弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 豪徳寺

平成があと二年ばかりで終わるかもしれない。こうしてはいられない。何か平成日本を生きた証を残したい。昭和の終わりに生まれて、思春期、青春期、そして壮年期に入った今、人生のほとんどを平成という時代と共に歩いてきた。私が平成時代三十年を生きた証を、次へと伝えたい。とはいえ、私には文章を書くことくらいしか、残せるものはない。昨年来、日本仏教の本山巡礼と坂東三十三観音巡礼をしているが、それとは別に、個人的に行きたい寺社や町について、自由に記してみたい。題して「なおすけの平成古寺巡礼」。平成まで生き存える古寺を訪ねながら、平成日本を眺望してみよう。ただしここでは、抹香臭い仏教の話よりも、私が見つけた、私好みの寺社の風景、興味深い歴史を擁する町、魅力ある人物などについて触れてゆく。これまで訪ね歩いた土地、そしてこれから先に向かう旅の記録となるだろう。話もいろいろと横道に逸れると思うが、あしからず。

 世田谷区は東京でも屈指の人気のある街。だが意外にも区内には九品仏、奥沢神社、等々力不動、目青不動、龍雲寺、世田谷八幡宮、勝光院、烏山寺町など、数多の古社寺が点在する。瀟洒な世田谷に在って、ひっそりと佇む寺社に心惹かれて、私は時々世田谷を歩くのである。そして私が、世田谷区でもっとも足しげく通う寺が、豪徳寺である。

これまで何度か書いてきたが、私は井伊直弼公に私淑している。なぜかを語れば延々なのだが、一言でいえば、覚悟の人であったということに尽きる。大老や藩主としての政治家の顔、居合の達人、そして何よりも茶の湯を愛し、その道を極めんとした半生。どれをとっても格別な魅力に溢れる人だ。私が死んだら、まず初めにお目にかかりたいと願ってやまない。私は、井伊直弼大老就任後、幕政を一手に担い、開国へと舵を切ったことが、まさしくこの国の夜明けそのものであったと信じている。彼のやったことは、あの時の情勢では、本人曰くのとおり「致し方ない」ことであった。

桜田事変について、事新たに述べることはないが、ここから明治維新までわずか八年。桜田事変が、幕末の動乱の呼び水となったことは間違いない。安政七年(1860)三月三日。上巳の節句。江戸在府の諸侯は、節句の日には将軍へ賀詞の拝謁があり、総登城が定められている。陽暦では三月二十四日で、そろそろ 桜の綻ぶ時節。なのに江戸は大雪であった。幕府最高権力者の住まう彦根藩上屋敷は、今の国会前庭のあたりに、広大な敷地を有し建っていた。表門は本郷の加賀藩邸と同じような堂々たる赤門で、三宅坂から桜田門方面を睥睨している。それはいかにも譜代筆頭、大老家に相応しい構えであった。ここから江戸城桜田門までは、わずかに五町(600メートル)ほどだ。大名諸侯の行列は禄高、家格により定めがあり、ことに江戸市中では厳格に守られていた。井伊家は供回り侍二十六人、その他足軽や中間小者併せて六十人余りであった。江戸市中での大老や老中などの幕閣の行列は、「刻み足」と言って、歩幅の小さい早足で歩く。これは、平時から早足ならば、非常時でもそれと悟られぬための手段であった。そして一行は、桜田門前の豊後杵築藩松平大隅守邸前にさしかかる。場所は今の警視庁前。桜田門は目の前である。襲撃開始からわずか三分ほどで首を捕られた直弼の遺骸は、まず胴体だけ藩邸に戻ってきた。

首を持ち去ったのは、唯一の薩摩脱藩士の有村次左衛門。有村自身も後頭部に致命傷の深手を負っており、辰ノ口の遠藤但馬守邸前まで来て力尽き、遠藤邸の門番に首を預けて自刃した。桜田門から辰ノ口の遠藤邸までは、十五町(約1.6キロ)ほどある。この時点で遠藤邸では、いったい何が起きたのか、誰の首なのかなど無論解らず、邸内は混乱した。やがて追ってきた彦根藩士から、半ば強引に引渡しを要求されて、首は胴の待つ彦根藩邸へ帰ってきた。藩医の岡島玄達が、首と胴を縫合し、検死した。その検死録によれば、右の臀部から腰椎へ貫かれた弾痕があると記されている。銃撃したのは、水戸浪士の森五六郎。襲撃犯たちは、まず行列先頭にて彦根藩士らをひきつけておいて、大老の駕籠脇が手薄になったところで、森は直訴状の下に拳銃を隠して近づき、至近距離から発砲したと、近年の研究で解ってきた。弾丸は身体を抜けていたが、直弼はこの一発の弾丸で、ほぼ致命傷を負っていた。下半身は麻痺して、身動きをとれずにいたと思われる。さしもの居合の達人も、どうすることも叶わなかった。

幕府はしばらくの間、大老暗殺を半ば堂々と隠蔽して、取り繕ったことは周知のとおり。よって豪徳寺に葬られたとされ、正式にもここが直弼公の墓所とされるが、数年前に調査した時には、墓に遺骨はなかったという。一説では、惨憺たる状況を鑑み、遺骸は秘密裏に彦根清凉寺や天寧寺、在るいは、彦根藩領である栃木佐野の天応寺へ埋葬されたとも云われる。詳しくは未だ明らかではないが、私もこのあたりは調べてみたいと思っている。しかし、やはりここ豪徳寺こそが、直弼公の墓であることに変わりはない。大老の墓の後ろには、これを守護するように「桜田殉難八士の碑」。その横には直弼の忠僕として、墓守をした遠城謙道の墓がある。彦根藩足軽であった謙道は、主君の死後、忠節を持って、開国論の正しさを同志とともに訴えるなど、その生涯を井伊直弼に捧げた。直弼の政敵であった一橋派が政権を握ると、彦根藩は十万石の減封、京都守護の罷免などあからさまに幕府から虐げられた。これに激怒した謙道は、決起して老中井上正直邸に自訴し、自害する企てをするも、事前に発覚して、彦根にて謹慎となる。ここで悲憤した謙道は、出家して、豪徳寺で直弼公の墓守となった。墓の門前に起居し、朝に夕に墓を掃除して、主君の供養三昧の日々を送る。明治三十四年(1901)に七十九歳で亡くなるまで、三十七年も墓守を続けたという。その間、直弼公直伝の和歌、俳句、書画を嗜み、その作はわずかばかり残されている。

この庵に住むこそ無二の浄土なれ

謙道は、おそらく茶の湯や居合の心得も持ち合わせていたであろう。謙道の画賛に自らを描いたものがあり、それをを見ると、冷え寂びた遁世者の面影が如実に感じられる。それはすべてを見尽くした人にしか成せぬ、成れの果ての姿であった。

豪徳寺のすぐ近くに、世田谷城址公園がある。かつて一帯を本拠としたのは、鎌倉公方に仕えた奥州吉良氏で、応永年間にこの地に世田谷城を築いた。今も壁のような土塁や、深い堀の址を、生々しく見ることができる。世田谷城は、要塞のような、出城のような、なかなかに堅固な砦であったと思われる。秀吉の小田原征伐の際、吉良氏は北条方に味方し、戦後世田谷城は没収されて廃城となった。文明十二年(1480)、この地を治めた吉良忠政は、伯母である弘徳院への孝養のため寺を建立。長らくこの寺を弘徳院と称した。臨済宗の昌誉上人を開山に迎え、百年後の天正十二年(1584)に、門庵宗関によって臨済宗から曹洞宗に改宗された。徳川時代には、この地が井伊家の領地となり、二代藩主直孝がこの寺に縁があり、堂宇を寄進した。直孝はここに葬られ、その時に寺名を直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に肖り、豪徳寺に改めたという。豪徳寺の目と鼻の先には、茅葺屋根の代官屋敷が江戸時代の面影をとどめて建っているが、あそこが彦根藩の代官である大場氏の館であった。

