。およそ芸術を一括りになどできないし、するものではないが、やはり音楽には敵わないのだろうか。確かに、文学は読者に読むという作業を強いなくてはならない。これが長編や文献や古典ともなれば、ある種の苦痛すら伴うこともある。好きで読むならば、それもまた楽しであれど、無理強いさせられたのでは、ますます読み手は遠のいてゆく。今もあるのか知らないが、小中学校の読書感想文などはその典型であろう。感想文を書かねばならぬ為に本を読むなど苦行に等しい。その点、音楽はまず耳から入ってくる。歌詞と音が調和し、聴き手の脳髄に響いた時、人と音楽は融合してその詞の世界に入りこむことができる。これが現代音楽の真骨頂だと思う。

ボードレールは言った。「私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家と考える」と。小林秀雄は言った。「音楽における浪漫主義運動は、いわば文学からその富を奪回しようという運動であった。音楽は詩を食べて肥ったが、詩は音楽という魔に憑かれて痩せた」と。ボードレール小林秀雄も、文学の最上位は詩であり、その後に小説などの散文、批評が続くのだという。活字離れが叫ばれて久しいが、実はすでに十九世紀から始まっていたのだ。崩壊とか瓦解とかいうものとは違うが、果たして今、文学と音楽は共存できているのか。またこれから共栄できるのであろうか。音楽に圧倒的な差をつけられているような気がするのは私だけであろうか。ここでノーベル文学賞をシンガーソングライターが受賞したというのも、またいっそう拍車がかかるであろう。ただ、そうとも限らないと私は信じたい。これを天晴れな警告と受け止め、世界中の文士文豪が決起することを私は切に望む。不肖私も、その末端の端くれの端くれとして、奮起奮戦すること厭わぬ所存である。

沙汰の限り

言語道断。呆れ返っている。豊洲市場の問題だ。よくもまあ、ここまでいい加減にやってきたものだ。東京都は財政も黒字で、日本の中にあって違う世界に映る。何もかも一人勝ちの独り歩き。だが、勝って、勝って、勝ちまくっても、東京は兜の緒を締めなかった。締め忘れたのだろうか。調子に乗るからこういうことが起きたのだと思う。

私は職場が築地にある。毎朝築地本願寺を通り出勤する。築地で働く人、築地の魚を愛する人、物見高い外国人、毎日築地には様々な人が行き交う。東京でも指折りのインターナショナルな街である。なぜここではいけないのか。豊洲は開場前にすでに魚河岸のブランド力を失ってしまった。あそこに水揚げされた魚を食べたいと思うか?誰も思わないだろう。築地でよいではないか。「築地こそ魚河岸」である。思えば、関東大震災のあと、日本橋から築地へ魚河岸が移転したときも、やはり反対する人々が多くいただろう。築地はたかだが九十何年だが、日本橋は江戸時代から三百年も魚河岸があったのだから、当時の人々からすれば「日本橋こそ魚河岸」であっただろう。だが、当時は大震災という壊滅的な打撃があった。今はそうではない。一部の人の利己主義ではないか。築地市場は老朽化して危険であったり、衛生的な面も改善が必要であることはわかっている。ならばそれを少しずつ直していくという選択はなかったのか。はじめから移転ありきで強引にやるからこういう事態になったのではないか。外国ではこんなことはしない。その土地の空気や息づいてきたイメージを大切にする。いかにも日本だけが、いや東京だけがこういうことを軽々にやる。

五輪の件もそうだ。何から何まで、結局は当初のプランはほとんど実現不可能で、結局カネ、カネ、カネである。そもそも私は東京で五輪をやること事体反対であった。なぜならば、こうなることがはじめから解っていたからである。ここ三十年ほどの五輪は国家の威信をかけて、ド派手にやるのが通例。それを見ていれば、日本がコンパクトになんてできるわけがない。無論、財政的に苦しい地方で開催なんかできるはずもない。五輪開催は確実に後から後から、予算が膨張するであろうことは、烏が見ても明らかである。だから予算がオーバーしていくことにはまったく驚きはない。当然だと思う。故に最初から反対だったのだ。東京都もいよいよお先が見えてきたという感じがする。いつの世も奢れる者は久しからずなのだ。

日本よ、東京よ、そんなことをしている場合なのか。この国には明日をも困る人が山ほど溢れているではないか。年間にどれほどの人が貧困で亡くなっていると思うのか。貧困や虐めでの自殺者も痕を絶たない。七十年以上戦争のない国で、これは異常なことではないのか。都市でさえも、夕張市のように財政再建団体に陥っているところがあるのだ。それなのに東京は何なの?一人勝ちしていればそれでいいの?大災害も頻発し、東北も九州もいまだに仮設住宅で暮らす人がたくさんいる。東京よ、それはほったらかしなのか。築地移転は老朽化や狭いという問題だけではない。あの場所に道路を作りたいからだという。

私も五輪を観戦するのは大好きだ。選手の活躍には感動し涙もする。彼らが日の丸を背負って戦っている姿には大いにエールを送りたいし、それは本当に素晴らしいことだ。これに勝るものはなかろうと思う。だが、それとこれとは別の問題だ。ここまで税金を無駄使いし、これから確実にまたカネ、カネ、カネとなる。誰がこれを負担するのか。私たち都民であり、国民である。ここにこれだけカネを使うのであれば、他に今すぐやらねばならんことがあるのではないか。そしてもちろん、我々市民にも責任はある。豊洲の問題はいざ知らず、五輪のことがこれだけいろいろ揉めるということを、鼻っから想像しなくてはいけない。誰に責任があるのかといえば、それは私も含め大人全員だ。政府も、都庁も、議会も、マスコミも、市民も、すべてが五輪の華やかな部分だけに憧れ、獲り憑かれていたのである。私たちはもっと先を見据えて議論し行動しなくてはならない。私らの作ったツケを未来を担う若者や子供達に押し付けていいのか?そこまで考えなくてはいけないのだ。感性だけで行動していいのは、子供と芸術家とアスリートだけである。他の全ての大人は老若男女、学歴、職業関係なく社会というものを大局的に考え、創造しなくてはいけない。いや、今現在、路頭に迷い、明日が見えない人はそんなことは考えなくていい。自分の明日と明日の自分のことだけ考えればいい。そうでない大人は考えて生きてほしい。

一昨日は銀座通りで五輪メダリストのパレードがあった。沿道は八十万人の大観衆であったという。大いにけっこうなことだと思う。活躍した選手を祝福し、元気や勇気を与えてくれた選手を労い、共に喜びを分かち合う。すばらしいことだ。こういことは続けていってもらいたい。くり返すが、私は五輪そのものを否定しているわけではない。選手のことは尊敬し心から応援している。そしてその選手達に熱い声援を送ることも、もちろん素敵なことだと思う。だが、そこに便乗する行動、事業には疑問を抱いてしまう。悪乗りとしか思えないこともたくさんある。そのおかげで結果的に五輪のイメージ、東京のイメージを損ねていることが、哀しく悔しいのである。五輪開催は決まっていることだから、せめて今からでもカネをかけなくてもできるところはどんどんそうしてもらいたい。何にせよ、苦しい生活を強いられている日本人は数多いる。国や東京都は市民の血税で、やっていることを忘れてくれるな。

今度の都知事に最期の望みを賭けたい。男はだらしなく嘘つきばかりだ。女都知事で何とかならぬであろうか。幕末、江戸無血開城と徳川家存続に大きく行動したのは、天璋院と静観院であった。天武帝亡きあとの揺らぐ大和朝廷の礎を固めたのは持統女帝であったし、承久の乱を収めたのは尼将軍政子であった。歴史的に見ても、男が散らかした後始末は女性にしかできないのかもしれない。

 

 

 

 

日本仏教見聞録 川崎大師

仏教が誕生して二千有余年。あと数十年すると日本へ仏教が伝来して千五百年を迎える。日本人は仏教から多くのモノを得てきた。信仰、経典、美術、音楽、文学。四方の海に囲まれた敷島に、仏教は大陸の文化を運んできた風であった。その風は時に嵐の如く荒々しく、時にはそよ風のようになびきながらこの国に根ざしてきた。日本には古代から八百万の神々がいたが、仏教は土着の神と喧嘩をせず、静かに共存する道を選んだ。正確に言えば、まったく争いがなかったわけではないが、互いに付かず離れず上手に付き合ってきたのだ。連綿と紡がれてきたその理由は何か。信仰だけではあるまい。いや、真実はただ信仰のみなのかもしれない。答えは永遠に見つからぬかもしれないが、ひとまず私なりに探しに行こうと思う。日本仏教の本山と呼ばれる寺院を訪ねてみたい。私はかねてよりずっとそう思ってきた。すでに何度も訪れている寺院も、まだ一度も行ったことがない寺も、宗派を問わず本山寺院を巡礼し、日本仏教とは何かを確かめてみたい。そして二十一世紀の日本仏教を肌で、心で感じる旅である。いつ終わるとも知れぬ長い旅であり、生涯のライフワークとなるであろう。

私は個人的には寺院の大小にはあまり関心はなく、東大寺のような巨大伽藍にも圧倒されるし、浅草寺のような庶民信仰の寺も心惹かれる。また、高野山大徳寺が擁する子院や塔頭にも趣き深い寺が多くある。むしろ好ましいのは江戸や京都の一隅で肩を寄せ合うように立つささやかな寺や庵である。しかし、この旅ではあえてそういう自分の趣味で行きたい寺ではなく、本山を訪ねる旅としたい。本山に行けば、その宗派の根本が何かしら掴めるのではないか。ひいては日本仏教が生き続けて来た意味がわかりはしないだろうか。という至極単純な思いつきなのだが、果たしてどうだろうか。そしてこの旅を通じて自分自身の信仰心を突き止めたいのだ。菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、そもそも仏教に関心を抱くきっかけとなったことは自覚している。数年前には東京生活のすべてを放り出して、一人高野山の宿坊で働いた。だが果たして、それがきっかけで信心深くなることはなかった。これまで信仰心は希薄であったと思う。寺を訪ねても、先祖の墓参りでも熱心にお経をあげることもなかった。寺巡りを始めたのは歴史が好きで、それが昂じていつのまにか日本仏教にも関心を抱くようになったからだ。熱心な信者の方からすれば、にわか物見のような輩なのである。それでもここ最近は、自分が死ぬ時はやはり南無阿弥陀仏真言を唱えるであろうし、私を生涯守護するのは般若心経だと強く思うようになってきた。ここで改めて歴史的興味だけではなく、その寺、宗派に息づく信仰、日本仏教の信仰の形を再発見してみたい。

