弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜楽器は宝〜

私が中一でクラリネットを吹き始めて半年、憧れのパートリーダーであるT先輩は卒業していった。卒業を前に、三年生を送る定期演奏会が開かれ、私も先輩と最後の合奏をした。私自身はまことに拙い演奏ではあったが、クラリネットの魅力を存分に教えてくれたT先輩と合奏できることに喜びを感じ、最後だと思うとさみしくてたまらなかった。同時に心から感謝した。T先輩は引退しても時々声をかけてくださり、私たち後輩には励みになった。私はT先輩が使っていた譜面台を引き継いで、ますます練習に気合いが入ったものだ。T先輩は楽器を大切に扱うことを、繰り返し厳しく教えてくれた。演奏家にとって楽器は命の次に大切な物だ。それは中学の吹奏楽部員にとっても同じである。とことん慎重に扱い、日頃から丁寧にメンテナンスをする。今思えば、この事がT先輩から何よりも一番に教わったことであった。先輩は定演後の謝恩会でも、親や学校から授かった楽器を大切にしてくださいと言った。楽器は宝である。

人は太古から音楽に親しんできた。日本人も日本ならではの楽器を発明した。弦楽器、管楽器、打楽器が様々な形で今日まで伝わっている。今日まで伝わっているのも、楽器が宝物として大切にされてきたからだ。大切にされたのは、いにしえの人々にとって楽器は、歌舞音曲を楽しむのみならず、魔除けや呪詛にも使われたからであろう。楽器には霊力が宿ると信じていたに違いない。宮中で邪気を祓う呪いとして、弓の弦を鳴らして行われた鳴弦の儀(めいげんのぎ)や、音の鳴る鏑矢を四方に放つ蟇目の儀(ひきめのぎ)も、その一種か或るいは原型とも云えよう。東大寺正倉院は古代楽器の宝庫である。それらを目にするだけで、天平時代の音や人の声までが聴こえてくるようである。殊に美しい螺鈿細工が施された弦楽器は、妖艶な輝きを放っていて、楽器と工芸品の域を超越した神秘を湛え、見る者の心を捉えるであろう。果たしてどんな音がするのであろうか。私はまだ聴いたことはない。

吹奏楽では西洋で生まれた楽器を用いるが、龍笛、篠笛、尺八などの和楽器と通ずる管楽器は多い。フルートやピッコロ、そしてクラリネットもまた和楽器と近い音色を出せる。私が吹奏楽を始めたきっかけのひとつが、きらきらと光る楽器の美しさに見惚れたからである。木製であるクラリネットとて、手入れしだいでは艶と輝く。コンサートホールではライトに照り映えて、クラリネットは漆黒の輝きを放つのである。あれをいつか手にして奏でてみたいと少年の日の私は願った。中学でその願いが叶った時はうれしくもあり、また震えるほどに緊張もした。 クラリネットを吹くことは、ただ音を出して、譜面を奏でるだけではなくて、あの日あの時の己の声そのものであったと思う。楽器には演奏家の声も宿るのである。等身大の自分の分身ともいえる存在。それが私にとってはクラリネットであった。だからこそ大切にしたい。毎日の手入れは欠かさず、練習後は手垢ひとつ見逃すことなく磨き上げた。私のクラリネットは同じパートの誰よりも輝いていた。クラリネットパートは私の他は皆女子であったが、私ほどクラリネットを愛していた者は当時いなかったと思う。私には楽器は宝であり、物を傷つけずに、丁寧に扱うということを教えてくれたのもまた楽器である。おそらく吹奏楽部員は皆同じような思いでいるはずだ。楽器に対する想い、情熱、畏敬はプロの演奏家とほとんど変わりないだろう。

荒ぶる天地神明

今夏の日本列島は凄まじい。ここ何年も異常気象であるが、今夏ほど同時多発で天変地異が起こることも、私の記憶ではない。酷暑、豪雨による大洪水、猛烈な台風、そして北海道の巨大地震。記憶にないと言ったが、思い出せば七年前の東日本大震災の時も、一月に新燃岳の噴火や、東北の巨大地震の翌日には長野県でも大地震があった。私は地震学や気象学のことはさっぱりわからないが、地球の地殻変動と、大気の状態、さらには潮の干満というのは、すべてが歯車のように連動していることは信じている。この星自体がひとつの生命体であり、我々はその母体に寄生しているに過ぎない。生命の誕生と死滅が、潮の干満と密接に関わりがあることからしても、この星の一部として生かされ、生きているのだと思う。

しかしよくよく考えてみれば、この星にとって人間ほど必要のない存在はあるまい。地球にとって人類とは癌細胞なのではないか。確かに人類は、現時点において地球上で最も高度な頭脳を授かり、それを有効かつ便利に用いることに成功したかもしれない。あたかもこの星の王として振舞い、我が物顔で支配した様に錯覚している。この頭脳は神から授かりしものか、悪魔からの入れ智慧なのか。真相はますますもって混迷してきた昨今、いよいよこの星は、病源たる人類の駆逐に乗り出したのやもしれない。

このところの大きな災害に遭われた方々、残念ながらお亡くなりになった方には心からお見舞いと哀悼の意を捧げたい。が、不謹慎であるとわかって、あえて申し上げたい。今、この星は怒っている。我らには想像出来ない自然災害も、地球にとっては、解毒剤を服用し、大手術を施しているのかもしれない。その治癒にはかなりの痛みも伴う。或いは、我らの天と地の神々は祟りとなってしまったか。それとも悪魔や鬼がいよいよ降臨し、せせら嗤いながら、我らを食し始めたのか。人間文明がどんなに進んでみても、自然災害に対してはどこまでも為す術なく、茫然と見過ごすことしかできぬであろう。強いて言えば、防災意識を高めることくらいしか我々にはできないのである。それにも限界はある。確かに人間は解決にむけて考える知能と行動する能力と勇気を持ち合わせている。それを必死で行使するために訴えて、これ以上の破壊を防ごうとする人々も或る。しかしそれはほんの一部の人々で、その他大勢は、普段からその怒りの声に耳を傾けようとはしていない。今、我々人間は一人ひとりが、対岸の火事とは思わずに、真剣にこの星と人類以外の生命のことを考えていかなければ、確実に滅びるであろう。人類滅亡の道は人間自らが作り、道の途切れし崖の先へと猛スピードで駆け抜けている。私にはそう思えてならない。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(二)

