弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 白水阿弥陀堂

今年は春があっという間に過ぎ去り、はや初夏の陽気。桜花の余韻に浸ることなく、若葉も青葉へと変わった。梅雨明けも早いと予想されており、関東は昨年冷夏であったが、どうやらこの夏は長くなりそうだ。 四月半ば、私はかねてから気になっていた福島県いわき市の古寺を訪ねた。そこは満々と水を湛えた蓮池があって、藤原時代の端正な御堂が絵の様に美しいところだと聴いていた。福島県で唯一の国宝建造物という白水阿弥陀堂である。友人のI子さんを誘って、東京駅から早朝の高速バスでいわきへ向かう。東北も桜前線の到達は早かった。たださえ温暖ないわき市ゆえ、花は期待していなかったが、駅を降りると、やはり東京よりも冷んやりとしている。ジャケットとベストを着ていても肌寒いくらいであったが、菜の花は今が盛りと咲き乱れ、山桜や八重桜は残んの花で迎えてくれた。躑躅は咲き始めといったところで、古寺へ向かう川筋は、花の色香に咽せる様であった。何処からともなく、雲雀や鶯が競うように鳴いている。図らずも今年の春爛漫は、このいわきの地で堪能することになった。

白水阿弥陀堂を知ったのは、五木寛之さんの「百寺巡礼」だ。私は五木寛之さんを愛読している。五木さんの人生観、歴史観、世界観、宗教観、語り口、そして何よりもその文章には強く惹かれるところがある。五木さんは終戦平壌で迎えて、幼い弟の手を引いて三十八度線を命懸けで越えた。それは筆舌に尽くせぬ、封印したい苛酷な戦争体験だ。五木さんはあの経験を生涯背負って生きている。五木さんの文章、語り口には、あの時止むを得ず現地に置き去りになった人々への贖罪と、自分を残して先に旅立った家族や友人への鎮魂の気持ちが溢れている。数々の五木作品は、自らの哀しい記憶を止めるためであり、同時に今を憂いつつ、私たちが過去を顧みて現代社会を生き抜いてゆくための道標のように私は思う。それは紀行文にも垣間見られる。五木寛之さんは偉大なる旅人だ。私は尊敬してやまない。五木さんの歩いた旅先には外れがない。その足跡を訪ねることも、私の旅になっている。数々の紀行文の集大成と言えるのが、「百寺巡礼」であろう。今から十五年ほど前、二年間で五木さんの選んだ百の古寺を訪ねる旅で、紀行番組としてテレビ放送もされた。魅力ある百の寺のいくつかを私も訪ねているが、そのひとつが今回訪ねた白水阿弥陀堂である。

 いわき駅から常磐線で一駅、内郷駅で降りる。駅から寺までは、のんびり歩いて三十分ほど。ちょうど良い散歩道だ。現在いわき市は、平成の大合併福島県最大の広い町になった。いわき市といえば、かつては常磐炭鉱で栄えた町である。その痕跡は町のあちこちに見られる。白水阿弥陀堂のすぐ近くにも、弥勒沢炭坑の跡があって、日本を高みへと押し上げてくれた常磐炭鉱の残照を見る様である。新川という小川に沿って住宅地を抜けると、低い山に囲まれた白水町広畑という集落に入ってゆく。周りは山というよりも、なだらかで少し高い丘陵といった感じだ。私が驚いたのは、この山の一座一座が、蓮の花弁に見立てられて、その中に寺が建立されているということだった。中に入ってあたりを見渡すと、成る程と実感する。昔の人は何という稀有な浪漫に溢れていたか。そして、それを本当に実行したのだから、凄いとしか言いようがない。やがて朱塗りの橋が見えてきた。これが新川に架かる阿弥陀橋で、橋の正面に経塚山という山があって、その麓にこじんまりとした美しい御堂が現れた。私たちは、この山里に静謐に浮かぶ御堂に感動して、溜息を漏らした。

広い池に囲まれた境内には、朱塗りの二本の橋が架かっていて、真ん中に小島を挟み、一番奥に阿弥陀堂が厳かに佇んでいる。この日は土曜日であったが、人は疎らで静かであった。時々、池の水面をそよ風がすうっと吹き抜ける。実に心地良いところだ。 藤原時代の浄土庭園は、宇治の平等院や、平泉の毛越寺などが有名だが、ここも地形を活かして巧みにつくられている。浄土庭園は、池を配して手前が此岸、奥が彼岸とされる。彼岸には阿弥陀如来を祀る御堂がある。私はこうした浄土庭園が好きで、方々訪ねている。殊に当尾の浄瑠璃寺や、金沢文庫称名寺は周囲の風景からして往時の面影を多分に残していて、昔の人の壮大な思想と宇宙観に触れる想いがした。白水阿弥陀堂もまた、新たに出会えた本当の浄土であった。 現在、白水阿弥陀堂は、真言宗智山派の願成寺という寺の塔頭で、寺の本坊は阿弥陀堂から西へ少し入った小高い丘の上にある。さらに南の山上に不動堂など山の坊があるが、やはりこの寺は阿弥陀堂と浄土庭園が中心だ。

平安末期にこの地を領した岩城則道という豪族に、奥州藤原氏から徳姫が嫁いだ。徳姫は藤原清衡の娘とも、秀衡の妹とも云われるが、確かなことはわからない。だが、奥州藤原氏の一族であることは、彼女が開基となったこの寺がよく示している。寺名はもとは白水寺と称した。白水は平泉の泉の文字を、二つに分けて名づけたという説がある。永暦元年(1160)、徳姫は急逝した夫の菩提を弔うため、阿弥陀堂を建立。堂宇は中尊寺金色堂、庭園は毛越寺の様式を踏襲した。本尊の阿弥陀如来像も中尊寺金色堂阿弥陀如来像とよく似ている。徳姫の夫の菩提を弔うのみならず、平泉への望郷の念が、阿弥陀堂とこの境内に揺曳しているような気配が漂う。寺の脇に常磐神社というささやかな社があり、徳姫が祀ってあるが、夫の菩提と平泉への望郷の他にも、徳姫には想うところがあった様な気がする。もしも源平合戦から奥州藤原氏の栄枯盛衰までをつぶさに見たとすれば、諸行無常を嘆き、奥州藤原氏滅亡の無念と、すべての死者への供養を阿弥陀如来に祈ったであろう。

阿弥陀堂は今は前面と両側面が池だが、かつては四周蓮池であった。あたかも蓮の中に浮かぶようで、蓮池の御堂とも呼ばれたという。夏の盛りにはたくさんの蓮が花開くというが、この日はまだ泥中で、枯れた蓮の葉の下からは、目覚めた蛙の大合唱が響き渡る。蓮はまことに仏教と関わり深い花だ。五木さんの本で知ったことだが、現在の白水阿弥陀堂の蓮は、彼岸側ではなく、此岸側に咲くということだ。五木さんは、今、私たちのいる此岸にこそ、泥中より咲く蓮華があるのではないかと言われるが、まったくその通りではないかと思う。阿弥陀如来は彼岸から慈悲深く見守ってくださっている。いつか「南無阿弥陀仏」と旅立つその時に、来迎くださる阿弥陀如来。しかし実は、現世を生き抜く私たちのすぐそばに、阿弥陀如来は蓮華とともにいつでもおわすのである。ここへ来てそれを実感することができた。中尊寺金色堂の発掘時に、八百年前の古代蓮の種が見つかり、見事に発芽し華開いたことは有名だが、その時の古代蓮が白水にも根分けされて、今、阿弥陀堂のすぐ傍で、盛りの頃に咲くのだという。この蓮だけが彼岸側にあるのも興味深い。

阿弥陀堂内部に入る。透かし彫りの飛天光背、九重の蓮華に座す阿弥陀如来は、藤原時代を代表する定朝様式に違いないが、線は幾分細く、体躯もがっちりではなく撫で肩で、まことにたおやかな印象である。金箔は剥落して黒々とした艶がでているところが、中宮寺弥勒菩薩の様でもあり、私は日本一艶美阿弥陀如来だと思う。脇待の観音と勢至両菩薩、持国と多門両天にも凛とした気品を感じる。仏師はいったい誰なのだろうか。都や平泉から呼び寄せたか、或いはこの地にも畿内や平泉に負けない仏師がいたのかもしれない。いずれにしろ、この地にも仏教文化がしっかり根差していたのは間違いない。この阿弥陀堂と堂内の仏像こそが、その証拠である。日本の阿弥陀信仰の第一次ブームは藤原時代である。白水阿弥陀堂の本尊も、その時代の最高傑作のひとつだろう。寧ろ阿弥陀如来像は藤原時代がピークであって、その後はさほどのものは出ていないと思う。その貴重な遺産が、今では蓮の咲く頃や、紅葉の時期以外はさほど訪れる人も少ない山里の阿弥陀堂にひっそりと安置されている。阿弥陀堂の内部は常行堂になっていて、かつては極彩色で彩られていた。格天井は宝相華、柱には十二仏、壁には極楽浄土が描かれていた。その一部が目も眩むほど鮮やかな色彩で再現されているが、往時、この御堂に辿りついた人々は、真に極楽浄土を見たのである。