私は日本の仏教寺院の特色は三つに分けられると思う。

一、先祖の永代供養と葬祭を引き受ける菩提寺
二、祈祷を行い縁日や開帳、祭祀を行う祈願寺
三、座禅や作務から己を見つめ、心身修養を行する禅寺

どの寺院も私にとっては違う魅力があるが、これから向かう巡礼ではこの三つの観点をしっかりと学び、確認しながら、私なりに日本仏教の本質を考えてみたい。順番は向かうところ気の向くままに、全国各地の本山を訪ねていく。日本には本山と呼ばれる寺院がおおまかにわけても七十余りある。そのすべてを訪ねることは容易ではないが、一歩ずつ進んで行こう。そして創建年代は仏教伝来から江戸時代までとする。故にこの巡礼は極めて私の個人的な選定であるが、これを「私の本山巡礼の旅」としたい。

はじめに選んだ寺は川崎大師である。川崎大師には若い頃、近くに友人が住んでいて何度も行ったのでよく知っている。本当はここから程近い鶴見の總持寺からこの本山巡礼を始めるつもりだったが、總持寺の拝観まで少し時間もあり、この巡礼に同行してくれるT君も川崎大師はお参りしたことがないと言うので、ちょっと寄るつもりで行ってみた。私自身も十四年ぶりのお参りであった。改めてじっくりとお参りしてみると、この寺が経てきた長い歴史や格式をまざまざと感じることになった。いかにもこの巡礼の最初に相応しいではないか。それにこの寺は真言宗智山派大本山と掲げている。よって川崎大師からこの巡礼をスタートすることにした。

川崎大師は大治三年(1128)高野山の尊賢上人によって開かれた。正式には金剛山金乗院平間寺と号する。尊賢上人は高野聖として諸国を巡っていた折、多摩川近くのこのあたりである漁師と出会う。寺伝によれば、漁師は名を平間兼乗といい、元は尾張の武士であったが、父の兼豊ともども無実の罪に問われ、生国を追われてこの地に流れてきた。貧しく漁師暮らしをしていたが、兼乗は弘法大師を深く崇拝し、日夜祈願していたところ、ある晩、夢枕に空海と思しき僧が立ち「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられた。翌朝ただちに海に出ると、光り輝いている場所があり、網を投じ引き上げると、果たして弘法大師の木像であったという。尊賢上人はこの霊験を聞いて感涙し、兼乗とともに寺を建立、本尊として木像を祀った。平間寺はこの平間兼乗の姓からで、このあたりは夜光町と呼ぶようになった。今も寺から海の方に少し行ったところに夜光という地名がある。そういえばここより多摩川を少し上流に行くと、平間とか矢向という地名があり、南武線の駅名にもなっている。ひょっとするとあのあたりもかつては寺域だったのであろうか。だとすれば相当に広大であり、頼朝の昔から徳川将軍家まで一目置かれた寺院であったことも頷ける。これが川崎大師の縁起であるが、だいたい日本の寺院創立の起源にはどこも似たような話が多く、ことに弘法大師はこういう話には枚挙に暇がない。すべてを鵜呑みにはできないが、それでもこれだけ長い間人々の尊崇を集めてきたのだから、一概に伝説という言葉だけでは片付けられないと私は思う。

本堂の大屋根には菊の御紋が輝いている。皇室の勅願寺であるため、特別に許されているのだという。これまで戦災や災害で度々焼失してきたが、そのたびに力強く復活してきた。戦後も少しずつ伽藍を復興していき、ついに平成十六年の経蔵の落慶により、七堂伽藍が整った。山門、本堂、八角五重塔も大きくて圧倒されるが、異彩を放つのがインドの寺院を模した薬師殿だ。ここはもともとは自動車祈祷殿であったが、平成十八年に大師線の線路を挟んだ多摩川のほとりにこの薬師殿と同じ様式で一回りほど大きい新自動車祈祷殿が落慶し、こちらは薬師如来を祀る薬師殿となった。この薬師殿では静かに仏教音楽が流れ、香が焚かれている。薬師如来の住むといわれる東方浄瑠璃浄土を再現してあるのか、蒸し暑い晩夏の昼時、ここだけは爽快な空気に満ちていて、眠気を誘う心地がした。 新自動車祈祷殿には毎日たくさんの人と車が交通安全祈願にやってくる。京浜工業地帯のど真ん中で、川向こうの目と鼻にある羽田空港からは頻繁に飛行機が離着陸している。そんなところに川崎大師はある。大師といえば弘法大師。ここはつくづく弘法大師の寺。大師信仰の坩堝と言ってもよい。京急大師線、多摩川にかかる大師橋、首都高の大師インター、大師パーキングエリアまで大師の名を冠している。また、全山が平坦で全国の寺院でもここほどバリアフリーな寺もないのではないか。私は山寺が大好きであるが、こういう街のど真ん中にある寺は、我々の最も近くまで下りてきていて、世俗にどっぷり浸かっているところがありがたい。空海衆生を救わんという願いに呼応していて、これが空海仏教の本来の姿なのではないかと思う。

