弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

日本一の参道

昨年秋の信州旅行で、かねてから気になっていた戸隠神社まで足を伸ばした。善光寺の御朝事に参加して、雪解けの山道を戸隠へ向かう。本当ならば前日に戸隠に行くはずであったが、大雪のために断念。幸いに良く晴れたので路面の雪解けは進んだようだ。善光寺の裏手から七曲峠を登る。昨日は峠のてっぺんまで来て断念したが、今朝はノーマルタイヤでも先へ進めるほどになっていた。が、慣れぬ雪道、慎重にゆっくりと峠を越えた。車窓から見える山々の雪景色は素晴らしかった。十一月末であったが、戸隠の山峰が近づくに連れて雪深くなり、広がる雪原と白樺の樹氷が朝陽に映えて眩しい。山はもう冬の眠りについていた。

同行してくれたT君から戸隠の事は予々聴いていた。何しろ参道がすばらしいという。私は寺社の参道が好きだ。清潔な参道は歩いていて実に気分が良い。参道が長ければ長いほど私はうれしい。本堂や社殿へ向かうアプローチを歩いている時、この先にまだ見ぬ何かがあると思うと胸が高鳴る。あの高揚感に勝るものはなかなかあるまい。歴史好きが昂じて、日本の寺社を巡っているうちに、いつの間にか寺社の魅力に取り憑かれてしまった。目紛しく風景が変わりゆく当世において、まだ少しばかり昔の佇まいを遺してくれているのは寺社くらいである。寺社は史実を探り、追憶に耽るには絶好の場所なのである。さらには美々しい境内や参道を歩けば、心が躍り洗われる。寺社は薄汚い人や町から逃れるためのシェルターであり、文字通りの駆け込み寺なのだ。

さて戸隠である。戸隠山は太古から神山として崇められている。ことに修験道の霊山として有名で、戸隠連峰飯縄山などを含めて大規模な結界があり、一帯を戸隠曼荼羅と称した。私の故郷の日向国は、神話と伝説の国と呼ばれ、古事記や日本書記、風土記に著されている物語の舞台が彼方此方にある。神社や神宮が多く、仏閣は小規模で大寺院はない。幕末までは仏教もあまり盛んではなく、南九州を統治した島津家は、念仏を禁教としたため、信者は洞穴や床下で秘かに隠れ念仏をした。私の生家の本家にも隠れ念仏洞が残っていて、幼い頃の遊び場となっていた。その反動で明治維新以降、南九州には各地からの宣教者がなだれ込む様にやってきて、特に北陸からは盛んに浄土真宗を布教したため、今では浄土真宗の寺ばかりになった。曹洞宗、浄土宗、日蓮宗なんかもあるが、寺は浄土真宗が圧倒している。が、今でも寺よりも神さびた社の方が多いのではないかと思う。その様な場で生まれると、日本の神話にはずいぶん親しんで育った。幼稚園や小学校では、日本神話の紙芝居や絵本をよく見たものだ。古事記の上つ巻は、神武天皇以前の神代から天孫降臨までの物語が記されていて、日本神話の源泉に触れることができる。

日本の神話でもっとも有名なシーンは、イザナギイザナミの国生みと神々の生成、黄泉の国、スサノオの八岐大蛇退治、天孫降臨、そしてアマテラスの岩戸隠れであろう。アマテラスは弟のスサノオの悪行に堪えかねて、岩屋に引きこもってしまう。太陽神が隠れてしまったため、此の世は彼の世の如く昼が消え失せ、闇夜となってしまった。天地は凍てつき、作物は枯れ、疫病が蔓延し、魑魅魍魎が跋扈した。困り果てた高天原の神々は、相談して、岩屋の前で宴を催した。アメノウズメが乳房も露わにして妖気に踊ると、神々からは歓声があがった。岩屋の中のアマテラスは、光である自分が居なくて外は闇黒の世界なのに、皆は何故あんなに楽しそうなのかと不審に思った。アマテラスは岩屋の戸をほんの僅かに開けて外を覗いてみた。すると正面には、自分とそっくりの光り輝く女神が立っている。これは鏡に映ったアマテラスなのだが、自分の代わりがいることに驚いたアマテラスは再び岩戸を閉じようとした。その瞬時、高天原一の力持ちのタヂカラヲが、岩戸の隙間に手をかけて豪快に戸をこじ開けてアマテラスを外へ迎えた。そしてタヂカラヲは、岩戸を剥ぎ取って、遥か彼方に投げ飛ばしてしまった。これにて、高天原にも下界にも再び光が満ち溢れて、神々は安堵したという話である。高天原での出来事であるが、この岩戸隠れの現場は伊勢をはじめ日本の各地に伝承されている。日向国の高千穂にも天岩戸神社があって、岩屋とされる洞窟があり御神体とされている。

タヂカラヲが遥か彼方に投げ飛ばした天の岩戸が落ちた場所も各地にあるが、信濃の戸隠にもそういう伝説がある。岩戸を隠した場所であるから戸隠なのか。修験道が盛んになって後に、岩戸伝説が付与されたに違いないが、修験道では不動明王蔵王権現、天狗など屈強で強面の神仏が崇拝されるから、戸隠は手力雄命を拝し、同時に戸隠連峰の九頭龍山の九頭龍社を勧請して拝んだのであろう。戸隠山には九頭龍伝説も残っていて、その昔、人々を恐怖に貶めた九頭龍を、学門という僧が戸隠山に封印した。以来、九頭龍は水神となり、邪神から善神に生まれ変わって人々に崇められたという。いずれ古くから信仰の地として名高い戸隠には、聖地ならではの張り詰めた気が充満している。下社にあたる宝光社に着いた時から、そうした空気があたりを覆い、さらには清白の雪が、此の場所が潔斎の域であることを高めている。宝光社、火之御子社、中社の順にお参りする。宝光社の二百七十段あまりの急勾配の階段には、誰も踏まない大雪が降り積もっていて、慎重に足を運んだ。だが、もしここで足を滑らせて転げ落ち、死んでしまっても、それが私の命運であると、神妙に納得した。雪は戸隠全体を覆い隠すが、社殿と雪のコントラストは絶妙であった。日本の古い寺社建築は、この国の四季折々の風情というものを、細微に考えて造られたのではないかと思わせるところがある。私はそうした風景に出逢う度に、いつも唸って感動している。

さらに上へと登ってゆき、やがて念願の奥社参道の入り口へ達する。この少し手前には女人堂跡や女人結界碑がある。例によって戸隠も、かつては女人禁制であった。奥社までの参道は全長ニキロほど。緩やかに登ってゆく。天は碧空、道は白道。まことに幻想的かつ、神仏混淆の光が射した様な参道は、私がこれまで歩いてきたどの道よりも美しく、清浄であった。同行してくれたT君は以前来たのは夏で、その時とはまったく別の参道に、感激を新たにした様だ。我々は童子の如くはしゃいでしまい、興奮しながら歩いていった。参道のちょうど半分ほどのところに、茅葺で朱塗りの隋神門がどっしりと、厳かに建っている。あたりは風も止み森閑としている。雪を冠る隋神門の佇まいは、極めて日本らしい風景であり、戸隠もいつかきっと世界遺産となるであろう。

隋神門までと隋神門から先とでは、全く改まった趣となる。隋神門より内は、さらに厳粛な雰囲気に満ち溢れ、深呼吸をすれば確かに浄域の透明な空気が味わえるのだが、油断をするとその浄域に我も呑み込まれてしまいそうだ。どうやら隋神門は結界のようである。ここまでの一キロの道のりもとても素晴らしいのだが、どうしても序章であり、茶事に喩えれば初座で、隋神門を潜り抜けたその先こそが後座といえようか。或いは戻りの反対側から見れば、隋神門より内が濃茶、隋神門より外は薄茶といった感じである。隋神門を潜り先へ進もう。道の両側には杉の巨木が並び、それがずっと先まで続いていて、終点は見えない。ここが私がずっと歩いてみたいと願っていた、戸隠神社参道なのだ。杉並木は、四百年ほど前に有志によって植林されたというが、亭々と並ぶ巨木には、途轍もない神力が宿っているようで本当に圧倒される。しかし、きっとあの日見た参道は、あの日限りの参道であったに違いなく、次に来た時はまったく別の顔を魅せるであろう。戸隠の参道を見ずして、参道を語るなかれである。

戸隠神社は、奥社、中社、九頭龍社、火之御子社、宝光社の五社からなり、創建年は定かではないが、少なくとも二千年余りの歴史がある。神代から崇められ、平安末には修験道の霊地として都にまで知れ渡るようになる。やがて神仏混淆の道場となって、天台宗真言宗が戸隠の覇権を競い合ったというが、いずれも信濃から北上するための中継拠点としたかったのではなかろうか。幕末までは戸隠山顕光寺と称し、境内には多くの堂宇坊舎が建ち、戸隠谷三千坊とも呼ばれた。その坊舎は、私たちが歩く奥社参道の両側にびっしりと建ち並び、向かって左手が真言宗、右手が天台宗であったという。比叡山高野山と共に三千坊三山と言われ隆盛した。徳川家康からも手厚く保護されて、江戸幕府から一千石の朱印状をもらい、東叡山寛永寺の末寺となって、水神と農耕の神として江戸庶民にも崇敬された。おそらく善光寺と併せてお詣りに来たはずである。当時の坊舎が建ち並ぶ参道は想像するに壮観で、神仏混淆の象徴的な聖地として稀有の存在であったに違いない。その様子は今は知る由もなく、〆縄張りの隋神門だけが往時を偲ばせるのみで、静謐な神の森となっている。かえってそれが今の戸隠の神秘性を守護している様に思えてならない。

雪は奥へ進むほど深くなる。奥社はまだ見えない。行けども行けどもたどり着かない。それにしても、どこまでも長く美しい参道である。やがて、やや急な登りがあって、おそらく雪の下は岩場であろうが、それを上り詰めると、左手に九頭龍社、右手に手力雄命を祀る奥社が鎮座していた。社は普請中であったが、すぐ裏にはもう戸隠山の荒々しい岩肌が迫っていて、真下から見上げると、なるほど巨大な岩戸がすっくと立っている。戸隠はやはり堂々たる神山だ。ここまで辿り着いた安堵と喜びが、澎湃として湧き上がってくる。何とも清々しく心地良い時であった。参拝をして振り返ると、冬の優しい陽光がさんざめいていた。

帰りがけに、奥社参道の入り口に構える戸隠そばの店に入った。店名が何と「なおすけ」であった。名物の蕎麦をカケでいただく。雪の参道を往復四キロも歩いて、すっかり冷えきっていた身体には、殊の外温かく、美味かった。窓の外には、戸隠神社の鳥居と今来た雪の参道があって、その向こうにはもう見えない奥社と、その上にそそり立つ戸隠の峰々が壁の如く見える。感無量の贅沢なひとときであった。私たちは其処を去り難く、いつまでも飽かずに眺めていた。

至高の行方

羽生結弦君が五輪連覇を果たした。私はこれまでにも何度か書いてきたが、スポーツ観戦ほど心を震わせ、誠の感動を貰える出来事はない。世の中何でも斜から眺めている捻くれ者には、スポーツ観戦は唯一真っ直ぐに目を逸らさずに、無心になれる事である。今冬季五輪でも平野歩夢君の二大会連続銀メダルをはじめ、選手の活躍に躍起となっている。私は時に、禅寺にて参禅させていただくこともあるが、仏教への関心から様々に私考を巡らしたり、己の未熟さから邪念の塊となってしまうのが常である。私など無碍の境地には生涯到達できぬであろう。一方、仏像、書画、茶道具などの美術品を観て歩くことも好きで、それこそ血眼で観ている時もある。物を見るのにあまりに力み過ぎている感があって、かえって雑念が働いてしまい、見たままの印象は薄れてゆき、趣味鑑賞の枠を超えない。これでは本物を見極める事などできないだろう。実にこうしたことを文章にしていること自体が私の程度とも言える。しかし、頭で観ずして心で見る事は、凡人には簡単ではなく、よほどの修練が必要である。余談が長くなったが、つまりは私には余念が多すぎるのだ。だから何でも片手間になってしまう。スポーツ観戦はそうした余念を湧かさずに、無心になれる。故に感動して、涙腺が緩むのだろう。

 羽生結弦君は、昨年十一月のNHK杯の練習中に右脚を負傷、オリンピックシーズンに痛恨の戦線離脱となってしまう。これほどの試練があろうか。ナショナルトレジャーたる彼のことを日本中が心配した。何よりも本人の心中は如何許りであったか。おそらく、心身ともに想像絶する苦しみであったに違いない。あの様な試練を乗り越えることは、常人には不可能かもしれない。四年に一度の最高峰、オリンピックの目前である。彼は他の追随を許さぬ大本命の金メダル候補である。下手をすれば精神を病み、再起不能に陥るかもしれない。だが、彼は乗り越えてみせたのである。逆境を撥ね付けて、一昨日のショートプログラムをノーミスで滑走。その直後、彼はこう言い放つ。

