弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

西国巡礼 第四番 槙尾山

寺名は施福寺と云うが、槇尾山とか槇尾寺とも通称される。西国巡礼屈指の難所で、麓から本堂までは、胸突き八丁の山道を小一時間かけて登らねばならない。槙尾山の標高は六百メートルほどで、施福寺はおよそ五百メートルのところに在る。山としては大した高さではないが、それでも街中の寺からすれば相当な山寺で、一歩参道に入ると深山幽谷の気に包まれており、やはり観音霊場に相応しい場所だ。

京都から巡礼バスに乗って、山麓の駐車場までは連れて行ってくれたので、昔に比べたらそれでも楽なものである。バスを降りるとすぐに登りが始まるが、途中の山門近くまでは舗装された部分も多く、さほど大変ではない。なんだこんなものかとタカを括っていたが、山門の先がまったく違った。山門より奥からが本当の山道の始まりである。ちなみにこの堂々たる山門は豊臣秀頼の寄進だそうで、まわりには楓が多い。紅葉には少し早くて盛りの頃はさぞかしと想ったが、青楓が山門に幾重にも重なるも風情もなかなか良い。参道には至る所に小さな滝があって、滔々たる水音が全山にこだまする。滝の音を伴にして参道を歩くだけで、俗世を離れてゆくと云う気配が次第しだいに濃くなる。身も心も西国巡礼の気分が高まってゆく。それは札所から札所へと「ひたすら無心にゆく」という気分である。この気分は実際に巡礼を始めてみないとわからない。単なる憧れや想像ではぜったいにわからないのだ。巡礼が小利口な綺麗事ではないことが、こうした大変な思いをしてみて初めてわかると思う。

私が行った日は大雨で、泥濘の参道は歩き難いこと夥しい。昨秋は台風洪水の連続であったが、その直後のこととて、今にしてみればよくまあ何事もなく帰って来れたと思う。観音様に護っていただいたと素直に思った。参道の上りは右手が山、反対の左は沢である。途中、鎖場もあったりして、急な斜面は夜来の雨でかなり地盤が緩んでいるように見える。麓にある茶店のおばさんによれば、先日も巡礼の方が転落し、救急車で運ばれたとか。私も恐るおそる一歩ずつ慎重にゆく。巡礼も命がけであるが、それは俗世を離れる覚悟を問うてる気がしてならない。時にはこうした難所があるのも、気を緩めるな、注意散漫になるなと云う戒めなのだと私は思っている。 雨中ひたすら登り続けて四十分、ようやく頭上が明るくなり、点々と堂宇が見えてきた。 そこからさらに昇ると本堂の大屋根が現れる 。雨と汗とでずぶ濡れになるも感無量であった。 残念ながら山頂からの視界は悪くて何も見えなかったが、 晴れていれば雄大かつ神々しい葛城連峰を裏側から拝めるそうだ。

施福寺欽明天皇勅願寺で、創建は我が国に仏教が伝来して直後と云うから、西国札所では無論、日本でも古寺中の古寺である。寺伝によれば播磨国の行満上人が弥勒菩薩を本尊としたのが始まりで、その後、役行者法華経を葛城の峰々に納めた際、巻尾をこの山に納めたとの伝承より「まきお」の山号となったと云う。往時は千もの坊舎を構えたと云うが、南北朝時代南朝方の拠点のひとつとなり、戦国末期には信長によって焼き討ちに遭うなど、幾度もの戦火で衰退した。が、西国札所であったがゆえにかろうじて残ったのである。山上の堂宇は、信徒や巡礼者の寄進で幕末の安政年間に再建されたもの。古い建築ではなくとも槙尾山中に漂う歴史はまったく褪せてはいない。

今は天台宗の寺だが、弘法大師がこの山で得度剃髪したと云われる。よって槙尾山は大師信仰も篤く、真言密教修験道が深く根差している。参道途中には弘法大師の剃髪所跡に愛染堂が建っており、愛染明王空海像が安置されている。愛染堂から急な石段を少し登ると空海の髪を納めた髪堂がある。若き日の空海は此処で修行しながら、葛城金剛の山野を駆け巡った。後に高野山霊場を開くのもこのあたりの地理に詳しく、峰々の霊験に深く帰依していたからに違いない。入唐から帰朝した空海はすぐに入洛せず、九州大宰府に二年ほど逗留した。そして畿内へ戻ってくるとまず槙尾山に登り、さらに二年ほどしてから上洛している。空海なりの算段があったのであろうが、空海の僧としての原点である此処で、自らの来し方行く末に様々なる思いをめぐらせていたに違いない。空海は静かな此処で思索に耽り、このあとの進むべき道を定めた。後に深く関わる高野山や東寺と比べると、山深くて簡素で、いかにも地味な槙尾山であるが、此処にこそ弘法大師空海という巨人の本心が眠っている気がしてならない。先ほどから槙尾山に漂うただならぬ気と云うものがあること述べているが、それは弘法大師空海の発した気がいまだに充満しているのかもしれない。

納経して本堂に上がらせていただく。内陣の”ほとけさま”は聴きしにまさる傑作ばかり。本尊の弥勒菩薩、西国巡礼本尊の千手観音、文殊菩薩、方違観音、馬頭観音伝教大師像に弘法大師像、堂内ぐるりと枚挙に暇もない大群像である。なかで印象的であったのが五メートルもある巨大な方違観音で、内陣のさらに奥にどっしりと座しておられる。宝冠を戴くそのお姿は小さなお堂に不似合いであるが、それがゆえに圧倒される。「方違」とは陰陽道に基づき方角の吉凶を占う風習で、凶の方角を避けるため、目的地へ赴くのにいったん別の方角へ出て、目的地の方角が悪い方角にならないようにする。方違は平安時代に盛んに行われるようになった。こちらの方違観音は生きる道を良い方向へと導いてくださる観音様だそうで、方違観音を祀るのはここだけだそうである。それにしてもこんな山奥にあれほどの数の美しい仏像群が在ることに、私は驚嘆し感銘を受けた。西国の奥深さを改めて痛感する。此処まで苦労して登ったが、誰しもあのほとけさまを拝めば、疲れは一瞬で癒されるであろう。 馬頭観音も合祀されているため、馬に携わる仕事、とりわけ競馬関係者の信仰も篤いとかで、本堂の桜の下には立派な馬の像が奉納されている。

本堂で先達とご一緒に般若心経と観音経をあげた。去り際に先達は、 「貴方が生まれてきた時、貴方は泣いて、周りの人たちは笑っていたでしょう。だからいつか貴方が死ぬ時は、貴方が笑っていて、周りの人たちが泣いている。そんな人生にしてください。」と言われた。ネイティブ・アメリカンの教えらしいが、私の中に深く残る言葉となった。