川崎大師の近くには若宮八幡神社があるが、そこに金山神社という社がある。奇祭「かなまら祭」で有名な神社だが、この社の御神体は鉄でできた男根なのである。境内にはあちこちに男根を象ったモニュメントがあり、思わずはにかんでしまうが、ここまで堂々と存在すると、いやらしさなどは微塵も感じない。日本人は記紀の時代からこうしたものを神聖視してきた。巨石や大樹は男性器や女性器に見立てられ、陰陽石とか胎内くぐりと称して各地に残っている。豊作、子宝、安産、子孫繁栄という切なる願いが込められており、一概に猥雑なものと決め付けるものではない。境内には幼稚園もあり、子供たちが運動会の徒競走の練習をやっていた。あんなに小さいのに、きちんと並んで、走る順番を待つ。そして自分たちの出番が来たら懸命に走る。微笑ましく思うとともに、今も昔も日本の神仏は私たちのすぐ近くで見守っているのだとつくづく思った。

川崎大師は、参道を歩いてみても庶民信仰の寺だという印象が強いが、代々国家権力の祈願所でもあり、やはりそこは真言密教の道場の一つでもある。成田山新勝寺高尾山薬王院と並び真言宗智山派の関東三山であり、西新井大師、香取の観福寺とともに関東の厄除け三大師とも称される。この「厄除け」がこの寺の根本使命であり、あまねく土地から人々が詣でてくる由縁なのである。毎日七度から八度も、護摩修行が行われ、本堂には十数人の僧侶の読経がこだまして護摩の炎が焚き上がる。この度私たちも護摩修行に参列する機会を得た。密教法具で何というか私は知らないが、鉦や鈴を鳴らして、灯明から火種を摂り、護摩壇にくべる。僧侶たちの声明はまるで荘厳な管弦楽のように聴こえてくる。やがて大太鼓と読経の声が乱舞するが如く響き渡り、その声と音が大きくなるに連れ、護摩の炎も大きく高くなってゆく。焔、太鼓、読経のすべてがピークに達すると、井桁に積まれた人々の願いは、黒煙ともにへ天へと昇る。そこで弘法大師衆生を救わんという願いと交わるのであろう。

読経の続く中、私たちも本尊の前まで案内されて、真下で弘法大師空海に手を合わせた。その時である、私は頭のてっぺんから雷に打たれたような感じを受けた。こういう護摩焚きにはこれまでも方々で参加したことがあるが、今回はこれまでとは違う何か特別なものを感じたのだ。先に述べたが、私はいっとき高野山で暮らしたことがあり、これまでも方々の真言密教の寺を訪ねてきた。それは弘法大師空海という人物に並々ならぬ関心を寄せてきたからで、常々一人の日本人として、この国に空海という天才がいたことを誇りに思ってきたからだ。だが同時に当然のことながら空海には容易に近づくことはできないでいた。今でもそうだ。あまりにも大きすぎる存在なのである。それがこの日、川崎大師の本尊前まで歩み寄り、手を合わせた瞬間、私は初めて、少しだけ、ほんの少しだけ空海に近づけたような気がした。同行二人。これが結縁と信じて、私はこれから日本仏教の本山を訪ねる旅を続けて行こうと決心した。

赤坂離宮

残暑の中この連休は元赤坂の赤坂離宮に行ってきた。思えば中学一年の終わり頃、始めてこの場所を訪れた。二月の寒い夜、正門前に立って、日本にもこんな素晴らしい宮殿があるのかと驚き、心惹かれてから二十七年。ようやく積年の想いが叶って、その内部へ足を踏み入れたが、そこはやはり日本で唯一のパレスであった。

この離宮が完成したのは明治四十二年(1909)。大正天皇東宮御所として造営されたが、当初の予算をはるかにオーバーし、そのあまりの豪華さに明治天皇は「贅沢すぎる」とお怒りになったというが、さすがにこれだけの建築、百年を経た今では、赤坂の森にしっとりと落ち着いている。設計は片山東熊。東京駅を設計した辰野金吾と並ぶ明治近代建築の巨匠だ。他に京都と奈良の国立博物館東京国立博物館表慶館が片山の代表作である。いずれも外観はネオバロック様式で、重厚で絢爛たる建築は、西洋への劣等感から生まれた賜物であろう。一見そうしたものは感じさせない優美さだが、明治日本人の気迫が秘められている。赤坂離宮には鎧兜や桐の文様など、随所に日本古来の意匠が違和感なく配されている。この威容は世界に誇れるもので、日本の近代建築の先導役を果たしたといえよう。そしてこの赤坂離宮の落成したその時が、明治日本西洋化の集大成であったと思う。

赤坂離宮東宮御所として造営されたものの、大正天皇はその生涯で一度もお住まいになったことはない。御所としては昭和天皇が新婚時代に一時住まわれただけで、戦争が色濃くなってからは、あまり人が出入りすることはなかった。昔の写真や絵葉書をみると、正門や高いフェンスはすべて黒塗りであったが、戦後迎賓館に改修されたときに、今の純白に塗りかえられた。戦後は雨漏りや設備の老朽化が著しく取り壊しも検討されたが、やはり歴史的価値が高いため残ることになった。弾劾裁判所国会図書館を経て、東京五輪組織委員会本部が設置されたが、その時は室内のシャンデリアでは暗いため、シャンデリアに蛍光灯を取り付けるという無茶をやっていたようだ。その後、国際会議や国賓公賓を迎える機会も増えたため、国の迎賓館に改修された。最初に宿泊したのはアメリカのフォード大統領、それからエリザベス女王夫妻をはじめ、世界のVIPを迎えてきた。泰平の世になってようやくこの宮殿は日の目を見ることになったわけだ。今から七年前には本館、正門、主庭の噴水が国宝になった。赤坂離宮は皇室から国へ、そして日本国民の共有の財産となったのだ。これまでは年に数日だけ、抽選での公開であったが、今年から広く一般公開されるようになった。参観した日は三連休のこととて正門前から長蛇の列。予約をしてもずいぶん並ばせられて辟易したが、それでも一見の価値はあった。

