弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 江戸深川

広重の「名所江戸百景」が好きで、複製ではあるがすべて所蔵している。江戸の様子、江戸人の暮らしを垣間見るには、「江戸名所図会」とともに必須である。名所江戸百景のお気に入りの場面は数多あるが、中で一番美しいのが、「深川洲崎十万坪」である。この絵だけは一見すると江戸を描いた感じがしないのだが、よく見ればやっぱり江戸としか思えないところが良い。「名所江戸百景」でもっともダイナミックな作品だ。真冬の雪空を滑空する鷹が画面上に大きく描かれ、荒涼たる開発途上の深川洲崎を見下ろしている。鷹は、餌を探すのか、人を睨んでいるのか知らないが、遠くには筑波の峰が見え、まさしく鳥瞰図である。深川より先の洲崎、今の東陽町や砂町あたりを俯瞰した場面であろうが、あの時代、このあたりが未開地であり、いかにも江戸の果てであったことがはっきりとわかる。

寒中、友人を連れて深川を散歩した。私は江戸情緒が残る深川を歩くのが好きだ。隅田川対岸の日本橋人形町に比べたら敷居が低く、親しみやすい印象を受けるのは、ここに暮らす人も多いからであろう。深川はオフィスよりも商店や住宅が目立つ。江戸という町を大まかに見て、江戸城より東南は下町、西北は山手。今や日本橋や銀座は下町というイメージが薄らいでいるが、本所や深川はいかにも東京の下町の暮らしや文化が残り、その匂いは些かも衰えてはいない。中で深川は江戸の抜け殻が、たくさん見つかる町。現代東京の下町の双璧をなすのが浅草と深川であるが、江戸期、浅草や深川は御府内ではなく、江戸郊外の歓楽地であり、新興住宅地であった。特に本所や深川は城下とは隅田川を隔てており、「川向う」と呼ばれた。現代東京でいえば、ちょっと前のお台場とか、若洲のあたりと想像したらいい。寒村江戸が拡大の一途を辿るのは寛永期からで、江戸庶民が闊歩した深川は、江戸の新興住宅地の先駆けであった。家康は江戸入府以来、この地の埋め立て、干拓、造成を深川八右衛門ら数人の摂津人に託した。彼らは漁師の元締や庄屋である。人が住み始めて、村の名前はすんなりと深川村となった。深川が幕末までさほど幕府の干渉を受けなかったのも頷ける。ここは庶民が一から創造した町なのだ。江戸城下の川向うには、庶民に対しての自由の大地を与えることが、徳川幕府の飴と鞭の撫民政策であったと思われる。深川、本所、向島などの川向うは撫民政策の特区であったと云えよう。

清澄白河から門前仲町まではちょうどいい散歩コース。江戸はベネチアをも凌ぐ水都であった。ことに本所深川は掘割が縦横無尽にあって、まことに交通運搬に至便なところであった。このうち動脈と云えるのが、北十間川、竪川、大横川、横十間川小名木川仙台堀川である。中で小名木川は本所と深川の隔てにあって、川幅、水量ともにもっとも大きい。小松川のあたりで旧中川より分流し、東から西へと流れ、隅田川に注いでいる。河口には広重や北斎も描いた萬年橋がかかってい、橋を渡ると芭蕉ゆかりの地がある。芭蕉は一時このあたりを住まいとし、ここから奥の細道の旅路へと向かった。隅田川沿いには芭蕉銅像あり、芭蕉記念館あり、芭蕉も参禅したと云われる臨川寺がある。芭蕉庵の跡地にはささやかな芭蕉稲荷が建っているが、尾張屋金鱗堂の切絵図では、幕末頃このあたりに紀州家の下屋敷があり、邸内に芭蕉古跡と記されている。このあたりは江戸中期以降に紀州家に与えられ、紀州家が邸内に稲荷を勧請し、維新後に紀州家の土地から町に却った時に、芭蕉稲荷と呼ぶに至ったのであろう。

清澄庭園から清澄通りを挟んで、資料館通りという小路に入る。清澄庭園紀伊国屋文左衛門から大名家、三菱岩崎家へと渡り、後に東京都に寄贈された。資料館通りに入ると左手に大きな甍の霊巌寺がある。霊巌寺には白河楽翁の墓があり、清澄白河の白河とは白河楽翁に因む。白河楽翁こと松平定信は、寛政の改革を行った江戸中期後半の老中で、老中就任前には、宿敵田沼意次と政争を繰り広げた。定信は宝暦八年(1759)、徳川御三卿の一つ田安家に生まれた。十代将軍家治には世子家基がいたが、安永八年(1779)に十八歳で急死、俄かに将軍継嗣問題が浮上する。この期を見逃さなかったのが、同じく御三卿の一橋治済であった。治済は稀代の策謀家である。御三卿は将軍家の家族同様と見做されたため、必然、時期将軍をたてる筆頭と暗黙された。八代吉宗が起し、九代家重の時分に御三卿が整えられてからは、御三家は家格こそ御三卿より上でも、将軍継嗣を出す親藩としては一歩外に出されてしまった感がある。治済はこれを傘に我が子家斉を時期将軍に擁立するために動く。御三卿のうち清水家は当主や家臣団の出入りが激しく、実質は田安家か一橋家から時期将軍が擁立されるのは、この時代の幕閣の周知であった。田安家当主治察は病弱であったが、弟の定信は爽健かつ英邁と評判であった。いずれ将軍に推す声もあり、定信自身もその気であった。これを危惧した治済は、時の権勢者田沼意次に働きかけ、定信を白河藩松平家に養子縁組させることに成功する。定信はこの時より意次を恨んだ。 治済の思惑通り、治察は早逝し、事もあろうに田安家には治済の五男斉匡を送り込み、どう転んでも、治済の子が時期将軍となることが必定となった。果たして十一代家斉が将軍となって、その後見役として治済は凄まじい権勢を誇る。家斉に田沼意次を罷免させ、松平定信を幕閣に迎えて老中首座とした。これは私見であるが、家斉の将軍就任と同時に治済にとって意次は不要の駒となった。寧ろ邪魔者となった。飛ぶ鳥を落とす勢いで、権勢を手にした意次は、田沼時代と呼ばれる一時代を自らの才覚のみで築きあげた。意次は江戸期において、もっとも革新的な改革者であった。米経済から貨幣経済への転換を試み、株仲間を公認し、蘭学をはじめとした学問の自由を推奨した。こうした改革者の下では、治済や家斉とて、いつ引きずり降ろされるかわかったものではない。したたかな策士である治済が、そんな事を考えなかったはずはないのである。紀州家の下級藩士から、家重小姓となり、とんとん拍子で最高権力者となった意次の眩しさは、御三家譜代門閥の保守派からは疎まれいた。意次は極めてしっかりとしたビジョンを持っていたのだが、世が世であって、それは旧態以前へ回帰を願う保守派の力も、今の我々には想像がつかぬほど強大であった。その保守派の急先鋒に育っていたのが、松平定信であった。治済は密かに定信と連携して、田沼意次の追い落としを企てたものと思う。折しも天明の大飢饉が起こり世は荒んでいた。およそ二十年に及ぶ田沼政治にも翳りは見えていたのである。ここで颯爽と現れた定信は、吉宗の享保の改革を参考にして、貨幣経済から米経済への回帰をし、農村復興のために農村に資金援助をして、江戸に流入していた百姓を帰村させた。田畑の再開墾や子供の養育のため幕府の公金を貸付たり、旗本御家人の札差からの借金を帳消しにした。石川島には人足寄せ場を設けて無宿者を収容し、職業訓練と江戸の治安維持を図った。学問も朱子学以外の学問を異学として、基本的には禁止し、幕府の役人も朱子学を学んだ者に限り登用、湯島聖堂学問所を、幕府直轄の昌平坂学問所に改めている。出版も厳しく統制し、山東京伝蔦屋重三郎は風俗を乱すとされ罰せられた。この頃、ロシアのラクスマン蝦夷根室に通商を求め来航、しばしば日本近海に外国船が現れるようになったことから、定信は海防にも力を入れて、自ら相模や伊豆の沿岸警備を視察し、強化に努めた。こうして定信は、田沼政治から政策の大転換を半ば強引に推し進めた。が、これを心から歓迎したのは一部の保守派のみで、自由を謳歌した田沼時代からしたら、粛清ばかりで、人々は窮屈な世となったことを嘆いている。

