弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

西国巡礼記 第二番 紀三井寺

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る

山部赤人の万葉歌である。赤人といえば、

田子ノ浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

が有名だが、若の浦〜も代表歌の一首である。鶴が鳴き渡ると云うのも、初春を寿ぐ様な調べで、暖かく穏やかな和歌の浦に、つがいの鶴が首を上げて鳴く情景が瞼に浮かんでくるようである。この歌は、神亀元年(724)の初冬、聖武天皇紀州行幸に供奉した赤人が、風光明媚なこの地を讃えた長歌天皇に献上し、それに添えた反歌の二首目であると云う。歌では鶴と書いてタヅと読むが、海辺ならば田鶴よりも越冬に渡ってきた多鶴が相応しい。田子ノ浦~の歌とどちらが先に詠まれたのか知らないが、私は若の浦~が先で、田子ノ浦~があとではなかったかと思う。果たしてこの時代、赤人が田子ノ浦まで行ったのかどうかも不明だが、若の浦には確実に行ったと思う。少し想像をたくましゅうすれば、若の浦~の歌から田子ノ浦~の絶唱が生まれたのではなかろうか。風景は違くとも、情景は同じと心にとめれば叶わぬ想像ではない。それも山部赤人ほどの人物ならばいとも簡単にやってのけたとも思う。かつての歌人たちは、「その場所」すなわち後に歌枕の地となったところに、あたかも本当に行ったと思わせる歌を詠んでいる者も多い。

都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師の有名な歌だが、能因は白河関を訪ねてはいないという逸話がある。数ヶ月も家に引き篭もって、庭で真っ黒に日焼けしてから、陸奥へ行ってきたのだと言ってこの歌を披講した云う。このようなことは歌道徘徊ではよくあることで、望郷や憧憬が歌となり、いつの日か独り歩きを始めて名歌に育つ。やがて歌枕の地が人々を惹きつけてゆく。 山部赤人奈良時代の下級官人であったらしいが、歌の才に長け、やがて聖武天皇行幸に供奉するようになり、そこで歌を詠み、天平の宮廷歌人として名を馳せた。平安時代には柿本人麻呂と双璧と讃えられ、三十六歌仙の一人でもある。紀貫之古今集の仮名序において「人麻呂は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける」と評している。 若の浦が和歌浦に転じて名だたる景勝地となり、やがては秀吉によって紀州のこのあたりの土地を和歌山と称するようになるが、美しい若の浦を、秀麗な和歌に仕立て上げた山部赤人をはじめとした万葉歌人の影響は大きいと思う。

 私は今回、京都から巡礼のバスツアーを利用した。紀三井寺粉河寺、槙尾山を巡る日帰りツアーである。本来は一寺一寺自分の力で、しっかりと歩いて巡るべきであるが、東京から仕事の合間をみての忙しない巡礼者には、効率的に三つの寺を日帰りでまわってくれるのは魅力であり、まことにありがたいもの。これも観音さまの導きであると、この時ばかりはちゃっかりと信心して、バスに乗り込んだ。日帰りの巡礼は旅行会社各社が行っており、頻繁に繰り返しツアーが組まれている。なるべく混雑を避けようと私は平日を選んだのだが、この日は満席。考えることは皆同じなのか、巡礼人気はいささかも翳りを見せない。私がこのツアーを選んだのは西国一、二とも云われる難所の第四番槙尾山施福寺が組まれているからであった。槙尾山は小一時間の険しい山登りをせねばならない。その麓まで巡礼バスは連れて行ってくれるのだ。あくまで今回だけのつもりで、物は試し、巡礼バスツアーとは如何なるものか知りたい思いもあって利用することにした。

 巡礼バスはお昼頃に紀三井寺の近くに来たが、その前に和歌山マリーナにある黒潮市場で昼ごはん。巡礼中に精進しないのもどうかと思うが、海鮮は美味しかった。和歌山マリーナのあたりは南仏のリゾート地を思わせる開発が進んでいて、ちょっとびっくりしたが、目の前の和歌浦から吹いてくる潮風は心地よい。

紀三井寺は、和歌山市の町外れにある。土産物店が軒を連ねる参道を歩いてゆくと、大きな門が現れる。明るい朱の楼門がまるで竜宮城の入り口の様に見えるのは、錯覚とも思えず、南国の風光のおかげであろう。門の先には一直線に二百三十一段の石段。青岸渡寺は四百五十段だから半分弱の数だが、こちらはかなりの急傾斜なので一気に昇るのはなかなかキツイ。

正式には金剛宝寺護國院と云う。宝亀元年(770)の開創。開基は為光上人と云う唐からの渡来僧である。境内から湧き出す三つの霊泉、清浄水、楊柳水、吉祥水が紀三井の由来。近江の三井寺と区別して紀州紀三井寺と通称されている。三井水は名水百選に選ばれ、昭和天皇が皇太子時代に和歌山に滞在された時にも献上水とされた。石段の中間にあるのが小さな滝が清浄水。楊柳水はその先にある井戸で、吉祥水は楼門を出て北へ少し行ったところにある井戸。清浄水だけは枯れなかったが、楊柳水と吉祥水は早くに枯れてしまった。しかし近年復元されたのも、人々の紀三井に対しての御利益と愛着を感じる。

楼門から見上げる二百三十一段の急な石段を登ると視界は開けた。登り切れば景色の良さに疲れも忘れる。そこはまさしく観音浄土。 眼下には絵のように美しい和歌の浦が広がる。私が行った時は曇天であったが、和歌の浦を遠く行き交う大型船が起こす波が、薄墨で引いたように青黒く見えて、私はしばし陶然と眺めていた。名草山の山腹に御堂や多宝塔が点々と建っているが、どこからでも和歌の浦が見渡されて気分が良い。境内の桜は早咲きだとか。本堂前に和歌山地方気象台の桜の標本木があり、近畿地方の桜の開花の目安になっている。花が盛りのころは、この境内がさらに流麗な情趣となるであろう。 門前で戯れながら下校する子供たち。紀三井寺は私のような余所者には崇高な霊場でも、彼らには格好の遊び場らしい。観音様は彼らを優しく見守る。 第一番の那智からは西国巡礼で最長の道のり。かつては熊野参詣道の大辺路や中辺路をまわって紀伊路に出て、ニ、三日はかかる行程であった。健脚者はもう少し早かったのだろうか。今は熊野街道という国道が走っているが、車でも有料道路を利用して三時間近く、一般道では四時間はかかる。御詠歌もそう謳う。

御詠歌

ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん