弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一応天門炎上一

日本人は貴種流離譚が大好きである。貴種流離譚折口信夫が提唱したが、大まかな概念は高貴な身分に生まれながらも時勢が味方せずに虚しく下野したり、敵の陰謀に嵌り低い身分となったりして彷徨い、もがき、その後華々しく復活する物語の事である。源氏物語伊勢物語が代表的な貴種流離譚と云われる。しかし実際は虚無感に堪えかねて憤死する者あり、或いは密かに遁世する者が多かった。こうした人物には「世が世であれば」と云う、余人には計り知れない苦痛が生涯付き纏ったに違いない。実在で代表的な人物を挙げれば、皇族では大友皇子大津皇子淳仁天皇崇徳天皇後醍醐天皇とその皇子たち、後南朝の自天王、臣下では源義朝とその子ら頼朝、木曾義仲義経、思えば源氏は皆貴種流離譚を字でゆく。少し下り足利尊氏の長男に生まれながらも、不遇を囲い続けた足利直冬もまた然り。文徳天皇の第一皇子惟喬親王もそうしたお一人である。

まことに悲運な生涯を送られた惟喬親王についてはぜひとも触れておきたい。文徳天皇の後継は藤原氏の策謀によって、第四皇子の惟仁親王が皇太子に立てられた。文徳天皇は惟喬親王立太子を望まれていたが、権勢をゆるぎないものにしつつあった藤原良房は、自分の娘明子の生んだ惟仁親王立太子を強引に推し進めた。惟喬親王は紀名虎の娘静子を母に持つが、もう藤原氏の勢力にはとうてい勝てない。誰が皇位継承するかは、臣下を巻き込んで様々な経緯があるのだが、結局は藤原氏に屈服したのである。惟喬親王は十四歳で元服されると、大宰権師に任命され、その後も大宰師、常陸や上野の太守と遠隔地へ追いやられてしまった。貞観十四年(872)、親王は病と称して二十八歳で出家されたが、事実は世に無常を感じられたに他ならない。それから五十四歳で薨去されるまで、流転の日々であった。叡山の麓、山崎の水無瀬、大原など方々に惟喬親王の放浪の足跡が伝承されている。墓所は京都から大原に行く途中の山中にひっそりとあり、地元の人以外にはあまり知られてはいない。一方で木地師と呼ばれる木工を生業とする人々から、惟喬親王は代々崇拝の対象とされてきた。それを色濃く残しているのが近江の小椋谷で、親王は遁世後すぐにこのあたりに籠居され、高松の御所と呼ばれるつつましい屋敷に住されたと云う。大木の多いこの土地に暮らす人々に、器の木地を作ることを推奨されて、自らろくろを引かれ教えられた。これが木地師の起源とも云われる。白洲正子氏の随筆『かくれ里』の「木地師の村」という章に詳しく書かれている。白洲氏が聞いた村の言い伝えによれば、親王薨去されるまでの十九年間この地に住み、薨去された後、村人たちは君が畑と云うところに親王を祀る社を建てた。そこは今も残る太皇木地祖神社で、入り口には「日本国中木地屋之御氏神」と彫られた石標が建っていると云う。後に日本中に分散していった木地師の総本山とも云えるこの場所に、参拝する木地師たちは、「只今帰ってきました」と言うとか。白洲氏によれば、惟喬親王の伝承は大原から花折峠を越え朽木谷、そこから湖北を経て伊吹山を越え、小椋谷を含めて鈴鹿山中の方々にあると云う。これが流転の惟喬親王の生きられた証拠であり、その最期の地は大原とも小椋谷とも云われるが、どの土地でも崇拝されている。よほど魅力的な人物であり、英明かつ民とも分け隔てなく親しく付き合われたお人柄と推察できる。親王御自身もそうなさらなければ、立つ瀬がなかったに違いない。惟喬親王が生きた時代が藤原摂関時代ではなければ、或いは偉大な帝王となられたかも知れない。人を惹きつけて、導かれることに長けておられたことが、藤原氏を警戒させたのであろう。私もいつか惟喬親王と云う無冠の帝の足跡をくまなく歩いてみたいと思う。

閑話休題

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。和田秀松氏の『官職要解』に詳しい。以下、少し長いが引用する。

~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである。~

天安二年(858)、文徳天皇は三十二歳の若さで崩御された。兄に代わって皇太子となっていた惟仁親王が御年わずか九歳で第五十六代清和天皇として即位される。これまで桓武天皇以来、平安時代に入ってから即位された天皇の平均年齢が三十三歳で、歴代でも二十代半ばから三十代での即位がほとんど、一番若年が十五歳で即位された奈良朝の文武天皇であるから、清和天皇がいかに破格の若さであったか。以降、摂関が力をつけるに連れて、幼帝は大きな意味を持ってくるのである。つまりは外祖父として後見し、天皇に代わって政を行うためには、自ら思考し政を実行をできない幼帝を奉じるのがもっとも容易であり、周囲も屈服せざるを得ない状況なのである。かくして藤原良房は摂政となった。それでもまだこの段階では、良房と藤原氏による政治は磐石なものではなかった。しかしそれをさらに進める事件が起こる。

貞観八年(866)閏三月十日晩春の夜、平安宮朝堂院の正門、応天門が不審火により炎上した。朝堂院は大内裏の正庁で、平安時代からは中国に倣い八省院とも云われた。宮中でもっとも格式が高く、重要な施設である。天皇玉座である高御座が据えられた大極殿を中心に、天皇が早朝に政務を執った朝堂、臣下の待機所兼事務所であった朝集殿があった。唐の官僚機構に倣い設けられた八省とは、左弁官局右弁官局に分かれ、左弁官局中務省式部省治部省民部省の四省を、右弁官局兵部省刑部省、大蔵省、宮内省の四省を管轄した。各省をざっと浚うと、中務省天皇に侍従し、詔勅の作成や宣旨、伝奏、宮中の事務を統括し、戸籍を管理した。今の総務省宮内庁が一つになったような機関である。内部局として図書寮や陰陽寮もある。式部省は、文官の人事、朝議と学校を掌る。後に文部省と云われた時代もあり、今の文科省の前身とも云える。治部省は外交事務、雅楽、葬事をしきり、寺社を掌った。民部省は租税、財政、戸籍、田畑を掌る。兵部省は軍事全般と武官の人事を掌る。刑部省は司法を掌る。大蔵省は財宝、出納、物価などを掌る。宮内省は宮中の衣食住、財物を管理し、祭祀や諸事を統括した。八省院とはこれら官僚機構の集まる場所で、今の霞ヶ関官庁街のようなところである。現代に通ずる日本の官僚機構の原型が、この時代ほぼ出来上がっていたのである。平安時代、八省院には東西に多くの殿舎が建てられ、大臣ら公卿や官吏が執務をとっていた。その正門が応天門であった。平安神宮には立派な応天門が復元されているが、あれでも実際の応天門を縮小したものとかで、この門がいかに平安宮にとっていかに重要な門であったかが知れる。

紅蓮の炎は一瞬にして応天門と左右の楼閣を灰燼にした。出光美術館に蔵されている国宝『伴大納言絵巻』には、この事件のあらましが炎上から後日譚まで詳細に描かれている。この火事を巡り、当時の政権ナンバー4の大納言伴善男は対立していた政権ナンバー2の左大臣源信の仕業であるとして追放しようとした。伴氏はもとは大伴氏と称し、古来より名門の一族であった。大伴の姓が淳和天皇の諱の大伴と重なるのを憚り、大伴氏から伴氏に改めたのである。一方、放火犯に仕立て上げられた源信嵯峨天皇の皇子で、源の姓を賜り臣籍降下した嵯峨源氏のひとりである。当初この事件は政権ナンバー3の右大臣で良房の弟の藤原良相が処理に当たった。良相と善男は政権ナンバー1の良房に諮らずに源信を逮捕しようとした。しかしここで待ったをかけた人物がいた。何おう藤原良房である。良相は、良房の養子であり後継者の藤原基経源信の捕縛を要請するが、基経は良房は承知しているのかと問いただす。良相が否定すると、かかる重大事を良房の了解無しで運ぶことはできないと断り、基経は良房にその経緯を報告した。ただちに良房は「左大臣は陛下にとって大いに功ある人物であり、これを誅するならば、まず先に私が罪に服します」と清和天皇に訴えた。良房の奏上に驚いた天皇は訴えを退けて、源信は逮捕を免れたのである。窮地に立たされたのは良相で、独断で兵を差し向けた責めを負わされ、政権ナンバー3の座から転落してしまう。良相は娘の多美子が清和天皇の女御になり寵愛を受けていたため、着々と勢力を拡大しつつあった。これには兄でありながらも政権ナンバー1の良房が警戒しないはずはない。犯人扱いされた源信嵯峨源氏であるプライドもあいまって、屈辱のあまり籠居し、朝廷に出仕しなくなる。さらに、源信が放火したと訴えた伴善男が今度は真犯人であるとの目撃証言が出てきて、ついに善男は捕縛され、後に伊豆へ流罪となる。政権のトップ4のうちナンバー1以外はすべていなくなり、若い清和天皇が頼りとするのは、良房しかいなくなったのである。

そしてこの年の八月十九日、ついに清和天皇は良房に「天下の政を摂行せよ」との勅命を下す。ここに臣下として日本史上初めての摂政が誕生した。もう政界に良房のライバルは存在しなかった。果たして応天門の変の真犯人は誰なのか。結果的に一番利益を得た者は、藤原良房なのである。これはやはり彼の陰謀にあらずや。直接手を下してはいないが、藤原氏お得意の権謀術数の限りを尽くし、ライバルを排斥してゆく。良房はこの事件を上手に利用して、自らに有利な展開へと誘導していったのである。彼がこの事件の解決をみないうちに摂政となったことからも、応天門の変藤原氏の陰謀であった可能性が高い。良房以降、摂政は、養子の基経に引き継がれて、やがて令外の官として制度化し、藤原北家に継承されてゆくのである。そして幼帝が成長されて、成人となられると、摂政から関白となって、引き続き政務を取り仕切った。関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。『官職要解』には~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~とある。この関白に最初に就任したのが、藤原基経なのであるが、それはまた次回記すことにしよう。

清和天皇は二十七歳で譲位され、陽成天皇がこれまた九歳で即位された。基経は良房に倣ったわけだが、清和天皇にしても、幼い頃より当たり前のようにいた摂政という存在を、成人してもなお頼りとされたに違いない。もっとも基経とて、「政と云う邪推を孕んだ雑事は我ら臣下にお任せください」などと天皇に吹聴していたかもしれない。余談であり、これもまたいずれ触れるだろうが、清和天皇の十人の皇子のうち四人と、さらにその孫のうち十二人が賜姓降下し源氏を名乗り、清和源氏が誕生した。このうち代々続いてゆくのが、第六皇子貞純親王の子で源経基から始まる流れで、武家の棟梁たる清和源氏の起源と云われる。平安末に武士が台頭するが、その一方の旗頭である源氏の嫡流である。平家を滅ぼして鎌倉幕府を開く源頼朝がそうであり、室町幕府を開く足利尊氏清和源氏の末裔である。

 応天門の変の年、基経は上席七人を飛び越えて中納言となり、二年後大納言を経て右大臣になる。その一週間後に養父良房が亡くなるが、ここまでのスピード出世は良房の影響力の大きさを示している。この時、上席の左大臣には源融がいたが、政権を掌握したのは基経であった。光源氏のモデルとも云われる源融も、嵯峨天皇の皇子で賜姓皇族であり、嵯峨源氏融流の祖である。源融は平安王朝随一の風流人として名高い。彼の六条河原の邸宅はその趣味と粋を集めた屋敷であった。河原院とも河原大臣とも称されるほど、当時の平安京において彼とその邸宅は有名であった。今ある東本願寺渉成園がその跡地である。また嵯峨にあった別荘の跡地に建立されたのが現在の清凉寺で、宇治の別荘が後に平等院になった。いずれも四季を愛で、風流を極めた融の面影は、清凉寺にも平等院にも色濃く残っており、彼の人となりが知れる。能の『融』は、彼を題材とした物語。 都へやってきた諸国一見の僧がある夜、六条河原院の邸宅跡を訪れる。そこに桶を携えた潮汲みの翁が姿を見せる。 海辺でもないのになぜ潮汲みを、といぶかる僧に翁は、此処は亡き融大臣の邸宅河原院の跡であると言い、生前の融が奥州塩竃の光景を再現しようと、難波の浦からわざわざ海水を運ばせ、庭で潮汲み、塩を焼かせていた故事を語る。しかし融の死後は跡を継ぐ人もなく、邸宅も荒れ果ててしまったといい、翁は昔を偲んで涙を流す。後でその翁は融の化身であるとわかり、僧が再び河原院を訪れると、融大臣が貴人の姿で現れて、昔を偲び月下で舞をまって、夜明けと共に消えてゆく。風流人源融の耽美的な生活を現出するのみの能であるが、どこか儚く、物寂しい幽玄さを湛えている。藤原氏の専横を許し、後の世までその栄華を決定的にしたその瞬間にいた源融の忸怩たる思いと云うものを、作者の世阿弥はさすがによく心得ていると思う。

ほとけのみち 建長寺

春先、花所望の茶会へ参席するべく数年ぶりに鎌倉を訪ねた。東京から鎌倉は近い。以前はよく歩いたものだ。江ノ島近くの片瀬に住んでいたこともあり、当時は毎週末鎌倉の寺社巡りをした。近頃は関西にばかり脚が向いて鎌倉は素通りであったが、歩いてみればやはり良い。山海が密接した鎌倉はいかにも堅固な要害で、樹々と潮騒の入り混じる鎌倉独特の匂いがする。三方を山に囲まれ、前面には相模湾を望むこの地形が、鎌倉から歴史を完全に放出させずに済んでいる。地形は実は歴史と云うものとかなり深く結びついていて、例えば関ヶ原などは古代と近世の二度、天下分け目の大戦があったことは、あそこが交通の要衝であったと云うだけの理由ではあるまい。関ヶ原の地形と風土がそういう場所に仕立てたのである。京都があの狭い盆地で千年ものあいだ都であったのも四神相応の鉄壁の布陣であったがゆえに違いない。

鎌倉五山一位の巨福呂山建長興国禅寺は、鎌倉でもっとも大きい堂宇が甍を並べている。関東でも屈指の壮大な寺で、総門、山門、仏殿、法堂、方丈が一直線に配された伽藍を歩いていると、ズドンと胸を貫かれた心地になる。 この寺の境内を歩けば、禅道とは如何なるものか、凡俗の中で悟ることが如何に厳しく困難であるか、おぼろげに伝わわってくる。禅の悟りとは掴みどころなどない壮大な宇宙で、無碍の境地への到達は生涯なく、それはひたすら禅道に打ち込み、己の仏道に励むことが或いは無碍の境地なのかも知れない。臨済禅は、中国唐の時代末の宗祖臨済義玄に始まる。日本には宋の時代に渡った栄西によってもたらされ、鎌倉新仏教の一翼を担った。一翼と云うよりも一時は鎌倉仏教の中心が臨済禅であった。為政者たる北条氏が厚く帰依したからである。臨済宗の教えは、師から弟子への悟りの伝達を重じる。いわゆる公案と云うものだ。同じ禅宗曹洞宗が地方豪族や民衆に広まったのに対して、臨済宗は朝廷や武家政権に支持された。戦国時代に一時衰退しかけたが、徳川時代に明より来日した白隠によって日本の臨済宗は再興された。以降臨済宗白隠禅とも云われている。

