弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

夏越の祓

梅雨只中。六月晦日を迎えた。今日は半年が終わる小晦日であり、夏越の祓が各地で行われる。夏越の祓は、上半期の穢れを落とし、下半期の無病息災を願う神事で、夏越の大祓とも呼ばれる。一部の神社では、茅の輪くぐりをして、夏越の祓に参加できる。茅の輪くぐりは、茅や笹で編んだ人がくぐれるほどの大きな輪を、定めし作法に則ってくぐる。茅の輪くぐりは地域により、作法にも差異があるが、概ね以下の如く行う。

まず、茅の輪の正面に立ち一礼。左脚から入って、左回りに廻るが、その際次の和歌を唱える。

水無月の夏越の祓えする人は千年のいのち延ぶといふなり

正面で一礼。今度は右脚から入って、右回り。その際は次の和歌を唱える。

思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりても祓へつるかな

正面で一礼。最後は左脚から入り、「蘇民将来」と繰り返し唱えながら左回りする。

私も、毎年この作法で茅の輪をくぐる。六月半ばになれば、方々の神社に茅の輪がお目見えするので、あればどこでもやっているが、夏越の祓の当日は、自宅近くの氏神さまへあらためてお詣りすることにしている。 余談であるが、左回りの水無月の〜歌は、拾遺集に詠み人知らずで収められている。特別優れた歌ではないが、縁起が良くて、語呂もこの神事に相応しく覚えやすい。一方、右回りの思ふこと〜の歌は、和泉式部の歌で後拾遺集に収められている。さすがに女流歌人当代一の和泉式部らしく、水無月の夏越の祓にかけて、悩ましげな心境をさらりと詠う。簡単に訳せば、 「私の悩みが尽きてしまえと、水無月の晦日に、麻の葉を細かく切ってお祓いをするわ」 、であろうか。 鬱雨の水無月にかけて、夏越の祓をすることで、天も我もすっきりと晴れないかという願かけにも思われるが、むしろこの歌を詠ずれば澄み渡る天空を彷彿とさせる。

蘇民将来という言葉には様々な説があり、全国各地に似たような神事、儀式があるが、京都八坂神社によれば、スサノオミコト(八坂神社祭神)が南海への旅の途上、一夜の宿を蘇民将来という男に請うた。蘇民将来は貧しいながらも喜んでスサノオを迎え、粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノオは、疫病流行の際、「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されたと云う。夏越の祓で唱える蘇民将来も、ここから伝わったものである。八坂神社でも、 今日は夏越の祓が盛大に行われ、大きな茅の輪をくぐることができる。

それにしても夏越の祓は、千年以上も前の和泉式部の時代にはすでに慣習化されていたのだから、日本人ならば誰でもきっと違和感なく体感できるはずである。 夏越の祓当日には、水無月という和菓子を食べるのも昔からの慣わしである。私にとっても水無月をいただくのが毎年この時節の楽しみである。水無月は、氷に見立てた三角に切った白いういろうに、悪霊邪気を祓うとされる小豆を乗せたお菓子で、見た目にも涼やかで美しい。六月になると方々の和菓子屋で売られている。美味いのでついつい買ってしまい、たくさんいただいてしまう。中で、私の一番のお気に入りは、京都の老舗菓子司「俵屋吉富」の水無月だ。大粒で上質の小豆、程よい甘さと口あたり、ほんのり濡れたような涼やかな佇まい。すべてが完璧で、天下無双の水無月である。 日本人は、大晦日や正月の初詣は当たり前になっているが、夏越の祓の風習は、現代人にはイマイチ浸透してはいない。というよりも、廃れつつあるというほうが正しい。夏越の祓は祝日でもなく、慌ただしく生きている現代人には、無用なのかもしれないが、私はこの日を暮れの大晦日同様に大切にしたいと思っている。今日も、水無月や夏越ごはんをいただき、茅の輪くぐりをする。これから、日本列島は夏本番を迎える。年々、猛暑、酷暑が増すばかりでうんざりする。夏が苦手で、大嫌いな私にとっては、無事に夏を乗り切るために、夏越の祓は極めて重要な儀式でなのである。

水無月の夏越の祓する人は千年のいのち延ぶといふなり

仙洞御所

天皇陛下が御退位される日が確実に近づいている。象徴天皇として何よりも国民のために、出来得る限りのお勤めを果たされてきた両陛下には、ただただ感謝のみで、早くゆっくりとお休みいただきたいが、やはり平成が終わるのはさみしい。本当は退位ではなくて、柔和に譲位と呼称して欲しい。が、今回は陛下が御自ら退くことを表明されたため、譲位ではなく、退位が相応しいとの偉い方々の判断らしい。何故、譲位ではいけないのか、甚だ不可解である。退位というと、何だか陛下の我儘とも受け取れやしないか。後の世の人々がどう考えるかまでをしっかりと考慮して欲しい。これは、明治以降前例の無いことであるし、間違いなく日本史に残る出来事である。思ったよりもスピーディーに事が運んだのは良かったとすれば、まあ退位か譲位かなどはどちらでも良いのかもしれないのだが。

陛下が上皇さまとなられると、皇居をお出になり、今の東宮御所へお入りになる。そして新天皇一家が、皇居に入られる予定とか。東宮御所は、両陛下が皇太子時代に三十年余りお住まいになった懐かしの我が家で、お子様方の想い出に溢れたところへお帰りになるのは、さぞやお喜びであろう。皇位を退かれた天皇つまり上皇は、正式には太上天皇という。そして上皇の住まいは仙洞御所と呼ばれる。仙洞とは、仙人の住む洞穴のことで、中国の故事に因む。皇位を退かれた天子は、隠棲して仙人の如く敬われ、日本と内裏を見守る存在と見做されたのであろう。今ならば、会社の社長や会長を退いた相談役といったところか。東宮とは皇太子のことで、他にも春宮と書いてとうぐうと読む。皇太子の御座所が、帝の御座所の東面に在ったことからそう呼ばれたに違いないが、東宮よりも春宮の方が、いかにも若く眉涼やかな皇子を彷彿とさせる。さすがに昔の日本人は風雅に長けていて感心する。今も皇太子御一家を担当する宮内庁の役職の長は、東宮大夫と呼ばれたり、陛下の身の回りのお世話をする役職は、内舎人と呼ばれたりと、宮中には由緒ある名前がまだ多く残っている。

最近、御退位された両陛下がお住まいになる場所について、議論が湧き上がっている。政府や宮内庁は、皇太子御一家との入れ替わりを検討しているが、ここへ来て京都市奈良市が、御退位後の両陛下のお住まいの誘致に動き出した。奈良市は新たな離宮を造営し、京都市京都御苑の仙洞御所に、新たな離宮や御座所を造営することを検討しているらしい。特に京都には古都という自認はなく、寧ろ、天皇一家や皇族は京都にお帰りいただきたいと、衷心より思っている節がある。昔からそんな話をよく聞いたし、明治維新の時、東京遷都の詔が出されたわけではなく、公式文書もないわけだから、生粋の京都人は、京都こそが今も都であるとの自認である。また、京都人にとって戦後とは、応仁の乱とか鳥羽伏見の戦いのことをいう、などという考えが根強いと云われているが、そんなことは半ば都市伝説かと思っていた。が、ここに至り、これは都市伝説ではなく、代々京都人に刷り込まれた本音と願いに他ならぬことが、今回の一件でよく解った。無論、京都人や京都市民、京都府民、或いは奈良市民が皆、同じ考えではないだろう。