「僕はオリンピックを知っている。」

この言葉を聞いて、私は勝つだろうと思った。それは試合に勝つだけではなく、彼自身が言う様に、羽生結弦羽生結弦を超克してみせたのである。あの言葉は決して自信過剰から出たたのでもなく、ハッタリの強気でもない。彼が言いたかったのは、「何が起こるか解らない」、それがオリンピックであるということではないかと、彼のフリーを見て改めて感じ入ったのである。

彼には天賦の才能があり、努力を惜しまず、不屈の精神の持ち主でもある。度胸も満点、根性も備わっている。と同時に理論家でもあり、彼ほど石橋を慎重に叩いてゆくアスリートも珍しい。それは決して臆病なことではない。事実翌日の会見では、右脚のケガは完治などしておらず、痛み止めを打ってなんとか誤魔化しながら滑っていたという。だが、あのケガがなければ、金メダルは取れなかったとも語る。それがどういうことなのかは、彼のみが知っていることであり、外野が詮索することでもないだろう。一つひとつ、一歩ずつの積み重ねが、今の羽生結弦を創り上げていった。彼自身がセルフプロデュースして。天才が弛まぬ努力をしているのだから、誰も彼より先へは行けないのである。少なくとも現時点では…。

羽生結弦君は千両役者でもある。それも彼が判ってやっていることだろう。己の見せ方と、魅せ方を実に巧くやってみせる。フリーの滑走後、喜びを爆発させ、右脚とリンクに感謝の手当てをする。彼と同時代に居るということを誇りとしたい。彼のこの先はあるのか。この至高の先はあるのだろうか。あるならば見たい。が、ここでサッと引退するというのも羽生結弦らしい気もする。でも、やっぱりこの先が見たいのが、私だけではなく多くの人々の本音であろう。

なおすけの平成古寺巡礼 小布施の岩松院

信州は格別な地域である。その呼び方からして、一つの州部を連想させる。事実信州は、何となく孤立している雰囲気がある。中部地方であって、愛知や岐阜とは気候も風土も人も違う。甲信越と一括りにされることもあるが、甲州とも越州ともまた違う。理由は明白だ。山である。信州長野をぐるりと取り巻くのは、日本の屋根であるアルプスの高峰たち。彼らに抱合された信州は、独自の独立した文化と人を創り上げた。孤立と述べたが、良い意味で孤立しているのだ。その泰然自若とした態度は、京都と似ていると私は思っている。が、人は決して閉鎖的でもなく、京都人ほどの気位の高さも感じない。私は自分の町に誇りを持っている京都人も嫌いではないが、信州人はその景色に育まれたのか、大らかで懐深いという好印象を抱いている。今では道路も新幹線も整備され、容易に信州へ行けるが、かつて人々は険阻な信濃路を必死で辿ったであろう。今だって雪の季節は難儀する。この様な隔絶の地の歴史には、とても興味がある。昨年晩秋に善光寺詣りをした時に、信州を少しばかり廻ることが叶った。その一つが小布施の岩松院である。

小布施は栗の名産地である。小布施の栗は美味い。栗を使った銘菓も数多あるが、私は栗落雁が好きである。此度もたくさんお土産に買った。葛飾北斎もここで栗を食べたであろう。北斎は齢八十を過ぎてから、四度も小布施にやってきた。北斎門下の高山鴻山が小布施の豪農商で、彼に請われてのことだ。若き日の鴻山は京都や江戸で遊学した。江戸にて北斎と親しくなり、その画と人に惚れ込んだ鴻山はすぐさま弟子入りした。彼の絵は数点残されているが、私は見たことがないので何とも言えない。鴻山は豪商であり、豪農であり、天保の飢饉の時なども地元民に力を尽くしたというから、経世済民の政治家でもあった。やる事すべてが豪胆で一流なのである。が、絵師としては北斎を絶対崇拝しており、北斎に近づきたいとは願っても、北斎を超えたいなどとは微塵も思わなかったであろう。分という事を忠実に弁えていた人であった。

哀しいかな、浮き世では自己の分を超えようとすれば跳ね返されてしまう。凡夫は何事も分相応で生きるほうが賢明で、結果長く存在できる。近頃はこの先人からの智慧を忘れてしまったから、皆、転んでしまう。貧弱な現代人は、一度転ぶと二度と立ち上がれない。と言うよりも立ち上がらない。或いは諦めたり、或いは切り捨て、或いは無かった事にする。七顛八起できる人は少ない。かく偉そうに言っている私など、そんな情けない輩の最たるもので、少しばかり日本史に明るいくらいで、何一つ成し得た事などない。フラからと彷徨い、人に後ろ指をさされながら生きている。それは粋がって調子に乗り、私の分を超えようとしたからである。無論挑戦することは大切である。でなければつまらない。だが、それは若い時分、せいぜい三十くらいまでの話である。小林秀雄は、人間の一生はだいたい二十代までに決まると言ったが、あながち嘘ではない。私も自分は勝手に大器晩成と嘯き、四十の手習いなどと称して茶道を始めたり、人には「何かを始めることに年齢は関係ない」とか言ってみることがあるが、内実冷めて眺めていたりする。生涯青春など夢のまた夢。有り得ぬことだ。それを本当にできる人はその道の天才か、己が分を弁えて石橋を叩きながら着実に進める人だけだと思う。

でも昔は違った。人が分を弁えて生きたからだ。断っておくが、私の言う「分」とは身分の事ではない。士農工商の枠の中の分相応ではなく、人間という容器の分である。だが、天才は違う。時に分を超越することができる。故に天才なのであって、分を超越することこそが天才といっても過言ではないと思う。葛飾北斎は天才である。彼は絵心を得てから死ぬまで天才であった。その天才に衷心より惚れこんだのが高山鴻山である。二人の関係は祖父と孫ほども違うが、鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は門下であってスポンサーでもある鴻山を「旦那様」と呼んだ。鴻山は小布施に北斎を招いて、北斎のために碧漪軒というアトリエを作り、小布施の祭屋台の天井絵を依頼した。それが縁となり岩松院の本堂に天井画を描くことになる。老骨に鞭を打ち江戸から遥々やってきた北斎に思いを馳せれば、仏陀最後の旅を彷彿とさせる。無論、絵師の画力と執念が彼をそうさせたのだろうが、少なからずそこには命の灯火を燃焼し尽くして死なんとする人間の生き様と、昇天散華を願う信仰心が混在しているように思う。一言では語り尽くせぬ北斎らしく、彼は最期までそんな人物であった。それは一切が自然なことであり、全く無理や無駄はないのである。北斎には当たり前の行動であったと思う。

北斎最後の傑作ともいえる岩松院の鳳凰は「八方睨みの鳳凰」と呼ばれる。私も睨まれたくてたまらない。ずっと睨まれたかった。下手をすれば喰われるかもしれない。喰われたって構わない。憧れの鳳凰についに逢いに行ったのである。小布施の東の町外れの山麓に岩松院はどっしりと在る。曹洞宗の寺で、文明四年(1472)の創建というが、禅寺の厳しさはなく穏やかな佇まいである。境内には水路があって、鮮烈な水が絶え間なく流れている。栗や柿は残り少ない実を地に落とす寸前であった。小布施の町に似つかわしい良い寺である。本堂の裏手は墓地で、一番高いところには福島正則の墓があった。秀吉に見出されて賤ヶ岳七本槍の一人として、大名となった正則も栄華は関ヶ原までであった。大坂には参陣できず、あらぬ謀叛の嫌疑をかけては、外様大名を廃絶していった徳川幕府の策謀にかかり、苦虫を噛みながら豊臣家滅亡を見て、悲涙の余生を送った。小布施に半ば幽閉された正則の心中は察するに余りあるが、波瀾に満ちた生涯を最期までモノノフとして生き抜いた正則は、案外満足して死んだかもしれない。墓は西国の方を向いて立っている。

いよいよ岩松院の本堂に入る。私はすぐに天井を見ずに、まずは御本尊に合掌する。だが、天井の巨鳥はすでに私をロックオンしている。眼を閉じて合掌する私の脳天から睥睨されているのが、ビリビリと伝わってきた。一瞬でも怯んだら喰われそうだ。そこで私は合掌したまま、そっと頭を上げる。そして眼をそらさずに私も鳳凰を捕らえてみた。その圧倒的な存在には物凄いとしか言い様がない。凄いのは鳳凰なのか北斎なのか、解らなくなるが、そんなことを理解する必要はない。しかし畳二十一畳もあるこの巨鳥を、八十を過ぎた老人が描き切った事には、私は北斎という絵師に対して改めて畏敬の念を抱いた。いや、畏敬よりも畏怖かもしれない。少し昔、こんな事をやってのけた爺様が日本にいたのである。先にも述べたが、この鳳凰北斎自らの冥土への守護神であったと思う。私もこの大きな鳥にすべてを委ねよう。全く自然にそう思った。それほどこの巨鳥は優しかった。喰うのは汚い人間の心であり、浄化された人間を鳳凰は背に乗せて極楽へといざなうであろう。ドラクエの不死鳥ラーミアもこんな感じだろうか。「ラーミアの背中に乗りたい」少年の頃の私はそう夢見たものだ。図らずもその夢は、葛飾北斎のおかげで、小布施の古刹で叶ったのである。私は我を忘れてしばらく鳳凰と対峙した。苦しくなったら、会いに来い、俺は此処にいるよと言ってくれた様な気がした。

初釜を終えて

先日、社中の平成三十年初釜が終わった。社中にお世話になり一年半、私自身初めての大寄せ茶会に寄せていただいた。私は朝ぼらけから必死で羽織袴を着て、戦へ赴 く様に武者震いして出かけた。私の先生は、今や弟子の総数は不明というが、この日の初釜には四十名ほどが参加し、参加者の家族や友人も客として集ったため、新年を寿ぐに相応しい賑やかな茶会となった。昨年末から何遍も稽古をしてきた七事式の花月も、己が点前も何とかこなしてホッとした。殊に自分の点前が、あれだけの人前で、稽古の時以上に上手く出来たことは、無上の喜びであった。然し乍ら、点前を上手く仕様というのは正解であって、誤解であるのだ。茶の湯は自分の茶を客が心から美味しいと思ってもらえることに、最も気を配らねばならない。茶の湯の真髄はこれ一点である。その一点に到達するために稽古をする。稽古をして基本の所作、型を己が肉体にしっかりと植え付けて、花を咲かせるために己を育くむ。それが茶道の稽古である。稽古を重ねれば、点前も自然に上手くなるもので、所作も美しく見える。全く未熟であるが、これまで一年半の一区切りとして、とても大きな自信となった。これからさらに稽古に稽古を重ねて、いつの日か私の茶の湯が見つかれば、これに優るモノなどあるまい。

四十年生きてきて、あらゆる迷いがあった。迷いや悩みは尽きぬもので、年相応の迷走は続いている。それは誰しも同じであろう。当てもなく彷徨うことが、生きてゆくことなのだ。その中で、一つでも光を見出だして、その光の方へ歩いてゆきたい。これが人間の欲望である。私は私のお茶を見つけることで、私という人間が見つかるかもしれないと思っている。 茶道は一にも二にもひたすら稽古である。家元も、家元教授も、我が師も異口同音で言われる。茶道に限らず諸芸、スポーツ、芸術も同様である。どの世界にも天才がいて、天才がいるからこそ、その道が脚光を浴びて興隆してゆくのだと思う。私のような愚物には天才の境地など計り知れないが、天才はまた努力を惜しまないため、凡才はいつまでもどこまでも、天才の背中を追い続ける。だが、茶道においては、ひょっとすると凡才が天才に追いつける日があるかも知れないと思わす瞬間がある。言葉を換えれば、稽古精進していれば、誰しもがふとこれまで掴めなかった茶の湯を掴める時がやってくるのではないか。己の求める茶の湯である。それは稽古を怠ればやってこない。此度の初釜で痛感したことだ。その先にはさらなる高みがあって、そこへ向けてまた稽古、稽古、稽古である。これは私の錯覚かも知れない。たかだか一年半の茶道で、大言壮語も甚だしき限りだが、一度の経験とは千を語るに及ばずであることも、この妙な自信に繋がっていると思う。私が初めて得た自信を大切にして生きてゆきたい。

