弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

公共の福祉と言論の自由

大寒の候。東京では大雪が降る。先日、小室哲哉さんが音楽活動を引退した。週刊文春に不倫疑惑を掲載されて、自らの望んでいた勇退とは違う、惨めで哀れな末路となった。個人的には小室さんの引退はとても寂しい。小室哲哉の音楽は、私の思春期から青春期に傍にあった音楽である。その対局にあるMr.ChildrenGLAYとともに、これまでもこれからも、私は小室哲哉の音楽を携えてゆくだろう。若い頃に出逢った文学は一生忘れないものだが、音楽もまた然りである。小室さんは満身創痍の会見で、しどろもどろになりながらも、今の自分と疑惑について、闘病中のKEIKO夫人のこと、そして己の才能の限界と涸渇について赤裸々に告白した。小室さんは真面目な人である。少なくとも私には昔からそう見える。真面目過ぎる故に、トラブルや墓穴を掘ることも多いと思う。そして、誤解を招く事もあろう。かつて金銭トラブルで詐欺罪に問われ逮捕され、裁判になった時も、真面目さが不器用と相まり、それが祟った結果だと私は思っている。しかし、誤解を招く行動や、結果的にその行動によって損害や心痛を被った人もいたわけで、そうした行動は慎み、その点は素直に反省すべきである。人としてごく当たり前の事であり、政治家とか芸能人とかは問題ではない。事実小室さんは猛省したし、世間は才気の再起に期待したのだが、此度も猛省の結果、引退となった。

 昨年来、各界で不倫や淫行が新聞雑誌で暴かれているが、こうした疑惑をすっぱ抜くことが得意なのが週刊誌であり、昔から彼らの専売特許である。しかし、ここのところの週刊誌やマスメディアのやり方、過熱報道、取材と公表の在り方には少しばかり疑問符が付く。確かに我国は表現の自由言論の自由が最高法規たる憲法で保障されている。日本国憲法第三章第二十一条で、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならないとある。日本は明治維新から近代国家として歩み成長した。昭和戦争では死に体となるが、戦後新しい憲法を携えて、国民一人ひとりが次の「坂の上の雲」を追いかけて、努力を怠らなかったから今がある。マスメディアも戦時下の言論統制から解放されて、存分に叫び、諭し、伝えてきた。必死で這い上がろうとする国民は脇目も振らずに走ってきた。その背後からは高度情報化社会という、日なたの様で闇夜の如き大波に飲み込まれることも気づかずに。気がつけば今、腐敗したマスメディアに操作され、洗脳され、汚染された世の中に成り下がってしまった。

憲法は第十条で法治国家を宣言し、第十一条で、基本的人権を侵すことのできない永久の権利とし、第十二条で、憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持し、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふとし、第十三条で、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするとし、第十四条で、法の下に平等と謳う。私自身、日本国憲法は第九条から十四条までが、戦後現代日本の国是を表し、国民を守護し、国民一人ひとりの自由を許す至高の精神であり、銘文であると思う。故に報道も表現もまた自由には違いない。だが、過熱報道、捏造、某国の大統領の言うフェイクニュースも時に混在しているとも思う。それほどに、個人攻撃が鋭い。無論、公人や芸能人は自身の行動に対する責任と戒めが肝要であり、報道される覚悟もまた必要と心得なければならない。某大統領のようにいちいちマスコミと言い争うのも低次元であるが、やはり行き過ぎた取材、報道にはいささか辟易する。空虚なのだ。しかしながら、我々は知る権利を有し、報道、表現には自由がある。それもまた憲法が保障している。

そこで考えねばならぬのは憲法にもある「公共の福祉」という事だ。「公共の福祉」とは実に漠然たる表現ともいえるが、言い得て妙であり、これ以上の表現はないだろう。時に人権と人権は衝突をする。私の人権は、当然相手にも同権がある。双方保障せねばならぬから、互いの人権は一定の制約を受ける。すべての人の人権が法の下に平等に保障されるために、人権と人権の衝突を調整する事を、憲法は「公共の福祉」としたのである。我々は「公共の福祉」に反しないように互いを尊重し、互恵関係を築かねばならない。少なくとも現行憲法で生きてゆく限り、日本人はそのように生きてゆくべきであろうと私は思う。我々には今少し真面目さと優しさが足りないのではないか。皆が己が事しか考えていない。逆を言えば、己が事で精一杯なのである。我々は二十一世紀という極めて複雑怪奇な時代の畝りの中に在って、併せて混迷を見せる世界情勢を眼前にして生きている。今、国内でくだらぬ虐待をしている場合ではない。マスメディアの責任は果てしなく重いが、我々標的となる民衆も自戒と覚悟が必携である。双方が温かくも冷え錆びた感覚が要求される時代である。そうせねば、あっという間に潰されて、消されゆくのだ。浮世とは何とも哀しいものだ。

私にも言論の自由はある。ゆえに此度はかく語らせてもらった次第である。

 

日本仏教見聞録 善光寺

昨年秋、坂東三十三観音巡礼を結願した。西国、坂東、秩父などの観音巡礼に結願すると、信濃善光寺と、別所の北向観音へ御礼参りするのが慣わしである。私とT君は師走間近の晩秋、信濃路へ旅立った。夜中に東京から関越道に乗り、上信越道の上田あたりで明け染める。朝焼けに映える山々の頂きには、グラニュー糖を振りかけたように薄っすらと雪。雪の下は赤や黄や橙の広葉樹と、濃い緑鮮やかな針葉樹が混在して、あの山もこの山も、大きなクリスマスツリーの様である。信州はもう冬であった。早朝に長野市に入り戸隠神社へ向かうが、昨夜来、かなりの雪が降ったようで、市街地を抜けると樹氷の森が現れ、戸隠への七曲り道を登りきったところで、路面は凍結していた。雪道が不慣れな我々は、その日は戸隠行きを断念し、明日雪が溶けることを願いながら善光寺へと向かう。

私は、日本仏教の本山と名の付く大寺院を訪ねる旅も続けている。が、果たして善光寺を加えて良いものか考えた。しかしこの寺は無宗派である。私の本山巡礼も宗派を問わない。善光寺こそもっとも相応しい寺ではないか。善光寺について、こと新たに述べることはないが、私は此度初めての善光寺詣である。善光寺を味わい尽くしたい。大本堂にも山門にも雪が被っている。空は快晴、冷たく澄んだ空気が寺域を充満し、私たちを心身ともに浄めてゆく。善光寺独自の縦長の大本堂は、これだけ大きいのに、瓦屋根ではなく桧皮で葺いてあることが、重苦しさを排除し、柔和な印象にしている。巨刹にある威圧感は皆無であるのに、包容力はとめどがない。大本堂に上がるとすぐに、賓頭盧尊者の木像がある。何十年、何百年と人々に撫でられた体は艶々に痩せ細り、顔はのっぺらぼうになっていた。大本堂内部の内陣には、東に地蔵菩薩、西に弥勒菩薩の坐像が参拝者を迎える。二体とも本尊や諸仏と違って、この寺では珍しく巨大な坐像で、大本堂の重石の様である。本尊阿弥陀三尊のおわす荘厳な極楽浄土が現出する内陣と内々陣は、殊に彫刻が美しい。一枚が畳ニ畳ほどもある内陣欄間には、極楽往生へと導く金色の二十五菩薩が雲に乗って浮かぶが、一つだけ菩薩が乗っていない雲がある。これは、我々衆生が乗るための雲であると云う。そうゆうさりげない優しさに、衆生は感動し信仰を厚くする。