井伊の赤備えの力を、存分に見せつけるかの威容を誇る豪徳寺。その雰囲気は今も失われてはいない。参道には美しい松並木があり、奥に山門を眺めれば、なるほど古寺の風格を感じる。山門を入れば、すぐ左手に三重塔。十二年ほど前に再建されたもので、出来たばかりの頃は、木の香のむせた塔も、十年の歳月を経てすっかり古寺に馴染んでいる。正面に延宝五年(1677)に建立の仏殿が、堂々たる姿を見せているが、仏殿以外は奥の本堂や、僧堂は戦後に復興されたものだ。本堂は、本山の鶴見總持寺の大祖堂を小振りにしたような趣きで、のしかかるような大屋根は、男性的な力強さを感じる。確かに日本の建築は、木造がもっとも美しく、そこにあるべきものとして、自然と喧嘩をせずにすむのかも知れない。が、今のコンクリートで作った堂宇も、見様によっては、それほど悪くもなく、むしろ現代の禅宗寺院には、このくらいの重く硬い力強さが要されてもよい。書院と庫裏は古色蒼然として、相当に大きく立派である。聴くところによれば、旧佐倉藩堀田家の江戸屋敷内にあった建物を譲り受けて、関東大震災後に移築再建したものらしい。書院造と数寄屋建築の特徴を併せ持つ二階建てで、幕末の建築であると推測されている。江戸の武家屋敷の面影を随所に感じられ、天下の総城下町江戸のよすがを垣間見ることができる。

豪徳寺は招き猫の寺として有名である。三重塔のそばに招福殿と呼ばれる猫観音を祀るお堂があり、昔から商人や花柳界の人々に信仰されてきたが、どういうわけか最近は若い人から外国人にも、秘かな人気を集めている。久しぶりにそこへ行ってみたが、私は奉納された招き猫の数に仰天した。その数は年々増え続けている。ここで貰った招き猫は、願いが叶えば、こちらのお堂脇にお返しするのが慣わしらしいが、以前よりもずっと数が多くなっている。人気に火が点いている証であろう。これだけの招き猫を見ると、少し薄気味悪い感じもするが、不思議と違和感は覚えない。ここがなぜ、招き猫の発祥と云われるのか。井伊家二代藩主の直孝は、在る夏の昼下がり、郎党を引き連れて、武蔵野に遠乗りに出かけた。砂塵を蹴り立てて、弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに手を拱いている。これを見た郎党の若衆は、無礼千万、挙動怪しく、変化の類ではないかと、まさに抜打ちにしようするのを、直孝は「しばらく」と言ってこれを止めた。行き過ぎんとすると、猫は再び招くので、寺内に入ると、一天俄かに曇り、雷鳴豪雨と相成った。この危難を免れたことで、直孝は奇縁を感じて、以後も度々訪れて、いつか井伊家菩提寺となったという。この猫は当時の住職の愛猫でタマといった。この猫の招きが豪徳寺にも福を招き、その後の隆盛となった。猫は如意輪観音の化身だという伝説もあり、猫塚は信者から奉納された招き猫や絵馬で埋め尽くされているが、そこに美しい如意輪観音の石仏があって、あたかも招き猫たちは、この観音さまを守る眷族の如く付き従っているように見える。豪徳寺は今、曹洞宗の禅寺とか、井伊家菩提寺というよりも、招き猫の寺としての人気を確立しつつある。

井伊直弼は、彦根藩十三代直中の十四男として生まれ、兄弟たちは本家や分家を継ぎ、或いは他家の養子となったが、直弼だけが居残ってしまう。これも運命といえようか。十七歳から三十二歳までの十五年間を、三百俵の部屋住みとして過ごした。彦根城三の丸の尾末町御屋敷を「埋木舎」と名付けたが、私は決してその時の直弼に、ただの不遇を感じないのである。もちろんその時、当の本人は、歯がゆい思いを抱いていたであろうが、何となく、いずれ自分が表舞台に上がることを予感していたような気がしてならない。故に普段から、そのための準備と稽古を怠らなかった。早朝から夜遅くまで、曹洞禅、書画、和歌、茶の湯能楽兵学、居合、槍術、さらに長野主膳に師事し、国学をはじめとした学問の修養に勉めた。睡眠時間は一日五時間あれば十分といい、寝る間を惜しんで勤しんだ。まさしく文武両道、いずれも一流の域に達していたという。これらは文化人として生きてゆくという決意と同時に、いつでも表舞台へ立つ用意でもあったはずだ。直弼ほどの人物ならば、そう考えるのが自然であろう。泰然自若たるを弁えていたのも、清凉寺の仏洲仙英禅師を師と仰ぎ、少年時代から参禅し続けて身になったからに違いない。そして、なんと云っても、彼を語るに極めつけは、茶の湯であろう。茶の道を極めんと、ひたすらに精進した。直弼の墓に刻まれた戒名「宗観院柳暁覚翁大居士」は自ら考えたものだが、宗観とは直弼の茶の号である。一期一会、独座観念に至る極意は、平成の今を慌しく生きる私たちに、時と、場所と、出逢いの大切さを教えてくれる。直弼の精神の根幹には、禅と茶の湯があった。

直弼は歌もまた多く詠んでいる。私の好きな歌をここにいくつか挙げたい。

茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ心の水をともにこそ汲め

何をかはふみもとむべきおのづから道にかなへる道ぞこの道

霞より花より春の色をまつきしにみせたる青柳の糸

そよと吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳

雨雲は立覆ふとも望月のくもらぬ影ぞ空に知らるる

影見せて過ぎし蛍の名残りかも蓬が窓の露の白玉

梓弓かけ渡したる一筋の矢たけ心ぞ武士の常

あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな

春浅み野中の清水氷ゐて底の心を汲む人ぞなき

咲きかけしたけき心の花ふさはちりてぞいとど春の匂ひぬる

これらの歌からは、何も語らずとも直弼の為人が知れよう。井伊直弼の人生は、舟橋聖一氏の小説のとおり、まさしく花の生涯であった。私にとって井伊直弼は、人生の手本であり、茶道の師匠であり、哲学者でもある。私はこれからも一生をかけて、その生涯を追い続ける。豪徳寺もまた花の寺。此度は仏殿前の梅の木が、残んの花を散らせていた。境内はまもなく桜が咲こう。ことに庫裏の前の大枝垂は、溜息ばかりの見事さである。思えば、井伊直弼が散ったのは奇しくも桜田門外。江戸城には他にも多くの門があるが、あの事変は桜田門でなければ収まりがつかない。桜田門が舞台であることに、私は何か歴史が成せる業を感じずにはいられない。豪徳寺には、桜がもっとも似つかわしい。