およそ八百六十年も此の地にある阿弥陀堂は、奥州藤原氏の滅亡、岩城氏の衰退で存亡の危機に陥っても、地域の人々に大切に守られてきた。さすがに明治の廃仏棄釈では危うい時期もあったに違いないが、それも乗り越えた。しかし、明治三十六年(1903)台風で倒壊してしまう。それを機に、愛された阿弥陀堂は解体修理が行われ、茅葺だった屋根は柿葺の一種の栩葺(とちぶき)に改修された。東日本大震災では、倒壊こそしなかったが、このあたりは相当な揺れが襲い、阿弥陀堂も修繕が必要となったが、不死鳥のように復興した。きっと、いわき市福島県の人々にとっても、白水阿弥陀堂の復興は励みになり、喜びであったに違いない。東日本大震災では、老若男女、動物も植物も、山も海も川も、とてもつもなく恐ろしい経験をした。そして、夥しい数の人、動植物が亡くなった。その慰霊を東北の寺は一身で背負っている。この白水阿弥陀堂もまた然り。

今、いわき市は実に見所が多い観光都市である。陸奥三古関のひとつ勿来関美空ひばりの名曲みだれ髪の舞台塩屋埼、福島のベイエリア小名浜港と、そこに建つ巨大な水族館アクアマリンふくしまいわき湯本温泉もある。余談だが、競馬ファンには馬の温泉として知られている、競走馬リハビリテーションセンターもいわき市にある。怪我をした競走馬が、心身を癒す温泉完備の施設だ。炭坑で大きくなった町は、炭坑閉山とともに寂れかけたが、いわきの人々は見事に県内随一の観光都市に生まれ変わらせてみせた。その最大の功績は、何と言ってもスパリゾートハワイアンズだろう。かつての常磐ハワイアンセンターで、このリゾート施設のおかげで、いわきは有名になった。さらに、そのハワイアンセンターと炭坑が舞台となった映画「フラガール」がヒットし、全国区に押し上げたのである。フラガールたちの活躍は、東日本大震災の復興にも一役も二役も買っている。 いわきも福島。辛抱強く、粘り強く、逞しき人々なのである。我々は見習わねばならない。

帰り道、阿弥陀堂のすぐ近くに震災の仮設住宅を見つけた。実に簡素に作られた住宅には、今は人の気配はしなかった。ここから北へ数十キロに、福島第一原発がある。震災から七年を経ても、あの出来事は生々しい記憶だ。この地の人々はそれを目の当たりに体験し、原発周囲の人々をもっとも多く受け入れてきた。ほんの少しずつではあるが、この町を離れて、元の家へ帰っていく人、福島を離れてまったく知らない土地へ移る人。今、動き出しているところもあると聴くが、あの日以来、すべてが止まってしまっている人もまだ大勢いるのだ。そして現場では終わりの見えない廃炉作業が続いている。私たちは、目の前の暮らしで精一杯の人がほとんどであることも事実だ。が、心の片隅にでも忘れてはいけないことがある。震災や戦災の記憶である。それを引き摺ったままの人や町があることを忘れてはならない。福島県いわき市白水阿弥陀堂を訪ねて、その思いを噛み締め、心新たにした次第である。次は、蓮の花が咲き誇っている頃に、ぜひとも訪れてみたいと思う。

こいのぼり 

少年の頃、端午の節句になると、私は空ばかり眺めていた。こいのぼりが大好きだったから。何故好きだったのか?明確な答えはない。まことに漠然としているが、力強く空を泳ぐこいのぼりに、私も金太郎のように掴まっていたいという想いを抱いていたのではないか。人は誰でも一度や二度、大空に憧れるであろう。空を飛べない人間の究極の欲望とは、つまるところ舞空なのだと思う。人が鳥、雲、星、飛行機に憧れるところを、私を空へと誘うのはこいのぼりであった。

小学三年生くらいまで、こいのぼりを揚げることを楽しみにしていた私を、親や祖母は幼稚であると嘆いた。それに世間体も気にしたのだろう。世間一般にこいのぼりは、男子が産まれてから五歳くらいまで揚げるもので、小学生になっても揚げる家などないからだ。しかし私は気にしなかった。そんな私を祖父だけは許容してくれた。祖父の家は広い庭があって、好きなところにこいのぼりを揚げることを許してくれた。当時祖父は、少しばかり山林も所有していたから、山へこいのぼりを揚げる竹を伐りに連れて行ってくれた。こいのぼりを揚げるには、かなり太く長い竹が必要である。近年では、鉄やステンレスの棒で代用するようだ。その方が竹よりも頑丈だが、やはりこいのぼりには昔ながらの太い節のある青竹が似つかわしい。祖父は鉈を持って、器用に山へ分け入った。そして毎年見事な青竹を見つけてくれた。おそらく祖父は、杣道の手入れも行なっていたに違いない。祖父との山歩きは、こいのぼりを揚げるのをやめても、中学一年くらいまで続いた。懐かしく楽しき想い出だ。

伐ってきた青竹のてっぺんには矢車を嵌め込む。矢車は、風車のように回転して格好良いが、別になくても良い。矢車は時に、吹流しやこいのぼりを巻き込んでしまうこともあって、そうなると滑車で降ろすことができなくなる。仕方がないから、節句が終わるまで放っておくか、いったん竹を倒して縺れを解くしかない。戦後の日本のこいのぼりは、概ね一番上に吹流し、順に真鯉、緋鯉、その後は子供の鯉を揚げるのが一般的であろう。最近では金銀あったり、色とりどり、奇抜な柄やデザインも増えている。さらにはこいのぼりに家紋が入っていたり、金太郎がしがみ付いた真鯉があったり、こいのぼりの隣に武者幟を揚げる金持ちもいる。金持ちというよりも、おそらくは可愛い孫のために、祖父母や親戚が競って豪華なこいのぼりをはためかせるのであろう。それこそが自慢であり、愛情の賜物といえよう。母に聞いたが、私も生まれた時に揚げてもらったこいのぼりは、真鯉が七メートルもあって、緋鯉、子鯉もたくさん連ねたそうだが、残念ながら、物心ついた時にはそのこいのぼりは何処へか失くなっていた。私が小学生になって揚げていたこいのぼりは、あらためて買って貰ったり、人から譲って貰ったこいのぼりであった。

こいのぼりは何といっても真鯉である。真鯉は別格の存在であり、こいのぼりは真鯉だけでも良いのである。どの家でも真鯉だけは、特別なものを揚げたいはずだ。金色に輝く真鯉もあれば、鱗が鶴の錦模様になっているもの、先に述べた金太郎鯉もある。私がこれまでに見た一般家庭のこいのぼりで、もっともその豪華さで感動したのは、地元の某市長が孫のために揚げていたこいのぼりであった。私の家から目と鼻の先にあったので、毎日見に行ったものだ。こいのぼりを挟むように二本の家紋入りの武者幟があり、黄金の矢車に、鮮やかな吹流し、十メートルはある黄金の鱗の真鯉と、螺鈿色の鱗の緋鯉、その下に普通ならば真鯉であろう鶴の鱗の金太郎鯉、そこから下は子供の錦鯉が二筋に分かれて五匹ずつ、吹流しを入れたら十四匹ものこいのぼりは、幼心に焼き付いて離れない。あれほどの高さの青竹をどうして調達したのかもわからないが、その華麗さと、風を全身に吸い込んで大空を泳ぐこいのぼりに、私は恍惚とした。

鯉幟は我が国独自の風習である。端午の節句に揚げるようになったのは、江戸時代中頃からだという。元々は鎌倉時代に、武家の武運長久と嫡子の健やかな成長を願い、武者飾りをしたのが、日本での端午の節句の祝いの始まりとされる。今でも端午の節句には菖蒲湯に入る人が多いが、花菖蒲は端午の花であり、一説では菖蒲を尚武とかけ、菖蒲の葉を刀剣に見立てて、男子の節句になったとか。それが江戸期になってさらに発展し、庶民の間でも、雛祭り同様に端午の節句も盛大なイベントとなってゆく。鯉は滝を昇り、長寿で生命力漲る魚である。滝を登った鯉は龍になるとも云われた。鯉のように力強く、逞しく育って欲しいという願いが、鯉幟という形になって込めらていったのである。鯉幟は幕末までは江戸を中心に関東の風習であって、上方では武者飾りをし、柏餅は食べたであろうが、鯉幟が上がるのは明治以降、盛んになったのは戦後かもしれない。元来鯉幟は和紙で作っていたが、後に風雨に強い様々な布地になり、時代が降るにつれて絹などの高価なものも作られたが、今ではナイロンが主流になっている。が、やはり伝統的な和紙や絹で仕立てた鯉幟は美しい。日本の伝統美のひとつである鯉幟が、もう少し世に脚光を浴びるために、私なりにその素晴らしさを伝えてゆきたい。