予てから私は、日本の首都は東京だが、みやこは京都であると思っている。首都とみやこは別と考えている。平安朝で花開いた国風文化と、今に繋がる統治機構や、官僚機構の礎が築かれたのは京都であり、日本史上、いや世界史的にも稀に長い間みやこであった京都は、簡単に廃れはしない。寧ろ、首都などと革った呼称よりも、みやこと呼ぶほうが伝統に則して相応しい。さらには、京都市が主張するように、天皇の即位の大礼は、京都で行うということには、大いに賛同する。古色蒼然とした天子南面する紫宸殿において、内外に即位を宣言されたることこそ、天皇の歴史と権威を際立たせられよう。御即位は京都で、御退位や御大喪は東京で行うのが望ましい。もう一つイメージを逞しくすれば、御即位の大礼後、都大路を京都駅までパレードして、京都駅から新幹線で東京駅へ移動、東京駅から皇居までパレードすれば良い。

ただ、京都や奈良へ仙洞御所を設けることは、ほぼ不可能だと思うし、私は賛成はできない。最大の懸念は警備と経費の問題だ。東京の皇居や東宮御所のある赤坂御用地は、世界最高レベルの警備が、磐石に敷かれている。同レベルの警備を果たして他でできるのか。おそらく京都は可能であろう。京都御苑には迎賓館もあるし、度々要人を迎えてきた。しかし、東京で統括され、指揮系統を一元管理していたのを、二元化することになれば、後々、様々な弊害が生まれるであろう。考え過ぎかもしれぬが、有り得ぬ話でもない。であれば、実績ある東京で、スムーズにコンパクトに警備して、一世一代の御即位の大礼の時に、ふんだんに経費を使って、最高の警備をすれば良い。そしてまた、何よりも両陛下のお気持ちである。京都や奈良の人たちの気持ちも分かるが、おそらくは両陛下が頷かれまい。こんな騒動に巻き込んだら、ゆっくりお休みにはなれないと思う。かえっていらぬ御心配をおかけしてしまおう。大英断を下された陛下に対して、申し訳が立たない。日本国憲法で、天皇は日本国、日本国民統合の象徴とされる。三十年間、象徴としてのお勤めを真摯に果たされた両陛下に、我々国民は余生をいかに楽にお過ごしいただけるか、そのことのみを、そっと静かに、厳かに、美しく考えねばならないと私は思う。

なおすけの平成古寺巡礼 榛名山

四月の末、坂東三十三観音巡礼で群馬県にある二箇寺へお参りした。十五番白岩観音と十六番水澤観音である。巡礼のついでに寄り道した土地や寺社について少し書いてみたい。群馬県は関東でも特に広々としたイメージがある。埼玉の大宮あたりを過ぎると、高層建築や住宅も減って、遠くの山並が遥か見渡されるようになる。確かに、関東平野の真っ只中にいることを、誰もが実感するであろう。いかに広大な関東平野を覚るはずだ。そして利根川を越えて、群馬県に入れば、信州や越州との境のキワまで平地で、その先にはまるで関八州を護る砦のように、山壁が連なっている。上州は名峰が多いが、上毛三山とは、赤城山妙義山榛名山の三つの山で、いずれも神山として古代から崇められてきた。高崎や前橋のあたりからは、上毛三山をみはるかすことができる。いずれも、神の坐す山に相応しい山容をしている。私には、妙義山は荒々しく男性的で、赤城山はなだらかで女性的、榛名山は男女どちらも兼ねた両性具有の山に見える。赤城山妙義山は連山の呼称だが、榛名山は独立峰だ。この日も春霞の彼方に、まるで水墨画のように、上毛三山が神々しく浮かんで見えた。

まずは太田市の世良田東照宮へお詣りする。世良田東照宮は、寛永二十一年(1644)の創建で、日光東照宮の旧社殿が移築されている。つまりは、徳川二代将軍秀忠が建てた社で、三代家光が今の絢爛な社殿に改築したことで、ここへ移築された。日光よりもずっと小ぶりだが、朱塗りの低い屋根は徳川の威風を示すには十分。堂々たる建築である。よく見れば、各地の東照宮と同様に、細かい細工や彫刻があったり、内部には三十六歌仙の額が奉納されている。それでも決して主張し過ぎないところが、何事も質素を好み、控えめな二代将軍の色が反映されていると云えようか。社殿も境内も美々しくて気持ちが良い。また、一人の参拝客もおらず静かであった。このあたりは、律令時代から新田荘という荘園があって、東照宮の建っているところに、主の新田氏の居館が在ったとされる。境内を含む周辺が、新田荘遺跡として国の史跡となっており、新田氏縁の寺社が点在する。世良田東照宮と地続きの敷地には、長楽寺という寺があり、ここの住持だったのが天海大僧正である。それが縁で日光改築の際、この地に社殿が移築されたのだ。家康は駿府城で亡くなると、その日のうちに久能山に葬られたが、遺言により一年後に日光山に改葬された。改葬ルートは、久能山から三島、小田原、中原、府中、川越仙波、忍、佐野、鹿沼、日光という道程であった。忍や佐野は世良田とは目と鼻であり、川越も天海と関わりある喜多院があるのをみると、久能山から仙波、世良田、日光に東照宮を建立し、家康改葬の聖なる道筋としたのではあるまいか。ここにも徳川の威光を天下に知らしめたプロデューサー天海の尽力があった。長楽寺の庭は、草木も池もあまり手を入れず自然に任せてある。ちょうどツツジが満開で、若葉に包まれた庭は、噎せ返るほど晩春の気が充満している。長楽寺は、承久三年(1221)臨済宗の寺として創建された。開基はこの地を治めた世良田義季、開山が臨済僧栄朝。鎌倉から室町時代にかけては、新田家や鎌倉公方足利家の帰依を受けて、一時は臨済宗関東十刹に数えられた。元々この地は徳川家と縁が深い。世良田義季は、徳川氏の祖とも云われる。徳川家康は関東に入府すると、自らは新田氏から分かれた世良田氏の末裔であるとした。律令時代からの由緒ある血筋であり、清和源氏たる新田氏と同筋であることを、半ば強引にも示したかったのだろうか。世良田氏鎌倉幕府滅亡から動乱に巻き込まれてゆく。南北朝時代には一時南朝方に付いて、三河の松平郷に住したというから、このあたりがルーツとなったのだろう。世良田東照宮から車で五分くらいの早川の畔に、徳川町という集落があり、徳川氏発祥の地と云われている。ここには縁切寺でも名高い満徳寺という寺があり、同じ場所に徳川東照宮が鎮座している。赤城山を望む畑の真ん中にひっそりと佇む徳川東照宮は、ささやかながらも由緒を感じさせる。