北条時頼は十九歳の若さで鎌倉幕府五代執権となるが、北条幕府の転覆を謀る相次ぐ謀略事件の取締りや、三浦氏一族の反乱に忙殺され、なんとかこれを鎮圧し権力を掌握するも心身疲弊していた。この時頼りとしたのが当時永平寺建立の寄進を波多野義重らから受けるべく鎌倉を訪れていた道元であった。接見した時頼もまた道元の教化に感銘を受けて、自ら建立する寺院の開山に迎えようとしたが、権力と距離を置きたい道元にはにべもなく断られてしまう。時頼はがっかりしたが、次に出会ったのが、南宋からの渡来僧である蘭渓道隆であった。蘭渓道隆は宋の純なる臨済禅の伝播に努めて、次第に慕う弟子が増えていった。時頼もまたその一人で、京に滞在していた道隆を鎌倉に招いて留め置き、いつしか師と仰ぐようになる。道隆も鎌倉こそが自分が布教を根差す場所と確信したに違いない。こうして蘭渓道隆は大船の常楽寺に入った。

かつて建長寺のあたりは地獄谷(じごくがやつ)と呼ばれた処刑場で、死者を葬る場所でもあった。その霊を弔うために古くから地蔵堂があった。そして建長元年には心平寺と云う寺が建立され地蔵堂も残された。時頼はこの心平寺を蘭渓道隆に与えて、建長五年(1253)に建長寺と改め、道隆を開山とした。ゆえに禅寺としては珍しく地蔵菩薩が本尊となったのである。余談だが、心平寺の地蔵堂は横浜の三渓園に移築保存されている。 仏殿に安置されている本尊は丈六の地蔵菩薩坐像で、あまりの大きさに圧倒されるが、よく見ればその表情は地蔵らしいわらべのような面差し。創建当初の仏殿は焼失し、今在るのは正保四年(1647)に江戸の増上寺より移築されたものだ。この建築は寛永五年(1628)に建立された崇源院の霊廟である。崇源院徳川秀忠正室で、家光の生母、浅井三姉妹の三女お江の方である。仏殿の天井や壁面には桃山文化の名残をみせる江戸初期の華麗な装飾が施されている。今は経年剥落してはいるが当時の壮観は充分に偲ばれる。

国宝の梵鐘も大きい。高さ二メートルの鐘は時頼の発願で、当時鎌倉大仏を鋳造に成功した鋳物師の物部重光が鋳造したもの。創建当時の数少ない遺構で、大きさは円覚寺の鐘にわずかに及ばないが、藤原様式伝えながらも鎌倉仏教の新しい息吹を感じさせる。円覚寺常楽寺の鐘と併せて鎌倉三名鐘と称されている。

仏殿のすぐ後方に法堂。禅宗では住持がほとけに代わって説法する講堂を法堂と呼ぶ。鎌倉五山で法堂が現存するのは建長寺だけである。関東屈指の大きな堂宇の中央には千手観音が祀られ、天井にはこれも禅堂お決まりの雲龍図。禅宗寺院で法堂の天井に水神である龍を描くのは、この下で修行する雲水に法{教え)の雨を降らすと云う意味が込められているのだとか。我が国最初の本格的な禅宗寺院として発足したのが建長寺である。確かに鎌倉五山第三位の寿福寺こそが日本最初の禅寺とも云えよう。宋より帰国して寿福寺を開山した栄西が最初に臨済禅をもたらしたからだ。ところが寿福寺や京都最古の禅院建仁寺は創建こそ建長寺より早いが、元は天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。寿福寺の創建から半世紀後、坂東武士の心と蘭渓道隆の理想がひとつに結実して建長寺が創建されたのである。ここに純粋な禅の新しい時代が開かれていった。満を持して日本の禅宗がスタートしたのが建長寺であった。蘭渓道隆は大覚禅師と称されて、宋の厳格な禅風を取り入れ、建長寺は往時千人以上の修行僧が起居し、道隆の教えに導かれた。

今も山内では雲水たちがその法灯を守り、日夜厳しい修行が続けられている。基本的に自給自足の修行道場。雲水はまだ払暁前の午前三時に起床する。朝課と呼ばれる読経と坐禅、朝食の粥座(しゅくざ)、山内を掃き清める日典掃除(にってんそうじ)と続き、世間一般の朝が始まる午前七時過ぎには托鉢に出かけてゆく。托鉢から戻れば作務や寺務作業、或いは個々に課した行などで午後九時の消灯まで休む暇はない。消灯後も、夜坐(やざ)と呼ばれる屋外での坐禅を自主的に行う。雲水の一日が終わるのは時に午前一時前後になることもあると云う。平均睡眠時間が三時間と云うから驚きだが、常人には到底成せない境域に達すると、こうしたことができるようになるのであろうか。ちなみに建長寺の台所典座(てんぞ)が発祥とされるのが精進汁の建長汁である。建長汁は普茶料理が起源と云う。昔、建長寺の修行僧が、豆腐を運んでいて誤って落としてしまい、豆腐はくずれてしまった。それを見ていた老師はくずれた豆腐を洗って鍋に入れ、咎めなかったと云う。これが建長汁のはじまりで、けんちょう汁とかケンチャン汁と呼ばれていたのが、やがて「けんちん汁」となったとか。 門前の点心庵では建長寺直伝の建長汁をいただける。 味は薄いが滋味深くとても美味しかった。

五山制度は臨済宗の格式を示すために宋国に倣い設けられた。日本では鎌倉幕府建長寺を五山第一としたが、それ以外はまだ曖昧であった。鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇建武政府が、鎌倉を中心とした五山を京都中心に改めて、南禅寺を第一とし、以下東福寺建仁寺建長寺円覚寺と定めた。つまり当時の五山は京都と鎌倉混在であった。建武政府が未だ東国と鎌倉を完全に掌握できていなかった証拠でもある。事実、倒したはずの北条氏の残党が、東国の各地であげた狼煙が常に燻り続けていた。後醍醐天皇はその牽制と討伐に北畠顕家を差し向けるも抑えきれなかった。鎌倉には足利尊氏の世子千寿王(のちの足利義詮)がいて、尊氏の命で弟の足利直義がこれを補佐していた。北条氏の残党は鎌倉奪還のために攻めてきた。足利軍は敗れ、千寿王と直義は命からがら鎌倉を脱出している。後醍醐天皇から鎌倉出陣を堅く止められていた足利尊氏は、しばらく我慢していたが、高師直らの進言により出陣を決意。千寿王と直義を救出した。その後は後醍醐天皇と仲違いしてしまい、ついには南北朝時代が始まるのであるが、五山もここでまた変わってくる。室町幕府を開いた尊氏は直義に寺院統制を任せた。直義は五山第一を建長寺南禅寺、第二を円覚寺天龍寺、第三に寿福寺、第四に建仁寺、第五に東福寺、准五山に浄妙寺と定めた。これより五山は数ではなく寺格になる。その後も五山の順位は度々変わったが、これを確立し、今に継承された五山を整備したのが、室町幕府を満開に花開かせ、自らも日本史上最高ともいえる権勢を手にした三代将軍足利義満である。義満は南禅寺を「五山の上」に置き、京都五山天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺鎌倉五山建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺と定めた。自ら開基となった相国寺を五山に組み込むための強引な策であるが、朝廷さえ傘下にし、自ら日本国王と称した義満にしかできなかったことであろう。鎌倉にはかつては尼五山も存在したが、今は第二位の東慶寺が残るのみで、第一位の太平寺以下四ヶ寺は廃寺となった。五山の僧侶は漢詩文をよく学び、日本の漢文学の黄金期を築いた。詩文のほかに、日記、紀行文、随筆など多彩で、五山文学として確立された。 