遠き道程

東日本大震災から六年が過ぎた。まことにあっというまの六年。あの日の記憶は、私たちの脳裏に依然として生々しい。ほんのわずかばかり復興はしているが、それでも、震災前に比べたら、いかにも道半ばである。ことに、原発事故の避難地域は、完全に廃墟になっていたり、汚染土が堆く積まれていて、見るに忍びぬ有様だと聴く。飯館村など、原発周辺の町は、徐々に避難指示が解除されているが、果たしてどれだけの人が帰ってくるのだろうか? 昨日の報道ステーションで、飯館村の酪農家の現状をまざまざと見せつけられて、私は大いなる失望と、己の無知無力に、改めて苛まれている。酪農家の男性は、四十年かけて一代で築き上げたものを、原発事故ですべて捨てなければならなかった。人生は無情とは知れど、あまりに惨たらしい。似たり寄ったりこうした方々が、今まだ多くいることを、忘れてはならない。来月は熊本地震から一年である。東北にも、九州にも、被災地には美しい自然があって、そこで育まれてきた重い歴史に溢れている。それは、彼の地の人々が、先人から受け継いできた宝である。さすがに大自然は、人智の及ばぬ逞しさであるが、人間の暮らしは簡単には取り戻せない。飯館村の酪農家の男性は、「わしが生きとる間は、あの汚染土の山は見続けねば仕方ない」と言った。でも、安全基準とされる一人あたりの放射能被曝の年間数値が、全国が1ミリシーベルトなのに、飯館村が20ミリシーベルトであることに、憤りを感じると言われたことが、とても心に残る。そのあたり国は何とするのか。今のところ回答はない。こうして当たり前のことが、曖昧に歪められていることが、実はまだまだ多くあるはずだ。妥協することもまた必要だろうし、そうしないと前に進まぬこともあろう。元通りの暮らしに戻ることは、おそらく向こう百年近くは不可能だろう。でも、かつて我々は多くの震災、戦災から力強く立ち上がってきた。そこに信じたい気持ちもまたある。あの大震災を経験した我々は、多くを失ったが、また同時に何かを得たはずである。現に被災地の子どもたちは、よほど逞しく、しっかりと未来を見据えていることに、私は感動せずにはいられない。ゆえに、この日が来るからだけではなくて、いつも気にかけてゆかねばならぬと痛感している。でなければ、ほったらかしとか、蔑ろにされる人々生まれてしまうのだ。 オリンピックもけっこうなことだが、あの日からまだ、身も心も戻って来れない人がいることを、日本人は肝に銘じて生きていかねばならない。あの時から盛んに叫ばれた絆とはなんだったのか。言葉なんていらぬ。空虚なだけだ。真の気持ちが欲しいのである。左すれば、自ずと答えは出るに違いないと私は思っている。私も、近くじっくりと被災地を訪れてみたい。

教育勅語

慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられた。翌慶応四年三月十四日に、明治天皇は、五箇条の御誓文を立てられて、新しい時代を率いる覚悟を示された。ほどなく明治となり、政府は、この国が長らく培ってきたものを悉く廃して、矢継ぎ早に、新しい政治、制度、文化を求め実行した。七百年以上続いた武家政権の時代、奉られて追いやられていた天皇は、国家元首統帥権を持つ大元帥としてさらなる高みへと奉られた。明治政府は、天皇の御名によって、法律や制度を整備し、社会の秩序を保とうとしたのである。また時には、天皇自ら御言葉として発せらた事がある。それは勅語とか勅諭と呼ばれた。軍人勅諭は、文字通り軍人に向けた御言葉だが、教育勅語は広く国民に向けたるもので、特に天皇の御名御璽があり、ただの御言葉ではなく、明治国家とその教育を、国民に知らしめるための訓示であった。正式には、「教育ニ関スル勅語」という。詔勅を分ければ、詔、勅命、勅令は命令であるが、勅語や勅諭は聖上の御言葉として、今、我々が耳にする天皇陛下の御言葉に近いものと思われる。しかし当時は、今よりはるかに厳粛なもので、教育勅語の写しは、学校などの奉安殿と呼ばれる建物に、天皇皇后の御真影と共に納められて、丁重に扱われた。紀元節天長節には、祝日でも登校して、全校生徒起立し、少し頭を傾げて、校長が教育勅語を朗読した。 教育勅語をじっくり読むと、実にごもっともなことが、切々と連ねてある。人間として当たり前に生きるようにと、あえて示されたことだが、これがなかなか一番難しいこととも思える。故に明治大帝は、重き御言葉として発せられたし、日本人がそうあるようにと、希望と期待を込められたに違いない。

今、国会論戦の格好のネタとなっている某校の問題。あの学校の幼稚園では、園児に教育勅語素読させ、軍歌を斉唱させるというから驚きだ。稚い子らに、かようなことを強いる教育とは何ぞや。私には、コスプレと同じパフォーマンスにしか見えない。いや、コスプレをやる人々には或る信念があろう。このニュースには、久しぶりに身の毛がよだった。これは、本来の愛国心を植え付ける教育ではないと思う。断っておくが、私は天皇崇拝者だ。この国と皇室の弥栄を願ってやまぬ人間である。だがそれは、自然に自分の中に芽生えた思想であり、曲がりなりにも日本史を学んできた私にとっては、天皇という存在を避けては通れず、気がつけば、皇室は日本になくてはならないという考えに至ったのである。決して、親や学校から強制的に植え付けられたものではない。現に両親は、皇室には無関心であるし、私は日本仏教に並々ならぬ関心があるが、母親は敬虔なクリスチャンである。私の両親や祖父母は、郷土愛は教えても、決して思想の強制や愛国心の押し付けなどしなかった。学校もまたそうである。今にして思えば、茶道の稽古など、もう少し強制的にやらせて欲しかったこともあるくらい、ほったらかしであった。私は人付き合いも、学問も、文学も、好きな事も、すべて己が選んできた。人に強制されたことは何一つない。この頃は、信仰まで親が植え付けてしまっている感があるが、これも間違いで、めいめい自分で選ぶ自由を与えて然るべきである。選択肢を与えてやることが、真の教育ではなかろうか。

教育勅語素読や、軍歌の斉唱を強いることは、反時代的とかいう問題ではない。指導者のエゴイズムであり、単なる誤教育と私は断言する。どうせ素読するならば、よほど論語にしたら良い。先に述べたが、戦前、教育勅語はもっと崇高なもので、子供達が素読するようなものではなかった。教育勅語は、校長の朗読を頭を垂れて拝聴するものであった。そして、御真影とともに祀られた奉安殿は、特別な日にしか開かれなかったという。某幼稚園の如く、両陛下の御真影を無造作に置いてはいけなかったのだ。天皇を教育に利用しようとしている某校は、戦前ならば不敬罪に処されるかもしれない。‪私は日本の歴史、文化、文学を愛する。これを自身の糧として生きてきたし、これからは私が、少しずつでも本当の日本を世界に発信したいと思っている。だが、教育勅語素読や、軍歌の斉唱には、極めて不快な違和感を持った。そんなやり方では、この国は再び亡国となろう。子供達を諭し、正し、叱る事は大切で、すべての大人の仕事であり、役割であるが、何にせよ、何事も押し付けてはならない。‬

日本仏教見聞録 寛永寺

私は家でよく香を焚く。香煙をくゆらせると、穏やかな気持ちになれるし、書くことや読むことにも集中できる。伽羅や沈香が好みであるが、高価なのでなかなか手が出せない。そんな時に見つけたのが、「東叡香」という寛永寺の香である。箱のデザインからして、比叡山の「叡山香」とだいたい同じ物だと思うが、叡山香の半額で、二百本も入っている。一箱で半年ほどは楽しめる。その香りはおごそかで、心休まる白檀の香り。東叡香は線香で、本来は仏前にあげるものだが、私は気に入って、普段使いの香として、ありがたく愛用させてもらっている。

東京で一番好きな寺はどこかと訊かれたら、私は迷わず寛永寺と答える。それほど、この寺への思い入れは深い。徳川家の菩提寺は、増上寺や伝通院など、江戸にいくつかあるが、寛永寺にある特別な想いを抱くのは、この寺が重い重い歴史に埋もれているからだ。私は毎年元日に、寛永寺にお詣りするのがここ数年の恒例だ。そして参詣後に、東叡香をいただいて帰る。展覧会で上野に行く度にお詣りするから、寛永寺はとても身近な寺である。寛永寺のことはずっと書きたかった。だが、好きな寺であるがゆえに、簡単には書けなかった。好きなモノ、愛しい人については、なかなか言い表せぬものだ。寺もまた同じである。こういう寺が私にはいくつかあるが、寛永寺もそうであった。

