弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

暗夜

春爛漫、空には煌々たる下弦の月が昇ってくるだろう。だが地上は新型コロナウィルスが包む闇の中。暗中模索と云う四字をこれほどに実感したことはない。この四十年あまりで世界は大胆にグローバル化した。その詳細はわざわざ述べるまでもないが、今の世界情勢となって初めて、或いは第二次世界大戦以降、最大の危機に人類は直面している。私が生きてきた中で、私自身に多大なショックを与えたのが、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件アメリカ同時多発テロ事件、そして東日本大震災である。他にも災害列島日本では、毎年のように台風、洪水、そして地震が頻発し、その度に大自然の脅威を思い知らされてきた。混沌とした時代を背に人災も数多ある。私が中学生の頃昭和が終わった。その後バブルが崩壊し、失われた二十年が私の青春時代である。超就職氷河期の渦の中、私の努力不足もあって、定職に就くことはできなかった。私はアルバイトや派遣で生計を立てたがそれを苦とはあまり思わなかった。しかし本来進むべく道を外れたことは確かで、若気の至りを反省し、己が軌道を修正して戻って来た。ところが今度はリーマンショックがあって、すぐに東日本大震災である。ここで私は心身ともに飽和状態となった。先の見通せない、闇夜は後からあとから自分を追い込むばかりで、光の射す出口は見当たらない。だがそれを時代のせいとは思わなかった。世界情勢、経済状況、あるいは自分の生まれ育ってきた縁や、環境のせいだけではない。要は己が努力がまったく足りていなかったのである。それは今思えば間違いなくそうであるし、当時も半ばそう思っていたから、あきらめもあり、誰かに相談することは恥とも思っていた。 それでも私はあの自分、私なりに限界であった。この状況をどう打開するか。その思考をかろうじて持てたことが、せめてもの慰めであり、それが五木寛之さんの言われる他力ではなかったかと思う。私は高野山へ登った。高野山の某宿坊で一年半働いた。朝は五時に起きて、夜八時まで朝夕の勤行の準備、料理の配膳、そして一日のほとんが、寺と宿坊の清掃である。初めはキツかった。拘束時間も長く、慣れない力仕事、総延長は一キロ以上もある廊下の雑巾がけ、そして何よりつらかったのは布団の上げ下ろしであった。ハウスダストアレルギーのある私は、ものすごい埃が舞うこの布団の上げ下ろしの作業中くしゃみと鼻水が止まらず苦しかった。三日でやめようと思った。しかし、三日、十日と我慢しながら、その日、その日もうやめよう、いやもう少しやってみようという意識と葛藤が芽生えてきた。気がつけば一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月と過ぎ、私は心身に自信を取り戻していった。高野山に登る前、心神喪失寸前であった私が、どうして復活することができたのか。明確な答えなどない。しかし、悩む暇もなく、がむしゃらに働き、終業後はヘトヘトに疲労困憊し、ほとんど毎晩バタンキューであった私は、自然に心身が健全化されていったのかもしれない。もちろん若かったということもあるだろう。それでもいつか光が射してきていた。山を下りるのだという出口。いつまでもここに留まるわけではないという気持ちが、光なのであった。光が見えていたからこそがんばることができた。高野山を下りるにあたっての私は、元気を取り戻して、再び東京へ帰ってきた。曲りなりに就職をして今に至る。今年になって新型コロナウィルスが世界中に大流行し始めると、私自身どうこうではなく、人類は光を見失っている。世界情勢は戦後七十五年のうちでもっとも劇的に変わろうという事態。もはや国や地域ごとの問題ではなく、世界的に医療崩壊寸前で、外交、経済、軍事を含めて、いったいどうなってゆくのであろうと云う不安と恐怖に、暗澹たる毎日をすべての人々が享受し生きている。

今回の新型コロナウィルスは、紆余曲折として築かれてきた戦後七十五年の世界秩序を、根底から覆す可能性が極めて高いだろう。私の生きてきた四十年、昭和から平成、平成から令和、高度経済成長の終焉とバブル崩壊、ありとあらゆる天災と人災、経済金融危機、それを乗り越えてきた我々だが、同時に我々が積み上げてきたモノのすべてを、コロナウィルスは吹っ飛ばすほど勢いである。昨年秋頃から発生源とされる中国の武漢では、このウィルスの危険さを警告する医師もいたのに、中国政府はそれを認めず、あまつさえ、よからぬデマを流したと捕縛した。この医師は亡くなられた。命を賭した訴えを斥けた中国の恐怖政治は知れているが、この時点で世界の危機は始まっていたのである。日本政府は確かに米国と中国の板ばさみになって、どちらにも尾を振るしかない現状に陥っているからには、中国政府を疑っても批判や抗議行動に出れずにいた。国家主席の来日を控えて憚ったのは明らかで、結果、春節で世界中に感染者が旅行して、はっきりいってばら撒いたのである。これは声を大にして言える。しかし未然に防ぐ対策をとらなかった世界の責任も中国と同等である。これは国家とか政府だけの問題ではない。我々個々もあまりに緩慢としていたのである。そして今となっては、皆めいめいが自分の主張ばかり。国家、政府、自治体、医者、事業者、職業別にそれぞれの言い分がある。これが収集がつかない。IT社会となって全方向へ向っての誹謗中傷が横行することは、仮にこのあと終息したとしても必至であろう。世界に比べて日本に感染者が少ないとも言う輩がいるが、抑え込んでいるわけではなくて、五輪のため、経済のために感染者を今だに少なく発表しているとさえ思ってしまう。日本だけ検査が異常に遅いことに、私は疑問しかない。いやそこまで勘繰ってしまうのである。

この暗夜はいつまで続くのか。見えぬ光を見つけることはできるのか。或いは手繰り寄せることは可能であるのか。たしかに人類はこれまで幾多の苦難を乗り越えてきた。同時にこのウィルスは奢り過ぎた我々人間への戒めであり、警告であると思う。それでもいつか、どこかに光が見えてくると信じたい。人間とはどこまでも強欲であり、そうあり続けることが人間なのであるのならば、果てしなく強欲であるしかないのかも知れない。私もまたそうなのである。私はこのブログでこれまで新型コロナウィルス発生後の社会の事を書くことはなかった。いつもどおり、寺巡りの記や日本史の雑談記のみをしたためるつもりでいた。この事は多くの人が多くのことを記しており、私ごときが書く必要はなく、寧ろ非日常となってゆく毎日に、ここだけは関せずに日常であるほうがいいのかとも思った。しかし私もすでに症状がない感染者かもしれない。もしそうならば、余計に書かずにはいられなくなった。このブログで拙い文章を書いている者として、事ここに至って触れないわけにはいかないと思ったのである。私は出口への道標となる光を、歴史とか文学において見つけたいと思っている。