関東には臨済宗建長寺派の末寺が多く、お膝元の神奈川県や東京の多摩地区には特に多い。その大本山建長寺は縦に長く深い寺である。創建時に中国五山第一位の万寿寺を手本にされ、今よりもっと巨大な伽藍であったそうだ。今でもたいへん掴みどころのない巨刹である。禅宗寺院の魅力はこの掴みどころがないところである。禅寺はどこにいっても私を覚醒する。しかしそれとは表裏一体何か空虚さも感じる。七堂伽藍を一直線に配した禅宗特有のレイアウトだけがそうさせるのではない。きっとこの掴みどころのないところが禅なのである。禅寺とは虚空より何かを掴むための修行道場なのだから、余分を排除して然るべきなのである。個性などいらないのだ。私のような愚物に、禅のことなど一語も語る資格もなく、また語る術も知らないが、これだけはわかる。禅の道は厳しく果てしない。境内最奥の山上にある半僧坊からの眺めは格別だった。 西に真っ白な富士を仰ぎ、東には紺碧の空と海。 二月の風はまだ冷たかったが、身も心も研ぎ澄まし、 私は正気を取り戻した。

皇位継承一承和の変一

藤原氏の起源を改めて振り返ってみたい。藤原氏天皇家に次ぐ高貴な一族であるが、その出自はイマイチはっきりしない。日本書紀の神代上にある天の岩屋戸の神話で、天照大御神を岩屋から引っ張り出す策を練る一人に名を連ねて活躍する天児屋命は、中臣氏の祖先神であると云う。確かに古代氏族に違いなく、忌部氏とともに神事や祭祀を司り、京都山科の中臣町あたりを本拠とした。しかしこのあと鎌足の登場まで中臣氏の活躍はない。ことに蘇我氏天皇を凌ぐほどの権勢にて幅を利かせている当時、中臣氏は鳴りを潜めているが、いよいよ崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が始まると、代々神官司祭としての家である中臣氏は物部氏と共闘するようになった。そしてついに天智天皇の決起に中臣鎌足がつき従い乙巳の変を経て、大化の改新を成し遂げたことで、後に続く権門の礎ができた。しかし権門となるのは鎌足の子孫のみで、鎌足の死に際し、天智天皇は藤原の姓を賜ったのである。鎌足の子孫以外の中臣氏は引き続き中臣氏を名乗り、神祇官となったり、伊勢神宮の神官を務めている。わかりきったことであるが、改めて申せば藤原氏の始祖はまさしく鎌足であることはゆるぎない。鎌足以来、藤原氏天皇家にずっとくっついてきたのである。よく言えば忠孝の臣として天皇を守護し、悪く言えば傀儡師の如く天皇を操って癒着した。

さて平安時代初頭に話しを戻そう。嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位され、淳和天皇嵯峨天皇の第二皇子の正良親王に譲位された。仁明天皇である。すでに述べたことだが、嵯峨天皇は父帝に倣い専制君主となられたが、淳和天皇は兄帝の隠然たる影響力を無視することはできずに、窮屈な思いをされたであろう。院政とは平安末期に白河院より始まるのだが、すでに奈良朝の持統上皇あたりからその萌芽がみられ、嵯峨上皇には大いにその兆しが垣間見える。嵯峨上皇天皇家の長として三十年も君臨し、平安京平安時代の礎を完成した。政治は安定し皇位継承のトラブルも起きなかった。歴代天皇の御心を痛めてきた皇位の安泰、この皇室の平安こそが思わぬ歪みを生んでゆくのである。逆に言えば、皇位継承の争いが激化すればするほどに、それを勝ち得た天皇の力と権威は増すわけで、泰平であれば神聖なる権威のみが高まってゆくが、為政者としての権力は削がれてゆくものである。藤原氏はその隙を見逃さなかった。

この頃、藤原氏の中でもっとも力をつけていたのが北家である。その長たる藤原良房は嵯峨上皇と壇林皇后の厚い信任を得ていた。これには良房の父である藤原冬嗣の影響がかなり大きい。冬嗣は娘の順子を仁明天皇に嫁がせ、生まれた皇子が後の文徳天皇となる。さらに良房を嵯峨天皇の皇女潔姫と娶わせる。臣下が天皇の娘を娶るなど前代未聞の出来事であったが、これにより勢力拡大を確実にした。薬子の変の直前に嵯峨天皇は尚待の権限を縮小し、代わって蔵人所を設置した。律令制度の規定にない新設の官職を令外官と云う。既存の律令や官制のみにとらわれない機動性重視の特別職ともいえ、江戸幕府でいえば大老のような非常置の職であった。時代を降るごとに増え、次第に権力も常置の官職を凌ぐようになる。摂政、関白、内覧、内大臣中納言、参議、征夷大将軍鎮守府将軍勘解由使検非違使文章博士押領使蔵人所などが令外官で、云わば天皇の私設の機関あるいは天皇家の家政機関と認識されていた。同時に蔵人所天皇と公卿の間を取り持つ役所であり、天皇の秘書官的な役割を果たすことになる。冬嗣はその初代長官である蔵人頭に抜擢された。冬嗣は北家初代の藤原房前の曾孫で、嵯峨天皇が皇太子時代から仕えており、即位後も後見役の最側近であった。

藤原北家の野望は果てしなく、それを実現するために図った数々の陰謀は凄まじいものがある。権謀術数の限りを尽くした。権謀術数と云う言葉は藤原北家のためにあると言って過言ではない。その中で最たる謀が天皇家と姻戚関係を結ぶことと他氏排斥である。冬嗣からバトンを託された良房は、それを実行に移してゆく。先に述べたとおり良房の妻は嵯峨天皇の皇女潔姫であるが、潔姫は臣籍降下した賜姓源氏の一人であった。当時廟堂は藤原氏より嵯峨源氏の勢力の方が大きかった。冬嗣はこれにも目を付けて、最大勢力である嵯峨源氏と姻戚関係を結んだ。これにより藤原北家の権勢は磐石への道を確実に進める。が、以前として嵯峨上皇は隠然たる影響力を保持していた。そもそもこの時点で嵯峨上皇仁明天皇の次は、弟の淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としている。恒貞親王藤原北家と姻戚関係はない。ゆえに良房としては妹の順子が生んだ道康親王皇位を継承することを望んでいた。しかしどういう意図なのか私にはわからないが、嵯峨上皇は良房に信頼を寄せつつも、破竹の勢いで権力の階段を駆け上がってくる藤原北家に対して、恐れと嫌悪を持ち始めていたのかもしれない。次第に良房との間にもすきま風が吹くようになっていたが、その矢先、さしもの大家父長嵯峨上皇は五十七歳で崩御された。承和九年(842)のことである。

上皇崩御のわずか二日後、事件が起こる。伴健岑橘逸勢らが皇太子恒貞親王を奉じて東国に赴き、謀反を企てていると捕縛されたのである。伴健岑恒貞親王の警固役を務めており、親王もあらぬ嫌疑をかけられ廃太子と相成った。この事件が承和の変である。承和の変こそが藤原氏による最初の他氏排斥である。当時、良房の叔父の藤原愛発が大納言の地位にあったが、愛発は娘を恒貞親王に嫁がせていたため、承和の変により失脚を余儀なくされた。代わって良房が中納言から大納言に昇進。結果、良房の目論見どおり道康親王皇位を継承されて文徳天皇となられたのである。良房は外戚として大きな力を得た。承和の変では恒貞親王廃太子、同じ北家の叔父藤原愛発は解官されて京外追放、伴健康は隠岐へ、橘逸勢は伊豆へと流れされ、関係者六十人余りが厳しい処罰を受けている。良房はこれより先、自らの血筋以外を廟堂より排除することに執心する。名族の伴氏や橘氏を追いやり、同族の競争相手をも退ける執念はまさに凄まじい。良房は道康親王に自分の娘明子を嫁がせた。その間に惟仁親王が生まれる。文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのだが、良房はわずか生後八ヶ月の惟仁親王を皇太子に立てたのである。文徳天皇の第一皇子惟喬親王はまさに帝王に相応しい資質を備えておられたが、あえなく皇位継承のレースから外されて、失意の日々を過ごすことになるのだが、惟喬親王にまつわる多くの興味あるエピソードについては次回記すことにする。