平成二十九年元日。風一つない穏やかな快晴。今年も寛永寺へ初詣だ。そして、昨年から始めた日本仏教の本山を巡る旅。今年最初は、何おう天台宗大本山で、関東総本山である寛永寺である。今回はT君に加え、旅仲間のI子さんにも同行してもらう。正月の寛永寺参詣で、何が一番良いかと言えば、とても空いているということ。一年の初めから、雑踏に飛び込んで辟易するなんて、真っ平御免蒙りたい。私にとって寛永寺は、心静かに初詣できる浄土である。もっとも、お詣りする時間も、元日の午後からであるから、人出も減っているのだろう。大晦日、除夜の鐘を撞く頃は、この寺も行列ができるらしいが、それを避ければ静かなものだ。敢えてそんな寛永寺に行く。だいたい、普段から混雑する寺ではない。寛永寺は今でも、徳川宗家の菩提寺であり、明治以降は広く一般にも檀家を募ったので、徳川家のみならず、多くの人々の菩提寺である。これほど有名な寺なのに、観光寺院ではない。寛永寺墓地には、犬公方や、天璋院篤姫も眠るが、徳川家霊廟は団体予約しなくては参拝できないし、十五代慶喜が謹慎したと伝わる「葵の間」も、同じく予約制なので、簡単には拝観できない。このあたりが、この寺から喧騒を追いやっている一因でもあろう。そしてまたどこか物寂しい印象がある。増上寺は今も誇らしげに大伽藍を見せつけているが、寛永寺にそんな雰囲気は皆無。静かな寺である。

寛永寺を憶うとき、諸行無常という言葉が、実感としてまざまざと迫ってくる。この寺は幕末まで、徳川将軍家の祈願所兼菩提寺であり、比叡山に代わり天台宗総本山であり、山主は天皇の皇子(法親王)から選ばれる門跡寺院でもあった。おそらく、江戸時代を通して、これほど巨大な力を持った寺は、寛永寺をおいて他になかったであろう。山主は輪王寺宮と呼ばれ、将軍継嗣問題にも口を出せるほど、幕府の信頼は絶大で、御三家を凌ぐ権勢を誇ったという。 ゆえに寺領も広大であった。今の上野公園と、谷中霊園一帯のほとんどが寛永寺の境内であり、多くの子院塔頭がひしめいていた。今は塔頭の数もずいぶんと減り、開山堂の裏手の一角に、十ヶ寺ほどが肩を寄せ合って建っているが、傍目には民家のようで、よくよく見ないと寺とは気づかない。上野を俗に「お山」と呼ぶのは、東叡山があるからである。 徳川三代に仕え、幕藩体制の礎を築いた天海大僧正は、京都に倣い、江戸の町づくりにも陰陽道や風水を取り入れた。江戸城を中心に、鬼門の直線上に神田明神寛永寺→日光山を配し、裏鬼門に山王社→増上寺久能山を配する。とりわけ上野には力を入れた。北から南への一筋を軸として、江戸城から「の」の字を描く放射状に、町は拡大し続けてゆく。それは明治から戦後へ、そして今の首都圏発展にもつながっている。

慈眼大師天海は、その生い立ちも諸説ある。出生年は定かではないが、陸奥国大沼郡高田(福島県会津美里町高田)の、豪族蘆名氏の一族に生まれたことは、概ね違いないようだ。幼少から英邁といわれ、出家して随風と称した。十一歳で宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、やがて比叡山へ登る。その後も、三井寺興福寺へも出入りして、倶舎、三論、唯識、華厳、禅、密教と幅広く修した。元亀二年(1571)、織田信長比叡山焼き打ちのあと、武田信玄の招きを受けて甲斐国に移住。その後、天正十九年(1591)には、茨城稲敷の江戸崎不動院に入り、慶長四年(1599)に川越の仙波喜多院に入った。このあたりから、僧侶としての名声が聴こえ始め、徳川家康の知遇を得て、ブレーンに抜擢される。関ヶ原勝利のあとは、徳川幕府の宗教顧問となり、叡山探題となって、信長焼き討ち後の復興に尽力する。延暦寺の再興を果たした天海は、一時は栃木の宗光寺、群馬の長楽寺など、北関東の寺に住するも、老骨なんとやらで、しょっちゅう江戸や駿府に出てきて、政に参画していく。

関ヶ原を制した家康は、征夷大将軍となり、江戸を政治の中心に定めた。着実に地盤を固めていった家康には、その政権を支える多くのブレーンが存在した。その一人ひとりが、実に個性的かつ有能で、皆が己が役割と、分をわかっていたように思う。それが徳川一強の源泉ではなかったか。特に天海と、南禅寺の以心崇伝は重用され、徳川政権発足当初の法整備や、征夷大将軍の権威作りに大きな功績がある。武家諸法度、諸士法度、禁中並公家諸法度、寺院法度など、天海が助言して、崇伝が起草し取りまとめている。そして、豊臣家を滅亡に追い込んだのも、方広寺の鐘の問題も含めて、策謀を廻らしたのは、この二人であった。だが、家康が亡くなって、神として祀ることになった時、二人は対立することになる。崇伝が神号を明神とすべきと言ったのに対し、天海は権現とすべしと言う。明神は、豊臣秀吉豊国大明神と同じであり、豊臣家は滅亡したのだから不吉であると言い、何よりも自分は家康から直々に遺言を受けていると言う。この一言で決着がつき、崇伝は失脚した。以後も天海は、秀忠と家光に重用されて、百八歳まで妖怪の如く日本仏教界に君臨し、幕府の威を借りて号令をかけた。明智光秀ではなかったか?など、様々な言い伝えがあるが、これは眉唾で、一介の僧侶ではないところから出た噂にすぎない。しかしそう思われても、致し方ないほど、妖しいまでの世渡り上手であった。そしてまた、僧侶としての高い見識と仁徳が備わっていて、権力者をも惹きつける、魅力ある人物であったと想像される。こうして、寛永寺の完成をみて、徳川幕藩体制も仕上がったとみてよい。 天海とはいったい何者であろうか。はっきりした部分もあり、謎の部分もまた多い。

家康亡き後、大僧正となり日本仏教界に隠然たる影響力を誇示するようになった天海は、いよいよ総仕上げにかかる。寛永二年(1625)、大御所秀忠や三代家光に進言し、藤堂高虎に忍ヶ岡の土地を寄進させて、寛永寺を建立。自ら初代山主となる。山号は東の叡山、東叡山。延暦寺に倣い、寺号は時の元号から寛永寺とした。不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島と同じく弁天を祀り、山内には清水寺に見立てて、懸造の観音堂を建立。諸大名も挙って堂宇を寄進し、法華堂、常行堂、鐘楼、大仏、東照宮も建てられた。これでもかの念の入れようだが、こうして江戸幕府は、二百六十四年続いたのだから、四神相応は果たされていたといえよう。 そして天海の最後の野望は、天皇家より山主を迎え門跡寺院とし、寛永寺に格式と箔を付与することであった。実現すれば公武の絆となる。さらには、徳川幕府繁栄の扇の要は、ここ寛永寺であると誰もが認識するであろう。幕府がある限り、寛永寺天台宗の一派は力を保持できるのだ。それこそが天海の狙いであったと私は思う。少し想像を逞しゅうすれば、天海は最澄への回帰を願いながら、その僧名からも、空海にも憧れていて、この平安仏教界の両巨人の良いところを、自身に擬えていたのではなかろうか。その最後の願いは、天海が入滅後、四代家綱の御代に実現する。正保四年(1647)、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が山主となると、東叡山は、日光山、比叡山と併せて三山と呼ばれ、天台宗を管掌した。増上寺も江戸時代を通して、知恩院よりも力を持っていたが、ここ寛永寺も、比叡山から総本山のお株を奪っていた。浅草寺も傘下におさめて、徳川将軍家の祈願所であり、菩提寺であり、何にしても将軍のお膝元にあることで、その威容を誇ったのである。天海亡きあとも、その意思は引き継がれて、五代綱吉の御代に、巨大な根本中堂が落慶。ここに東叡山寛永寺が完成した。八代吉宗の御代には、堂塔伽藍三十余り、子院塔頭三十六坊、境内寺域三十万五千坪、寺領一万一千七百石に及び、増上寺を凌ぐ江戸一番の巨刹であった。江戸一番ということは、すなわち日本一の大寺院である。それはまた、日本一徳川の色濃い寺で、「徳川の徳川による徳川のための寺」、それが東叡山寛永寺であった。が、皮肉なことに、後にそのことが、この寺の運命を狂わせることになる。