三國伝来の請来仏で、我国最古の仏像と云われる善光寺の本尊一光阿弥陀三尊像は、絶対秘仏であり、住職すら拝したことはない。インドから朝鮮半島に渡り、日本の皇極天皇へと渡った。天皇は崇仏派の蘇我馬子にこの仏像を授けた。当時、日本は崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏が争っていたが、疫病が蔓延すると、物部氏は他国の異教が入ってきたことが原因だとして、蘇我氏の建立した寺を破壊し、この仏像を難波の堀江に投げ込んでしまう。が、結局この争いは崇仏派蘇我氏が征し、物部氏は失脚する。その後、信濃国司の供として都に上った本田善光が、難波の堀江を通り過ぎようとした時、水中から阿弥陀三尊が現出し、善光に信濃へ連れてゆくようにと言った。善光は言われたとおりに、信濃飯田の我が家にて阿弥陀三尊を手厚く祀った。ある日、息子の善佐が病で急死するも、阿弥陀如来は彼を甦らせた。善佐は黄泉の国からこの世へ還る途上、鬼に引きずられて地獄へ墜ちようとする高貴な女性に出会う。何おうこの女性は皇極天皇であった。甦えった善佐は、このことを父母に話して聞かせ、一家阿弥陀如来皇極天皇の命乞いをした。すると天皇は甦り、阿弥陀三尊のご威光と、善光親子の徳を讃え、天皇の発願により皇極元年(642)、飯田の御堂を現在地に遷し、寺名を本田善光からとって善光寺とした。善光寺無宗派で、庶民信仰から始まり、貴賎の別なく、女人救済にも隔たりがないのは、縁起からして当然であろう。大本堂の裏手の梅林には徳川家大奥の供養塔が建っていた。生涯を奥女中として過ごした女たちの、極楽往生を願う気持ちが込められている供養塔である。他にも佐藤継信、忠信兄弟の供養塔、真田家供養塔、中には迷い郵便の供養塔まである。どこまでも懐深い寺である。

本尊のお前立ちも普段は秘仏で、七年ごとに御開帳される。御開帳は信州一の盛儀であり、昔から「牛に引かれて善光寺参り」とか、御詠歌にも「遠くとも一度は詣れ善光寺」とある。内々陣には向かって左手に本尊を祀る瑠璃壇があり、右手には善光寺開基である本田善光と、妻弥生、息子善佐の親子三人の木像が安置されている御三卿の間がある。ほとけさまと人間が、区画は隔てられているが横並びに安置されている。この様な祀り方は他の寺では見たことがない。それに善光親子の表情が良い。一般に寺の開基や開祖は、高僧や貴人と決まっていて、そうした木像は人間臭くて薄気味悪いものだが、この三人は柔和で親しみ易い面立ちをしている。いかにも争いや権威権力とは無関係な、善光寺を象徴する像だと思う。思えば、庶民の名前が寺名になっているこれほどの巨刹もあるまい。日本の寺でこの規模の寺院は、南都の官寺、各宗派の本山、天皇家藤原氏の氏寺、京都や関東の禅刹、徳川家の菩提寺など、そのほとんどが権門と繋がって建立された。善光寺とて、後々は、各権門から寄進や寄付があって、今のような巨刹になったが、始まりは本田善光の家であり、まことに小さな仏堂であった。私は浅草寺清水寺にも似た雰囲気があると思っている。

善光寺と云えば、「お朝事」と呼ばれる毎早朝の勤行が有名だが、それは翌朝参加する予定だ。このあと、大本堂のお戒壇巡りをやる。大本堂の地下に延長四十五メートルの回廊があって、ちょうど中程に、「極楽のお錠前」と云う取っ手のようなモノがある。これを握ることで、本尊と結縁できて、極楽往生が約束されるというありがたいものだ。だが、回廊内部は灯が一切なく、手探りで壁を伝い、闇を彷徨いながら、お錠前を探すのである。今さら痛感させられたことだが、闇とは真に恐ろしいものだ。戒壇内部は大人が歩けると分かってはいても、ついつい屁っ放り腰となってしまい、恐る恐るの暗行である。わずか四十五メートルが、やたらと長く感じる。まさに暗行と呼ぶに相応しい。何がいるとか、何かにぶつかりはしないかとか、そういう怖さではない。ただ闇が怖いのである。初めてのこととて、自分の臆病さには半ば呆れた。あげく私は、お錠前を通り越そうとした。が、後ろにいたT君が声をかけて、引き戻してくれた。おかげさまで、私もお錠前を掴むこと叶ったのである。戒壇巡りは人生の縮図である。とかく一生は、暗闇を手探りで歩いてゆく様なもので、周囲に気を取られていたり、逃げ腰でいれば、本当に大切なモノを見逃してしまうのだ。そんな時、一人では気付けないことを、誰かが気付かせてくれることがある。それは家族か、友人か、一期一会の他人かも知れない。或いはその人は、この世の人ではなくて、神や仏かも知れない。人は愚かである。人生において大事な地点を通り過ぎたり、一人では戻って来れない場所へ踏み込むこともある。私も若い頃にそういう経験があった。だが、其処から連れ戻してくれた友人がいた。信じてくれた家族がいた。ゆえに今がある。善光寺戒壇巡りをして、お錠前を一人では探し当てることができなかったことは、悔しいとか、恥ずかしいとか、哀しいとかではなくて、友に導かれて辿りついたことが、何より嬉しかった。この夜は、善光寺から歩いて十分くらいの高台にある山の神温泉に泊まった。部屋からは、善光寺の大屋根が真後ろから見下ろせた。夜の帳が下りると善光寺平に明滅する灯は、言葉にならぬ煌めきである。それを眺めながら、T君と坂東巡礼結願と善光寺北向観音への御礼詣りが叶った祝い酒を呑む。本当に美味かった。

