弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

甲子園礼賛

今年で99回目の夏の甲子園もいよいよ決勝。今年は強烈なスラッガー揃い。準々決勝でホームランの大会新記録が出たり、大会史上初の代打満塁ホームランが出たり、ついには広陵高校の中村奨成選手が、準決勝で個人のホームラン新記録を有言実行で出してみせた。今大会はヒットも多彩で、とても見応えがあったと思う。一方で投手陣は、絶対的エースはいないが、何枚も看板がいるチームが増した印象。プロ野球のように分業となってきた。やはり、エース一人に背負わせれば、体力的にも精神的にも、下手をすれば、甲子園後が無になってしまいかねないほど消耗してしまうもの。そのあたりが、長年の課題にもなっていたが、ここへきて指導者たちにもそうした考えが浸透してきたのか、或いは今後は常識になるのではなかろうか。観ている方は、絶対エースの華々しい活躍に見惚れたい気もするが、選手のことを思えば、やはり分業が望ましい。その方が投手陣の打撃にも磨きをかけられるだろうし、彼らも自分こそがエースとなるために精進するに違いない。投手分業は、チーム全体に誠に良い相乗効果をもたらすであろう。 どんなスポーツも年々進化しているが、野球は近年はサッカー人気にやや押され気味だった。でもやはり伝統はそう簡単には廃れない。個々のレベル、体型、メンタル面、指導方法に至るまで飛躍的に進歩している。逞しく楽しみな高校球児達が、毎年育っているのだ。

日本人は野球が好きだ。プロ野球は無論のこと、社会人野球や大学野球にもファンは多い。だが、なんといっても高校野球の熱気には敵わない。その雰囲気、熱視線は時にプロ野球さえも凌駕する。 高校野球はその直向きな純朴さと、まさしく青春真っ盛りを体現して魅せてくれるから、日本人の誰もが酔いしれるのだ。年少の者は高校球児に憧れ、年長の者はひとときあの頃の我に還ってしまう。プロ野球に比べたら、エラーやミスが多いのは当然だが、そんな波乱万丈があるからこそ、優劣が一瞬で入れ替わるドラマが度々あり、名勝負が生まれ、将来期待の選手が彗星の如く現れる。

高校球児はガタイも良いせいか、いくつになっても自分よりずっと大人に見えることがある。アスリートには同じことがいえるが、高校球児には特にそうしたものを感じる。サインを読み合う表情ひとつにしても、守備のファインプレーにしても、私が幼い頃、夏休みに観た高校生の兄ちゃんたちとオーバラップする瞬間が何度もある。日本の夏に高校野球は必要な風景。先から書いているが、八月は盆がきて、国民総供養の月。でも高校野球があることで、全く暗い気持ちにならずに済む。高校野球が無ければ、日本の八月は非常に重くて、抹香臭い夏になっていたことだろう。静謐な祈りのあとに、元の日常に戻してくれるのが高校野球なのである。

夏の甲子園はなぜかくも美しいのか。勝つ花、散る花どちらも爽快で、熱く、気高く、美しい。勝ち上がってゆくチームは、攻走守の実力があることは勿論だが、抽選、組み合わせ、天候、展開すべてにおいて、幸運を引き寄せるパワーを兼ね備えているように思えてならない。そして、どこかチーム全体が泰然自若としている。それは、勝ち上がる度に増してゆき、王者の風格を身に纏ってゆくのだ。そうした彼らの成長を見守ることも、また高校野球の醍醐味であろう。夏の甲子園は、都道府県の代表ということもあり、おらが国を応援したくなる。普段、地元には見向きもしない輩も、ここぞとばかりに応援する。まるで国取合戦だが、高校野球とは郷土愛を改めて思い出させてくれるものなのだ。しかし、戦い終われば選手も、応援団も、ファンも互いの健闘を心から讃える。間違ってもフーリガンなど生れない。こんなビッグイベントは、この国には他にない。国体よりも遥かに甲子園は盛り上がる。また応援合戦も名物である。メンバー入りできなかった部員、応援団、チアリーダー、家族、友人、そしてブラスバンドが一体となる。アルプスにこだまする大声援は、まさに甲子園の花といえよう。

判官贔屓の日本人は、負けたチームに対する賞賛も惜しまない。テレビ放送でさえ、勝ったほうのみならず、しっかりと負けた方にもカメラを向け、熱闘を讃える。劣勢でも最後まで笑顔の選手、試合終了のサイレンと同時に泣崩れる選手、さらに監督やチームメイトに号泣しながら詫びる選手、涙ひとつ見せず真一文字に口を結び、マウンドの土を掻き集め甲子園を去ってゆく選手。私は彼らを見る度に、感動し涙腺が緩む。勝敗を超えた賛歌は、何とも気持ちが良いものだ。

私も、毎年応援するチームが現れる。今年は、西東京代表の東海大菅生高校を応援した。西東京大会から、総合力の高い大人びたチームと感心していたが、エースの松本君の好投にも目を奪われた。菅生は、昨年まで三年連続で西東京大会準優勝。三年生は先輩達と味わった悔しさを晴らし、積年の望みを見事に叶えてみせた。惜しくも、花咲徳栄高校との準決勝には破れたが、互いに最後まで譲らず、延長11回まで戦い抜いた。高校野球史に残る名勝負であったと思う。監督や先輩達と培った想いを現役生は背負って戦ったのである。そのビッグウェーブに、ファンである私達も乗っけてもらって、共に夢舞台へ連れて行ってくれた。だからこそ、惜しみなく大声援を送りたい。そしてまた、私も彼らと一緒にすばらしい夏を過ごせたことにお礼を言いたい。今年もいよいよ甲子園の決勝だ。王者は一校だが、出場するだけでも大変な栄誉。野球を愛する誰もが夢見る晴舞台へ上がったのだから、全校みんな胸を張って地元へ帰ってきてほしい。甲子園が終わり、高校球児が凱旋すれば、日本の夏が終わる。秋はもうすぐそこまでやってきている。

秋が来る前に

旧暦ではもう秋でも、当世暑さの真っ盛り。日本の八月は鎮魂総供養の夏。お盆がきて先祖を偲び、迎え、送るという習わしは、古くから日本の夏の風景である。八月には、五山の送り火をはじめ、霊魂を慰める祭が方々で行われる。そして、八月は広島と長崎の原爆の日がきて、今日は終戦記念日。もう七十二年が経った。それにしても、長崎に原爆が投下されてから、八月十五日まで六日間もあることに、改めて驚嘆させられる。その間にも本土が方々で焼かれ、満州樺太、南方の痛ましき戦地では犠牲者が増え続けたのである。六日は長すぎる。広島からはさらに三日間もあるのだ。キリなどないが、ポツダム宣言受諾後も、満蒙開拓団の集団自決をはじめ、至る所で戦争は終結しておらず、逃げ惑い祖国の地を踏めず命果つる同胞が、知られているだけでも夥しくいた。何とも愚かとしか言い様がない。

愚かなことは今も続いていたりする。先月、国連では核兵器禁止条約が賛成多数で可決した。今後ひとまず五十ヶ国が批准する。しかし、核保有国や、日本や韓国など核の傘に守られている国は、条約に反対、不参加、棄権した。国連もここまでなのかと痛感したのは今さらだが、日本が参加しないことに、私は憤りを覚える。これまで散々、唯一の戦争被爆国などど声高に叫んできたのは、何だったのか。もっとも、おとなしい日本政府はあまり積極的に主張はしなかった。昭和の大戦に敗れた対米従属の国には、致し方ないことでもある。でもそれは、七十二年を経ても遅々として変わらず、むしろさらに何もできず、言えなくなりつつある。そして沖縄の問題。有ってはならぬモノなのに、無くてはならないモノであるから、沖縄は永久に出口無き戦後を彷徨い続けている。叫び続けるのは、戦争を体験した人や賛同する一部の人々ばかり。その声は皆まで届いてはいない。 もしくは聴こえないフリをしていたり、どうしようもないところが本音かもしれない。しかしどうしたって、今回の核兵器禁止条約ばかりは、どの国よりも、いかなる理由や妨げがあろうとも、日本こそが真っ先に参加し批准すべきであった。米朝が緊迫するなか、先の大戦後、かつてないほどの危機、脅威が目前に迫りくるのを、見て見ぬふりはもうできない。ゆえに武力で威嚇せねばならぬこともまたよくわかる。しかし、それでいいのだろうか。後にはきっと後悔と虚しさのみしか残らぬであろう。私はこれまでも、八月がくれば日本人は先の大戦のことを思い出さなくてはいけないと思ってきた。事実また、多くの日本人が戦争の恐ろしさを追憶し、戦没者を慰霊している。まだ今ならば、間に合うはずだ。春の桜から夏至を過ぎて盛夏となり、いよいよ浮かれて弛緩する日本には、考えるべき八月がある。暑いのは苦手な私だが、八月は何故か好きだ。高校野球を観戦しながら、ホッと一息をつき、立ち止まって、現在過去未来をじっくりと見据え、計り、描く。それが私の八月であり、日本人の八月だと思っている。

弔辞

次の東京五輪、選手の活躍は大いに期待し、まことに楽しみであるが、開催過程には目も当てられないほどケチがついた。負の遺産ばかりが目立つ。そして、ついにもっとも激烈で、あってはならぬ事が起こってしまった。すったもんだの挙げ句、昨年末から始まった新国立競技場の建設現場で、とうとう死人が出てしまう。しかもまだ、二十三歳のうら若き青年が、過労のために、鬱になってしまい、自ら命をたったのだ。事故ではなく、自殺なのである。何たることか。オリンピックは若者が夢を抱き、叶え、楽しむ最高の舞台のはずが、哀れなりこの始末。日本社会の歪みここに極まれり。政治の腐敗、利権闘争が引き起こしたに他ならない。青年は、昨年から新入社員として、建設会社に入り、新国立競技場の現場の一部の監督助手のような立場であった。亡くなる前、一ヶ月前後は、毎日朝四時に起きて、帰宅は夜中、休むのは深夜一時だったとか。こんな事が、少しばかり報道されて、罷り素通りしてゆく日本とは、今どんな国なのか。残念というよりも、惨憺たる薄気味悪さである。私たちは、このまま2020年を歓喜して迎えてよいのか。私にはとても無理そうである。過労と精神的に追い込まれて自殺者を出してしまった五輪なんか、祭典ではない。そもそもが、東日本大震災の復興五輪なぞと嘯き、現地は道半ばというに、挙げ句、現場でもこのザマ。沙汰の限りである。もううんざりだ。

現在、件の国立競技場は、まるでプロントザウルスが林立するかの如く、巨大なクレーンが首をひっきりなしに動かしている。この首の下では、男たちが、女たちが身を粉にして戦っているのだ。国立競技場だけではない。これから、さらに整備を急ぐ施設がまだたくさんある。過労死、長時間労働、イジメ、大丈夫か?日本。こんなことでは、身体は酷使して削がれ、心は乱れてやがて砕けてしまう。ゆとりなど露ほどもない。日本人は時代を逆行どころか、人間として退化してしまったように映る。世界に目を向ければ、日本人よりもはるかに経済的に困っている人々がいる。混沌とした情勢は、さらに混迷の度合いを深めているのも空恐ろしい。であればこそ、こんな時代だからこそ、このような事件が起きてしまったことに、凄まじい怒りを覚える。八月がやってくる、予々申し上げてきたが、日本の八月とは、供養の月。その前に七月には祇園会、山笠、隅田川花火などの夏祭りが各地で開かれた。祭とは五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄、神々への感謝とともに、死者への鎮魂の意味も込められている。私たち日本人は、昔からそうして祖先を敬い、追い落とした敵をリスペクトし、成し得るまでに柱や踏み台となった人を慰撫したのである。2020年東京五輪は、亡くなった彼の屍の上で行われるという事実を、我々は肝に銘じておかねばならない。それを忘れて、失くして、見て見ぬ振りをしてしまえば、日本に明光な未来はあるまいと私は思う。日本人、東京人、曲がりなりにも一人の大人として、私は亡くなった彼に詫びたい。心より彼の冥福を祈り、ご遺族には謹んで哀悼の意を表します。

空を摑んで

先日、母方の祖母が亡くなった。享年九十二歳の大往生であった。私は祖母の臨終に立ち会うことは出来なかったが、亡くなる前日から、祖母は目を閉じたまま、しきりに空を摑もうとしていたらしい。食事もほとんど摂らず、寝たきりとなっていた祖母が、何度も何度も手を挙げて、何かを摑み切れずに溜息をつく。それを繰り返し千回以上もやったというから、驚きであった。か細くなった身体のどこにそのような力が残っていたのだろう。本当に最後の力を振り絞ったのだ。捉えたい空の中に何が見え、何が在ったのか知る由もないが、きっと先に逝った祖父か、最愛の息子の幻影が現れたに違いないと私は思う。繰り返すうちに、ついに祖母はその向こうの誰かと、手を携えること叶ったと信じたい。その時、安らかに息をひきとったのだ。奇しくも、祖父の命日に召された祖母。祖父が迎えに来てくれたのだろうと、親族の誰もが思った。

 祖母は若い頃から文句ひとつ言わずに、専業主婦を全うした。両親の仕事の都合で少女時代は、台湾で過ごしたと聞いた。だが、その台湾で戦火に巻き込まれて、肩先を被弾した。散弾銃の生々しい傷跡は、終生消えず、私は幼い頃一緒に風呂に入った時に見て、その事を教えてもらった。今から三十年近く前には、姉妹でその時の思い出を辿る台湾旅行にも行った。その時の写真は穏やかな表情をしている。私にはいつも優しくて、お洒落で、料理がとびきり上手な祖母であった。今、私は料理が好きで自炊しているが、料理の手ほどきは亡くなった祖母から受けた。祖母の作る料理の味を、私の舌は覚えている。ことに、鯵の南蛮漬け、冬瓜のスープ、彼岸に作るおはぎ、毎年漬けていた梅干しは絶品だった。そして、正月には重箱のおせち。伊達巻、田作り、きんとん、金柑の煮付けなどなど、今ではとんと見かけなくなった、御節料理がいつもあった。いわゆる昔ながらの日本の正月を、祖母のおかげで辛うじて私は経験できたのである。こうして私に、旬の物を食すという習慣を、自然に植え付けてくれた。感謝してもしきれない。私には子供はいないが、目に入れても痛くないほどかわいい姪っ子が二人いる。私の役割は、祖母の味や想いを彼女たちに少しでも教え、繋げることだと思っている。手料理、節句、風物詩、そして旬ということ。祖母から得た教えを継ぐことが、私の祖母への唯一無二の手向けだと信じたい。六十過ぎからはリュウマチに苦しんだが、よくここまで色々諸々を辛抱して、生き抜いたと思う。心から感謝の意と、冥福を祈るばかり。ちなみに父方の祖母は、大正六年生まれの御歳百歳。いまだ健在である。

平家にあらずんば

歴史的観点から今の世相を照らし合わせてみれば、実に学ぶべきところが多い。時に、歴史をやっていることなど今を生きる事に何の意味も成さないとか、現実と未来しか見る必要はないと思っている人からは、馬鹿にされることもあるが、温故知新とは真実なのである。ゆえに歴史はやめられぬ。やればやるほど、過去にも似たような世相があったことが透けてみえてくる。古典文学も同じく、源氏物語枕草子徒然草方丈記からは日本人として生きる機微を、保元物語平治物語、承久記、太平記などの軍記物からは、政治情勢や権力闘争をつぶさに垣間見ることができる。平安末期から明治維新まで、我が国は武家政権による軍事国家であったわけで、軍記物や武将の伝記は、確かに時の政治情勢を語っている。無論、こうした類のものは、ほとんどが勝者権門に都合よく書かれているのだが、すべてが虚構でもあるまい。軍記物の筆頭といえば、やはり平家物語であろう。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありから始まり、盛者必衰の理を美しい日本語と琵琶の調べにのせて切々と語る。物心がついて、少なからず世相と日本史を鑑みることができる日本人ならば、誰もがこの言葉を嚙み締めるに違いない。私のような愚物でもちょっとはわかる。

先日の東京都議選で、都民ファーストの会が大躍進し、自民党は歴史的惨敗となった。女都知事の勢いは止まりつつあったにも関わらず、この結果である。政権与党が調子に乗り過ぎたゆえの結果と断定できよう。これは日本人の気質なのだろうか。勝っても兜の緒を締めない。だからそれを諌める諺や、四字熟語がたくさんある。いつの世も日本の権力者は、栄枯盛衰であり諸行無常であり盛者必衰である。それが定なのであろう。平清盛が一代で築きあげた平家。日本の武家政権の礎を作り、後、およそ七百年続くのである。或いは、明治政府から戦前の軍事政権まで加えてもいいかもしれない。平時忠は、「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」と評した。だがその栄華はわずかに二十年余りで、西の海に墜える。綻び始めた天下の箍は、たった一つでも緩みが生じれば、元に戻す事は容易ではない。歴史がそれを教えてくれるのに、何故わからないのか。寧ろ私などにはそれが不可思議でならない。日本の事だけではなく、今、世界的に似た様な潮流ともいえる。第二次大戦終結後、最大の危機が、そう遠くない日に訪れる予感がするのは私だけであろうか。時は流れゆく水のようにすり抜けて、政は秋の落日の如く暮れてゆくのである。天下を手中にしてなお、石橋を叩いて渡っていったのは、藤原道長徳川家康くらいかもしれない。今こそ、我々は弛緩しきった箍を引き締めてゆかねばならないと思う。現代の真の天下人は、我々有権者なのだから。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

夏越の祓

梅雨只中。六月晦日を迎えた。今日は半年が終わる小晦日であり、夏越の祓が各地で行われる。夏越の祓は、上半期の穢れを落とし、下半期の無病息災を願う神事で、夏越の大祓とも呼ばれる。一部の神社では、茅の輪くぐりをして、夏越の祓に参加できる。茅の輪くぐりは、茅や笹で編んだ人がくぐれるほどの大きな輪を、定めし作法に則ってくぐる。茅の輪くぐりは地域により、作法にも差異があるが、概ね以下の如く行う。

まず、茅の輪の正面に立ち一礼。左脚から入って、左回りに廻るが、その際次の和歌を唱える。

水無月の夏越の祓えする人は千年のいのち延ぶといふなり

正面で一礼。今度は右脚から入って、右回り。その際は次の和歌を唱える。

思ふことみなつきねとて麻の葉をきりにきりても祓へつるかな

正面で一礼。最後は左脚から入り、「蘇民将来」と繰り返し唱えながら左回りする。

私も、毎年この作法で茅の輪をくぐる。六月半ばになれば、方々の神社に茅の輪がお目見えするので、あればどこでもやっているが、夏越の祓の当日は、自宅近くの氏神さまへあらためてお詣りすることにしている。 余談であるが、左回りの水無月の〜歌は、拾遺集に詠み人知らずで収められている。特別優れた歌ではないが、縁起が良くて、語呂もこの神事に相応しく覚えやすい。一方、右回りの思ふこと〜の歌は、和泉式部の歌で後拾遺集に収められている。さすがに女流歌人当代一の和泉式部らしく、水無月の夏越の祓にかけて、悩ましげな心境をさらりと詠う。簡単に訳せば、 「私の悩みが尽きてしまえと、水無月の晦日に、麻の葉を細かく切ってお祓いをするわ」 、であろうか。 鬱雨の水無月にかけて、夏越の祓をすることで、天も我もすっきりと晴れないかという願かけにも思われるが、むしろこの歌を詠ずれば澄み渡る天空を彷彿とさせる。

蘇民将来という言葉には様々な説があり、全国各地に似たような神事、儀式があるが、京都八坂神社によれば、スサノオミコト(八坂神社祭神)が南海への旅の途上、一夜の宿を蘇民将来という男に請うた。蘇民将来は貧しいながらも喜んでスサノオを迎え、粟で作った食事で厚くもてなした。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノオは、疫病流行の際、「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されたと云う。夏越の祓で唱える蘇民将来も、ここから伝わったものである。八坂神社でも、 今日は夏越の祓が盛大に行われ、大きな茅の輪をくぐることができる。

それにしても夏越の祓は、千年以上も前の和泉式部の時代にはすでに慣習化されていたのだから、日本人ならば誰でもきっと違和感なく体感できるはずである。 夏越の祓当日には、水無月という和菓子を食べるのも昔からの慣わしである。私にとっても水無月をいただくのが毎年この時節の楽しみである。水無月は、氷に見立てた三角に切った白いういろうに、悪霊邪気を祓うとされる小豆を乗せたお菓子で、見た目にも涼やかで美しい。六月になると方々の和菓子屋で売られている。美味いのでついつい買ってしまい、たくさんいただいてしまう。中で、私の一番のお気に入りは、京都の老舗菓子司「俵屋吉富」の水無月だ。大粒で上質の小豆、程よい甘さと口あたり、ほんのり濡れたような涼やかな佇まい。すべてが完璧で、天下無双の水無月である。 日本人は、大晦日や正月の初詣は当たり前になっているが、夏越の祓の風習は、現代人にはイマイチ浸透してはいない。というよりも、廃れつつあるというほうが正しい。夏越の祓は祝日でもなく、慌ただしく生きている現代人には、無用なのかもしれないが、私はこの日を暮れの大晦日同様に大切にしたいと思っている。今日も、水無月や夏越ごはんをいただき、茅の輪くぐりをする。これから、日本列島は夏本番を迎える。年々、猛暑、酷暑が増すばかりでうんざりする。夏が苦手で、大嫌いな私にとっては、無事に夏を乗り切るために、夏越の祓は極めて重要な儀式でなのである。

水無月の夏越の祓する人は千年のいのち延ぶといふなり

仙洞御所

天皇陛下が御退位される日が確実に近づいている。象徴天皇として何よりも国民のために、出来得る限りのお勤めを果たされてきた両陛下には、ただただ感謝のみで、早くゆっくりとお休みいただきたいが、やはり平成が終わるのはさみしい。本当は退位ではなくて、柔和に譲位と呼称して欲しい。が、今回は陛下が御自ら退くことを表明されたため、譲位ではなく、退位が相応しいとの偉い方々の判断らしい。何故、譲位ではいけないのか、甚だ不可解である。退位というと、何だか陛下の我儘とも受け取れやしないか。後の世の人々がどう考えるかまでをしっかりと考慮して欲しい。これは、明治以降前例の無いことであるし、間違いなく日本史に残る出来事である。思ったよりもスピーディーに事が運んだのは良かったとすれば、まあ退位か譲位かなどはどちらでも良いのかもしれないのだが。

陛下が上皇さまとなられると、皇居をお出になり、今の東宮御所へお入りになる。そして新天皇一家が、皇居に入られる予定とか。東宮御所は、両陛下が皇太子時代に三十年余りお住まいになった懐かしの我が家で、お子様方の想い出に溢れたところへお帰りになるのは、さぞやお喜びであろう。皇位を退かれた天皇つまり上皇は、正式には太上天皇という。そして上皇の住まいは仙洞御所と呼ばれる。仙洞とは、仙人の住む洞穴のことで、中国の故事に因む。皇位を退かれた天子は、隠棲して仙人の如く敬われ、日本と内裏を見守る存在と見做されたのであろう。今ならば、会社の社長や会長を退いた相談役といったところか。東宮とは皇太子のことで、他にも春宮と書いてとうぐうと読む。皇太子の御座所が、帝の御座所の東面に在ったことからそう呼ばれたに違いないが、東宮よりも春宮の方が、いかにも若く眉涼やかな皇子を彷彿とさせる。さすがに昔の日本人は風雅に長けていて感心する。今も皇太子御一家を担当する宮内庁の役職の長は、東宮大夫と呼ばれたり、陛下の身の回りのお世話をする役職は、内舎人と呼ばれたりと、宮中には由緒ある名前がまだ多く残っている。

最近、御退位された両陛下がお住まいになる場所について、議論が湧き上がっている。政府や宮内庁は、皇太子御一家との入れ替わりを検討しているが、ここへ来て京都市奈良市が、御退位後の両陛下のお住まいの誘致に動き出した。奈良市は新たな離宮を造営し、京都市京都御苑の仙洞御所に、新たな離宮や御座所を造営することを検討しているらしい。特に京都には古都という自認はなく、寧ろ、天皇一家や皇族は京都にお帰りいただきたいと、衷心より思っている節がある。昔からそんな話をよく聞いたし、明治維新の時、東京遷都の詔が出されたわけではなく、公式文書もないわけだから、生粋の京都人は、京都こそが今も都であるとの自認である。また、京都人にとって戦後とは、応仁の乱とか鳥羽伏見の戦いのことをいう、などという考えが根強いと云われているが、そんなことは半ば都市伝説かと思っていた。が、ここに至り、これは都市伝説ではなく、代々京都人に刷り込まれた本音と願いに他ならぬことが、今回の一件でよく解った。無論、京都人や京都市民、京都府民、或いは奈良市民が皆、同じ考えではないだろう。

予てから私は、日本の首都は東京だが、みやこは京都であると思っている。首都とみやこは別と考えている。平安朝で花開いた国風文化と、今に繋がる統治機構や、官僚機構の礎が築かれたのは京都であり、日本史上、いや世界史的にも稀に長い間みやこであった京都は、簡単に廃れはしない。寧ろ、首都などと革った呼称よりも、みやこと呼ぶほうが伝統に則して相応しい。さらには、京都市が主張するように、天皇の即位の大礼は、京都で行うということには、大いに賛同する。古色蒼然とした天子南面する紫宸殿において、内外に即位を宣言されたることこそ、天皇の歴史と権威を際立たせられよう。御即位は京都で、御退位や御大喪は東京で行うのが望ましい。もう一つイメージを逞しくすれば、御即位の大礼後、都大路を京都駅までパレードして、京都駅から新幹線で東京駅へ移動、東京駅から皇居までパレードすれば良い。

ただ、京都や奈良へ仙洞御所を設けることは、ほぼ不可能だと思うし、私は賛成はできない。最大の懸念は警備と経費の問題だ。東京の皇居や東宮御所のある赤坂御用地は、世界最高レベルの警備が、磐石に敷かれている。同レベルの警備を果たして他でできるのか。おそらく京都は可能であろう。京都御苑には迎賓館もあるし、度々要人を迎えてきた。しかし、東京で統括され、指揮系統を一元管理していたのを、二元化することになれば、後々、様々な弊害が生まれるであろう。考え過ぎかもしれぬが、有り得ぬ話でもない。であれば、実績ある東京で、スムーズにコンパクトに警備して、一世一代の御即位の大礼の時に、ふんだんに経費を使って、最高の警備をすれば良い。そしてまた、何よりも両陛下のお気持ちである。京都や奈良の人たちの気持ちも分かるが、おそらくは両陛下が頷かれまい。こんな騒動に巻き込んだら、ゆっくりお休みにはなれないと思う。かえっていらぬ御心配をおかけしてしまおう。大英断を下された陛下に対して、申し訳が立たない。日本国憲法で、天皇は日本国、日本国民統合の象徴とされる。三十年間、象徴としてのお勤めを真摯に果たされた両陛下に、我々国民は余生をいかに楽にお過ごしいただけるか、そのことのみを、そっと静かに、厳かに、美しく考えねばならないと私は思う。