弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜マーチング〜

吹奏楽コンクールは合奏して演奏技術やハーモニーを競うが、マーチングコンテストは演奏しながら動き、隊列を組んでパレードし、ダンスし、演技する。全日本マーチングコンテストは、今年で三十二回目で、吹奏楽コンクールよりはずっと新しい大会だ。全日本吹奏楽連盟の五十周年記念事業として始まり、マーチングフェスティバルと呼ばれていたが、平成十六年度からマーチングコンテストに改称されて、今は毎年十一月に大阪城ホールで開催されている。

マーチングバンドの編成は、ドリルと呼ばれる鼓笛隊のパレードが起源で、時代が降るに連れて志向も華やかなになり、それに比例して実技も向上していった。指導者やコーチ、上級生がコンテを作成し、課題となる既定の動作を楽曲と上手く織り交ぜながら、演技を構成してゆく。私が現役の頃、コンテストでは規定演技と自由演技があった。私の知る限り吹奏楽コンクールとマーチングコンテストで大きく違うのは、課題と自由の比重ではないかと思う。無論、どちらも大切であることは言うまでもないが、吹奏楽コンクールでは課題曲よりも自由曲に力を入れる傾向が強い。一方でマーチングコンテストは、まずは課題演技をミスなく完璧に仕上げて、自由演技は個性豊かに観衆を楽しませ、魅せる、いわばフェスティバル的要素を含んでいる。これを踏まえてなのか、十年ほど前から、マーチングコンテストは規定演技と自由演技を混在して行われるようになっている。演奏時間は6分で、規定課題のパレード行進一周、180度方向転換一回、32歩間のマークタイム(足踏みのこと)演奏を必ず演技する。6分をオーバーすると失格となる。一発勝負となったことで、より技術と表現力が求められる傾向がある。最近ではマーチングの専門家による指導やコーチを依頼しているところもあるらしく、吹奏楽界でもその進化はもっとも高度で華々しい。マーチングがブラスバンドの花形と言っても過言ではあるまい。

マーチングやパレードでは楽団を先導するドラムメジャーがいて、さらには華麗なフラッグを捌きながら、まるでチアリーディングの如く花を添えるカラーガード隊が入る。私の所属した部は吹奏楽コンクールに力を入れていたので、熱心にマーチングをやっているわけではなかったが、地区のフェスティバルやパレードには参加した。私は高三でドラムメジャーを務めた。全員主役になるマーチングのおいて、ドラムメジャーは皆を率いながらも、まことに孤独である。あの緊張感はドラムメジャーを務めた者にしかわかるまい。無論のこと入念に練習をし、規定の動きをしつつ導いてゆくのだが、練習と本番では天と地ほども違うのだ。これはマーチングに限らず、吹奏楽コンクールでもそうだし、他のどんな競技においても同じだろう。が、マーチングのドラムメジャーは、一人と楽団、という稀に見る構図であって、指揮者とも、監督とも、コーチとも違う。言ってみればバンドの大将なのだが、大将とは常に孤独なものである。ドラムメジャーが居なければマーチングバンドやパレードは進行はできないが、居なくても音楽は演奏できる。この事がドラムメジャーを孤高の存在にしている。敢えて孤高であると書いたのは、ドラムメジャーにはそれなりの経験と度量や度胸が求められ、楽器を演奏したり、マーチングを演技するよりも遥かに卓越したスキルを求められるからである。かつてはマーチングのフリースタイルでは、ドラムメジャーはメジャーバトンを巧みに操り、リズミカルにぐるぐると回したり、天高くメジャーバトンを放り投げて掴むという場面がしばしば見られた。それがマーチングのクライマックスを飾る見せ場の一つであり、観衆も固唾を呑んで見守り、成功するとまるで神が降臨した如くに喝采したものだ。しかし、今は危険と見做されて、コンテストではメジャーバトンの放り投げは禁止されている。少々寂しい。ドラムメジャーの最高のパフォーマンスは、演技が終了した瞬間の敬礼であり、あの一瞬は全観衆がドラムメジャーただ一人を見つめているだろう。こうして書いていると、私も高三の夏のあの瞬間を思い出した。今でも始まる前の緊張感と終演直後の達成感ははっきりと覚えている。今年もマーチングの季節がやってくる。続。

なおすけの古寺巡礼 仏国土平泉

「みちのく」と云う響きは、いつの世も旅人達の旅情を誘う。かく言う私もその一人で、みちのくの歴史に興味を抱き、西行芭蕉に憧れて、少しずつ東北を旅している。東北の中心が仙台ならば、みちのくの核心は平泉であると私は思う。地理的に奥州のど真ん中とはいえないが、ほぼ中央といってよく、仙台は秋田や青森からは遠い。坂東から白河の関を越え、陸奥へ入ると確かに風景は変わる。

律令制が整い始めた頃より、奥州は畿内勢力の憧れの地であった。権力者は広大で肥沃な大地を求めて、原住民を蝦夷と蔑称し、極めて強引なる手法で侵略した。しかし蝦夷大和朝廷の想像以上に強く、桓武天皇坂上田村麻呂を派遣して、阿弖流爲率いる蝦夷をようやく平定したが、平定まで二十年もかかっている。阿弖流爲は身柄を拘束されて平安京へ護送され、田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑された。そもそも完全なる武力鎮圧ではなく、和睦であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。蝦夷の強さを思い知った朝廷は、その後は静観していた。が、平安後期になると土着の豪族安倍氏がみちのくの独立を画策し、北上川流域に防御壁や城砦を築いた。安倍氏は朝廷への貢祖をせず、いよいよ事態を看過できなくなった朝廷は、ついに安倍氏討伐のために陸奥藤原登任を大将とし、軍勢を差し向けるが、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒、登任は更迭され、代わって源頼義陸奥守に任じられた。頼義は武勇の誉れ高く、安倍頼時は恭順したが、すぐ様軍門に下るというわけにはいかず、膠着状態が続いた。清衡が生まれた年、頼義が刺客に襲われたが、これが頼時の息子貞任の仕業であると讒言され、頼義は貞任を引渡すよう求めたが、頼時はこれを拒否、ここに再戦が始まり、安倍氏は滅亡した。これが奥州十二年合戦、すなわち前九年の役である。

安倍氏は倒されてしまうが、その後も小競り合いは各地であって、鎮火せぬまま燻り続けた。散々に抵抗された上、朝廷はみちのくを完全に支配下に治めることはできなかった。その様な大乱世に清衡は生まれ、辛い幼少期を過ごしてきた。この頃には清衡の心中に、朝廷に対する遺恨と警戒が、強く植え付けられたであろう。この二度の戦で、台頭してくるのが奥州藤原氏である。初代藤原清衡の父経清は国司として陸奥に下向した。出自は藤原秀郷の傍流の坂東武士であるらしい。経清は安倍氏から妻を娶り、天喜四年(1056)、嫡男清衡が生まれた。父は前九年の役では源氏に反旗を翻したため、処刑されたが、母が源氏に味方をした出羽国清原武貞と再婚したため、七歳の清衡は助命されたのである。安倍氏から奥州の覇者は清原氏に代わった。

しかし、今度は清原一族で骨肉の争いが始まる。後三年の役である。清原武貞には正妻との間に真衡という嫡男がいて、武貞亡き後家督を継いだ。また清衡には異父兄弟の家衡もいた。この頃、源義家陸奥守になった。真衡はかねてより不仲であった叔父の吉彦秀武を討つべく義家に願い出た。許しを得ると出羽へと出陣した矢先、吉彦と気脈を通じていた清衡と家衡兄弟は、真衡の拠点を襲撃した。しかし、用心深い真衡は事前に察知し、守りを強化、義家の援軍もあって、クーデターは失敗した。清衡はこれまでかと思ったが、なんと真衡が急死してしまう。私の推測に過ぎないが、ここまで話が出来すぎているのも、或いは清衡と義家は結託して、真衡を暗殺したのではあるまいか。いずれにしろ義家はこれ以上の争いを避けるべく裁定し、清衡と家衡に陸奥の六郡を与えたが、今度は家衡がこの裁定を不服とし、今度は清衡を憎むようになる。ついに清衡の館を襲い妻子を惨殺したが、清衡は危機一髪で逃げ延びて、義家に助けを求めた。こうして清衡と家衡の兄弟で戦い、最終的には兵糧攻めに成功した清衡と義家に軍配が上がるのである。後三年の役終結後、清衡は清原の名を棄て、父経清の姓である藤原に帰することにした。ここに奥州藤原氏が始まるのである。

私がみちのく、奥州を思うとき、やはりどうしても胸に去来するのは、仏国土平泉のことであった。平泉にはずっと行ってみたかった。ようやく願いが叶ったのは先月のことである。平泉には平安後期に、京の都に次ぐ大都市が存在した。しかし今や、それが虚構であったかのように夢の跡が点々と残っている。それが平泉の一番の魅力ではないかと思う。

それにしても岩手県はその名にそぐわぬ巨巌巨石に溢れている。渓谷も多い。岩や石に興味のある私は、寺廻りをする前に、宿をとった一関にある二つの渓谷へ行った。猊鼻渓北上川の支流の一つ砂鉄川が成した二キロ余りの渓谷で、高さ百メートル近くもある断崖が両岸に迫る。この日本離れした大渓谷を、砂鉄川は驚くほど静かに流れている。川底からは砂金や雲母が採れるそうで、中尊寺金色堂にも使用されているとか。砂鉄川では舟下りができる。清流には手で掴めるような水面すれすれを魚たちが泳いでいて、船頭の唄う「げいび追分」に合いの手を入れるように、時々飛び跳ねて魅せる。船頭は竿一本で巧みに操船するが、砂鉄川がゆるりと流れているから出来る技であると聞いた。渓谷のずっと奥に猊鼻の名の由来となった、獅子の鼻の形をした巨大な鍾乳石があった。ここまで来るとまったく俗界と隔絶しており、巌窟に仙人が描かれている南画を彷彿とさせる風景である。次の日の朝、厳美渓にも行ってみた。厳美渓は太古栗駒山の噴火によって堆積した凝灰岩を、磐井川が侵食してできた。かつてこの辺りまで領した伊達政宗は、松島と厳美渓仙台藩の二大景勝地として自慢している。暑中のこととて、磐井川の水量は乏しかったが、ひとたび大雨が降れば、水は滝のように下ってゆくのであろう。奇岩が屹立する様には圧倒される。「空飛ぶだんご」として有名な名物郭公だんごを頬張って、平泉の寺々へと向かった。

厳美渓から達谷窟へは車で十分とかからない。稲田の奥に突如断崖絶壁がそそり立ち、端のほうには巨大な磨崖仏が見下ろしている。坂上田村麻呂は、蝦夷討伐を崇拝する毘沙門天に祈願した。平定の御礼として、京都の清水寺を模して毘沙門天を祀る堂宇をこの地に建立したと伝わる。毘沙門天の化現とも云われた田村麻呂は、清水寺の縁起にも関わりがあるから、この毘沙門堂も懸け造になっているのだろうか。何度も火災に遭って、今のお堂は昭和の再建だが、巌窟に捩じ込むように造られた姿は、少し窮屈な印象を与えるが、それ以上に荒々しい逞しさを感じる。堂内の内陣には所狭しと毘沙門天が並んでいた。これほどの数の毘沙門天が、一同に奉安されているところも珍しい。ここは神社とも寺ともつかない。参道には三つの鳥居があり、天台宗の西光寺という寺が別当だが、今以て神仏混淆が色濃い社寺である。

奥州藤原三代は、仏教によって世の平安を願い、仏法僧を庇護し、主従と民草の皆が信心し、功徳を積めば、自ずと平和で安定した世が続くとした。これが初代秀衡の定めた家訓であり、二代基衡、三代秀衡は忠実に家訓を守り、仏国土の建造に余念がなかった。三代までの百年で、こと清き仏国土と云う点においては、平安京を遥かに凌いでいた。

私は毛越寺までやってきた。広々とした大泉が池の水面には、抜けるような碧天が映え、時より涼やかな風も吹き渡ってくる。かつて毛越寺は、嘉祥寺や円隆寺といった複数の寺の総称であった。このうち金堂にあたるのが円隆寺で、吾妻鏡には金銀を鏤めた絢爛たる伽藍であると書かれている。吾妻鏡さらに、毛越寺は「吾が朝無双の荘厳さ」であると讃えている。毛越寺は、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開山と伝わるが、寺伝によれば、円仁がこの近くの山中へ来た時、濃霧に包まれ歩けなくなった、そこへ一頭の白鹿が現れて、白い毛を地に敷いた、それが一筋の道に見えて、円仁が進んでゆくと、白鹿は消えて、今度は一人の老人が現れた。老人は円仁に吉瑞を告げて飛び去ったと云う。これは吉兆に違いないと思った円仁はここへ堂宇を建立した。円仁が白鹿の毛を頼って難を逃れ、山を越せたことから、毛越寺=けごしでら、或いは、モウオツジと呼ばれ、それがモウツウジになったと云う。しかし、数多の戦乱で毛越寺も衰退してしまった。それを再興したのが、奥州藤原氏である。毛越寺は奥州藤原三代によって百年をかけて隆盛してゆく。二代基衡は父清衡の背中を見て育った。不戦の誓いと仏国土造営は、基衡にもしっかりと継承され、朝廷とも良好な関係を結び、平泉は飛躍していった。基衡は少し前に京都で流行していた浄土思想に強く惹かれて、平泉を此の世の浄土とすることにした。その集大成が毛越寺なのである。大泉が池では平安貴族さながらに曲水の宴が催され、池には龍頭の小船が浮かべられて、観月の舟遊びも行われた。池には時折さざなみがたって、あたかも海を思わせる。平泉には毛越寺の他にも、観自在王院や無量光院など、宇治の平等院を凌ぐ大規模な浄土庭園を持つ寺があって、それらのすべて完成した三代秀衡の頃の壮観はさぞかしと偲ばれる。毛越寺だけでも堂塔四十余り、禅房五百を超えたというから想像するだけでも驚嘆である。池畔では盛りを過ぎつつある蓮にも出会った。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、御釈迦様が極楽の蓮池の畔を散歩している様子が描かれている。御釈迦様は朝の散歩中、蓮池から遥か奈落の地獄の様子を見ているのだが、私は蓮池を見るといつもそのシーンがよぎる。毛越寺の浄土庭園はまさしく極楽浄土。 とすれば蓮池は極楽の池。もしやと思い、蓮池の底を覗いてみたが…。そうこうしているうちに、ちょうど午近くになっていた。

私はいよいよ平泉の核心中尊寺の月見坂を登る。天台宗東北大本山中尊寺は、その歴史、格式、知名度からして、今やみちのくの寺の総代とも云える。ここも開山は慈覚大師円仁で、嘉祥三年(850)創建とされる。初めは弘大寿院と称したが、清和天皇より中尊寺の寺号を賜り、長治二年(1105)より大伽藍を造営したのは秀衡である。往時は四十以上の堂塔があり、伽藍の規模も大きなものであった。幼少より血で血を洗う世を見続け、兄弟を攻め滅ぼしたことは、清衡の心を剔り、彼が誰より泰平の世を望んだか、察するに余りある。ここから清衡は争いのない世を理想とし、具現化するべく深く仏教に帰依した。東を北上川、北を衣川、南に太田川という三方を川に囲まれ、西に小高い丘と、三つの川の流域に肥沃な土地が広がる平泉に目をつけた清衡は、ここに仏国土を創造することを、生涯の仕事と定め、邁進するのである。西の小高い丘が、中尊寺の建っている関山(かんざん)のことであろう。月見坂を登ってゆくと、中尊寺境内にはいくつのか物見台があるが、ここから周囲を眺めると、まさに天然の要害であることを実感する。ここに伽藍を造営したのは、無論のこと、いざという時の砦にするためでもあったに違いない。さらに秀衡は、白河関から津軽半島の外ヶ浜まで、一町(109.09m)ごとに傘卒塔婆を立て、そのちょうど中間にあたる場所に中尊寺があるのである。驚くべきスケールの大きさである。清衡が中尊寺落慶の際に記した「中尊寺建立供養願文」には、