 翌朝、五時過ぎに起床し、「お朝事」に参加する。善光寺無宗派だが、各宗派を代表して天台宗と浄土宗がこの寺を守り営んできた。住職も二人おられる。お一人は天台宗大勧進貫首様、もうお一人は浄土宗大本願の上人様である。大勧進貫首は、天台宗の高僧から選ばれる。大勧進本坊は、山門に向かって左手に、濠を廻らせて威風堂々と男性的な佇まいで建っている。一方の大本願住職は、代々尼僧が務め、日本で唯一の女性上人である。皇極天皇蘇我馬子の娘を召して、自らに代わって御仏にお仕えするように言われ、善光寺へ派遣された。以来、大本願上人は、女性皇族や高位の公家の女性が務めてきた。大本願本坊は、山門から南へ一丁ほど行った仁王門左手にあり、寺院というよりも御座所のようで、いかにも格調高い趣である。お朝事は大勧進大本願両住職が毎朝大本堂に出仕し、三十分交代で行われる。この寺でもっとも厳粛な勤行である。善光寺のお朝事は、密教寺院のように盛んに護摩を焚いたり、太鼓を打ち鳴らして悪鬼羅刹を調伏するのでもなく、禅刹のように座禅をしたり、全僧侶による荘厳な読経があるわけでもなく、真宗寺院のように門徒が声高に御念仏し、坊さんが説教するのとも違って、まことに静かで穏やかなお勤めである。だが、静かなる読経はしっかりと大本堂の隅から隅まで染み渡り、ピンと張り詰めた柔らかな気が堂内を包みこむ。私たちは遠慮して外陣から拝したが、突然女性に背中を叩かれて、「もうすぐ扉が開きますから、どうぞ瑠璃壇正面の方へ」と促された。言われるがままに、瑠璃壇正面へ来て合掌していると、果たして厨子を覆った幔幕が上がり、貫首様が厨子の扉を開かれた。私は目を疑った。確かにお厨子が開いて中の阿弥陀三尊像が見える。私は目が悪く、眼鏡をかけているが、遠くが見えない。外陣からであったし、何度も目を凝らしてみたが、やはり厨子の扉は開いている様に見える。あれは、お前立ちのお前立ちなのだろうか。やがて、貫首様が私たちの方を向かれ合掌し、南無阿弥陀仏。私らも合掌し南無阿弥陀仏。ほんのいっときであった。顔を上げると厨子の扉は閉じられていた。私たちに、瑠璃壇正面へと促した女性もどこにもいなかった。後からいろいろ調べてみたが、お朝事で厨子を覆う幕は上がるが、扉が開くとはどこにもない。あれは夢であったのか。思えば、あの女性は寺の方なのか、信者なのかも定かではない。或いは皇極天皇か弥生御前とまで、いろいろと考えてみたが、もしかしたら観音巡礼結願の御礼参りに来た私たちに、観音様が化身されて来られたのだろうか。ありがたくも不可思議な体験をしたと思う。お朝事の際、信者が心待ちにしているのは、「お数珠頂戴」である。貫首様や上人様が大本堂へ出仕の際に、参道に跪いた信者や参詣人の頭に、「南無阿弥陀仏」と唱えながらお数珠を翳してくださる。これもまた極楽往生への切符となるらしい。私たちも皆に倣い、冷たい大本堂の板に跪いて合掌し、両住職へお数珠頂戴を希う。そこにはひとつの穢れもなく、純粋無垢な感激と謝恩の心があった。これが迷いなき信仰というものなのだと、今、こうして書いてみて得心した思いである。

境内の片隅には、歴代の大回向柱が置かれている。置かれているというよりも、しっかりと土に埋めてあって、直近の柱が一番背が高く、時代を遡るにつれて、ほとんどが土に還り、頭だけが地上に出ている柱もある。その一本一本に私は触れてみた。外気は冷たいが、柱は温かい。大回向柱は御開帳中に大本堂の前に立てられて、前立ち本尊の阿弥陀如来の右手と紐で繋がっている。人々は大回向柱に触れて、御仏と結縁するのだ。大回向柱は御仏と衆生の本願の接点である。次の前立ち本尊御開帳は、今から四年後の西暦二千二十年である。その時はもう平成ではなく、新元号である。

善光寺には三十六もの宿坊があるという。それらが周囲を情緒ある町並みにしている。ここから善光寺平の街並みは広がっていった。長野市は日本一大きな門前町である。弥陀の本願にただひたすらに縋りついた親鸞も一遍も善光寺にしばし逗留した。川中島で互いに切磋琢磨して戦った信玄と謙信も善光寺を敬愛した。旅を愛し己が数寄の道を歩いた芭蕉善光寺へやって来た。そして小布施の岩松院に八方睨みの鳳凰を描きに来た晩年の北斎もきっと善光寺へも詣ったであろう。彼らは皆一様に、善光寺阿弥陀三尊との結縁を喜んだに違いない。長野五輪開会式は善光寺の梵鐘が突かれて始まったが、この寺が草創した時から、響き続けている信仰の音は、今も、これからも消えることはないであろう。

転生

平成二十九年大晦日。明日から平成三十年だが、その平成も残りおよそ一年半で幕を降ろす。思えば二十九年はあっという間であったが、平成元年からこれまでを鮮明に思い出せるのは、私がこの時代を我が人生において、最も多感な時期に過ごしたからだろう。しかし、来年から再来年卯月末日までは、知らぬ間に通り過ぎるであろう。平成を噛み締めながら生きたいのだが、今の時勢、私の生活環境がそれを許してくれそうもない。来年から再来年にかけては、天皇御退位と新天皇御即位に伴う改元のみならず、その先、新元号の下で開かれる東京五輪まで、実に様々な催しが国内外で予定されている。ここにいちいち挙げるのは控えるが、或いは突発する出来事が、激流のように目紛しく起こりそうな気がしてならない。その時、私はどういう心持ちでいられるのだろうか。

人間は時代時代で修羅場に遭遇してきた。人間にとっての修羅場とは、天災、戦争、人災(テロ、殺人、恐慌、環境破壊等)の三つである。個々の修羅場はまた別で、それは多くが家族、仕事、対人関係においてであろう。修羅場は連続ではないが、断続であって、不可思議な連鎖を起こす。火は火を呼ぶのである。その火がすべてを焼き尽くした時、生まれ変わることができるのであろうか。起きてみなくては解らないことだが、歴史を鑑みれば現実でもある。徳川時代までの日本では、禍事や凶事が続くと、宮中や社寺で祈祷が行われ、改元することで、邪気を祓い、新たなる活路を見出そうとしてきた。改元がなく元号が長く続く時は、余程泰平であったのだろう。幕末になると、一年から三年ほどで頻繁に改元されていることからも、当時の人々の不安感が察せられる。明治になり、一世一元となり、天皇の代替わりによってのみ、改元されている。維新前とはずいぶんと改元の意味合いが変わったが、改元の重みは昔よりも増した様に思う。来年秋までには、新元号が発表されるというが、果たしてどんな元号となるのか。昭和後期生まれの私だが、まさに昭和は遙かに遠くなる。

時に平成の天長節も残り来年あと一回。先日の天長節、私は東京小平市にある平櫛田中彫刻美術館に出かけた。平櫛田中は、私がもっとも好きな日本の彫刻家である。以前、上野の芸大美術館で平櫛田中の展覧会があった。その時、私は別の仏像展に来ていたのだが、同時開催されていた平櫛田中の展覧会もついでに覗いた。が、ついでなんて誠に失敬なことで、気魄溢れる彫像群に茫然自失としてしまい、すっかり平櫛田中の虜になってしまった。平櫛田中は、明治五年(1872)、岡山県後月郡、今の井原市に生まれた。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中である。十歳で広島県福山市の親戚平櫛家の養子となり、後に旧姓と新姓を併せて平櫛田中と称した。二十一歳で大阪の人形師中谷省古に弟子入りして木彫を学び、その後上京して、高村光雲の門下生となる。木彫、ブロンズ、石膏と何でもやった。静謐な躍動感を湛える平櫛田中の作品からは、彫刻がまったくの自然にできて、如何にも楽しかったに違いないことが、見る者に伝わってくる。そして田中は岡倉天心と出逢う。天心には歴史から日本美術史を師事した。物凄い勢いで彫刻を修練し熟達した田中は、帝室技芸員になる。その後、岡倉天心の創立した東京美術学校、今の東京芸大の教授となり、天心を敬愛し、天心の彫像も多く制作した。自らが彫って芸大の六角堂に安置された岡倉天心像に、田中は毎朝敬礼していたという。また、禅僧の西山禾山に私淑し、仏教や中国故事にちなんだ、独自の精神文化を作品に投影するようになる。

