弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

教育勅語

慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられた。翌慶応四年三月十四日に、明治天皇は、五箇条の御誓文を立てられて、新しい時代を率いる覚悟を示された。ほどなく明治となり、政府は、この国が長らく培ってきたものを悉く廃して、矢継ぎ早に、新しい政治、制度、文化を求め実行した。七百年以上続いた武家政権の時代、奉られて追いやられていた天皇は、国家元首統帥権を持つ大元帥としてさらなる高みへと奉られた。明治政府は、天皇の御名によって、法律や制度を整備し、社会の秩序を保とうとしたのである。また時には、天皇自ら御言葉として発せらた事がある。それは勅語とか勅諭と呼ばれた。軍人勅諭は、文字通り軍人に向けた御言葉だが、教育勅語は広く国民に向けたるもので、特に天皇の御名御璽があり、ただの御言葉ではなく、明治国家とその教育を、国民に知らしめるための訓示であった。正式には、「教育ニ関スル勅語」という。詔勅を分ければ、詔、勅命、勅令は命令であるが、勅語や勅諭は聖上の御言葉として、今、我々が耳にする天皇陛下の御言葉に近いものと思われる。しかし当時は、今よりはるかに厳粛なもので、教育勅語の写しは、学校などの奉安殿と呼ばれる建物に、天皇皇后の御真影と共に納められて、丁重に扱われた。紀元節天長節には、祝日でも登校して、全校生徒起立し、少し頭を傾げて、校長が教育勅語を朗読した。 教育勅語をじっくり読むと、実にごもっともなことが、切々と連ねてある。人間として当たり前に生きるようにと、あえて示されたことだが、これがなかなか一番難しいこととも思える。故に明治大帝は、重き御言葉として発せられたし、日本人がそうあるようにと、希望と期待を込められたに違いない。

今、国会論戦の格好のネタとなっている某校の問題。あの学校の幼稚園では、園児に教育勅語素読させ、軍歌を斉唱させるというから驚きだ。稚い子らに、かようなことを強いる教育とは何ぞや。私には、コスプレと同じパフォーマンスにしか見えない。いや、コスプレをやる人々には或る信念があろう。このニュースには、久しぶりに身の毛がよだった。これは、本来の愛国心を植え付ける教育ではないと思う。断っておくが、私は天皇崇拝者だ。この国と皇室の弥栄を願ってやまぬ人間である。だがそれは、自然に自分の中に芽生えた思想であり、曲がりなりにも日本史を学んできた私にとっては、天皇という存在を避けては通れず、気がつけば、皇室は日本になくてはならないという考えに至ったのである。決して、親や学校から強制的に植え付けられたものではない。現に両親は、皇室には無関心であるし、私は日本仏教に並々ならぬ関心があるが、母親は敬虔なクリスチャンである。私の両親や祖父母は、郷土愛は教えても、決して思想の強制や愛国心の押し付けなどしなかった。学校もまたそうである。今にして思えば、茶道の稽古など、もう少し強制的にやらせて欲しかったこともあるくらい、ほったらかしであった。私は人付き合いも、学問も、文学も、好きな事も、すべて己が選んできた。人に強制されたことは何一つない。この頃は、信仰まで親が植え付けてしまっている感があるが、これも間違いで、めいめい自分で選ぶ自由を与えて然るべきである。選択肢を与えてやることが、真の教育ではなかろうか。

教育勅語素読や、軍歌の斉唱を強いることは、反時代的とかいう問題ではない。指導者のエゴイズムであり、単なる誤教育と私は断言する。どうせ素読するならば、よほど論語にしたら良い。先に述べたが、戦前、教育勅語はもっと崇高なもので、子供達が素読するようなものではなかった。教育勅語は、校長の朗読を頭を垂れて拝聴するものであった。そして、御真影とともに祀られた奉安殿は、特別な日にしか開かれなかったという。某幼稚園の如く、両陛下の御真影を無造作に置いてはいけなかったのだ。天皇を教育に利用しようとしている某校は、戦前ならば不敬罪に処されるかもしれない。‪私は日本の歴史、文化、文学を愛する。これを自身の糧として生きてきたし、これからは私が、少しずつでも本当の日本を世界に発信したいと思っている。だが、教育勅語素読や、軍歌の斉唱には、極めて不快な違和感を持った。そんなやり方では、この国は再び亡国となろう。子供達を諭し、正し、叱る事は大切で、すべての大人の仕事であり、役割であるが、何にせよ、何事も押し付けてはならない。‬