白河の清きに魚のすみかねて 元の濁りの田沼恋しき

このあまりに有名な落首は、当時の人々の皮肉とか鬱憤とかのみならず、いつの世も為政者が裸の王様であることを如実に示していると私は思っている。もっとも定信政治のすべてがまちがっていたわけではない。天明の大飢饉白河藩は、ただ一人の餓死者も出していない。これはひとえに定信の指導力の賜物である。定信の治世は意次よりずっと短く、わすが六年で改革は頓挫し、失脚した。藩政に戻り、後に隠居して楽翁と号した定信は、度重なる屋敷替えや火災に遭い、流転の日々を送る。深川洲崎の地にも洲崎海荘という隠居屋敷があったことが縁で、死んだあとはここ霊巌寺に埋葬された。霊巌寺寛永元年(1624)、浄土宗の僧霊巌により開かれた。元は日本橋近くの霊岸島にあったが、明暦の大火でこの地へ移転してきた。増上寺を中心とした浄土宗関東十八檀林の一つで、江戸期を通して大寺院であった。また江戸六地蔵の第五番とされ、今も境内には笠をかぶりどっしりとしたお地蔵さんが鎮座している。

霊巌寺門前を資料館通りと称するのは、近くに深川江戸資料館があるからだ。この資料館には、ここらあたりに来たらぜひ立ち寄ってほしい。内部には江戸の町家暮らしの一部が再現されていて、規模はさほではないが、とても忠実に江戸人の暮らしが垣間見られる。私は何度もこの江戸の町を訪れているが、いつ来ても楽しい。ここで江戸人の暮らしにほんの少し触れてみると、いかに我々現代人が無味無臭の寒々しい世を生きているかを痛感させられる。我々は人と人との交わり希薄な寂しい時代を泳がされているのだ。

このあたりは霊巌寺を中心とした寺町で、出世不動尊など大小が点在している。雲光院は慶長十六年(1611)、阿茶の局の発願により建立された。阿茶の局は家康の側室で、甲斐武田氏の家臣の娘である。未亡人で家康との間に子は恵まれなかったが、豪胆かつ才覚に富んでいたことから、家康は常に手元に置いて寵愛し、秘書のような役割を果たしたとされる。正室築山殿を早くに殺めた家康は、その後秀吉に押し付けられた朝日姫を後添とするも死別、その後は生涯妻を娶らず側室を侍らせたが、阿茶の局は半ば正室同然の扱いを受け、周囲も自然にその成り行きに任せていた。それほど阿茶の局とは、家康にも周囲にも、一目置かれて然るべき人物であったのだろう。大坂の陣では徳川軍の和睦行使を命じられており、徳川初期にこれほど政治的に活躍した女性は阿茶の局と春日局をおいて他にはいない。徳川将軍家の大奥の礎を築いたのは春日局だが、阿茶の局はそのはじめの地固めを成したとも云える。家康亡き後、元和六年(1620)、秀忠五女和姫が後水尾天皇に入内するにあたり、阿茶の局は傅役の老女として宮中に近侍し、従一位を賜る。寛永十四年(1620)、八十三歳で亡くなり、深川の雲光院へ葬られた。雲光院は阿茶の局の戒名である。家康の側室となるまでは苦労の多い日々であったが、果ては位人身を極め尽くした彼女は、何を思ってこの地に眠るのであろうか。

資料館前にある深川めしの店に入った。この店は何度めかだが、炊き込みとぶっかけ二種のあさり飯が食べられる。大工が食べた炊き込み、漁師が食べたぶっかけと云うのが店の売り文句である。実際どうであったのかは、営業妨害になるから詮索はしないが、江戸庶民のほとんどが、炊き込みより調理が楽で、ちゃっちゃと掻っ込めるぶっかけを好んだに違いない。味はどちらも確かで、炊き込みはアサリの香がたっていて、ぶっかけは濃いめの味噌との絡みが絶妙。どちらも旨い。選べと云われたら迷う。ゆえにどちらも一膳ずつ楽しめる膳を頼んだ。深川めしは江戸人のソウルフードのひとつだが、江戸人が食したのはあさりよりもアオヤギやハマグリが多かったと云う。アサリが一般的になったのは明治中頃から大正にかけてで、江戸前の良いアオヤギがとれなくなったからではないか。 清澄白河には最近自家焙煎を楽しめるカフェが点在する。美味いらしいが、私はまだいっぺんも飲んでいない。コーヒーは飲んでみたいが、ブルーボトルカフェはいつも人で溢れかえっていて、とても入る気になれない。たぶんこれからも飲む機会はなさそうである。この日もごった返すカフェを素通りして、深川ゑんま堂へ参った。