御詠歌 深山路や檜原松原わけゆけば槇の尾寺に駒ぞ勇める

麒麟を待つか、麒麟を呼ぶか

 今年の大河ドラマのタイトル『麒麟がくる』は秀逸である。麒麟とは中国の神話に登場する伝説上の霊獣で、全体は鹿のようで、牛のような尾と、馬のような蹄を持ち、頭の上に角が一本、体毛は五色に輝いているそうで、理想的な政治が実現した時にのみ現れると云う。果たしてこれまで麒麟が現れる様な世が来たことはないのだろうが、少なくとも第二次大戦後の七十五年間、我が国日本は他国と武力によって争うことをやめたおかげで、戦のない平和な世界を実現した。ある意味において理想的な時代であった。そのおかげで経済大国となり、世界に誇る技術大国にもなった。ゆえにか、いつのまにか平和という二文字を実感することさえ忘れてしまった様である。戦後日本が麒麟が現れていたと云うことに当て嵌まるのかはわからぬが、幻想と虚構の狭間を生きているのが我々であるとすれば、麒麟はとうの昔に去っていったのかも知れない。

緊急事態宣言が出ても爆発的に拡大はせずとも、現時点では減少どころか横ばいにも転じてはいない。私は新型コロナウィルスは一年や二年で終息はしないと思う。見えないウィルスを治めることなど、これだけ世界中に拡散した今となっては無理であろう。私は常に悲観的に物事を見るようにしているが、とてもこのウィルスを封じ込めることなど不可能とも思う。伝染病に抵抗することを止めない人間はいつか特効薬とかワクチンを開発するであろうが、その日が来るまで、我々の戦々恐々とした日々は終わるまい。都知事は自粛疲れはまだ早いと言うが、それは本当であると納得しながらも、事実心身が疲弊しているのだ。日本は世界と比べてもギリギリのところで爆発を抑えてはいるが、もういつ破裂しておかしくないのは共通の認識と思う。日本人の律儀さは先祖代々の専売特許であるが、その律儀さは脆さと同居しているのであって、秩序を重じるんがゆえに束縛を嫌うのである。だからこそ崩壊する時は一気であろう。流され易い国民性もまた危うい。

思えば人類の最大の敵は感染症である。人類の歴史は伝染病や感染症との戦いである。昔の人は見えぬ敵を悪魔とか鬼の仕業として恐れ、或いはまた神罰として慄きながらも畏怖した。例えばコレラも未だに猛威をふるうが、この病は幕末に日本にも入ってきた。感染経路は清国から朝鮮半島経由であると云うが、開国して外国人が頻繁に流入してきたり、日本人も海外渡航するようになった為でもあろう。しかし、日本全土に広がるのは不思議に明治維新後なのである。たしかに最初の流行である安政年間は西日本で流行したが、江戸までは達していない。その次の文久年間は逆に江戸で大流行し一説では数万人以上が死んだとも云うが、この時は西日本で大きな流行にはならかなった。ところが明治になると毎年数万人規模で流行し、ついに明治十二年(1879)には十万人以上が死亡している。なぜか?理由のひとつに江戸幕府が設けた関所が機能したおかげとも云う。今のように全国どこへでも自由に行き来できる時代ではなかった。江戸幕府は軍事上名だたる街道には関所を設け、厳しく監視した。ことに江戸近辺では、通行量のもっとも多い東海道の箱根の関所が有名である。箱根関所の検問は恐れられた。西からは武器となる鉄砲が箱根の関所を越えて関東に入ることを警戒し、逆は西へ向う女性を警戒した。俗に「入鉄砲出女」と呼ばれ、細心の注意がはらわれていたと云う。女性を警戒したのも諸説あるが、人質として江戸在住を義務付けられた大名の妻女の脱出を防止するためとも云われる。入鉄砲には老中発行の鉄砲手形、出女には留守居役発行の女手形が必要であった。関所破りは重罪で、必ず磔獄門であった。幕末になると、おかげ参りに便乗した抜け参りや、文久年間の参勤交代の緩和によって女手形もずいぶんと簡素となり、慶応三年にはついに手形無しで関所の通過が許されるようになる。これは事実上の関所廃止であった。しかし、同じ頃に猛威を振るったコレラが、全国に飛び火しなかったのが、奇しくも関所であり、明治のコレラ拡散は関所撤廃の影響があったのならば、ある意味で徳川封建時代の成功の一つであったとも言える。現代人の我々からすれば、関所などいかにも不自由だと想像するが、新たなる疫病の脅威に怯える今、私は必ずしも関所が負の制度だとも思えないのである。無論、新たに関所を設けるわけにはいかないが、先人の智恵をこういうところから少し拝借できないかとも考える。

新型コロナウィルスは我々の暮らしを一変させた。再三述べてきたが、終息までには果てしない時を要するであろう。であるならば、これまで人類が或いは日本人が築いてきた社会の仕組みを見直す好機到来と捉えては如何であろうか。法律、制度、外交、軍事、福祉、経済財政、そして教育。この頃盛んに九月からの新年度スタートへ移行すべきとの議論に沸いている。戦時下を潜り抜けてこられた方々からすれば何ほどのことかと叱られそうであるが、私たちまさに現代日本人がほとんどが経験したことのない今のムードはやがて殺伐とし、戦時下に似通ってくるに違いない。実際に世界情勢を鑑みれば、戦争が起こる可能性も極めて高くなったと言わざるを得ない。時間通り来る電車、それをホームで待つ人々の整列乗車、ゆずりあいやおもてなし、こうした秩序を無意識のうちに作り上げてきたのは代々日本人の誇りであるが、それが根底から覆ってゆくのではないかと危惧している。日本人の律儀さが危きこともあるのだ。であれば、これを機会にまさしく臨機応変に、物事を冷静に見直してゆくことが必要であり、必然であると思う。そうすることで光が見えてくるかもしれない。麒麟がくる時を創造するのは、我々一人ひとりにかかっている。