かつて六波羅のあたりは、京の葬送の地への入り口であった。京にはいくつかの葬送の地があったが、墓所として有名なところは北の蓮台野、西の化野、東の鳥辺野の三所である。六波羅は鳥辺野へ通じる入り口である。平安京が確立されてから、町外れのこの辺りがそうなったのだが、貴人でない者は墓が建てられるわけでもなく、野ざらしにされ、鴨の河原には野辺送りままならぬ人々や、無縁仏が転がっていたと云う。疫病が蔓延したり、飢饉となるとその数は増える一方で、河原が死体の山となることも度々あった。げにおぞましき光景は、地獄そのものであった。一見、風雅な王朝の都も、よくよく見ればこんな有様であったのだ。腐乱した死体からは異臭が漂い、橋を渡る人は鼻をつまんで走ったと云う。鳥辺野は三大墓所でも、もっとも町から近く、多くの人々が埋葬されてきた。その入り口の六波羅は、冥府の入り口故に人々はあまり寄りつかないような場所だった。

なき跡を誰としらねど鳥べ山 をのをのすごきつかの夕暮

西行は鳥辺野をこう詠んだが、「をのをのすごきつか」とは、相当の土饅頭が累々とあったものと思われる。六波羅蜜寺のあたりを轆轤町と云うが、元は髑髏町と呼んだのを、寛永期の京都所司代板倉宗重が、轆轤町に改めたのである。平安末期に後白河院平清盛が登場すると、彼らの本拠地となり屋敷ができ、寺社が建立された。寂しい都はずれは、平安の終わりに日本の中心へと一変したのである。六波羅は六原とも書く。平家の根城となってから、六波羅蜜寺はさらに隆盛した。平家から源氏の御世となっても、鎌倉幕府はこの地を接収して、都の監視のために六波羅探題を置いている。

六波羅蜜寺は、天暦五年(951)、空也上人によって開創された。西国第十七番の札所である。梵語六波羅の波羅は彼岸を意味し理想の世界のことで、波羅蜜とは到彼岸、すなわち理想の世界へ達することであると云う。しかし、それは容易なことではなく、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの修行を果たすことで、到彼岸が出来るとされる。到彼岸への道を同行し、現実世界の苦しみから救わんと願いを立てているほとけが、観世音菩薩だ。六波羅蜜寺の本尊も十一面観世音菩薩である。空也上人は醍醐帝の第二皇子に生まれながら、若くして世を厭いほとけに帰依、尾張国分寺にて出家した。その後は諸国遍歴をしながら、経典、教義を独自に極め、念仏を唱え、生かされていることに歓喜踊躍することを自ら実践した。空也上人の踊躍念仏は、いつも名もなき民の中にあり伝道された。空也上人はいつしか市の聖と呼ばれるようになる。空也上人は念仏の祖とも云われ、一遍上人法然上人、親鸞聖人ら鎌倉仏教の浄土系の祖にも尊崇されている。宝物庫には一見に値する凄い仏像や彫像がある。中でも有名な空也上人と、平清盛はとてつもない存在感であった。空也上人立像は、胸に金鼓を下げ、右手には撞木、左手には鹿の角杖をついて、左足を一歩前に踏み出している。一度見たら忘れえぬ恍惚とした表情の口からは、六体の阿弥陀仏が現れ、まさに今、「南無阿弥陀仏」を唱えている瞬間の空也上人がいる。もはや僧ではなく、菩薩そのものに見える。空也上人という市の聖を、これほどまでに上手く表現した彫像はない。今昔物語集巻二十九には、「阿弥陀ノ聖ト云フ事シテ行く法師」の話があり、「鹿ノ角ヲ付タル杖ヲ、尻ニハ金ヲ札ニシタルヲ突テ、金鼓ヲタタキテ、万ノ所ニ阿弥陀仏ヲ勧メ」廻ったとあるが、この法師は空也その人であろう。一方で平清盛坐像は、さすがの貫禄が備わる。経巻を手にしているが、平家納経であろうか。入道相国となってからの清盛は、さらに傲慢にも映るが、この彫像からは、悟り澄ました表情で、視線は遠くなのか近くなのか定かではないところが、仏者の目を見た感じがした。自分の亡き後の平家の命運をすべてを見通しているかのような、哀しみと諦めが混在し、縋るべきはほとけであると思っていたとしたら、この坐像の平清盛ほど、彼らしい姿はないだろう。

六波羅蜜寺から目と鼻の先に六道珍皇寺がある。この寺はもとは東寺の末寺で、現在は臨済宗建仁寺派の寺だが、禅宗寺院の印象は薄い。魔界迷宮の多い京都でも、随一のミステリアスな場所で、寺のくせに薄気味悪いところが良い。私は九年ほど前の盆の入りの夕暮れ、この辺りを彷徨いた。ちょうど迎え火の頃合で、残照わずかの六波羅は、何ともいえない怪しい雰囲気が満ちていた。ピタリと逢う魔が時に六波羅に迷い込んだのだ。此の世と彼の世の境目がなくなりそうな気配が漂う六波羅界隈。六波羅蜜寺には咽ぶほどに香煙が燻り、灯籠や蝋燭で本堂が真っ赤に照り映えている。六道珍皇寺にも迷い込んだ。薄明かりの灯籠がポツポツと灯り、精霊迎えに来た人々が列をなしていた。応対する寺の人は、闇の中に上半身のみがぼうっと浮かび上がって見えるのが、幻の様に妖しくて、狐につままれたような気がした。精霊迎えとは六道参りともいい平安時代から行われている。盆の前の八月七日から十日の間に、祖先の霊を家に迎える風習で、日本中でだいたい似たようなことを行う。京都ではその中心がここであり、御魂は六道の辻であるこの寺を必ず通ると信じられているのだ。精霊迎えは、まず山門の傍で高野槙を買う。昔から精霊は槇の葉に宿ると信じられているからだ。次に水塔婆に亡き人の戒名や俗名を書いて、鐘楼で迎え鐘を打つ。水塔婆を線香で清めて、高野槙で水回向をして納めるのだという。

