弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

文学VS音楽

今年のノーベル文学賞にボブディランが選ばれた。正直驚いたが、ノーベル委員会もなかなか粋なことをするなとも思う。文学賞は世界中に数多くあるが、ノーベル文学賞はもともと少し異色な気がする。そして今回のボブディランの受賞。さもありなん、世界的権威のノーベル賞が真っ先に革新的な選考をしたことが何とも気持ちが良い。私はボブディランをよく知らないが、「Blowin'The Wind~風に吹かれて~」という曲は好きだ。というより、私はそれしか知らないのだが、この曲はアメリカンフォークソングの極みともいえる一曲であろう。反戦歌であるが、どこか仏教的な慈悲や悟りの境地までをも内包したかのような詞が印象的である。そして風に吹かれて生きていたいという想いは、人間誰もが心に抱き、人生において何度か感じるものであろう。いやもしかすると私たちは、いつも風に吹かれて生きているともいえなくもない。この曲には、詞にも曲にもそういう隠者の孤独の魂と、それへの憧れが凝縮されているように私は思う。

そして改めて痛切に感じたのは、やはり文学は音楽には敵わないのかという、少しばかりやるせない気持ちだ。およそ芸術を一括りになどできないし、するものではないが、やはり音楽には敵わないのだろうか。確かに、文学は読者に読むという作業を強いなくてはならない。これが長編や文献や古典ともなれば、ある種の苦痛すら伴うこともある。好きで読むならば、それもまた楽しであれど、無理強いさせられたのでは、ますます読み手は遠のいてゆく。今もあるのか知らないが、小中学校の読書感想文などはその典型であろう。感想文を書かねばならぬ為に本を読むなど苦行に等しい。その点、音楽はまず耳から入ってくる。歌詞と音が調和し、聴き手の脳髄に響いた時、人と音楽は融合してその詞の世界に入りこむことができる。これが現代音楽の真骨頂だと思う。

ボードレールは言った。「私は詩人をあらゆる批評家中の最上の批評家と考える」と。小林秀雄は言った。「音楽における浪漫主義運動は、いわば文学からその富を奪回しようという運動であった。音楽は詩を食べて肥ったが、詩は音楽という魔に憑かれて痩せた」と。ボードレール小林秀雄も、文学の最上位は詩であり、その後に小説などの散文、批評が続くのだという。活字離れが叫ばれて久しいが、実はすでに十九世紀から始まっていたのだ。崩壊とか瓦解とかいうものとは違うが、果たして今、文学と音楽は共存できているのか。またこれから共栄できるのであろうか。音楽に圧倒的な差をつけられているような気がするのは私だけであろうか。ここでノーベル文学賞をシンガーソングライターが受賞したというのも、またいっそう拍車がかかるであろう。ただ、そうとも限らないと私は信じたい。これを天晴れな警告と受け止め、世界中の文士文豪が決起することを私は切に望む。不肖私も、その末端の端くれの端くれとして、奮起奮戦すること厭わぬ所存である。

沙汰の限り

言語道断。呆れ返っている。豊洲市場の問題だ。よくもまあ、ここまでいい加減にやってきたものだ。東京都は財政も黒字で、日本の中にあって違う世界に映る。何もかも一人勝ちの独り歩き。だが、勝って、勝って、勝ちまくっても、東京は兜の緒を締めなかった。締め忘れたのだろうか。調子に乗るからこういうことが起きたのだと思う。

私は職場が築地にある。毎朝築地本願寺を通り出勤する。築地で働く人、築地の魚を愛する人、物見高い外国人、毎日築地には様々な人が行き交う。東京でも指折りのインターナショナルな街である。なぜここではいけないのか。豊洲は開場前にすでに魚河岸のブランド力を失ってしまった。あそこに水揚げされた魚を食べたいと思うか?誰も思わないだろう。築地でよいではないか。「築地こそ魚河岸」である。思えば、関東大震災のあと、日本橋から築地へ魚河岸が移転したときも、やはり反対する人々が多くいただろう。築地はたかだが九十何年だが、日本橋は江戸時代から三百年も魚河岸があったのだから、当時の人々からすれば「日本橋こそ魚河岸」であっただろう。だが、当時は大震災という壊滅的な打撃があった。今はそうではない。一部の人の利己主義ではないか。築地市場は老朽化して危険であったり、衛生的な面も改善が必要であることはわかっている。ならばそれを少しずつ直していくという選択はなかったのか。はじめから移転ありきで強引にやるからこういう事態になったのではないか。外国ではこんなことはしない。その土地の空気や息づいてきたイメージを大切にする。いかにも日本だけが、いや東京だけがこういうことを軽々にやる。

五輪の件もそうだ。何から何まで、結局は当初のプランはほとんど実現不可能で、結局カネ、カネ、カネである。そもそも私は東京で五輪をやること事体反対であった。なぜならば、こうなることがはじめから解っていたからである。ここ三十年ほどの五輪は国家の威信をかけて、ド派手にやるのが通例。それを見ていれば、日本がコンパクトになんてできるわけがない。無論、財政的に苦しい地方で開催なんかできるはずもない。五輪開催は確実に後から後から、予算が膨張するであろうことは、烏が見ても明らかである。だから予算がオーバーしていくことにはまったく驚きはない。当然だと思う。故に最初から反対だったのだ。東京都もいよいよお先が見えてきたという感じがする。いつの世も奢れる者は久しからずなのだ。

日本よ、東京よ、そんなことをしている場合なのか。この国には明日をも困る人が山ほど溢れているではないか。年間にどれほどの人が貧困で亡くなっていると思うのか。貧困や虐めでの自殺者も痕を絶たない。七十年以上戦争のない国で、これは異常なことではないのか。都市でさえも、夕張市のように財政再建団体に陥っているところがあるのだ。それなのに東京は何なの?一人勝ちしていればそれでいいの?大災害も頻発し、東北も九州もいまだに仮設住宅で暮らす人がたくさんいる。東京よ、それはほったらかしなのか。築地移転は老朽化や狭いという問題だけではない。あの場所に道路を作りたいからだという。