このあと水澤観音へお詣りして、名物の水澤うどんで腹ごしらえ。水澤はその名のとおり、名水の湧くところで、観音様の境内にも、清らかで甘い水が止め処なく湧いている。源泉はおそらく榛名山にあるのだろう。渾々と湧き出でる水を眺めていると、榛名の鼓動とも血流とも思えてくる。榛名は生きているのだ。うどんはいい按配のコシで美味しかった。うどん屋を出て、伊香保温泉は素通りして榛名山へ登る。伊香保榛名山の恩恵を受ける名湯である。榛名山は有史以前から度々噴火を繰り返してきた。近年、六世紀の火砕流に巻き込まれたと思われる甲を着装した成人男性の人骨が発掘されたり、近くで遺跡も見つかっていることから、日本のポンペイとも称されている。榛名山山麓に、温泉、水、肥沃な土地を与えている。まさしく古代から崇められた神山に相応しい。麓は良い天気で、快適なドライブであったが、榛名山に登り始めると、急に空模様が怪しくなり、物凄い勢いで雲が棚引いてゆく。途中の展望台からは、赤城山から、谷川連峰、雪を冠する白根の山々まで遠望できて、身も心も解放された。が、背後にはこれから向かう榛名山の頂が、相変わらず不気味に雲間から見えつ隠れつしている。榛名湖までたどり着いた時には、暴風雨になり、荒ぶる湖面からは白波が押し寄せる。まるで、榛名山が私達の入山を拒んでいるかの様だ。こんな所に長居は無用。榛名の神の怒りなのか、歓迎なのかわからぬが、山頂へは登らずに、そそくさと山を下りた。 来た道とは反対に下って、榛名神社にお詣りする。用明天皇元年(586)の創建という榛名神社は、さすがに堂々たる社であった。長い参道からして歴史を感じさせるが、楼門から本殿まで行けども行けどもたどりつかない。途中、滝があったり、広重にも描かれた修験者の行場があったりする。参道には五重塔もあり、修験道の山では今も神仏混淆が失われていない。徳川時代には、東叡山寛永寺の傘下となって幕府からも庇護された。おそらくは庶民が講を組んで参詣したのだろう。故に、広重にも名所として描かれた。修験者のみならず庶民にも崇められたのも、徳川幕府の力によるが、赤城山妙義山と、世良田東照宮や長楽寺との位置関係を考えてみれば、榛名山こそが上毛の信仰の中心であることがはっきりする。さらには上毛三山を三尊仏に見立てると、榛名山が中尊であり、曼荼羅の核とも見える。古代から神山とされたことも、この地に立ち、ここで暮らせばわかるであろう。そしてまた榛名山修験道の霊地でもある。それを物語るかのように、神社全体が巨巌に取り囲まれて、それに守護されるように建っている。境内には巨石が累々と屹立し、恰も天狗の鼻のような歪な石があったり、仁王像の如く直立不動の岩もある。ただならぬ榛名の山の霊気に接する思いで眺めていたが、折からの青嵐が、尚更、巌の群れを厳粛に見せるのであった。

ここから白岩観音へと下り、ついでに安中市の北野寺に寄ってみる。彦根藩の二代藩主井伊直孝は、幼少の一時期をこの寺で過ごした。北関東には、井伊家の飛び地がいくつかあって、ここもその一部であった。井伊直政の嫡男直勝と同年の天正十八年(1590)に生まれた直孝は、生母の実家や親戚宅などで数年を過ごしていた。生母は直政の正室の侍女で、正室や直勝への遠慮があったという説もあるが、関ヶ原の合戦の頃、直孝はまだ幼く、世情不安定な時に我が子を守るために、関西から遠いこの地に密かに匿われたのだろう。直政はこの地の萩原図書という家臣に、北野寺で直孝の養育を任せた。直孝は、地元の子どもたちを集めて合戦ごっこに明け暮れる活発な少年であった。幼いころから直勝よりも聡明であった直孝を、いずれは後継者にと、直政も主君である家康も考えていた節もある。直孝は直勝よりも家臣団を率いる統率力を備えていたとも云われ、いつのまにか彦根の本領を直孝に、安中のこの地が直勝へ与えられた。譜代筆頭の礎を築く時には、何といっても主君徳川の命は絶対で、幕藩体制の見本となるべく奔走した井伊家は、御家騒動には発展せずに、見事に丸く収めてゆく。隠蔽したのか、握り潰したのかは知らないが、直孝も直勝も、己の道と、生きる術をわきまえていたような気がしてならない。私には、井伊家の存在を確かめる時、それが井伊家の家訓であったと思う。そしてまた直虎、直政、直孝から歴代藩主へと受け継がれてゆく、井伊の家風でもあった。井伊家当主は代々、直の字を用いるが、その名のとおり幕末の直弼まで、実直に徳川家の御恩に報い、奉公したのである。直孝は、幼い日に北野寺で過ごした恩を忘れず、その後も井伊家は北野寺を庇護した。永和元年(1375)、醍醐寺の僧慶秀により開山された北野寺。境内は楚々した佇まいで、実に良い雰囲気の寺である。私が行った時は、残んの八重桜が新緑に映えていた。本堂の隣には威徳神社という社が建っている。祭神は菅原道真で、すなわち天満宮である。創建は建治二年(1276)で、江戸時代までは北野天満宮と呼ばれていて、明治になって改称したらしい。北野寺もこの社から命名されたのであろう。ここでも神仏は合祀されている。上毛は廃仏毀釈に対して大人しい地域であったのか。北野寺の西には、妙義山がすぐに迫る。あの奇岩の山は、見様によっては涅槃図や、観音様の横顔に見える。北野寺開山の慶秀という坊さんは、この地に何か霊的な力を感じたに違いない。上毛の地は、まだまだ秘められた歴史がありそうだ。私の興味は尽きない。

スラヴ叙事詩

私は学生時代に吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。その時に、チャイコフスキーのスラヴ行進曲を演奏したことがある。不気味な低音からやんわりと始まり、何とも暗く重苦しい主旋律を奏でる。あのメロディは一度聴いたら忘れ得ず、私の頭の中を終始駆けめぐっていた。曲はスラヴ民謡を謳いながら、時に勇ましく、時に優しく展開して、最後は華々しく幕を閉じる壮大な叙情曲である。また或る時は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲を演奏した。物哀しい旋律だが、ひとときの安らぎも感じさせる曲である。スラヴ行進曲もスラヴ舞曲も、自分で演奏していても感動したが、後にカラヤン指揮のベルリンフィルの録音を聴いて、その荘厳な響きに心を打たれた。それは中学二年の夏で、初めてスラヴという言葉を知り、スラヴ人とかスラヴの歴史に少しばかり触れたのを想い出す。以来、折々にスラヴの事を知ったり、聞いたりするうちに、私の中にはスラヴや東欧への関心が芽生えていった。 東欧は西欧に比べて、何となく陰湿で、寒々しいイメージがあるが、私はそういうところにこそ大いなる魅力を感じる。未だ訪れてはいないが、いつかは方々旅してみたいと願っている。東欧は音楽の都ウィーンを擁し、オーストリアだけではなく、ヨーロッパ王家や民族が複雑に入り混じり、重厚で濃密な歴史が秘められている。西欧とロシアと中東に囲まれた東欧は、ユーラシア大陸の臍のような場所で、小国が集まり大国に睨まれて、人々は小さく慎ましやかに暮らしている。時にはその小国同士がくっついたりすることがあるが、人種も多様なため、なかなかうまくはいかない。