官軍夷慮の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過現無量なり、、、、、鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん

攻めてきた官軍も、守った賊軍も、古来より幾多の戦乱で亡くなった。鳥獣魚貝にいったてはこれまで限りはない。鐘の音が地を動かすごとに、故なくして命運尽きたすべての魂を、安らぎの浄土へと導きたい。およそこうした意味のこの願文を奉じたのも、自らの来し方行く末を思うとき、清衡の心には常に草木国土悉皆成仏という想いが去来したからに違いない。

数多ある中尊寺の寺宝で、私がもっとも心惹かれるのが、国宝の「紺紙金銀字交書一切経」である。この装飾経は、藍染の料紙に、一行ごとに金泥の字と銀泥の字で交互に一切経が書かれており、大変な手間がかかっている。はじめに黄土で下書きし、まず銀字、次いで金字で書かれたそうだ。見返しにはあらゆる浄土が描かれている。以前私はこの一切経を東京の美術館で間近で拝見したが、壮麗かつ力強い筆致に圧倒されて、奥州藤原氏の凄さに想いを馳せた。この一切経を見て以来、私の平泉に対する憧憬はより強くなった。中尊寺には世界中から参詣客が訪れる。皆が目指すは金色堂。たしかに金色堂は、凝視すると目が潰れそうなほど美しい。しかし、この奥深い寺には多くの堂宇が点在しており、その一つひとつを巡るのも良いだろう。 金色堂以外は空いている。私がことに気になったのが旧覆堂である。旧覆堂は室町時代の建立で、今の覆堂が昭和に完成するまで、五百年近く金色堂を風雨から保護してきた。金色堂は天治元年(1124)に完成してから、なんと五十年もの間、雨露に曝されて建っていたそうだ。それも驚くべきことで、名だたる大伽藍が悉く灰燼に帰する中、金色堂だけは九百年余りずっと、あの場所に在る。平泉を焼いた頼朝も、金色堂だけはその荘厳さに平伏したのかもしれないし、兵士たちも賢明に火の粉を振り払ったのではなかろうか。その証拠に鎌倉時代には金色堂を護るため、覆堂の原形のような屋根が組まれたそうだ。それほど金色堂は人々の至宝であり、希望であり、燦然と輝く威光を畏怖したのだろう。奥州藤原氏の栄華はここに始まった。金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡、そして泰衡が眠る。つまりは奥州藤原氏はここに終わったとも云える。かつては奥州藤原氏のルーツはアイヌではないなと云うは説もあったが、戦後、金色堂の墓を発掘し遺体を学術調査したところ、アイヌ民族の特徴は見られなかったと云う。しかし、奥州藤原氏、ことに初代清衡には、阿弖流爲ら蝦夷の魂は間違いなく受け継がれていた。その魂こそが、百年に渡る藤原氏の栄華をもたらしたのである。 芭蕉は一句でその標とした。

五月雨の降り残してや光堂

夏の長い太陽がそろそろ傾く頃、最後に私は高館の丘へ登ってみた。ここには源義経を祀るささやかな御堂が北上川を見下ろすように建っている。義経元服してすぐに平泉にやってきた。秀衡に気に入られて、この地で生きる決心をするが、時勢を見過ごせず、兄頼朝の元へ馳せ参じる。 壇ノ浦の船戦に勝利し、源氏の御曹司として無二の活躍をみせるが、それからは頼朝に疎んじられ、再び秀衡を頼って平泉へとやってくる。流浪の旅もここで終わりと思い定めたが、頼朝の追及は秀衡亡き後の泰衡には抗せず、ついには義経主従を攻め落とす。義経が追い込まれて、自刃した場所が高館とされる。義経柳之御所や伽羅御所にも近いこのあたりに屋敷を構えていた。義経堂は天和三年(1683)に仙台藩伊達綱村義経の遺徳を偲んで建立したと云う。この場所からの眺望はすばらしい。眼下には清冽雄渾な北上川、その向こう稲田の奥には、西行が吉野に匹敵すると評した桜の名所束稲山が横たわる。

ききもせずたばしね山のさくら花 よしののほかにかかるべしとは

芭蕉はここで義経に手を合わせ、奥州藤原氏の栄華に一句手向けた。

夏草や兵どもが夢の跡

これぞ平泉という眺めである。

平泉に伝承されている延年の舞には、五穀豊穣と平和への願いが込められている。奥州藤原氏の培った平和を望むDNAは、強く、太く、逞しくなって、今も彼の地に生きる人々の中に流れ、育まれ続けていると私はかねがね思っていたが、平泉を訪ねてみて、それは確信となった。

皇位継承一南都斜陽一

大仏開眼供養と鑑真和上による大授戒を見届けると、思い残すことはないように聖武上皇崩御された。後を継ぎし孝謙女帝が頼りとしたのは、母の光明皇太后と、皇太后の甥の藤原仲麻呂である。頼りとしたというよりも、誰よりも敬い、誰よりも恐れた母の光明皇太后に背を向けることはできなかったのである。仲麻呂藤原武智麻呂の次男で、藤原南家を継いでいた。先に述べたとおり、藤原四家の当主が天然痘の流行で皆亡くなり、橘諸兄らの勢力に押されて、藤原氏は一時衰退しかけたこともあったが、藤原氏出身の光明皇太后の強力なバックアップのおかげで、仲麻呂は徐々に頭角を現し、政と軍を主導していった。藤原氏の力は仲麻呂によって少しずつ盛り返してゆくことになる。そしてついには橘諸兄の勢力を凌ぐ力をつけ、聖武天皇在位後半には政権は諸兄から仲麻呂に変わったのである。

そもそも聖武上皇光明皇后のただ一人の皇子基王は夭折し、二人の子は阿部内親王しかいなかった。聖武上皇県犬養広刀自という妃との間にも安積親王を設けていたが、光明皇后藤原氏を憚って、阿部内親王を史上唯一の女性皇太子とした。その後、安積親王も亡くなり(仲麻呂の毒殺説もある)、失意の聖武天皇は、阿部内親王孝謙女帝として即位させると、天武天皇の孫で新田部親王の子道祖王立太子させ、孝謙天皇の次に即位するよう遺詔した。が、孝謙女帝は父の束縛と母の呪縛に耐えられなくなった。父帝が崩御されると遺詔を反故にし、天平宝字元年(757)道祖王は悪行乱舞目に余ると指摘して廃太子とした。代わって大炊王すなわち後の淳仁天皇立太子させる。大炊王天武天皇の孫であり、父は舎人親王である。大炊王立太子には、仲麻呂の強い推挙があったとされる。仲麻呂は自らの権力基盤を固めるため、大炊王に近づき、亡くした息子真依の未亡人粟田諸姉を娶らせ、自らの屋敷に招いて行在所とした。翌天平宝字二年(758)八月、孝謙女帝は譲位して、淳仁天皇は即位された。これも仲麻呂が強引に事を運んだに違いない。若く薄弱な淳仁天皇は自らを天皇に推し挙げてくれた仲麻呂の言いなりであり、傀儡なのは当時の人々にもよくわかっていた。仲麻呂天皇から恵美押勝という名を賜る。「人民を汎く恵むの美、暴を禁じ強に押し勝つ」という意味があるそうだが、天皇に賜るという形をとりながらも、仲麻呂が自らの権勢を誇示するために自作自演したと云う説もある。こうして押勝は右大臣にまで昇進し、何事にも唐風の政策を進めてゆく。

押勝に無理やり譲位させられた孝謙上皇は、この様子を苦々しく眺めておられたが、少しずつ再起して、隠然と影響力を行使し始める。孝謙上皇皇位という足枷がとれると、正気を取り戻されたのか、決して慎ましく隠居されたわけではなかった。そして次第に仲麻呂淳仁天皇に対して敵対心を露わにするようになる。そんな時、唯一の後ろ盾であった光明皇太后崩御された。天平宝字四年(760)のことで、孝謙上皇はさすがに気落ちし、塞ぎがちになられる。光明皇太后崩御は、押勝にとっても大きな打撃であり、以降、その権勢に翳りが見え始める。この頃、平城京を改作することになり、近江の保良宮淳仁天皇とともに移られた。近江と云えば、大津京紫香楽宮など、父祖の代から一時的に何かから逃れるような土地である。保良宮は石山のあたりに造営され、およそ二年間臨時の都であったが、唐の制度に倣って北宮と称された。