ここで最盛期の寛永寺を見てみよう。下谷広小路(現上野広小路)の先には、不忍池から流れ出た掘割があって、三橋と呼ばれる三本の橋が架かっている。真ん中の橋は将軍専用で、寛永寺御成の時に使用した。その先には黒門と呼ばれる総門がある。黒門は冠木門になっていて、寺の門というよりも、まるで山城か戦場の砦の門のようで厳しい。その先の石段を上がれば清水観音堂、大仏、東照宮五重塔が順番に現れる。

花の雲鐘は上野か浅草か 

この芭蕉の有名な句の「上野」とは、大仏の傍にある「時の鐘」のことで、今でも正午と朝夕六時に時を告げている。鐘楼の下には、花園稲荷と五条天神社がある。ここのお稲荷さんは、私の大好きな場所だ。上野公園に行ったならば、ここはぜひとも訪れてほしい。本殿の先には、洞穴のような奥社があり、まことしやかに、狐が出入りするといわれる穴が御神体となっている。その穴の奥からは、ただならぬ冷気と、霊気が漂ってくる。あたりは昼間までも仄暗く、たくさんの狐の像が祀られていて、現代東京に在って、まったくミステリアスな雰囲気に満ち満ちている。その薄気味悪さが、何とも浮き世離れしており、私はいつも江戸へ還ったような気分になる。あそこは時空を超えて、江戸と東京を行き来できる魔所である。上野大仏は、寛永八年(1631)に最初に造られたが、地震で倒壊、そして元禄年間に再建され、大仏殿まで建立された。しかし幕末の上野戦争で、堂宇は焼けて、大仏さまは露座となり、さらに関東大震災でお首が落ちて、昭和戦争の金属供出で胴体は徴用されてしまったという。今はお顔のみが残り、祀られている。大仏さまのお顔は壁に嵌め込まれて、いかにも窮屈そうだ。ありがたいというよりも、とても気の毒に思えてくる。そのお顔には、何度となく天災や人災に巻き込まれて、すべてをつぶさに見てこられた大仏さまの、怒りと哀しみが滲み出ている。さらに進むと上野東照宮と、今では動物園の中に納まる五重塔がある。五重塔上野戦争でも焼けずに、三百八十年近い昔から残ってくれている。上野東照宮は、何年か前に修復されて、往時の輝きを取り戻した。本殿の威風堂々たる佇まい、彫刻の数々は日光や久能山にも劣らずすばらしい。ことに唐門に彫られている昇り龍と降り龍は、夜な夜な不忍池の水を飲みに行くという伝説があり、あまりに精緻すぎて今にも蠢きそうな迫力がある。東照宮参道の敷石や、諸大名が寄進した灯篭も一見の価値あり。桜の頃や、紅葉の頃、古色蒼然とした五重塔を、この東照宮の参道から眺める時ほど、江戸のよすがに浸れる所はない。かつてはこのあたりに、山門にあたる吉祥閣が屹立していた。

いよいよ寛永寺の中心伽藍である。吉祥閣の奥には、東の釈迦堂と西の阿弥陀堂を渡り廊下でつないだ優美な文殊楼があった。その先には、左に六角塔、右に多宝塔。そしてその奥の光景に、参詣した人々はさぞや圧倒されたことであろう。目の前の巨大建築に、言葉も出なかったに違いない。ここが本堂である根本中堂である。根本中堂は、今の上野公園の大噴水のあたりに、間口四十五・五メートル、奥行き四十二メートル、高さ三十二メートルもの堂々たる佇まいで建っていた。コの字に回廊が巡らされていて、比叡山の根本中堂とほぼ同じ様式であった。中央に巨大な「瑠璃殿」と揮毫された扁額をかかげ、内部には薬師如来を本尊として、日光月光両菩薩、十二神将が居並び、葵の御紋があちこちに配されている。まさに本家の比叡山延暦寺を彷彿とさせ、東大寺の大仏殿にも負けないほどの大伽藍である。実に惜しい。今ここに根本中堂があれば…。私はこのあたりを歩くとき、毎回そう思わずにはいられない。そしてかつて、ここに日本一の大巨刹が、確かに存在したことを想い、瞼の奥に想像し焼き付けるのである。

そういえば寛永寺では、元禄赤穂事件に類似した刃傷事件も起きている。それも赤穂事件からわずか八年後のことだ。宝永六年(1709)六代家宣が、先代綱吉の法要を寛永寺で行った。この時朝廷からは、勅使、院使、東宮使、女院使、中宮使、大准后使が遣わされた。一同は法要に列席し、霊廟に詣でた後、子院顕性院で、幕府による饗応を受ける予定であった。事件は、中宮使の御馳走役を務める前田采女利昌と、大准后使の御馳走役を務める織田監物秀親との間にいざこざがあり、前田采女が織田監物に「このほどの遺恨、覚えたか」と言って刺し殺した。原因は、赤穂事件よりもずっと明らかになっている。家宣将軍の妻、近衛煕子の敬称を、将軍宣下の前は御廉中様と呼ぶか、御台様と呼ぶかで意見がわれたことから二人は対立。采女は御廉中様、監物は御台様と呼ぶべきと言い張る。織田監物はこの時四十八歳、信長へつながる名門で、大和柳本一万石の藩主であったが、いかんせん一万石に不服があったのか、織田家近衛家と信長の時代から深いつながりあり、煕子夫人が輿入れ後も何かとご機嫌伺いをたてて、虎視眈々と名家の復興を目論んでいたふしがある。一方で、前田采女はこの時二十六歳、加賀百万石前田家の血筋であり、大聖寺藩主前田利直の実弟。分家を立てて、こちらも一万石を領した。役者のような美男子であったというが、親子ほども年の離れた二人が、方や権力や名声に執着し、方や眉涼やかな好青年と謳われているのも、赤穂事件に類似している。ほんの些細なきっかけが、掛け違いとなってゆくのだ。監物が采女に対して、饗応当日までに、まるで赤穂事件の時代劇そのままに、いじめや嫌がらせをやって、采女に深い遺恨を与えたといわれる。赤穂事件と違うところは、采女は監物をしとめていることで、その後、幕府から切腹を言い渡され、素直に応じている。無論、采女は覚悟の前であろうが、八年前の赤穂事件で、威信をつぶされかけた幕府は、事を処理するにあたり、内心ひやひやであったと思う。一説では、采女は大奥を取り仕切る年寄絵島と昵懇で、監物殺害を絵島にたきつけられたとも云われる。当時、御台所煕子(後の天英院)と、絵島が付いている左京の方(後の月光院)の派閥抗争に巻き込まれたとのことだが、真相やいかに。もしかすると、後の絵島生島事件の源流は、この時にあったのかもしれない。

根本中堂の裏手が、今の東京国立博物館であるが、ここに寛永寺山主の住まいである御本坊が建っていて、その規模は並の大名屋敷を凌ぐほどであった。今、博物館を一巡していると、裏手に美しい日本庭園や、茶室を見ることができるが、あそこは寛永寺御本坊時代の名残である。そして、その御本坊のさらに裏手が、歴代将軍の眠る徳川家霊廟であった。ここには四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定とその御台所や家族が眠っている。今でも霊廟の勅額門や、手水舎は残っていて、往時の壮観を偲ばせている。

霊廟は、増上寺と同じくほとんど戦災で焼けてしまって、今では周囲を囲む高い石垣のみが残るが、何せ高い石垣と、樹木に覆われているため、容易に中を伺うことはできない。そのおかげで、歴代将軍や、御台所の安眠を妨げてはいないと思う。中で、特筆すべきは、十三代家定正室天璋院篤姫であろう。動乱の只中に徳川家に嫁入りし、夫亡き後の徳川宗家の屋台骨となって、力強く幕末を生き抜いた、稀有な女性であった。共に戦った皇女和宮と、江戸無血開城、徳川家存続、慶喜の助命嘆願などに尽力した功績は大きい。しかし、天璋院和宮も、その波乱の生涯でもっとも辛かったのは、夫をはじめとした多くの愛する人々に先立たれたことではなかったか。その苦しみ、哀しみは計り知れない。歴史的功績よりも、そうした哀しみを乗り越えて、人生を全うした精神力にこそ、私は大いなる魅力を感じる。最初は何かと悶着もあった二人だが、やがて生涯で唯一無二の戦友となった。和宮が病気療養中の箱根で没した時、 天璋院は見舞いに訪れる道中で訃報を聞いた。その時天璋院は、挽歌ともいうべき次の歌を残している。