今、国立新美術館ミュシャ展が開催されている。晩年の大作「スラヴ叙事詩」全二十枚が、母国チェコ以外では初めて同時公開されるとあって、毎日盛況である。私も楽しみにしていたので、先日、夕方から出かけてきた。これほどの大作を目の前にすると、誰もが息をのむであろう。それほど圧倒的存在感を放つ作品群である。スラヴ叙事詩の前に立つと、またスラヴ行進曲を想い出した。眺めている間中ずっと、スラヴ行進曲やスラヴ舞曲が私の中で流れている。私はそれらの音楽とミュシャの描いたスラヴ叙事詩だけで、スラヴやスラヴ人のことを解ったつもりは毛頭ない。その程度でわかるはずもない。だが、果てしなく遠い東欧に対する憧憬と、一筋縄では辿れぬ重き歴史に想いを馳せるには充分であった。

単一民族たる日本人でも、アイヌや島の人々との揉め事はある。でも、スラヴ人とかユダヤ人とかイスラム圏の人々のように、何千年も血腥く混迷を繰り返しているわけではないので、彼の地の人々の気持ちや文化などは計り知れない。一つ言えるのは、大きい方が譲り、小さい方を受け入れてゆかねば、何も始まらないだろう。残念ながらそれは難しいことで、人類の永遠の課題である。人類とはそれを課せられた種であり、我々が滅亡するまでは解けぬ呪縛なのかもしれない。

スラヴとはどのあたりかといえば、あまりにも漠然としてしまうが、何となくあの辺りとは想像できる。スラヴ人の歴史は古く、先史時代に遡るとされるが、一口にスラヴ人と断定するのも大変難しい。東欧、中欧に暮らし、東スラヴ人、西スラブ人、南スラブ人に大別される。万年流浪の民ともいえ、血塗られた哀しい歴史は果てしなく今も続く。一説では、スラヴがギリシャ語を介して奴隷を意味する原語となったとも云われる。私などには、想像もつかないが、いつの世も小国は大国に翻弄され、巻き込まれて、代理戦争の犠牲となる。もしかするとユダヤ人以上に、長く暗い民族の性を引き継いできたのかもしれない。

スラヴ叙事詩は、私のようなスラヴのことに無知な人間にも、大変わかりやすく、スラヴの歴史を端的に見せてくれる。それは、「原故郷のスラヴ民族」という衝撃的なシーンから始まる。異民族の襲撃に怯え隠れるスラヴ人の男女の恐怖の眼差しが、絵と向き合う者に助けを求めてくる。迫りくる異民族は、まるで悪魔の様で、絵画なのにとても不気味で恐ろしい。あの眼差しは助けを求めているのか、もしかしたら異民族に対する憎悪なのか、平和に暮らす者達への嫉みの眼差しなのか。或いは現代人への警告なのか。本当の恐怖の前では、人は固まるという。この絵からは、そんな人間の本質が、表裏一体となって抉りとられている。スラヴ叙事詩はこの一枚に極まると言っても良いほど、単刀直入にスラヴ民族の艱難辛苦を表現している。スラヴの歴史を二十枚もの大作で描き切るが、ほとんどが戦闘、逃亡、戦死、征圧、従僕に焦点されていて、悲哀に満ちた一枚一枚に胸を打たれる。しかし、スラヴ人には厚き信仰があり、それを糧とし望みとして、最後は奴隷解放からスラヴ民族の独立と平和、人類友愛の希望と、神の後光に包まれながら、壮大なスラヴ叙事詩は幕を閉じる。まるでスラヴ行進曲をそのままを辿るようで、絵画と音楽が融合してスラヴ人の偉大なる忍耐力を見せつけられた思いがする。最後は共にスラヴの夢を謳い、まるで西方極楽浄土へと誘われているかの様な気分になり、強く強く私の心に残った。

アルフォンス・ミュシャといえば、アールヌーヴォーを代表するアーティストで、二十世紀から現代絵画へとつながる先駆けとなった画家でもある。ミュシャは1860年にオーストリア帝国モラヴィア(現在のチェコ)で生まれた。二十八歳でパリへ赴き、花の都で洗練された彼は、一気に時代の寵児へと駆け上がる。パリ万博から、有名劇場の公演のポスターを多く手がけ、アールヌーヴォーの旗手として世界中にファンを生んだ。その作品は日本にもあり、堺市美術館には多くのポスターが蔵されている。伝説の舞台女優サラ・ベルナールは、自ら指名してミュシャに自分の舞台公演のポスターを依頼した。中で、極めつけともいえるのが、1896年に描かれた一枚で、妖艶な自信に満ち溢れたその表情から察するに、サラ・ベルナール絶頂の時に違いない。そこを見事正確に捉えたミュシャの筆にも充足感が漂っていて、女優というよりも、今、降臨した女神の如くにみえる。ミュシャは以後も、何作も彼女の舞台のポスターを手がけている。

人気実力ともに最高の時を迎えたミュシャだったが、人はそんな時にこそ、ある種の空虚な気持ちに襲われるものだ。パリで成功し、誰にも慕われ、富も名声も築き上げた彼は、愛されれば愛されるほど、言い様のない孤独感に苛まれたのかもしれない。まして今の自分とは対象的な己の出自を鑑みて、或る時、行動せざるを得なくなったのだろう。民族への誇りと慰めと尊敬が、必然の衝動としてミュシャを動かしたのだ。一説では、スメタナ組曲「わが祖国」を聴いて、インスピレーションが沸いたとも云われている。いずれミュシャは沖へ戻る波のように、1910年に故郷へと帰った。 スラヴ叙事詩という大作を描く着想を得たミュシャは、パリ時代からのパトロンで、アメリカの富豪チャールズ・クレーンから資金援助を受けながら、ツテを頼りプラハ郊外のズビロフ城を借りて居住。天井の高い広々とした古城の一室を、スラヴ叙事詩を描くためのアトリエにした。そこでこの二十枚の集大成を、二十年の歳月をかけて描き切ったのである。ミュシャの画家としての執念と、直向きさには感服するし、快く城を明け渡して、協力した人の心意気にも感動する。何れにしろ、この大作を日本で見られることは当分ないだろう。見逃すべからず。私はいつかチェコに行って、スラヴ叙事詩が誕生した彼の地で、再会したいと思っている。その時は、また違う心持ちとなるのだろうか。

馬蝗絆と稲葉天目

東博茶の湯展が開かれている。展覧会は、日本の茶道を一通り網羅する大規模なもので、これほどの規模で開催されるのは、三十七年ぶりという。さっそく私も拝見してきたが、陳列の多さに圧倒され、いささか満腹気味。終わる頃には疲れ果ててしまった。こうした展覧会の趣旨には賛同するし、展示品はなかなか見れない逸品揃いだから、血眼になって廻ったが、あまりに大規模すぎる開催もどうかなと思う。ましてや茶の湯の展覧会。小出しに開催する方が、それらしい気がした。しかしまあ、東博だからこそ、これだけの展覧会が開けるわけで、ありがたいことではある。特に 私の目を惹いたものは、不審庵伝来の茶道具の数々、山上宗二記、利休作の茶杓 銘 ゆがみ、長次郎の黒楽 銘 俊寛、仁清の茶壷や香合は、やっぱり見てよかったと思う。書画で気になったのが藤田香雪蒐集の駿牛図である。鎌倉時代の作で、一見すると素朴な筆致で、牧童が牛の手綱を引く長閑かな場面だが、牛は力を漲らせ、目つきは鋭くも澄んだ賢さを湛えている。牛は神の使いとして、我が国でも大切にされ、こうした駿牛図もたくさん描かれてきた。農耕や運搬に牛を利用してきたことはいうまでもないが、貴人の乗り物は馬車ではなく牛車であったし、闘牛も古くから神事として行われてきた。天神信仰が生まれると、牛は天神の眷属として崇められた。そうした神韻縹渺たる雰囲気が、この駿牛図には漂っている。この一幅が茶室に掛けてあったらと思うと、果たしてどんな趣となるのであろうか。想像してみるだけでも楽しい。