この頃、孝謙上皇に近づいてきたのが弓削道鏡である。弓削道鏡は、文武天皇四年(700)に河内国で生まれ、若年より仏門に入り、法相宗の義淵の弟子になった。それから東大寺別当の良弁にも師事し、梵語や禅にも通じるようになる。道鏡自身努力家でもあったゆえ、良弁の覚えもよく、早くから宮中の仏殿に入ることを許され、孝謙女帝の頃には禅師と称されるようになる。命がけの皇位継承と、おぞましき権力闘争の渦中に少女の頃から身を置かされてきた孝謙上皇は、心身ともに疲弊しきっていた。一時は生死の境を彷徨われたとも云う。加えて猜疑心が強く信頼できる家族も臣下もいなかった。ここに道鏡上皇の平癒を加持祈祷し、献身的に看病をした。おそらくは仏門のコネを利用して、唐から医者を呼んだり、漢方薬を取り寄せて処方もしたのではあるまいか。そして何より、生涯独身で、権力者として誰よりも孤独であった孝謙上皇は、優しき道鏡の心遣いにすっかり虜となられ、精神的に昇華されてしまわれた。これはヴァージンクィーンと呼ばれたイングランド女王エリザベス一世にも共通する感覚がある。元気を取り戻された上皇は、常に傍に道鏡を置かれ寵愛された。これを不快に思ったのが、最高実力者の恵美押勝であった。押勝淳仁天皇に奏上し、天皇自ら上皇道鏡を退けるように進言した。これに激怒された上皇道鏡を連れて平城京へ環幸、出家されてしまう。同時に天皇の大権たる国家の大事と賞罰を奪い、上皇自ら政を行い、道鏡配下の信頼できる側近を集めて、密かに軍備を整えさせた。

このことを恵美押勝ほどの人物が把握していなかったはずはなく、押勝もまた戦いに備うべく、自らが先頭に立って、兵を集めていた。越前を治める八男の藤原辛加知に命じて、近江と越前の国境にある愛発関の警備を強化した。ところが軍事力のすべてを掌握し、諸国の兵を動員する寸前で、上皇方に密告されてしまい、御璽や駅鈴を奪われてしまう。これで形成は逆転し、押勝の立場は一気に悪くなった。再起を図るべく平城京を脱出した押勝は、越前へ逃れようとするも、上皇軍の吉備真備率いる官軍に主要街道は封鎖されてしまう。吉備真備はこの時七十歳という老齢であったが、唐に渡り軍略を学んでいた。真備はかつては要職を歴任するも、押勝の台頭で野に下っていた人物で、多少なりとも押勝を恨んでいたふしがある。そこに孝謙上皇は目をつけたのだ。こと兵を率いる将としては押勝よりも真備の方が上であった。ここで重要なのは、淳仁天皇を奉る押勝軍が賊軍で、上皇軍が官軍になっていることだ。官軍とはすなわち天皇軍であり、為政者かつ勝者側であることは我が国の歴史上知られたことだ。この時をもって、押勝はクーデーターの首謀者とされ、淳仁天皇も同罪とされたのである。これが恵美押勝の乱である。一時は押勝軍が有利に運んだ場面もあったが、反乱軍とみなされた押勝軍は次第に追い込まれ、天平宝字八年(764)九月、ついに上皇軍は鎮圧に成功する。乱が始まってわずか七日目のことであった。気の毒なのは淳仁天皇で、廃されて淡路の高島へと流された。人は「淡路の廃帝」と呼んで同情した。廃帝という言葉、尊称ともいえないこの響きには、まことに哀愁漂うものがある。歴代の天皇でこれほどの哀れを誘う天皇は、淳仁天皇と平安後期の崇徳天皇しかいないだろう。一説では淳仁天皇が流されたのは、淡路ではなく淡海で、高島も湖北の高島であると云う。竹生島よりさらに北、琵琶湖の最北部には菅浦という集落があり、そこには淳仁天皇が幽閉された離宮があって、土地の人々は代々淳仁天皇を崇拝していると云う。村の鎮守社の須賀神社には淳仁天皇が祀られている。神社のあたりが御陵と信じられているそうだ。この話は白洲正子氏の「かくれ里」にも詳しく描かれていて、私もいつか訪ねてみようと思ってはいるが、何せ遠い場所である。

 淳仁天皇恵美押勝の排斥に成功した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇として再び即位した。不謹慎な表現かもしれないが、まさに皇位に返り咲いたといえる。出家したまま皇位に継いたのは称徳天皇のみである。ここまで来ると称徳女帝の我儘から始まった暴走ともいえ、単に権力闘争と云う言葉のみでは片付かない複雑怪奇な出来事であったと想像させる。すぐさま弓削道鏡太政大臣へ昇進させ、天皇に次ぐ位として法王の尊称を与えた。あまつさえ、道鏡に譲位をすることを画策し始める。それは称徳女帝が推進しようとされたのか、道鏡自身の企てかははっきりしないが、どちらもその気で、実現に向けて邁進したことは明らかなのである。

 称徳女帝は道鏡の虜となり、寵愛した。それは恋ゆえとも思われる。籠の中の小鳥の如く育てられた阿部内親王は、致し方なく天皇となり、文字通りヴァージンエンペラーとしてヤマト王権を背負い、国家と契りを交わした。そこに自分だけを見てくれて、優しい言葉をかけてくれた道鏡が現れた。初めは大いに戸惑ったに違いない。が、同時に惹かれていかれた。初めての淡い想い。初恋であった。歳を経て、権勢のすべてを手にした女帝の初恋である。この想いは、可憐な少女の初心な恋とは違い、時に陰湿で邪悪なるモノまで秘めてしまった。道鏡はそこに付け入るように、称徳女帝に寄り添った。もしかすると道鏡自身も、女帝に対して本気で恋をしていたのかもしれない。歴史は勝者によって作られてきた。すなわち勝者に都合の良い歴史である。であれば、この後に起こるスキャンダルはすべてがでっち上げであった可能性とてある。しかし称徳女帝を止められる人物は誰もいなかった。称徳女帝は道鏡太政大臣に据え、法王と呼ばせて、仏教理念を軸にした政を行なった。すべては道鏡の思うがままであった。道鏡の弟や一門は次々に廷臣になり昇進していった。道鏡政権は六年ほど続く。これには藤原氏ら既存勢力が面白く思うはずもなかった。そして、ついに宇佐八幡の神託事件が起こる。

称徳女帝は、太宰主神と務めていた中臣習宣阿曾麻呂より、

道鏡皇位継承すれば天下泰平である」

との神託があったと奏上を受ける。多分に称徳女帝と道鏡の謀に相違なく、阿曾麻呂はそれを忖度した。昨今騒がれてきた忖度は、この当時には出来上がっていたのである。かくしてこの神託により大和朝廷には大激震が走る。そして、一気に公卿廷臣による道鏡排斥が加速する。これに危機感を抱いた称徳女帝は、宇佐八幡宮に正式に勅使を派遣して、再度神託を得ることにした。女官の和気広虫に命じたが、病弱な広虫はこれを固辞、それで弟の清麻呂宇佐八幡宮への勅使に選ばれた。果たして和気清麻呂は、宇佐八幡宮より神託を持ち帰り称徳女帝に如此奏上した。

「皇国は開闢このかた、君臣のこと定まれり 臣をもて君とする、いまだこれあらず 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ 無道の人はよろしく早く一掃すべし」