言うまでもなく精霊送りは、京都の送り火の総代ともいえる五山の送り火があり、また各々の家でも送り火をするのだろう。六道珍皇寺六道の辻と呼ばれ、この辺りが鳥辺野の入口であったことに由来する。六道は仏教において衆生が輪廻転生するという天、人、畜生、修羅、餓鬼、地獄の六つの世界。生まれてきて死ぬまでの業によって次の転生先が変わるとされる。仏陀は輪廻転生は苦であり、ここから解脱することが目的であると説いた。輪廻転生の辻=交差点が、京都においてはこの場所とされたのである。平安貴族の小野篁は半ば伝説的な人物だが、この寺の井戸から冥界との行き来をしたと云われている。その井戸は今も本堂の奥に口を開けているが、昼間でも何となく気味が悪い。閻魔堂には閻魔大王小野篁弘法大師が並んで祀られている。篁は日中は優秀な官吏として、夜には冥界へ赴き閻魔大王の補佐をしたと云う。篁の木像は超人的な妖気を湛えていて、面を合わせたら動けなくかもしれないと思い、私は思わず目を逸らした。篁の墓は何故か紫式部と隣り合わせて、ここからずっと北へ離れた紫野の堀川通り沿いに在るが、平安の魔人と魔女のような両人が、同じ場所で眠っているのも因縁めいているし、京都人の畏怖と洒落が感じられる。何度も書いてきたとおり私は伝説、伝承を完全に否定はしない。寧ろ近頃は、伝説を信じたいとさえ思っている。生きている此の世や、科学こそが夢幻の虚構であって、彼の世や伝説こそが真実なのではないか。我々はあちらの手の上で踊らされているだけではなかろうか。

現在の鳥辺野にも広大な墓地が広がっている。西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の西大谷墓地と、その少し東に京都市営の清水山墓地がある。西大谷墓地には親鸞聖人の廟所があって大谷本廟と云う。大谷本廟は通称西大谷と呼ばれる。私も生家の菩提寺本願寺派の寺で、本山がお西さんになるが、今は宗派に拘ることなく寺廻りをしている。寧ろ若い頃は、敢えて真宗寺院を避けていた。真宗寺院は門徒以外は寄せ付けない閉鎖的な印象を拭えなかった。美しい仏像や建築に魅惑されていた私には、あまり関心が湧かなかったのである。菩提寺の付属幼稚園に通い、朝な夕なに念仏の歌を唄い、真宗にどっぷりと浸ってきたことが、大人になるにつれ重苦しい枷になっていた。真宗寺院は念仏の道場として始まったところが多く、門徒のための道場であり、集会所であり、公会堂であり、観光寺院ではない。浅はかな私はそこに惹かれなかった。が、歳を経て最近は少し思い直している。懐かしい念仏、お経、歌が響く場所。私にとって真宗寺院は安らぎの場になりつつある。気負わず、ごく自然に、仏心に近づき、何にも考えずにひたすらにお参りできる。ことに西本願寺本願寺派の寺では、ホッとするところがある。西本願寺は私の母船のようなものである。ここ大谷本廟もまた然り。訪れる人はほとんどが門徒であろう。親鸞聖人の御廟は真っ直ぐに西方極楽浄土を向いている。御廟に護られて、いや親鸞に導かれるように背後に広がる大谷墓地。ここへ来れば目に見えぬ極楽往生への繋がりを誰もが感ずることができるだろう。大谷本廟親鸞御廟であるが、立派な門や本堂があって、京都でなければかなり大きな寺である。京の町にはこのくらいの規模の寺は無数にある。参道の池には美しい石橋が架けられてい、周囲の楓との調和はさすがに京都の寺らしい。

弘長二年(1263)十一月二十八日、親鸞聖人は九十歳で大往生、鳥辺山南辺の御荼毘所で火葬されて、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められた。この御荼毘所が、この大谷本廟である。文永九年(1272)、末娘の覚信尼により、遺骨を吉水の北に改葬されて、新たに廟堂を建立した。現在の知恩院の山門の北に位置する崇泰院付近とされる。この廟堂は後に大谷本願寺と呼ばれ、蓮如上人時代の寛正の法難により破却されたが、関ヶ原の戦いで勝利し、実権を握った徳川家康により、本願寺が東西に二分され、慶長八年(1603)現在地に移転し、この地を大谷と呼ぶようになった。一方、東本願寺の大谷祖廟は、吉水の近くにあって、こちらもやはり親鸞聖人の廟所となっている。次に私はその大谷祖廟へと向かった。

酷暑でも高台寺のあたりは観光客で溢れかえっている。少し時間があるので霊山の坂本龍馬中岡慎太郎の墓参りをする。霊山観音を通り過ぎ、霊山護国神社まで急坂を登るが、この暑さを登るのは一苦労だった。霊山歴史館ではちょうど西郷隆盛展をやっている。ここからさらに山を登る。東山連峰は突如として隆起するところが多いので、登るには気合が必要だ。息を切らせてようやく辿り着いたら、展望が開けて、京都市中を見渡すことができた。霊山墓地はずいぶんと高台にある。ここからの眺めは絶景で、西山から愛宕の高嶺までよく見えたが、空には嵐の後の鈍色の雲が、まるで龍の様に鋭く尖って蟠踞している。霊山墓地には木戸孝允高杉晋作久坂玄瑞大村益次郎梅田雲浜ら維新の志士たちが所狭しと埋葬され、皆、京都市中を睥睨するかの様に眠っている。その最前列の真ん中に坂本龍馬中岡慎太郎は並んで眠っている。墓には鳥居まであったが、彼らは嬉しくはあるまい。ここから二十一世紀の京都を、日本を、世界をどんな気持ちで見ているのか。彼らの思い描いた目標のいくつかは達成されたであろう。が、彼らの愛した日本人は消えかけているであろう。喜びと憂いとが同居しているのではなかろうか。

霊山墓地を降りて、再び高台寺の門前を通り、寺の前から円山公園に抜ける。円山公園の手前に東大谷と呼ばれる大谷祖廟がある。ここが東本願寺すなわち大谷派親鸞聖人廟所である。西大谷に劣らぬ立派な 門は背後の山の緑に映え、大きな本堂からは門徒が集い賛美歌の様に美しいメロディの声明が聴こえてくる。境内は美々しく整えられており、良い按配で草花が植えてある。本堂前にはミストシャワーが完備してあり涼風が吹き抜けている。汗だくで歩いてきたので、あたかも極楽に達したような心持ちになった。親鸞聖人の御廟は本堂の真上にあり、西大谷と同じく真っ直ぐ西方を向いている。聖地から発せられるパワーは確かにあるが、それはこちらを威圧するパワーではなく、和やかなものである。親鸞聖人入滅から長い時間をかけて、醸成された浄土真宗の専修念仏はしっかりと根を張った。東西の大谷御廟へ来るとそれを実感する。