広重の江戸名所百景「水道橋駿河台」は、まさに端午の節句闌の江戸市中が描かれている。目の前に逞しい真鯉がどんと描かれており、神田川の向こうは奥へ奥へずっと、武家屋敷や商家がこぞって鯉幟や幟旗を揚げている。そして最奥にはそれを見下ろす富士のお山。広重らしい大胆な構図と、見晴るかす圧倒的な空間美は、今に見ぬ和やかな江戸市中の喧騒が聴こえてきそうである。この絵をみていると江戸の薫風が漂ってくる。どこまでも広く高い江戸の大空は、見る者を捉えて離さないであろう。

端午の節句の江戸市中は、広重の絵の如く、まことに壮観であったに違いない。最近はどこへ行ってもこいのぼりを見かけなくなった。東京のようなビル群の只中では望むべくもないが、広い空のある田舎でも、私の小さい頃に比べたら、皐月の空も寂しくなったものである。こいのぼりは今、絶滅の危機に瀕しているといっても、決して言い過ぎではあるまい。新緑眩しい頃、日本の空には色鮮やかなこいのぼりが似つかわしい。こいのぼりが廃れないように、これからも影ながら見守り、私なりにその魅力を伝えていきたい。私のささやかな願いである。

青春譜〜吹奏楽の魅力〜

私は中学、高校と吹奏楽部に所属した。私にとっての吹奏楽は、人生でもっとも多感な時を、寄り添うように共に歩いてくれた影のような存在である。思春期、私は己が境遇を逆恨みしかけそうになった。だがそうさせじと、守り育ててくれたのが吹奏楽であった。本当にこう言って過言ではないのである。ありきりたりの言葉しか思い浮かばないが、私は吹奏楽に青春を捧げたのである。

予々書いてきたが、私は物心ついた時分からクラシック音楽に惹かれた。ピアノを習ったり、カラヤンに憧れて、ベルリンフィルのレコードを買って聴き惚れていた。クラシック音楽は誰の影響でもなく、自ら好きになった。南九州の田舎育ちで、当時は近くにオーケストラはなく、生で音楽を聴く機会は滅多になかったが、無心でレコードやCDを聴いたものである。管弦楽をライブで聴くのはずっと後のことであるが、吹奏楽との出逢いは早い。小学一年くらいの頃だと思うが、十歳以上年長の従兄弟が、高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いており、アンサンブルコンテストを見に行ったのをかすかに覚えている。が、従兄弟が演奏する光景のみ覚えていて、音楽はまったく覚えていない。同じ頃、今度は陸上自衛隊の駐屯地の祭に行った時、音楽隊のパレードや演奏を聴いた記憶があるが、当時は音楽隊よりも、間近で見た戦車の方に関心があった。音楽隊の方はなんとなく覚えているだけである。余談だが、自衛隊の音楽隊は大人になってからは親しく聴いている。競馬場でダービーや天皇賞の時にファンファーレを演奏したり、昼休みにはコンサートを行うからで、何度聴いたかわからない。競馬場にいる競馬ファンは、予想に熱中しており、音楽隊の演奏にはほとんど無関心だが、私はいつも楽しみに聴いている。小学五年頃、近くの中学の吹奏楽部が小学校の体育館で演奏会を開いた。さすがにこれははっきりと覚えていて、忘れることができない。普段、レコードやテレビで聴いたり観たりしていた金管楽器木管楽器が、目の前でキラキラと輝いている。楽器を見ているだけで、私の胸は高鳴った。そして、指揮者がタクトを振ると、楽器たちは物凄い音で私に迫ってきた。全身浴びるが如く。音楽を聴くとはこうしたことなのか。たかが中学校の演奏でも、当時の私にすれば心震わせる出来事だったのである。およそこれが音楽初体験で、少年の私は感動し、興奮した。その日以来、すっかり管楽器と吹奏楽に魅了されてしまった。

中学では迷わずに吹奏楽部に入部した。ブラスバンドとかブラバンと呼ばれて、カッコイイとも思っていた。中学では始めに先輩からパートを選んでと言われた。私はクラリネットかサックスを希望したが、男子はできれば金管やパーカッションをやって欲しいと言われた。パーカッションも魅力的であったが、どうせなら金管でメロディを奏でたいと思っていたので、トランペットを希望した。今では木管金管で男女の隔たりなどありはしないが、当時は田舎のこととて、木管は女子、金管は男子という暗黙があったように思う。それは肺活量も考慮してのことだったのかもしれない。かくして私の吹奏楽は、トランペットから始まったのである。しかし・・・。このあといろいろあるのだが、その事は次回に。

最近しきりに昔の事が思い出される。若い頃好きだった音楽を聴いて、追憶に耽ることも増えてきた。私も歳をとったものである。そこでふと考え始めたのが、私の青春とは何ぞやということだ。歴史や文学を私なりにやってきたが、それは私の人生そのものと思っていて、青春とは少し違う気がする。今、茶道にのめり込む日々を送っているが、それは四十を過ぎて始めたことで、若い頃に始めたら良かったと少しの後悔もある。私には青春などあったのだろうかと思ったりもしたが、よくよく振り返ってみれば、それはやっぱり吹奏楽であったと思う。いや吹奏楽しかないではないか。これからしばらく月に一度、青春譜と題して、私の経験した吹奏楽と想い出を、吹奏楽への想いを、吹奏楽の魅力を、多角的に存分に綴ってみたいと思っている。

桜花ふたつ

五年前に母の愛犬が死んだ。九年生きたチワワが盛夏に、その秋には十三年生きた柴犬が相次いで逝ってしまった。母はすっかり落ち込んでしまったが、二歳の孫娘と、チワワが死んですぐに生まれた二人目の孫の世話や心配に明け暮れる日々が続き、悲しんでばかりもいられぬ状況でもあった。孫たちが愛犬の死の悲しみを癒してくれたことも事実である。しかし、孫たちが成長し、手がかからなくなってきた最近は、再び長年可愛がっていた愛犬の事が頻りに思い出されるようである。時を経て癒されかけていた悲しみが、時折込み上げてくるのは、母が年老いた所為もある。さらに昨年、祖母も亡くなって、余計に寂寥感が漂い、何かにつけて愛犬の事も追憶してしまうのだ。孫が生まれてからは、「ろくに犬たちの世話をしてあげられなかった。」と言い、「あの時ああしておけばよかった、そうすれば死なずにすんだのかもしれない。」と思うこともあるようで、私は母からそういう話を聞くたびに、「あの子達はあんたには感謝しているはずだよ。ごはんをくれて、いつも傍で可愛がってくれたことをよく覚えているはずだから。」と慰めた。それでも母の気持ちは晴れずに靄っている様であった。母は愛犬二匹を懇ろに弔い、庭の日当たりのよい場所に墓を作った。カトリック教徒である母は、墓に十字架を立て、朝晩祈りを捧げている。昨年亡くなった祖母や、数年前に亡くなった祖父や母の兄に対する、祈りとまったく同じように祈るのである。やはり何年も可愛がっていた小鳥や、二十年以上前に私が飼っていた犬に対しても、同じように祈っている。思えば、母は私の身近でもっとも祈りの人である。決して敬虔なクリスチャンというわけではないが、もう三十年以上、どんなに体調が思わしくなくとも、朝晩の祈りを欠かさない。

愛犬の死の冬、母は彼らの墓に桜を苗を植えた。八重桜である。細い幹の桜の木は、成長も遅く、母の背を越すのに三年かかったが、この一年で急激に成長し始めた。今や背丈は二メートルほどになったと云う。桜の植木から、いよいよ桜の木になり始めたのである。しかし花はいつのことやら、この二月頃に電話で聞いても、「まだまだ咲かなそうだよ。」と言っていた。が、突如一本の枝の一部が鮮やかに赤くなり、蕾が現れたのである。四月に入ってからのことで、八重桜は大島桜やソメイヨシノよりも少し遅れて咲くが、母は今か今かと待ち焦がれていたので、まさに覚めても胸のさわぐなりけりといった心境ではなかったか。

この三月末から日本列島は相当に暖かい日が続いた。桜前線はあっという間に北上してゆく。東京のソメイヨシノも開花発表から三日で満開、花冷えもなく、一週間と持たずに散っていった。こんな年も珍しいが、パッと咲いて、サッと散りゆく花を名残惜しむ心地はやはり名状し難いものがある。一方で近頃の私は、桜の便りを聴くと、少し陰鬱な気分になる。花粉症のピークと重なることや、嫌いな暑い夏がやってくると思うと、うんざりするからだ。業平や西行のように一途に純粋な気持ちであれば良いのだが。