これに不快を示された称徳女帝は、清麻呂因幡国へ左遷。加えて和気清麻呂から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)へ改名までさせて、さらに僻地の大隅国流罪にしている。極めて稚拙な行動とも云えるが、これは思うようにならない女帝の精一杯の意趣返しであったし、よく見れば称徳女帝の一途かつ激情的な性格が手に取るようにわかる出来事と云える。結局、どんな手を使ったとしても、この時代にはすでに天皇個人の力は随分と弱くなってしまったのである。天皇親政は夢のまた夢となってゆく。道鏡の目の付け所は間違いではなかったが、それ以上に既存勢力の秩序ははるかに高い壁であった。

神護景曇四年(770)、称徳女帝は崩御された。これにて弓削道鏡は失脚。しばらくは女帝の供養を担い平城京にとどまったが、突如下野薬師寺のへと左遷され、二年後に彼の地で没している。一時は皇位継承寸前まで上り詰めながら、東国の下野へ文字通り下野した道鏡の失意は容易に察することができる。が、道鏡が左遷だけで終わったことを考えてみると、この神託事件がでっち上げであった可能性も否定はできない。皇統を乱そうとした大罪人として、処刑や流罪にならなかったのは確かに疑問である。が、今それを私が考証する余地はないが、神託事件すなわち道鏡事件は非常に興味津々たる事件であるので、これからも注視してみたい。道鏡は庶人として葬られた。栃木県下野市にある龍興寺には、道鏡の墓とされる塚がある。先年私も行ってきたが、一時権勢を欲しいままにした者の墓とは想像もできないほど慎ましい墓であった。龍興寺は大変良く整備された立派な寺で、道鏡の汚名を晴らすべく、今も努めておられる。近くの下野薬師寺跡をはじめ、周囲には律令時代の面影がうっすらと残っている。かつてはこの辺りが東国の中心であった。。当時は奈良の都からすれば、下野は地の果てであった。下野薬師寺は天下の三戒壇とはいえ、少し北へ行けばみちのくである。道鏡はこの地で何を思ったであろう。それにしても茫漠たる坂東平野には枯れ薄がよく似合う。

和気清麻呂は称徳女帝崩御の後、許されて再び平城京へと戻って、廷臣として奉仕した。光仁天皇桓武天皇と仕え、後に平安京造営に尽力し、公卿にまで上り詰めている。和気清麻呂道鏡という野心家から皇統を守った。楠木正成らとともに歴代天皇より格別の忠臣とされ、各地の神社に祀られている。京都御所の近くには清麻呂を祭神とする護王神社があり、東京の皇居の濠端を大手門から竹橋の方へ歩くと、和気清麻呂銅像が建っている。皇居外苑楠公像とともに今でも皇室を守護しているかのようだ。

青丹よし奈良時代は、終幕に入った。道鏡の出現で政治と仏教の癒着は容易には解けぬほど複雑に絡んでしまった。大和朝廷の政治は腐敗し、それに乗っかった南都六宗をはじめとした奈良仏教は堕落していった。そして称徳女帝の後、徳川時代初期の明正天皇まで、八百五十九年もの間女帝は出現しなかった。

青春譜〜青春の時~

夏の甲子園、明日はいよいよ決勝。甲子園では各校の応援合戦も見もののひとつ。大応援団の花はやはりブラスバンドで、最近は特集番組が組まれたりするほど、広く認知され注目されている。習志野愛工大名電龍谷大平安などの実力ある吹奏楽部が質の高い爆音で演奏し始めると、地鳴りのような応援のうねりが甲子園球場全体を支配する。野球部と吹奏楽部の切っても切れない縁は、まさに互いの青春そのもの。そのあたりは昨年も書いた(2018/8/の記事参照)ので詳しくは省くが、ブラバンが球児の熱いプレーを盛り上げて、ドラマチックに感動を与えるBGMを提供するのだ。

今年の甲子園はプロ球団のスカウトには不作だと言われているそうだが、そんなことはない。星稜高校には球速150キロを連発する奥川君がいるし、各校個々に好プレーを魅せる選手はさすがに夏の甲子園である。今年もっとも注目されていたのは、惜しくも出場を果たせなかった岩手大船渡高校の佐々木朗希君。佐々木君は160キロ台の豪速球を出せる逸材。今年のドラフト会議でも間違いなく目玉となるだろう。そういえば、岩手県大会の決勝戦で、彼が登板しなかったことが賛否両論になった。結果、大船渡高校は花巻東高校に敗れて、甲子園へゆくことは叶わなかった。大船渡高校の監督は、佐々木君の将来のために、登板をさせなかったと云う。決勝戦を前に少し調子を崩したのか、或いはどこかに不安があったのか。外野の私たちは要らぬ詮索ばかりしてしまうが、常に選手の近くにあって、彼らのメンタルもフィジカルも備に把握されている監督が下した決断は大いに尊重すべきだと私は思う。佐々木君や大船渡高校の面々の気持ちは忸怩たるものであったことは察せられるが、彼らは監督の決めたことが正しいと信じて野球をやっているわけで、それは高校野球においてはどの学校とて同じことである。それこそ彼らのそんな想いが一番大切なのである。その想いを無碍にして、外野が大人がとやかく言うなど、何をか言わんやである。たしかに佐々木君が登板すれば或いは甲子園に行けたかもしれないが、花巻東高校はメジャーリーガー菊池雄星大谷翔平を擁した甲子園の常連校である。佐々木君が強行しても勝てなかったかもしれない。強行して取り返しのつかぬことがあってはいかにも残念。佐々木君にはこれからがある。そのこれからに野球ファンも乗ってゆきたいではないか。あの時の監督の判断が、正しいかったことが証明されると私は信じている。

先日、吹奏楽部の拘束時間についてもニュースになっていた。吹奏楽の甲子園とも呼ばれる吹奏楽コンクールも夏休みから予選が始まるが、コンクールに向けた練習時間が長すぎると批判されていると云う。職場でさえ過重労働がやかましく問題になっている時代、吹奏楽部は夏休みもほぼ毎日朝から晩まで練習漬けの日々。朝早くから夜遅くまで、時には夜11時くらいまで練習するところもあるらしい。これはさすがに論外であるが、私の経験からも、夏休みには朝9時から夜8時くらいまで練習していた。前に書いた通りコンクールは本選までに何度か予選があって、突破すれば休みなく次の大会へ向けて練習が再開される。すなわち本選に近づくほどに厳しい練習となる。本選が全てなのだから、これは当然だと思う。予選で落選すれば少しは休みがあるが、マーチングコンテストや秋の演奏会、地域の祭やイベントへの参加など忙しいのである。ましてや自校の野球部が甲子園に出場となると、さらにハードとなる。吹奏楽部員が100人以上在籍するような大所帯なら、コンクール組、応援組を選抜し分散することも可能だが、それが可能なのはごく僅かであり、ほとんどの学校がどちらにも全力注入する。ましてや甲子園のこのところの応援合戦の盛り上がりが拍車をかけて、さらに彼らに厳しい状況を与えてしまっているように思う。もちろん左に挙げたような状況になる吹奏楽部は一握りである。大半がコンクールは予選落ちして、甲子園にまで応援に行く学校も各都道府県で一校か二校である。それでもネットで話題となるほどであるから、やはりこの休み無し、練習時間の配分については、これからは真剣に考えてゆかねばならないことであろう。

しかし彼らは直向きである。確かに長時間の練習はキツくて辛い。が、吹奏楽部員のほとんどが楽器を奏でることが大好きなのである。中には毎日一分一秒でも長く吹奏し、合奏していたいと思っている者さえいる。かく言う私がそうだった。高校球児が少しでも長くこのチーム、このメンバーで野球がしたいと云う気持ちと同じである。野球部も吹奏楽部も皆想いはひとつなのであり、これが青春なのである。ゆえに私は、一概に練習時間や拘束時間のことを長くても短くても、大人の考え方を彼らに押し付けるべきではないと思う。大船渡高校の決断にしても、監督と部員たちが良ければそれでよく、吹奏楽部の拘束時間についても、部員に委ねても良い。大人は夢溢れ、希望に満ちた彼らを安全に見守り、密かに縁の下で支えてやる。分かりきった話で、ほとんどの保護者や学校はそうしているに違いないが、吹奏楽部出身者としてあえてかく申し上げた次第である。青春の時は短い。ゆえに大人は彼らを最大限に尊重してやりたい。それは経て来た者ならば誰もがわかるはすだ。続。