赤坂離宮で以前から私がもっとも見たいと思っていたのが、「花鳥の間」の七宝である。「花鳥の間」は晩餐会が開かれる大食堂で、他の絢爛たる部屋に比べて、落ち着いた木の温もりを感じさせる部屋だが、よく見れば天井画や柱には精緻な彫刻が施されていた。壁には三十枚の花鳥の七宝焼が据え付けてある。耳をすますと、水鳥の羽音や小鳥の囀りが聴こえてきそうなほど繊細で美しい。この部屋に日本の自然の代名詞ともいえる「花鳥風月」の情趣を添えているこの七宝こそが、明治七宝界の巨匠、濤川惣助の作品だ。明治時代の七宝界は風前の灯であった。そこに彗星の如く、二人のナミカワが現れる。一人は東の濤川惣助、もう一人は西の並河靖之である。奇しくもこの両巨頭、字面は違えど苗字は同じナミカワであった。 

明治維新はあらゆる分野で変革をもたらしたが、美術工芸の世界も例外ではなかった。宮内省は時の工芸作家の作品を数多く買い上げ、宮中を飾る美術工芸の製作を依頼して、伝統工芸の保護育成と工芸作家の庇護奨励が図られた。明治二十三年(1890)には帝室技芸員制度が設けられ、卓越した技能と感覚を持つ工芸作家を任命した。彼らはその期待に応えるべく、帝室に相応しい造形と品格を備えた美術工芸品を生み出した。今でいう人間国宝に近い存在といえよう。その中から七宝という世界において、東の濤川惣助と西の並河靖之が同時代にあいまみえることになる。

並河靖之は幕末の弘化二年(1845)京都に生まれ、明治初年に七宝を始める。名古屋七宝の技法を会得して、伝統的な有線七宝の技法を駆使し、不可能と思われた黒色透明釉薬を開発する。この黒色透明釉薬を使った至宝が、現在皇室が所蔵する「七宝四季花鳥図花瓶」である。七宝焼は一歩踏み外せば低俗にもなりかねない危うさもあるのだが、これほどまでに気品漂う作品が世にあることが奇跡であり、七宝全体を高く底上げしていると言っても過言ではあるまい。前に一度この作品を見たことがあるが、全体に妖艶な黒光りを放ち、ちりばめられた極彩色の花鳥からは、その景色の中の薫風まで伝わってくるようであった。

一方の濤川惣助は、弘化四年(1847)下総国に生まれた。各地の七宝技術を研究した末に、ついに宿願の無線七宝という技術を編み出し、絵画的文様を七宝において実現した。惣助の作品は靖之の作品とは対照的に、静謐で地味だが、決して軽薄な印象ではなく周囲の風景と同化するが如くナチュラルな作品が多い。「花鳥の間」の三十枚はその極みであろう。

日本の七宝焼は愛知県海部郡七宝町(現在のあま市)が原産地といわれるが、万葉の頃にはすでに存在したという。中国より伝来したことは言うまでもない。そもそも七宝とは「七宝荘厳」という言葉からきており、仏教的色彩を帯び、宝玉をちりばめた美しいものを形容する言葉である。仏教経典の無量寿経では、金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙の七つ、法華経では、金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰の七つの宝玉を七宝と呼ぶ。例えば浄土系寺院では、堂宇を極彩色に彩ることがあるが、この極楽浄土を表す意匠こそ七宝荘厳を体現するものといえるだろう。

奈良県明日香村にある牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)からは日本最古の七宝とされる亀甲形の金具が出土している。この古墳は斉明天皇の陵墓といわれるが、女帝を彩る副葬品として一緒に埋葬されたのであろうか。正倉院には七宝鏡と呼ばれる「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」がある。正倉院で七宝の宝物はこの鏡のみであり、天平時代にはまだまだその技術も確立されていなかった。それだけ貴重なものであり、故に神の依代とされたのであろう。以前博物館で見たことがあるが、幾何学文様も彩色もとても美しいけれども、その妖しい輝きはどこか薄気味悪い呪術的なものを感じた。宇治の平等院鳳凰堂の扉止め金具の一部は、藤原時代の七宝である。藤原時代の七宝は数が少なく貴重なものだが、「極楽いぶかしくは、宇治の御寺をうやまへ」と謳われた平等院を彩ったのも、宜なるかなと思う。室町から戦国にかけてはいわゆる侘び寂びの流れとなり、七宝は一時廃れかけたが、復活するのは桃山末から徳川初期で、秀吉や徳川家にその華麗さが好まれた。戦乱がおさまり、世が安定すると人々は麗しさを求めるのであろうか。名古屋城御殿の襖の引き手、そして日光東照宮の唐戸金具、建物の装飾、刀の鞘や鍔に至るまで彩りを添えた。七宝は日本史の中で浮沈を繰り返し、不死鳥の様に生き残ってきたのである。