果たしてこの春、母手植えの八重桜はついに花を咲かせた。それもたった二輪だけ。その二輪がまことに健気に見えて美しい。まるで、五年前に逝った愛犬が二匹で寄り添うが如く、たった二輪だけ咲いたのだ。これには、母も私も深く感じ入ってしまった。私には霊能力など微塵もないが、実は今年なんとなく花が咲く予感がしていた。それは昨年、母の母である祖母が亡くなったからだ。亡くなった祖母が咲かせてくれそうな気がする。母にもそう言っていた。花が咲いてそれは確信になった。このところ体調不良が続いて、老いと向き合いながら生きている母への、祖母からの励ましに思えてならないのだ。きっと祖母が咲かせてくれたに違いない。

日本人は山川草木に神が宿ると信じ、花にも心があるとして生きてきた。白洲正子さんは、夕顔と云う随筆で、夕顔の蕾が花開く瞬間を観ようと、夕方からずっと観ていたが、ついに花は開かずに蕾のまま首ごと萎れてしまったと書いておられる。三日間試したが結果はすべて同じであったらしい。花は分かっているのだ。夕顔は淑やかな花なのだろう。故に人に見つめられていると、花は開かないのだ。桜にも心がある。今年咲いてくれたのも、祖母と二匹の愛犬が、桜に成り代わって母に逢いに来たのだと私は信じている。来年はもう少し数を増やして咲くであろうか。花の命もまた短い。今朝、二輪の八重桜は散ったと云う。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(三)

渡良瀬川。美しい川の名だ。九州の田舎にいた高校生の頃から、この川の名はよく知っている。森高千里さんの「渡良瀬橋」を耳にしていたからだ。今でも冬の落日黄昏行きに、この曲を聴きながら私のあの頃を思い出すことがある。渡良瀬川皇海山を水源に、群馬県と栃木県を潤しながら、茨城県古河市にて利根川へと合流する。栃木県南西の中核都市足利は、小京都と呼ばれるに相応しい歴史と風情ある。この町が好きで、私は何度か訪ねている。私が北関東に住むならば、迷わずに足利を選ぶであろう。この町には歴史だけではなく、何故か不思議な魅力がある。そして来るたびに住みたいと思わせる風景や人に出逢う。森高千里の歌があるからだけではなく、「たそがれる」にはこれほど良い町はない。日光の峰々や赤城山から降りてくるからっ風に吹かれながら足利の町を歩くと、この町にしかない時の流れが、私の中にも徐々に流れ始め、やがて芯から満たされてゆく。都会の雑踏から離れると言っても、私などはあまりの辺境では暮らせるわけもない。都会過ぎず田舎過ぎず、ちょうど良い規模の足利の町には、どこか懐古的な情緒があって、郷里を思い出すところもある。それに相乗効果をもたらすのが、かの名曲「渡良瀬橋」。渡良瀬橋足利市の真ん中に架かる橋で、現在の橋は昭和九年(1934)架橋。鉄道橋のような見た目だが、こういう橋の構造をワーレントラス橋というらしい。橋は自動車専用だが、平行して西側に歩行者用も架けられている。二十年以上前、私は初めてこの橋を見た時、無機質な鉄骨に半ばがっかりしてしまった。渡良瀬橋の歌のイメージにそぐわぬ武骨さを感じたのだ。だが歳を重ねて、改めて渡良瀬橋を渡ってみると、なかなか格好良いトラス橋だと思い直した。夕陽の中で眺めると、あの竜の骨のような鉄骨が美しい影となって、それがかえって郷愁を誘うのである。渡良瀬川は足利のあたりでは天井川で、昔から治水には苦労したと思うが、この川がこの地を肥沃にして人々は集った。明治の足尾鉱毒事件の時は、有毒土砂が渡良瀬川を降り、折からの台風で天井川は氾濫、地域を汚染し土砂は堆積したという。鮎が大量に死に、稲は悉く立ち枯れた。日本最初の公害事件である足尾鉱毒事件の現場が、渡良瀬川流域であったことが、今は信じられないような気がする。が、東日本大震災では有毒土砂が堆積した源五郎沢が決壊し、渡良瀬川に流れ出てしまった。あの時下流からは基準値を超える鉛が検出されたのである。発覚から百年以上経過した今でも、この公害は影響しているのだ。これは完全なる人災であって、実に恐ろしいことである。人間が自滅するために、怒りし大自然が働きかけているような気がしてならない。

足利氏は、尊氏が室町幕府を開き、三代義満の時に日本史上、類を見ないほどの権勢を手中にした。義満は左馬頭、征夷大将軍、参議、左近衛中将権大納言、右近衛大将、右馬寮御監、内大臣左大臣、蔵人別当、後円融院別当、源氏長者、准三宮、淳和奨学両院別当と昇進し、太政大臣にまで昇りつめる。明王朝には日本国王であると宣言し、さらに死んだのち、鹿苑院太上天皇諡号まで贈られた。これだけの位人臣を極め尽くした日本人は後にも先にもいない。義満は花の御所と呼ばれた邸宅を禁裏の北に造営し、南面する天子をそれよりも北面から圧するかの如く支配した。足利氏の発祥の地とされるのが、ここ足利である。八幡太郎義家の四男源義国は、下野国足利荘を領した。その長男の義重は上野国新田荘を領し後に新田氏の祖となり、次男義康がここで足利を名乗り祖となった。足利氏は源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力し、北条執権時代も有力御家人として手堅くつきあい、この足利の地を治めた。足利氏は名門中の名門なのである。ゆえに鎌倉幕府が滅んで後、南北朝時代に改めて台頭した。栄枯盛衰の室町幕府が滅んでも、古河公方として上野、下野を領し、その後もしぶとく生き延びて、分家、支流に血をつなぎ、徳川時代にもそれなりに遇されている。ただし足利氏が徳川時代に領したのは、足利市からすこし離れた喜連川藩(現在の栃木県さくら市)であった。喜連川藩の石高はわずか五千石で、万石以上が大名とされた江戸幕藩体制下で、大名ではないがしかし旗本でもない、だが外様大名の格は与えらていると云う、江戸三百諸侯でもまことに特殊な家柄であった。天正十八年(1590)に秀吉の命により、足利国朝が古河公方を継ぎ、喜連川を領したのが、喜連川家のはじまりで、江戸幕府もそのまま幕末までその領地を保証した。石高は少なくとも、古河公方名跡と足利氏の由緒を慮り、破格の待遇が与えられていたのである。一方で足利も足利藩となり、本庄氏や戸田氏の譜代が治めているから、江戸幕府も枢要な地とみなしていたのだろう。

その足利氏の館跡が今では寺となっている。金剛山鑁阿寺である。鑁阿寺は、元々は足利氏の館であり、現在も堀を廻らし、石垣や土塁があったりして中世の武家の館を彷彿とさせる。建久七年(1196年)に足利義兼が真言密教の僧理真を招き、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂を建立したのがこの寺のはじまりとされる。義兼の戒名から鑁阿の字をもらい鑁阿寺となった。戦前までは真言宗豊山派に属していたが、昭和二十六年(1951)に独立し、真言宗大日派の本山となった。境内は落ち着いた堂々たる古寺であるが、外見はやはり寺という感じがしない。今では足利氏の居館として日本の名城百選にも選ばれているそうだ。鑁阿寺がことに大きくなったのは、やはり足利家が武家の棟梁となってからであろう。将軍家、鎌倉公方家から、足利家の氏寺として手厚く庇護された。正安元年(1299)に建立されて、室町期に大規模な改修が施された本堂は今や国宝である。鑁阿寺密教寺院であるが、本堂はまことに質朴で、禅宗様式が多分に垣間見られる。どこかの禅寺の仏殿のような造りであり、どこまでも坂東らしく、西国にはない唯一無二の趣きが、足利の原点となっている。西国にはないと書いたが、たしかに京都の等持院相国寺も、足利氏縁の寺は質実剛健である。鹿苑寺だって舎利殿以外は質素な佇まいであって、それが金閣を際立たせている。そして足利の無限の極致は必然的に、慈照寺銀閣を生み出したのだと思う。鑁阿寺は本堂以外にも、鐘楼や一切経堂、多宝塔もすばらしいが、何といっても私の目を惹いたのは、正面の楼門と太鼓橋である。威風堂々たる楼門と、屋根のついた優美な太鼓橋は十三代将軍義輝が再建したものらしい。私の想像では、かつて日本の市中の寺というのは、こうした佇まいをみせていたのではないかと思わせるところがある。足利が面白いのは、京都と鎌倉が絶妙のバランスで混在しているという点であろう。それは他の名だたる城下町や門前町とも違う。そして京都や奈良=天皇の御座所のある都ともまた違う。京都と似ているのはあくまでも室町幕府の周囲であろう。鎌倉は城下町にはならず、寺社は多いが門前町というわけでもない。つまりは武家地なのである。その中心が花の御所であり、大倉御所であった。足利もそれに習い踏襲されて、町が造られていったのではないかと思う。或いは鎌倉や京都がそれに倣ったのかもしれない。いずれにしろ昔も今も足利の核は、この鑁阿寺なのである。