暗夜

春爛漫、空には煌々たる下弦の月が昇ってくるだろう。だが地上は新型コロナウィルスが包む闇の中。暗中模索と云う四字をこれほどに実感したことはない。この四十年あまりで世界は大胆にグローバル化した。その詳細はわざわざ述べるまでもないが、今の世界情勢となって初めて、或いは第二次世界大戦以降、最大の危機に人類は直面している。私が生きてきた中で、私自身に多大なショックを与えたのが、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件アメリカ同時多発テロ事件、そして東日本大震災である。他にも災害列島日本では、毎年のように台風、洪水、そして地震が頻発し、その度に大自然の脅威を思い知らされてきた。混沌とした時代を背に人災も数多ある。私が中学生の頃昭和が終わった。その後バブルが崩壊し、失われた二十年が私の青春時代である。超就職氷河期の渦の中、私の努力不足もあって、定職に就くことはできなかった。私はアルバイトや派遣で生計を立てたがそれを苦とはあまり思わなかった。しかし本来進むべく道を外れたことは確かで、若気の至りを反省し、己が軌道を修正して戻って来た。ところが今度はリーマンショックがあって、すぐに東日本大震災である。ここで私は心身ともに飽和状態となった。先の見通せない、闇夜は後からあとから自分を追い込むばかりで、光の射す出口は見当たらない。だがそれを時代のせいとは思わなかった。世界情勢、経済状況、あるいは自分の生まれ育ってきた縁や、環境のせいだけではない。要は己が努力がまったく足りていなかったのである。それは今思えば間違いなくそうであるし、当時も半ばそう思っていたから、あきらめもあり、誰かに相談することは恥とも思っていた。 それでも私はあの自分、私なりに限界であった。この状況をどう打開するか。その思考をかろうじて持てたことが、せめてもの慰めであり、それが五木寛之さんの言われる他力ではなかったかと思う。私は高野山へ登った。高野山の某宿坊で一年半働いた。朝は五時に起きて、夜八時まで朝夕の勤行の準備、料理の配膳、そして一日のほとんが、寺と宿坊の清掃である。初めはキツかった。拘束時間も長く、慣れない力仕事、総延長は一キロ以上もある廊下の雑巾がけ、そして何よりつらかったのは布団の上げ下ろしであった。ハウスダストアレルギーのある私は、ものすごい埃が舞うこの布団の上げ下ろしの作業中くしゃみと鼻水が止まらず苦しかった。三日でやめようと思った。しかし、三日、十日と我慢しながら、その日、その日もうやめよう、いやもう少しやってみようという意識と葛藤が芽生えてきた。気がつけば一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月と過ぎ、私は心身に自信を取り戻していった。高野山に登る前、心神喪失寸前であった私が、どうして復活することができたのか。明確な答えなどない。しかし、悩む暇もなく、がむしゃらに働き、終業後はヘトヘトに疲労困憊し、ほとんど毎晩バタンキューであった私は、自然に心身が健全化されていったのかもしれない。もちろん若かったということもあるだろう。それでもいつか光が射してきていた。山を下りるのだという出口。いつまでもここに留まるわけではないという気持ちが、光なのであった。光が見えていたからこそがんばることができた。高野山を下りるにあたっての私は、元気を取り戻して、再び東京へ帰ってきた。曲りなりに就職をして今に至る。今年になって新型コロナウィルスが世界中に大流行し始めると、私自身どうこうではなく、人類は光を見失っている。世界情勢は戦後七十五年のうちでもっとも劇的に変わろうという事態。もはや国や地域ごとの問題ではなく、世界的に医療崩壊寸前で、外交、経済、軍事を含めて、いったいどうなってゆくのであろうと云う不安と恐怖に、暗澹たる毎日をすべての人々が享受し生きている。

今回の新型コロナウィルスは、紆余曲折として築かれてきた戦後七十五年の世界秩序を、根底から覆す可能性が極めて高いだろう。私の生きてきた四十年、昭和から平成、平成から令和、高度経済成長の終焉とバブル崩壊、ありとあらゆる天災と人災、経済金融危機、それを乗り越えてきた我々だが、同時に我々が積み上げてきたモノのすべてを、コロナウィルスは吹っ飛ばすほど勢いである。昨年秋頃から発生源とされる中国の武漢では、このウィルスの危険さを警告する医師もいたのに、中国政府はそれを認めず、あまつさえ、よからぬデマを流したと捕縛した。この医師は亡くなられた。命を賭した訴えを斥けた中国の恐怖政治は知れているが、この時点で世界の危機は始まっていたのである。日本政府は確かに米国と中国の板ばさみになって、どちらにも尾を振るしかない現状に陥っているからには、中国政府を疑っても批判や抗議行動に出れずにいた。国家主席の来日を控えて憚ったのは明らかで、結果、春節で世界中に感染者が旅行して、はっきりいってばら撒いたのである。これは声を大にして言える。しかし未然に防ぐ対策をとらなかった世界の責任も中国と同等である。これは国家とか政府だけの問題ではない。我々個々もあまりに緩慢としていたのである。そして今となっては、皆めいめいが自分の主張ばかり。国家、政府、自治体、医者、事業者、職業別にそれぞれの言い分がある。これが収集がつかない。IT社会となって全方向へ向っての誹謗中傷が横行することは、仮にこのあと終息したとしても必至であろう。世界に比べて日本に感染者が少ないとも言う輩がいるが、抑え込んでいるわけではなくて、五輪のため、経済のために感染者を今だに少なく発表しているとさえ思ってしまう。日本だけ検査が異常に遅いことに、私は疑問しかない。いやそこまで勘繰ってしまうのである。

この暗夜はいつまで続くのか。見えぬ光を見つけることはできるのか。或いは手繰り寄せることは可能であるのか。たしかに人類はこれまで幾多の苦難を乗り越えてきた。同時にこのウィルスは奢り過ぎた我々人間への戒めであり、警告であると思う。それでもいつか、どこかに光が見えてくると信じたい。人間とはどこまでも強欲であり、そうあり続けることが人間なのであるのならば、果てしなく強欲であるしかないのかも知れない。私もまたそうなのである。私はこのブログでこれまで新型コロナウィルス発生後の社会の事を書くことはなかった。いつもどおり、寺巡りの記や日本史の雑談記のみをしたためるつもりでいた。この事は多くの人が多くのことを記しており、私ごときが書く必要はなく、寧ろ非日常となってゆく毎日に、ここだけは関せずに日常であるほうがいいのかとも思った。しかし私もすでに症状がない感染者かもしれない。もしそうならば、余計に書かずにはいられなくなった。このブログで拙い文章を書いている者として、事ここに至って触れないわけにはいかないと思ったのである。私は出口への道標となる光を、歴史とか文学において見つけたいと思っている。

皇位継承一賜姓降下一

嵯峨天皇薬子の変平城太上天皇の変)で揺らぐ朝廷の引き締めを図り、天皇の権威を高めるべく動いた。首謀者の薬子は自害し、兄の藤原仲成は射殺されたが、事件に与した他の者には寛大な処置をとって、ノーサイドとするよう努められた。出家し恭順する平城上皇は変の後も、厚遇し相当の宮廷費を受けている。上皇の皇子の高岳親王は皇太子を廃されたが、父に続き出家して真如と号した。後に弘法大師空海の弟子となり、高野山親王院を開かれて、空海十大弟子の一人に数えられる。空海を宗教顧問として重用した嵯峨天皇の斡旋があったこと言うまでもない。高岳親王に代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立太子した。弘仁十五年(824)に平城上皇崩御。この時既に譲位していた嵯峨上皇は、淳和天皇へ要望して恩赦を行っている。同時に嵯峨天皇は進んで親政されながらも、これまで支えてきた側近に目をかけられることも忘れなかった。