大谷祖廟を北に出てすぐの裏手に、長楽寺という建礼門院ゆかりの寺がある。ここへも長年来たかったが、ようやく機会が訪れた。建礼門院徳子は、平清盛二位尼時子の間に生まれた。外戚として宮中を掌握したい清盛は、徳子を入内せしめ、高倉帝の中宮と為した。見事に徳子は安徳帝を生み、清盛は感涙したが、その喜びも束の間に高倉帝と清盛は相次いで世を去ってしまう。建礼門院となってからの徳子は、まさに階段を転げ落ちるかの如くで、平家は安徳帝を奉じて西海へと落ち、壇之浦にて墜えたのである。安徳帝は壇之浦で二位尼に抱き抱えられて、神器の剣とともに波の下へと旅立たれた。建礼門院もすぐに後を追うも、沈みきれずに源氏方に引き揚げられ、無残にも京へと護送された。この時の女院の気持ちほど、察するに余りあることはない。最愛の息子と平家一門を喪い、悲しみや憎しみなど湧く気力すらなかったのではあるまいか。女院が落飾されたのが、ここ長楽寺であると云う。平家物語の灌頂巻「女院御出家」にはこうある。

かくて女院は、文治元年五月一日の日、御髪落させ給ひけり。御戒の師には、長楽寺の阿證坊上人印誓とぞ聞えし。御布施には、先帝の御直衣なり。

出家にあたり御布施にするものが何にもなく、仕方なく安徳帝の御衣を、仏前に垂れ下げる幡に縫いて御布施とされたのである。建礼門院は平家の絶頂から没落までをつぶさに見た。平家をただ一身で象徴するかのような生涯である。平家物語の大原御幸で、寂光院を訪ねてきた後白河院に、女院は、自分は生きながらにして六道のすべてを見たと言う。寺には幼い安徳帝の御影が伝わるが、独楽を廻して遊ぶあどけない姿は見る者の涙を誘う。二十九歳で出家された建礼門院の御影は、源氏の目を欺くためか全体に墨が塗られてある。放心してぼんやりと浮かぶ建礼門院は憐れであるが、我が子と平家の菩提をただ一人で弔う覚悟はできたのかもしれない。

長楽寺は延暦二十四年(805)、桓武帝の勅命で伝教大師によって開かれた。大師が自ら彫ったとされる本尊の准胝観音像は、天皇の御即位のときのみ御開帳される秘仏である。来年は三十年ぶりに御開帳されるわけだ。当初は叡山の別院で、往時は円山公園一帯のほとんどが寺域であったが、大谷御廟建設時に江戸幕府の命により境内地を割かれ、明治以降に円山公園になった。室町時代の至徳二年(1385)、時宗の国阿上人が入り、以来時宗の寺になる。江戸後期には衰微しており、文化年間に浄土宗西山派に改宗。明治二年(1870)に、再び時宗遊行派になった。

折からの豪雨の後で、長楽寺への緩やかな参道は、山からの水が川のように流れ落ちてくる。歩けないほどでもないので、なんとか山門まで辿り着いたが、人気はなく、蟬しぐれと滴る水音のみが、森閑とした境内を包んでいる。全山が鬱蒼たる森に覆われており、まことに幽邃の境といった感。目の前が円山公園で、祇園の喧騒から歩いてわずか十分少々とは思えない。急な石段の上に本堂と鐘楼があり、その先に建礼門院の供養塔、そのうしろに平安の滝が清洌な音を響かせて落ちている。庫裏、茶室、小さな池を眺められる拝観所、寺宝を収める収蔵庫があるが、いずれもささやかな佇まいだ。収蔵庫には一遍上人像をはじめ、歴代の遊行上人の木造が収めらており一見の価値があるが、やはりこの寺は建礼門院の面影が色濃い。栄枯盛衰のすべてを見尽くした女院の悲哀が、そこはかとなく漂っている。

青春譜〜応援合戦〜

今年、第百回という記念大会となった夏の甲子園。何度も繰り返し書いてきたが、私は甲子園の大ファンである。大会中、休みの日はほとんど一日中テレビの前を動かないし、仕事の日は休憩毎に試合経過を見て、帰宅すれば録画した全試合を観る。これほど入れ込むようになったのは、甲子園には日常我々が掴み得ない夢があり、呪文のように空疎な言葉となった真の絆があり、何よりも枯渇し切った私の涙腺を弛緩してくれるからだ。スポーツ全般に同じだが、夏は甲子園、冬は箱根駅伝。この二つだけは格別の思い入れでいる。生涯変わることはないだろう。

夏の甲子園百回の歴史は爽快に燦々と輝いている。それぞれが忘れない試合、名勝負がある。その偉大なる歴史には空白の年がある。百三年前に第一回大会が開催されたが、今年百回なのは太平洋戦争のせいである。昭和十六年(1941)の途中で中止となり、昭和二十年(1945)まで、戦争は球児たちの青春を奪い、夢を砕き、希望を絶望にした。球児たちは皆、涙を流して悔しがった。野球ができぬまま、戦地へと駆り出されて、散らす必要のない命を散らした方もいた。ある者は南方の島に、ある者は海に、ある者は特攻へ。今、溌剌とプレーする高校球児たちを観ていると、当時の事はあまりにも酷い仕打ちであると、狂った時代であったと思う。それでも文句ひとつ言わずに召集に応じた。知覧から飛び立ったある人は、甲子園出場は叶わずも、プロ入り。しかし、たった二試合にのみ出場しただけで、特攻に召集されて散った。彼の遺書にはこう記されている。

「野球人生八年間  我が心 鍛えてくれし 野球かな 」

あまつさえ、戦意昂揚と称した大会や試合が開かれ、記録には残らないという残酷な仕打ちをした。記録に残さぬ試合などしないほうがマシだと思うが、それでも野球を愛した球児たちや関係者には、野球ができるだけでも幸せなことであったならば、或いはせめてもの慰めであったか。夏の甲子園百回までには、語り尽くせぬドラマ、エピソードが溢れている。

甲子園で忘れてはならぬのが応援である。一塁側、三塁側のアルプススタンドに陣取る大応援団を抜きに甲子園は語れない。大応援団は甲子園球児たちを鼓舞し、時にその熱意が勇気を与え、ピンチを救い、思わぬ大逆転劇につながることがある。大応援団にとっても野球部に甲子園に連れてきてもらい、一致団結することは、人生においてこれほど熱く、濃密なひとときはあるまい。名勝負とはベンチが作り、ナインが生み、応援が育てるのである。最近は応援合戦も注目されるようになった。レギュラーを勝ち取れなかった野球部員、応援団、チアリーダー、生徒諸君、保護者、職員、地域の勝手連的応援団が声を枯らし、汗だくで熱戦を盛り上げる。甲子園のアルプススタンドは思いの詰まった場所である。

その応援団に彩りと個性を与え、まさに応援の華ともいえるのが、ブラスバンドである。野球部員同様に各校の吹奏楽部員もまた、甲子園で演奏し、アルプスを盛り上げることを誇りとす。ゆえに演奏にも力が入る。選手とアルプスを結びつけるのが、ブラスバンドの演奏であると私は思う。中には吹奏楽部員が数人しかいない学校もあり、そうした場合は、OBや近隣の吹奏楽部や、地域の楽団が総出で応援に来ることもしばしばある。吹奏楽部員も嬉しいだろうし、大編成で大音量を奏でて、最高の気分だろう。 甲子園での吹奏楽の歴史は戦後のことで、昭和三十年代後半から、だんだん華やかになっていった。戦前は応援も自重気味であったのだ。今は、各校が競うように演奏する。守備の回は相手の応援、演奏に敬意を表して聴きながらも、攻撃の回では応酬する。外野から観ていて、試合と併せてこの応援合戦もまことに見応えがあり、一見の価値がある。

応援で使用される曲は昔からなじみの曲から、最近は各校オリジナルの曲もあり、地域の民謡や音頭、ご当地ソングまで多様化していて楽しい。オリジナル曲がいつかメジャーになり、他校でも演奏するようになっていくこともある。もはや甲子園クラシックといえるのが、コンバットマーチ、アフリカンシンフォニー、歌謡曲やアニメソングからアレンジされた、狙いうち、サウスポー、タッチ、ルパン三世のテーマ、鉄腕アトム、紅、学園天国、ポパイ、必殺仕事人、ドラゴンクエストⅢの戦闘のテーマなどが定番となっていて、ほとんどの学校で演奏される。最近私はダイナミック琉球が好きだ。何とも言えない現代的な神秘を感じる。時には吹奏楽コンクールの成績上位校が、オーケストラのように物凄い演奏を魅せる楽団もあり、聴いていると鳥肌がたつこともある。単に応援を盛り上げるのみならず、年々技術、表現、ハーモニーが競うように向上している。

だが、大きな問題もある。夏の甲子園は、吹奏楽の甲子園と同時期に行われることだ。吹奏楽コンクールや、マーチングコンテストも予選はこの時期なのである。コンクールに出場しない学校ならば、思う存分甲子園に集中できるが、コンクールに出場し十月の全国大会を目指す学校は、今がもっとも重要な時なのである。一分一秒でもコンクールの練習がしたい。中には、コンクールの練習をしながら、試合日には甲子園へ駆けつけるという有名校もある。数年前、某校の吹奏楽部が、自分たちの甲子園たる吹奏楽コンクールを辞退して、野球部の応援に馳せ参じたことがあり、世論は賛否二分となった。吹奏楽部内でも、コンクール出場を望む生徒と、甲子園行きを出張する生徒で意見が分かれたが、結局、甲子園へやってきた。どうやって決めたのか私は知らないが、全員が断腸の思いであったに違いない。が、最終的に吹奏楽部員が決めたことならば、外野がとやかく言うことはない。コンクール出場が吹奏楽のすべてではないからだ。これもまた青春であり、野球部員にとっては大きな励みとなったであろう。

甲子園での演奏では、熱中症に気をつけなければならない。楽器を演奏することは、パワーが要る。つい夢中で演奏してしまうこともあるから注意が必要だ。さらには楽器の保護がとても大切である。どんな楽器もデリケートなもので、殊に木管楽器は直射日光や熱射により変形して、最悪は壊れてしまう。中でも、私の吹いていたクラリネットはほぼ全体が木製や樹脂製であるため、慎重に扱わねばならない。演奏者は皆、タオルで覆いながら吹いている。それでもなお、甲子園で演奏することは喜びなのである。試合日以外の練習、場所の確保、宿泊や食事の手配など、学校や保護者まで多くの協力のもとに甲子園は成り立っている。甲子園は、選手のプレーも、アルプススタンドの応援も、最高のBGMを奏でるブラスバンドも欠かすことのできない日本の夏の風景である。

私は高校時代、甲子園に応援団として参陣は叶わなかったが、野球部の定期戦やインターハイで応援演奏した。高校二年の時はインターハイがちょうど地元で開催された。秋篠宮御夫妻御臨席の開会式で、地域の高校の吹奏楽部で三百人以上の大楽団を結成して、式典の前奏曲としてワーグナータンホイザー序曲を演奏し、入場行進等のセレモニーの音楽を合奏したことは、今でも誇りである。選手へは闘志を呼び起こす激励を、応援には豊かな色彩を与え、一致団結の要と為す。

百回目の甲子園の開会式、近江高校中尾雄斗主将の選手宣誓は、まさに甲子園を象徴する言葉で心に残った。

「甲子園は勇気、希望を与え、日本を平和にしてきた証です。多くの人々に、笑顔と感動を与えられる本気の夏にすることを誓います。」

 

Don't forget Nagasaki

長崎の街は美しい。多くの歌になり、文学や映画の舞台にもなった。晴れても、雨でもいい。夜景も見事である。山海が隣り合う街の景色は、刻一刻と表情が変わり、見飽きることはない。異国情緒漂うという響きがまことによく似合う。日本の港町はどこも同じような雰囲気があるが、函館、横浜、神戸など明治維新後に急速に発展した港町よりも、遥かずっと前から、長崎は日本の国際貿易港であった。徳川時代より以前から、中国、朝鮮、南蛮と盛んに交流した。長崎市のみならず、平戸、雲仙、熊本県の天草まで含めると、文化交流規模は相当に広い。そんな長崎にはキリスト教の礼拝堂が多い。いずれも由緒ある教会ばかりだが、欧州のような大聖堂ではなく、こじんまりとした愛らしい佇まい。天主堂と呼ばれ、代々土地の人々に守り継がれている。

現在、長崎は心地良い潮風を感じながら、如何にもぶらりと散歩がしたくなる街だ。この東洋と西洋が美しく混在する街は、今から七十三年前、一瞬で地獄になった。世界で初めて広島に原爆が投下された僅か三日後、昭和二十年八月九日午前十一時二分のことだ。中学の時、あの時間で止まった柱時計を、長崎の原爆資料館で見たことがある。その時の私は、何も考えられずに、しばし茫然と柱時計の前に立ち尽くした。それから被爆者の方にお話を伺った。凄まじい話であった。怖くてたまらなかったが、私の記憶にも残ったことは、これからのためには良かったと思っている。被爆者は年々減り、今は十五万人ほど。ゆえにもう一度話を聴きたい。あの方はどうされたであろう。三十年近く前で、当時すでにおじいさんであったから、おそらくはもう旅立たれたであろう。奇跡的に生き残った方々は、今は語り部として活動されている方もいるが、思えばこれまで残っていることほど、実は辛いことなのではないだろうか。 爆心地の浦上地区の被害は甚大であった。長崎に投下された原爆は、広島よりも威力があったらしいが、平野ではなく山あり谷ありの長崎の地形が壁になり、爆心地から少し離れた大浦天主堂やグラバー邸は奇跡的に倒壊を免れ堪えた。今、あの優美な建築を堪能できるのも、自然の地形が護ってくれたのである。それにひきかえ、人間は何とも愚かなり。一方、爆心地にある浦上天主堂は申すに及ばぬほど破壊された。かの痛々しい被爆マリア像には、涙よりも言い様のない戦慄を覚える。それは原爆の恐怖以上に、愚かな人類がやらかした大罪は、悔い改めることはできないのではないか、ある種祟りのような戦慄である。

神は、仏は、自然は、そしてこの星は、怒り、呆れ、嘆いてもなお赦してくれたのか。広島も長崎も、百年は草木は生えないと言われたが、今ではどちらも日本屈指の緑蔭溢れる街になった。かたじけなさに涙こぼるるが如しである。広島で被爆して、長崎に疎開し、また被爆された方もいる。二重被爆というが、広島でやっとの思いで助かったのに、長崎で亡くなった方もいるのだ。さらには、二重被爆に遭っても助かった方もいる。何という運命だろう。生き存えたことに、奇跡以上の何かがはたらいている気がしてならない。国は長年、二重被爆を認めず、黒い雨の降った地域の徹底調査をしなかった。そのせいでずいぶんと苦労されて、無念のうちに亡くなった方も多いと聴く。まさに踏んだり蹴ったりだ。助かっても、煉獄の火焔は消えなかった。国は最近、ようやく重い腰を上げつつあるが、はたして…。原爆投下は実際にこの国であったことである。私たちは決して他人事で済ませてはいけない。

長崎は美しい。天主堂の鐘の音が今日も高らかに響く。その音は華やかなだけではなく、戦没者への永遠の鎮魂歌であり、人間の犯した罪への警笛と懺悔の響きである。

八月六日夜

平成三十年八月六日夜。台風が接近する東京は、風が強い。日本の夏に欠かせぬ夏の甲子園が百回目を迎え、熱闘が始まった。明日は旧暦で立秋。十五年ぶりに地球に大接近中の火星が、東南の夜空にオレンジ色に輝いてまだよく見えている。

昭和二十年八月六日。広島市の夜はどんなであったか。どんなであったかとは愚言だが、私があの日の惨状について述べるよりも、かえって真に迫る気がする。原爆投下から十二時間以上が経過しても、火災は鎮まらず、加えて黒い雨が降ってきた。彼処にいた人は息をするのもやっとであっただろう。爆発と同時に地表の温度は3,000℃に達し、風速400メートルを超す爆風で、広島の街は一瞬でほぼ壊滅した。実際、何が起きたのかさえ解らぬまま、此の世から消え失せてしまった人がいた。犠牲者として名前すら確認できなかった人が大勢いたはずだ。無常という言葉さえ、虚しく聞こえる。どうしたらあの人たちを思い出すことができるのだろうか。どうすれば一瞬で消えて無くなったあの人たちを、せめて追悼することができるのだろうか。私は、昭和の戦争のことを考える度に、こんなことを思うのである。あの人たちは何のために生まれて来たのか。生まれてきた意味、役割はあったであろうに。あったのか。いや確かにあったはずである。それを一切の抵抗、一瞬の逃避も許されずに粉砕されたのである。一発の原子爆弾に。夢も希望も。恋も愛も。親も子供も。少年も少女も。老人も赤子も。恋人も友達も。生き物も花も木も。文も武も。嘘も誠も。思想までもが、みんなみんな粉砕された。何時間も何日も何年も苦しみながら、もがきながら亡くなっていった人たちからすれば、まだましだったのか。そう思うこともあったが、近頃は果たしてそうとも思えない。少なくとも苦しみながら亡くなった人たちは、何かとんでもないことが起きたが、それが戦争のせいであることはわかっていたであろう。苦しみと悔しさと哀しみに打ちのめされて逝ったに違いない。そういう想いを此の世にきっちりと置いたはずだ。或いは、怨み辛みを吐きながら逝ったであろう。いったいどちらがましな死に方であったかということはない。

こうして書いていても大変苦しい。苦しいが、書かねばならぬ。私では許されないかもしれないが、書かなくてはならない。戦争のない時代をのうのうと生きる私。であるからこそ、戦争を知らないからこそ書かなくてはならないのだ。私にとって、それがあの人たちを思い出して、追悼する唯一無二のことであるから。いったい何が悪かったのか。誰が悪かったのか。時代が悪かったのか。今さら言ったところでどうにもならないが、人類は賢く成りすぎて、自ら滅亡の道を歩み始めた。滅亡への歩みは止まらない。戦争をやめない人類。まだ平和な平成最後の日本の夏。だが、明日は我が身である。全方位的に混沌殺伐とした風潮は、戦前なのかもしれない。一寸先は闇だということを、私たちは肝に銘じておかねばならない。七十三回目の広島原爆忌。あの人たちの御霊よ、戦災で亡くなられたすべての御霊へ、どうか安らかに。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(一)

