弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本仏教見聞録 護国寺

かつて私は護国寺の近くに住み、境内や門前をよく歩いた。若い頃、正月にテキ屋のアルバイトをしたこともある。不老門の石段下で、初詣客を相手に、おみくじやジャガバター、焼きそばなどを売ったりした。大晦日の朝から準備をして、翌元日の日暮れまで一睡もせずによく働いたものだ。正月三ヶ日はそんなふうに過ぎて、金杯を観戦する頃に、ようやくのんびりした正月を迎えたのである。若いからこそできたことだ。テキ屋には年配の人がけっこういて、彼らは私よりもずっと元気で威勢があった。その道一筋、皆一様に顔は真っ黒に焼け、シワまで脂ぎっていた。傍目には、器用に生きられず、浮き世に背を向けるように、露天商の道に入ったという感じがした。灼熱の夏も、極寒の冬も、外で商売をする辛い仕事なので、抜ける人も多いが、留まる人もまた多い。私の世話をしてくれたオヤジは、元締めにはずいぶん叱られていたが、今はどうしているか。まだ元気にやっているのだろうか。護国寺に行く度に、彼のことを思い出す。護国寺は、真言宗豊山派大本山であり、徳川綱吉の力をあまねく天下に示すべく建立された寺であり、明治国家の元老中の元老山県有朋の墓がある威風堂々たる大寺院である。その護国寺に、今回は仏教と権力という観点から迫ってみたい。

神齢山悉地院護国寺は、天和元年(1681)二月七日、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の発願により、上州高崎の大聖護国寺住持であった亮賢僧正を開山として招き、徳川家の祈願寺として建立された。幕府の高田薬園の地を与え、翌天和二年に旧本堂が完成。亮賢は、大和の長谷寺で修業し、当時、霊験ある真言密教の祈祷僧として有名であった。噂を聞いた桂昌院は、綱吉を身篭ると、亮賢に祈祷をさせた。亮賢が「この子は将来、天下を治める器である」と言ったことで、桂昌院は亮賢に深く帰依するようになる。こうして生まれてきた綱吉は、廻り巡って天下人となった。

綱吉は三代家光から四代家綱の時代に、政治の主導権が幕閣に移ったことを憂慮し、将軍親政を取り戻そうとした。家綱時代の閣老を排除し、自身の側近で身辺を固め、牧野成貞や柳沢吉保といった側用人を重用した。何事も側用人を通さねば、将軍決済を得ることができなくなり、側用人の威力は増した。また或る時、江戸城中奥の将軍居間のすぐ側で刃傷沙汰があり、警備が強化された。将軍はさらに奥へと引っ込み、取次はすべて側用人や御用取次を介さねば、たとえ老中や大老であろうとも、謁見は許されなくなった。余談だが、江戸城の刃傷沙汰と云えば、元禄赤穂事件が一番有名だが、江戸時代を通しては意外に何度も起きているのである。田沼意次の息子田沼意知も、殿中で斬り殺されている。

こうして幕閣の権威は失墜し、将軍親政のもとで、幕政改革が始まった。中で、下馬将軍と称された酒井忠清は、大老として家綱時代には絶大な権勢を振るったが、五代目継嗣問題で、時期将軍を綱吉ではなく、皇族であるが、徳川家とは縁の有栖川宮幸仁親王を宮将軍として奉戴すべく謀り、綱吉陣営との政争に敗れ、某略を持って野に下された。忠清が親王を将軍に迎えようと画策したのは、己が権力を保持せんがためだが、そもそも家光から幕末まで続く将軍継嗣問題で、何よりも血筋を重んじたのが徳川家の伝統であり、幸仁親王がたとえ徳川の縁者とはいえ、保守派には公家から将軍を迎えるなど論外であった。忠清の驕りが過ぎて、事はあっさりと捻り潰されてしまい失脚する。

綱吉政権は強かった。財政的にはこの時すでに傾いていた徳川家であったが、綱吉は強固な政治基盤を築くことに成功し、リーダシップを発揮する。そして元禄という徳川時代最大の発展期を迎え、天下泰平盤石となり、ようやく庶民にまで、幕藩体制の恩恵が行き渡り始めた。一方で専制君主の綱吉は、生類憐れみの令を発布し、だんだんに市民を抑圧するようになる。中野には御囲(おかこい)という、広大な犬の収容所を設けた。ちょうど今の中野駅周辺にあったとされる。その維持費は莫大で、幕府財政をさらに逼迫した。周知のとおり、生類憐れみの令は、犬はおろか、蚊を殺しても罰せられたほどで、初めは名君の誉れ高かった綱吉も、やがて人々から犬公方と揶揄されるようになる。生類憐れみの令は、世界初の動物愛護の法と云っても過言ではあるまい。が、それが次第にエスカレートしてしまい、結果、天下の悪法とまで呼ばれるようになった。綱吉は戌年生まれで、犬を大切にすれば、天下は治り、将軍家も安泰と信じ込んでいた。綱吉自身が狂犬になったのである。