君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな

同志を失った悲哀が切々と迫ってくる。天璋院は嫁入りしてからも、何度か薩摩へ里帰りする機会もあったが、結局は一度も帰還しなかった。最後まで徳川の人間であり続けたのである。明治十六年(1883)千駄ヶ谷の徳川宗家で、四十七歳でひっそりと亡くなるが、手元金は僅か六万円ほどであったとか。すべてを見尽くして、頂点を極め、その後流転の人生を送った人の、実に潔い最期を憶うとき、私はやはり畏敬の念を抱かずにはいられない。

今は昔。先に述べた寛永寺総門たる黒門は、上野戦争で夥しい弾丸を浴びた。黒門は今、三ノ輪の円通寺という寺に移築されており、たった一日で終結したとはいえ、その弾痕を見ると、戦闘がいかに激しいものであったのかがわかる。最初から幕軍の負け戦であったが、止めは本郷台地からのアームストロング砲の砲撃であったという。大砲が止めとは、徳川が豊臣を滅ぼした大坂の陣に同じである。寛永寺江戸城の身代わりとなって、官幕両軍の鬱憤を受け止めてくれた。まさに、仏が身代わりとなったのである。ここで闘ったのは、最後まで江戸と徳川家を死守しようとした、若人たちであった。無血開城後、いったんは治安もよくなりつつあったが、やはり血気盛んな幕臣や浪人の若者には、抑えきれぬ衝動があった。そして、またそこに付け入ったのが、官軍の血気逸る連中であった。お山を焼いた官軍参謀の西郷さんの銅像が、公園のシンボルのように建っているのも、思えば奇縁である。そしてすぐそばには、彰義隊の墓が江戸城の方を向いて建っている。明るく、人通りも絶えぬ場所に在るのに、私はここに来ると、どうしても重苦しい気持ちになる。これは、会津の白虎隊士の墓の前でも感じたことだ。彰義隊、遊撃隊、二本松少年隊、白虎隊、西南戦争、そして時代はずっと降って太平洋戦争まで、若く輝く美しい命が、無残に散っていった。その始まりともいえるのが、日本の場合は、上野戦争であったかもしれない。人間は追い込まれると、結果的に若く幼い命が犠牲になるのは、今日も、世界で起きている紛争を見れば明らかである。寛永寺を訪れて、彰義隊の墓参をすると、私はいつもそんなことを考えてしまう。

上野戦争で壊滅的被害を受け、大檀家たる徳川家は駿府へ転封、さらには維新後の廃仏毀釈で、寛永寺も荒れ放題となり廃寺寸前となったが、なんとか踏み止まり、世も落ち着いた明治半ばからは、少しずつ復興してきた。今、寛永寺本堂の根本中堂が建っているのは、慶喜が恭順謹慎していた、大慈院という子院のあるところで、本堂は川越喜多院から移築したものである。今の中堂は、往時の中堂には及ばないが、よくみれば実に堂々たる建築で、かつて日本仏教界の頂点に君臨し、今でも天台宗大本山、関東総本山の名に背かぬ佇まいである。中堂内には、本尊の薬師三尊像が厨子の中に安置されているが、秘仏のため、お前立ちの薬師如来を拝む。本尊は、最澄の自作とされ、近江の石津寺に祀られていたものを、根本中堂の建立時に迎えたという。また脇待の日光月光両菩薩は、立石寺から迎えたとか。さらに須弥壇の両脇には、見事な四天王像と、薬師眷属の十二神将が祀られており、なかなか壮観である。東京でこれだけの仏像を一同に拝めるのもうれしい。この中堂では、毎年正月三が日に、歴代将軍の肖像画がお目見えする。油彩で描かれたものだが、場所が場所だけに、まるで歴代将軍に拝謁しているかのような錯覚に陥る。旧中堂の「瑠璃殿」の扁額は焼け残り、今の中堂に掲げられているが、いかにも大きすぎて、ややアンバランスに見えるものの、旧中堂がどれだけ巨大であったのかを偲ぶためには、あそこにあって然りである。境内には、旧中堂の鬼瓦など遺稿も置かれているので、ぜひ見てもらいたい。

今の中堂の裏手が、慶喜が謹慎した「葵の間」がある大慈院だ。慶応四年(1868)二月十二日から、江戸無血開城当日の四月十一日まで、慶喜はここで恭順謹慎を貫いていた。大政奉還、辞官納地をしても許されず、勤皇の水戸家に生まれながらも、屈辱的に朝敵の汚名を着せられた十五代将軍慶喜。初代家康から続いてきた天下人の座を、ついにここ寛永寺を出る時に手放したのである。その時の慶喜の心中ほど図り難いものはない。鬱屈した悔しさであったろうか、はたまた晴ればれとした開放感であったろうか。思えば、この人ほど長い余生を送った人も稀である。大正二年(1913)に亡くなるまで、実に四十五年もの余生である。将軍を辞して、宗家の家督を田安亀之助(十六代当主家達)に譲ってからは、流転の日々を送る。後に明治天皇に許されて、公爵になり、貴族院に列したが、あまり目立つことはなかった。それよりも狩猟、写真、釣り、自転車、顕微鏡、油絵、手芸などの趣味に興じ、いずれも一流で徹底したという。慶喜は家族を愛し、風雅な遁世者としての生活を楽しんでいたようにも思うが、天璋院と同じく、すべてを見尽くした人にしか到達できぬ、冷え寂びた本心を持ち合わせていたのではないか。今に残る隠居後の写真の面差しからは、そんな印象を受ける。

他に開山堂、護国院、現存する堂宇や寛永寺墓地を入れても、現在は三万坪ほどしかないというから、寛永寺は、最盛期の十分の一にまで小さくなってしまった。それでも三万坪もあれば、現代東京ではかなりの大寺院である。何度も言うが、かつての威容を一目でいいから見てみたかった。寛永寺境内には、維新後も戦後も、ビルや民家が建つことはなく、公園として整備されたことは、せめてもの救いである。広大な空と森に囲まれて、清々しい気分に浸れるのは何よりだ。そして私は、今の威張っていない寛永寺も大好きだ。公園の隅に追いやられて、いかにも肩身が狭そうだが、楚々した静かな佇まいが心地よい。寛永寺は、今も上野のお山に在る。私にとって寛永寺は、永遠に追憶の中の巨刹である。私は寛永寺を愛してやまない。

建国之日ヲオモウ

今日は建国記念日である。現代の日本人にとっては、あまり意識しない建国の日。アメリカの独立記念日などに比べたら、神代の頃からの伝説を元に定められたという曖昧なところが、また関心が薄い一因でもあろうか。しかし、戦前までは、紀元節と呼ばれ、盛大な祝日であった。そもそも紀元節とは、初代神武天皇の即位した日とされ、古事記日本書紀の記述を元に、明治政府が定めた祝日である。四方節(元日)、紀元節天長節天皇誕生日)を三大節とし、昭和二年に、明治節明治天皇の誕生日である十一月三日)を新たに加えて四大節とされた。戦後、GHQによりすべて廃止されるが、すべて名前を変えて現在も祝日とされている。本来、建国を祝う日なのだから、国を挙げてのお祭りがあってもいいものだが、如何せん、戦前の軍国主義の象徴の如く、捉えられる国や人々に配慮してるのか、いたって静かな建国の日である。もっとも、今の建国記念日は、戦後二十一年たってから、新たに制定されたが、その時点でもさほどの盛り上がりはなかったようだ。今では、建国記念日に賛成の右よりの方と、反対の左よりの方で、それぞれ集会を行うくらいで、終戦記念日のほうが、よほど注目されている。今年などは、安倍総理でさえ、アメリカへ行ってしまっており、政府主催の式典はもちろん行われない。