祇園祭が始まったばかりの京都へ。西日本豪雨のさ中で、京都も相当な被害があったが、夜は茶道の同志との約束もあり上洛する。大変な嵐のあとで、遠出は難しい。昼間どこを彷徨くか考えていたが、夕方には並河靖之記念館に行きたいと思っていたので、久しぶりに東山界隈を歩くことにした。新幹線からJR奈良線に乗り換えて、東福寺駅で下車。東福寺とは反対の北へ向かう。泉涌寺道を通り過ぎて、目指すは九年ぶりの三十三間堂。実は前日に某番組で、三十三間堂をやっていて触発された次第。三十三間堂は朝八時から開門しているらしい。京都の名だたる寺の拝観は、ほとんどが九時からだ。中には東西本願寺や、清水寺のように早朝からお詣りできる寺もあるが、三十三間堂が八時から拝めるのは、時間を有効に使いきりたい旅人にとってはありがたい。
京都も五山の送り火を過ぎれば、秋近しと思いたいが、そうはいかない。だが、京都の寺廻りには、この暑い時期はうってつけかもしれない。暑さと寒さの厳しい京都は、真夏と真冬は意外と空いている。外国人は多いが、春秋に比べたら随分静かなものだ。祇園祭宵山や、送り火当日を除けば、ゆっくりと寺社詣できる。無論例外もあって、東山では清水寺高台寺はいつも混んでいる。知恩院南禅寺もそうだ。私も好きな寺で、何度でも訪ねたいのだが、暑い中、さらに人混みは真っ平御免である。今回は人気の巨刹は避けて歩いてみよう。

途中、新熊野神社へ寄る。ここは後白河院の発願で、平清盛が金を出して建立された。三十三間堂と同じである。後白河院の熊野信仰は崇敬高きもので、生涯に三十四度も熊野詣をされた。ここまで熊野に執着されたことには、別の理由もあったに違いない。源平を巧みに利用した後白河院は、一筋縄ではいかぬ。熊野を信仰をする山伏、木樵などの山人、那智を信仰する海賊や、漁師を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。そして、京へも熊野を勧請されたのが、新熊野神社である。「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。さらには、ほど近い泉涌寺には今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、ここは弘法大師が開いた寺で、京の熊野と呼ばれ信仰を集めていた。後白河院は、この地に新熊野神社を建て、新熊野神社別当寺として、蓮華王院すなわち三十三間堂の建立を発願され、為政者として持ちつ持たれつの平清盛に命じたのである。ゆえにこの社こそが、蓮華王院の縁起そのものと云える。またずっと降って、足利義満世阿弥の舞を始めて観た社とも云われる。こうした観光客のほとんど来ない町中の社にも、幾重にも歴史が伝わっているところが京都である。

開門直後の三十三間堂は静かであった。この日は日曜日であったが、空模様も影響してか、外国人や修学旅行の中学生がちらほらといるばかり。あの目も眩む千手観音の群像と、じっくりと対坐した。これほどの数の仏像を一箇所で拝めるところは他にない。博物館でも無理である。圧倒されるという言葉は、この場所のためにあると言っても過言でないだろう。仏に圧倒される。圧倒という表現が果たして適当かとも思うが、圧倒されても偉大なる包容力が優るのが、三十三間堂である。中尊は殊の外威光を放っていて、燦々と何かを浴びる様に惚けて見ていると、無重力で浮遊する錯覚に陥る。すべての観音様と心身一体になってゆく気分だ。これを観音イオンとでも言ったら良いか。下から一番高い所の観音様の姿を拝むことは難しいが、私には一体一体の尊顔がくっきりと見えた気がした。一見すると同じに見えるが、よく見ると表情、姿に微妙な違いがあって千体千様である。中尊、風神雷神二十八部衆はすでに国宝だが、今年は千体の観音様すべてが国宝になる。

鳥羽院の時、院庁のあった白河の地に得長寿院という寺が建てられ、その本堂が三十三間堂であった。中尊を含めた千一体は聖観音であったと云う。後白河院は、六波羅の南の法住寺に入り、ここが院庁となって法住寺殿と呼ばれるようになる。長寛二年(1164)、法住寺殿の一角に蓮華王院を建立し、鳥羽院に倣い三十三間堂を本堂とした。今、三十三間堂妙法院塔頭になっているが、妙法院はもとは比叡山中にあり、後白河院がこのあたりに比叡山王社を勧請して、新日吉神社とした際、妙法院は山上から法住寺殿へ移った。新日吉神社は今も妙法院の裏手を登ってゆくとあるが、法住寺殿全体の鎮守とされたのである。後白河院と清盛の絶頂期の絆であった三十三間堂は、建長元年(1249)に焼け落ちたが、後深草天皇の勅願により文永三年(1266)に再建された。今、我々が目にするのが七百五十年を経た蓮華王院である。豊臣秀吉は、方広寺大仏殿を造営した際に、三十三間堂方広寺に吸収し、寺域として土塀を築いた。それが今も残る南大門と太閤塀である。思えばこの寺は、いかにも平安京の寺という感じがする。この日本一、いや寺院聖堂としては世界一の長さを誇る三十三間堂の細身で、嫋やかな佇まいは、極めて京都らしい。

三十三間堂と云えば、通し矢が有名だ。通し矢は三十三間堂の南から北へ、百二十一メートルを弓矢を射抜く競技である。様々な種目があったが、的を射通した数を競う「大矢数」という種目がもっとも盛んで人気もあった。通し矢の歴史は保元の頃からというが、はっきりはしない。桃山くらいから正式な記録が残っていて、江戸前期には最盛し、明治後期までは記録が残っている。天下一の記録は、紀州藩士で弓術家の和佐範遠が、貞享三年(1686)四月二十七日に達成した矢数一万三千五十三本、通し矢八千百三十三本である。昔の人はとてつもない。今では通し矢は行われていないが、毎年一月に半分の距離で弓道の全国大会が行われている。三十三間堂は江戸にもあった。徳川家光は江戸に三十三間堂建立を発願、はじめ浅草にあったが火事で焼失。元禄期に深川へ移転した。深川の江戸三十三間堂は広重の名所江戸百景にも描かれており、木場のすぐ隣にあったことがわかる。細長い御堂は画面全部に描き切っていない広重お得意の手法だが、おかげでその規模が察する。千手観音を本尊としたらしいが、おそらく中尊と諸仏が安置されていて、京都のように千体仏が安置されていたわけではないだろう。江戸三十三間堂はあくまで、通し矢をはじめとした武芸奨励を目的として建立されたと思われる。実際、最盛期の五割強が武士であった総城下町たる江戸は、通し矢が京都以上に盛んに行われたと云う。江戸三十三間堂は廃仏棄釈により、残念ながら明治五年(1872)に取り壊された。今も浅草には三十三間堂守護のために建てられた矢崎稲荷神社があり、深川には八幡社の近くにその跡を示す碑と、数矢小学校の校名に残影をとどめている。