薬子の変の折、空海嵯峨天皇側の勝利を真言密教の呪法を用いて祈念した。果たして勝利した嵯峨天皇は、以来、空海に深く帰依した。空海を何かと頼りにして召し出し、万事につけて相談された。天皇より十二歳年長の空海に多大な信頼と想いを寄せられたのも、幼くして母を亡くし、父帝からの過度な期待、兄帝への猜疑心と情に揺れ動く日々を過ごされてきた嵯峨天皇にとって、空海は新しく清冽な光であった。師であり、父であり、母であり、兄であり、時には恋人のように思われたこともあったかも知れない。空海天皇家の家父長たる嵯峨天皇に、単に取り入っただけとは思えない。高雄事件で伝教大師最澄と仲違いをして後、空海真言密教の真の伝道者として、既存の南都仏教ともうまく共存しながら、図らずも勢力を拡大してゆくのである。官寺であった東寺を賜り、寺名を教王護国寺と呼ばせて平安京での真言密教の拠点とした。そしてついには宮中に鎮護国家のための祈願所である真言院を与えられ、以降、平安仏教界の最高実力者となり、時代さえも先導するオピニオンリーダーになるのである。

平安仏教を語るにもう一人、伝教大師最澄である。嵯峨朝ではすでに比叡山にて一派を形成しつつあった最澄は、南都仏教と決別した桓武天皇が新進の仏教として厚く庇護した。桓武天皇最澄に大いに期待して、日本仏教界の代表として遣唐船に乗せ、還学生として短期留学させた。最澄天台山へ赴き、天台宗の教義と天台密教を見聞した。およそ十ヶ月の修学旅行であった。最澄は帰国してすぐさま桓武天皇に召しだされた。最澄の帰国を心待ちにしていた桓武天皇はその頃不治の病床にあり、最澄は病気平癒のための祈祷を宮中で行った。そして高雄の神護寺において日本最初の灌頂を行う。灌頂とは密教で頭頂に水をかける儀式のこと。古代インドで国王の即位や立太子の儀式で行っていたものを仏教も採用したとされ、キリスト教の洗礼式にも似た儀式である。日本の密教の灌頂には大きくわけて三つあって、出家在家を問わずに曼荼羅に散華をして守り本尊を決める結縁灌頂(投華灌頂)、修行して本格的に密教を学ぶ者に対して行われる受明灌頂(弟子灌頂)、修行をおさめて阿闍梨と呼ばれる指導者の位を授ける伝法灌頂に分けられる。

一方で空海最澄の入唐の時、別の船で留学生として唐に赴いた。還学生は遣唐使に伴って日本と唐を往復するが、留学生は長期間留まって学ぶことが命じられていた。しかし天才空海は、本来は二十年ほどの留学の予定を二年で終えて帰国している。空海は唐に到着するとすぐ西明寺に入り、印度僧の般若三蔵に師事し、密教を学ぶためにもともと少しは勉強していた梵語をさらに磨いた。次いで真言密教の根本道場である青龍寺の恵果和尚を訪ねた。密教第七祖の恵果は空海を一目みるなり、自身の後継と覚り、余命半年間で密教の奥義の悉くを空海に伝授、空海密教の第八祖と定めて亡くなった。空海は伝法灌頂を授かり、この世の一切を遍く照らす者という意の込められた「遍照金剛」の灌頂名を与えられたのである。私たちが口にする「南無大師遍照金剛」はここが由緒なのである。空海はじっとしていられなかった。すぐに帰国して自ら真言密教の新たな可能性を試したかったし、それによって日本を守護し、煽動して導けると確信を抱いていたに違いない。帰国した空海嵯峨天皇は興味津々たる様子で接遇し、あっという間に帰依したのである。最澄もまたすぐに空海の噂を聞いて、あくまで遜って空海真言密教の教えを強く請うた。比叡山と云う一山を率いる最澄は、早く空海から伝法灌頂もしくはせめて受名灌頂を授かりたい。そしてもっと真言密教を学ぼうと希望した。が、空海は簡単なことと考えてもらっては困るといった風でその申し出をはねつけてしまう。そしてまずは結縁灌頂のみしか授けなかったのである。これが神護寺を舞台として繰り広げられた高雄事件の始まりで、仕方なく最澄は愛弟子の泰範を自分の代わりに空海のもとに残して比叡山へ戻ったのである。しかし泰範はこのあと空海に身も心も惹かれてしまい、ついに比叡山には戻っては来なかったのである。

平安時代に日本人の信仰のかたちが出来たことは前にも書いた。それは神仏混淆という日本独自のかたちである。神と仏の習合は仏教伝来以来、徐々に濃いものとなってゆく。ゆえに信仰のかたちが出来たのではなく、出来上がったが正しいのかもしれない。これに大きく寄与したのが、平安仏教を興した二人の天才的な巨人、最澄空海である。この天才的な二人が桓武天皇嵯峨天皇の信任を得たからこそ花は咲いた。双璧の巨人についてここではあまり多くは述べないが、この二人が日本にいたことを日本人はもっと意識せねばならない。そして誇りに思うべきである。

 さて文化人としても一流であった嵯峨天皇上皇となってからは嵯峨野に隠棲と称しながらも、一大サロンを展開した。今の大覚寺がその場所で、嵯峨御所と呼ばれた当時は日本の文化の拠点であった。三筆にも数えられるその書は、男性的な力強さと女性的な柔和さ、そのどちらも持ち合わせており、これぞ天皇の書であると云う手本のような秀麗さ。嵯峨天皇空海橘逸勢を三筆と称するが、逸勢は力強く勢いが繊細さも垣間見え、空海は柔らかいが芯の強い書。嵯峨天皇はそのどちらもを兼ね備える。私はむしろ三筆をはじめに選んだ人の均等確かな目に感心する。嵯峨御所は後に大覚寺となり、その栄華の名残は大覚寺を訪れれば今も感じることができる。文化的には嵯峨天皇の御世に平安時代が始まったと云え、弘仁文化は確かに唐風ではあるが、後の国風文化への萌芽が随所にある。これも一重に嵯峨サロンの賜物である。