ゑんま堂から門前仲町はもうそこである。門前仲町は、永代寺の門前町で、深川が賑わい始めてから、今日まで発展を続けている。今、一体は門前仲町と富岡と云う町名だが、古地図によると永代寺の周りは、永代寺門前町、或いは富岡門前町と云い、西側が永代寺門前山本町、通りを挟んで反対側が永代寺門前仲町とある。周囲は掘割に囲われて武家地はない。いずれにしろ永代寺、富岡八幡宮、そして江戸三十三間堂まで加えた広大な寺社域と一体化した大門前町であったことが窺える。ここが深川の中心地であり、深川発展の要であった。深川には江戸最大の岡場所があった。江戸で幕府公認の公娼は新吉原のみで、その他はすべて非公認の私娼であった。岡場所という呼び方には諸説あるが、吉原の原に対して、岡と呼ばれたとも云う。江戸の岡場所は、深川、本所、根津、芝、音羽四ツ谷など寺社門前町には付き物で、精進落としなどと称して、旦那衆や武家の家来たち、時には淫行の僧や神官にまで持て囃された。大名や旗本の子息もお忍びで通い、非公認とはいえ、取り締まりは形ばかりの緩きもので、幕府は暗黙していた。が、松平定信寛政の改革水野忠邦天保の改革の時は、さすがに憂き目に遭うほどの厳しい取締りをしたらしいが、嵐が去れば不死鳥の如く蘇った。寺社の参詣人を当て込み茶店が出来て、いつの間にかそこで働く女たちが遊女となり、水茶屋とか料理茶屋になったのだろう。寺社側も土地を貸して収入を得ていたし、上納金もあったから、堂々と軒先での商売を許していた。深川には岡場所が七箇所あって、仲町がその中心であった。最盛期には遊女五百人あまり、芸者は三百人あまりいて、ことに深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれ名を馳せた。辰巳芸者は男勝りの気風の良さを売りとし、薄化粧に黒羽織、素足を晒して、髪もすっきりと結いあげていた。芸者は決して色は売らなかったが、何もかもが豪奢で虚構の吉原とは正反対で、地味で自然なところが江戸人には人気があったと云う。寧ろ、江戸人の好みをよく知り尽くしていたといえる。チャキチャキの江戸っ子たちは、吉原よりも深川を愛し、北国の傾城太夫よりも、深川の辰巳芸者を愛した。辰巳とは江戸城から見て、辰巳の方角にあるゆえだ。

永代橋は元禄十一年(1698)の架橋である。赤穂義士も吉良邸から泉岳寺への途上、永代橋を渡っていった。それまでは深川の渡しを使うことが一般であった。もっとも江戸期を通して付近には渡しがたくさんあっただろうし、昭和の中頃まで、隅田川にはいくつかの渡しが残っていた。門前仲町のあたりはかつて永代島と呼ばれる島であった。だんだんの埋め立てで、掘割に囲われた町となり、掘割も埋められた今は島の面影はない。そういえば豊島も湯島も、昔は島や半島のような土地であったわけで、江戸が水の都であったのは、深い入江や湿原ばかりの不毛地帯であった場所が、うまいこと開拓開発されたからである。日本において江戸ほど大開発が敢行され続けた土地はなく、それが大成功をおさめたところはない。それは今もって継続中であり、未来都市のモデルケースでは世界でも群を抜いている。永代島には鎮守として砂村から八幡神社が勧請された。富岡八幡宮について、詳しくは前にも書いたから省きたいが、一昨年、宮司家の骨肉の争いのせいで一時期は参詣人が離れたと聞いたが、この日は前と同じように盛大な骨董市が立っていて、ようやく元の賑わいを取り戻しつつあるように感じた。