後白河院の陵墓は、三十三間堂の目の前にひっそりとある。法住寺と養源院の間に細長い入口があって、頼朝に大天狗とまで揶揄された稀代の専制君主の墓にしては慎ましい。法住寺は今、実に簡素な町中の寺だが、かつて威容栄華を誇った法住寺殿の名前を引き継ぎ、幕末までずっと後白河院陵を護ってきた。明治以降、寺と陵墓は分離されたが、法住寺殿は後白河院が亡くなって、鎌倉以降も時の権力者の関心を集め様々な変遷を辿ってきたことは、考えてみればこの寺が如何に重要な位置を占めたかが知れる。

そのまま養源院に入った。ここは血天井俵屋宗達の絵で有名な寺だが、周囲は三十三間堂、法住寺、智積院、ホテルに囲まれていて、正門の前まで廻らないとわからない。が、門を潜ってから本堂へ続く緩やかな坂道は、蒼葉の桜並木が美しく、さすがに由緒ある寺だと思った。

慶長五年(1600)、徳川家康は再三の召喚に応じない上杉景勝を討征すべく、大軍を率いて奥州へ下向した。大坂城西の丸に陣取っていた家康が動いたことで、家康成敗を目論む石田三成ら西軍首脳は、毛利輝元を総大将として、西の丸を占拠した。当時、石高、軍事力、財力で諸大名を圧倒し、豊臣家を除いて並ぶ者ない家康は、秀吉亡き後の国政の一切を取り仕切り、大坂城西の丸と伏見城にて政務を行なっていた。この時点で太閤秀吉の建てた伏見城は、ほとんど徳川の居城となっていた。大坂城を発した家康は、まず伏見城に立ち寄る。この後三成が挙兵することを先読みして、伏見城をいかにするか懸念していた。徳川の本隊は、ほとんどが江戸より北へ向かうことになり、伏見城を護る手勢はわずか二千三百ほどであった。留守居役の鳥居元忠は、何としても伏見城を死守せんと家康に誓う。伏見城宇喜多秀家小早川秀秋大谷吉継長宗我部盛親島津義弘ら四万の大軍に包囲されるも、城方は籠城奮戦。七月十九日に開戦し、八月一日の落城まで、十日以上持ち堪えたのである。関ヶ原の前哨戦ともいえる伏見城の戦いは、結果的には東軍の結束を強め、西軍は四万の大軍でも攻めあぐねたことから、烏合の衆であることを露呈した。落城の砌、名将鳥居元忠以下は、城内で自刃、多くの男たちの血が伏見城には漂った。この時の伏見城の血染めの床が、養源院の天井の一部に使われている。養源院は、戦国の花と云われた浅井三姉妹の父浅井長政法名である。三姉妹の長女淀殿が、父長政、祖父久政の菩提を弔うため、秀吉に頼んで文禄三年(1594)に建立した。豊臣家滅亡後、淀殿の意思を引き継いだ三女お江は、夫秀忠に頼み養源院を再興、その時に伏見城の戦いで散った者の弔いも兼ねて、養源院に血天井が使われたと云う。やはり昔の人は凄いことをする。いくら供養とはいえ、血天井など現代人には考えもつかない。戦の果ては敵も味方もなく弔い、慰霊をした。今の我々は、戦国時代にある種の浪漫を抱くが、当時を生きた人々には、戦地は血腥くて、遺族には辛苦以外の何でもなかった。小谷城と北ノ庄城で、二度の落城を経験し、父、母、叔父、姉、甥を戦乱で失ったお江にとって、徳川には何としても泰平の世を築いて欲しいと願ったに違いない。夫秀忠もそれを、よく受け止めて、養源院を血天井にした。私も初めて養源院の血天井を見せていただいたが、寺の人の話ではおそらくらしいがと示されたところに、鳥居元忠その人が自刃し倒れたその姿がはっきりと残っていて驚いた。真っ黒に残る血痕は、不思議と気味の悪さはなくて、何か神聖な感じさえ受けた。

血天井の下には俵屋宗達の杉戸絵があった。有名な白象、麒麟、唐獅子である。いずれも宗達若き日の傑作で、これほど躍動感溢れる杉戸絵は他にあるまい。特に白象は圧巻である。宗達の想像で究極にデフォルメされた姿だが、睥睨する眼は、見る者を捉えて離さぬであろう。私もこの二頭の白象に逢いたくてたまらなかった。念願の対面を果たして感無量である。この寺でもっとも格式高い部屋が、浅井家と徳川歴代将軍の位牌所で、両側の襖絵も宗達の筆になる「金地着色松図」である。宗達らしい大胆と微細が混在し、あくまで位牌所の襖絵の域を超えない配慮を感じる。当時はまだ無名の扇絵職人であった宗達を、引き抜いたのは本阿弥光悦とも云われる。宗達はこの養源院の杉戸絵と襖絵によって、一流絵師として羽搏いていった。風神雷神図や、源氏絵、西行法師絵詞など、近世日本画壇で宗達は私も敬愛する絵師の一人である。大胆な構図を繊細な筆致で描いた宗達は、彼以降の画壇に影響を与えたのは間違いないが、宗達自身はあまりそう云うことに拘る性格ではなく、自由に好きな絵を描いていたかったと私は思う。翌日、建仁寺で改めて「風神雷神図屏風」の複製をじっくりと観せていただいたが、宗達の描いた人物、動物、花、樹木、風景、どれを見ても闊達で、何物にも縛られたくないという気持が現れている。才能と自由が絶妙のバランスで迸る俵屋宗達の絵は、見る者を元気にさせる。