足利義政が愛した青磁。銘 馬蝗絆 。私は青磁が大好きだが、これに敵う青磁の茶碗はまだ見たことがない。わずかに緑を含んだ透ける様な青磁色、柔らかでとろけるような風合い、そして何より気品に満ちた凛とした姿。欠と継もすっかり景色となっている。南宋時代の龍泉窯での作で、享保十七年(1727)、儒者・伊藤東涯が記した『馬蝗絆左甌記』によれば、平安末期、平重盛杭州・育王山の仏照禅師に黄金を寄付した際、その返礼として贈られたとされる。流れながれて、足利氏随一の数寄者義政の手に入った。義政はこの茶碗を殊のほか愛したが、ヒビが入ってしまったため、明へ送り、これと同じように作って欲しいと頼んだが、明からは、この茶碗と同じものは、もはや作ることはできないとの返事で、茶碗は送り返されてきた。送り返された茶碗のヒビは、鉄の鎹で継がれていた。「馬蝗」とは馬の背中にとまった蝗(いなご)のことで、中国では鎹の意味でも使われるため、馬蝗絆(ばこうはん)と銘々されて、東山御物とされた。義政以降は吉田宗臨、角倉家、三井家に渡り、今は東博に蔵されている。明から戻ってきた碗の痛々しい姿を咎めず、以後も愛で続けた義政という人物の懐の深さにも感動するが、明もこれほどの名品をすんなりと返してきたところが心憎いではないか。今の我が国と中国の指導者に、爪の垢を煎じて飲ませたい。昔の人は粋で偉いと思う。  

さながら北野大茶湯を彷彿とさせる展覧会において、ひときわ注目を集めていたのが、我が国の至宝中の至宝ともいえる国宝 稲葉曜変天目 である。私もこの一碗を拝みに行ったのだ。ついに本物を目の当たりにした衝撃と、澎湃として湧き上がる感動は筆舌に尽くしがたい。それほどただならぬ魔力が、ガラスケース越しでさえも放たれてきて、しばしその場を離れることができずにいた。この茶碗は、現存する三つの国宝の曜変天目茶碗の中で、最高のものとされる。曜変天目は、南宋時代に今の福建省建陽市にあった建窯で焼かれたと云われる。ごく僅かしか作られず、中国には完全な形では現存しない。日本の国宝三点と重文1点が、世界で唯一現存する完全な形の曜変なのである。中国では曜変は不吉であると忌み嫌われ、ほとんどが破棄されたが、それを逃れて日本に伝わったのが、今に残っていると云われている。稲葉天目は、廻りめぐって徳川家康の手に渡り、三代家光が病床の春日局に下賜した。そして、稲葉家へ伝わり家宝とされたのである。ゆえに稲葉天目と称されるようになった。その後、三菱財閥の手に渡ったが、現在は静嘉堂文庫に蔵されている。それにしても、いったいどうやってあのコバルトブルーの発色が成るのであろう。彗星と星屑の如き紋様が、あの様に編み出されるのだろう。神業か魔力か知らないが、どちらかといえば、強い魔力を感じるのは私だけではあるまい。茶碗は思いの外小さい。私の手の中にすっぽりと収まるだろうが、茶碗の中には果てしない銀河が広がっている。初めは偶然の産物だと思う。だがその偶然には、土、窯、温度、湿度、時間、そして陶工の技量、忍耐、想いまでの全てが、ある瞬間に一碗に纏まり凝縮された。その時、曜変が生まれたのだ。曜変は歴代の天下人に愛され、比類なき宝として珍重されると同時に、畏れられた。ブラックホールの様にすべてを吸い込みそうな曜変。その妖しい光に誰もが魅了され、身も心も虜となるであろう。昔も、今も、これからも。

先日、近代美術館で楽茶碗の展覧会を観た。初代長次郎から当代吉左衛門に至るまで、これでもかという名品が顔を揃える。ここまで一同に会するのは、当代曰く、自分の生前はもう無いだろうとのこと。はたして、楽家代々の茶碗が並ぶと壮観であった。同時に、楽家のことも、楽茶碗のことも、解ったようなフリをして、何にも解っていないことを痛感し、これからも私などには到底不可解であろうことは、判ったと思う。本当は解るとか判らないとかはどうでも良いことで、願わくば、一碗を手にとって一服いただいてみれば、或いは、私のような愚物でも、ほんの少しは入り込めるのかもしれない。でも、ガラス越し遠目に眺めていても、乾涸びずに、しっとりとしたしなやかな土の感触が伝わってくる茶碗がある。楽家歴代は皆、個性を重視しつつ、光芒を放ち続けている。

初代長次郎は、千利休の希求する茶の湯観に真剣に、さらりと応えた。私たちが、利休の侘びを象徴する茶碗として、いの一番に思い浮かべるのは、長次郎である。だが、きっとそこに到達するまでの模索、試作の過程では葛藤もあったはずだ。長次郎は、それを乗り越えて、思想も、力も、希望をも削ぎ落とした。長次郎の茶碗は、表現という俗的部分をすべて棄て去り、全くお茶を飲む道具としてそこに在る。黒楽 銘 大黒も、赤楽 銘 太郎坊も己の主張は絶って見える。美術館の陳列ではさもありなん。冬眠しているようなものだ。故にとても静かである。茶席に現れて、茶筅通しで潤いを与えた瞬間、茶碗は目覚める。その時にしか見せない顔や色となる。それが自分の手の中にあることを、私は想像してみた。一方で、長次郎の作った置物、銘 二彩獅子は、とても躍動的で見る者に迫ってくる。長次郎は、茶碗とその他のやきものを、完全に別物として捉えていた。茶碗はあくまで茶道具。長次郎はそこに誠心誠意向き合い、打ち込んだ、真面目な人であった。長次郎の作品からはその真面目さが、直に伝わってくる。利休もまたそれをわかっていたと思う。

展覧会では光悦の茶碗もあった。本阿弥光悦は、楽茶碗を愛し、ついには自分で作陶したが、それが光悦ならではの、光悦の中の美を見つけた証となっている。その徹底ぶりには驚かされるが、到達したところは、決して物真似にはなっていないところが凄い。光悦は光悦である。中で、黒楽 銘 雨雲は、碗の中に一幅の水墨画を見るようだ。私には雨雲が散りゆく桜花に見える。光悦の暮らしや生き方に、私はとても興味がある。鷹峯の奥で隠棲しながも、楽家と付き合い、必死で自分の楽を追求したところも、光悦の魅力のひとつだ。楽を愛で、楽しく人生を謳歌した、本物の数寄者であった。