良房はこの時右大臣。そのあと左大臣を経ずに、天安元年(875)、従一位太政大臣に昇進する。従一位平安時代になってから初めてのことで、太政大臣も臣下ではこれまで恵美押勝道鏡以外に例はなく、この二人は失脚しているため、位人臣を極めた最初の臣下が藤原良房であると云ってよいであろう。翌天安二年(876)、文徳天皇が三十二歳で崩御。惟仁親王は九歳で即位され清和天皇となられた。むろん後見役には外祖父である良房が就き、政治の実権を掌握した。事実上の摂政であった。摂政とは「天下の政を摂行する」者の意で、元来は皇族しか就くことはなかったが、もはや良房のする政に異を唱える者は廟堂には誰もいなくなった。

西国巡礼 第四番 槙尾山

寺名は施福寺と云うが、槇尾山とか槇尾寺とも通称される。西国巡礼屈指の難所で、麓から本堂までは、胸突き八丁の山道を小一時間かけて登らねばならない。槙尾山の標高は六百メートルほどで、施福寺はおよそ五百メートルのところに在る。山としては大した高さではないが、それでも街中の寺からすれば相当な山寺で、一歩参道に入ると深山幽谷の気に包まれており、やはり観音霊場に相応しい場所だ。

京都から巡礼バスに乗って、山麓の駐車場までは連れて行ってくれたので、昔に比べたらそれでも楽なものである。バスを降りるとすぐに登りが始まるが、途中の山門近くまでは舗装された部分も多く、さほど大変ではない。なんだこんなものかとタカを括っていたが、山門の先がまったく違った。山門より奥からが本当の山道の始まりである。ちなみにこの堂々たる山門は豊臣秀頼の寄進だそうで、まわりには楓が多い。紅葉には少し早くて盛りの頃はさぞかしと想ったが、青楓が山門に幾重にも重なるも風情もなかなか良い。参道には至る所に小さな滝があって、滔々たる水音が全山にこだまする。滝の音を伴にして参道を歩くだけで、俗世を離れてゆくと云う気配が次第しだいに濃くなる。身も心も西国巡礼の気分が高まってゆく。それは札所から札所へと「ひたすら無心にゆく」という気分である。この気分は実際に巡礼を始めてみないとわからない。単なる憧れや想像ではぜったいにわからないのだ。巡礼が小利口な綺麗事ではないことが、こうした大変な思いをしてみて初めてわかると思う。

私が行った日は大雨で、泥濘の参道は歩き難いこと夥しい。昨秋は台風洪水の連続であったが、その直後のこととて、今にしてみればよくまあ何事もなく帰って来れたと思う。観音様に護っていただいたと素直に思った。参道の上りは右手が山、反対の左は沢である。途中、鎖場もあったりして、急な斜面は夜来の雨でかなり地盤が緩んでいるように見える。麓にある茶店のおばさんによれば、先日も巡礼の方が転落し、救急車で運ばれたとか。私も恐るおそる一歩ずつ慎重にゆく。巡礼も命がけであるが、それは俗世を離れる覚悟を問うてる気がしてならない。時にはこうした難所があるのも、気を緩めるな、注意散漫になるなと云う戒めなのだと私は思っている。 雨中ひたすら登り続けて四十分、ようやく頭上が明るくなり、点々と堂宇が見えてきた。 そこからさらに昇ると本堂の大屋根が現れる 。雨と汗とでずぶ濡れになるも感無量であった。 残念ながら山頂からの視界は悪くて何も見えなかったが、 晴れていれば雄大かつ神々しい葛城連峰を裏側から拝めるそうだ。

施福寺欽明天皇勅願寺で、創建は我が国に仏教が伝来して直後と云うから、西国札所では無論、日本でも古寺中の古寺である。寺伝によれば播磨国の行満上人が弥勒菩薩を本尊としたのが始まりで、その後、役行者法華経を葛城の峰々に納めた際、巻尾をこの山に納めたとの伝承より「まきお」の山号となったと云う。往時は千もの坊舎を構えたと云うが、南北朝時代南朝方の拠点のひとつとなり、戦国末期には信長によって焼き討ちに遭うなど、幾度もの戦火で衰退した。が、西国札所であったがゆえにかろうじて残ったのである。山上の堂宇は、信徒や巡礼者の寄進で幕末の安政年間に再建されたもの。古い建築ではなくとも槙尾山中に漂う歴史はまったく褪せてはいない。

今は天台宗の寺だが、弘法大師がこの山で得度剃髪したと云われる。よって槙尾山は大師信仰も篤く、真言密教修験道が深く根差している。参道途中には弘法大師の剃髪所跡に愛染堂が建っており、愛染明王空海像が安置されている。愛染堂から急な石段を少し登ると空海の髪を納めた髪堂がある。若き日の空海は此処で修行しながら、葛城金剛の山野を駆け巡った。後に高野山霊場を開くのもこのあたりの地理に詳しく、峰々の霊験に深く帰依していたからに違いない。入唐から帰朝した空海はすぐに入洛せず、九州大宰府に二年ほど逗留した。そして畿内へ戻ってくるとまず槙尾山に登り、さらに二年ほどしてから上洛している。空海なりの算段があったのであろうが、空海の僧としての原点である此処で、自らの来し方行く末に様々なる思いをめぐらせていたに違いない。空海は静かな此処で思索に耽り、このあとの進むべき道を定めた。後に深く関わる高野山や東寺と比べると、山深くて簡素で、いかにも地味な槙尾山であるが、此処にこそ弘法大師空海という巨人の本心が眠っている気がしてならない。先ほどから槙尾山に漂うただならぬ気と云うものがあること述べているが、それは弘法大師空海の発した気がいまだに充満しているのかもしれない。

納経して本堂に上がらせていただく。内陣の”ほとけさま”は聴きしにまさる傑作ばかり。本尊の弥勒菩薩、西国巡礼本尊の千手観音、文殊菩薩、方違観音、馬頭観音伝教大師像に弘法大師像、堂内ぐるりと枚挙に暇もない大群像である。なかで印象的であったのが五メートルもある巨大な方違観音で、内陣のさらに奥にどっしりと座しておられる。宝冠を戴くそのお姿は小さなお堂に不似合いであるが、それがゆえに圧倒される。「方違」とは陰陽道に基づき方角の吉凶を占う風習で、凶の方角を避けるため、目的地へ赴くのにいったん別の方角へ出て、目的地の方角が悪い方角にならないようにする。方違は平安時代に盛んに行われるようになった。こちらの方違観音は生きる道を良い方向へと導いてくださる観音様だそうで、方違観音を祀るのはここだけだそうである。それにしてもこんな山奥にあれほどの数の美しい仏像群が在ることに、私は驚嘆し感銘を受けた。西国の奥深さを改めて痛感する。此処まで苦労して登ったが、誰しもあのほとけさまを拝めば、疲れは一瞬で癒されるであろう。 馬頭観音も合祀されているため、馬に携わる仕事、とりわけ競馬関係者の信仰も篤いとかで、本堂の桜の下には立派な馬の像が奉納されている。