鑁阿寺にほとんど隣接して足利学校が在る。ついでに寄ってみた。足利学校は日本最古の学校として有名だが、私は何度か足利に来ているのに、これまで機会がなく入ったことがなかった。鑁阿寺と並ぶ足利観光のハイライトで観光客が多い。足利学校は、奈良朝末か平安初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられるが、明らかでないらしい。確実なのはやはり室町時代になってからで、永享四年(1432年)、関東管領上杉憲実が足利を治めるようになり、衰退していた学校再興し、鎌倉円覚寺から僧快元を招いたり、蔵書を寄贈した。その結果、北は奥羽、南はなんと琉球まで、学徒が集まり、足利学校は東国最高学府としてその名を馳せた。上杉憲実は実に熱意溢れる儒学教育者であった。特筆すべきは、文安四年(1447年)に足利学校で教えるべき学問は、三註、四書、六経、列子荘子史記、文選とし、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであるとしたことだ。教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。足利学校の教育の中心は儒学であって、それを象徴する孔子廟が中央に在る。快元が易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。校内には菜園や薬草園もあり、学校と、近隣の民は互恵関係で結ばれていたのだろう。足利の民はこぞって学生を支え、学校が在ることを何よりの誇りとしたに違いない。一時は三千人もの学生がいて、足利は足利学校によって盛況した。この頃の足利学校の様子を、フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして、最も有名な坂東のアカデミー」と記している。ザビエルが足利学校を訪れたのかは知らないが、日本人の気質を気に入り、褒め称えているザビエルは、日本人の教育にも関心があったに違いなく、足利学校の噂を聴いていろいろと調べていたのだろう。ザビエルによって南蛮にまで足利学校の名が伝えられたのは確かだと思う。天正十八年(1590)の秀吉による小田原征伐で、後北条氏と繋がる足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。衰退極まれりというところで、家康の保護を得て息を吹き返した。江戸期には足利学校へ百石の所領が寄進され、代わりに毎年正月にはその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出した。足利藩になってからも足利近郊の人々が学ぶ郷学として親しまれ、足利は名だたる文教の町になる。だが、朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また天下泰平となって易学、兵学などは学問として衰微していった。しかし江戸期の学者たちが、足利学校は貴重な古典籍を所蔵する図書館として注視しており、それを受けて幕府も足利藩に学校を存続させたのである。明治維新後、廃藩置県を経て廃校。足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により蔵書と孔子廟を含む旧足利学校の西半分が、県から地元に返還され、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立した。大正十年(1921)年にようやく足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は、国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。そしてついに平成二年(1990)に建物と庭園の復元が完了し、往時の美しくも偉大なる足利学校が現出したのである。入徳門という正門を入ると、美々しい石畳の道がまっすぐと孔子廟まで続いており、ちょうど真ん中に有名な「校學」の扁額を掲げた学校門がある。かつて日本の雄藩の城下町にあった藩校は、規模は様々であるが、もしかすると足利学校を手本としたのではあるまいか。方丈などはまったく禅寺のようだが、これが日本の学府のもっとも古典的な佇まいではないかと思う。広々とした庭園からは足利の周囲の山々を遠望できて、実に懐古的な気分に浸ることができる。足利学校は、成立の時期が曖昧で、かねがね論争になってきたが、いずれ上杉憲実が整備した学校であろうと私は思う。が、そんなことは歴史家の考証に任せればよくて、個人的には文教の町として、何とも清浄な空気というものが、この足利学校から足利の町へ、沁み渡っているように思った。足利市は学び舎の町である。

 足利市街を離れて、北の山中や山麓にも古寺が隠れている。有名なのは、関東の高野山とも云われる浄因寺だが、此度は時間がなくて断念。しかし、匹敵するほどの古刹鶏足寺へ行ってみた。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建されたと云う。実に千二百年以上もの歴史ある寺なのに、あまり知られていないところが、私には好ましかった。建立からしばらくは世尊寺と号し、天台と真言の兼学道場であったと云う。天慶二年(939)、将門の乱が起こり、藤原秀郷が鎮圧に赴く。世尊寺の住持は秀郷の勝利を祈願し、密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷した。が、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに将門の乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であるとされる。文永六年(1269)下野薬師寺の慈猛(じみょう)を迎え、真言宗慈猛流総本寺となり、往時は末寺三千もあったと云う。密教の道場として栄えていたのだが、先に挙げた浄因寺にしろ、ここ鶏足寺にしろ、下野は紀州高野山とは何か対角的な真言密教の聖地とされたのであろうか。思えば、下野には天下の三戒壇のひとつ下野薬師寺があり国分寺もあった。中世以前、東国坂東においては下野こそが、政治も、宗教も、文化も中心地であったことを示している。真言密教もこの地に根差す下地のようなものはあったに違いない。鬱蒼たる森に囲まれてひっそりとある鶏足寺は、竹林があり、池があり、桜や楓もさりげなく植わっていて実に雰囲気のある寺である。山門を潜ると長い杉木立の参道で緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのものであって、歩いた人々の足跡が残っていた。寺の正面は石垣に囲われていて、出城か砦の様にも見える。勅使門を入っても境内には誰一人いなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりだが、殊に閻魔堂のあたりは雰囲気が良い。まことに閑寂な今の鶏足寺に、私は魅せられてしまった。さらに奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日も傾きかけたこの時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。そういうこの世ならぬ、ただならぬ雰囲気に充ちた境域は、いかにも真言密教の寺らしいと思ったりした。

知人のKさんに足利に行くならついでに、隣の群馬県太田市にある「どんりゅうさま」にも行ってみたらと言われた。「どんりゅうさま」。恥ずかしながら私は此度初めてその名を知ったのだが、「どんりゅうさま」とは戦国時代から江戸初期の僧呑龍上人のことで、この地域の人々には今も厚く信仰されていることがわかった。慶長十八年(1613)、家康が自らのルーツとし、徳川の祖の一人として中世に上州を領した新田義重を祀る寺として、呑龍を招いて開山した寺が浄土宗義重山大光院新田寺である。この寺が呑龍さまと呼ばれて親しまれているのだ。果たして呑龍さまは、徳川の威光を見せつける大寺であった。だが、至る所に呑龍上人の名を刻んだ碑や板が掲げられていて、東京の増上寺や、京都の知恩院に比べたら徳川色は薄く、むしろ呑龍上人一色の寺であった。境内の一番奥には、新田義重と呑龍の墓がある。呑龍は、弘治二年(1556)武蔵国埼玉郡一ノ割村(今の春日部市)に生まれ、幼くして地元の林西寺という寺に入り、その後、増上寺に入って修学した。やがて増上寺を筆頭とした浄土宗関東十八檀林のひとつ八王子大善寺の三世住持となり、浄土宗壇林の確立と、僧侶の育成に勤めた。その名は浄土宗に深く帰依していた家康にも聞こえたのだろう。呑龍はこの地で、浄土宗の布教に勤め、彼の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、寺は栄えていった。一方、戦乱で人心は乱れ、天災も相次いだこの頃、巷では捨て子や、間引きなどの非道が横行する。呑龍はこのような世を憂い、捨て子や貧しい子供を寺で引き取って弟子として養育した。このため人々からは「子育て呑龍」と呼ばれるようになる。その信仰は呑龍が亡くなってからも、庶民の間で続いてゆき、今も子供の無事の成長や安産祈願の寺として地元民に愛されている。この日も幼子の手を引いて訪れている母、赤ちゃんを抱っこして熱心にお参りする若いお父さんの姿が見られ、とても印象的であった。元和九年、病床にあった呑龍は、八月になるといよいよ明日をも知れぬ状態となる。呑龍は弟子たちにこう言った、「九日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と。そして本当に八月九日の正午、雷鳴がとどろく中、息を引きとったと云う。まさに雷鳴とともに昇龍したかのようである。戦前、太田市には戦闘機を作っていた中島飛行機があった。一○○式重爆撃機の愛称が「呑龍」であったと云う。この地に大光院があることから呑龍上人にあやかって名づけられたのだろう。戦闘機「呑龍」は、太平洋戦争時には中国戦線や南方の激戦地への輸送機としても使われたらしい。自分の名を冠された戦闘機にて多くの尊い命が祖国から遠くの戦地へ運ばれてゆく、そしてその命は再び還ってくることはなかったかもしれない。それを呑龍その人はどう思っていたであろうか。或いは、当時、戦闘機製作に携わった人々が、呑龍の加護を祈念し、せめてもの慰めとしたのであろうか。今となっては知る由もない。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(二)

すっかり北関東の寺社に魅了されて、別の日にまた出かけた。深夜に東京を発ち、T君の運転で東北道を北に向かう。もう何度このルートを走っているかわからない。奇縁なことに天気はいつも晴朗で、行きは夢のような朝焼けを、帰りには厳かな夕焼けを拝みながらのドライブは、旅の何よりの宝となった。毎回、早朝から夕方まで車を運転してくれるT君のおかげであり、方々つきあってくれた彼には感謝しかない。

 この日はT君の提案で、まず栃木県茂木町にある鎌倉山に雲海を観に行った。雲海の名所は各地にあるが、鎌倉山のことは此度初めて知った。明けの明星の瞬きを見ながら、北へと向かっていた車が、少し東へと方向を変える頃、空にはうろこ雲がたなびき、人間には作り得ない赤い色の朝焼けが、西へ向かって空恐ろしいスピードで流れゆく。鎌倉山の麓に着いた時には、一帯は濃霧に覆われていた。鎌倉山那珂川を見下ろすように立っている。二百メートルほどの低山だが、周りにはこれより高い山はないため見晴らしが良いらしい。那珂川の川面から、もの凄い勢いで水蒸気が昇ってゆく。これが溜まって、雲のように山々を取り巻き、雲海となり、町を包むのだとわかった。車を那珂川のほとりに停めて、沢を渡り、キツイ傾斜の杣道を登る。あたりは鬱蒼たる樹林だ。年若のT君はぐんぐん登る。私もそれに着いて半分ほど一気に登ったが、酸欠になってしまい、だんだん苦しくなる。少し息を整えて、ようやく九合目あたりに来た時、岩場になり視界が開けた。先を歩くT君が歓声をあげる。連れて私も俯瞰して観ると、どうだろう、鎌倉山の首から下はまったく白雲に包まれている。雲とも霧ともつかないのだが、恐らくは濃霧が下から立ち昇っているのだと思う。実に幻想的な光景で、酸欠となっていたことも忘れた。そして思いっきり深呼吸をして、山の朝霧を身体に充満させた。ちょうど御来光の時であり、遥か遠くに見える山々も首から下はすっぽり雲の中なので、本当に海に浮かぶ島の如く見える。しばらくの間声も出なかった。これほど爽やかな朝は何年ぶりだろうか。頂上まで行ってみると、ささやかな社が。菅原神社とあるから天満宮だろう。後でわかったのだが、私たちが登ってきた道とは反対側にも舗装された広い登山道があって、頂上までは容易に車で登れるらしく、雲海のシーズンは大変な混雑らしいが、この時はまだ雲海も出始めとのことで、人は疎らであった。坂東には鎌倉を冠する鎌倉街道があり、鎌倉山という山もいくつかある。坂東が鎌倉幕府のお膝元であれば宜なるかなだが、茂木町の鎌倉山も、この地を治めた某氏の物見山としての役割を果たしたのではないだろうか。

鎌倉山を降りて、茨城県笠間市西念寺へ向かった。筑波山塊の北側に稲田郷というところがある。今もその名に背かぬ美しい田園地帯である。この一ヶ月ほど前に、すぐ近くの坂東二十三番札所の観世音寺と笠間稲荷に参詣したのだが、その時は時間がなくて寄れずにいた。この辺りは古くから開けた農地であったに違いなく、稲田という地名や、農耕神である稲荷が笠間に鎮座することからも類推できる。国道から木々の間に寺の甍が見えた時、大きな寺に違いないことはわかったが、あとから調べて、ここが親鸞の坂東の布教の拠点となった場所であり、教行信証の執筆を開始し、妻恵心尼とともに子を育て、足かけ二十年も滞在した稲田草庵であることを知り、ぜひとも訪ねたいと思っていた。その願いは一ヶ月あまりで叶った。思えば来るべくして来る寺であったのだろう。その縁を嬉しく思いながら、美々しい敷石の参道を歩き、茅葺の山門を潜った。現在の本堂は平成七年(1995)の築だが、二十年余りの歳月は、すっかりと古寺に馴染んでいる。ひときわ目を惹くのが真宗寺院でよくみかける太鼓楼で、一見すると城の櫓のようである。天保十四年(1843)の建立で、法要の開催などを近隣住民に伝えた。境内はゆるやかな丘陵地にあって、本堂裏手の丘には親鸞が生涯慕った聖徳太子を祀るお堂がある。ここから西念寺の大屋根越しに眺める稲田と筑波の裏山の風景は良い。西念寺は巨刹ではないが、こじんまりとしているわけではなく、程よく立派な寺である。一年中仏教講座や市民講座が開催されていて、宿坊もあり、門徒のみならず、学生の合宿にも使われるらしい。私は圧倒的な巨刹も好きだし、寂寞とした小さな草庵も好きだ。が、西念寺のように大きすぎず小さすぎずの私にとって程よい寺が、なんとなく一番落ち着くのだ。それは私が凡夫故であろう。巨刹は私の様な無知で小心者には威圧され潰れそうになるし、無碍の境地など生涯会得できぬ愚物には、厭世的な草庵もまた似合わぬ。この規模の寺が、覚束ない人生を歩く私には、安心してほとけ様へ心身を委ねることができるのかもしれない。

西念寺は、真宗門徒からは通称稲田御坊とか稲田禅坊と呼ばれ、浄土真宗開祖親鸞聖人の聖地とされている。真宗では珍しくいずれの派にも属さない単立寺院で、稲田の草庵として広く門戸を開いている。承元の法難により、親鸞は師の法然らとともに流罪となり、建永二年(1207)越後に流された。僧籍を剥奪された親鸞は、藤井善信の俗名を与えられるも、自ら「愚禿親鸞」と名乗り、非僧非俗であると宣言した。忸怩たる思いで配流生活を送り、やがて赦免された親鸞は、京都へは帰らずに、妻恵信尼ら家族を伴い、東国にて布教活動を行うことを決心した。決心というよりも、己の信ずる仏道は念仏であって、自身もただ念仏にすがりついて生きてゆきたいと思ったのだ。はじめは本当にそれだけであったと私は思う。建保二年(1214)に家族や門弟と越後を発し、信濃善光寺へしばし逗留した。その後、伝手あったのか、常陸国へ向かった。今の下妻市小島に草庵を結び、坂東の地での布教を開始、次第に評判が流れて、稲田郷の領主稲田頼重に招かれて、新たに吹雪谷と呼ばれたこの地へ草庵を結び、東国での拠点とした。親鸞に篤く帰依した稲田頼重が、多分にスポンサーとなったことは想像に難くない。親鸞はここで立て直し、一家や弟子の暮らし向きも落ち着いたことで、地に根差して布教活動ができた。そしてこの地で四年の歳月をかけて、彼の代表作「顕浄土真実教行証文類教行信証」を起草した。教行信証には、親鸞が学び、読み、思索してきた浄土信仰の魅力と念仏門の正しさが丹念に書き著されている。全六巻の教行信証は、浄土真宗の根本を成す聖典とされる。親鸞の思う親鸞の仏教を様々なアプローチで書いているが、複雑で膨大な文章を、我々が簡単に理解するのは難しい。むしろ我々には弟子唯円の著した歎異抄にこそ、親鸞をすぐ近くに感じることができるし、易しく真宗の仏教へ誘ってくれる。だが、教行信証が不可思議に面白いことは、あれほど、弥陀の本願にお任せし、ただひたすらに念仏せよという、易行念仏を説いた親鸞が、これほど綿密に多角的に論じているということに、あらためて驚愕することだ。叡山に登り、法然という師を得て、法然と同行と誓った親鸞という人の宗教観、教養、己が見つけた仏道への自信というものを感じずにはいられない。

親鸞は流転の日々から、この稲田郷においてようやく安穏を得ることができた。おかげでこれまで見てきた人間の業、人間の性というものを改めて考えて、思想思索を整理することができたのである。そして、迷いも完全に払拭され、生涯を己が仏道と、念仏門の布教に捧げることを誓った。寺から少し北へ行ったところに、稲田神社という社があって、どうもそのあたりが教行信証の執筆を始めた場所ではないかといわれている。いかにすれば極楽往生を遂げられるのか、大真面目に考え、悩んだ末に教行信証をまとめ、二十年の間に多くの弟子と信者を得た。都の文化果つるところといわれた常陸国において、成し遂げた親鸞は還暦を過ぎた。そして突如として恵信尼や家族と別れて、都へ帰還する。親鸞は自分の故郷でもある京の都において、余生の余力をすべて注ぎこんでみたい、そういう挑戦の気持ちが沸々と湧いていて、いざ実践しようと思ったのではなかったか。いずれにしても、九十年の親鸞の生涯において、もっとも熱く情熱的に、かつ冷静に生きたのが、ここ稲田郷であったのだと思う。寺の外の田の中に、見返り橋の跡がある。親鸞は京都へ旅立つ朝、稲田の里に名残を惜しんで、その橋の上にしばし佇んでいたと云う。立つ瀬を得た稲田を去りがたい気持ちと、生まれ故郷への望郷の念が、親鸞の心身を複雑に交錯したに違いない。

 稲田御坊から車で四十分ほど西へ走り、再び栃木県へ戻って、真岡市にある高田山専修寺へ向かう。真宗高田派の本山は、三重県津市の一身田に寺内町を構えて勇壮な大伽藍があるが、ここが草創の寺で、高田派では本寺と呼ぶそうである。今は真岡市となったこのあたりは、以前は芳賀郡二宮町で、あの二宮尊徳が小田原からこの地へ赴任して、二十六年間暮らしたとされる桜町陣屋という古民家が残されていたり、二宮神社があったりもする。二宮尊徳は、小田原藩で酒匂川の氾濫の被災復興に尽力し、百姓の子として生まれたにも関わらず、勤勉に勉め、藩の誰よりも農政に精通し、思想もよほど賢かった。経世済民とは何たるかをわかっていた。それを買われて、小田原藩飛地であったこの桜町が荒廃しているため、藩から派遣されたのだという。尊徳が仏教や真宗の専修念仏に関心があったかはともかく、この地で復興事業の傍ら、おそらくは専修寺にも参詣したのではあるまいかと思う。北関東道からほど近くの住宅地の只中に、こんもりとした森がある。このあたりを高田というそうで、寺は森の中に埋もれるようにひっそりと在った。が、さすがに歴史ある寺に違いなく、広々とした境内は風格を備える。茅葺の門や庫裏、スマートな山門などは坂東らしい簡素な趣きである。三重の一身田の専修寺も室町以降に本山となってから、寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残しているが、ここ高田の本寺も、寺の周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成である。また、少し離れてはいるが、真岡鉄道に寺内(てらうち)という駅があって、各地の真宗寺院のように、この一角はひとつの寺内町であったことを示している。

本堂の如来堂と親鸞を祀る御影堂、総門、山門、真佛上人像と顕智上人像はいずれも国の重文。如来堂は元禄十四年(1701)の建立で、小ぶりだが寺の堂宇というよりも、外観は完全に神社の社殿である。きっと神仏混淆の遺産ではないかと思う。本尊の阿弥陀三尊像については諸説あるが、一説では親鸞が夢告により、信濃善光寺より迎えたという。善光寺の前立ち本尊と同じように、一つの光背の中央に阿弥陀如来、向かって左に勢至菩薩、右に観世音菩薩が並ぶ一光三尊仏である。桜町、後桜町、後桃園、光格、仁孝、明治の六人の天皇が拝したとされ、別名は天拝一光三尊仏と云う由緒あるほとけである。秘仏とされ、十七年に一度御開帳されるが、普段は本尊を模した美しいお前立ちを常拝できる。真宗寺院は阿弥陀如来を祀る本堂よりも、宗祖親鸞を祀る御影堂の方が大きいのが特徴だが、この寺も御影堂が如来堂よりも四倍くらい大きい。昔は御影堂も茅葺だったらしいが、今は銅板葺に変わっている。重厚感溢れる御影堂内部は、シックな外観とは異なり眩しいほどに立派であった。親鸞を祀る須弥壇には精緻な彫刻、絢爛たる装飾があって、本山に劣ることはない。この寺が浄土真宗の聖地の一つであって、真宗十派のうち、本願寺派大谷派を除く八派では最大勢力とされる高田派の歴史の重みと、信仰の力を感じさせるものがある。

真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒や地域の檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。高田の本寺専修寺も多分にその色を強く感じた。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も私たちだけで独占させていただき、坂東の古刹の空気を存分に堪能した。親鸞は四十二歳頃から、およそ二十年、稲田の草庵に腰を落ち着けながら、坂東各地を行脚し専修念仏を広めた。寺伝によればここへ来たのは五十三歳の時で、この地で真佛など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立し、善光寺から迎えた阿弥陀三尊像を本尊としたとされる。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時。建立当初は専修阿弥陀寺と称し、およそ七年間親鸞はこの寺をベースキャンプにした布教活動を行った。小貝川のほとりには、親鸞が寝泊りした三谷草庵があって、道場ができるまでの仮住まいとしていた。坂東には各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそうして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。ここ高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽したのである。真宗の本流というわけである。門弟は高田門徒と呼ばれ、真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除され小さくなり、まことに不遇であった。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院とした。この寺が後に本山専修寺となる。本寺の専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。その後、江戸期にようやく高田の専修寺も復興された。私は浄土真宗の始まったこの寺で、改めて真宗の長く、複雑な歴史に思いを馳せた。今や宗派間の対立などキナ臭い歴史を封印するかのような穏やかで静かな時が流れている。

門を出る前に、涅槃堂というお堂に入ってみた。ここでは誰でもあっと驚きの声をあげずにはいられないだろう。お堂の中で横たわるのは、三メートルに及ぶ大きな釈迦涅槃像である。その大きさに驚き、しばらく拝んでいるとその御姿に感動するはずだ。涅槃像は元禄時代の木像で金箔が施されているが、その御顔はまことに優しい。いつまでも尊顔を拝していたい気持ちになる。作者は江戸湯島九兵衛と墨書にあるらしいが、江戸の湯島九兵衛なのか、江戸湯島の九兵衛なのか、私は知らない。いずれにしても全国的に名の知れた仏師ではなく、江戸期の職人らしい純朴さを涅槃像からも感じることができた。友愛と簡単に言う人がいるが、こちらの御釈迦さまにこそ、私は広大無辺の友愛と、御慈悲を賜ったような気がした。まもなくこの寺は草創八百年を迎える。浄土真宗という日本仏教最大の宗派は、親鸞の波乱に満ちた生涯のおかげといっては失礼かもしれないが、親鸞の境遇、その偶然によって、広大な坂東の平野から、日本全土へ広がっていったのである。いわばここが浄土真宗の核であり、源泉なのであった。よくよく考えてみれば、それは偶然ではなく必然であったのだと思う。

 

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(一)

去年、坂東三十三観音巡礼を結願した。巡礼記は別途書くつもりだが、とにかく関東平野を廻り巡ったことは、私にとって生涯の財産と成り、同時に関東の広さと奥深さに深い感銘を受けた。関東一円を巡ったついでに、私は長年気になっていた北関東の寺社の多くを訪ねる機会を得た。此度は、印象に残ったそのいくつかに触れたいと思う。北関東は首都圏に含まれるが、南関東に比べて、人も時間も齷齪していない。日本最大の平野の雄大な風景を枕にして、寺社は坂東らしく質朴であり、どっしりと落ち着き払って見える。

 白河関に行った朝、その足で八溝山に行った。途中で、栃木県大田原市に在る那須神社、黒羽大雄寺、臨済宗の古刹雲巌寺に立ち寄る。大田原市は、下野国の大田原藩と黒羽藩があったところで、奥州街道において坂東最北の地として枢要な地であった。ゆえに徳川時代には外様とはいえ、細かく領分し、幕府に従属させた。これが幕末までは一応成功したといえるだろう。大田原市内には由緒ある寺社が今も数多く点在する。まずは那須神社に向かう。大田原市の臍の様な場所に鎮座する那須神社は、正式には金丸八幡宮という。八幡神といえば源氏の氏神であり、古来より武家に崇拝されてきた。この社は那須与一と関わりの深い神社だと伝わる。今、神社に隣接して那須与一伝承館まである。源平争乱の屋島で、弓矢の名手として義経に指名された家来の那須与一宗高は、平家方の舟に立てられた扇の的を見事に射抜いて魅せる。この時ばかりは、源平双方破れんばかりの拍手喝采で、源氏は箙を鳴らして喜び、平家は舟板を叩いて称えた。平家物語の見せ場の一つである。与一は弓に鏑矢を掛け、扇の的を見据えた。ここで己が的を外せば、源氏にも自分にも未来はない。我が一矢をもって趨勢が決まると思った。そして、瞼を閉じて祈念した。

「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて給ばせ給へ これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず 今一度本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな 」

と心の中で呟いた。風が止んだ。凪も止まった。瞬く間であった。鏑矢は金色に輝く扇の日の丸を射抜き、静寂の夕凪に扇がはらはらと舞い落ちていった。この時、源平の盛衰は定まったのである。史実でも伝説でも構わない、文学的にはまさしく的を得た場面である。私は中学の古典の授業で、この一文を覚えてから、那須与一のことが気になっていた。中世に那須氏は下野国北部一帯を統治した。那須与一はその祖と云われるが、そもそも与一自身が実在したのかも謎で、出生地も定かではない。だが、後日談から湧いた那須与一像は、那須一族の誇りであり、今もって大田原市民の自慢なのである。神社は街道筋にあるため、周囲は車がよく走るが、境内へ一歩入れば森閑としている。まず参道が良い。一の鳥居から二の鳥居まで長い一直線で、端から端までは霞んで見える。流鏑馬も行われるらしいが、林間の一本道には、如何にも勇猛果敢な坂東の騎馬武者が、颯爽と走ってきそうな雰囲気がある。一説によれば、社としては仁徳時代(313年〜399年)の創建の古社で、延暦年間に坂上田村麻呂蝦夷討伐の折、八幡神を勧請したと伝わる。その後代々この地の領主に厚く信仰された。江戸期の領主黒羽藩も例外ではなく、風格漂う楼門は寛永期に黒羽藩が寄進したとか。このあたりでは珍しいのが楼門前に架かる石橋で、神域に威厳を添えている。この神社の格式と、昔から貴賎を問わずに大切にされてきたことを語るような佇まいである。社殿は簡素だが精緻な彫刻があって、社殿を取り囲む木塀は一部朽ちかけているものの、この規模で造られた事を考えれば、やはり崇敬篤き神社であったことがわかる。

 中世、下野一帯を支配した那須氏はこの地で連合組織を作った。主家たる那須氏のほか、那須一族の盧野、伊王野、千本、福原の四氏と、重臣大関、大田原の二氏である。合わせて那須七騎と呼ばれた。六氏は、主家那須氏とは持ちつ持たれつの関係で、時に反抗もした。その那須七騎の一つ大関氏が、徳川幕藩時代に黒羽藩一万石を治めた。その城址那須神社から東へ少し行ったところにあり、その城内に菩提寺の大雄寺もある。高校野球で有名な作新学院は、幼稚園から大学まであるが、元は黒羽藩の藩校作新館であった。特に一昨年の夏の甲子園を優勝した作新学院高校は、日本一の生徒数を誇る大規模な学校で、今も文武盛んである。黒羽藩は小藩ながら江戸後期には若年寄まで務めた由緒があるが、動乱渦巻く幕末において、こうした異例人事は珍しくもない。会津藩京都守護職を筆頭に、勝海舟幕府陸軍総裁、北陸敦賀にて天狗党を討伐した田沼意尊は、田沼氏では意次以来久々に表舞台に登場する。(もっとも田沼家は意次失脚後も代々若年寄を務めてはいる)。新撰組も、彰義隊も、見廻組も、遊撃隊も、封建泰平の世ならばあり得ない組織である。思えば北関東は、上野国下野国の諸藩は、幕末の最終局面ではほとんどすべてが官軍に寝返っており、此処、黒羽藩も倒幕に傾いている。おそらく幕府は、事前に若年寄というアメを与えて懐柔を図ったのだろう。しかしその恩は報われなかった。黒羽藩は小藩でも、上野、下野の他藩と一連托生し、力を蓄えた。その藩主大関家の菩提寺が大雄寺なのである。寺は黒羽城址に閑雅な趣で建っている。創建は応永四年(1404)。森の中の緩やかな坂道の参道を昇ると、どっしりとした茅葺の本堂が現われる。野趣溢れる寺の佇まいは、いかにも坂東に似つかわしい。昔話の世界に惹き込まれたような、美しい大屋根は、武家菩提寺という厳しさよりも、禅の古刹としての風格が漂う。本堂を取り囲む茅葺の回廊は、寺というより学校の様で、明るく開放的で良い。背景には城山の緑と紺碧の晴天。茅葺の寺は方々で見てきたが、こんな雰囲気の良いお堂はなかなかない。北関東にはこうした寺が、まだまだたくさん隠れているのである。

禅宗は我が国に伝来して以来、日本独自に発展を遂げた。禅は日本の風土、日本人の性格にまことに適した宗派であったと思う。臨済禅は、宋から栄西によって我が国にもたらされ、鎌倉にて萌芽し、京にて広められた。その後、鎌倉幕府室町幕府に庇護されて、武家の仏教としての地位を確立した。現在、臨済宗は多くの宗派に分かれていて、京都五山鎌倉五山の各派、南禅寺派大徳寺派妙心寺派、向嶽寺派、永源寺派、方広寺派、仏通寺派、興聖寺派、国泰寺派がある。中で妙心寺派は、最大派閥である。日本の臨済宗寺院の総数は六千余りだが、実に三千五百ヵ寺以上が妙心寺派だと聴く。なるほど日本仏教の一大勢力に違いない。その妙心寺派に属し、越前の永平寺、博多の聖福寺紀州の興国寺とともに、日本禅宗の四大道場と云われるのが、東山雲巌寺である。門前には武茂川という急流が流れており、いかにも清冽な瀬音が、寺の足下から境内全山を包みこんでいる。禅の道場とはいえ、坂東の果ての山中に、このように立派で美しい寺が現れたことに私は歓心した。朱塗りの橋を渡ると、石段の上には堂々たる山門が、訪う者を迎える。確かに厳粛な禅刹であって、かつては多くの雲水が、日夜厳しい修行に勤しんだことを彷彿とさせる。私の様な興味本位の無頼の徒は、驚懼して山門を潜らねばならない。それにしても静かである。今でも修行の寺に違いなく、観光寺院ではない。人知れず、しかしどっしりと在る雲巌寺には、風と鳥の声のみが時折しじまを切るが、境内には庭仕事をする寺男がひとりいるばかりで、参拝者はおろか雲水一人見かけなかった。雲巌寺の本尊は釈迦牟尼仏で、釈迦三尊を祀る仏殿が本堂にあたる。仏殿はてっぺんに宝珠を頂く様式で、禅刹には珍しいものだろう。山奥に密かに祀られている美しい御仏は、こうして書いている今も、そしてこれからも、あの場所で優美に座して、雲水を先導し、衆生を守護している。仏殿から少し登ったところに方丈や禅堂があって、山の斜面を巧みに利用した伽藍となっている。雲巌寺の創建は大治年間(1126~1131)と云われ、叟元和尚の開基とされる。開山は高峰顕日で、寺格を整えたのは夫人が高峰顕日に帰依し、自らも禅の影響を受けた北条時宗である。時は移り天正六年(1578)には、無住妙徳が住職となって妙心寺派となった。 天正十八年(1590)、秀吉の小田原征伐で、烏山城那須資晴は抵抗し、城攻めの際、領民は雲巌寺にて匿われたと云う。小田原北条氏もこの寺を庇護したため、豊臣方は堅牢な要塞と判断し、火を放った。以来荒れ寺となっていたが、江戸期に復興し、 芭蕉奥の細道で立ち寄った寺でもある。芭蕉は黒羽に二週間あまり滞在し、那須神社にも行っているし、おそらく大雄寺も訪ねたであろう。名所旧蹟、その土地の名の知れた神社仏閣をくまなく廻っていることには、改めて感心するし、根っからの旅人であり、数寄者であった。境内には住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑がある。奥の細道には次のように記されている。

当国雲巌寺の奥に仏頂和尚の山居の跡あり。

 竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば 

と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと雲巌寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある気色にて、谷道遥かに、松、杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。

 木啄も庵はやぶらず夏木立 

と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。

仏頂和尚は芭蕉と昵懇の臨済僧で、参禅の師であったとも云われるが、この時はもう亡くなっていたのではなかろうか。昔、芭蕉仏頂和尚から自らの和歌を、庵に松の炭で岩に書き付けたことを聴いていて、それを見るために雲巌寺を訪ねた。その話を道中に誰かに話したのか、芭蕉曽良を案内する若者の連中がいた。卯月が陰暦の四月で、陽暦では初夏であるが、その頃でもこのあたりは陰気で寒い場所であると語る。十景とは雲巌寺十景のことで、霊石の竹林、海岸閣、十梅林、竜雲洞、玉几峰(たまきみね)、鉢盂峰(はちうみね)、玲朧岩(れいろういわ)、千丈岩、飛雲亭、水分石(みまくりいし)のことらしいが、今その十景がどこなのかは私にはわからず、芭蕉もさしたる興味は示さずに十景のみで片付けている。仏頂和尚の山居跡は、仏殿の方丈のさらに上の山中にあるというが、さすがにそこまで探そうとは思わなかった。が、山の木啄さえも、仏頂和尚の徳を慕い、その庵に穴をあけることはないのだと詠んだ芭蕉は、大切な友人であり、禅師であった仏頂和尚への尊敬と、手向けの一句を捧げるために、ここまで足労したに違いない。芭蕉は歌枕の地を訪ね、名所旧跡に歓喜感涙しながら奥の細道を旅をしたが、雲巌寺は、俳人としてよりも、自らの想い出を振り返りつつ、師を偲ぶために訪ねたように思われてならない。芭蕉は人間関係を極めて大切にしていた。名うての数奇者であり、当代一の俳人であって、伊賀者とも噂される松尾芭蕉の、まことに情け深い一面をここに見たように思いがする。