私も五輪を観戦するのは大好きだ。選手の活躍には感動し涙もする。彼らが日の丸を背負って戦っている姿には大いにエールを送りたいし、それは本当に素晴らしいことだ。これに勝るものはなかろうと思う。だが、それとこれとは別の問題だ。ここまで税金を無駄使いし、これから確実にまたカネ、カネ、カネとなる。誰がこれを負担するのか。私たち都民であり、国民である。ここにこれだけカネを使うのであれば、他に今すぐやらねばならんことがあるのではないか。そしてもちろん、我々市民にも責任はある。豊洲の問題はいざ知らず、五輪のことがこれだけいろいろ揉めるということを、鼻っから想像しなくてはいけない。誰に責任があるのかといえば、それは私も含め大人全員だ。政府も、都庁も、議会も、マスコミも、市民も、すべてが五輪の華やかな部分だけに憧れ、獲り憑かれていたのである。私たちはもっと先を見据えて議論し行動しなくてはならない。私らの作ったツケを未来を担う若者や子供達に押し付けていいのか?そこまで考えなくてはいけないのだ。感性だけで行動していいのは、子供と芸術家とアスリートだけである。他の全ての大人は老若男女、学歴、職業関係なく社会というものを大局的に考え、創造しなくてはいけない。いや、今現在、路頭に迷い、明日が見えない人はそんなことは考えなくていい。自分の明日と明日の自分のことだけ考えればいい。そうでない大人は考えて生きてほしい。

一昨日は銀座通りで五輪メダリストのパレードがあった。沿道は八十万人の大観衆であったという。大いにけっこうなことだと思う。活躍した選手を祝福し、元気や勇気を与えてくれた選手を労い、共に喜びを分かち合う。すばらしいことだ。こういことは続けていってもらいたい。くり返すが、私は五輪そのものを否定しているわけではない。選手のことは尊敬し心から応援している。そしてその選手達に熱い声援を送ることも、もちろん素敵なことだと思う。だが、そこに便乗する行動、事業には疑問を抱いてしまう。悪乗りとしか思えないこともたくさんある。そのおかげで結果的に五輪のイメージ、東京のイメージを損ねていることが、哀しく悔しいのである。五輪開催は決まっていることだから、せめて今からでもカネをかけなくてもできるところはどんどんそうしてもらいたい。何にせよ、苦しい生活を強いられている日本人は数多いる。国や東京都は市民の血税で、やっていることを忘れてくれるな。

今度の都知事に最期の望みを賭けたい。男はだらしなく嘘つきばかりだ。女都知事で何とかならぬであろうか。幕末、江戸無血開城と徳川家存続に大きく行動したのは、天璋院と静観院であった。天武帝亡きあとの揺らぐ大和朝廷の礎を固めたのは持統女帝であったし、承久の乱を収めたのは尼将軍政子であった。歴史的に見ても、男が散らかした後始末は女性にしかできないのかもしれない。

 

 

 

 

日本仏教見聞録 川崎大師

仏教が誕生して二千有余年。あと数十年すると日本へ仏教が伝来して千五百年を迎える。日本人は仏教から多くのモノを得てきた。信仰、経典、美術、音楽、文学。四方の海に囲まれた敷島に、仏教は大陸の文化を運んできた風であった。その風は時に嵐の如く荒々しく、時にはそよ風のようになびきながらこの国に根ざしてきた。日本には古代から八百万の神々がいたが、仏教は土着の神と喧嘩をせず、静かに共存する道を選んだ。正確に言えば、まったく争いがなかったわけではないが、互いに付かず離れず上手に付き合ってきたのだ。連綿と紡がれてきたその理由は何か。信仰だけではあるまい。いや、真実はただ信仰のみなのかもしれない。答えは永遠に見つからぬかもしれないが、ひとまず私なりに探しに行こうと思う。日本仏教の本山と呼ばれる寺院を訪ねてみたい。私はかねてよりずっとそう思ってきた。すでに何度も訪れている寺院も、まだ一度も行ったことがない寺も、宗派を問わず本山寺院を巡礼し、日本仏教とは何かを確かめてみたい。そして二十一世紀の日本仏教を肌で、心で感じる旅である。いつ終わるとも知れぬ長い旅であり、生涯のライフワークとなるであろう。

私は個人的には寺院の大小にはあまり関心はなく、東大寺のような巨大伽藍にも圧倒されるし、浅草寺のような庶民信仰の寺も心惹かれる。また、高野山大徳寺が擁する子院や塔頭にも趣き深い寺が多くある。むしろ好ましいのは江戸や京都の一隅で肩を寄せ合うように立つささやかな寺や庵である。しかし、この旅ではあえてそういう自分の趣味で行きたい寺ではなく、本山を訪ねる旅としたい。本山に行けば、その宗派の根本が何かしら掴めるのではないか。ひいては日本仏教が生き続けて来た意味がわかりはしないだろうか。という至極単純な思いつきなのだが、果たしてどうだろうか。そしてこの旅を通じて自分自身の信仰心を突き止めたいのだ。菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、そもそも仏教に関心を抱くきっかけとなったことは自覚している。数年前には東京生活のすべてを放り出して、一人高野山の宿坊で働いた。だが果たして、それがきっかけで信心深くなることはなかった。これまで信仰心は希薄であったと思う。寺を訪ねても、先祖の墓参りでも熱心にお経をあげることもなかった。寺巡りを始めたのは歴史が好きで、それが昂じていつのまにか日本仏教にも関心を抱くようになったからだ。熱心な信者の方からすれば、にわか物見のような輩なのである。それでもここ最近は、自分が死ぬ時はやはり南無阿弥陀仏真言を唱えるであろうし、私を生涯守護するのは般若心経だと強く思うようになってきた。ここで改めて歴史的興味だけではなく、その寺、宗派に息づく信仰、日本仏教の信仰の形を再発見してみたい。

私は日本の仏教寺院の特色は三つに分けられると思う。

一、先祖の永代供養と葬祭を引き受ける菩提寺
二、祈祷を行い縁日や開帳、祭祀を行う祈願寺
三、座禅や作務から己を見つめ、心身修養を行する禅寺

どの寺院も私にとっては違う魅力があるが、これから向かう巡礼ではこの三つの観点をしっかりと学び、確認しながら、私なりに日本仏教の本質を考えてみたい。順番は向かうところ気の向くままに、全国各地の本山を訪ねていく。日本には本山と呼ばれる寺院がおおまかにわけても七十余りある。そのすべてを訪ねることは容易ではないが、一歩ずつ進んで行こう。そして創建年代は仏教伝来から江戸時代までとする。故にこの巡礼は極めて私の個人的な選定であるが、これを「私の本山巡礼の旅」としたい。

