弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一桓武帝誕生と長岡京一

天皇を時に帝と敬称する。帝を日本語ではミカド或いはテイと読む。極めて皇帝的な敬称であり、中国の多大な影響を受けてきた日本人の言葉の模索は、天皇と云う存在の敬称からも察することができる。帝をミカドと読むようになったのは、平安中頃から始まる脱中国の表れのひとつに違いないが、元はテイと読み、皇帝と天皇は同じであるとした。ミカドは御門が語源と云う説があり、帝を充てたに過ぎず、やはり帝=テイと読むが相応しいと思う。歴代天皇で帝=テイと云う敬称がもっとも似つかわしいのは、桓武天皇であろう。唐文化に強い憧れを抱き、私淑した桓武天皇を私もあえて桓武帝と敬称したい。 桓武帝は、天平九年(737)光仁天皇の長子として誕生された。母は光仁天皇の側室で百済系渡来人和氏出身の高野新笠。諱は乳母の山部子虫の姓により山部王と呼ばれた。当然、父君が天皇となられる以前は皇位など夢のまた夢である。山部王は侍従や大学頭に任ぜられ、御本人も官僚として生きてゆく覚悟を決めていた。運命とは不思議なもので、この経験が後に桓武帝として、世情や政策に明るい専制君主を育てた。後に行う蝦夷討伐についても賛否を別にすれば、桓武帝が臣下の言いなりではなく、強い決断力を示された証である。桓武帝が幼い時分から大和朝廷は崩壊へ向かいつつあった。

時代がダイナミックに動く時、その荒波を乗り越えてゆくべく有能な漕ぎ手が現れることがある。日本史上桓武帝もその一人であろう。時代が必要としたとも云える。宝亀三年(773)他戸親王廃太子となり、翌年、山部親王は三十七歳で皇太子となられた。このあたりの経緯は前回書いたので省略するが、血筋のよかった他戸親王を廃したのは、母の井上皇后光仁天皇を呪詛したかどで、他戸親王連座とされたからである。その裏には天皇家を巻き込んだ藤原氏の権力闘争がかなり影響していると思う。それを主導したのが藤原式家藤原百川であった。百川は天武系の血を排除するために仕組んだに相違ない。天応元年(781)四月、父君が崩御。あれよあれよで山部王は第五十代天皇として践祚された。四十五歳であった。正式な即位は後日行われたが、践祚から日を隔てて即位されたのは、桓武帝が初めてである。この年は氷上川継の謀反事件が起こり政局は不安定になった。氷上川継天武天皇の御子の新田部親王の子の塩焼王と、聖武天皇の皇女の不破内親王を父母に持つ天武直系で、自らが正当な皇位継承者であると主張したのがこの事件である。さらには凶作で、疫病も流行した。不穏な空気を一新すべく延暦改元された。延暦時代二十五年の始まりであり、延暦年間は桓武帝の統治する二十五年である。

 あをによし奈良の都は、政官、政教、官教が強烈に癒着し、どうにもならない状態となっていた。天下泰平の世はいつも似たようなことが起こるものだが、平城京でも政治腐敗、贈収賄などの汚職が横行し、民を顧みない政が半ば公然と行われていた。加えて仏教伝来から二百数中年を経て、奈良の名だたる大寺院は大きな力を蓄えるようになり、貴族と癒着して私服を肥やし、権威を高めることしか考えず、本来の仏教の教えなど何処かへ消え去っていた。政権に寄生するかのように近づいて、政治権力まで手にしようとしたのである。ゆえに称徳女帝の御代には道鏡のような野心家まで登場することになる。奈良仏教は目も当てられぬほど堕落の一途を辿っていたのである。仏教は鎮護国家として日本に大きく食い込み根差してきた。その仏教の力を恐れた桓武帝は自らの手でこの癒着を剥がそうと決意する。それにはいっそのこと七十年の都を捨てて、新しい土地で、新たなる都を造営し、清々しく人身刷新して、新しい国造りをやりたいと強く思うようになる。他にも理由はあった。大和国平城京は、壬申の乱で勝って天武天皇より天武系の皇族とそれに連なる貴族が大きな力を持っており、天智系の桓武帝はその力と謀反を恐れてもいたと思う。決意の遷都には骨肉の争いに終止符を打ちたいと云う願いも込められている。また、開明的な桓武帝は海外=唐との交わりをさらに拡大してゆくことが、国を豊かにし、自らの権力基盤と権威を高める最大の手段と考えた。交易には平城京はいかにも不便な場所で、物資を運搬するための水路がないため、陸路に頼っていた。桓武帝は効率的な流通ルートを確保するには、海か大河の近くに都を拓くことが肝要と思っていたが、この時代、国防的見地から海の目の前とはいかなかった。治水事業は少しずつ発達してはいたが、それは池沼や中くらいの河川に限られており、海や大河の治水は到底困難なことであった。であるから、あまりにひらけた水辺よりも、日本人が代々付かず離れず寄り添ってきた山にも近く、敵の侵入を容易に許さない土地を丹念に探した。遷都は大事業だが、なるべくなら低コストでやりたいのも本音で、平城京から近すぎず、遠すぎずの場所が望ましい。

そんな理想的な土地が山背国長岡であった。 川の少ない平城京は水はけも悪く、下水問題も抱えており、まことに不衛生な都市であった。 長岡の近くには桂川宇治川、木津川の三本の大きな川が流れ、その先で三筋が合流して淀川となる。淀川はこの当時の日本の玄関である難波津へと流れるが、この頃の難波津は土砂災害で機能不全に陥っており、それに代わる場所が必要でもあった。唐と親しくして交易をすることを強く願う桓武帝は、かねてから水運活発なところが、都として望ましいと思っていた。長岡京が造営されると同時に淀川となる合流点には山崎津が設けられた。船で全国からの物資を運べるため非常に便利であり、豊富な水を町にひくことによって各戸に井戸が掘られていたことが発掘でわかっており、豊かな水は民にもあまねく行き渡るようになった。慢性的な水不足に悩まされていた平城京が枯れていったのも、むべなるかなと思う。長岡京は緩やかな斜面に造営されており、南東へ傾斜しているため廃棄物や汚水などを川へと流し去ることができ、下水の問題も解決できたのである。長岡京はこれまでのどの都よりも安全で、実に快適な都市であった。おそらく平安京よりもはるかに暮らし易い場所ではなかったか。

延暦三年(784)十一月十一日、桓武帝は喜び勇んで長岡へ遷都した。自らの宮を市街地より高い場所へ築き、その権威を見せ付けた。長岡が新しい都であることを示し、希望の都市の専制君主となることを、天下万民に知らしめたのである。長岡遷都には桓武帝の寵愛した藤原種継が大きく関与している。そもそも長岡には種継の本拠があり地盤なのである。種継は藤原式家の出で、式家は叔父の藤原百川が先帝の御代に大きく勢力を盛り返していた。父は藤原宇合の三男の藤原清成であるが、この人物は不明なところが多い。清成は長兄の藤原広嗣の乱の煽りを受けて、無官位であったが、兄の連座で処刑か流罪となり官位を剥奪されたのであろう。ゆえに種継や兄弟たちは青年となるまでは息をひそめて暮らしていたに違いない。称徳女帝の御代にようやく従六位上から従五位下へ昇進した。そして光仁天皇の時代には、藤原式家が主導権を握ったため、種継も重用されるようになり、近衛少将に任ぜられ、紀伊守や山背守となった。百川には藤原緒嗣と云う息子がいて、後に桓武帝の腹心となるが、この頃はまだ十一歳で、代わって種継が活躍した。後述するが、種継の娘藤原薬子が、後に薬子の変とも云われる事件に大いに関わってくるのだ。種継は光仁天皇の御代にとんとん拍子で出世して、従四位下左京太夫にまで昇進している。種継は同い年の皇太子山部親王と親しくなり、厚い信任を得るようになる。私は二人が同い年であったことに注目している。山部王も種継も幼少から長い間不遇を囲っていた。この境遇を嘆きながらも、少しずつ雲が晴れてゆくのを感じてもいたに違いない。桓武帝と種継は臣下の別を超えて心許せる友となった。山部親王は誰よりも種継を信頼し、種継も友情を結びながらも親王に忠誠を誓うようになる。時代を切り拓くと云う共通のスローガンを胸に抱いていたのではなかろうか。桓武帝として即位されるやいなや、種継は参議となり公卿に列せられた。従三位中納言正三位まで昇りつめ、飛ぶ鳥を落とす勢いとはこの時まさに藤原種継のことであった。長岡京への遷都はこの藤原種継が主導したと云われる。

こうした人物は必ず恨みを買うのが世の常である。先任の参議たちは、自分たちを飛び越えて昇進してゆく種継を快く思うはずはなかった。その中には三十六歌仙のひとり大伴家持もいた。延暦四年(785)藤原種継は、ある夜工事の進捗状況を視察している折、何者かの射た矢によって暗殺された。主犯は大伴竹良、大伴継人、佐伯高成ら十数名とされすぐさま捕われて処刑された。その他配流された者も多数いた。一方で「続日本紀」には、皇太弟早良親王大伴家持の陰謀であると書かれている。家持はこの事件の前に一ヶ月前に死亡しているため真相は定かではないが、首謀者の一人として官位剥奪された。家持は生前春宮大夫であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その他、東大寺に関わる役人ら奈良仏教界も複数人が種継暗殺に関与したと云われる。

早良親王は幽閉され、配流となった。親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま薨去される。早良親王の死後、長日照が続き、飢饉となり、疫病が大流行した。桓武天皇の皇后は藤原吉継の娘乙牟漏であったが、この時薨去されている。さらに近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こった。桓武帝が陰陽師に占わせると、早良親王の怨霊によるものとの結果が出た。祟りを恐れた桓武帝は親王の御霊を鎮める儀式を行ったが、今度は大雨によって長岡京は洪水に見舞われて、大きな被害を蒙ってしまう。治水担当者であった和気清麻呂桓武帝に遷都を進言する。そして長岡京が造営されてからわずか十年、延暦十三年(764)に同じ山背国葛野と愛宕両郡にまたがる広大な盆地へと再び遷都することになる。長岡京の十年は、平安の夜明け前であった。いよいよ長い長い平安時代が幕を開ける。