近世までの七宝は、鏨や金槌で彫金模様を打ち出し、釉薬を透して彫金模様が浮かび上がる「象嵌七宝」という技法であった。今日私たちが目にする七宝焼は、近代七宝の父と云われる梶常吉の研究から生まれたもの。享和三年(1803)尾張藩士の次男に生まれた梶常吉は、家督を継ぐことがないため、精魂傾けていた焼き物に没入した。日夜様々な焼き物について勉強していたが、元亀元年(1570)に刊行された古書から七宝焼を知り、その復元を企てる。しかし、一向にその技法がわからず途方に暮れていたところ、オランダから渡来した七宝焼と出会い、それを求めて研究した。ついにはそれを砕いて、七宝焼とは銅の素地に模様を金属で植線し、そこに釉薬を付して焼くという製法を解き明かすのである。その後もさらに研究を重ねて、有線七宝の技法を生み出した。有線七宝は、銅や金の胎に描いた下絵に沿ってリボン状の金属線を模様に細工して植線を行う。その線で釉薬の色を分け、焼成、研磨して仕上げる。近代七宝においてもっとも基本的な技法である。時を経て明治、並河靖之はこの有線七宝の技法を雲上の高みにまで押し上げたのだ。有線に対して無線七宝は、金属線を使わずに釉薬の色分けをする。明治十三年(1880)濤川惣助によって考案された。途中までは有線と同じ工程だが、植線を取り除き、その後まで消してしまうという技法で、省線七宝ともいわれる。

二人のナミカワが同時代に七宝という世界で、鎬を削ったライバルであったことに私は感動を覚えずにはいられない。同時代を生きたライバルであったからこそ、綺羅星の如き作品が生まれ、受け継がれたのだ。本人たちは果たしてライバルという意識があったのかはわからないが、神様は時としてこういう悪戯をする。赤坂離宮を彩る七宝は東のナミカワに軍配が上がったわけであるが、どちらが上ということはない。二人のナミカワが残した七宝はこれからも日本の宝であり、私たちは世界に誇るべきだろう。二人のナミカワの功績は永久に称えられよう。

 

天賦の奏に解かされて

今日は早くも重陽。残暑厳しい日が続いているが、夜もすがら虫たちの涼やかな合奏を聴いていると、近くに秋を感じてうれしく思う。この夏、紀尾井ホール三浦文彰君のヴァイオリンを聴いた。若くして溢れる才能を滾らせた、実に堂々たる彼のヴァイオリンをついにライブで聴くことが叶った。私にとっては、今年もっともエキサイティングでロマンティックな時間であった。私は心底胸を打たれると、しばし放心状態となり凍り付いてしまうことがある。凍り付く前に何とか文章にしようと試みるが、なかなかうまく言葉を紡げない。それは音楽であったり、絵画であったり、時に風景であったりする。今から七年前になるが、長い間憧れていた京都の高山寺へ初めてお参りした時も同じような気持ちになった。また昨年、敬愛する井伊直弼公の足跡を辿るべく、彦根を旅したのだが、やはり凍り付いてしまっている。何から文章を起こせばよいかわからないのである。簡単には語りたくない、語れない、大切に思えば思うほど書けないことがあるものだ。それは言い換えれば、言葉は余計で必要のないもの、私自身が納得して芯から感じ入っている証でもあった。こういう場合、生涯書けないかもしれないし、ある日ふと書くのかもしれない。そしてまた、三浦君のヴァイオリンは簡単に文章にできぬほど神韻縹渺たるものであった。

しかし、どうやらその三浦君のヴァイオリンが凍り付いた私をゆっくりと解かし始めたようだ。彼のヴァイオリンを聴けば聞くほどに溶解してゆく心地がする。そしてやっと少しずつではあるが、書いてみようという心持ちになってきた。無論、私の拙い文章力では、彼の迸る才能について何も言い表せないのは重々承知している。それでも書いてみようと思うようになったので少しずつ書いてみよう。

パガニーニはその超絶技巧を悪魔と契約し手に入れたと言われ畏れられた。人々は彼がヴァイオリンを奏でると十字を切ったとも言われる。しかし、三浦君のヴァイオリンはそういうものではない。低音は重厚でありながら、高音はどこまでも柔和で優しい。その音色は決して邪悪なものに憑かれた音ではない。喜び、哀しみ、花鳥風月、そして寂莫を切り裂く日本刀のような鋭さ。動はダイヤモンドの様に硬く、静は琥珀の様に柔らかい。聴衆を極限まで惹きつけておきながらも、何者も近づけぬ圧倒的なオーラがある。天賦の才を持ちながら、他の追随を許さないのは、弛まぬ努力と決意に人生を捧げているからであろう。彼のヴァイオリンからはそういうものが澎湃として湧き上がってくるのを、私は感じずにはいられなかった。

三浦君は両親ともにヴァイオリニストの家に生まれた。彼には生まれた時から傍にヴァイオリンがあった。幼少の体験はその後の人生において、多大な影響を及ぼすもの。私如きも、両親が離婚し、決して家庭円満な我が家ではなかったが、菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、今の今まで私が仏教に関心を寄せる出発点となったのは間違いない。これも一つの仏縁であったと思う。小学生から高校生にかけては、ピアノを少しばかりと吹奏楽部でクラリネットやアルトサックスを吹いていた。当時の私はひたすら楽器に専心した。青春は楽器を演奏することだったと言って良いだろう。この経験がクラシック音楽への誘いとなり、ほんの入り口には過ぎぬが、西洋音楽に関しては全くの無知ではない。