祖父の従軍のこと

私の祖父は、父方も母方も対中戦に従軍した。父方の祖父は二十年近く前、母方の祖父は十年ほど前に亡くなったから、今となっては定かでないのだが、私が幼い頃に左様聞いた記憶がある。父や母は祖父の軍歴についてはほとんど知らない。聞いてもよくわからないという。祖父は子供たちには戦争や従軍のことを多くは語っていないようだ。よほどの嫌な思い出であって、悲惨な体験を子供には語りたくなかったのか。はたまた復員してからは復興と家庭を守るために汗水流して働きづめ、やがて高度経済成長の大波に乗っかってゆくうちに、忘れたい記憶をしまい込んでしまったのかも知れない。或いは、敗戦の屈辱を子供たちに伝播すれば、それは末代までの遺恨となる事を、あの頃の日本人は知っていて、愚行を連鎖させないためにも、敢えて何も話さないでいたのかと思ったりする。子供たちつまりは私の父や母は関心がなかったのか、直接聞いていないのもおかしなことだが、真実を知っている親族も少なくなり、いずれは二人の祖父の軍歴証明書を取得しようかと思っている。

中国戦線のどこへ祖父が従軍したのか。私の薄い記憶では満州であったと思うが定かではない。いずれにしても、泥沼化した日中戦争に当時二十歳そこそこで徴兵された。何とか生き延びて、復員したのは大平洋戦争末期であった。母方の祖父からちらと聞いた話では、戦闘や後方支援のみならず、焼き場の見張り番を担当する日は特につらかったと云う。火葬場と違って、野戦場で人間を火葬するのがいかに大変であるか想像に難くはない。ましてや一晩に何十人と火葬する日もある。焼き場では片時も火力の衰えがあってはいけない。その為に膨大な薪が必要で、常に薪をくべ続ける。強烈な臭気にはじめは何度も嘔吐した。いずれ自分もこうなるのかもしれないと云う恐怖もあっただろう。気分は塞ぐばかりであったが、何度か経験するうちに、慣れてゆくらしい。ぬくぬくと平和な時代を生きる我々が、生涯経験することのない凄まじい地獄に、慣れてしまうなど、やはり戦争は人を狂わせてゆく。

私の父母は戦後生まれたので、どちらかの祖父が帰って来なければ、私は生まれていない。その事を思うだけでも、全身が凍りつきにそうなる。二人の祖父が行った日中戦争だけでも手一杯で、あれだけ多くの犠牲を払っていたのに、どうして大平洋戦争へ向かったのか。一概になぜかとか、無謀であるとばかりは言えないと思う。歴史というものは、未来の人々が「なぜ」と疑問を抱き、「もし」と考察することは許されても、常にその場合、時勢と時代背景を見過ごしてはならないのである。どうして大平洋戦争に向かったのか、どうして日中戦争は起こったのか。そこをスルーして、ただ単に無謀であったとは、私には言えない。明治日本は功罪二つの道を敷いた。どちらも同じ比重で、大正、昭和、平成を経て現代日本につながっている。比重は同じでも、罪の部分は明治後半に生まれた人々が、国粋主義軍国主義を掲げる思想家と、それをバックアップしたマスコミに扇動された結果であった。国粋主義が力をつけたのは、共産主義が台頭したことも所以であろう。軍国主義もまた日本が亜細亜の盟主となることを目標としたためのやむを得ない手段であった。そしてマスコミがそこに飛びついたことにも、自らの既得権益のみならず、何らかの理由があったはずである。はじめは誰も、無謀なる戦争をしようとは思ってなどいないと私は信じたい。もちろん疑わしい人物もいないではないが、何も考えずにただ突き進んでいったとは、到底考えられない。以前はよくもまああんな馬鹿な戦争をやったものだと呆然としたのだが、私も昭和の戦争のことや、当時の指導者のことを考え、調べてゆくうちに実はよくわからなくなってきた。

そこでである。そうした想いからも、まずは身内である二人の祖父がどういう戦争に駆り出されたのか、それをもっと知りたいのである。祖父の軍歴を辿ることは、あの時の日本と日本人がどういう状態だったのか、朧げに輪郭が浮かび上がってくるのではないかと思っているからだ。

皇位継承一大仏開眼一

最強の持統女帝時代に盤石となっていた大和朝廷は、女帝亡き後再び混沌とし始めた。後を継いだのは文武天皇。先に述べたとおり、即位当初は持統上皇が実質的に執政したが、文武天皇在位中に大宝律令が完成し、遣唐使も三十三年ぶりに派遣され、薩南諸島を制圧もした。大和朝廷の威光を高めているのは、聡明な文武天皇の実績であろう。しかし虚弱であった文武天皇は二十五歳の若さで崩御。急遽後を託されたのは母の元明天皇である。文武には嫡子首皇子がいたが、この時はまだ幼年で、文武天皇の遺詔により暫定的に元明女帝即位となる。元明女帝は天智天皇の第四皇女で、草壁皇子の妃となり、文武天皇元正天皇を産んだ。元明女帝は古事記を完成させ、風土記の編纂を詔勅し、和銅三年(710)には都を藤原京から平城京へ遷都した。

この頃、藤原不比等が台頭してくる。平城遷都の際に、左大臣石上麻呂は旧都藤原京の管理を任されて、藤原京に残ることになり、右大臣であった藤原不比等平城京においての最高実力者となる。私の推測にすぎないが、これは不比等の謀略に非ずや。不比等は巧みに元明女帝を取り込み、石上氏の排除に動いたと思われる。不比等ほどの人物ならばやるであろう。そもそも不比等首皇子の外祖父なのである。首皇子すなわち後の聖武天皇は、父が文武天皇で、母は不比等の娘の藤原宮子である。首(おびと)と命名されたことからも、いずれ皇位を継承する子として大切に育てられた。これにて天皇家藤原氏は親戚となった。無論のこと不比等は外孫の首皇子へつつがなく皇位継承されることを望んでいた。石上麻呂の排除は、後の世まで続く藤原氏の他氏排斥の原点であった。このあと藤原氏は紆余曲折しながら千年も臣下の最高位にあるわけだが、その礎は藤原不比等によって築かれたのである。不比等の四人の子が興した南家(藤原武智麻呂)、北家(藤原房前)、式家(藤原宇合)、京家(藤原麻呂)を藤原四家或いは藤原氏四家と云う。後々この四家は、互いを牽制し覇権争いを繰り広げることになるのだが、このことはもう少し後に触れたい。 元明女帝にとって右大臣藤原不比等は頼もしい存在であった。何事にもいちいち不比等に相談したに違いない。孫の首皇子立太子し、自らは譲位しようとしたが、十五歳の皇太子よりも、娘の元正天皇への譲位を薦めたのもおそらくは不比等であったと思う。平安期の摂関時代には幼年や若年の天皇は当たり前になるが、この時代は天皇として即位するのは若くても三十歳前後が望ましいという考え方があった。霊亀元年(715)、中継ぎとして即位された元正天皇も、ほとんど完全に不比等に主導された。不比等の最大の目的は自らの血を引く首皇子の即位である。そのためにはいかなることも厭わずに行ったであろう。残念ながら不比等の存命中に首皇子の即位は実現しなかったが、首皇子不比等の四人の息子たちになんとか守られて聖武天皇として即位された。不比等没後の養老三年(719)に長屋王が右大臣に就任し、皇族によって朝廷を固めて、皇親勢力による執政を目指し、藤原氏の排除に動きだした。この時不比等の息子房前も内臣として元正女帝を輔弼するが、未だ若く長屋王へ対抗するのは難しかった。こうして長屋王皇親勢力対藤原氏の対立構図ができてゆく。さらに、元正女帝の時代に三世一身法が制定されて、「土地と人民は王の支配に属する」という律令制の基本理念は早くも崩れ始めるのである。