はじめに選んだ寺は川崎大師である。川崎大師には若い頃、近くに友人が住んでいて何度も行ったのでよく知っている。本当はここから程近い鶴見の總持寺からこの本山巡礼を始めるつもりだったが、總持寺の拝観まで少し時間もあり、この巡礼に同行してくれるT君も川崎大師はお参りしたことがないと言うので、ちょっと寄るつもりで行ってみた。私自身も十四年ぶりのお参りであった。改めてじっくりとお参りしてみると、この寺が経てきた長い歴史や格式をまざまざと感じることになった。いかにもこの巡礼の最初に相応しいではないか。それにこの寺は真言宗智山派大本山と掲げている。よって川崎大師からこの巡礼をスタートすることにした。

川崎大師は大治三年(1128)高野山の尊賢上人によって開かれた。正式には金剛山金乗院平間寺と号する。尊賢上人は高野聖として諸国を巡っていた折、多摩川近くのこのあたりである漁師と出会う。寺伝によれば、漁師は名を平間兼乗といい、元は尾張の武士であったが、父の兼豊ともども無実の罪に問われ、生国を追われてこの地に流れてきた。貧しく漁師暮らしをしていたが、兼乗は弘法大師を深く崇拝し、日夜祈願していたところ、ある晩、夢枕に空海と思しき僧が立ち「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられた。翌朝ただちに海に出ると、光り輝いている場所があり、網を投じ引き上げると、果たして弘法大師の木像であったという。尊賢上人はこの霊験を聞いて感涙し、兼乗とともに寺を建立、本尊として木像を祀った。平間寺はこの平間兼乗の姓からで、このあたりは夜光町と呼ぶようになった。今も寺から海の方に少し行ったところに夜光という地名がある。そういえばここより多摩川を少し上流に行くと、平間とか矢向という地名があり、南武線の駅名にもなっている。ひょっとするとあのあたりもかつては寺域だったのであろうか。だとすれば相当に広大であり、頼朝の昔から徳川将軍家まで一目置かれた寺院であったことも頷ける。これが川崎大師の縁起であるが、だいたい日本の寺院創立の起源にはどこも似たような話が多く、ことに弘法大師はこういう話には枚挙に暇がない。すべてを鵜呑みにはできないが、それでもこれだけ長い間人々の尊崇を集めてきたのだから、一概に伝説という言葉だけでは片付けられないと私は思う。

本堂の大屋根には菊の御紋が輝いている。皇室の勅願寺であるため、特別に許されているのだという。これまで戦災や災害で度々焼失してきたが、そのたびに力強く復活してきた。戦後も少しずつ伽藍を復興していき、ついに平成十六年の経蔵の落慶により、七堂伽藍が整った。山門、本堂、八角五重塔も大きくて圧倒されるが、異彩を放つのがインドの寺院を模した薬師殿だ。ここはもともとは自動車祈祷殿であったが、平成十八年に大師線の線路を挟んだ多摩川のほとりにこの薬師殿と同じ様式で一回りほど大きい新自動車祈祷殿が落慶し、こちらは薬師如来を祀る薬師殿となった。この薬師殿では静かに仏教音楽が流れ、香が焚かれている。薬師如来の住むといわれる東方浄瑠璃浄土を再現してあるのか、蒸し暑い晩夏の昼時、ここだけは爽快な空気に満ちていて、眠気を誘う心地がした。 新自動車祈祷殿には毎日たくさんの人と車が交通安全祈願にやってくる。京浜工業地帯のど真ん中で、川向こうの目と鼻にある羽田空港からは頻繁に飛行機が離着陸している。そんなところに川崎大師はある。大師といえば弘法大師。ここはつくづく弘法大師の寺。大師信仰の坩堝と言ってもよい。京急大師線、多摩川にかかる大師橋、首都高の大師インター、大師パーキングエリアまで大師の名を冠している。また、全山が平坦で全国の寺院でもここほどバリアフリーな寺もないのではないか。私は山寺が大好きであるが、こういう街のど真ん中にある寺は、我々の最も近くまで下りてきていて、世俗にどっぷり浸かっているところがありがたい。空海衆生を救わんという願いに呼応していて、これが空海仏教の本来の姿なのではないかと思う。

川崎大師の近くには若宮八幡神社があるが、そこに金山神社という社がある。奇祭「かなまら祭」で有名な神社だが、この社の御神体は鉄でできた男根なのである。境内にはあちこちに男根を象ったモニュメントがあり、思わずはにかんでしまうが、ここまで堂々と存在すると、いやらしさなどは微塵も感じない。日本人は記紀の時代からこうしたものを神聖視してきた。巨石や大樹は男性器や女性器に見立てられ、陰陽石とか胎内くぐりと称して各地に残っている。豊作、子宝、安産、子孫繁栄という切なる願いが込められており、一概に猥雑なものと決め付けるものではない。境内には幼稚園もあり、子供たちが運動会の徒競走の練習をやっていた。あんなに小さいのに、きちんと並んで、走る順番を待つ。そして自分たちの出番が来たら懸命に走る。微笑ましく思うとともに、今も昔も日本の神仏は私たちのすぐ近くで見守っているのだとつくづく思った。

川崎大師は、参道を歩いてみても庶民信仰の寺だという印象が強いが、代々国家権力の祈願所でもあり、やはりそこは真言密教の道場の一つでもある。成田山新勝寺高尾山薬王院と並び真言宗智山派の関東三山であり、西新井大師、香取の観福寺とともに関東の厄除け三大師とも称される。この「厄除け」がこの寺の根本使命であり、あまねく土地から人々が詣でてくる由縁なのである。毎日七度から八度も、護摩修行が行われ、本堂には十数人の僧侶の読経がこだまして護摩の炎が焚き上がる。この度私たちも護摩修行に参列する機会を得た。密教法具で何というか私は知らないが、鉦や鈴を鳴らして、灯明から火種を摂り、護摩壇にくべる。僧侶たちの声明はまるで荘厳な管弦楽のように聴こえてくる。やがて大太鼓と読経の声が乱舞するが如く響き渡り、その声と音が大きくなるに連れ、護摩の炎も大きく高くなってゆく。焔、太鼓、読経のすべてがピークに達すると、井桁に積まれた人々の願いは、黒煙ともにへ天へと昇る。そこで弘法大師衆生を救わんという願いと交わるのであろう。

読経の続く中、私たちも本尊の前まで案内されて、真下で弘法大師空海に手を合わせた。その時である、私は頭のてっぺんから雷に打たれたような感じを受けた。こういう護摩焚きにはこれまでも方々で参加したことがあるが、今回はこれまでとは違う何か特別なものを感じたのだ。先に述べたが、私はいっとき高野山で暮らしたことがあり、これまでも方々の真言密教の寺を訪ねてきた。それは弘法大師空海という人物に並々ならぬ関心を寄せてきたからで、常々一人の日本人として、この国に空海という天才がいたことを誇りに思ってきたからだ。だが同時に当然のことながら空海には容易に近づくことはできないでいた。今でもそうだ。あまりにも大きすぎる存在なのである。それがこの日、川崎大師の本尊前まで歩み寄り、手を合わせた瞬間、私は初めて、少しだけ、ほんの少しだけ空海に近づけたような気がした。同行二人。これが結縁と信じて、私はこれから日本仏教の本山を訪ねる旅を続けて行こうと決心した。

赤坂離宮

残暑の中この連休は元赤坂の赤坂離宮に行ってきた。思えば中学一年の終わり頃、始めてこの場所を訪れた。二月の寒い夜、正門前に立って、日本にもこんな素晴らしい宮殿があるのかと驚き、心惹かれてから二十七年。ようやく積年の想いが叶って、その内部へ足を踏み入れたが、そこはやはり日本で唯一のパレスであった。

この離宮が完成したのは明治四十二年(1909)。大正天皇東宮御所として造営されたが、当初の予算をはるかにオーバーし、そのあまりの豪華さに明治天皇は「贅沢すぎる」とお怒りになったというが、さすがにこれだけの建築、百年を経た今では、赤坂の森にしっとりと落ち着いている。設計は片山東熊。東京駅を設計した辰野金吾と並ぶ明治近代建築の巨匠だ。他に京都と奈良の国立博物館東京国立博物館表慶館が片山の代表作である。いずれも外観はネオバロック様式で、重厚で絢爛たる建築は、西洋への劣等感から生まれた賜物であろう。一見そうしたものは感じさせない優美さだが、明治日本人の気迫が秘められている。赤坂離宮には鎧兜や桐の文様など、随所に日本古来の意匠が違和感なく配されている。この威容は世界に誇れるもので、日本の近代建築の先導役を果たしたといえよう。そしてこの赤坂離宮の落成したその時が、明治日本西洋化の集大成であったと思う。

赤坂離宮東宮御所として造営されたものの、大正天皇はその生涯で一度もお住まいになったことはない。御所としては昭和天皇が新婚時代に一時住まわれただけで、戦争が色濃くなってからは、あまり人が出入りすることはなかった。昔の写真や絵葉書をみると、正門や高いフェンスはすべて黒塗りであったが、戦後迎賓館に改修されたときに、今の純白に塗りかえられた。戦後は雨漏りや設備の老朽化が著しく取り壊しも検討されたが、やはり歴史的価値が高いため残ることになった。弾劾裁判所国会図書館を経て、東京五輪組織委員会本部が設置されたが、その時は室内のシャンデリアでは暗いため、シャンデリアに蛍光灯を取り付けるという無茶をやっていたようだ。その後、国際会議や国賓公賓を迎える機会も増えたため、国の迎賓館に改修された。最初に宿泊したのはアメリカのフォード大統領、それからエリザベス女王夫妻をはじめ、世界のVIPを迎えてきた。泰平の世になってようやくこの宮殿は日の目を見ることになったわけだ。今から七年前には本館、正門、主庭の噴水が国宝になった。赤坂離宮は皇室から国へ、そして日本国民の共有の財産となったのだ。これまでは年に数日だけ、抽選での公開であったが、今年から広く一般公開されるようになった。参観した日は三連休のこととて正門前から長蛇の列。予約をしてもずいぶん並ばせられて辟易したが、それでも一見の価値はあった。

赤坂離宮で以前から私がもっとも見たいと思っていたのが、「花鳥の間」の七宝である。「花鳥の間」は晩餐会が開かれる大食堂で、他の絢爛たる部屋に比べて、落ち着いた木の温もりを感じさせる部屋だが、よく見れば天井画や柱には精緻な彫刻が施されていた。壁には三十枚の花鳥の七宝焼が据え付けてある。耳をすますと、水鳥の羽音や小鳥の囀りが聴こえてきそうなほど繊細で美しい。この部屋に日本の自然の代名詞ともいえる「花鳥風月」の情趣を添えているこの七宝こそが、明治七宝界の巨匠、濤川惣助の作品だ。明治時代の七宝界は風前の灯であった。そこに彗星の如く、二人のナミカワが現れる。一人は東の濤川惣助、もう一人は西の並河靖之である。奇しくもこの両巨頭、字面は違えど苗字は同じナミカワであった。 

明治維新はあらゆる分野で変革をもたらしたが、美術工芸の世界も例外ではなかった。宮内省は時の工芸作家の作品を数多く買い上げ、宮中を飾る美術工芸の製作を依頼して、伝統工芸の保護育成と工芸作家の庇護奨励が図られた。明治二十三年(1890)には帝室技芸員制度が設けられ、卓越した技能と感覚を持つ工芸作家を任命した。彼らはその期待に応えるべく、帝室に相応しい造形と品格を備えた美術工芸品を生み出した。今でいう人間国宝に近い存在といえよう。その中から七宝という世界において、東の濤川惣助と西の並河靖之が同時代にあいまみえることになる。

