弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 小布施の岩松院

信州は格別な地域である。その呼び方からして、一つの州部を連想させる。事実信州は、何となく孤立している雰囲気がある。中部地方であって、愛知や岐阜とは気候も風土も人も違う。甲信越と一括りにされることもあるが、甲州とも越州ともまた違う。理由は明白だ。山である。信州長野をぐるりと取り巻くのは、日本の屋根であるアルプスの高峰たち。彼らに抱合された信州は、独自の独立した文化と人を創り上げた。孤立と述べたが、良い意味で孤立しているのだ。その泰然自若とした態度は、京都と似ていると私は思っている。が、人は決して閉鎖的でもなく、京都人ほどの気位の高さも感じない。私は自分の町に誇りを持っている京都人も嫌いではないが、信州人はその景色に育まれたのか、大らかで懐深いという好印象を抱いている。今では道路も新幹線も整備され、容易に信州へ行けるが、かつて人々は険阻な信濃路を必死で辿ったであろう。今だって雪の季節は難儀する。この様な隔絶の地の歴史には、とても興味がある。昨年晩秋に善光寺詣りをした時に、信州を少しばかり廻ることが叶った。その一つが小布施の岩松院である。

小布施は栗の名産地である。小布施の栗は美味い。栗を使った銘菓も数多あるが、私は栗落雁が好きである。此度もたくさんお土産に買った。葛飾北斎もここで栗を食べたであろう。北斎は齢八十を過ぎてから、四度も小布施にやってきた。北斎門下の高山鴻山が小布施の豪農商で、彼に請われてのことだ。若き日の鴻山は京都や江戸で遊学した。江戸にて北斎と親しくなり、その画と人に惚れ込んだ鴻山はすぐさま弟子入りした。彼の絵は数点残されているが、私は見たことがないので何とも言えない。鴻山は豪商であり、豪農であり、天保の飢饉の時なども地元民に力を尽くしたというから、経世済民の政治家でもあった。やる事すべてが豪胆で一流なのである。が、絵師としては北斎を絶対崇拝しており、北斎に近づきたいとは願っても、北斎を超えたいなどとは微塵も思わなかったであろう。分という事を忠実に弁えていた人であった。

哀しいかな、浮き世では自己の分を超えようとすれば跳ね返されてしまう。凡夫は何事も分相応で生きるほうが賢明で、結果長く存在できる。近頃はこの先人からの智慧を忘れてしまったから、皆、転んでしまう。貧弱な現代人は、一度転ぶと二度と立ち上がれない。と言うよりも立ち上がらない。或いは諦めたり、或いは切り捨て、或いは無かった事にする。七顛八起できる人は少ない。かく偉そうに言っている私など、そんな情けない輩の最たるもので、少しばかり日本史に明るいくらいで、何一つ成し得た事などない。フラからと彷徨い、人に後ろ指をさされながら生きている。それは粋がって調子に乗り、私の分を超えようとしたからである。無論挑戦することは大切である。でなければつまらない。だが、それは若い時分、せいぜい三十くらいまでの話である。小林秀雄は、人間の一生はだいたい二十代までに決まると言ったが、あながち嘘ではない。私も自分は勝手に大器晩成と嘯き、四十の手習いなどと称して茶道を始めたり、人には「何かを始めることに年齢は関係ない」とか言ってみることがあるが、内実冷めて眺めていたりする。生涯青春など夢のまた夢。有り得ぬことだ。それを本当にできる人はその道の天才か、己が分を弁えて石橋を叩きながら着実に進める人だけだと思う。