最初に自分で買ったクラシックがカラヤン指揮のベルリンフィルベートーヴェンの第五番とビゼーカルメンであった。これが私の音楽鑑賞の源である。小学五年生でカラヤンに惚れ込み、ベルリンフィルを聴きこんだものだ。自分でも演奏したことのある、バッハ、ベートーヴェンブラームスホルストは若い頃から本当によく聴いた。それからパガニーニショパンビゼーチャイコフスキードヴォルザークスメタナサンサーンス、リスト、ラフマニノフハチャトゥリアンはずっと好きだ。モーツアルトハイドンは何故か食わず嫌いであったが、大人になってから小林秀雄大岡昇平の文章を読んで、改めてじっくりと聴いてみると、やはり筆舌に尽くしかねるものを感じているところだ。これらの大作曲家についてはいろいろと思うところもあるので、これからは少しずつ入っていきたいとは思っているが、果たしてこの先どうなるかはわからない。私の音楽遍歴は極めて偏重で浅薄であるが、流されるようにその時々の心身が希求したものを聴いてきた。これからもそうなのであろう。

私自身が管楽器を吹いていたこともあり、弦楽器はほとんど踏み込めない領域にあった。中でヴァイオリンはオーケストラの花形。楽器自体が崇高に思えていたので、遠くから拝むといった風なのだが、個人的にはハイフェッツフランチェスカッティを愛聴してきた。私はその術中に嵌り、魔法にかけられたおかげで、すっかりヴァイオリンという楽器のプリンスに魅了されてしまった。そして今、三浦文彰君を知った。もう彼のヴァイオリンの虜である。

今回のコンサートで三浦君が演奏したのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調Op.64。ジュニアオーケストラとのコラボであったが、オケの少年少女たちもまた、三浦君に刺激を受けながらリードされて素晴らしい演奏。円熟とか卓越とかとはほど遠いのだが、むしろ初心で純真な奏は私には好ましかった。それからメンデルスゾーンである。この度の演奏を聴いて、私のメンデルスゾーンに抱いていたものは根底より覆えされてしまった。メンデルスゾーンにはこれまでさほどの関心もなく、金持ちボンボンの道楽の音楽くらいに思っていた。生ぬるい音楽というイメージだ。だが果たしてそんなものではなかった。これほどに荘厳なる悲哀を秘めた音楽であったのかと、今ではすっかりメンデルスゾーンに落ちてしまった。これも三浦君のヴァイオリンが教えてくれたのだ。私はどうもコンチェルトが好きで、ピアノやクラリネット、トランペット、ホルンなども本当に良いのであるが、世界三大ヴァイオリンコンチェルトに挙げられるこの曲を聴いて、個人的にはコンチェルトはやはりヴァイオリンに極まると思った。

私の逢いたい人や尊敬する人は歴史上の人物や作家など、その多くがすでに鬼籍の人ばかりなのだが、三浦文彰という天才と同時代に生きていることに、私は無上の喜びを感じている。彼の存在する時代を生きたことは、後世の人々に誇れる財産である。そう思える人は、好きな競馬の武豊騎手やスポーツ選手やアーティストにも何人かいるが、彼らは皆、およそ一般とはかけ離れた人智を超えた境地にいる。三浦文彰君もまたその中の一人である。これから彼のヴァイオリンはどうなっていくのだろう。とても湧く沸くしている。私に生ある限り、三浦君と同時代に共に在ることは、私の生き甲斐であり続けるだろう。三浦君のヴァイオリンは現在の私の精神を均衡に保つための最良薬なのである。

観音の里

近江にはずっと強い憧憬がある。歴史に想いを馳せるとき、私の心はいつも近江に向かう。古代より近江を制する者が天下人となった。近江宮を造った天智天皇も、それを廃都に追い込んだ弟の天武天皇も転機は近江の地であった。信長や秀吉は近江から天下取りの礎を築いたし、家康も近江は西国と東国を結ぶ蝶番と心得ていた。そして私が日本史上もっとも敬愛する井伊直弼のふるさと、彦根が近江の真ん中にある。

淡海の海 夕波千鳥汝が啼けば 心もしのに いにしえおもほゆ

このあまりに有名な人麻呂の歌を、私は中学二年の古典の授業で覚えた。歌を覚えてからしばらくは、茫漠たる琵琶湖は想像できても、果たして広大無辺な近江に近づくことはできなかった。だが、いつかは戦国の夢のあとや、幕末動乱を生きた人々を辿る旅をしたいと思っていた。後に白洲正子さんの「かくれ里」や「近江山河抄」を愛読するようになって、近江に少しずつ迫っていけるようになった半面、その奥の深さに気づき、圧倒されて、また遠ざかるといった感じである。近くて遠い。容易には掴めない。近江は私が生涯をかけても掴みきれぬ土地であることを思い知ることになった。謎めいた近江に、私は白洲正子と同じように取り憑かれている。