桂昌院は、公式では二条関白家の家司で、北小路氏の娘とされるが、出自については様々な説がある。よく云われるのが、京の八百屋の娘とか、西陣の織物職人の娘ともあるが定かではない。家光の側室のお万の方が、伊勢慶光院の院主をつとめている時に縁があり、お万が還俗して大奥入する際には付き従ったとされる。その後、春日局に見出され、薫陶を受けて家光の側室となる。春日局が亡き後、大奥を束ねたお万にも重用されて、綱吉が生まれた。町娘から将軍生母となり、従一位まで授与された桂昌院は、日本の女性では類を見ない、位人臣を極めたシンデレラであった。故に、権威権力に対する固執は凄まじく、最晩年まで大奥を取り仕切り、綱吉には事あるごとに進言することを憚らなかった。専制君主とその生母には、誰一人逆らうことなく、国中がひれ伏した。このように綱吉と桂昌院は、いつも二人三脚であった。この二人を表で補佐したのが側用人の牧野成貞と柳沢吉保で、裏で補佐したのが綱吉親子の護持僧の亮賢と隆光である。

 隆光は、慶安二年(1649)奈良の旧家河辺氏に生まれた。万治元年(1658)に唐招提寺で修行に入り、寛文元年(1661)に長谷寺へ入って、新義真言宗を修学した。また奈良や醍醐の法流も受けた。徐々に祈祷僧として頭角をあらわした隆光は、貞享三年(1686)に、将軍家祈祷寺のひとつである、筑波山知足院の住職を命ぜられ、関東へ下った。南都に生まれ、大和の風物に親しんできた隆光にとって、東下りは心細くもあったであろうが、それ以上に将軍家に仕えること、また強い将軍綱吉に惹かれていたに違いない。関東に下向することは、不安よりも、己が将来を大きく展望し、胸弾ませたことであろう。 綱吉に信頼された隆光は、常に側近として祈祷にあたった。綱吉は神田橋の邸から、江戸城本丸へ入ると、神田橋邸跡地に護持院という寺を建立し、筑波山の知足院も護持院と改めて、隆光に住職を兼務させた。やがて護持院は護国寺建立時に、音羽の地に移転し、新義真言宗でもっとも格式ある寺となる。古地図を見ると護持院は、今、護国寺に隣接する豊島岡御陵の辺りにあったはずだ。護国寺と護持院は、新義真言宗の大派閥として共存共栄した。日本仏教は鎌倉以降、浄土門禅宗勢力を伸ばし、徳川時代に入ると、寛永寺を建立した天海の天台宗に押され気味の真言宗であったが、護国寺と護持院のおかげで、久しぶりに真言宗が日の目を見ることに成功した。亮賢と隆光の智略と尽力の賜物であろう。元禄八年(1695)隆光は、真言宗新義派で最初の大僧正に任じられた。

綱吉に犬を大切にするように吹聴したのは隆光であった。隆光は、まさしく不敵に綱吉親子に取り入ってゆく。一時は政道を左右するほど、隠然たる影響力を持ったとされる。綱吉、桂昌院柳沢吉保、そして亮賢と隆光が元禄日本の頂にいた五人組である。そして、この五人が華麗なる元禄時代を主導し、創り上げた。こうして、隆光もまた将軍家の威を借りて、一時は日本一力を持った僧であった。桂昌院柳沢吉保、隆光の三人が綱吉をプロデュースし、元禄バブルを扇動した。いわば護国寺と護持院は、彼らの夢の終着点であり、頂点を極めるまでに流した、血と汗と涙の結晶であった。とかく元禄のラスプーチンの如く云われ、悪僧とも称される隆光だが、実際はなかなか徳のある坊さんだったようだ。綱吉は、優れた祈祷僧としてのみならず、隆光の人柄、教養、英知を尊敬し、ブレーンとしても厚く信頼して、仏教の師として仰いだのである。生きとし生けるものを憐れみ、殺生を禁じたのも、元はといえば仏教の教えに他ならない。考えてみれば、何も間違ってはいない。だが、高みへ昇り詰め過ぎた彼らには、はるか下界は雲の下。昔は見えていたものが、いつのまにか見えなくなってしまった。そうして綻びと歪みを生んだのであろう。