でも昔は違った。人が分を弁えて生きたからだ。断っておくが、私の言う「分」とは身分の事ではない。士農工商の枠の中の分相応ではなく、人間という容器の分である。だが、天才は違う。時に分を超越することができる。故に天才なのであって、分を超越することこそが天才といっても過言ではないと思う。葛飾北斎は天才である。彼は絵心を得てから死ぬまで天才であった。その天才に衷心より惚れこんだのが高山鴻山である。二人の関係は祖父と孫ほども違うが、鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は門下であってスポンサーでもある鴻山を「旦那様」と呼んだ。鴻山は小布施に北斎を招いて、北斎のために碧漪軒というアトリエを作り、小布施の祭屋台の天井絵を依頼した。それが縁となり岩松院の本堂に天井画を描くことになる。老骨に鞭を打ち江戸から遥々やってきた北斎に思いを馳せれば、仏陀最後の旅を彷彿とさせる。無論、絵師の画力と執念が彼をそうさせたのだろうが、少なからずそこには命の灯火を燃焼し尽くして死なんとする人間の生き様と、昇天散華を願う信仰心が混在しているように思う。一言では語り尽くせぬ北斎らしく、彼は最期までそんな人物であった。それは一切が自然なことであり、全く無理や無駄はないのである。北斎には当たり前の行動であったと思う。

北斎最後の傑作ともいえる岩松院の鳳凰は「八方睨みの鳳凰」と呼ばれる。私も睨まれたくてたまらない。ずっと睨まれたかった。下手をすれば喰われるかもしれない。喰われたって構わない。憧れの鳳凰についに逢いに行ったのである。小布施の東の町外れの山麓に岩松院はどっしりと在る。曹洞宗の寺で、文明四年(1472)の創建というが、禅寺の厳しさはなく穏やかな佇まいである。境内には水路があって、鮮烈な水が絶え間なく流れている。栗や柿は残り少ない実を地に落とす寸前であった。小布施の町に似つかわしい良い寺である。本堂の裏手は墓地で、一番高いところには福島正則の墓があった。秀吉に見出されて賤ヶ岳七本槍の一人として、大名となった正則も栄華は関ヶ原までであった。大坂には参陣できず、あらぬ謀叛の嫌疑をかけては、外様大名を廃絶していった徳川幕府の策謀にかかり、苦虫を噛みながら豊臣家滅亡を見て、悲涙の余生を送った。小布施に半ば幽閉された正則の心中は察するに余りあるが、波瀾に満ちた生涯を最期までモノノフとして生き抜いた正則は、案外満足して死んだかもしれない。墓は西国の方を向いて立っている。

いよいよ岩松院の本堂に入る。私はすぐに天井を見ずに、まずは御本尊に合掌する。だが、天井の巨鳥はすでに私をロックオンしている。眼を閉じて合掌する私の脳天から睥睨されているのが、ビリビリと伝わってきた。一瞬でも怯んだら喰われそうだ。そこで私は合掌したまま、そっと頭を上げる。そして眼をそらさずに私も鳳凰を捕らえてみた。その圧倒的な存在には物凄いとしか言い様がない。凄いのは鳳凰なのか北斎なのか、解らなくなるが、そんなことを理解する必要はない。しかし畳二十一畳もあるこの巨鳥を、八十を過ぎた老人が描き切った事には、私は北斎という絵師に対して改めて畏敬の念を抱いた。いや、畏敬よりも畏怖かもしれない。少し昔、こんな事をやってのけた爺様が日本にいたのである。先にも述べたが、この鳳凰北斎自らの冥土への守護神であったと思う。私もこの大きな鳥にすべてを委ねよう。全く自然にそう思った。それほどこの巨鳥は優しかった。喰うのは汚い人間の心であり、浄化された人間を鳳凰は背に乗せて極楽へといざなうであろう。ドラクエの不死鳥ラーミアもこんな感じだろうか。「ラーミアの背中に乗りたい」少年の頃の私はそう夢見たものだ。図らずもその夢は、葛飾北斎のおかげで、小布施の古刹で叶ったのである。私は我を忘れてしばらく鳳凰と対峙した。苦しくなったら、会いに来い、俺は此処にいるよと言ってくれた様な気がした。