並河靖之は幕末の弘化二年(1845)京都に生まれ、明治初年に七宝を始める。名古屋七宝の技法を会得して、伝統的な有線七宝の技法を駆使し、不可能と思われた黒色透明釉薬を開発する。この黒色透明釉薬を使った至宝が、現在皇室が所蔵する「七宝四季花鳥図花瓶」である。七宝焼は一歩踏み外せば低俗にもなりかねない危うさもあるのだが、これほどまでに気品漂う作品が世にあることが奇跡であり、七宝全体を高く底上げしていると言っても過言ではあるまい。前に一度この作品を見たことがあるが、全体に妖艶な黒光りを放ち、ちりばめられた極彩色の花鳥からは、その景色の中の薫風まで伝わってくるようであった。

一方の濤川惣助は、弘化四年(1847)下総国に生まれた。各地の七宝技術を研究した末に、ついに宿願の無線七宝という技術を編み出し、絵画的文様を七宝において実現した。惣助の作品は靖之の作品とは対照的に、静謐で地味だが、決して軽薄な印象ではなく周囲の風景と同化するが如くナチュラルな作品が多い。「花鳥の間」の三十枚はその極みであろう。

日本の七宝焼は愛知県海部郡七宝町(現在のあま市)が原産地といわれるが、万葉の頃にはすでに存在したという。中国より伝来したことは言うまでもない。そもそも七宝とは「七宝荘厳」という言葉からきており、仏教的色彩を帯び、宝玉をちりばめた美しいものを形容する言葉である。仏教経典の無量寿経では、金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙の七つ、法華経では、金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰の七つの宝玉を七宝と呼ぶ。例えば浄土系寺院では、堂宇を極彩色に彩ることがあるが、この極楽浄土を表す意匠こそ七宝荘厳を体現するものといえるだろう。

奈良県明日香村にある牽午子塚古墳(けんごしづかこふん)からは日本最古の七宝とされる亀甲形の金具が出土している。この古墳は斉明天皇の陵墓といわれるが、女帝を彩る副葬品として一緒に埋葬されたのであろうか。正倉院には七宝鏡と呼ばれる「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」がある。正倉院で七宝の宝物はこの鏡のみであり、天平時代にはまだまだその技術も確立されていなかった。それだけ貴重なものであり、故に神の依代とされたのであろう。以前博物館で見たことがあるが、幾何学文様も彩色もとても美しいけれども、その妖しい輝きはどこか薄気味悪い呪術的なものを感じた。宇治の平等院鳳凰堂の扉止め金具の一部は、藤原時代の七宝である。藤原時代の七宝は数が少なく貴重なものだが、「極楽いぶかしくは、宇治の御寺をうやまへ」と謳われた平等院を彩ったのも、宜なるかなと思う。室町から戦国にかけてはいわゆる侘び寂びの流れとなり、七宝は一時廃れかけたが、復活するのは桃山末から徳川初期で、秀吉や徳川家にその華麗さが好まれた。戦乱がおさまり、世が安定すると人々は麗しさを求めるのであろうか。名古屋城御殿の襖の引き手、そして日光東照宮の唐戸金具、建物の装飾、刀の鞘や鍔に至るまで彩りを添えた。七宝は日本史の中で浮沈を繰り返し、不死鳥の様に生き残ってきたのである。

近世までの七宝は、鏨や金槌で彫金模様を打ち出し、釉薬を透して彫金模様が浮かび上がる「象嵌七宝」という技法であった。今日私たちが目にする七宝焼は、近代七宝の父と云われる梶常吉の研究から生まれたもの。享和三年(1803)尾張藩士の次男に生まれた梶常吉は、家督を継ぐことがないため、精魂傾けていた焼き物に没入した。日夜様々な焼き物について勉強していたが、元亀元年(1570)に刊行された古書から七宝焼を知り、その復元を企てる。しかし、一向にその技法がわからず途方に暮れていたところ、オランダから渡来した七宝焼と出会い、それを求めて研究した。ついにはそれを砕いて、七宝焼とは銅の素地に模様を金属で植線し、そこに釉薬を付して焼くという製法を解き明かすのである。その後もさらに研究を重ねて、有線七宝の技法を生み出した。有線七宝は、銅や金の胎に描いた下絵に沿ってリボン状の金属線を模様に細工して植線を行う。その線で釉薬の色を分け、焼成、研磨して仕上げる。近代七宝においてもっとも基本的な技法である。時を経て明治、並河靖之はこの有線七宝の技法を雲上の高みにまで押し上げたのだ。有線に対して無線七宝は、金属線を使わずに釉薬の色分けをする。明治十三年(1880)濤川惣助によって考案された。途中までは有線と同じ工程だが、植線を取り除き、その後まで消してしまうという技法で、省線七宝ともいわれる。

二人のナミカワが同時代に七宝という世界で、鎬を削ったライバルであったことに私は感動を覚えずにはいられない。同時代を生きたライバルであったからこそ、綺羅星の如き作品が生まれ、受け継がれたのだ。本人たちは果たしてライバルという意識があったのかはわからないが、神様は時としてこういう悪戯をする。赤坂離宮を彩る七宝は東のナミカワに軍配が上がったわけであるが、どちらが上ということはない。二人のナミカワが残した七宝はこれからも日本の宝であり、私たちは世界に誇るべきだろう。二人のナミカワの功績は永久に称えられよう。

 

天賦の奏に解かされて

今日は早くも重陽。残暑厳しい日が続いているが、夜もすがら虫たちの涼やかな合奏を聴いていると、近くに秋を感じてうれしく思う。この夏、紀尾井ホール三浦文彰君のヴァイオリンを聴いた。若くして溢れる才能を滾らせた、実に堂々たる彼のヴァイオリンをついにライブで聴くことが叶った。私にとっては、今年もっともエキサイティングでロマンティックな時間であった。私は心底胸を打たれると、しばし放心状態となり凍り付いてしまうことがある。凍り付く前に何とか文章にしようと試みるが、なかなかうまく言葉を紡げない。それは音楽であったり、絵画であったり、時に風景であったりする。今から七年前になるが、長い間憧れていた京都の高山寺へ初めてお参りした時も同じような気持ちになった。また昨年、敬愛する井伊直弼公の足跡を辿るべく、彦根を旅したのだが、やはり凍り付いてしまっている。何から文章を起こせばよいかわからないのである。簡単には語りたくない、語れない、大切に思えば思うほど書けないことがあるものだ。それは言い換えれば、言葉は余計で必要のないもの、私自身が納得して芯から感じ入っている証でもあった。こういう場合、生涯書けないかもしれないし、ある日ふと書くのかもしれない。そしてまた、三浦君のヴァイオリンは簡単に文章にできぬほど神韻縹渺たるものであった。