日本に仏教が伝来してから今日まで、正確には明治維新までは、仏教は権力者と共に歩んできた。明治維新以降は付かず離れずだが、どちらかと云えば、民衆の中にあり、戦後は各個人に委ね納まっている。聖徳太子に始まり徳川氏まで、歴代天皇武家政権に庇護されて、日本仏教は発展を遂げてきた。古来より日本人は八百万の神々を奉ってきたが、その神々と仏教が直接対決をしたことはない。はじめは物部氏のように排仏を唱える者がいたが、仏教は日本の自然や土着の神と融合しながら、しなやかに日本人に浸透した。神仏混淆とか神仏習合という言葉は、日本の神々と仏教が柔和に馴染んできたことを示している。一方で、明治維新の時の廃仏棄釈や神仏分離は、明らさまな激流であった。が、日本人の心に染み渡った仏教は、廃仏棄釈如きでは絶えなかった。今その土台を我々は踏みしめている。これから先、もしかしたらまた権力と癒着した宗教が出現するかもしれないが、二十一世紀の日本仏教は、等しく万民に寄り添える仏教に成長した。いや成長ではなく、これが本来の仏教である。仏教はいつでも手を差し伸べている。その手を握るか否かは自分次第だ。

護国寺の境内は空が広い。いつ来ても開放的な気分になる。本堂である観音堂は、元禄十年(1697)正月、新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で同年八月落慶供養となった。旧本堂は小ぶりであったが、新築された観音堂はその四倍以上の大伽藍となった。当時の建築工芸の粋を結集した建築で、その雄大さは江戸でも指折り、今の東京では随一だ。本尊は、桂昌院の念持仏で六尺五寸の琥珀如意輪観音だが、絶対秘仏とされ拝観はできない。今、本堂の厨子の中に安置され、毎月御開帳されるのは、大老堀田正俊次男大坂城代を務めた堀田正虎の母・栄隆院尼が寄贈した如意輪観世音菩薩である。この日もちょうど御開帳されていた。絢爛たる宝冠をいただくこの観音様は美しい。平安後期の作と云われ、片膝を立て、うつむき思惟する表情は、如意輪観音ならではの艶かしさが漂う。仏像に性別はないが、観音様はどちらかといえば女性的、母性的である。ことに如意輪観音は、極めて妖艶な色香を放つ。私は、数ある観音様でもっとも如意輪観音が好きだ。そこに母の面影を見ることもあれば、いかにも女性にしか発することのできぬ偉大な力に包まれる心地がする。護国寺建立を発願した桂昌院は、綱吉への深い愛情と、国母としての力と慈悲、そして町娘から、女として最高の地位に到達した喜びと達成感に溢れていたに違いない。そうした意味で護国寺は、鎮護国家とか徳川の祈願寺というよりも、母が子を思う母性的慈悲の寺、或いは女性の出世と幸せを願う寺だともいえよう。

本尊厨子の両翼には、極彩色の観音三十三身像並んでいる。これだけの観音像が一同に居並ぶ様は壮観である。他にも内陣向かって右には、不動明王や二童子像があり、内陣向かって左には、大黒天と恵比寿天、その周囲には四天王像など多くの仏像が安置されていて、護国寺は東京でも随一の仏像の宝庫である。また、観音堂の天井には元禄という時代を示す艶やかな天女図と、壁には巨大な絵馬群が奉納されていて、いずれも圧巻の存在感で観音堂を彩る。この大建築が、震災にも戦災にも焼けずに残ったのは、とてつもない観音力のおかげであろうか。江戸には徳川家所縁の寺がたくさんあるが、寛永寺も増上寺も伝通院も、皆、焼けてしまった。護国寺が唯一、徳川時代の威光を知らしめてくれている。

言うまでもなく、真言宗豊山派の総本山は、大和の長谷寺であるが、現在豊山派の本部は護国寺に置かれている。護国寺豊山派の布教活動の拠点なのである。足立区の西新井大師とともに、関東の豊山派を束ね、その発展に尽力してきた。長らく真言宗は、高野山、東寺、智山、豊山が四本山とされたが、明治以降は分派分裂を繰り返した。今、真言宗には数多の派があるが、豊山派は新義の一派で、智山派や新義真言宗と紆余曲折を経て、昭和二十一年に改めて発足した。祖師は弘法大師空海だが、空海以来の真言密教を古義、院政期に、真言宗中興の祖とも云われる覚鑁を流祖とした真言密教が新義と呼ばれる。一時は新義派が主導した時期があり、その教義は拡散した。この頃は、東寺の長者が高野山座主も兼ねたが、覚鑁は、最高権力者の鳥羽院と昵懇になり、鳥羽院院宣高野山座主に就いた。これは異例なことで、覚鑁はこれを機に真言宗の大改革を始める。が、これまで影響力のあった東寺勢力を退けて、高野山の独立を企てたところで、抵抗に屈し失脚。自らの根来寺に退いて、失意のうちに世を去った。真言宗の中にさえ、こうした権力闘争が渦巻く時代があったのだ。時代は降り、秀吉の根来寺討伐の後、天正十五年(1587)長谷寺に専譽が入り、慶長五年(1600)には、玄宥が京都に智積院を開き、それぞれ豊山派、智山派と称するようになる。両派とも新義で、新義真言宗を含む三派が新義の系譜を繋いできた。古義は関西に多く、新義は関東に多いといわれる。新義も総本山は関西だが、関東を足場に布教した大本山の果たした役割が非常に大きかった。関東の真言宗寺院は、豊山派と智山派の寺が圧倒的に多いのも、宜なるかなである。でも、根本の教えと真言密教の秘法は、空海以来どの派もさほどの差異はなく、受け継がれている。護国寺の観音堂内陣でも、常に護摩焚きが行われてきた。故に天井は三百年の煤で黒光りしている。