賜物と云えばもう一つ、氏がある。皇族がその身分を離れることを臣籍降下、或いは賜姓降下と云う。天皇より姓、氏を賜わると賜姓皇族と呼ばれた。ちなみに皇族女子が臣下に嫁すことは臣籍降嫁とも云う。律令においては四世王までは皇親となり、五世王までは皇親とはならないが、王号を有し、従五位下の位階を受けた。さらには歴代天皇から一定の距離を経た者は、臣籍に入り皇親皇族とはされない。 再三述べてきたが、奈良朝の血腥い皇統争いを経て、平安朝では兄弟への禅譲など、安定的な皇位継承が望まれた。また兄弟よりも争いが少なく、父帝の意が反映しやすくなるため、天皇は多くの皇子をもうけられた。しかし、実際に皇位継承できる皇子は限られ、平安中期にかけては、皇族があふれかえったた。皇族はその地位と格式を保証するだけの金品が与えられたが、ややもすればこれが財政逼迫の要因のひとつにもなっていた。さらには一部の皇子や皇女が、その厚遇にかこつけて問題を起こすこともあったと云う。例えば臣下と共謀して謀反を企む可能性をも秘めていたのである。よって、安定した皇位継承をつよく望まれた桓武天皇は、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる賜姓を行ったのである。桓武天皇は一世皇親を含む百名余りに対して、姓を与えて臣籍降下を行っている。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父帝の例に倣って多くの子女に対して賜姓を行った。

これだけ皇族が増えると、就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から、皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。これには藤原氏ら廷臣の策略が見え隠れするが、その詳細はまた後に述べよう。賜姓皇族臣籍降下して一、二代は上流貴族として朝廷での地位を保証されたが、三代以降はほとんどが没落している。彼らは都落ちするように地方に下向し、そのまま土着して武士や豪族となった。このあと南北朝から室町、戦国時代くらいまでは鳴りを潜めるしかなかったが、それでも日の目を見れたのもほんの一握りにすぎない。奈良朝からあった貴種流離譚は平安朝ではさらに増えてゆく。

臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び姓(かばね)が与えられる。様々な賜姓が与えられたが、中でも『源氏と平氏』は我々もよく知っており、この後ずっと日本史に深く関わってくる。源氏は嵯峨天皇が、弘仁五年(814)に自らの皇子三名に皇親賜姓を行い、源の氏を授けたことに始まる。源氏の出典については諸説あるが、すなわち天皇が源流の血筋であると云う意味も込められているに違いない。元々は中国の五胡十六国時代南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来するとも云うが、もう少し単純なことであったかも知れない。 

嵯峨天皇を祖とする源氏を「嵯峨源氏」と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって仁明源氏文徳源氏清和源氏宇多源氏など増えていった。 嵯峨天皇は最終的には皇子や皇女三十二名を臣籍降下させ、源信、源常、源融左大臣にまで昇り、源潔姫は人臣最初の摂政となった藤原良房の妻となっている。『源氏物語』の光源氏のモデルが源融であるとの説は有名だ。一方、平氏は、淳和天皇の御世の天長二年(825)年に桓武天皇の第五皇子の葛原親王の子女に平氏を賜ったことに始まる。これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏なのである。いずれこの源平が平安時代の終わりを告げる争いを繰り広げることになるが、その前に邪魔者を次々に排して、平安時代の中期に全盛を誇ってゆくあの一族の話に入ってゆかねばならない。藤原氏藤原氏による藤原時代がやってくる。

 

 

西国巡礼記 第三番 粉河寺

大和と河内の国境になだらかにどっしりと横たわる葛城金剛の峰々。巡礼バスの車中から、折しも夕陽に照り映えたこの雄大な山塊を飽かずに眺めた。なんとも神秘的な印象で、上古より神山と崇められたと云うわけが、ここへ来ればはっきりする。私は河内の南側から眺めたが、あの山の向こうには吉野があり、高野山がある。葛城金剛のあたりは、山の神を頂点にした土着の神々、修験道真言密教、観音信仰が縦横に混在する。言ってみれば信仰のスクランブル交差点のような場所である。

その真ん中を貫く様に紀ノ川が流れている。大台ヶ原に源を発する紀ノ川は土地と民を潤し、時には暴れ川となって恐れられた。紀州は雨の多いところなのは周知だが、その雨雲を発生させ、紀伊半島全土に送るのが大台ヶ原である。そこから流れ出でる紀ノ川は大和では吉野川と呼ばれ、紀州に入り紀ノ川と呼ばれる。吉野、高野、葛城、金剛の名だたる山麓を曲折しながら、吉野川から紀ノ川になるとゆったりとした流れになり、紀伊水道へと注いでいる。紀ノ川もまた信仰の対象であったと思う。紀ノ川は上下に人、物、文化を運んだ。流れに沿って数多の寺社が点在することがそれを物語る。

このあたりは高野山が近いことから、弘法大師真言宗に関わる寺が多いが、なかで新義真言宗の本山根来寺は有名だ。粉河寺は元は天台宗で、今は粉河観音宗の本山となっているが、この根来寺との関わりも深い。藤原時代から広大な荘園を領した粉河寺は、根来寺高野山と比しても劣らぬ僧兵を抱えていたのである。三山は互いに牽制しあいながらも、時に為政者に立ち向かうべく一時的な同盟を結ぶこともあったかもしれない。

粉河寺は古くから貴賎を問わずに信仰を集め、また憧れの地となっていった。枕草子梁塵秘抄平家物語義経記にもその名が語られる。高野山を本拠とし、吉野を愛した西行も度々訪れ逗留した。都よりやって来た旧知の女房を案内したこともある。「西行物語」では西行が発心出家した後、妻子は高野山麓の天野に住んだとされ、だとすれば西行も時折顔を見にいったであろう。或いは親子連れ立ち粉河寺参詣もあったかも知れない。余談だが、西行が終焉地として選んだ弘川寺もさほど遠くはない。紀ノ川の周囲には西行の足跡が数多ある。西行妻子の暮らした天野とは、紀ノ川南岸の周囲を小高い山に囲まれた桃源郷のような場所であるとか。高野山を含む一帯の産土神である丹生神社は、紀州に七十あまりもあると云うが、その総社が天野に鎮座する丹生都比売神社(天野大社)である。私はまだ天野に行ったことはないが、白洲正子さんの「かくれ里」に詳しく書かれており、いつか行ってみたいところである。

粉河寺には二つの縁起がある。昔紀州に大伴孔子古と云う狩人がいた。ある日孔子古は山中の谷に不思議な光を発する場所を見つけた。聖なる光の導きと思い、そこに庵を結んだ。すると孔子古の家に一人の少年が現れ、一夜の宿を求めた。孔子古は快くもてなし、少年は宿を借りたお礼にと言って、七日かけて千手観音の像を刻んだ。八日目の朝、少年の姿はなく、金色の千手観音の像だけが残されていた。少年は童姿の行者すなわち童男行者であった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになる。また或る時、河内国の長者の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童男行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが、童男行者は受け取らず、娘の提鞘と緋袴だけを受け取り、「紀伊国那賀郡粉河におります」と言い残して立ち去った。長者一家が粉河を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、童男行者が観音の化身であったことを知って出家し、孔子古とともに信心して、粉河寺の別当になったと云う。京都国立博物館に蔵されている国宝「粉河寺縁起」にはこの霊験夢譚が描かれているが、絵巻は焼けて黒ずんだ部分があり、火災の度に必死で持ち出したのであろうと思う。粉河寺の縁起は絵解きであるが、絵巻自体がこの寺の歩みの真実をまざまざと教えてくれる。