近江は仏像も光芒を放っている。奈良や京都のような洗練された感じはないが、近江のほとけさまは、寺で拝む木仏にも野山に憩う石仏にも言い様のないうぶさがある。それは奈良や京都の王侯貴族や権力者によって培われてきた仏教美術に対して、いかにも名もなき市井の人々の信仰によって造られて、守られたきた土着のほとけたちである。ことに湖北は古くから観音信仰厚きところで、高月の渡岸寺の十一面観音は有名だ。私にとっても観音像の中では一番であり、好きな仏像を挙げても五指に入る。この至高の観音さまが千年以上もひっそりと里人に守り継がれてきたことに私は胸が熱くなる。

先日、芸大美術館で「びわ湖・長浜のほとけたち」という展覧会を見てきた。長浜といえば、私などは真っ先に小谷城長浜城、賤ヶ岳や余呉湖を思い浮かべる。信長や秀吉の天下取りの舞台としてイメージするのだが、一方で長浜は観音の里としても昔から知られたところであった。昨今の仏像ブームも手伝い、東京でも近江の仏像展は何度か開かれており、この展覧会も二度目であった。 最近は上野公園の一角に、「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」なるスペースもできている。天海大僧正が江戸の鬼門の守護として建立した東叡山寛永寺。今の上野公園一帯は全山寛永寺の境内であった。西の比叡山から天台総本山をこの地に移した時に、琵琶湖に見立てたのが不忍池だ。蓮池に浮かぶ弁天堂は竹生島。そんな不忍池のほとりに、平成の今日、長浜の観音様がおられるというのも誠に心にくいが、実にこれ以上のロケーションは東京にはあるまい。

さても展覧会は圧巻であった。合計五十体近くもの仏像が居並ぶと、少々異様であったが、どのほとけさまも純朴な印象で、庶民に守れてきたあたたかみを感じた。なかでも石道寺の躍動感溢れる多聞天持国天は、生き活きとしてすばらしい。石道寺といえば、やはり十一面観音が有名だが、この展覧会の期間中、寺を守る屈強な二天が不在の近江で、待っておられる観音さまは、さぞや心細かろうと思ったりした。

湖北の菅浦を紹介する展示もあった。肉厚の阿弥陀如来座像は力士の如く逞しかった。長くつらい湖北の冬に閉ざされた人々は、あの阿弥陀さまに身も心もすがりつき、心細さの拠り所としたことであろう。荒々しいけれどもどっしりと力強い。きっと阿弥陀さまも人々を暖かく包んでくださったに違いない。「菅浦絵図」も見ることができた。鎌倉時代の菅浦地区の自治境界線を示したこの絵図は、白洲さんが「かくれ里」で紹介されている。白洲さんはその絵図に惹かれて、湖北や菅浦に行ってみたくなったというが、本当に一刷毛で湖北の風景を表現したこの絵図を眺めていると、私も近いうちに菅浦に行って、村の境界線や須賀神社淳仁天皇の伝説、そして目と鼻の間に望む竹生島を見てみたいと思った。

展覧会の最後まで来て私がもっとも感銘を受けたのは、安念寺の芋観音である。朽損仏と呼ばれるもので、手先や腕、胴体が欠けて原形はほとんど留めずに朽ちてしまっており、掘り出したばかりの芋の様なお姿のため芋観音と呼ばれる。安念寺はもともと七堂伽藍を持つ天台宗の大きな寺院であったが、姉川、小谷城と二度の合戦を経て、ついに賤ヶ岳の合戦の折にその伽藍は焼失した。しかし、仏像は信仰の篤い村人たちが、寺から運び出して、川底や田んぼの中に埋めて罹災から守ったとのこと。戦国の世が終わってずっとあとの江戸文政年間に、田の中に埋められていた諸仏を子孫たちが掘り出して、余呉川で洗い清め、借りのお堂を建てて仏像を安置したのが今の安念寺だという。こういう時を超えた村人の信仰心に、私は感動せずにはいられない。これこそが日本仏教本来の信仰のかたちだと思う。歴史好きはついつい戦国乱世に、ある種の浪漫を感じるもので、名におう私もその一人であるが、戦は信仰も奪う。こういうものを見ると、やはり平和を守ることは大切なことだとつくづく思う。それは伝承や信仰を、日本文化をも守ることであり、そこに生きる人々を守ることである。  

近江は石の都でもある。日本国中これほど石の文化が根付いて、穴太衆の卓越した石工技術を継承し、全国に派遣してきた土地もあるまい。一方で寒冷かつ湿潤な風土である近江では、あたたかな木の文化もまた大きく育まれてきた。木地師と呼ばれる木工人が、日本の衣食住を根底から支えていた。近江を大きく分ければ、琵琶湖を中心に湖東、湖南、湖西、湖北の四つの地域になり、それぞれが風土や色彩が微妙に異なる仏国土を形成している。近江は広い。或いは信楽甲賀、葛川や比良山の麓、伊吹山、若狭の入り口までも加えるともう宇宙である。私は近江に憧れてはいるが、専門家ではなく、研究をしているわけではない。近江の歴史と土着の風習と信仰の賜物にただただ興味津々なのである。さながら日本という国の縮図をそこに見出す様だと言いたいが、そんな簡単な言葉で片付くようなところではない。白洲正子は「近江は奈良や京都の舞台裏」だと言った。実に当を得ていると思う。次はいつ、私は近江に近づけるであろうか。