長次郎以来の楽家の中で私が気になったのは、三代道入と、八代得入である。道入の茶碗は、初代長次郎や二代常慶にはない、独特の光沢と艶が印象的で、とろりとした肌がたまらない。楽家の釉薬の技法を完成させた道入。黒楽 銘 青山は、東山に出ずりゆく昇月のように美しい。道入の茶碗からは何億光年もの輝きが発せられ、この展覧会のテーマである、「茶碗の中の宇宙」を象徴している。道入は、以後の楽家の道標のひとつになったと思う。一方、得入は、父である七代目長入の隠居に伴い、八代目吉左衛門を襲名したが、元来病弱であったため、父が亡くなると、弟の了入に九代目を譲り隠居した。隠居後は楽家の重圧から解放されて、好きに作陶したが、わずか三十歳で夭折。薄弱な得入には、楽家の看板は重すぎたのだろう。でも彼は長次郎譲りの生真面目さで、期待と伝統に応えようとした。残されたわずかな作品は、彼の愚直な優しさに溢れている。得入の作品は何せ数が少ないが、出品されていた、黒楽 銘 万代の友 は、二匹の亀が仲良く遊ぶように描かれていて、長寿の縁起を担いでいるが、それがかえって哀れに見える。病弱であった得入ならではの作品で、彼にしか作ることのできない、生き存えることへの憧れが切実に込められている。私はこの茶碗に強く心を揺さぶられた。しばし茫然と眺めていたが、得入の願いが虚しく散ったことを思うと涙が零れる。しかし、得入の想いは今に残っている。故に人は、今も楽を愛するのだ。得入が作陶した時は僅かであっても、しっかりと襷は繋がれている。

展覧会のラストは、当代吉左衛門の作品群。楽の今を存分に楽しませてもらった。極めて前衛的な茶碗が、天上の花畑のように並ぶ。吉左衛門は、「加飾への極限的な挑戦、非装飾の長次郎の対極まで一度は行かなければならない」と言い切る。一度、崩し尽くせるところまで崩しておきたいという信念のもとこれまでやってきた。が、ここにきて長次郎以来、亡き父覚入までの楽家を改めて思い直して、当代にとっての新たな道に入っている。吉左衛門は、心から自分の茶碗で茶を飲んで欲しいと言う。見るのではなく茶を飲む道具。茶碗とは道具である。私たちは名品を目の前にすると、つい盲目になってしまう。かくいう私もだらだらと浅薄な雑感を申し述べたが、要は茶を飲みたいのだ。楽茶碗で茶を飲みたい。いつか楽家の茶碗で茶を飲みたいのである。長次郎から当代まで、そして次代篤人へ。楽家の宇宙はとどまることはない。歴代の作品を見て、等しく思ったのは、今も恒星の如く自ら輝きを放っていることだ。どれもが情熱の塊なのだが、美術品として見る者へと放たれる主張は、徹底して削がれている。やきものは、窯から出すまで想像できるところと、想像できないところがある。やきものの真髄とは、想像できない部分であろう。何一つわからない私でも、それだけは信じている。

日本仏教見聞録 護国寺

かつて私は護国寺の近くに住み、境内や門前をよく歩いた。若い頃、正月にテキ屋のアルバイトをしたこともある。不老門の石段下で、初詣客を相手に、おみくじやジャガバター、焼きそばなどを売ったりした。大晦日の朝から準備をして、翌元日の日暮れまで一睡もせずによく働いたものだ。正月三ヶ日はそんなふうに過ぎて、金杯を観戦する頃に、ようやくのんびりした正月を迎えたのである。若いからこそできたことだ。テキ屋には年配の人がけっこういて、彼らは私よりもずっと元気で威勢があった。その道一筋、皆一様に顔は真っ黒に焼け、シワまで脂ぎっていた。傍目には、器用に生きられず、浮き世に背を向けるように、露天商の道に入ったという感じがした。灼熱の夏も、極寒の冬も、外で商売をする辛い仕事なので、抜ける人も多いが、留まる人もまた多い。私の世話をしてくれたオヤジは、元締めにはずいぶん叱られていたが、今はどうしているか。まだ元気にやっているのだろうか。護国寺に行く度に、彼のことを思い出す。護国寺は、真言宗豊山派大本山であり、徳川綱吉の力をあまねく天下に示すべく建立された寺であり、明治国家の元老中の元老山県有朋の墓がある威風堂々たる大寺院である。その護国寺に、今回は仏教と権力という観点から迫ってみたい。

神齢山悉地院護国寺は、天和元年(1681)二月七日、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の発願により、上州高崎の大聖護国寺住持であった亮賢僧正を開山として招き、徳川家の祈願寺として建立された。幕府の高田薬園の地を与え、翌天和二年に旧本堂が完成。亮賢は、大和の長谷寺で修業し、当時、霊験ある真言密教の祈祷僧として有名であった。噂を聞いた桂昌院は、綱吉を身篭ると、亮賢に祈祷をさせた。亮賢が「この子は将来、天下を治める器である」と言ったことで、桂昌院は亮賢に深く帰依するようになる。こうして生まれてきた綱吉は、廻り巡って天下人となった。

綱吉は三代家光から四代家綱の時代に、政治の主導権が幕閣に移ったことを憂慮し、将軍親政を取り戻そうとした。家綱時代の閣老を排除し、自身の側近で身辺を固め、牧野成貞や柳沢吉保といった側用人を重用した。何事も側用人を通さねば、将軍決済を得ることができなくなり、側用人の威力は増した。また或る時、江戸城中奥の将軍居間のすぐ側で刃傷沙汰があり、警備が強化された。将軍はさらに奥へと引っ込み、取次はすべて側用人や御用取次を介さねば、たとえ老中や大老であろうとも、謁見は許されなくなった。余談だが、江戸城の刃傷沙汰と云えば、元禄赤穂事件が一番有名だが、江戸時代を通しては意外に何度も起きているのである。田沼意次の息子田沼意知も、殿中で斬り殺されている。

こうして幕閣の権威は失墜し、将軍親政のもとで、幕政改革が始まった。中で、下馬将軍と称された酒井忠清は、大老として家綱時代には絶大な権勢を振るったが、五代目継嗣問題で、時期将軍を綱吉ではなく、皇族であるが、徳川家とは縁の有栖川宮幸仁親王を宮将軍として奉戴すべく謀り、綱吉陣営との政争に敗れ、某略を持って野に下された。忠清が親王を将軍に迎えようと画策したのは、己が権力を保持せんがためだが、そもそも家光から幕末まで続く将軍継嗣問題で、何よりも血筋を重んじたのが徳川家の伝統であり、幸仁親王がたとえ徳川の縁者とはいえ、保守派には公家から将軍を迎えるなど論外であった。忠清の驕りが過ぎて、事はあっさりと捻り潰されてしまい失脚する。