 紀ノ川の中流の北岸に蹲る粉河寺。ここへ辿り着くまで、こんな大きな寺があるとは想像出来ない。静かな集落に、突如、朱塗りの大門が現れ、参道は長屋川に沿って右にゆったりとカーブする。長屋川は「粉河寺縁起」に”粉をすって入れたような”とあり、昔は米の研ぎ汁のような白い川だったらしいが、今はとても澄んでいる。 「風猛山」の扁額を掲げる中門も存在感がある。山号は一般にフウモウザンと読むが、或いはカザラギサンとも読む。かつて粉河寺は今よりももう少し葛城山の近くに在って、カザラギはカツラギが転じたものとの説もある。中門を潜れば、美しい石庭の上に、浮かぶように大きな本堂が現れる。西国札所最大の偉容を誇る本堂。全体に重心が低く、私には鳳凰が羽を広げ、今にも飛び立とうとしているように見える。山門からここまで完璧なアプローチだ。ダイナミックな弧を描くような参道は、紀州の寺ならではと云う気がする。

創建は宝亀元年(770)。往時は七堂伽藍、僧坊五百余りを有する巨刹であったが、豊臣秀吉紀州攻めで灰燼に帰す。天正十三年(1585)、関白宣下を受けた秀吉はいよいよ天下統一の最終仕上げにかかる。自らに逆らう勢力はすべて排除するか、軍門に降らせようと目論んだ秀吉は、紀州のみならず、同時に四国の長宗我部にも戦を仕掛けている。これにより近畿一円とその周囲に秀吉の敵は居なくなって、後、九州を平定し、関東と陸奥を制圧する足がかりとしたのが、紀州攻めであった。さしもの粉河寺もこの時ばかりは風前の灯となったが、しかし廃寺にならなかった。その救いとなった要因には西国巡礼の札所であることが実に大きい。江戸期に紀州徳川家の庇護を受け、現在の諸堂は八代将軍吉宗の時代に再建された。この不死鳥の様な本堂には、札所を復活させたいと云う人々の、積年の信仰心も込められているように思う。

参道に沿って整然と堂宇は並ぶ。不動堂、羅漢堂、本坊、善男堂、出現池、念仏堂、太子堂、千手堂、地蔵堂、丈六堂、薬師堂、行書堂、粉河寺は今でもかなりの大寺院である。本堂の前には西国三十三観音が一度に拝せる六角堂もある。こうした便利は忙しい現代人向けの寺側の心遣いなのだろう。西国巡礼や板東巡礼の寺にはよく見かけるが、それにしても粉河寺の三十三観音はとても立派なもので、拝むだけではなく、一体一体をよく拝観する価値はある。本堂裏には粉河産土神社が鎮座し、聖地としての歴史はこちらが先であろう。祀られているのは丹生都比売命と天忍穂命で、古くから土着信仰がこの土地にしっかりと根を下ろしていたことがわかる。産土神社のさらに奥には十禅律院と云う寺がある。十禅律院はかつては粉河寺の塔頭だったが、江戸後期に紀州藩徳川治宝によって分派され、今は独立した寺である。境内は破れた壁があったりして閑寂としている。巡礼者も観光客もここまでは上がっては来ないようで、秋風が冷たく吹いている庭にいると、何度も焼けたと云う粉河寺の経て来た歴史が彷彿として浮かんでくる。 本尊は秘仏であるが、秀吉の戦火の折に焼け落ちた仏頭が、かつての本尊かそのお前立ちであったと云う説もあり、大切に守られている。

粉河寺は参拝作法が厳しい。昨今の巡礼ブーム、ご朱印ブームで各地の霊場は文字通り蟻のように行列ができているところもある。本堂へお参りもせずに納経所へまっしぐらという人もいるが、粉河寺ではきちんとお参りをしないとご朱印をいただけない。ましてや巡礼者となれば、しっかりと本堂で観音経と般若心経をあげてから札を納め、納経所へ並ぶ。ほとけさまや寺に対する礼儀礼節をわきまえるということは、本来当たり前のことであったが、薄れつつある今、粉河寺の示す姿勢には大いに賛同する。かく申す私も普段だらしない生活をしているから、偉そうなことは言えないが、こうして寺へお参りして正気を取り戻している。どこまでも観音さま頼みである自分が、巡礼を続けてゆくうちに果たして変わってゆくのだろうか。今のところはまったく。本堂の下から中門の向こうを飽かずに眺めた。入日が照らす参道は白く光って見える。この門を潜れば、また俗世へと戻る。境内には楠の大木があり、ソテツがあり、蜜柑や梅干しを売る店があり、南国の寺らしい趣き。都人は花の粉河寺に憧れた。古くからの桜の名所。  

御詠歌

父母の恵みも深き粉河寺 ほとけの誓ひたのもしの身や

皇位継承一二所朝廷一

桓武天皇の二大政策は平安京造営と、蝦夷討伐であるが、どちらも道半ばのまま崩御された。この当時では無類である七十歳で大往生。歴代天皇でも長命のほうである。桓武天皇の行った二大政策は、民に重い労役と課税を敷いており、国家は疲弊しつつあった。桓武天皇自身、実はずいぶん前から中止を考えておられたようだが、専制君主として自ら提唱してきた二大政策を自らの意思で止めることは、御自身も周囲も許さなかった。結果、だらだらと来てしまった感がある。崩御される前、腹心の藤原緒嗣に頼み、緒嗣が提唱した形で政策転換が計られた。ついに平安京は完成しなかったのはこうした理由があったからである。東北への派兵も停止し、よってこのあと数百年、みちのくは為政者に従順とせず、徳川時代には少し大人しくはしたものの、それは鳴りを潜めていたに過ぎず、幕末には奥羽列藩が再び官軍に歯向かった。みちのくの独立心はもともとの気質に生じるところが大だが、奈良時代末から平安時代初期にかけての官軍による侵攻に抗したことで、その精神はさらに強く逞しく培われたのであろう。