護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した護持院は、明治時代に護国寺に吸収合併した。護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地五万坪のうち、東側の二万五千坪は皇室に献上されて、皇族の墓所(豊島岡御陵)が造られた。また、西側の五千坪は陸軍墓地となり、護国寺境内は二万坪ほどに縮小した。現在、陸軍墓地護国寺墓地の一角に整理されていて、山県有朋もここに眠る。他に三条実美大隈重信らも眠り、ここは明治の元勲たちの墓場なのである。私は山県有朋にもとても興味がある。日本陸軍の父とも呼ばれた山県は、晩年まで老獪に政界と軍部に蔓延ったが、そういうところが、山県の一番の魅力だと私は思う。山県は松下村塾の末席に名を連ねたが、頭角を現したのは、他の塾生が早世してからで、西南の役以降急速に力をつけた。白洲正子さんの祖父樺山資紀は、海軍軍令部長で台湾総督まで務めた元勲の一人だが、樺山は「本当に偉い人達みんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ」と言ったそうである。山県にもそういう想いがあったかはわからない。そんなことは微塵も思わなそうなイメージが、確かにある。ダークな部分が付き纏う人物だし、事実そんな人であったと思う。が、先に死んだ者へのリスペクトが、彼を晩年まで突き動かした、唯一つの信念ではなかったか。あえて泥被り、汚れたキャラクターに徹することこそが、彼の立つ瀬であり、先に死んでいった人達への誓いと、供養であったと、私は勝手に思っている。山県は、京都や小田原にも巨大な別荘を持ったが、東京には護国寺からほど近いところに、本邸があった。これが椿山荘である。今はホテルの名前になっているが、あそこが山県の邸跡だ。椿山荘のあたりは、江戸時代から椿山と呼ばれた椿の名所で、今では考えられないほど風光明媚なところであった。山県はこの地を気に入り、自邸を椿山荘と名付けた。ホテルは名前も拝借したのである。山県の趣味は庭造りで、お抱えの庭師にあれこれ指図したとか。こんな面白いエピソードがある。或る時、京都蹴上の別荘無鄰菴の某有名な庭師に、庭石の置き場所について注文をつけると、庭師は、「閣下は兵を動かすことは誰よりもできるでしょうが、こと庭石をどこに動かしどこに置くかは、私の方が閣下よりもうまくできると存じます」と、畏れ入って答えた。山県はそれはもっともだと呵々大笑し、以後は口出しせずに黙って眺めていたという。大元老に臆することなく、進言した庭師も立派だが、分を弁えた山県の振る舞いに、私はとても親近感を覚える。今、山県は護国寺の裏の墓地で、妻と仲良く並んで眠っている。

護国寺には茶室がたくさんある。実業家で茶人として知られる高橋箒庵は、護国寺の檀家総代を務め、大正から昭和初期にかけて境内の整備を行った。芝にあった松平不昧公の墓所関東大震災で被害を受け、区画整理の関係もあって、松江への移転が検討されているのを知り、護国寺への移転を実現させた。また三井寺の月光殿を、原六郎から譲り受け、護国寺の西側に移築した。その他、五つの茶室、多宝塔、不老門を建設。これ以後、月光殿や茶室を利用して護国寺で大規模な茶会が開催されるようになった。今も護国寺では定期的に茶会が催されている。不老門からの眺めは良い。石段を昇り枠の向こうに青銅色の観音堂の大屋根を望む時も、反対側から眼下の音羽通りを俯瞰するのも、なるほど護国寺とは大本山たるに相応しい寺だと実感するであろう。

元禄時代は、江戸時代ファンでなくとも、関心がある人が多い。忠臣蔵、生類憐れみの令、花開いた江戸町人文化、松尾芭蕉の登場など、角度を変えてみれば、なおいっそう、様々におもしろき時代である。元禄の名残りを求めるならば、元禄の象徴とさえ云える護国寺へ是非とも足を運ばれたい。そこにはきっと、あなたの探す、私の探す元禄時代が見つかるであろう。