私個人的には、この日を大切な祝日と心得て生きている。昨今は祝日が多すぎる感もある。私は、日本人にとって祝日は、かつての三大節にあたる、元日、建国記念日天皇誕生日だけでよいとも思っている。そして終戦記念日は、祝日とするわけにはいかないから、国民総供養の日、としたらいい。そうすると、たださえ働きすぎの日本人に、また休みがなくなると騒ぐお歴々も現れるだろう。そこは、欧米に習い、季節ごとに休暇制度を作ればいい。法律で決めてしまうのである。時期は各個人に任せればいい。春、夏、秋に一週間~二週間程度の休暇を必ずとれるようにすれば、祝日は減っても問題あるまい。そして、今ある祝日は、記念日として残せばいいのだ。これならば、現代人の感覚にもすんなりと入っていけるのでないだろうか。何か、話がずいぶんな方向にいってしまった。私は右でも左でもなく、政治的な発言をしているわけでもない。単純に建国記念日を、皆が祝日として意識してほしいと願うのである。それは、歴史が好きで、少しばかり日本史をやってきたからということも、確かに一理ある。でも、この国は、あまりに欧米に追随し、あまりに近隣諸国を気にしすぎて、あまりに過去にとらわれ過ぎてきたために、大事な何かを見失ってしまった。別段、軍国主義や戦争を、また戦前の日本の生き方を賛美するつもりなど毛頭ない。そうではなくて、日本人ならば、この国が生まれたと、曲がりなりにも、眉唾モノでも、そのように云われたる建国記念日を、もっと意識してもらいたいものだ。せめてこの日は、日本の過去をみつめ、今を考え、未来を見据える日とせねばならぬ。私にとって、建国記念日は、一年でもっともいろいろと想い致す日なのである。それはこれからも変わらないし、年を増すごとに重大なる日となってゆくに違いない。

掛け違いから得たもの

先日、職場で得難い体験をした。私は、自分の業務上、十分に理解していたことを、失敗したくないがために、念のための確認のために、上司にお伺いを立てた。すると、上司は、私と目もあわせずに、「はいそうですね。」とだけ答え、黙々と自分の仕事をしている。その時の上司の態度に、私は、ついイラっとしてしまい、同時にがっかりもした。人間関係とは、慣れてくれば、こんな態度になるのかと思った。しかしよくよく考えてみれば、もっともであると納得もした。私自身、もっと自分に自信を持って、仕事に挑めばよかったのである。実際、お伺いを立てるほどの案件でなく、その程度の確認であった。あとから思えば、あの時、上司の虫の居所が悪かったのかもしれないし、私としても、わざわざ確認しなくてもよかったと後悔し、その日は一日気分が晴れなかった。このときのやりとりでふと思いついたことがある。

もしかすると、元禄赤穂事件でも、吉良上野介浅野内匠頭の間には、ほんの少しの隙間があり、それを埋める間もなく、事態が進行した結果、あの様な次第になったのではなかろうか。過去に起きた歴史的大事件も、ほんの少し会話がすれ違い、相互の考えやモノの捉え方に一瞬の齟齬があり、それが追い討ちのように相手への態度となって現れる。こうしたことがボタンの掛け違えとなり、軋みが生まれて、ひいては相手への思いやりは、消え失せてしまった。その結果だったのかもしれない。平治の乱も、南北朝の争いも、応仁の乱も、本能寺の変も、桜田門外の変もまた然りである。もちろんそこには、現代では思いもよらぬ、政治的思惑や、熾烈な覇権争いも絡んでくるわけだが、こうしたことは過去から現代まで枚挙に暇もなく、これからも変わらぬ人間の性であろう。我々人間が生きている間、普遍的に起こり続けるているのである。だから、未だに争いは絶えない。

だが一方で、日本人は聖徳太子以来、和を尊ぶ民族である。それが、今を生きる私たちにも、間違いなく平等に染み付いていると私は信じたい。こんな風に気持ちを改めるのも、日本人ならではの民族性を、持っているからだとつくづくと思う。今回の職場での体験から、学ぶべきことは多かった。それにしても、歴史や過去、すでに鬼籍の方々は偉いものだと思う。今を生きる我らより、あちらの人々の方が数も多く、増え続ける一方で、いずれ私も、今を生きる者すべてが、等しくあちらへ旅立つ。生身の我らは少数であり、なんと孤独で寂しいことか。こういうチマチマしたことで思い悩むのも、馬鹿げている。私は、死の苦しみが怖くないといえば、嘘になるが、あちらへ行くのは楽しみで仕方がない。偉大なる歴史上の人物、尊敬する作家、愛する家族や友達や動物たち。逢いたい人がたくさんいる。でも今、生きている中でどれだけのことを成せるのか。せめて、己の役割をほんの一つ、いやほんの一匙でも果たして、みんなに逢いに行きたいとは思っている。

日本仏教見聞録 高尾山

平成二十八年大晦日。日本仏教本山を訪ねる旅を、この晩夏より始めた私とT君が、この年最後に訪れたのは高尾山である。私は高尾山に登るのは二度目である。いつもハイカーや、行楽客で混雑している人気の山だが、近頃は外国人登山客が急増している。この日も、大晦日にも関わらず、麓から多くの外国人がいた。実は今回、あえて大晦日を狙って高尾山に行ってみた。正月は、初日の出見物や、薬王院の初詣客で相当に混むのは必至。大晦日ならば、静かなのではと踏んでいたが、その思惑は見事に外れた。思いの外に混んでいる。まぁ、高尾山とはそういう山なのである。新宿から小一時間もあれば行ける身近な山。標高五百九十九メートルと高山ではないが、周囲にも高い山がないため、絶景を楽しめること。ケーブルカーやリフトでも登れること。そして何と言っても、晴れた日には富士山を拝めることが人気の要因のようだ。外国人ならずとも、高尾山は概ねこんな理由から、昔から関東地方の人には、お馴染みの山である。驚いたことに、高尾山の年間登山者数は二百六十万人超で、これは世界一らしい。世界一の登山者数を誇る山が、日本の首都東京にあるのも面白い。

麓で名物のとろろ蕎麦で腹ごしらえ。多摩地区は昔から蕎麦栽培が盛んである。深大寺あきる野も蕎麦が有名だが、高尾山もまた、地産の蕎麦と自然薯のとろろが実に美味しい。以前来た時は、麓から登山したが、今回は大晦日のこととて、慌ただしく出かけたので、私たちはケーブルカーを利用することにした。絶好のお天気だ。ケーブルカーも、山手線並みに混んでいて座れない。日本一の急勾配を登る高尾山ケーブルカーは、聞きしにまさるもので、立っていたからなおさら傾斜がキツく感じた。こんなところに、よくこんなモノを作ったものだと、つくづく感心する。人間の山への憧れは、昔も今も果てしない。紅葉はもう終わっていたが、冬枯れの山もなかなか美しい。この山は、もともと修験道の霊山として、太古より信仰されてきた山でもある。私はそういう部分を見てみたい。