桓武天皇は三人の天皇の父でもある。すなわち第一皇子の安殿親王平城天皇、第二皇子神野親王嵯峨天皇、第七皇子大伴皇子が淳和天皇となられる。平城と嵯峨は同腹で、母は皇后藤原乙牟漏。淳和天皇桓武天皇の第二夫人とも云える藤原旅子が母である。乙牟漏は藤原良嗣の女で、旅子は藤原百川の女である。乙牟漏は桓武天皇在世中に崩御され、代わって第二夫人の旅子が桓武天皇を支え、後宮に君臨した。旅子は皇后には冊立されていないが、桓武天皇亡き後皇太后と尊称されたことからも、藤原氏を後見に絶大な力を持っていたと思う。皇子たちは順に皇位継承してゆくのだが、偉大なる父亡き後は、早くも奈良朝の昔のように骨肉の争いを展開する。世はまだ流動していた。

平城天皇桓武大帝の背を見て育つも、父を尊敬してはおられないようだ。元来病弱で人格的にも少々難があったとも云われる。政治には無関心で父子関係も微妙であったが、嫡子であり、藤原式家の強力な後ろ盾もあったゆえに祭り上げられた感は否めない。桓武天皇も弟の早良親王廃太子にしてまで、我が子を立太子させたものの、安殿親王に次を託すことは不安であった。寧ろ聡明な神野親王に期待して、帝王学を授けたものと思われる。だとすれば平城天皇嵯峨天皇への中継ぎとしか考えていなかったに違いない。後顧を憂いながら側近にそう遺言したであろう。事実そうなってゆく。

平城天皇は尚待の藤原薬子を寵愛した。尚待とは後宮の女官の詰所である内侍所の長官で、言わば女官長である。当時の尚待は、単なる女官長にとどまらず、天皇と公卿たちの連絡役として、臣下の言葉を天皇に奏上する奏請と、天皇の言葉を臣下の伝える伝宣を独占する権限を有したと云う。天皇の秘書であり、側用人であり、女官でありながら、病弱で薄弱な平城天皇にとってはラスプーチンにもなれたのである。薬子は藤原種継の女で、幼い長女を妃として宮中に上がらせて、自らも共に女官として皇太子になった安殿親王に仕えた。親王の身辺の世話をするうちに、娘を差し置いて親王と深い仲になってゆく。薬子は年齢不詳のところがあるが、おそらく親王より歳上であったと思う。父に疎まれ、早くに母を亡くした安殿親王は、奈良時代より続く血腥い皇位継承にうんざりとされ、優しく奉仕する薬子の母性的な魅力に溺れてゆかれた。或いはそこに菩薩を見たのではあるまいか。一方で薬子は藤原北家の台頭を危惧して、実家の式家の復権を目論んでいた。兄の藤原仲成を重用するように親王に頼んだのも薬子であった。ここまでは確かではないかと思う。しかし、このことが父帝の怒りを買い、薬子は尚待を解任された。延暦二十五年(806)三月に桓武天皇崩御され、安殿親王践祚改元して大同元年五月平城天皇として即位。これ以降、即位に先立って践祚を行ない、その後に即位式を行うことが慣例となる。薬子を尚侍として復職させ、薬子の夫藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させた。平城天皇は父帝の政策転換を指示している。造都と征夷で財政難となった朝廷を立て直すべく、緊縮財政と民力の休養に努めて、官司の統廃合や年中行事の停止、官人の適切配置、中下級官人の待遇改善を図った。また畿内及び七道に天皇直属の観察使を置き中央集権的国家を目指し、参議制も廃止して、律令制に則った小さな政府を目指した。さらに十五条憲法の制定や酒造禁止令を発するなど矢継ぎ早に改革を急いだ。これには仲成や薬子の入知恵があったことは明白であるが、わずか三年と云う短い在位中に必死で舵取りをされようとした平城天皇のこうした事績は、いかにも急ぎ過ぎた改革であり、かえって哀れな印象すらある。

病身の平城天皇には皇位に在ることは荷が重すぎたであろう。大同四年(809)、皇太弟の神野親王に譲位され上皇となり、神野親王嵯峨天皇として即位された。はじめご兄弟の仲はよくて、互いに信頼しあっていた。嵯峨天皇上皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年暮れ、上皇は旧都である平城京に移御されると、奈良の帝と呼ばれ、のちに平城天皇追号された。が、そもそも仲成と薬子兄妹は譲位に反対していた。この兄妹が、太政官人半分を率いて平城京へ還都し、南都にて改めて政を行うことを平城天皇に強く迫った。平城天皇重祚を画策したのである。ついに大同五年(810)九月六日、平安京より遷都すべからずと云う桓武天皇の勅を反故にして、平城京に宮殿を新造し、政務をとらんとしたのである。これを当時「二所朝廷」といった。上皇天皇が並立することで、権威権力が二分し、側近たちが政の主導権を握るべく権謀術数を企図することは、このあと平安時代から南北朝時代にかけての数百年繰り広げられるが、その源流はまさにここ「平城上皇嵯峨天皇」から始まったのである。

上皇方のクーデターを事前に察知していた嵯峨天皇方は、九月十日に薬子の官位剥奪と、尚待の権限を縮小し、天皇と公卿の連絡役として新たに蔵人所を設置、蔵人頭には北家の藤原冬嗣を任命した。この蔵人所は後々まで平安王朝において、天皇の秘書官として時に摂関や公卿らを抑えるほど絶大なる力をつけてゆく。上皇方はこれに応じて翌十一日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂率いる軍勢に遮られて断念、翌日、平城京に戻った。クーデターは失敗したのである。田村麻呂はこの頃には朝廷の武門の最高指揮官であり、武神の如く崇められていた。田村麻呂の力を上皇方も欲し、平城京還都に追従するように誘い、造営使に任命した。田村麻呂もいったんは乗る気配を見せたが、結局は嵯峨天皇の命に背くことはしなかった。田村麻呂ほどの賢明な武人ならば、どちらが義であり有利かははじめからわかっていたに違いなく、上皇方に敬意を表すフリをして、嵯峨天皇政権の転覆を謀る輩を十把一絡げにしようと一芝居打ったのであるまいか。上皇は自らに付き従う貴族がいないとわかると、直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒し自害、仲成も殺害された。高岳親王は皇太子を廃され父に続いて出家し東大寺に入った。代わって上皇天皇の異母兄弟である大伴親王、後の淳和天皇が皇太子に立てられた。これが薬子の変と呼ばれるあらましである。これにより藤原式家は衰退する。

 その後も平城上皇平城京にとどまり、太上天皇の称号はそのままとされ、嵯峨天皇行幸も受けている。また大宰権帥に遷された阿保親王廃太子高岳親王の二人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障された。嵯峨天皇が兄帝に対して深い情をかけられたのも、母を同じくする単なる兄弟愛のみならず、自らも同じ運命を背負われていると感じておられたのかもしれない。失意の平城天皇はその後十四年生き存えられ、天長元年(824)七月七日、五十一歳で崩御された。