公共の福祉と言論の自由

大寒の候。東京では大雪が降る。先日、小室哲哉さんが音楽活動を引退した。週刊文春に不倫疑惑を掲載されて、自らの望んでいた勇退とは違う、惨めで哀れな末路となった。個人的には小室さんの引退はとても寂しい。小室哲哉の音楽は、私の思春期から青春期に傍にあった音楽である。その対局にあるMr.ChildrenGLAYとともに、これまでもこれからも、私は小室哲哉の音楽を携えてゆくだろう。若い頃に出逢った文学は一生忘れないものだが、音楽もまた然りである。小室さんは満身創痍の会見で、しどろもどろになりながらも、今の自分と疑惑について、闘病中のKEIKO夫人のこと、そして己の才能の限界と涸渇について赤裸々に告白した。小室さんは真面目な人である。少なくとも私には昔からそう見える。真面目過ぎる故に、トラブルや墓穴を掘ることも多いと思う。そして、誤解を招く事もあろう。かつて金銭トラブルで詐欺罪に問われ逮捕され、裁判になった時も、真面目さが不器用と相まり、それが祟った結果だと私は思っている。しかし、誤解を招く行動や、結果的にその行動によって損害や心痛を被った人もいたわけで、そうした行動は慎み、その点は素直に反省すべきである。人としてごく当たり前の事であり、政治家とか芸能人とかは問題ではない。事実小室さんは猛省したし、世間は才気の再起に期待したのだが、此度も猛省の結果、引退となった。

 昨年来、各界で不倫や淫行が新聞雑誌で暴かれているが、こうした疑惑をすっぱ抜くことが得意なのが週刊誌であり、昔から彼らの専売特許である。しかし、ここのところの週刊誌やマスメディアのやり方、過熱報道、取材と公表の在り方には少しばかり疑問符が付く。確かに我国は表現の自由言論の自由が最高法規たる憲法で保障されている。日本国憲法第三章第二十一条で、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならないとある。日本は明治維新から近代国家として歩み成長した。昭和戦争では死に体となるが、戦後新しい憲法を携えて、国民一人ひとりが次の「坂の上の雲」を追いかけて、努力を怠らなかったから今がある。マスメディアも戦時下の言論統制から解放されて、存分に叫び、諭し、伝えてきた。必死で這い上がろうとする国民は脇目も振らずに走ってきた。その背後からは高度情報化社会という、日なたの様で闇夜の如き大波に飲み込まれることも気づかずに。気がつけば今、腐敗したマスメディアに操作され、洗脳され、汚染された世の中に成り下がってしまった。

憲法は第十条で法治国家を宣言し、第十一条で、基本的人権を侵すことのできない永久の権利とし、第十二条で、憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持し、国民はこれを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふとし、第十三条で、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするとし、第十四条で、法の下に平等と謳う。私自身、日本国憲法は第九条から十四条までが、戦後現代日本の国是を表し、国民を守護し、国民一人ひとりの自由を許す至高の精神であり、銘文であると思う。故に報道も表現もまた自由には違いない。だが、過熱報道、捏造、某国の大統領の言うフェイクニュースも時に混在しているとも思う。それほどに、個人攻撃が鋭い。無論、公人や芸能人は自身の行動に対する責任と戒めが肝要であり、報道される覚悟もまた必要と心得なければならない。某大統領のようにいちいちマスコミと言い争うのも低次元であるが、やはり行き過ぎた取材、報道にはいささか辟易する。空虚なのだ。しかしながら、我々は知る権利を有し、報道、表現には自由がある。それもまた憲法が保障している。

そこで考えねばならぬのは憲法にもある「公共の福祉」という事だ。「公共の福祉」とは実に漠然たる表現ともいえるが、言い得て妙であり、これ以上の表現はないだろう。時に人権と人権は衝突をする。私の人権は、当然相手にも同権がある。双方保障せねばならぬから、互いの人権は一定の制約を受ける。すべての人の人権が法の下に平等に保障されるために、人権と人権の衝突を調整する事を、憲法は「公共の福祉」としたのである。我々は「公共の福祉」に反しないように互いを尊重し、互恵関係を築かねばならない。少なくとも現行憲法で生きてゆく限り、日本人はそのように生きてゆくべきであろうと私は思う。我々には今少し真面目さと優しさが足りないのではないか。皆が己が事しか考えていない。逆を言えば、己が事で精一杯なのである。我々は二十一世紀という極めて複雑怪奇な時代の畝りの中に在って、併せて混迷を見せる世界情勢を眼前にして生きている。今、国内でくだらぬ虐待をしている場合ではない。マスメディアの責任は果てしなく重いが、我々標的となる民衆も自戒と覚悟が必携である。双方が温かくも冷え錆びた感覚が要求される時代である。そうせねば、あっという間に潰されて、消されゆくのだ。浮世とは何とも哀しいものだ。

私にも言論の自由はある。ゆえに此度はかく語らせてもらった次第である。

 

日本仏教見聞録 善光寺

昨年秋、坂東三十三観音巡礼を結願した。西国、坂東、秩父などの観音巡礼に結願すると、信濃善光寺と、別所の北向観音へ御礼参りするのが慣わしである。私とT君は師走間近の晩秋、信濃路へ旅立った。夜中に東京から関越道に乗り、上信越道の上田あたりで明け染める。朝焼けに映える山々の頂きには、グラニュー糖を振りかけたように薄っすらと雪。雪の下は赤や黄や橙の広葉樹と、濃い緑鮮やかな針葉樹が混在して、あの山もこの山も、大きなクリスマスツリーの様である。信州はもう冬であった。早朝に長野市に入り戸隠神社へ向かうが、昨夜来、かなりの雪が降ったようで、市街地を抜けると樹氷の森が現れ、戸隠への七曲り道を登りきったところで、路面は凍結していた。雪道が不慣れな我々は、その日は戸隠行きを断念し、明日雪が溶けることを願いながら善光寺へと向かう。

私は、日本仏教の本山と名の付く大寺院を訪ねる旅も続けている。が、果たして善光寺を加えて良いものか考えた。しかしこの寺は無宗派である。私の本山巡礼も宗派を問わない。善光寺こそもっとも相応しい寺ではないか。善光寺について、こと新たに述べることはないが、私は此度初めての善光寺詣である。善光寺を味わい尽くしたい。大本堂にも山門にも雪が被っている。空は快晴、冷たく澄んだ空気が寺域を充満し、私たちを心身ともに浄めてゆく。善光寺独自の縦長の大本堂は、これだけ大きいのに、瓦屋根ではなく桧皮で葺いてあることが、重苦しさを排除し、柔和な印象にしている。巨刹にある威圧感は皆無であるのに、包容力はとめどがない。大本堂に上がるとすぐに、賓頭盧尊者の木像がある。何十年、何百年と人々に撫でられた体は艶々に痩せ細り、顔はのっぺらぼうになっていた。大本堂内部の内陣には、東に地蔵菩薩、西に弥勒菩薩の坐像が参拝者を迎える。二体とも本尊や諸仏と違って、この寺では珍しく巨大な坐像で、大本堂の重石の様である。本尊阿弥陀三尊のおわす荘厳な極楽浄土が現出する内陣と内々陣は、殊に彫刻が美しい。一枚が畳ニ畳ほどもある内陣欄間には、極楽往生へと導く金色の二十五菩薩が雲に乗って浮かぶが、一つだけ菩薩が乗っていない雲がある。これは、我々衆生が乗るための雲であると云う。そうゆうさりげない優しさに、衆生は感動し信仰を厚くする。