本堂で先達とご一緒に般若心経と観音経をあげた。去り際に先達は、 「貴方が生まれてきた時、貴方は泣いて、周りの人たちは笑っていたでしょう。だからいつか貴方が死ぬ時は、貴方が笑っていて、周りの人たちが泣いている。そんな人生にしてください。」と言われた。ネイティブ・アメリカンの教えらしいが、私の中に深く残る言葉となった。

御詠歌 深山路や檜原松原わけゆけば槇の尾寺に駒ぞ勇める

麒麟を待つか、麒麟を呼ぶか

 今年の大河ドラマのタイトル『麒麟がくる』は秀逸である。麒麟とは中国の神話に登場する伝説上の霊獣で、全体は鹿のようで、牛のような尾と、馬のような蹄を持ち、頭の上に角が一本、体毛は五色に輝いているそうで、理想的な政治が実現した時にのみ現れると云う。果たしてこれまで麒麟が現れる様な世が来たことはないのだろうが、少なくとも第二次大戦後の七十五年間、我が国日本は他国と武力によって争うことをやめたおかげで、戦のない平和な世界を実現した。ある意味において理想的な時代であった。そのおかげで経済大国となり、世界に誇る技術大国にもなった。ゆえにか、いつのまにか平和という二文字を実感することさえ忘れてしまった様である。戦後日本が麒麟が現れていたと云うことに当て嵌まるのかはわからぬが、幻想と虚構の狭間を生きているのが我々であるとすれば、麒麟はとうの昔に去っていったのかも知れない。

緊急事態宣言が出ても爆発的に拡大はせずとも、現時点では減少どころか横ばいにも転じてはいない。私は新型コロナウィルスは一年や二年で終息はしないと思う。見えないウィルスを治めることなど、これだけ世界中に拡散した今となっては無理であろう。私は常に悲観的に物事を見るようにしているが、とてもこのウィルスを封じ込めることなど不可能とも思う。伝染病に抵抗することを止めない人間はいつか特効薬とかワクチンを開発するであろうが、その日が来るまで、我々の戦々恐々とした日々は終わるまい。都知事は自粛疲れはまだ早いと言うが、それは本当であると納得しながらも、事実心身が疲弊しているのだ。日本は世界と比べてもギリギリのところで爆発を抑えてはいるが、もういつ破裂しておかしくないのは共通の認識と思う。日本人の律儀さは先祖代々の専売特許であるが、その律儀さは脆さと同居しているのであって、秩序を重じるんがゆえに束縛を嫌うのである。だからこそ崩壊する時は一気であろう。流され易い国民性もまた危うい。

思えば人類の最大の敵は感染症である。人類の歴史は伝染病や感染症との戦いである。昔の人は見えぬ敵を悪魔とか鬼の仕業として恐れ、或いはまた神罰として慄きながらも畏怖した。例えばコレラも未だに猛威をふるうが、この病は幕末に日本にも入ってきた。感染経路は清国から朝鮮半島経由であると云うが、開国して外国人が頻繁に流入してきたり、日本人も海外渡航するようになった為でもあろう。しかし、日本全土に広がるのは不思議に明治維新後なのである。たしかに最初の流行である安政年間は西日本で流行したが、江戸までは達していない。その次の文久年間は逆に江戸で大流行し一説では数万人以上が死んだとも云うが、この時は西日本で大きな流行にはならかなった。ところが明治になると毎年数万人規模で流行し、ついに明治十二年(1879)には十万人以上が死亡している。なぜか?理由のひとつに江戸幕府が設けた関所が機能したおかげとも云う。今のように全国どこへでも自由に行き来できる時代ではなかった。江戸幕府は軍事上名だたる街道には関所を設け、厳しく監視した。ことに江戸近辺では、通行量のもっとも多い東海道の箱根の関所が有名である。箱根関所の検問は恐れられた。西からは武器となる鉄砲が箱根の関所を越えて関東に入ることを警戒し、逆は西へ向う女性を警戒した。俗に「入鉄砲出女」と呼ばれ、細心の注意がはらわれていたと云う。女性を警戒したのも諸説あるが、人質として江戸在住を義務付けられた大名の妻女の脱出を防止するためとも云われる。入鉄砲には老中発行の鉄砲手形、出女には留守居役発行の女手形が必要であった。関所破りは重罪で、必ず磔獄門であった。幕末になると、おかげ参りに便乗した抜け参りや、文久年間の参勤交代の緩和によって女手形もずいぶんと簡素となり、慶応三年にはついに手形無しで関所の通過が許されるようになる。これは事実上の関所廃止であった。しかし、同じ頃に猛威を振るったコレラが、全国に飛び火しなかったのが、奇しくも関所であり、明治のコレラ拡散は関所撤廃の影響があったのならば、ある意味で徳川封建時代の成功の一つであったとも言える。現代人の我々からすれば、関所などいかにも不自由だと想像するが、新たなる疫病の脅威に怯える今、私は必ずしも関所が負の制度だとも思えないのである。無論、新たに関所を設けるわけにはいかないが、先人の智恵をこういうところから少し拝借できないかとも考える。

新型コロナウィルスは我々の暮らしを一変させた。再三述べてきたが、終息までには果てしない時を要するであろう。であるならば、これまで人類が或いは日本人が築いてきた社会の仕組みを見直す好機到来と捉えては如何であろうか。法律、制度、外交、軍事、福祉、経済財政、そして教育。この頃盛んに九月からの新年度スタートへ移行すべきとの議論に沸いている。戦時下を潜り抜けてこられた方々からすれば何ほどのことかと叱られそうであるが、私たちまさに現代日本人がほとんどが経験したことのない今のムードはやがて殺伐とし、戦時下に似通ってくるに違いない。実際に世界情勢を鑑みれば、戦争が起こる可能性も極めて高くなったと言わざるを得ない。時間通り来る電車、それをホームで待つ人々の整列乗車、ゆずりあいやおもてなし、こうした秩序を無意識のうちに作り上げてきたのは代々日本人の誇りであるが、それが根底から覆ってゆくのではないかと危惧している。日本人の律儀さが危きこともあるのだ。であれば、これを機会にまさしく臨機応変に、物事を冷静に見直してゆくことが必要であり、必然であると思う。そうすることで光が見えてくるかもしれない。麒麟がくる時を創造するのは、我々一人ひとりにかかっている。

暗夜

春爛漫、空には煌々たる下弦の月が昇ってくるだろう。だが地上は新型コロナウィルスが包む闇の中。暗中模索と云う四字をこれほどに実感したことはない。この四十年あまりで世界は大胆にグローバル化した。その詳細はわざわざ述べるまでもないが、今の世界情勢となって初めて、或いは第二次世界大戦以降、最大の危機に人類は直面している。私が生きてきた中で、私自身に多大なショックを与えたのが、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件アメリカ同時多発テロ事件、そして東日本大震災である。他にも災害列島日本では、毎年のように台風、洪水、そして地震が頻発し、その度に大自然の脅威を思い知らされてきた。混沌とした時代を背に人災も数多ある。私が中学生の頃昭和が終わった。その後バブルが崩壊し、失われた二十年が私の青春時代である。超就職氷河期の渦の中、私の努力不足もあって、定職に就くことはできなかった。私はアルバイトや派遣で生計を立てたがそれを苦とはあまり思わなかった。しかし本来進むべく道を外れたことは確かで、若気の至りを反省し、己が軌道を修正して戻って来た。ところが今度はリーマンショックがあって、すぐに東日本大震災である。ここで私は心身ともに飽和状態となった。先の見通せない、闇夜は後からあとから自分を追い込むばかりで、光の射す出口は見当たらない。だがそれを時代のせいとは思わなかった。世界情勢、経済状況、あるいは自分の生まれ育ってきた縁や、環境のせいだけではない。要は己が努力がまったく足りていなかったのである。それは今思えば間違いなくそうであるし、当時も半ばそう思っていたから、あきらめもあり、誰かに相談することは恥とも思っていた。 それでも私はあの自分、私なりに限界であった。この状況をどう打開するか。その思考をかろうじて持てたことが、せめてもの慰めであり、それが五木寛之さんの言われる他力ではなかったかと思う。私は高野山へ登った。高野山の某宿坊で一年半働いた。朝は五時に起きて、夜八時まで朝夕の勤行の準備、料理の配膳、そして一日のほとんが、寺と宿坊の清掃である。初めはキツかった。拘束時間も長く、慣れない力仕事、総延長は一キロ以上もある廊下の雑巾がけ、そして何よりつらかったのは布団の上げ下ろしであった。ハウスダストアレルギーのある私は、ものすごい埃が舞うこの布団の上げ下ろしの作業中くしゃみと鼻水が止まらず苦しかった。三日でやめようと思った。しかし、三日、十日と我慢しながら、その日、その日もうやめよう、いやもう少しやってみようという意識と葛藤が芽生えてきた。気がつけば一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月と過ぎ、私は心身に自信を取り戻していった。高野山に登る前、心神喪失寸前であった私が、どうして復活することができたのか。明確な答えなどない。しかし、悩む暇もなく、がむしゃらに働き、終業後はヘトヘトに疲労困憊し、ほとんど毎晩バタンキューであった私は、自然に心身が健全化されていったのかもしれない。もちろん若かったということもあるだろう。それでもいつか光が射してきていた。山を下りるのだという出口。いつまでもここに留まるわけではないという気持ちが、光なのであった。光が見えていたからこそがんばることができた。高野山を下りるにあたっての私は、元気を取り戻して、再び東京へ帰ってきた。曲りなりに就職をして今に至る。今年になって新型コロナウィルスが世界中に大流行し始めると、私自身どうこうではなく、人類は光を見失っている。世界情勢は戦後七十五年のうちでもっとも劇的に変わろうという事態。もはや国や地域ごとの問題ではなく、世界的に医療崩壊寸前で、外交、経済、軍事を含めて、いったいどうなってゆくのであろうと云う不安と恐怖に、暗澹たる毎日をすべての人々が享受し生きている。

今回の新型コロナウィルスは、紆余曲折として築かれてきた戦後七十五年の世界秩序を、根底から覆す可能性が極めて高いだろう。私の生きてきた四十年、昭和から平成、平成から令和、高度経済成長の終焉とバブル崩壊、ありとあらゆる天災と人災、経済金融危機、それを乗り越えてきた我々だが、同時に我々が積み上げてきたモノのすべてを、コロナウィルスは吹っ飛ばすほど勢いである。昨年秋頃から発生源とされる中国の武漢では、このウィルスの危険さを警告する医師もいたのに、中国政府はそれを認めず、あまつさえ、よからぬデマを流したと捕縛した。この医師は亡くなられた。命を賭した訴えを斥けた中国の恐怖政治は知れているが、この時点で世界の危機は始まっていたのである。日本政府は確かに米国と中国の板ばさみになって、どちらにも尾を振るしかない現状に陥っているからには、中国政府を疑っても批判や抗議行動に出れずにいた。国家主席の来日を控えて憚ったのは明らかで、結果、春節で世界中に感染者が旅行して、はっきりいってばら撒いたのである。これは声を大にして言える。しかし未然に防ぐ対策をとらなかった世界の責任も中国と同等である。これは国家とか政府だけの問題ではない。我々個々もあまりに緩慢としていたのである。そして今となっては、皆めいめいが自分の主張ばかり。国家、政府、自治体、医者、事業者、職業別にそれぞれの言い分がある。これが収集がつかない。IT社会となって全方向へ向っての誹謗中傷が横行することは、仮にこのあと終息したとしても必至であろう。世界に比べて日本に感染者が少ないとも言う輩がいるが、抑え込んでいるわけではなくて、五輪のため、経済のために感染者を今だに少なく発表しているとさえ思ってしまう。日本だけ検査が異常に遅いことに、私は疑問しかない。いやそこまで勘繰ってしまうのである。

この暗夜はいつまで続くのか。見えぬ光を見つけることはできるのか。或いは手繰り寄せることは可能であるのか。たしかに人類はこれまで幾多の苦難を乗り越えてきた。同時にこのウィルスは奢り過ぎた我々人間への戒めであり、警告であると思う。それでもいつか、どこかに光が見えてくると信じたい。人間とはどこまでも強欲であり、そうあり続けることが人間なのであるのならば、果てしなく強欲であるしかないのかも知れない。私もまたそうなのである。私はこのブログでこれまで新型コロナウィルス発生後の社会の事を書くことはなかった。いつもどおり、寺巡りの記や日本史の雑談記のみをしたためるつもりでいた。この事は多くの人が多くのことを記しており、私ごときが書く必要はなく、寧ろ非日常となってゆく毎日に、ここだけは関せずに日常であるほうがいいのかとも思った。しかし私もすでに症状がない感染者かもしれない。もしそうならば、余計に書かずにはいられなくなった。このブログで拙い文章を書いている者として、事ここに至って触れないわけにはいかないと思ったのである。私は出口への道標となる光を、歴史とか文学において見つけたいと思っている。

皇位継承一賜姓降下一

嵯峨天皇薬子の変平城太上天皇の変)で揺らぐ朝廷の引き締めを図り、天皇の権威を高めるべく動いた。首謀者の薬子は自害し、兄の藤原仲成は射殺されたが、事件に与した他の者には寛大な処置をとって、ノーサイドとするよう努められた。出家し恭順する平城上皇は変の後も、厚遇し相当の宮廷費を受けている。上皇の皇子の高岳親王は皇太子を廃されたが、父に続き出家して真如と号した。後に弘法大師空海の弟子となり、高野山親王院を開かれて、空海十大弟子の一人に数えられる。空海を宗教顧問として重用した嵯峨天皇の斡旋があったこと言うまでもない。高岳親王に代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立太子した。弘仁十五年(824)に平城上皇崩御。この時既に譲位していた嵯峨上皇は、淳和天皇へ要望して恩赦を行っている。同時に嵯峨天皇は進んで親政されながらも、これまで支えてきた側近に目をかけられることも忘れなかった。

薬子の変の折、空海嵯峨天皇側の勝利を真言密教の呪法を用いて祈念した。果たして勝利した嵯峨天皇は、以来、空海に深く帰依した。空海を何かと頼りにして召し出し、万事につけて相談された。天皇より十二歳年長の空海に多大な信頼と想いを寄せられたのも、幼くして母を亡くし、父帝からの過度な期待、兄帝への猜疑心と情に揺れ動く日々を過ごされてきた嵯峨天皇にとって、空海は新しく清冽な光であった。師であり、父であり、母であり、兄であり、時には恋人のように思われたこともあったかも知れない。空海天皇家の家父長たる嵯峨天皇に、単に取り入っただけとは思えない。高雄事件で伝教大師最澄と仲違いをして後、空海真言密教の真の伝道者として、既存の南都仏教ともうまく共存しながら、図らずも勢力を拡大してゆくのである。官寺であった東寺を賜り、寺名を教王護国寺と呼ばせて平安京での真言密教の拠点とした。そしてついには宮中に鎮護国家のための祈願所である真言院を与えられ、以降、平安仏教界の最高実力者となり、時代さえも先導するオピニオンリーダーになるのである。