しかし、どうやらその三浦君のヴァイオリンが凍り付いた私をゆっくりと解かし始めたようだ。彼のヴァイオリンを聴けば聞くほどに溶解してゆく心地がする。そしてやっと少しずつではあるが、書いてみようという心持ちになってきた。無論、私の拙い文章力では、彼の迸る才能について何も言い表せないのは重々承知している。それでも書いてみようと思うようになったので少しずつ書いてみよう。

パガニーニはその超絶技巧を悪魔と契約し手に入れたと言われ畏れられた。人々は彼がヴァイオリンを奏でると十字を切ったとも言われる。しかし、三浦君のヴァイオリンはそういうものではない。低音は重厚でありながら、高音はどこまでも柔和で優しい。その音色は決して邪悪なものに憑かれた音ではない。喜び、哀しみ、花鳥風月、そして寂莫を切り裂く日本刀のような鋭さ。動はダイヤモンドの様に硬く、静は琥珀の様に柔らかい。聴衆を極限まで惹きつけておきながらも、何者も近づけぬ圧倒的なオーラがある。天賦の才を持ちながら、他の追随を許さないのは、弛まぬ努力と決意に人生を捧げているからであろう。彼のヴァイオリンからはそういうものが澎湃として湧き上がってくるのを、私は感じずにはいられなかった。

三浦君は両親ともにヴァイオリニストの家に生まれた。彼には生まれた時から傍にヴァイオリンがあった。幼少の体験はその後の人生において、多大な影響を及ぼすもの。私如きも、両親が離婚し、決して家庭円満な我が家ではなかったが、菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、今の今まで私が仏教に関心を寄せる出発点となったのは間違いない。これも一つの仏縁であったと思う。小学生から高校生にかけては、ピアノを少しばかりと吹奏楽部でクラリネットやアルトサックスを吹いていた。当時の私はひたすら楽器に専心した。青春は楽器を演奏することだったと言って良いだろう。この経験がクラシック音楽への誘いとなり、ほんの入り口には過ぎぬが、西洋音楽に関しては全くの無知ではない。

最初に自分で買ったクラシックがカラヤン指揮のベルリンフィルベートーヴェンの第五番とビゼーカルメンであった。これが私の音楽鑑賞の源である。小学五年生でカラヤンに惚れ込み、ベルリンフィルを聴きこんだものだ。自分でも演奏したことのある、バッハ、ベートーヴェンブラームスホルストは若い頃から本当によく聴いた。それからパガニーニショパンビゼーチャイコフスキードヴォルザークスメタナサンサーンス、リスト、ラフマニノフハチャトゥリアンはずっと好きだ。モーツアルトハイドンは何故か食わず嫌いであったが、大人になってから小林秀雄大岡昇平の文章を読んで、改めてじっくりと聴いてみると、やはり筆舌に尽くしかねるものを感じているところだ。これらの大作曲家についてはいろいろと思うところもあるので、これからは少しずつ入っていきたいとは思っているが、果たしてこの先どうなるかはわからない。私の音楽遍歴は極めて偏重で浅薄であるが、流されるようにその時々の心身が希求したものを聴いてきた。これからもそうなのであろう。

私自身が管楽器を吹いていたこともあり、弦楽器はほとんど踏み込めない領域にあった。中でヴァイオリンはオーケストラの花形。楽器自体が崇高に思えていたので、遠くから拝むといった風なのだが、個人的にはハイフェッツフランチェスカッティを愛聴してきた。私はその術中に嵌り、魔法にかけられたおかげで、すっかりヴァイオリンという楽器のプリンスに魅了されてしまった。そして今、三浦文彰君を知った。もう彼のヴァイオリンの虜である。

今回のコンサートで三浦君が演奏したのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調Op.64。ジュニアオーケストラとのコラボであったが、オケの少年少女たちもまた、三浦君に刺激を受けながらリードされて素晴らしい演奏。円熟とか卓越とかとはほど遠いのだが、むしろ初心で純真な奏は私には好ましかった。それからメンデルスゾーンである。この度の演奏を聴いて、私のメンデルスゾーンに抱いていたものは根底より覆えされてしまった。メンデルスゾーンにはこれまでさほどの関心もなく、金持ちボンボンの道楽の音楽くらいに思っていた。生ぬるい音楽というイメージだ。だが果たしてそんなものではなかった。これほどに荘厳なる悲哀を秘めた音楽であったのかと、今ではすっかりメンデルスゾーンに落ちてしまった。これも三浦君のヴァイオリンが教えてくれたのだ。私はどうもコンチェルトが好きで、ピアノやクラリネット、トランペット、ホルンなども本当に良いのであるが、世界三大ヴァイオリンコンチェルトに挙げられるこの曲を聴いて、個人的にはコンチェルトはやはりヴァイオリンに極まると思った。

私の逢いたい人や尊敬する人は歴史上の人物や作家など、その多くがすでに鬼籍の人ばかりなのだが、三浦文彰という天才と同時代に生きていることに、私は無上の喜びを感じている。彼の存在する時代を生きたことは、後世の人々に誇れる財産である。そう思える人は、好きな競馬の武豊騎手やスポーツ選手やアーティストにも何人かいるが、彼らは皆、およそ一般とはかけ離れた人智を超えた境地にいる。三浦文彰君もまたその中の一人である。これから彼のヴァイオリンはどうなっていくのだろう。とても湧く沸くしている。私に生ある限り、三浦君と同時代に共に在ることは、私の生き甲斐であり続けるだろう。三浦君のヴァイオリンは現在の私の精神を均衡に保つための最良薬なのである。

観音の里

近江にはずっと強い憧憬がある。歴史に想いを馳せるとき、私の心はいつも近江に向かう。古代より近江を制する者が天下人となった。近江宮を造った天智天皇も、それを廃都に追い込んだ弟の天武天皇も転機は近江の地であった。信長や秀吉は近江から天下取りの礎を築いたし、家康も近江は西国と東国を結ぶ蝶番と心得ていた。そして私が日本史上もっとも敬愛する井伊直弼のふるさと、彦根が近江の真ん中にある。

淡海の海 夕波千鳥汝が啼けば 心もしのに いにしえおもほゆ

このあまりに有名な人麻呂の歌を、私は中学二年の古典の授業で覚えた。歌を覚えてからしばらくは、茫漠たる琵琶湖は想像できても、果たして広大無辺な近江に近づくことはできなかった。だが、いつかは戦国の夢のあとや、幕末動乱を生きた人々を辿る旅をしたいと思っていた。後に白洲正子さんの「かくれ里」や「近江山河抄」を愛読するようになって、近江に少しずつ迫っていけるようになった半面、その奥の深さに気づき、圧倒されて、また遠ざかるといった感じである。近くて遠い。容易には掴めない。近江は私が生涯をかけても掴みきれぬ土地であることを思い知ることになった。謎めいた近江に、私は白洲正子と同じように取り憑かれている。

近江は仏像も光芒を放っている。奈良や京都のような洗練された感じはないが、近江のほとけさまは、寺で拝む木仏にも野山に憩う石仏にも言い様のないうぶさがある。それは奈良や京都の王侯貴族や権力者によって培われてきた仏教美術に対して、いかにも名もなき市井の人々の信仰によって造られて、守られたきた土着のほとけたちである。ことに湖北は古くから観音信仰厚きところで、高月の渡岸寺の十一面観音は有名だ。私にとっても観音像の中では一番であり、好きな仏像を挙げても五指に入る。この至高の観音さまが千年以上もひっそりと里人に守り継がれてきたことに私は胸が熱くなる。

先日、芸大美術館で「びわ湖・長浜のほとけたち」という展覧会を見てきた。長浜といえば、私などは真っ先に小谷城長浜城、賤ヶ岳や余呉湖を思い浮かべる。信長や秀吉の天下取りの舞台としてイメージするのだが、一方で長浜は観音の里としても昔から知られたところであった。昨今の仏像ブームも手伝い、東京でも近江の仏像展は何度か開かれており、この展覧会も二度目であった。 最近は上野公園の一角に、「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」なるスペースもできている。天海大僧正が江戸の鬼門の守護として建立した東叡山寛永寺。今の上野公園一帯は全山寛永寺の境内であった。西の比叡山から天台総本山をこの地に移した時に、琵琶湖に見立てたのが不忍池だ。蓮池に浮かぶ弁天堂は竹生島。そんな不忍池のほとりに、平成の今日、長浜の観音様がおられるというのも誠に心にくいが、実にこれ以上のロケーションは東京にはあるまい。

さても展覧会は圧巻であった。合計五十体近くもの仏像が居並ぶと、少々異様であったが、どのほとけさまも純朴な印象で、庶民に守れてきたあたたかみを感じた。なかでも石道寺の躍動感溢れる多聞天持国天は、生き活きとしてすばらしい。石道寺といえば、やはり十一面観音が有名だが、この展覧会の期間中、寺を守る屈強な二天が不在の近江で、待っておられる観音さまは、さぞや心細かろうと思ったりした。

湖北の菅浦を紹介する展示もあった。肉厚の阿弥陀如来座像は力士の如く逞しかった。長くつらい湖北の冬に閉ざされた人々は、あの阿弥陀さまに身も心もすがりつき、心細さの拠り所としたことであろう。荒々しいけれどもどっしりと力強い。きっと阿弥陀さまも人々を暖かく包んでくださったに違いない。「菅浦絵図」も見ることができた。鎌倉時代の菅浦地区の自治境界線を示したこの絵図は、白洲さんが「かくれ里」で紹介されている。白洲さんはその絵図に惹かれて、湖北や菅浦に行ってみたくなったというが、本当に一刷毛で湖北の風景を表現したこの絵図を眺めていると、私も近いうちに菅浦に行って、村の境界線や須賀神社淳仁天皇の伝説、そして目と鼻の間に望む竹生島を見てみたいと思った。

展覧会の最後まで来て私がもっとも感銘を受けたのは、安念寺の芋観音である。朽損仏と呼ばれるもので、手先や腕、胴体が欠けて原形はほとんど留めずに朽ちてしまっており、掘り出したばかりの芋の様なお姿のため芋観音と呼ばれる。安念寺はもともと七堂伽藍を持つ天台宗の大きな寺院であったが、姉川、小谷城と二度の合戦を経て、ついに賤ヶ岳の合戦の折にその伽藍は焼失した。しかし、仏像は信仰の篤い村人たちが、寺から運び出して、川底や田んぼの中に埋めて罹災から守ったとのこと。戦国の世が終わってずっとあとの江戸文政年間に、田の中に埋められていた諸仏を子孫たちが掘り出して、余呉川で洗い清め、借りのお堂を建てて仏像を安置したのが今の安念寺だという。こういう時を超えた村人の信仰心に、私は感動せずにはいられない。これこそが日本仏教本来の信仰のかたちだと思う。歴史好きはついつい戦国乱世に、ある種の浪漫を感じるもので、名におう私もその一人であるが、戦は信仰も奪う。こういうものを見ると、やはり平和を守ることは大切なことだとつくづく思う。それは伝承や信仰を、日本文化をも守ることであり、そこに生きる人々を守ることである。  

近江は石の都でもある。日本国中これほど石の文化が根付いて、穴太衆の卓越した石工技術を継承し、全国に派遣してきた土地もあるまい。一方で寒冷かつ湿潤な風土である近江では、あたたかな木の文化もまた大きく育まれてきた。木地師と呼ばれる木工人が、日本の衣食住を根底から支えていた。近江を大きく分ければ、琵琶湖を中心に湖東、湖南、湖西、湖北の四つの地域になり、それぞれが風土や色彩が微妙に異なる仏国土を形成している。近江は広い。或いは信楽甲賀、葛川や比良山の麓、伊吹山、若狭の入り口までも加えるともう宇宙である。私は近江に憧れてはいるが、専門家ではなく、研究をしているわけではない。近江の歴史と土着の風習と信仰の賜物にただただ興味津々なのである。さながら日本という国の縮図をそこに見出す様だと言いたいが、そんな簡単な言葉で片付くようなところではない。白洲正子は「近江は奈良や京都の舞台裏」だと言った。実に当を得ていると思う。次はいつ、私は近江に近づけるであろうか。