三國伝来の請来仏で、我国最古の仏像と云われる善光寺の本尊一光阿弥陀三尊像は、絶対秘仏であり、住職すら拝したことはない。インドから朝鮮半島に渡り、日本の皇極天皇へと渡った。天皇は崇仏派の蘇我馬子にこの仏像を授けた。当時、日本は崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏が争っていたが、疫病が蔓延すると、物部氏は他国の異教が入ってきたことが原因だとして、蘇我氏の建立した寺を破壊し、この仏像を難波の堀江に投げ込んでしまう。が、結局この争いは崇仏派蘇我氏が征し、物部氏は失脚する。その後、信濃国司の供として都に上った本田善光が、難波の堀江を通り過ぎようとした時、水中から阿弥陀三尊が現出し、善光に信濃へ連れてゆくようにと言った。善光は言われたとおりに、信濃飯田の我が家にて阿弥陀三尊を手厚く祀った。ある日、息子の善佐が病で急死するも、阿弥陀如来は彼を甦らせた。善佐は黄泉の国からこの世へ還る途上、鬼に引きずられて地獄へ墜ちようとする高貴な女性に出会う。何おうこの女性は皇極天皇であった。甦えった善佐は、このことを父母に話して聞かせ、一家阿弥陀如来皇極天皇の命乞いをした。すると天皇は甦り、阿弥陀三尊のご威光と、善光親子の徳を讃え、天皇の発願により皇極元年(642)、飯田の御堂を現在地に遷し、寺名を本田善光からとって善光寺とした。善光寺無宗派で、庶民信仰から始まり、貴賎の別なく、女人救済にも隔たりがないのは、縁起からして当然であろう。大本堂の裏手の梅林には徳川家大奥の供養塔が建っていた。生涯を奥女中として過ごした女たちの、極楽往生を願う気持ちが込められている供養塔である。他にも佐藤継信、忠信兄弟の供養塔、真田家供養塔、中には迷い郵便の供養塔まである。どこまでも懐深い寺である。

本尊のお前立ちも普段は秘仏で、七年ごとに御開帳される。御開帳は信州一の盛儀であり、昔から「牛に引かれて善光寺参り」とか、御詠歌にも「遠くとも一度は詣れ善光寺」とある。内々陣には向かって左手に本尊を祀る瑠璃壇があり、右手には善光寺開基である本田善光と、妻弥生、息子善佐の親子三人の木像が安置されている御三卿の間がある。ほとけさまと人間が、区画は隔てられているが横並びに安置されている。この様な祀り方は他の寺では見たことがない。それに善光親子の表情が良い。一般に寺の開基や開祖は、高僧や貴人と決まっていて、そうした木像は人間臭くて薄気味悪いものだが、この三人は柔和で親しみ易い面立ちをしている。いかにも争いや権威権力とは無関係な、善光寺を象徴する像だと思う。思えば、庶民の名前が寺名になっているこれほどの巨刹もあるまい。日本の寺でこの規模の寺院は、南都の官寺、各宗派の本山、天皇家藤原氏の氏寺、京都や関東の禅刹、徳川家の菩提寺など、そのほとんどが権門と繋がって建立された。善光寺とて、後々は、各権門から寄進や寄付があって、今のような巨刹になったが、始まりは本田善光の家であり、まことに小さな仏堂であった。私は浅草寺清水寺にも似た雰囲気があると思っている。

善光寺と云えば、「お朝事」と呼ばれる毎早朝の勤行が有名だが、それは翌朝参加する予定だ。このあと、大本堂のお戒壇巡りをやる。大本堂の地下に延長四十五メートルの回廊があって、ちょうど中程に、「極楽のお錠前」と云う取っ手のようなモノがある。これを握ることで、本尊と結縁できて、極楽往生が約束されるというありがたいものだ。だが、回廊内部は灯が一切なく、手探りで壁を伝い、闇を彷徨いながら、お錠前を探すのである。今さら痛感させられたことだが、闇とは真に恐ろしいものだ。戒壇内部は大人が歩けると分かってはいても、ついつい屁っ放り腰となってしまい、恐る恐るの暗行である。わずか四十五メートルが、やたらと長く感じる。まさに暗行と呼ぶに相応しい。何がいるとか、何かにぶつかりはしないかとか、そういう怖さではない。ただ闇が怖いのである。初めてのこととて、自分の臆病さには半ば呆れた。あげく私は、お錠前を通り越そうとした。が、後ろにいたT君が声をかけて、引き戻してくれた。おかげさまで、私もお錠前を掴むこと叶ったのである。戒壇巡りは人生の縮図である。とかく一生は、暗闇を手探りで歩いてゆく様なもので、周囲に気を取られていたり、逃げ腰でいれば、本当に大切なモノを見逃してしまうのだ。そんな時、一人では気付けないことを、誰かが気付かせてくれることがある。それは家族か、友人か、一期一会の他人かも知れない。或いはその人は、この世の人ではなくて、神や仏かも知れない。人は愚かである。人生において大事な地点を通り過ぎたり、一人では戻って来れない場所へ踏み込むこともある。私も若い頃にそういう経験があった。だが、其処から連れ戻してくれた友人がいた。信じてくれた家族がいた。ゆえに今がある。善光寺戒壇巡りをして、お錠前を一人では探し当てることができなかったことは、悔しいとか、恥ずかしいとか、哀しいとかではなくて、友に導かれて辿りついたことが、何より嬉しかった。この夜は、善光寺から歩いて十分くらいの高台にある山の神温泉に泊まった。部屋からは、善光寺の大屋根が真後ろから見下ろせた。夜の帳が下りると善光寺平に明滅する灯は、言葉にならぬ煌めきである。それを眺めながら、T君と坂東巡礼結願と善光寺北向観音への御礼詣りが叶った祝い酒を呑む。本当に美味かった。

 翌朝、五時過ぎに起床し、「お朝事」に参加する。善光寺無宗派だが、各宗派を代表して天台宗と浄土宗がこの寺を守り営んできた。住職も二人おられる。お一人は天台宗大勧進貫首様、もうお一人は浄土宗大本願の上人様である。大勧進貫首は、天台宗の高僧から選ばれる。大勧進本坊は、山門に向かって左手に、濠を廻らせて威風堂々と男性的な佇まいで建っている。一方の大本願住職は、代々尼僧が務め、日本で唯一の女性上人である。皇極天皇蘇我馬子の娘を召して、自らに代わって御仏にお仕えするように言われ、善光寺へ派遣された。以来、大本願上人は、女性皇族や高位の公家の女性が務めてきた。大本願本坊は、山門から南へ一丁ほど行った仁王門左手にあり、寺院というよりも御座所のようで、いかにも格調高い趣である。お朝事は大勧進大本願両住職が毎朝大本堂に出仕し、三十分交代で行われる。この寺でもっとも厳粛な勤行である。善光寺のお朝事は、密教寺院のように盛んに護摩を焚いたり、太鼓を打ち鳴らして悪鬼羅刹を調伏するのでもなく、禅刹のように座禅をしたり、全僧侶による荘厳な読経があるわけでもなく、真宗寺院のように門徒が声高に御念仏し、坊さんが説教するのとも違って、まことに静かで穏やかなお勤めである。だが、静かなる読経はしっかりと大本堂の隅から隅まで染み渡り、ピンと張り詰めた柔らかな気が堂内を包みこむ。私たちは遠慮して外陣から拝したが、突然女性に背中を叩かれて、「もうすぐ扉が開きますから、どうぞ瑠璃壇正面の方へ」と促された。言われるがままに、瑠璃壇正面へ来て合掌していると、果たして厨子を覆った幔幕が上がり、貫首様が厨子の扉を開かれた。私は目を疑った。確かにお厨子が開いて中の阿弥陀三尊像が見える。私は目が悪く、眼鏡をかけているが、遠くが見えない。外陣からであったし、何度も目を凝らしてみたが、やはり厨子の扉は開いている様に見える。あれは、お前立ちのお前立ちなのだろうか。やがて、貫首様が私たちの方を向かれ合掌し、南無阿弥陀仏。私らも合掌し南無阿弥陀仏。ほんのいっときであった。顔を上げると厨子の扉は閉じられていた。私たちに、瑠璃壇正面へと促した女性もどこにもいなかった。後からいろいろ調べてみたが、お朝事で厨子を覆う幕は上がるが、扉が開くとはどこにもない。あれは夢であったのか。思えば、あの女性は寺の方なのか、信者なのかも定かではない。或いは皇極天皇か弥生御前とまで、いろいろと考えてみたが、もしかしたら観音巡礼結願の御礼参りに来た私たちに、観音様が化身されて来られたのだろうか。ありがたくも不可思議な体験をしたと思う。お朝事の際、信者が心待ちにしているのは、「お数珠頂戴」である。貫首様や上人様が大本堂へ出仕の際に、参道に跪いた信者や参詣人の頭に、「南無阿弥陀仏」と唱えながらお数珠を翳してくださる。これもまた極楽往生への切符となるらしい。私たちも皆に倣い、冷たい大本堂の板に跪いて合掌し、両住職へお数珠頂戴を希う。そこにはひとつの穢れもなく、純粋無垢な感激と謝恩の心があった。これが迷いなき信仰というものなのだと、今、こうして書いてみて得心した思いである。

境内の片隅には、歴代の大回向柱が置かれている。置かれているというよりも、しっかりと土に埋めてあって、直近の柱が一番背が高く、時代を遡るにつれて、ほとんどが土に還り、頭だけが地上に出ている柱もある。その一本一本に私は触れてみた。外気は冷たいが、柱は温かい。大回向柱は御開帳中に大本堂の前に立てられて、前立ち本尊の阿弥陀如来の右手と紐で繋がっている。人々は大回向柱に触れて、御仏と結縁するのだ。大回向柱は御仏と衆生の本願の接点である。次の前立ち本尊御開帳は、今から四年後の西暦二千二十年である。その時はもう平成ではなく、新元号である。

善光寺には三十六もの宿坊があるという。それらが周囲を情緒ある町並みにしている。ここから善光寺平の街並みは広がっていった。長野市は日本一大きな門前町である。弥陀の本願にただひたすらに縋りついた親鸞も一遍も善光寺にしばし逗留した。川中島で互いに切磋琢磨して戦った信玄と謙信も善光寺を敬愛した。旅を愛し己が数寄の道を歩いた芭蕉善光寺へやって来た。そして小布施の岩松院に八方睨みの鳳凰を描きに来た晩年の北斎もきっと善光寺へも詣ったであろう。彼らは皆一様に、善光寺阿弥陀三尊との結縁を喜んだに違いない。長野五輪開会式は善光寺の梵鐘が突かれて始まったが、この寺が草創した時から、響き続けている信仰の音は、今も、これからも消えることはないであろう。

転生

平成二十九年大晦日。明日から平成三十年だが、その平成も残りおよそ一年半で幕を降ろす。思えば二十九年はあっという間であったが、平成元年からこれまでを鮮明に思い出せるのは、私がこの時代を我が人生において、最も多感な時期に過ごしたからだろう。しかし、来年から再来年卯月末日までは、知らぬ間に通り過ぎるであろう。平成を噛み締めながら生きたいのだが、今の時勢、私の生活環境がそれを許してくれそうもない。来年から再来年にかけては、天皇御退位と新天皇御即位に伴う改元のみならず、その先、新元号の下で開かれる東京五輪まで、実に様々な催しが国内外で予定されている。ここにいちいち挙げるのは控えるが、或いは突発する出来事が、激流のように目紛しく起こりそうな気がしてならない。その時、私はどういう心持ちでいられるのだろうか。

人間は時代時代で修羅場に遭遇してきた。人間にとっての修羅場とは、天災、戦争、人災(テロ、殺人、恐慌、環境破壊等)の三つである。個々の修羅場はまた別で、それは多くが家族、仕事、対人関係においてであろう。修羅場は連続ではないが、断続であって、不可思議な連鎖を起こす。火は火を呼ぶのである。その火がすべてを焼き尽くした時、生まれ変わることができるのであろうか。起きてみなくては解らないことだが、歴史を鑑みれば現実でもある。徳川時代までの日本では、禍事や凶事が続くと、宮中や社寺で祈祷が行われ、改元することで、邪気を祓い、新たなる活路を見出そうとしてきた。改元がなく元号が長く続く時は、余程泰平であったのだろう。幕末になると、一年から三年ほどで頻繁に改元されていることからも、当時の人々の不安感が察せられる。明治になり、一世一元となり、天皇の代替わりによってのみ、改元されている。維新前とはずいぶんと改元の意味合いが変わったが、改元の重みは昔よりも増した様に思う。来年秋までには、新元号が発表されるというが、果たしてどんな元号となるのか。昭和後期生まれの私だが、まさに昭和は遙かに遠くなる。

時に平成の天長節も残り来年あと一回。先日の天長節、私は東京小平市にある平櫛田中彫刻美術館に出かけた。平櫛田中は、私がもっとも好きな日本の彫刻家である。以前、上野の芸大美術館で平櫛田中の展覧会があった。その時、私は別の仏像展に来ていたのだが、同時開催されていた平櫛田中の展覧会もついでに覗いた。が、ついでなんて誠に失敬なことで、気魄溢れる彫像群に茫然自失としてしまい、すっかり平櫛田中の虜になってしまった。平櫛田中は、明治五年(1872)、岡山県後月郡、今の井原市に生まれた。本名は平櫛倬太郎。旧姓は田中である。十歳で広島県福山市の親戚平櫛家の養子となり、後に旧姓と新姓を併せて平櫛田中と称した。二十一歳で大阪の人形師中谷省古に弟子入りして木彫を学び、その後上京して、高村光雲の門下生となる。木彫、ブロンズ、石膏と何でもやった。静謐な躍動感を湛える平櫛田中の作品からは、彫刻がまったくの自然にできて、如何にも楽しかったに違いないことが、見る者に伝わってくる。そして田中は岡倉天心と出逢う。天心には歴史から日本美術史を師事した。物凄い勢いで彫刻を修練し熟達した田中は、帝室技芸員になる。その後、岡倉天心の創立した東京美術学校、今の東京芸大の教授となり、天心を敬愛し、天心の彫像も多く制作した。自らが彫って芸大の六角堂に安置された岡倉天心像に、田中は毎朝敬礼していたという。また、禅僧の西山禾山に私淑し、仏教や中国故事にちなんだ、独自の精神文化を作品に投影するようになる。

代表作は数多あるが、何といっても戦前から二十二年の歳月をかけて制作された「鏡獅子」は圧巻である。六代目尾上菊五郎をモデルにして、いくつもの試作をし、ついには菊五郎を褌一丁にして、装束の中身たる身体全体の筋肉や肉付きを観察しながら、装束を着けていない丸裸の鏡獅子まで試作する。妥協を許さぬ徹底ぶりには驚嘆するよりほかはない。この「鏡獅子」は国立劇場のロビーに展示されているが、生身の役者よりも迫力があり、六代目菊五郎が目の前に現れたようだ。九十歳で文化勲章を授かった平櫛田中は、晩年、小平市に移り住み、昭和五十四年(1979)百七歳で大往生を遂げた。田中は百歳を超えてなお、創作意欲盛んで、小平の自宅に、向こう三十年以上制作できる材木を運び込んでいた。現在その一部が、美術館に隣接する自宅の庭に置かれており、それはまるでオブジェのような巨木である。田中は最晩年まで彫り続けた。小平の家は美しく広々とした平屋住宅で、茶室もあって、彼の精神の集約とゆとりの均衡をとるための家であることがわかる。居間兼仏間に安置されているのは、自ら彫った新薬師寺の模刻の薬師如来立像で、像の真後ろが彼の寝所となっている。陽だまり溢れる実に快適な住宅で、近頃こんなに暖かな家を見かけない。縁側の陽だまりが、人を長生きさせるのだろうか。アトリエには、今も黙々と仕事をする田中が、そこに居そうな空気が漂っていた。

数多ある田中の作品で、私が強く惹かれて止まないのは、「転生」というブロンズ像である。「転生」は鬼が舌を出して、如何にも不味そうな怪訝な表情で、私たちを見下ろしている。芸大美術館の展覧会で、一番奥に展示されていたが、遠くからでもその圧倒的存在感に惹かれて、吸い寄せられるようにその前に立った。今回よくよく見ると、鬼が口から吐き出しているのは、舌ではなく逆さまになった人間であった。生ぬるい人間を食べた鬼が、あまりの不味さに吐き出しているところだと云う。生ぬるい人間とは、いい加減で、自己中心的な人間で、田中が幼い頃に聞いた説話を元に彫ったと云う。怒髪天を突く鬼は、見様によっては薬師如来眷属の十二神将や、不動明王にも見える。平櫛田中の仏教への造詣は極めて深かったことが覗える。「転生」が作られたのは、大正九年(1920)で、田中はまもなく五十を迎えようとする頃だ。まさに熟練となってきた頃の力作である。鬼気迫るとはこのことで、それを眼前で体験すれば、誰もが凍りついてしまうであろう。第一次大戦後、世界情勢は混沌としていたが、日本は明治の日露戦争以降、疲弊しきっていた経済が、第一次大戦に参戦し、戦勝国となったことで景気が上向き、大正デモクラシー大正ロマンといった、民衆から澎湃として起こった主義思想が巷を跋扈した。が、大正九年に株価が暴落し、昭和恐慌の前触れが始まる。その後は、関東大震災から昭和の戦争時代へ、日本は暗闇へ進むのであるが、平櫛田中はそれを密かに予感していたのかもしれない。あれほど感受性の高い人である。この時から昭和二十年までを予測するかの如く、「転生」を彫り上げたのではなかったか。そこには愚かな人間は、鬼も喰わぬと云う、正鵠を射た皮肉と憤りと悲哀がある。同時に、鬼に吐き出された人間は、新たに生まれ変わるチャンスを得て、転生すること叶うかもしれないのだ。そうした願いも込められているように思う。

大往生した平櫛田中座右の銘は、 「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」

 また百歳を超えてよく揮毫した言葉は、

「不老 六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から わしもこれからこれから」

平成二十九年歳末、再び平櫛田中に接触した私は、私自身のこれからに、まことに大きな援助を得た思いがした。奇しくも先月、我が祖母も百歳を迎えた。祖母は大正六年の生まれである。祖母が改元まで元気ならば、大正、昭和、平成、新元号と四時代を生きる。四度目の転生である。