高尾山薬王院有喜寺は、成田山、川崎大師と並び、真言宗智山派大本山とされる。だが寺の歴史は、智山派の歴史よりもはるかに古い。寺伝によれば、天平十六年(744)聖武天皇の勅命で、東国鎮護のため、行基によって開山されたとある。聖武天皇は、各地に国分寺国分尼寺を建立し、奈良の東大寺を総国分寺と定め、仏教の力を借りて国を統一することに成功する。高尾山からさほど遠くないところに、武蔵国分寺や相模国分寺があり、これらとほぼ同時代に薬王院が建立されたのをみると、この頃から、この山が霊山として信仰されていたことがわかる。天平時代、現世利益を尊ばれて、薬師信仰はピークに達する。この寺の本尊も薬師如来で、これが薬王院と称する由縁である。行基菩薩といえば、良弁とともに聖武天皇の手足となって、日本仏教の底上げを図った。行基は、修験道の祖である役小角と並び、津々浦々に伝説がある。ただ役小角よりも、もっと民衆の近くにいた。そして後に、この役小角行基の襷を受け継いだのが、空海ではなかったか。そう考えると、日本仏教のある路線に一つの系譜が見えてくる。役小角行基菩薩→空海。他にも白山修験道の祖である秦澄、帰化人で東大寺建立に尽力した良弁、南都仏教からの脱却のため比叡山へ篭った最澄も、ただ一人山中に分け入り修行したという点で、同じ系譜といえよう。いずれこのあたりから、仏教は日本古来の神々と融合していった。日本の八百万の神々は、様々な仏の化身という本地垂迹は、実は神は仏ではなく、この国に仏教が根ざすために、日本在来の神の力を借りねばならなかったという説を唱える人もいるが、それには私も同感である。 後に触れるが、神仏習合が今も生きている高尾山に来ると、日本仏教の興隆期を如実に垣間見ることができる。

浄心門から参道に入ると、杉の巨木が亭々と聳え、石仏やお堂が点在している。ここらあたりから、行楽の山とは別の、信仰の山としての霊気がひしひしと迫ってくる。少し歩くと、見上げれば右手の丘の上に、白亜の仏舎利塔が現れる。こうしたストゥーパは、戦前から戦後にかけて、各地に建立された。中には、経年劣化が著しいものを見かけることもある。それはもはや遺跡のような有様で、薄気味悪いことも間々ある。でも、高尾山の仏舎利塔は、大変よく手入れされており美々しい。塔の先端は、大晦日の空を切るように屹立している。この巡礼でも、度々お目にかかるこうした仏舎利塔だが、この先もまた見られるであろう。塔の前の広場には、天狗の像があって、結界が張り巡らされている。修験者以外の立ち入りを禁ずる立て札があるから、ここでは何らかの行が、行われるのだろう。高尾山中には、こういう場所がいくつか見られる。どんな行をするのか、とても興味がある。お寺によれば、日帰りとか宿泊しての体験修行があるらしいが、それは修験道のほんの一部を覗く程度にすぎないだろう。実際の山伏たちは、私たちには想像を絶する、過酷な行を間断なく行い、ひたすらに世の平安を祈念し、秘法呪法を会得しながら、自身の求める仏道を邁進する。千日回峰行も、葛城山大峰山も、出羽三山も、白山や富士山でも、本当の行は、真夜中に秘密裏に行われているはずだ。興味本位などでは、到底務まらない。山伏とは読んで字の如く、真に山にひれ伏し、神仏に身を委ねる者を云う。そうするうちにいつか、山の神と出逢い、秘法呪法を授かるのだろう。拙き私などの文章で、千数百年の修験道について、語ること自体が土台無理なのだが、私は修験者を尊敬しているし、彼らを生き仏であると信じている。

高尾山中では時々、どこからともなく山伏の吹く法螺貝の音が聴こえてくる。その音は、山から山へとこだまする。魂の叫びにも聴こえるし、吐の底からの笑い声にも聴こえるし、哀しき泣き声にも聴こえる。 仏舎利塔からさらに登ってゆくと、茶店の先に四天王を配した山門に出た。山門の真ん中には、巨大な天狗のお面が、物凄い形相でこちらを見ている。山門を潜ると、右手にはまた天狗と烏天狗。ここの天狗は楓の団扇を手にして、楽しそうに踊っているようにも見える。「ようこそ高尾山へ」と歓迎されているようで、こちらもうれしくなる。天狗は、恐ろしい形相なのに、どこか親しみを覚えるのは何故であろうか。ここは天狗のおわす高尾山。この山のシンボルは天狗である。京都の鞍馬山など、日本各地で、天狗は山の神と云われ畏怖されている。天狗は修験道の守護神なのだ。高尾山がこう賑やかだと、なかなか今の世に天狗は現れないだろう。が、閑散とした逢う魔が時や、真夜中に行者たちが秘密の行を修する時、あるいは現出するのかもわからない。ひょっとすると、昼間は例の天狗の隠れ蓑で姿を消して、大木のうえから、絶えず我らを見ているのかもしれない。この山を歩いていると、ふとそういう想像を掻き立てられるし、一人で歩いていれば、そんな気にもなってくるだろう。 ちょっと怖いが、恐る恐るも、遭遇してみたい。それが私の天狗に対する想いである。

そもそも日本人と天狗の関わりは深い。天狗は、日本固有の修験道仏教と結びつくが、また庶民にこそ親しまれてきた神でもある。それは、あの長い鼻がどこか可笑しいからでもある。でも、それは山の神の恐ろしさを緩和するために、敢えてそんな出で立ちになったのかもしれない。鼻高々で有頂天になることを、「天狗になる」というが、今、天狗から後指をさされているのは、私たち人間なのではあるまいか。古代より人々は、山海から食物を得て、生き存えてきたのだから、当然、山や海に生かされていることに感謝した。また、それに決して抗することはせず、貴賎を問わず崇拝したのである。草木国土悉皆成仏と云われるとおり、生きとし生けるものすべてに、魂が宿ると信じ、人もまたその中で生かされているとわかっていた。ことに、山容全体から霊気を醸し出す山は、神山として崇められた。日本各地にたいていは、その地域の人々に拝まれた山があり、山の神が祀られている。そして、里人たちは、豊作と安寧を祈る祭をして、神々への感謝と忠誠を誓った。或いはまた、怒りを静めるべく、ご機嫌をとったのである。そうした祭は、今に伝わって、私たちも同じことを体感体験している。現代人も山を眺めれば、自然に手を合わす人もいるし、形を変えながらも、山を仰ぎ拝むことを忘れてはいない。富士山が日本人の信仰の総本山とも云えようか。その富士山を遥拝できるのが高尾山である。もともと高尾山は、富士山の遥拝所であったのかもしれない。果てしない修験道のことを考えていると、ふとそういう考えまで浮かんでくる。

高尾山には神仏習合がわかりやすく残っている。 ここには薬王院いう寺と、鳥居のある飯綱権現堂が並存する。本堂から左手に、少し上がると、権現造の見事な社殿があり、一帯は多くの神々が祀られている。明治の廃仏棄釈まで、日本の多くの寺社では、こういった神社と寺が混在する風景がごく当たり前にあった。日本人は、神も仏も同じく敬い、大切にしてきたのだ。そうした寺は、神宮寺とか別当寺と呼ばれた。確かに明治維新は、日本史上最大の変革を成し遂げたが、そのぶん無くしたもの、傷つき痛んだものも、また多くあった。戊辰戦争で、偽りの下剋上を目の当たりにした輩や、戦に参加できなかった連中が、憂さ晴らしにやったとしか思えぬ暴挙。国家神道を推し進めたのは、政府ではなく、民衆であった。言い換えれば、国民はそういう風に巧妙に仕組まれたのである。それが廃仏棄釈ではなかったかと私は思う。

権現堂を過ぎて、弘法大師を祀る大師堂、不動明王を祀る奥の院を過ぎれば、山頂への最後のアプローチとなる。十分ほど歩けば山頂だ。 快晴の大晦日。高尾山頂は、言葉などいらぬ絶景。東には茫漠とした大東京をみはるかす。傾きかけた西日の彼方には霊峰富士。やはり今日ここへ来てよかったと、心から思える瞬間であった。すべてはこの瞬間のために、この一年を無事に生きてきたのではなかろうかとさえ思ったものだ。そう思わせる実に崇高な眺めであった。山頂は多くの人々で溢れていたが、皆一様に笑顔であるのが印象的であった。それぞれの人生の垢を、大晦日であるこの日に、ここですべて洗い流して、明日からの平成二十九年に向かう。冬の西日はあっという間に残照になりつつある。私たちはゆっくりと下山することにした。