代表作は数多あるが、何といっても戦前から二十二年の歳月をかけて制作された「鏡獅子」は圧巻である。六代目尾上菊五郎をモデルにして、いくつもの試作をし、ついには菊五郎を褌一丁にして、装束の中身たる身体全体の筋肉や肉付きを観察しながら、装束を着けていない丸裸の鏡獅子まで試作する。妥協を許さぬ徹底ぶりには驚嘆するよりほかはない。この「鏡獅子」は国立劇場のロビーに展示されているが、生身の役者よりも迫力があり、六代目菊五郎が目の前に現れたようだ。九十歳で文化勲章を授かった平櫛田中は、晩年、小平市に移り住み、昭和五十四年(1979)百七歳で大往生を遂げた。田中は百歳を超えてなお、創作意欲盛んで、小平の自宅に、向こう三十年以上制作できる材木を運び込んでいた。現在その一部が、美術館に隣接する自宅の庭に置かれており、それはまるでオブジェのような巨木である。田中は最晩年まで彫り続けた。小平の家は美しく広々とした平屋住宅で、茶室もあって、彼の精神の集約とゆとりの均衡をとるための家であることがわかる。居間兼仏間に安置されているのは、自ら彫った新薬師寺の模刻の薬師如来立像で、像の真後ろが彼の寝所となっている。陽だまり溢れる実に快適な住宅で、近頃こんなに暖かな家を見かけない。縁側の陽だまりが、人を長生きさせるのだろうか。アトリエには、今も黙々と仕事をする田中が、そこに居そうな空気が漂っていた。

数多ある田中の作品で、私が強く惹かれて止まないのは、「転生」というブロンズ像である。「転生」は鬼が舌を出して、如何にも不味そうな怪訝な表情で、私たちを見下ろしている。芸大美術館の展覧会で、一番奥に展示されていたが、遠くからでもその圧倒的存在感に惹かれて、吸い寄せられるようにその前に立った。今回よくよく見ると、鬼が口から吐き出しているのは、舌ではなく逆さまになった人間であった。生ぬるい人間を食べた鬼が、あまりの不味さに吐き出しているところだと云う。生ぬるい人間とは、いい加減で、自己中心的な人間で、田中が幼い頃に聞いた説話を元に彫ったと云う。怒髪天を突く鬼は、見様によっては薬師如来眷属の十二神将や、不動明王にも見える。平櫛田中の仏教への造詣は極めて深かったことが覗える。「転生」が作られたのは、大正九年(1920)で、田中はまもなく五十を迎えようとする頃だ。まさに熟練となってきた頃の力作である。鬼気迫るとはこのことで、それを眼前で体験すれば、誰もが凍りついてしまうであろう。第一次大戦後、世界情勢は混沌としていたが、日本は明治の日露戦争以降、疲弊しきっていた経済が、第一次大戦に参戦し、戦勝国となったことで景気が上向き、大正デモクラシー大正ロマンといった、民衆から澎湃として起こった主義思想が巷を跋扈した。が、大正九年に株価が暴落し、昭和恐慌の前触れが始まる。その後は、関東大震災から昭和の戦争時代へ、日本は暗闇へ進むのであるが、平櫛田中はそれを密かに予感していたのかもしれない。あれほど感受性の高い人である。この時から昭和二十年までを予測するかの如く、「転生」を彫り上げたのではなかったか。そこには愚かな人間は、鬼も喰わぬと云う、正鵠を射た皮肉と憤りと悲哀がある。同時に、鬼に吐き出された人間は、新たに生まれ変わるチャンスを得て、転生すること叶うかもしれないのだ。そうした願いも込められているように思う。

大往生した平櫛田中座右の銘は、 「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」

 また百歳を超えてよく揮毫した言葉は、

「不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから」

平成二十九年歳末、再び平櫛田中に接触した私は、私自身のこれからに、まことに大きな援助を得た思いがした。奇しくも先月、我が祖母も百歳を迎えた。祖母は大正六年の生まれである。祖母が改元まで元気ならば、大正、昭和、平成、新元号と四時代を生きる。四度目の転生である。

花月

茶の湯の稽古を始めて一年半近く経った。我ながら珍しいことで続いている。面白くて仕方がないという単純明快な理で続けているが、稽古の度に茶の湯の奥深さを味わい、同時に苦闘しながらお点前をする事夥しく、何故にもっと早くから始めなかったかと悔やむ日々である。それほどに若さとは偉いもので、老いさらばえてゆく我が身を受け容れながらも、口惜しくも思う。茶道に限らずおよそ道と呼ばれる稽古は、若年から始めた方が圧倒的に習得する早さも、覚えも良いだろう。六十ならぬ四十の手習いで始めてみたが、元来何事にも不器用な私など、先生からまったくの手取り足取りで教授していただき、一つひとつ所作を確認しながら、覚えては忘れを繰り返している。まさに一進一退である。だが、それがまた面白くて、私は茶道に専心しているのである。まずは型をしっかりと身につけること、この基本が難しいわけだが、むしろ型を自分のモノにしなければ、己の茶の湯は生まれない。自由ほど不自由なものはないと思う。

年明けこの若輩者が、初釜に参加することになった。初釜は、新年に初めて釜をかける茶事だが、今は広く新年初の茶会や稽古初めの事を云う。表千家では、元日の深夜、家元自ら邸内にある井戸で若水を汲み、残月亭に勢揃いした家族と高弟に濃茶が振舞われる大福茶を行う。その後、門弟や同門会の人々を招いて数日に渡り初釜が行われる。時には東京で、首相や著名人を招くこともある。初釜は年始を寿ぐ華やかで、盛大な茶会なのである。私の先生の社中でも、毎年正月半ばに初釜式がある。初参加の私は今から緊張しきり。無論、茶道はいつでも漲る緊張感を携えて行うものだが、稽古ですら余裕がないものだから、当日は如何なものか。しかし私は、残りの人生で、自分の出来得る限り、茶の道を極めたいと決意している。これからはこうした茶事にも、積極的に参加したい。当日は羽織袴にて参加する所存。これがまた大変だ。着物は何度か着てきたが、茶道の着物は着たことがない。茶道の着物、男子の場合は基本的に無地の単衣か袷に、袴をつける。稽古は着流しでも良いが、初釜などの茶事茶会では袴をつける。十徳を羽織ることを許されるのは家元や宗匠で、男子は袴が基本である。初めての茶事の着物をどう取り合わせるかを考えて、決めることも誠に気を使うが、楽しい難儀と言えようか。

初釜では七事式の一つ「花月」を演る。日本の茶道は禅堂から始まり、禅宗に帰依した武家の嗜みとなった。室町将軍たちは、三代義満が日宋貿易で得た巨万の富で唐物を買い漁り重宝した。ことに八代将軍義政は、政治や権力闘争に嫌気がさして将軍職を投げ出すと、東山に銀閣や東求堂を建立し隠棲した。侘びの茶を先駆け、自ら積極的に茶の湯を楽しんだという。義政の残した茶道具は東山御物と云われ、当代一の数寄者として茶道の歴史に彩りを添えている。織豊時代には茶の湯は嗜好から権力者の権威となるが、徳川時代になると、公家や武家に留まらず、町人たちにまで普及した。茶の湯は本来身分の隔たり無く楽しむもので、広く普及したのは良かったが、一方で作法が形骸化し、遊芸志向となったことを憂慮した表千家七代如心斎と、裏千家八代又玄斎一燈が、新たに稽古の規範とすべく七つの修練作法を考案した。これが七事式である。花月はその一番目の式作法で、あとに、且座(さざ)、廻り炭、廻り花、茶かぶき、一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)と続く。廻り炭は炉の季節に行い、風炉の季節は代わりに花寄せを行う。七事式はそれぞれ、普段の稽古や一人点前と異なり、数人が一組になり、交代で茶を点て、茶を飲む。七つ通して行っても良いし、一事単独で行っても良い。闘茶を原型としたものだろう。

花月は、折据と呼ばれる正方形に折られた箱に、木札が入っていて、クジ引きのように木札を引いて茶を点てる者、茶を飲む者の順番を決める。木札は、すべて松の絵が描かれていて、裏返すと、花と月と一から三まで数字が描かれている。木札を引いて、一斉に裏返して、花を引いた人から、「花」、次いで「月」と宣言し、数字の人は末座から「松」と宣言する。花の人が茶を点て、月の人が茶を飲む。松の人は待つ。実に単純だが、初めから終いまで決まった立ち居振る舞いがあり、ボーッとしていたら皆に迷惑をかける。立ち位置、座る位置、折据の持ち方、送り方、札の返し方まで細かい型と決まり事があり、各自が整然と構えて、皆を待たせずに進行しなくてはいけないため、片時も気は抜けない。一方、茶を飲む際は、礼も拝見もなく淡々と飲み干す。如何に逸し乱さずに、茶を点て、茶を飲むかを型を守りながら演るのだ。新年の茶会で、楽しみながら演ればよいと先生はおっしゃるが、自分一人で演る点前ではなく、チームワークを大切にしなくてはいけないため、やはり緊張する。 一人で点前を稽古する時は、所作を忘れてしまいやり直したり、だらだらとつい自分のペースになってしまうことも間々ある。しかし、茶の湯は本来、招いた客へ至高のもてなしをすることを一としているわけで、点前をだらだらとやっていては話にならない。点前は美しく、丁寧に、速やかに行わねばならない。いざ茶室に入って、点前を始めたら客を待たせてはいけないのだ。花月を演って修練することは、今後の私の点前において極めて有効であろう。初釜まで、ほぼ毎日稽古しているが、当日はどうなることか。いろんな意味で楽しみにしている。今年も心より茶道に想いを寄せてきた。今の私には、一番必要な大切な道である。

深川八幡に奉ずる文

年の瀬には奇怪な事件が多いが、今年の暮れも実に不気味、不愉快、不謹慎な事件が起きてしまった。事件の舞台が、深川の八幡様として四百年近くも庶民から崇敬されてきた富岡八幡宮で、その宮司の位を巡る富岡家の骨肉の争いに呆然である。それにしても神社仏閣は、税金面で優遇されているとはいえ、相当な実入りなのだろう。都会の寺社は金回りが良い。

深川は江戸期から漁師町、職人の町としての伝統が守られて、色濃い江戸の人情味にありつける町だ。深川不動があり、永代寺、霊巌寺、深川神明があり、そして富岡八幡宮がある。かつては江戸三十三間堂もあった。此処ぞとばかりに門前仲町と呼ばれるのも至極当然である。ソウルフード深川めしも旨い。最近は自家焙煎の美味しい珈琲を飲める店も増えて人気だ。芭蕉も深川を気に入って江戸の居とした。紀伊国屋文左衛門が造り、のちに大名家から岩崎弥太郎に渡った清澄庭園は、深川の緑陰として親しまれている。近くの深川江戸資料館もコンパクトながら充実の展示で、大江戸八百八町の暮らしを体験できる。

深川には仙台堀川小名木川、大横川など江戸初期から掘削されてきた運河や堀が縦横に走り、各所に水の交差点や丁字路がある。今では埋め立てられたり、暗渠になってしまった水路もあるが、親水の町深川は、水都江戸を思い出させる。その様な深川の町並みが好きで、私も度々訪れる。徳川家康摂津国から呼んだ深川八郎右衛門に、葦生い繁る湿地帯の開拓を託した。いつしか一帯は深川村と呼ばれるようになる。江戸初期、深川は江戸の郊外であり、開墾途上の漁師町と農村であった。隅田川より以東は、「川向う」と呼ばれ、だいたい似たようなものだった。江戸湾の波打際が、門前仲町、木場、洲崎にかけての一帯で、その先が砂村であった。砂村には富岡八幡宮の元宮と云われる、富賀岡八幡宮が鎮座する。これも摂津国の砂村新佐衛門が、この地を開拓し砂村新田と呼ばれた。家康は、江戸入府に際して、三河や上方から人材を募り、未開地の開拓を託した。深川、砂村、佃島など漁師町は皆、摂津国から人を集めている。住吉三神を崇める摂津の漁師達は、漁業もよほど優秀で、新田開発にも長けた人々であったから、家康からの信頼が厚かったに違いない。彼らに任せておけば、江戸は勝手に大きくなることを家康はわかっていた。砂村には八幡社が建てられたが、すぐそばには荒川、中川、江戸川と幾筋も大きな川があり、洪水に見舞われる危険もあったため、西の深川に移築したと伝わる。深川に移築後も、砂村の鎮守としてささやかな社は残され、砂村元八幡と呼ばれた。広重の江戸名所百景にも「砂むら元八まん」のタイトルで描かれている。房総半島までみはるかす景色は、広重もう一幅の「深川州崎十万坪」とともに、いかにも広大だがもの寂しい、深川の先は江戸の果つる所であったことがよくわかる。以前、元八幡にも行ってみたが、南砂町駅から歩いて少々、今ではなかなか立派な神社で、富士塚も残されていた。

発展した深川には岡場所が現われ、公儀もそれを黙認した。深川は江戸最大の岡場所となり、一時は吉原を凌ぐほどの賑わいをみせたこともある。あまりの繁盛ぶりに、吉原から公儀へクレームが入って、一旦解散となるが、いずれどこでも遊里は不死鳥である。深川には最盛期五百人近い遊女と、三百人近い芸者がいた。深川の芸者は辰巳芸者と呼ばれた。この地が江戸城から見て辰巳の方向にあるからだ。辰巳芸者は、江戸ならではの男堅気な気風の良さが売りであり、色気よりも粋で名を馳せた。辰巳芸者は、芸は売っても色は売らなかった。今でも、その伝統を受け継ぐ人が僅かながらいると聴く。こうして深川は江戸郊外ではなくなり、両国とともに、川向う随一の盛り場として発展してゆく。明治以降、岡場所は廃れたが、少し先の洲崎弁天町(今の東陽一丁目あたり)には、明治二十一年(1888)根津遊廓が移転して、洲崎遊廓が現れた。後に洲崎パラダイスと呼ばれる不夜城は、吉原と凌ぎを削り、昭和三十三年(1958)四月一日、買春禁止法の施行に伴い、吉原とともに落城した。さすがに吉原は、手を替え、品を替えて曲がりなりにも復活を遂げたが、洲崎パラダイスは殆ど跡形もなく此の世から消え失せた。

深川は江戸以来、様々な形で庶民のための娯楽を提供してきた町である。その楽園の総鎮守が富岡八幡宮である。富岡八幡宮は正式には富ヶ岡八幡宮で、深川の八幡様と通称される。創建は寛永四年(1627)だから、さほど古い社ではないが、徳川将軍家武家からは、軍神として崇める八幡信仰が代々あって、手厚く保護をされた。先に述べたとおり、砂村の元八幡から移築されたと云われるが、横浜市金沢区にも富岡八幡宮があり、こちらから勧請されたとも聴いたことがある。私が思うに鎌倉の鶴岡八幡宮から、横浜の富岡八幡宮、砂村の元八幡、そして深川の八幡という流れではなかろうか。もっとも、江戸には多くの八幡社があるから、諸説あるのだろう。深川の町の発展とともに、ついには江戸最大の八幡社となる。江戸三大祭に数えられる深川祭は、俗に水かけ祭りと呼ばれ、神輿の担ぎ手に沿道から清めの水を浴びせる勇壮な祭だ。この社は、江戸勧進相撲発祥の地とも云われ、境内に巨大な横綱力士碑があって、歴代横綱の名が刻まれて顕彰されている。今年も稀勢の里が奉納土俵入りを行なった。

先に挙げた永代寺は、富岡八幡宮別当寺で、江戸時代は今とは比ぶべくもなく大きく、深川は神仏混淆の聖地となった。永代寺では、成田山の成田不動の江戸出開帳が、元禄から安政にかけて十一度開かれ、市川團十郎の帰依も厚く、深川は不動信仰の地ともなってゆく。明治の廃仏棄釈で永代寺は廃れたが、不動信仰は揺らぐことなく、深川不動堂として、成田山別院となった。今、永代寺も復活して高野山真言宗の寺となっているが、深川不動の塔頭かと見間違うほど、ささやかな御堂は、逆に好ましい佇まいである。

私は深川が好きだ。あの飾らない風情がたまらない。江戸下町の代表の一翼なのに、それをひけらかしていないところが、実に気持ちが良い。そんな愛すべき深川で、その中心で、なんとも凄惨な事件が起こった。哀しくもあり、またその町の顔となって地域を見守り、尊敬されなければならない人物の物騒な凶行には憤りを感じる。深川を傷つけて何とするか。卑しくも、神に仕えた身である。弁えて欲しかった。が、深川は廃れない、寧ろこれからは清浄な地となるであろう。私はこれからも深川へ参る。

班長旗

子供のいない私にとって、二人の姪っ子は可愛くて堪らない。上の子が小学一年、下の子が四歳になった。離れて暮らしているが、姪っ子二人のことは常に気にかかるし、彼女達の行く末を慮る毎日である。私は何かをできるわけではないのだが、幼き今は無用でも、いずれ大きくなった時、力になってやれる時が来るかもしれない。その時まで、私なりに力を蓄えておきたい。もっとも日々成長する彼女達の方が、私などより余程逞しく、懸念には及ばぬだろう。寧ろそれは喜ばしいことである。

上の子は小学一年生で、間もなく二学期が終わる。彼女は、毎朝徒歩で三十分ほどかけて通学している。入学してからしばらくは、近所の子らと集団登校をしていた。集団登校では、五人から十人前後が一班となり、上級生が班を束ね、下級生を引き連れて登校する。地域によって差異はあれ、日本の小学校ではだいたい何処も似た様な朝の光景だ。六年生が班長となって、一列にならんで行儀良く、整然と登校する様は、マナー知らずの我ら大人が、恥ずかしくなるほどしっかりていて感心する。かつては私もそうしていたのに、いつからか今の体たらくになったのか。大人になるとは、堕落の始まりで、堕落せぬためには、哀しくなるほどの気力を要するのだ。いつか、彼女達も、その道を歩まねばならぬのかと思うと、それもまた哀れである。

話が逸れたが、先日、姪っ子はこの集団登校から離脱する事になった。姪っ子の母である私の妹によれば、子供会をやめることにしたため、集団登校には加えてもらえないらしい。子供会は、地域によって様々な形態で活動しているが、姪っ子の学区では、夏祭やクリスマスなど年数回のイベントがあったり、保護者会や地域清掃もある。年会費もいくらか納める。この子供会に参加しなければ、集団登校にも加えてもらえず、自主登校となるらしい。妹は諸事情があり、どうしても定期清掃や会合に参加出来ない時がある。それでも一律徴収される会費のこともあり、考えた末に離脱を決めたらしい。参加は強制ではなく、自由であるから、よその家でも参加していない子供もいる。私もそのあたりは自由で良いと考える。が、一つ腑に落ちないのは、集団登校のことだ。なぜ、子供会に参加しなければ、集団登校に入れてくれないのか?誠にもって馬鹿げた話である。村八分とはこの事で、もはやイジメとしか思えない。姪っ子は、私と同じ小学校に通う。私の後輩なのだが、私が子供の頃は、子供会なんぞなかった。だが、集団登校はあった。私の記憶では、小学校が集団登校を推奨し、実行していたはずだ。 私が一年生の時は、大きな六年生の兄さん姉さんを先頭に、すぐ後ろに一年生、真ん中に二年生や三年生、そしてしんがりを四年生や五年生が務めた。決められた時間に集合場所に行くと、誰よりも早く六年生が待っていた。六年生は班長として、下級生を安全に学校へと導く。校門に入ると解散する。これが毎朝の登校風景である。六年生がいない場合は、五年生や四年生が班長となった。実に規律ある、安全な登校であった。

班長には、班長旗が授けられる。黄地に緑色の線が入った班長旗には「交通安全 〇〇小学校 〇班」と書かれている。班長旗を貰うと、細竹を良い按配に削り、旗を差し込む。常は旗を竹の棒に丸めておくが、横断歩道を渡る時などは、旗を広げてゆくのである。果たして私も、最上級生になると班長となった。班長旗を貰った日は、なんだか少しばかり大人になった気がして嬉しかった。同時に班長としての重責を感じた。思えば、責任ということを、生まれて初めて自覚したのは、班長旗を持たされた時であった。私も、後輩達を導いて一年間班長を務めた。班長は皆の手本であり、護り人であるから、学校を休むこともままならない。しっかりと体調管理をして、毎朝、班の誰よりも早く集合場所に立った。班長がいることで、下級生は安心し、また緊張感を持って歩くから、安全に登校できるのだ。親もそれを知っているから、家を出たら我が子を班長に託した。班長の歩き方、行動を下級生はちゃんと見ている。それを学び、己がモノにしてゆく。班長になることは誠実に誇り高きことであり、班長旗はその証であった。姪っ子達は、このままだと自らも班長にはなれず、班長旗を授かることはない。私にはそれが哀しい。私の子供時代は、親と学校が遠からず近からず子供をサポートした。子供会なんかなくても、学校が当たり前に集団登校をさせてくれた。それで良かったはずだ。今、なぜ集団登校をわざわざ子供会の世話にしたのか?さっぱり意味が知れない。村八分を復活させ、助長する悪しき例だと思う。何とかできぬものか、私も考えてゆきたい。

このクリスマスイブに、上の子は七つになる。昔の人々は、子供は七つまでは神様からの預かり物で、七つを過ぎて初めて、人に成ると思っていた。だから、町内地域の皆で、分け隔てなく子供を可愛がり、大切にした。皆で目配りをして、皆で育てたのである。かつて日本人に存在したこの美しく、優しい気持ちはいったい何処へ行ったのだろうか。

白河関

司馬遼太郎の「街道をゆく」は、私の旅の友である。司馬さんは世界中を旅され、大紀行を記した。司馬さんならではの視点、考えは実に興味深い。私はいわゆる司馬史観を肯定も否定もしない。司馬さんの本では、司馬さんと同じ目線で歴史を辿れば良い。ゆえに私はその間、司馬史観の虜となっているだろう。「街道をゆく」の追体験をする旅もまた心踊るものだ。司馬遼太郎という巨星の足跡も、私にとっては歴史の一頁である。印象に残る地は多いが、その一つである白河関址を訪ねることができたのは、この秋口であった。

陸奥=みちのくという響きは、まことに旅情に駆られる。そして何となく物寂しい。日本人は古くから、陸奥に畏怖と憧憬を抱いてきた。それは律令時代から未知未開の地であったから、蝦夷に対する警戒と同時に、広大無辺な理想郷を思い描いていたのかもしれない。その陸奥の入口と云われ、また多くの日本人がそう認めてきたのが白河関である。白河関より南が坂東下野、北が陸奥である。それは今も変わることなく、栃木県と福島県の県境であり、関東と東北の境である。 T君の運転で、東北自動車道白河インターから、南に八キロ程行くと、なだらかな丘陵地帯が現れる。丘陵に抱かれるようにして、今、我々は二つの白河関址を見ることができる。不思議なことに白河関址は、ひと丘越えて二箇所に在るのだ。何故か?ミステリアスな関址は私を強く惹きつける。

私たちはまず、旧陸羽街道の白坂峠に在る境の明神へ向かった。この道は、奥羽諸藩が参覲交代で通り、幕末には、会津攻めに向かう官軍が行軍した道である。そう思うと何とも複雑な感慨が湧く。この道は実に良い景観だ。丘陵に囲まれた土地には、清々しい秋の空気が揺蕩う。車は陸奥から坂東へ向かって走る。やがて緩やかなカーブの先に坂があって、鬱蒼たる森が現れた。坂の向こう側は、坂東下野である。坂のてっぺんが県境で、まさに白河と下野の境なのである。県境を挟んで各々に境の明神という社が建っている。「街道をゆく」で司馬さんも挙げられた、地政学者の岩田孝三氏の「関址と藩界」を私も読んでみた。それによれば、日本には要所要所に古関があるが、だいたい関を境に男神と女神を対で祀ってきたと云う。女神は内で国を守り、男神は外で敵を防ぐという信仰に基づくものらしい。日本の国境(くにざかい)は、峠の上や、狭隘に多く、坂と坂の合う場所が坂合と呼ばれ、境に転じた。そのような場所には手向という道祖神が祀られ、多くは男女神二つの祠があった。不破、鈴鹿、逢坂、愛発など、名だたる古関にも似たような址があり、今も名残をとどめているところもある。

 車を降りて、境の明神へ参拝する。ここに来たかった。約三十年前に司馬さんが訪れた時は、幽邃の場所だったそうだが、今は国道294号である旧陸羽街道をひっきりなしに車が走る。街道を見守り続けてきた社は、今もここに在って、境神社と称する。陸奥側に祀られている女神は玉津島明神で、紀州和歌の浦より勧進された衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)。坂東下野側の男神住吉明神中筒男命(ナカツツオノミコト)である。ことに立派に残るのが玉津島明神で、司馬さんも、戊辰の官軍も、参覲交代の諸侯も眺めたであろう美しい石垣の上に、神さびた社が建っている。亭々と聳える木立の中に、古色蒼然とした楼門と、覆堂に囲まれて三つの社殿が並んでいる。雪国ならではの珍しい様式だろう。石段は少し傾いていた。如何にも道すがらの道祖神いう、神威解けた境内に立ってみれば、立ち去りがたい思いが溢れてくる。司馬さんも「こんな良いところへ来るというのも、生涯何度あるかわからない」と書いておられるが、まったくそんな場所であった。中で私の目を惹いたのは石灯籠であった。猫額の様な小さな境内に、およそ相応しくない立派な石灯籠は異様に見えた。ここを通る大名か、白河楽翁が寄進したものか。

道を挟んで社の反対側には、白河二所之関址の碑が建っている。相撲の二所ノ関部屋は、ここの境の明神からとられたと云う。江戸中期、南部藩お抱えの二所ノ関と云う力士がいて、親方になって部屋の名として残ったと云われる。この石碑を建てたのは、かつて此処にあった南部屋という茶店の子孫石井浩然氏で、父勝弥氏の代から、「関址と藩界」の岩田孝三氏とも交流があったらしい。岩田氏と石井氏は、白河関のことを調べ、由緒あるこの地に誇りを抱き、この白坂峠こそが、古代から続く白河関であると言い続けた。 もう一箇所の旗宿の白河関は、江戸中期の白河藩松平定信によって、白河古関址とされた。以来、旗宿か白坂か、関址を巡る議論は二分する。勿来関、鼠ヶ関とともに奥羽三古関の一つとされる白河関は、律令時代に陸奥と下野の国境に置かれて、人や物の出入りを取り締まった。諸説あるが、この白坂峠の境の明神から東南へ六キロばかり行った旗宿関ノ森と云う所に、松平定信白河藩主となってから、白河古関と断定し石碑を建立する。もっとも定信は、白坂峠にも「従是白河領」なる石碑を建てているから、白坂を軽視したわけではないだろう。議論がついに決着をみたのが、昭和三十四年から三十八年にかけて行われた旗宿の発掘調査によってである。旗宿からは、土木工事の痕跡が見つかり、平安初期のものと推定される縦穴住居群、鍛冶場、土師器、陶器などが多く出土した。白河関は、いつ設けられたのか定かではないが、律令時代の終わりを前にして早くも廃れていたという。しかし、それから後も、奥州の砦として一定の役割を果たしていたと思われる。

将軍になり損ねた松平定信は、白河藩主におさまり、宿敵の田沼意次が失脚すると老中に就任した。田沼時代の粛清に闘志を燃やし、寛政の改革を行うも、それは改革ではなく、極めて保守的な武家社会のための復古政策であった。ゆえに功を見ずに、定信もまた失脚して隠居。白河楽翁と呼ばれた。名は体をあらわすと云われるが、定信という名前からして、彼が革新的な思想とは相容れない人であると想像がつく。しかし、多くのヒール役がそうであるように、定信もまた白河藩主としては名君の誉れ高い。馬産を奨励し藩財政を建て直し、子供の間引きを禁じ、養育に力を入れた。天明の飢饉では、江戸、越後、会津、大坂から米を取り寄せ、藩内の庄屋や豪農に寄付を募り、領民に配給したおかげで、白河藩は一人の餓死者も出さなかった。そして白河藩のネームバリューを高めるべく、歌枕の里として白河関を宣伝し、場所の特定をして石碑まで建立したのである。

私たちは、白坂峠から旗宿の方へ廻った。朝霧漂う狭隘の白坂峠は、陰湿な印象であったが、旗宿のあたりは、明るく開けた田園地帯で、黄金色の稲穂が重そうに首を垂れて広がっている。はるか東南には、霊峰八溝山塊が堂々たる尾根をひいて横たわる。真っ青な空と、なだらかな丘に囲まれた旗宿の里は、まさに桃源郷のように思われた。こちらにも来て良かったと私たちは異口同音した。小さなせせらぎの向こうに、こんもりとした丘があって、その中に定信が建立した白河古関の石碑があるらしい。一帯は白河神社となっていて、入口に鳥居と狛犬があるが、その向こうはまだ薄暗い闇の参道である。中へ進むと、すぐ右手に例の石碑があった。参道は長くゆるい登りになっていて、登ってみると白河神社の社殿があった。遺跡の森のてっぺんに在る不思議な神社だ。だが、参道も杉木立の森も実に素晴らしい。明るくもなく暗くもない。早朝のこととて、誰一人としていない。私たちはしばし浄域に身を沈めた。

道は神社の裏へと続いていて、土塁の尾根を歩けるようになっている。なかなかの高さで、下には濠址が確認できた。歩いてみて、かつて此処が、軍事的要塞であったことがはっきりした。坂上田村麻呂らによって蝦夷討伐がなされ、大和政権の陸奥に対する警戒は緩んだのであろう。だがその後、奥州藤原氏も、ずっと後の奥羽列藩にとっても、白河関は奥州への入口であり、第一関門と考えていたことは間違いあるまい。古代から律令時代にあった白河関は旗宿で、近世になってこの枢要な地にはやはり関所が必要とされて、白坂峠へ新関が成ったのであろう。街道は時々によって変遷し、今では陸羽街道も、東北自動車道もさらに西へと移っている。余談だが、国道4号には白河検問所があって、道路交通を取り締まっているが、検問所を作った当初は、関東から悪い人や物が東北に入らぬために設置されたという。本当かどうか知らないが、現代社会においてもなお、白河という地には関所が置かれているのだ。

都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師の有名な歌だが、能因は白河関を訪ねてはいないという逸話がある。能因は数ヶ月も家に引き篭もって、庭で真っ黒に日焼けしてから、陸奥へ行ってきたのだと言ってこの歌を披露したという。歌に対する徹底ぶりには脱帽するばかりだが、歌道徘徊ではよくあることで、望郷や憧憬が歌となり、いつの日か独り歩きを始めて名歌に育つ。やがて詠まれた場所は歌枕の地として、人びとを惹きつけたのである。西行芭蕉もそんな数寄者の一人であった。一方で、能因は実際に陸奥へ旅をしており、先の逸話の方が嘘であるという研究者もいる。事の真相はどうあれ、歌枕の地として白河関の名を高めた能因の功績は大きい。能因は実際に方々の名所旧蹟と訪ね歩き「能因歌枕」を著している。

西行は、青年時代と晩年の二度陸奥へ旅をした。そして白河関では、能因への強烈な憧れと、歌枕の地を訪ねて感慨に浸る西行の喜びと、能因が来ていないとすれば、自らは実際にここへ辿り着いたという自尊心が伝わってくる歌を詠んでいる。

白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むるなりけり

みやこ出てて逢坂越えし折までは心かすめし白川の関

現在、旗宿の白河関址は史跡として美々しく整備されており、広い公園となっている。中央には、芭蕉曽良の小さな銅像まで建てられていた。芭蕉奥の細道で、白河関の印象をこう綴る。

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心さだまりぬ。いかで都へと便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴れ着かな(曽良

奥の細道で、私はこの白河の関の文章が殊の外見事であると思う。ここでは芭蕉自身の句ではなく、曽良の句を入れたのは、当時はすでに大歌枕の地であった故の感慨と、当代一の数寄者としての拘りの遠慮があったのでないか。芭蕉白河関への憧れを多分に抱いて、足を踏み入れたに違いないのである。人はあまりに感動したり、積年の思いが果たせた時は言葉が出ないものだ。芭蕉にとっては白河関はそういう場所であった。その点、師に寄り添う曽良はクールでもあり、師よりも自由闊達に、また素直に詠む人であった。さらには、これまで坂東を北へと向かって歩き、いよいよ此処から「奥の細道」が始まるという覚悟が、芭蕉の旅心を定めた。松尾芭蕉という人は、実際真面目そのものであった。

芭蕉奥の細道白河関の一節で、この地の歌枕をいくつか例に取り上げて文章にした。

「いかで都へ」とは、平兼盛の、

便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと

「秋風を耳に残し」とは、先に挙げた能因の歌。

「紅葉を俤にして」、「青葉の梢なほあはれなり」とは、源三位頼政の、

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関

卯の花」とは、藤原季通の、

見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関

「雪にも越ゆる」とは、久我通光の、

白河の関の秋とは聞きしかど初雪分くる山のべの道

これでもかと白河関を歌枕にした例を挙げて、この場所に対する並々ならぬ思慕が感じられる。芭蕉はこの先の須賀川まで行って、ようやく興奮が沈静したのか、土地の俳人等窮に「白河関ではどんな句ができたか」と訊ねられて、こう詠んだ。

風流の初めや奥の田植うた

いにしえの数寄者たちへの澄み渡る尊敬と、自らはそれを超越したと、いささかの疑念なく得心したやもしれない。芭蕉はここで豆柄から弾けて、いよいよ奥の細道へと分け入っていった。

私たちは、芭蕉曽良の像の傍らにある日当たりの良いベンチに腰を下ろして、おにぎりを頬張った。急きょコンビニで調達したおにぎりだったが、悠久の白河古関にて、黄金田を吹き抜ける爽やかな風に吹かれながら食べたおにぎりは、美味かった。