深川には江戸三十三間堂もあった。富岡八幡宮の東に三十三間堂町があり、南北に細長いお堂に千手観音を祀っていたが、京都の三十三間堂のように千体の観音像があったわけでない。江戸三十三間堂徳川家光の命より、浅草に建立され、元禄期に深川へ移転した。専ら武芸奨励のため、通し矢を行う競技場として、建立された感が強い。「名所江戸百景」にも「深川三十三間堂」とあり、細長いお堂は画面いっぱいに入り切れていない、広重お得意の手法で描かれている。おかげでその規模が察する。天下の総城下町江戸では京都以上に通し矢が盛んであった。江戸三十三間堂も、廃仏棄釈の煽りを受けて明治五年(1872)に取り壊された。ここに今、三十三間堂があったなら。私はいつも想像する。本当に廃仏棄釈とは惨たらしい。たぶん後の震災や空襲で焼けたかもしれないが、いかにも残念の極みである。跡地には碑が建っているが気づく人も稀で、今では八幡宮裏の数矢小学校の名にのみ、その残像をとどめるにすぎない。

富岡八幡宮別当寺として寛永元年(1624)に永代寺は創建された。富岡八幡宮徳川幕府から厚い崇敬を受け、庶民にも慕われて江戸最大の八幡宮になると、門前町は大きく成長していった。同時に永代寺も隆盛し、最盛期には富岡八幡宮を凌ぐほどの力を持ち、深川を代表する寺、いや江戸でも指折りの巨刹になった。今の深川公園はすべて永代寺境内であった。多くの塔頭が立ち並ぶ姿はさぞや壮観であったろう。大栄山金剛神院永代寺と云う名前からして、いかにも大寺院であったことを彷彿とさせる。永代寺では成田山不動明王の出開帳が、元禄十六年(1703)から安政三年(1856)にかけて十一度も開かれた。成田不動の江戸出開帳は、江戸期に通算十二度開かれたが、このうち十一度が永代寺であった。成田不動は初代市川團十郎が、子宝祈願をして二代目團十郎が授かった縁で、市川宗家から崇拝され成田屋という屋号にもなっている。團十郎不動明王に扮した芝居も大当たりして、江戸庶民の間でも成田山詣が盛んになり、目黒不動などの五色不動も賑わった。それ以降不動信仰はピークに達し、永代寺は不動信仰の中心地となる。出開帳の時はいつにも増して大変な人出で、門前町も大いに栄えたのである。爛熟期の江戸を象徴するような寺と門前町を抱えた永代寺も、明治の神仏分離令で大打撃を受け、ついには廃寺となってしまった。明治政府は東京に在ったいかにも江戸らしい遺産を、悉く容赦なく潰している。が、庶民の信仰の力とはそう簡単に廃れない。不動信仰の花は種を落としていたのである。明治十一年(1878)、不動堂が再建されて成田山東京別院となった。今の門前仲町はこの深川不動堂富岡八幡宮門前町として、全国に知られている。

現在の深川不動堂は、実に「今の日本仏教」を体感できる。旧本堂を遺しながら、前衛的な新本堂が平成二十三年(2011)に完成した。外観には不動明王梵字が無数に埋め込まれ、およそ寺の本堂には見えないが、それが参詣者の関心を惹く。内陣は掘り下げてあり、そこでは定時に護摩焚き供養が行われている。堂内は何処もかしこも不動明王像ばかりで、ただただ圧倒されるが、不思議と威圧とか押し付けとかは感じない。面白いのがクリスタル回廊。ここは本堂左手から入り、大きな数珠を繰りながら、本尊の真下を通り抜ける回廊で、壁には一万体ものクリスタルの宝塔が埋め込まれ輝いている。よく見れば宝塔の中には一つ一つに小さな不動明王が座しており、信者でなくともここを歩く者は心身清まる思いがし、ありがたい気持ちに駆られるであろう。寺も時代ごとに変わってゆかねばならぬ。いや変わらぬところと、変わるところが混在してこそ、現代から未来へと寺が生き残る最大の術であろう。同時に我々が寺を訪れて何かを見て、何かを感じて、何かを考えて、何かを得るには、時代にマッチした姿勢や佇まいが、ことに現代人には求められている。深川不動堂はそれを存分に叶えてくれるし、仏教に触れ、思いをめぐらすきっかけを与えてくれる。永代寺も唯一残っていた吉祥院と云う塔頭を、明治二十九年(1896)に再興して現在に至るが、今では深川不動堂塔頭の様に、参道の傍に慎ましい佇まいである。しかしかえって、でしゃばらない楚々とした今の永代寺が私には好ましい。この深川の地にも相応しいと思う。深川はずっと神仏混淆の聖地である。きっとこの後もそれは揺るがぬであろう。