綱吉政権は強かった。財政的にはこの時すでに傾いていた徳川家であったが、綱吉は強固な政治基盤を築くことに成功し、リーダシップを発揮する。そして元禄という徳川時代最大の発展期を迎え、天下泰平盤石となり、ようやく庶民にまで、幕藩体制の恩恵が行き渡り始めた。一方で専制君主の綱吉は、生類憐れみの令を発布し、だんだんに市民を抑圧するようになる。中野には御囲(おかこい)という、広大な犬の収容所を設けた。ちょうど今の中野駅周辺にあったとされる。その維持費は莫大で、幕府財政をさらに逼迫した。周知のとおり、生類憐れみの令は、犬はおろか、蚊を殺しても罰せられたほどで、初めは名君の誉れ高かった綱吉も、やがて人々から犬公方と揶揄されるようになる。生類憐れみの令は、世界初の動物愛護の法と云っても過言ではあるまい。が、それが次第にエスカレートしてしまい、結果、天下の悪法とまで呼ばれるようになった。綱吉は戌年生まれで、犬を大切にすれば、天下は治り、将軍家も安泰と信じ込んでいた。綱吉自身が狂犬になったのである。

桂昌院は、公式では二条関白家の家司で、北小路氏の娘とされるが、出自については様々な説がある。よく云われるのが、京の八百屋の娘とか、西陣の織物職人の娘ともあるが定かではない。家光の側室のお万の方が、伊勢慶光院の院主をつとめている時に縁があり、お万が還俗して大奥入する際には付き従ったとされる。その後、春日局に見出され、薫陶を受けて家光の側室となる。春日局が亡き後、大奥を束ねたお万にも重用されて、綱吉が生まれた。町娘から将軍生母となり、従一位まで授与された桂昌院は、日本の女性では類を見ない、位人臣を極めたシンデレラであった。故に、権威権力に対する固執は凄まじく、最晩年まで大奥を取り仕切り、綱吉には事あるごとに進言することを憚らなかった。専制君主とその生母には、誰一人逆らうことなく、国中がひれ伏した。このように綱吉と桂昌院は、いつも二人三脚であった。この二人を表で補佐したのが側用人の牧野成貞と柳沢吉保で、裏で補佐したのが綱吉親子の護持僧の亮賢と隆光である。

 隆光は、慶安二年(1649)奈良の旧家河辺氏に生まれた。万治元年(1658)に唐招提寺で修行に入り、寛文元年(1661)に長谷寺へ入って、新義真言宗を修学した。また奈良や醍醐の法流も受けた。徐々に祈祷僧として頭角をあらわした隆光は、貞享三年(1686)に、将軍家祈祷寺のひとつである、筑波山知足院の住職を命ぜられ、関東へ下った。南都に生まれ、大和の風物に親しんできた隆光にとって、東下りは心細くもあったであろうが、それ以上に将軍家に仕えること、また強い将軍綱吉に惹かれていたに違いない。関東に下向することは、不安よりも、己が将来を大きく展望し、胸弾ませたことであろう。 綱吉に信頼された隆光は、常に側近として祈祷にあたった。綱吉は神田橋の邸から、江戸城本丸へ入ると、神田橋邸跡地に護持院という寺を建立し、筑波山の知足院も護持院と改めて、隆光に住職を兼務させた。やがて護持院は護国寺建立時に、音羽の地に移転し、新義真言宗でもっとも格式ある寺となる。古地図を見ると護持院は、今、護国寺に隣接する豊島岡御陵の辺りにあったはずだ。護国寺と護持院は、新義真言宗の大派閥として共存共栄した。日本仏教は鎌倉以降、浄土門禅宗勢力を伸ばし、徳川時代に入ると、寛永寺を建立した天海の天台宗に押され気味の真言宗であったが、護国寺と護持院のおかげで、久しぶりに真言宗が日の目を見ることに成功した。亮賢と隆光の智略と尽力の賜物であろう。元禄八年(1695)隆光は、真言宗新義派で最初の大僧正に任じられた。

綱吉に犬を大切にするように吹聴したのは隆光であった。隆光は、まさしく不敵に綱吉親子に取り入ってゆく。一時は政道を左右するほど、隠然たる影響力を持ったとされる。綱吉、桂昌院柳沢吉保、そして亮賢と隆光が元禄日本の頂にいた五人組である。そして、この五人が華麗なる元禄時代を主導し、創り上げた。こうして、隆光もまた将軍家の威を借りて、一時は日本一力を持った僧であった。桂昌院柳沢吉保、隆光の三人が綱吉をプロデュースし、元禄バブルを扇動した。いわば護国寺と護持院は、彼らの夢の終着点であり、頂点を極めるまでに流した、血と汗と涙の結晶であった。とかく元禄のラスプーチンの如く云われ、悪僧とも称される隆光だが、実際はなかなか徳のある坊さんだったようだ。綱吉は、優れた祈祷僧としてのみならず、隆光の人柄、教養、英知を尊敬し、ブレーンとしても厚く信頼して、仏教の師として仰いだのである。生きとし生けるものを憐れみ、殺生を禁じたのも、元はといえば仏教の教えに他ならない。考えてみれば、何も間違ってはいない。だが、高みへ昇り詰め過ぎた彼らには、はるか下界は雲の下。昔は見えていたものが、いつのまにか見えなくなってしまった。そうして綻びと歪みを生んだのであろう。

日本に仏教が伝来してから今日まで、正確には明治維新までは、仏教は権力者と共に歩んできた。明治維新以降は付かず離れずだが、どちらかと云えば、民衆の中にあり、戦後は各個人に委ね納まっている。聖徳太子に始まり徳川氏まで、歴代天皇武家政権に庇護されて、日本仏教は発展を遂げてきた。古来より日本人は八百万の神々を奉ってきたが、その神々と仏教が直接対決をしたことはない。はじめは物部氏のように排仏を唱える者がいたが、仏教は日本の自然や土着の神と融合しながら、しなやかに日本人に浸透した。神仏混淆とか神仏習合という言葉は、日本の神々と仏教が柔和に馴染んできたことを示している。一方で、明治維新の時の廃仏棄釈や神仏分離は、明らさまな激流であった。が、日本人の心に染み渡った仏教は、廃仏棄釈如きでは絶えなかった。今その土台を我々は踏みしめている。これから先、もしかしたらまた権力と癒着した宗教が出現するかもしれないが、二十一世紀の日本仏教は、等しく万民に寄り添える仏教に成長した。いや成長ではなく、これが本来の仏教である。仏教はいつでも手を差し伸べている。その手を握るか否かは自分次第だ。

護国寺の境内は空が広い。いつ来ても開放的な気分になる。本堂である観音堂は、元禄十年(1697)正月、新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で同年八月落慶供養となった。旧本堂は小ぶりであったが、新築された観音堂はその四倍以上の大伽藍となった。当時の建築工芸の粋を結集した建築で、その雄大さは江戸でも指折り、今の東京では随一だ。本尊は、桂昌院の念持仏で六尺五寸の琥珀如意輪観音だが、絶対秘仏とされ拝観はできない。今、本堂の厨子の中に安置され、毎月御開帳されるのは、大老堀田正俊次男大坂城代を務めた堀田正虎の母・栄隆院尼が寄贈した如意輪観世音菩薩である。この日もちょうど御開帳されていた。絢爛たる宝冠をいただくこの観音様は美しい。平安後期の作と云われ、片膝を立て、うつむき思惟する表情は、如意輪観音ならではの艶かしさが漂う。仏像に性別はないが、観音様はどちらかといえば女性的、母性的である。ことに如意輪観音は、極めて妖艶な色香を放つ。私は、数ある観音様でもっとも如意輪観音が好きだ。そこに母の面影を見ることもあれば、いかにも女性にしか発することのできぬ偉大な力に包まれる心地がする。護国寺建立を発願した桂昌院は、綱吉への深い愛情と、国母としての力と慈悲、そして町娘から、女として最高の地位に到達した喜びと達成感に溢れていたに違いない。そうした意味で護国寺は、鎮護国家とか徳川の祈願寺というよりも、母が子を思う母性的慈悲の寺、或いは女性の出世と幸せを願う寺だともいえよう。