ターニングポイント

未来の人々に、平成という時代はどんなふうな印象を与えるのだろう。今私達の生きる平成時代は、ITから派生した第三、第四の産業革命があり、世界大戦ではないが方々で終わりなき小競り合いを繰り返し、ある程度まで国家が成熟すると環境とか個々の精神とかの問題に突き当たっている。我が日本も、 頻発する大災害、超高齢化社会社会保障問題、格差、貧困、教育、多発する犯罪等々、ある意味においては負のラビリンスから抜け出せないでいる。歴史上その時々で常に難局はあるものだが、ここまで問題が林立して、何一つ打開の糸口が見つかっていないというのが現状だ。これはもう「お上」のみに任せておけばいい問題ではなく、国民一人ひとりが真面目に考えなくてはいけない。確かに我々は大政を政府に委任しているわけであるが、解決できていない以上は各個人においても、できることから何かを取り組んでいかなくては、経済財政のみではなくて、いずれ本当にこの国は破綻してしまうであろう。

こういう折、天皇陛下が生前の御退位についてお気持ちを内外に表明された。陛下が自ら国民に向けて、象徴天皇として、また天皇家という日本一の名家の家長として、そして何よりも一人の人間として率直に示されたお言葉に、私は大きな感銘を受けた。放送を拝聴したあと、改めて文章を拝読したが、ここ最近読んだどんな文章よりも私の心に響いた。

だが、正直いうと私は、最初に陛下が御退位を考えておられるとの報道を聞いたときは複雑であった。憲法皇室典範の問題のみならず、明治以降は退位の例がない。考えが古いかもしれないが、明治以降の歴代天皇崩御されるまで天皇であった。この国体というものが崩壊しかねない。天皇の権威も失墜はせずとも薄れてしまうのではないか。近い将来、天皇定年制になると、いつか退位を望まれない天皇がいたならばどうなるのか。天皇も一人間と考えると、退位が本意ではない天皇も現れる可能性はある。さらには、果たして今後この議論がまともに進むのかという懸念もあった。どこぞの学者が、保元の乱の二の舞になる恐れがあるなどと言ったが、それはあまりに時代錯誤にしても、私個人としては、生前に譲位されるほうが、天皇制存続の危機をいずれは助長させはしないだろうかと思った。

しかしながら、天皇陛下がご即位以来、約三十年の間、皇后陛下と共にただひたすらに日本国民の安寧と世界の平和を祈念されてきたことは、全国民が知っていることである。これだけ、国民のために真摯に尽くされてきた天皇陛下のお気持ちを、今度は私たち国民がしっかりと受け止めて、切なる願いを叶えて差し上げたいとも心から思う。本当に心から。陛下は年齢のことだけではなく、これから先、男系男子の皇位継承を維持し、いずれ悠仁親王がスムーズに御即位できるためにも、先例として御自ら発信されたのではあるまいか。宣なるかな、世論調査では圧倒的に生前御退位に賛成との結果が出た。

平成生まれが活躍する昨今、昭和から平成へ変わった日のことを知らない世代も多い。私は昭和五十年の暮れに生まれた。昭和が終わった日は中学一年の三学期であったので、さすがによく覚えている。昭和が終わる半年ほど前から、昭和天皇のご容態について、ニュースでは毎時、御熱や御脈を報じ続けた。今上陛下は摂政にはなられずに、皇太子として、天皇の国事行為を代行されていた。そして激動の昭和は六十四年と七日で幕を閉じる。昭和天皇崩御されるとすぐさま今上陛下は即位され、三種の神器を継承する「剣璽等承継の儀」へ臨まれた。ここから平成元年二月二十四日の御大葬まで日本は色のない世界であったように記憶している。どんよりとした黒白の世界。御大葬当日も冷たい雨の日であった。皇居から葬場殿のある新宿御苑まで、葬列はゆっくりと進む。大喪儀以外ではみだりに奏することが憚れている「哀の極(かなしみのきわみ)」という葬送曲が、大正天皇の御大葬以来、自衛隊皇宮警察音楽隊によって吹奏されて、沿道では多くの国民が雨の中見送っていた。 この暗く哀しい昭和が終わった日は、当時思春期の私にとって強烈な印象を残しており、天皇という存在、皇室の歴史、ひいては日本の歴史についてもっと深く学びたいと思うきっかけになった。また人間が亡くなるということはどういうことなのかと考えたり、先の大戦のことも天皇裕仁を通して少しずつ輪郭を掴み、さらに踏み込むようになったのである。この時が私の人生の最初のターニングポイントであった。

御大葬が終わると両陛下や皇族方は一年間喪に服されたが、御大葬の翌日からは急に色が戻ったような印象であった。そして翌平成二年十一月十二日。今上陛下の即位の御大礼は、まるで昭和三十九年の東京五輪のときのように雲ひとつない秋晴れの日で、あれほどに色鮮やかな日を私は知らない。即位礼での陛下は、日本国憲法の定めに従い象徴としての務めを果たしたいと仰せであった。パレードでの両陛下の笑顔は忘れられない。新しい時代が始まったのだとつくづく実感したものだ。

それからまもなく三十年。今、日本という国が、平成時代最大の転換期を迎えている。日本の歴史の転換期には必ず天皇という存在があった。大化改新壬申の乱摂関政治から院政期にかけて、保元平治の乱承久の乱建武の新政明治維新から先の大戦の終わりまで。大まかに挙げてもこれだけある。もっとも、室町中期から幕末までは蚊帳の外に置かれたような時もあるにはあったが、その権威はいつの世も絶対であった。

このたび天皇陛下が示された、生前御退位のお気持ちは、我ら平成という時代を生き、平成を作ってきた日本人皆で温かく受け止めたい。平成を見守り続けてきた両陛下への感謝とともに。対岸の火事とか絵空事とか思うのが日本人は世界でも得意な人種だろう。シラを切るのが抜群にウマイのだ。一方で地域を愛し、内外を問わず人に対して心より親切に接する、おもてなしの得意な民族でもある。日本人は天皇陛下の生前御退位という歴史的な出来事をもっと真剣に見つめて考えるべきだろう。今、我々は歴史の大きな転換期を生きている。