平安仏教を語るにもう一人、伝教大師最澄である。嵯峨朝ではすでに比叡山にて一派を形成しつつあった最澄は、南都仏教と決別した桓武天皇が新進の仏教として厚く庇護した。桓武天皇最澄に大いに期待して、日本仏教界の代表として遣唐船に乗せ、還学生として短期留学させた。最澄天台山へ赴き、天台宗の教義と天台密教を見聞した。およそ十ヶ月の修学旅行であった。最澄は帰国してすぐさま桓武天皇に召しだされた。最澄の帰国を心待ちにしていた桓武天皇はその頃不治の病床にあり、最澄は病気平癒のための祈祷を宮中で行った。そして高雄の神護寺において日本最初の灌頂を行う。灌頂とは密教で頭頂に水をかける儀式のこと。古代インドで国王の即位や立太子の儀式で行っていたものを仏教も採用したとされ、キリスト教の洗礼式にも似た儀式である。日本の密教の灌頂には大きくわけて三つあって、出家在家を問わずに曼荼羅に散華をして守り本尊を決める結縁灌頂(投華灌頂)、修行して本格的に密教を学ぶ者に対して行われる受明灌頂(弟子灌頂)、修行をおさめて阿闍梨と呼ばれる指導者の位を授ける伝法灌頂に分けられる。

一方で空海最澄の入唐の時、別の船で留学生として唐に赴いた。還学生は遣唐使に伴って日本と唐を往復するが、留学生は長期間留まって学ぶことが命じられていた。しかし天才空海は、本来は二十年ほどの留学の予定を二年で終えて帰国している。空海は唐に到着するとすぐ西明寺に入り、印度僧の般若三蔵に師事し、密教を学ぶためにもともと少しは勉強していた梵語をさらに磨いた。次いで真言密教の根本道場である青龍寺の恵果和尚を訪ねた。密教第七祖の恵果は空海を一目みるなり、自身の後継と覚り、余命半年間で密教の奥義の悉くを空海に伝授、空海密教の第八祖と定めて亡くなった。空海は伝法灌頂を授かり、この世の一切を遍く照らす者という意の込められた「遍照金剛」の灌頂名を与えられたのである。私たちが口にする「南無大師遍照金剛」はここが由緒なのである。空海はじっとしていられなかった。すぐに帰国して自ら真言密教の新たな可能性を試したかったし、それによって日本を守護し、煽動して導けると確信を抱いていたに違いない。帰国した空海嵯峨天皇は興味津々たる様子で接遇し、あっという間に帰依したのである。最澄もまたすぐに空海の噂を聞いて、あくまで遜って空海真言密教の教えを強く請うた。比叡山と云う一山を率いる最澄は、早く空海から伝法灌頂もしくはせめて受名灌頂を授かりたい。そしてもっと真言密教を学ぼうと希望した。が、空海は簡単なことと考えてもらっては困るといった風でその申し出をはねつけてしまう。そしてまずは結縁灌頂のみしか授けなかったのである。これが神護寺を舞台として繰り広げられた高雄事件の始まりで、仕方なく最澄は愛弟子の泰範を自分の代わりに空海のもとに残して比叡山へ戻ったのである。しかし泰範はこのあと空海に身も心も惹かれてしまい、ついに比叡山には戻っては来なかったのである。

平安時代に日本人の信仰のかたちが出来たことは前にも書いた。それは神仏混淆という日本独自のかたちである。神と仏の習合は仏教伝来以来、徐々に濃いものとなってゆく。ゆえに信仰のかたちが出来たのではなく、出来上がったが正しいのかもしれない。これに大きく寄与したのが、平安仏教を興した二人の天才的な巨人、最澄空海である。この天才的な二人が桓武天皇嵯峨天皇の信任を得たからこそ花は咲いた。双璧の巨人についてここではあまり多くは述べないが、この二人が日本にいたことを日本人はもっと意識せねばならない。そして誇りに思うべきである。

 さて文化人としても一流であった嵯峨天皇上皇となってからは嵯峨野に隠棲と称しながらも、一大サロンを展開した。今の大覚寺がその場所で、嵯峨御所と呼ばれた当時は日本の文化の拠点であった。三筆にも数えられるその書は、男性的な力強さと女性的な柔和さ、そのどちらも持ち合わせており、これぞ天皇の書であると云う手本のような秀麗さ。嵯峨天皇空海橘逸勢を三筆と称するが、逸勢は力強く勢いが繊細さも垣間見え、空海は柔らかいが芯の強い書。嵯峨天皇はそのどちらもを兼ね備える。私はむしろ三筆をはじめに選んだ人の均等確かな目に感心する。嵯峨御所は後に大覚寺となり、その栄華の名残は大覚寺を訪れれば今も感じることができる。文化的には嵯峨天皇の御世に平安時代が始まったと云え、弘仁文化は確かに唐風ではあるが、後の国風文化への萌芽が随所にある。これも一重に嵯峨サロンの賜物である。

賜物と云えばもう一つ、氏がある。皇族がその身分を離れることを臣籍降下、或いは賜姓降下と云う。天皇より姓、氏を賜わると賜姓皇族と呼ばれた。ちなみに皇族女子が臣下に嫁すことは臣籍降嫁とも云う。律令においては四世王までは皇親となり、五世王までは皇親とはならないが、王号を有し、従五位下の位階を受けた。さらには歴代天皇から一定の距離を経た者は、臣籍に入り皇親皇族とはされない。 再三述べてきたが、奈良朝の血腥い皇統争いを経て、平安朝では兄弟への禅譲など、安定的な皇位継承が望まれた。また兄弟よりも争いが少なく、父帝の意が反映しやすくなるため、天皇は多くの皇子をもうけられた。しかし、実際に皇位継承できる皇子は限られ、平安中期にかけては、皇族があふれかえったた。皇族はその地位と格式を保証するだけの金品が与えられたが、ややもすればこれが財政逼迫の要因のひとつにもなっていた。さらには一部の皇子や皇女が、その厚遇にかこつけて問題を起こすこともあったと云う。例えば臣下と共謀して謀反を企む可能性をも秘めていたのである。よって、安定した皇位継承をつよく望まれた桓武天皇は、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる賜姓を行ったのである。桓武天皇は一世皇親を含む百名余りに対して、姓を与えて臣籍降下を行っている。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父帝の例に倣って多くの子女に対して賜姓を行った。

これだけ皇族が増えると、就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から、皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。これには藤原氏ら廷臣の策略が見え隠れするが、その詳細はまた後に述べよう。賜姓皇族臣籍降下して一、二代は上流貴族として朝廷での地位を保証されたが、三代以降はほとんどが没落している。彼らは都落ちするように地方に下向し、そのまま土着して武士や豪族となった。このあと南北朝から室町、戦国時代くらいまでは鳴りを潜めるしかなかったが、それでも日の目を見れたのもほんの一握りにすぎない。奈良朝からあった貴種流離譚は平安朝ではさらに増えてゆく。

臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び姓(かばね)が与えられる。様々な賜姓が与えられたが、中でも『源氏と平氏』は我々もよく知っており、この後ずっと日本史に深く関わってくる。源氏は嵯峨天皇が、弘仁五年(814)に自らの皇子三名に皇親賜姓を行い、源の氏を授けたことに始まる。源氏の出典については諸説あるが、すなわち天皇が源流の血筋であると云う意味も込められているに違いない。元々は中国の五胡十六国時代南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来するとも云うが、もう少し単純なことであったかも知れない。 

嵯峨天皇を祖とする源氏を「嵯峨源氏」と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって仁明源氏文徳源氏清和源氏宇多源氏など増えていった。 嵯峨天皇は最終的には皇子や皇女三十二名を臣籍降下させ、源信、源常、源融左大臣にまで昇り、源潔姫は人臣最初の摂政となった藤原良房の妻となっている。『源氏物語』の光源氏のモデルが源融であるとの説は有名だ。一方、平氏は、淳和天皇の御世の天長二年(825)年に桓武天皇の第五皇子の葛原親王の子女に平氏を賜ったことに始まる。これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏なのである。いずれこの源平が平安時代の終わりを告げる争いを繰り広げることになるが、その前に邪魔者を次々に排して、平安時代の中期に全盛を誇ってゆくあの一族の話に入ってゆかねばならない。藤原氏藤原氏による藤原時代がやってくる。