本尊厨子の両翼には、極彩色の観音三十三身像並んでいる。これだけの観音像が一同に居並ぶ様は壮観である。他にも内陣向かって右には、不動明王や二童子像があり、内陣向かって左には、大黒天と恵比寿天、その周囲には四天王像など多くの仏像が安置されていて、護国寺は東京でも随一の仏像の宝庫である。また、観音堂の天井には元禄という時代を示す艶やかな天女図と、壁には巨大な絵馬群が奉納されていて、いずれも圧巻の存在感で観音堂を彩る。この大建築が、震災にも戦災にも焼けずに残ったのは、とてつもない観音力のおかげであろうか。江戸には徳川家所縁の寺がたくさんあるが、寛永寺も増上寺も伝通院も、皆、焼けてしまった。護国寺が唯一、徳川時代の威光を知らしめてくれている。

言うまでもなく、真言宗豊山派の総本山は、大和の長谷寺であるが、現在豊山派の本部は護国寺に置かれている。護国寺豊山派の布教活動の拠点なのである。足立区の西新井大師とともに、関東の豊山派を束ね、その発展に尽力してきた。長らく真言宗は、高野山、東寺、智山、豊山が四本山とされたが、明治以降は分派分裂を繰り返した。今、真言宗には数多の派があるが、豊山派は新義の一派で、智山派や新義真言宗と紆余曲折を経て、昭和二十一年に改めて発足した。祖師は弘法大師空海だが、空海以来の真言密教を古義、院政期に、真言宗中興の祖とも云われる覚鑁を流祖とした真言密教が新義と呼ばれる。一時は新義派が主導した時期があり、その教義は拡散した。この頃は、東寺の長者が高野山座主も兼ねたが、覚鑁は、最高権力者の鳥羽院と昵懇になり、鳥羽院院宣高野山座主に就いた。これは異例なことで、覚鑁はこれを機に真言宗の大改革を始める。が、これまで影響力のあった東寺勢力を退けて、高野山の独立を企てたところで、抵抗に屈し失脚。自らの根来寺に退いて、失意のうちに世を去った。真言宗の中にさえ、こうした権力闘争が渦巻く時代があったのだ。時代は降り、秀吉の根来寺討伐の後、天正十五年(1587)長谷寺に専譽が入り、慶長五年(1600)には、玄宥が京都に智積院を開き、それぞれ豊山派、智山派と称するようになる。両派とも新義で、新義真言宗を含む三派が新義の系譜を繋いできた。古義は関西に多く、新義は関東に多いといわれる。新義も総本山は関西だが、関東を足場に布教した大本山の果たした役割が非常に大きかった。関東の真言宗寺院は、豊山派と智山派の寺が圧倒的に多いのも、宜なるかなである。でも、根本の教えと真言密教の秘法は、空海以来どの派もさほどの差異はなく、受け継がれている。護国寺の観音堂内陣でも、常に護摩焚きが行われてきた。故に天井は三百年の煤で黒光りしている。

護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した護持院は、明治時代に護国寺に吸収合併した。護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地五万坪のうち、東側の二万五千坪は皇室に献上されて、皇族の墓所(豊島岡御陵)が造られた。また、西側の五千坪は陸軍墓地となり、護国寺境内は二万坪ほどに縮小した。現在、陸軍墓地護国寺墓地の一角に整理されていて、山県有朋もここに眠る。他に三条実美大隈重信らも眠り、ここは明治の元勲たちの墓場なのである。私は山県有朋にもとても興味がある。日本陸軍の父とも呼ばれた山県は、晩年まで老獪に政界と軍部に蔓延ったが、そういうところが、山県の一番の魅力だと私は思う。山県は松下村塾の末席に名を連ねたが、頭角を現したのは、他の塾生が早世してからで、西南の役以降急速に力をつけた。白洲正子さんの祖父樺山資紀は、海軍軍令部長で台湾総督まで務めた元勲の一人だが、樺山は「本当に偉い人達みんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ」と言ったそうである。山県にもそういう想いがあったかはわからない。そんなことは微塵も思わなそうなイメージが、確かにある。ダークな部分が付き纏う人物だし、事実そんな人であったと思う。が、先に死んだ者へのリスペクトが、彼を晩年まで突き動かした、唯一つの信念ではなかったか。あえて泥被り、汚れたキャラクターに徹することこそが、彼の立つ瀬であり、先に死んでいった人達への誓いと、供養であったと、私は勝手に思っている。山県は、京都や小田原にも巨大な別荘を持ったが、東京には護国寺からほど近いところに、本邸があった。これが椿山荘である。今はホテルの名前になっているが、あそこが山県の邸跡だ。椿山荘のあたりは、江戸時代から椿山と呼ばれた椿の名所で、今では考えられないほど風光明媚なところであった。山県はこの地を気に入り、自邸を椿山荘と名付けた。ホテルは名前も拝借したのである。山県の趣味は庭造りで、お抱えの庭師にあれこれ指図したとか。こんな面白いエピソードがある。或る時、京都蹴上の別荘無鄰菴の某有名な庭師に、庭石の置き場所について注文をつけると、庭師は、「閣下は兵を動かすことは誰よりもできるでしょうが、こと庭石をどこに動かしどこに置くかは、私の方が閣下よりもうまくできると存じます」と、畏れ入って答えた。山県はそれはもっともだと呵々大笑し、以後は口出しせずに黙って眺めていたという。大元老に臆することなく、進言した庭師も立派だが、分を弁えた山県の振る舞いに、私はとても親近感を覚える。今、山県は護国寺の裏の墓地で、妻と仲良く並んで眠っている。

護国寺には茶室がたくさんある。実業家で茶人として知られる高橋箒庵は、護国寺の檀家総代を務め、大正から昭和初期にかけて境内の整備を行った。芝にあった松平不昧公の墓所関東大震災で被害を受け、区画整理の関係もあって、松江への移転が検討されているのを知り、護国寺への移転を実現させた。また三井寺の月光殿を、原六郎から譲り受け、護国寺の西側に移築した。その他、五つの茶室、多宝塔、不老門を建設。これ以後、月光殿や茶室を利用して護国寺で大規模な茶会が開催されるようになった。今も護国寺では定期的に茶会が催されている。不老門からの眺めは良い。石段を昇り枠の向こうに青銅色の観音堂の大屋根を望む時も、反対側から眼下の音羽通りを俯瞰するのも、なるほど護国寺とは大本山たるに相応しい寺だと実感するであろう。

元禄時代は、江戸時代ファンでなくとも、関心がある人が多い。忠臣蔵、生類憐れみの令、花開いた江戸町人文化、松尾芭蕉の登場など、角度を変えてみれば、なおいっそう、様々におもしろき時代である。元禄の名残りを求めるならば、元禄の象徴とさえ云える護国寺へ是非とも足を運ばれたい。そこにはきっと、あなたの探す、私の探す元禄時代が見つかるであろう。