しかし、最近の研究ではこの事件も藤原北家による陰謀の可能性ありとの説もある。事実、薬子の変以降、不穏な情勢の中、藤原北家は冬嗣から良房の時代に大躍進を遂げてゆくのである。

西国巡礼記 第二番 紀三井寺

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る

山部赤人の万葉歌である。赤人といえば、

田子ノ浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

が有名だが、若の浦〜も代表歌の一首である。鶴が鳴き渡ると云うのも、初春を寿ぐ様な調べで、暖かく穏やかな和歌の浦に、つがいの鶴が首を上げて鳴く情景が瞼に浮かんでくるようである。この歌は、神亀元年(724)の初冬、聖武天皇紀州行幸に供奉した赤人が、風光明媚なこの地を讃えた長歌天皇に献上し、それに添えた反歌の二首目であると云う。歌では鶴と書いてタヅと読むが、海辺ならば田鶴よりも越冬に渡ってきた多鶴が相応しい。田子ノ浦~の歌とどちらが先に詠まれたのか知らないが、私は若の浦~が先で、田子ノ浦~があとではなかったかと思う。果たしてこの時代、赤人が田子ノ浦まで行ったのかどうかも不明だが、若の浦には確実に行ったと思う。少し想像をたくましゅうすれば、若の浦~の歌から田子ノ浦~の絶唱が生まれたのではなかろうか。風景は違くとも、情景は同じと心にとめれば叶わぬ想像ではない。それも山部赤人ほどの人物ならばいとも簡単にやってのけたとも思う。かつての歌人たちは、「その場所」すなわち後に歌枕の地となったところに、あたかも本当に行ったと思わせる歌を詠んでいる者も多い。

都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師の有名な歌だが、能因は白河関を訪ねてはいないという逸話がある。数ヶ月も家に引き篭もって、庭で真っ黒に日焼けしてから、陸奥へ行ってきたのだと言ってこの歌を披講した云う。このようなことは歌道徘徊ではよくあることで、望郷や憧憬が歌となり、いつの日か独り歩きを始めて名歌に育つ。やがて歌枕の地が人々を惹きつけてゆく。 山部赤人奈良時代の下級官人であったらしいが、歌の才に長け、やがて聖武天皇行幸に供奉するようになり、そこで歌を詠み、天平の宮廷歌人として名を馳せた。平安時代には柿本人麻呂と双璧と讃えられ、三十六歌仙の一人でもある。紀貫之古今集の仮名序において「人麻呂は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける」と評している。 若の浦が和歌浦に転じて名だたる景勝地となり、やがては秀吉によって紀州のこのあたりの土地を和歌山と称するようになるが、美しい若の浦を、秀麗な和歌に仕立て上げた山部赤人をはじめとした万葉歌人の影響は大きいと思う。

 私は今回、京都から巡礼のバスツアーを利用した。紀三井寺粉河寺、槙尾山を巡る日帰りツアーである。本来は一寺一寺自分の力で、しっかりと歩いて巡るべきであるが、東京から仕事の合間をみての忙しない巡礼者には、効率的に三つの寺を日帰りでまわってくれるのは魅力であり、まことにありがたいもの。これも観音さまの導きであると、この時ばかりはちゃっかりと信心して、バスに乗り込んだ。日帰りの巡礼は旅行会社各社が行っており、頻繁に繰り返しツアーが組まれている。なるべく混雑を避けようと私は平日を選んだのだが、この日は満席。考えることは皆同じなのか、巡礼人気はいささかも翳りを見せない。私がこのツアーを選んだのは西国一、二とも云われる難所の第四番槙尾山施福寺が組まれているからであった。槙尾山は小一時間の険しい山登りをせねばならない。その麓まで巡礼バスは連れて行ってくれるのだ。あくまで今回だけのつもりで、物は試し、巡礼バスツアーとは如何なるものか知りたい思いもあって利用することにした。

 巡礼バスはお昼頃に紀三井寺の近くに来たが、その前に和歌山マリーナにある黒潮市場で昼ごはん。巡礼中に精進しないのもどうかと思うが、海鮮は美味しかった。和歌山マリーナのあたりは南仏のリゾート地を思わせる開発が進んでいて、ちょっとびっくりしたが、目の前の和歌浦から吹いてくる潮風は心地よい。

紀三井寺は、和歌山市の町外れにある。土産物店が軒を連ねる参道を歩いてゆくと、大きな門が現れる。明るい朱の楼門がまるで竜宮城の入り口の様に見えるのは、錯覚とも思えず、南国の風光のおかげであろう。門の先には一直線に二百三十一段の石段。青岸渡寺は四百五十段だから半分弱の数だが、こちらはかなりの急傾斜なので一気に昇るのはなかなかキツイ。

正式には金剛宝寺護國院と云う。宝亀元年(770)の開創。開基は為光上人と云う唐からの渡来僧である。境内から湧き出す三つの霊泉、清浄水、楊柳水、吉祥水が紀三井の由来。近江の三井寺と区別して紀州紀三井寺と通称されている。三井水は名水百選に選ばれ、昭和天皇が皇太子時代に和歌山に滞在された時にも献上水とされた。石段の中間にあるのが小さな滝が清浄水。楊柳水はその先にある井戸で、吉祥水は楼門を出て北へ少し行ったところにある井戸。清浄水だけは枯れなかったが、楊柳水と吉祥水は早くに枯れてしまった。しかし近年復元されたのも、人々の紀三井に対しての御利益と愛着を感じる。

楼門から見上げる二百三十一段の急な石段を登ると視界は開けた。登り切れば景色の良さに疲れも忘れる。そこはまさしく観音浄土。 眼下には絵のように美しい和歌の浦が広がる。私が行った時は曇天であったが、和歌の浦を遠く行き交う大型船が起こす波が、薄墨で引いたように青黒く見えて、私はしばし陶然と眺めていた。名草山の山腹に御堂や多宝塔が点々と建っているが、どこからでも和歌の浦が見渡されて気分が良い。境内の桜は早咲きだとか。本堂前に和歌山地方気象台の桜の標本木があり、近畿地方の桜の開花の目安になっている。花が盛りのころは、この境内がさらに流麗な情趣となるであろう。 門前で戯れながら下校する子供たち。紀三井寺は私のような余所者には崇高な霊場でも、彼らには格好の遊び場らしい。観音様は彼らを優しく見守る。 第一番の那智からは西国巡礼で最長の道のり。かつては熊野参詣道の大辺路や中辺路をまわって紀伊路に出て、ニ、三日はかかる行程であった。健脚者はもう少し早かったのだろうか。今は熊野街道という国道が走っているが、車でも有料道路を利用して三時間近く、一般道では四時間はかかる。御詠歌もそう謳う。

御詠歌

ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん