弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 浅草寺

浅草はなぜあれほどの人を惹きつけるのか。浅草に日本を、あるいは江戸の名残を求めてか。浅草の観音さまは、そこへ来る人々を千三百年もの昔から迎えている。年間の参詣客三千万人超え。日本でこれだけ人を集める寺はない。東京最古にして最大の寺。寺院に勝ち負けとか、優劣などありはせぬが、江戸人のように、寺に番付を付けるならば、浅草寺は東の大横綱である。増上寺も、寛永寺も、泉岳寺も、築地本願寺も、参詣客では、この寺の足元にも及ばない。東大寺清水寺よりも長い歴史もある。ひとつの銀河の如く寺の集まる関西に、東京はほぼこの一寺でもって対抗できる。都内からは富士山もあまり見えなくなり、江戸城も大名屋敷も消え失せた今、江戸自慢の筆頭は、浅草寺だろう。

 この四半世紀、私はしばしば浅草を訪れる。神社仏閣を歩きながらあたりを散歩する。浅草には、観光客でなくとも、覗きたい店がいろいろとある。私も、和雑貨、和菓子、茶道具などを見たり、蕎麦や洋食の名店が多いのも楽しい。時には浅草でレンタサイクルを駆って、吾妻橋を渡り、川向うへも行く。向島は、空が広くて解放感があるも、江戸の果てというような寂寥感がひしひしと迫りくる。業平の歌や、謡曲隅田川さながらの、東国の情趣をたしかに感じられる場所なのだ。梅若塚のある木母寺、桜餅の長命寺勝海舟が参禅した弘福寺墨田区最古の茅葺門が残る多聞寺、牛の御前や三囲稲荷にも江戸の残り香が漂う。白鬚橋から浅草へ戻る時には、石浜神社、玉姫稲荷、橋場不動、平賀源内の墓もあったりする。さらに、足を伸ばせば泪橋小塚原、そして新吉原が控えている。このあたりは江戸時代から裏田圃と呼ばれた。浅草寺の裏との意味だ。裏田圃の先は、浅草寺の奥山になる。関東大震災で、無残にも倒壊した浅草十二階凌雲閣は、今の花やしきの後方に建っていた。その足元には、十二階下と呼ばれるラビリンスがあり、私娼窟が蔓延り、まことに風紀濁るる場所であった。かつては精進落としと託けて、大きな神社仏閣の近くには、似たような場所があった。人間の業は果てしなく深いが、同時に何とも薄っぺらいもの。が、それが人間だ。私たちの祖先を責めることなどできない。今、奥山には花やしきがあり、土産物屋、寄席、居酒屋がひしめいていて、明るく安全で清潔な街になった。しかし一方では、私も立ち寄る場外馬券場があり、ストリップ劇場があり、ちょっと脇道に入ればゲイバーがあったりして、妖しい浅草が垣間見られるのも、この街の魅力である。いつでも大勢の人が闊歩する浅草は、折々でその人出がさらに増す。初詣、桜の頃、三社祭ほおずき市、隅田川花火、酉の市、羽子板市などなど。そんな時はいささか辟易するほどのごった返しだが、風物詩を通して、誰もが江戸の季節感を愛で、浅草パワー健在と思うであろう。

浅草寺の由緒を遡る。推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、桧前浜成、竹成の兄弟が宮戸川(隅田川の浅草あたりの別称)で漁をしていると、投網に純金無垢の観音像がかかった。その大きさは、わずか一寸八分(約5.4センチ)。兄弟は慌てて引き上げると、すぐさま地元の郷士である土師中知のところに像を運んだ。中知は聖観音の尊容であると認め、自宅を草庵に改めて、このありがたい像を祀ったことがはじまりとされる。浅草寺縁起となったこの三人を祀るのが、観音堂の右手にある三社権現(浅草神社)である。三社祭はこの神社の祭礼で、勇壮な宮出、神輿渡御、宮入で有名だ。その後、大化元年(645)勝海上人が観音堂を建立。夢告により、本尊を門外不出の絶対秘仏とした。今の観音堂建立時には、奈良時代の瓦が出土しており、当時は畿内でも瓦葺きは珍しかったが、都から遠く離れた東国の僻地で、すでに瓦葺きの堂宇が建てられたということは、驚くべきことである。ここがいかに当時の人々から崇敬され、暮らしに重きを成す寺であったかが知れよう。

平安時代比叡山から慈覚大師が来山し、本尊を模してお前立を謹刻。以来、天台宗の寺院となる。平氏、源氏、足利氏、徳川氏と歴代武家政権の帰依、寄進を受けてきた。江戸時代には寛永寺の傘下となり、やがて浅草は空前の発展を遂げてゆく。もともと浅草は御府外であったが、浅草と新吉原は繁盛し、やがては江戸随一の盛り場となる。境内には出店、茶店、辻講釈、小芝居、大道芸などが人気を呼んだ。浅草寺の多くの子院、諸堂は庶民の願掛けに人気を集めた。また浅草寺は、坂東三十三観音霊場第十三番の札所である。私はこの本山巡礼とは別に、何年か前から坂東巡礼も廻っているが、遅々として進んでおらず、ようやく今年になって再開した。今回その御朱印もいただくために、浅草寺を訪ねたのだった。坂東巡礼は西国巡礼とはちがって、いささか地味であるが、そこにまた面白さがあり、鎌倉を除けば、だいたいどこの寺もとても静かである。が、やはりここは違う。御朱印をいただく御影堂には、長い行列ができていて、朱印帳を渡してからいただくまでに三十分以上も待った。朱印をしてくれるのは、アルバイトの若い達筆の学生さんらしい。が、いただいてみるとまことに美文字。待った甲斐はあった。昨今の巡礼ブームで、御朱印帳を片手に寺社巡りをする人が俄かに増えたが、俄かであろうと何であろうと、このように寺社に人が集まるのはとてもいいことだ。寺とは本来、分け隔てなく人々が集う場所である。老いも若きも、男も女も、日本人も外国人もこの寺に集まるのは、ここに人が居るからに他ならない。人が人を呼ぶのである。その要であるのが、ここ浅草寺なのである。

浅草寺の総門たる雷門は、正式には風雷神門という。その名のとおり、左右に配された風雷神が守護しているが、いつのまやら雷門と通称されるようになった。雷門は今や浅草の代名詞である。雷門から南に少し歩くと、隅田川に架かる駒形橋のたもとには、駒形堂と呼ばれる小庵があるが、ここが浅草寺の開山堂ともいえる場所で、桧前兄弟が本尊を引き上げたのはこのあたりだと伝わる。雷門を潜ってさらに進む。山門である宝蔵門までのおよそ三百メートルが、これまた日本一の集客を誇る、日本一の参道仲見世だ。私はこのアプローチが大好きだ。世界に誇れる仲見世は、日本の寺の参道の中の参道である。宝蔵門は、その名のとおり階上に宝物を納めたところからそう呼ばれるが、おそらく仏像も安置されていると思う。今の宝蔵門は、戦後に再建されたものだが、江戸時代の浮世絵を見ると、宝蔵門の階上にあがって、眺望を楽しむ人々の様子が描かれている。当時は周囲に高い建物はなく、人々は絶景を楽しんだに違いない。そういえば浅草周辺には、昔から高い建物が建設されるのも面白いことだ。宝蔵門や五重塔に始まり、凌雲閣、花やしきのBeeタワー、浅草ビューホテル、そして今は川向こうのスカイツリー

五重塔は、現在瓦の葺き替え工事中で、全体シートに覆われていたが、東京一の高さを誇り、金色の相輪がきらきらと輝く様は、いつ見ても圧倒される。戦災で焼ける前の五重塔は、今とは反対側の宝蔵門右手にあったが、なぜか戦後は今の場所に建てられた。五重塔は最上階に仏舎利を納める。階下には、大位牌堂と呼ばれる夥しい数の位牌を安置した空間がある。ここは誰でも、自分の身内を問わず、自分の思う人の位牌を納めて供養することができるとかで、昭和天皇、ダイアナ元皇太子妃、マザーテレサマッカーサー元帥まであるという。そもそも浅草寺は、先祖供養もしてくれる寺だ。国境も、言語も、宗教宗派の枠をも超えた、懐の深い、まさに現代の日本仏教を代表する寺なのである。

観音堂と呼ばれる本堂も巨大だ。宝蔵門をくぐって、観音堂のカールした銀色に光る甍を眺める時、私はいつも、観音様がその大きな手を差し伸べてくださって、その掌の中に包まれていくように思えてくる。残念ながら旧観音堂は戦災で焼けたが、再建された今の観音堂も、威厳と風格に満ちている。観音堂と五重塔の屋根は、チタンアルミニウム製の瓦に葺き替えられており、以前よりずいぶん軽量化されたおかげで、建物全体にのしかかる負荷が緩和され、耐震強度も増したとか。本堂前で線香が焚かれる常香炉には、いつも参詣客が群がり、一身に災厄病苦を取り除かんと、その煙に燻されている。これも、浅草寺のお馴染みの風景だ。

浅草寺の御本尊は、未来永劫絶対秘仏とされる小さな聖観音さま。浅草寺は、戦後昭和二十五年(1950)に、天台宗から独立して、聖観音宗総本山となった。しかし、天台宗と喧嘩別れしたわけではない。故に今でも、天台密教の秘法が守り継がれている。毎年寒中に、「温座秘法陀羅尼会」という浅草寺でもっとも厳粛な、極めて密教色の濃い法要が行われている。江戸中期から行われているこの法要は、一月十二日の深夜から十八日夕方までの七日間、百六十八座の修法を行う。浅草寺貫首以下、全住職により休みなく、天下泰平、玉体安穏、五穀豊穣、万民豊楽、世界平和が祈願される。一座終わるごとに、「千手千眼観世音菩薩広大円満無碍大悲心大陀羅尼」と「観音経」を唱えることから「陀羅尼会」と云われる。昼夜祈祷三昧で、座が冷めることがないため、「温座」と呼ばれるそうだ。法要の間、本堂内陣は幔幕に覆われて、外陣とは遮断される。最終日、夜の帳が降りる頃、幔幕が上がり、最期の一座で参詣者にも結縁される。そして、二人の僧が鬼に扮して現れて、松明を掲げて、災厄を払いながら境内を駆け巡る。こんなことが、現代東京のど真ん中で、寒中に秘かに行われているのが興味深い。大東京の総氏寺として、格式、威厳、歴史、そこから生まれる秘められた大いなる力を感じずにはいられない。

私はまた別の日に浅草寺へ行った。伝法院を見学するためである。伝法院は、戦災でも焼け残った浅草寺本坊である。普段は非公開だが、毎年、桜の頃から新緑の頃まで、期間限定で公開される。お恥ずかしながら、私は今度初めて、伝法院をゆっくり拝観する機会を得た。何度も来ている浅草寺で、ついぞタイミングを逸していたのだ。何せ、桜の季節は混み合うため、敢えて避けていたのだが、この文章を書くにあたり、やはりいっぺん伝法院を見ておきたいと思った。果たして、伝法院は良かった。三月半ばのこの日は、ソメイヨシノや他の花も少し早く、人影もまばら。でも、池の畔にある大島桜が満開で、私にはそれだけで十分であった。何よりも驚いたのは、その静けさである。浅草寺境内や、仲見世の喧騒やどこに。伝法院の屋根の向こうに見えるスカイツリーも、ここから遠方すればなかなか凛々しい。古色蒼然とした伝法院と、春霞の彼方に立つスカイツリーは、蜃気楼の如く絶妙に収まって見えた。伝法院は本坊だが、将軍や大名の参詣時に迎賓館として使われた。緑も多くてまさに別世界。浅草の臍とも言えよう。

伝法院拝観と併せて、寺宝展が開かれていた。国宝の法華経は、別名「浅草寺経」と呼ばれ、金銀泥で装飾した美しい装飾経だ。平安時代の作とされ、法華経八巻と、無量義経、観普賢経がそれぞれ一巻ずつを含む全十巻が現存する。法華経も第一級の宝物だが、圧巻なのは江戸時代から奉納されてきた絵馬群であった。ただの絵馬に非ず。私たちが寺社詣りの折、願掛けして納める手のひらサイズの絵馬ではなく、観音堂の壁に掲げる絵馬である。故に一枚一枚が見上げるほど巨大で、もの凄い迫力だ。中には、六畳一間ほどのサイズの絵馬もある。だいたい江戸から明治の頃に、大名や豪商たちが競って奉納したもので、画題も様々、見ていて飽きることがない。私が特に印象に残ったのは、江戸初期の作で、展示品では最古とされる江戸人形を立体的に掘り上げたものだ。何と言っても人形の愛嬌ある顔が良い。江戸人がそのままそこに居て、私と対面しているかの様で嬉しくなった。絵馬は、江戸期のものほど、筆致が力強く、躍動感に溢れていて、そのピークは江戸中期から幕末であろうと思われる。田沼時代の天明期から、爛熟の大御所時代の化政期のものは、やはり見事であった。明治以降はいささか線が細くなる。しかし、色使いは明治以降の方がむしろ大胆になってくるのは、絵の具の種類、質、量が圧倒的に増えたからであろう。故にどちらとも優劣はつけ難かった。中で、徳川秀忠と家光が寄進したとされる絵馬は、銅板に金箔を貼り付けたような馬のレリーフで、小品だが、さすがに将軍奉納の名にそぐわぬ秀麗な意匠である。これほどの巨大な絵馬を一同に見る機会もなく、戦災で伽藍は焼け落ちても、こうした宝物が秘かに守られてきたところに、古寺の底力を見る思いがする。だからこそ余計に私の心が、揺さぶられたのかもしれない。

最後にどうしても触れておきたいのは、観音堂の真裏に立つ、イチョウの古木についてである。一見、どうということのないイチョウの大木なのだが、裏に回ると、幹の中が丸見えで、中は真っ黒に煤けている。これは東京大空襲で、観音堂が焼け落ちた時、紅蓮の炎に曝された傷痕なのである。七十年以上前の火傷の痕。そんな年月を感じないほど、炭になった部分は生々しく、痛々しい。浅草寺は、これらを戦災樹木として保存しているのだ。観音堂が焼け落ちるのを、隣接する三社権現と、ここにある数本のイチョウの木は目の当たりした。私は浅草寺を訪ねる度に、いつもこの木たちに逢いにゆく。そして私は瞼を閉じて、観音堂が焼け落ちた夜を追体験する。戦災樹木は、今もなんとかあの場に立っている。七十数年を経た今でも。華やかで賑々しい浅草寺に在って、戦災樹木は、無言のうちに戦災の恐ろしさを曝け出して見せている。浅草寺は、山に喩えるならば、富士山のようである。これからも世界中の人々を惹きつけてやまないだろう。賑やかで華やかな寺院だが、同時にどこか寂しい孤高の寺。私にはそう思えてならない。