神亀元年(724)二月、元正女帝は首皇子に譲位され、ここに聖武天皇が即位された。聖武天皇が即位されてからも、左大臣となった長屋王政権の支配は続いていた。長屋王側の皇族たちは、聖武天皇の母宮子が皇族ではないことに多少の不満があった。あまつさえ聖武天皇を蔑ろにして政治を行った。聖武天皇は母藤原宮子に大夫人の尊称を与えたが、長屋王側がこれに異を唱えた。臣下より妃となった宮子を尊称することは不承だったのであろう。ここに両者の亀裂は決定的になった。長屋王側は藤原氏の繁栄を恐れ、藤原氏側は排斥されることを恐れた。そこで不比等の四人の息子は結託して、聖武天皇を全面的に支えるべく、同じく異母妹である光明子(後の光明皇后)の立后に動く。これにより藤原氏の血が天皇家を占めることになる。藤原氏の力の増長は火を見るよりも明らかとなってきた。そうはさせじと、いよいよ長屋王側も藤原氏排斥に動き出す。そもそも歴代の皇后は皇族から選ばれることが慣習であった。これには大きな意味がある。これまでの皇位継承を見ても、天皇崩御し、皇太子や皇子たちが幼い場合は、暫定的に皇后や皇女が女帝として皇位を継いでおり、光明子が皇后となれば、万一の場合の皇位継承が滞る恐れがあるからである。いや藤原氏にとっての万一は、光明子が女帝に即位するようなことがあってはならないという危機感であろうか。長屋王皇親勢力はなんとしてもそれだけは避けたかったのである。そのために光明子の皇后冊立阻止に動くのだが、この長屋王の動きこそが藤原一族の狙いであった。長屋王は国家転覆の謀議を図ったと嫌疑がかかり、自害に追い込まれたのである。これが長屋王の変である。長屋王は藤原一族が仕掛けた権謀術数に嵌り、墓穴を掘らされたのである。続日本紀にも長屋王の変は冤罪であったと記されている。そして長屋王が亡くなると、光明子立后された。藤原氏は臣下ながらも、皇親勢力を抑え込むことに成功し、朝廷権力を掌握したのである。

このようにまことに不穏な空気が充満する朝廷で、幼少期を過ごされた聖武天皇がどんな人物に育ってゆかれたのか。想像に難くはない。また、飛ぶ鳥を落とす勢いで権力闘争に打ち勝ってゆく藤原氏の只中で生まれ育った光明皇后。それぞれが対称的な生い立ちであったことが、後々まで良くも悪くも天平大和朝廷に影響を与えてゆく。聖武天皇はずっと臆病であった。が、理想と意志、そして密やかなる野望は歴代天皇でも五指に入るほど大きく強いものであった。堅実な現実主義者の光明皇后とは、初めは合わなかったであろうが、夫婦になって少しずつ心を通わせるようになる。というよりも、光明皇后はかなり畏まって聖武天皇を支えられたに違いない。本来、心根の優しい聖武天皇もそれをわかっていたであろう。いつしかお二人はまことに仲睦まじい本物の夫婦になってゆかれた。基親王という皇子も授かり、藤原四家の強大なバックアップもあって生後わずか三十二日で皇太子とされたが、祖父や父に似て虚弱であった基親王は一年も経たぬうちに夭逝された。聖武天皇光明皇后の哀しみは深く、天皇親王の菩提を弔うべく平城京の北東に金鐘寺という寺を建立しされた。この寺が東大寺の前身である。

追い討ちをかけるように天変地異が相次ぎ、飢饉で民は疲弊した。これに加えて天然痘が流行して、光明皇后の四人の兄、すなわち藤原四家の当主が皆相次いで亡くなった。これにより藤原氏の政権は瓦解してしまう。藤原四家に守護されていた聖武天皇の動揺は計り知れない。混迷の中、天皇長屋王実弟である鈴鹿王や、橘諸兄吉備真備、帰依していた僧玄昉ら遣唐使として唐の政治、文化を吸収した者たちを急場凌ぎに重用した。これに反発したのが式家の藤原冬嗣で、大宰府にて挙兵した。結果的に冬嗣の乱は鎮圧はされるのだが、聖武天皇は憔悴してしまい、関東行幸(この場合伊勢国や美濃尾張をさす)と称して平城京を出られ、そのまま戻らずに恭仁京へ都を遷されたのである。ここから聖武天皇の流浪が始まる。

聖武天皇はおよそ五年にわたり、平城京恭仁京紫香楽宮難波宮そして再び平城京と、遷都と還都を繰り返された。これには天皇の大いなる内憂外患が表れている。これを支えたのは右大臣橘諸兄であったと云う。諸兄は光明皇后の異父兄であり、藤原氏が一時衰退したこの頃、天皇がもっとも頼りとした側近であった。平城京から恭仁京へ一時避難のように遷都されたのが天平十三年(741)のことで、大極殿恭仁京へと移された。が、わずか二年で今度はさらに奥の紫香楽宮へ移られる。ここは多分に離宮であり、その間にも恭仁京へ戻られたり、難波宮へも行幸されているため、もうどこがどこなのだか、ややこしいこと極まりない。様々な説がある中、私も同感だと思うのは、結局、都はずっと平城京であったということだ。聖武天皇は、自らの手で政を執ることが困難と悟られたのと同時に、暗澹たる情勢の中、いつ何時暗殺される恐れもあり、身の置き所を定めぬほうが賢明であると思われたに違いない。何度も書いたが、この時代、皇位継承は命懸けであった。また、聖武天皇は曽祖父である天武天皇壬申の乱の折に伊勢を遥拝し、伊勢、美濃、尾張の豪族を味方に引き入れたことをよく知っていて、それに肖った可能性も否定できない。それは平城京の旧態依然とした諸勢力から脱却して、皇祖神たる伊勢を崇拝する地方の新勢力を背景とした天皇親政を手繰り寄せたい思いが、より関東に近い紫香楽までやってきた理由かもしれない。

この春、私は近江の金勝寺と狛坂廃寺を訪ねた。その途中、信楽に立ち寄って紫香楽宮跡を見てきた。そこは内裏野というところで、甲賀寺という寺院の跡であると推測されている。ここから少し離れた宮町というところで発掘された遺跡が、天皇の御座所もあった宮跡であると云われている。信楽ではこうした遺跡があちこちで発掘されている。一説では平城京から遷都したわけではなく、恭仁京紫香楽宮離宮であったとも云うが、発掘されている様々な形跡をみても、一時は天皇を中心に多くの人々の営みが紫香楽宮にあったのは間違いないだろう。他にも勅旨、朝宮、牧などの地名が残っているのも、かつてここに朝廷があったことを語っている。おそらくその時の平城京は、巨大な寺のみがまさに伽藍堂と風に吹かれていたのみであったのだろう。甲賀寺跡には遺構の丸い礎石が点々と残っている。中心の金堂があった場所には「紫香楽宮」と称するささやかな社が建てられていた。規模は東大寺に比ぶべくもないが、多くの堂宇が建っていたようで、このような山奥でも往時は壮観であったと思う。そしてこの甲賀寺が天皇の悲願のひとつである総国分寺として造営されたのある。余談であるが、先に述べた金勝寺や狛坂寺は、平城京恭仁京、そして紫香楽宮の鬼門にあたる場所に建っており、これらの寺の在る金勝山は都の鎮護の山であったことがわかる。ちょうど平安京からみた比叡山と同じである。そのような聖地近くに、聖武天皇が安穏の生活を求めれたことは自然なことであったかもしれない。

聖武天皇紫香楽宮にて大仏建立を発願され詔を発せられた。大仏の鋳造もここで始まったのだが、いかんせん山奥過ぎて、人も、材も、財も不足した。平城京から一歩山へ入った恭仁京から、さらに奥へと分け入り、より狭隘で陰湿な場所に都を造営することは物理的にも困難であり、臣下をはじめ、人々の心情的には容易に受け入れらるべき場所ではなかったはずだ。大仏鋳造の詔を発したものの、この場所では遅々として進まない。いつ完成するともわからない。いつしか大仏は夢物語になりつつあった。天皇自身もそれはひしひしと感じて、このまま紫香楽に留まることはできないと思われていたであろう。唯一の慰めは信楽という土地の陶土が示す明るさではなかったか。それを聖武天皇じかに感じられたのかはわからないが、一度、政治、宗教、すべての南都の規制勢力から離れてみて、この先の卜占をしながら、いっとき心身を休め清めたかったに違いない。紫香楽宮跡の遺された礎石を茫然と見つめていると、聖武天皇の忸怩たる想いが澎湃として浮かび上がってくるのであった。

ついに聖武天皇は大仏鋳造を成し遂げるべく、再び平城京へと還られたのである。総国分寺の役割は甲賀寺から東大寺へと引き継がれ、大仏の鋳造も東大寺で行われることになった。平城京に還られてからの聖武天皇東大寺創建に余生を捧げられたといってよい。国家の威信と天皇の権威を示しながらも、寺の造営と大仏鋳造のため、延べ二百六十万人という民の力を結集し、これまでに類のない破格の大寺院を誕生させたのである。当時の日本の総人口は六百万人ほどと云われるから、日本人の三分の一以上が東大寺と大仏建立に関わったことになる。日本一の寺に祀る本尊盧舎那仏はとてつもないものでなくてはならない。聖武天皇の情熱は、妻の光明皇后はもちろん、臣下廷臣、南都仏教界、ひいては民草にもじわりじわりと浸透してゆき、いつしか天平時代を生きた人々の願いとなった。

 聖武天皇は、「篤く三宝を敬え」という聖徳太子の言葉を胸に刻まれていたのではあるまいか。仏教に深く帰依され、鎮護国家のため神道より仏教を重んじられた。仏教を国家的宗教と位置づけ、その宗主となるべく各地に寺を建立し、天皇の威光を高めるために大いに仏教を利用した。歴代天皇の仏教への傾倒は、聖武天皇より始まったと云ってよいだろう。聖武天皇は仏教に縋り、頼った。今、南都六宗といわれる三論宗華厳宗法相宗成実宗倶舎宗律宗は奈良仏教とも言われ、平城京を中心に繁栄した。聖武天皇は唐に倣い、全国に官寺である国分寺国分尼寺を建立された。国分寺のある場所が今の県庁所在地のような所となった。平城京から各地の国分寺へ向けて道が整備され、国分寺統治機構の手段のひとつとしたのである。繰り返し述べるが、平城京の鬼門には鎮護国家の拠点とすべく金鐘寺を金光明寺と改めて総国分寺とされた。これが後に東大寺となるのである。光明皇后天皇に倣われて自らの御座所たる皇后宮を寺に改められ法華寺とされ、総国分尼寺となった。光明皇后は他に悲田院や施薬院を設けて、民や病人の救済に心を砕かれた。自ら病人を世話し、蒸し風呂に入れて介抱されたと云われる。有名な話に、体中膿だらけの病人が風呂にやってきて、光明皇后に体の膿を口で吸い取ってくださいと懇願する。初めはたじろいだ皇后は、これも人助けであり、神仏の思し召しであると信じて、病人の膿を残らず口で吸い取られた。すると病人はたちまち眩い光を放つ阿閦如来に姿を変えて、皇后の徳を湛えたと云う。この話を流布したのは藤原氏なのであろうが、それにしても光明皇后の慈悲深さは本物であったのではないかと私は思っている。

大仏鋳造を統率したのが後に東大寺の初代別当となる良弁僧正である。良弁は相模国の鎌倉で生まれたと云うが、一説では若狭にいた帰化人の末裔とも云われる。乳飲み子の時に鷲に連れ去られて、二月堂の傍らにある杉の木に引っ掛けられているところを、義淵という僧に助けられ、そのまま義淵に師事して僧になったとも云われている。この杉が良弁杉である。良弁は謎に満ちた人物で、もっともらしい伝説が多いが、いずれにしても百済人をはじめとし、大陸の金工や木工の技術者集団を率いたことは間違いないだろう。彼らの拠点は近江であり、金勝山を基点にしてこの大事業を成し遂げたのである。また石山寺縁起には、大仏建立の際、良弁が資材を運ぶため瀬田川の畔に、中継地点を設けた。この場所が後に石山寺となったとされる。良弁は聖武天皇にこの世をあまねく照らし、広大無辺な智恵と慈悲の光明を放つ盧舎那仏の徳をこんこんと説いた。聖武天皇もまた良弁の説く仏教に深く帰依していったのである。

大仏の鋳造には膨大な資材と、高度な技術、多くの労働力が必要である。良弁とともにこれを主導したのが、行基菩薩や、やはり渡来人の子孫である国中公麻呂である。行基南都六宗とは距離をおいて、民のために心から動く僧であった。当時は民に直接布教することは禁じられていたのだが、行基はそれを意に介さずに民衆も豪族も問わずに布教し、困窮者を支援し、土地の開墾、治水や架橋など社会的見地で土木事業まで成した。ずっと後に現れる弘法大師空海行基を尊敬していたに違いない。が、行基空海ほど権威権力に近づいて利用することはなかった。しかし、聖武天皇の大仏建立の詔には大いに賛同したのであろう。でなければ、あれほど熱心に東大寺と大仏建立のために勧進をするはずはない。いずれにしでも、聖武天皇は良弁と行基をうまく使い分けされた。国中公麻呂は資材集めから、大仏建立のための下地造り、整地から大仏殿の建立まで細かく指示をした。そして鋳込みをし、最後は鍍金をして、衆生が見たら目が潰れるといわれるほどに、燦然と眩しい黄金の盧舎那仏を完成させたのである。天平の大仏殿は今ある江戸期再建の大仏殿よりも、横幅がさらに三十メートル以上も大きかった。ここに聖武天皇の治世はまさに仏法により守護されて、ついに絶頂を迎えたのである。あの弱々しかった首皇子は、今やゆるぎない権勢を手にした。これもひとえに仏教のおかげであった。仏教を利用したことで政治的な着地は柔和になり、あからさまにその権力に楯突くものはいなくなった。もはや聖武天皇を脅かす影は鳴りを潜めた。事実、人々もまた安定と平和を切に望んでいたに違いない。

聖武天皇は人々が大仏建立に向いて、人心が安定したのを機に、娘の阿部内親王に譲位された。阿部内親王孝謙天皇として即位されたが、聖武上皇が政治を後見された。この頃になると長年の心労からか、ずいぶんと弱っておられたのも譲位された理由であろう。そして病平癒も願って、東大寺と大仏建立への執心は増したはずである。

東大寺には「四聖御影」という南北朝時代に描かれた人物画がある。そこには東大寺の建立に尽くした願主の聖武天皇大仏開眼導師の菩提僊那勧進聖の行基菩薩、そして開山の良弁僧正の四人が描かれている。天平勝宝四年(752)四月九日、大仏開眼供養は大和朝廷発足以来最大の祝典として、かくも盛大に挙行された。中国からはるばる招かれたインド僧の菩提僊那が開眼導師を務め、正装した文武百官と一万人もの南都の僧侶が居並び、巨大な大仏殿には金色の鴟尾が輝いていた。大仏殿の前にはカラフルな五色幡と宝珠飾られ、大屋根の上からの散華が薫風に乗ってどこまでも高く広く舞い散っていった。続日本紀には「仏法が東に流伝してからこのかた、斎会がこれほど盛んだったことはいまだかつてなかった」とある。想像するだけで、とてつもない。こんなことが天平時代の日本で行われたのである。

 日本仏教が大きく躍進したのは天平時代である。それは間違いなく聖武天皇光明皇后の影響である。南都六宗はさらに興隆し、中国から苦難の末に招聘された鑑真和上は真の仏教の戒律を示した。鑑真和上は、東大寺に築かれた戒壇で、聖武上皇孝謙女帝以下四百人に菩薩戒を授けた。しかし、これが後に仏教僧の増長を招き、政治と仏教の癒着が始まる。この事に鑑真和上は嘆き、真の戒律を伝えるべく唐招提寺を創建した。しかし平和で豊かになればなるほど政治も宗教も腐敗してゆくもの。そしてついに道鏡なる野心家の出現にいたるのである。

青春譜~パーカッションと弦バス~

およそ人間が使う楽器の中で、最古のモノは打楽器に違いない。いわゆる太鼓の類いである。打ち鳴らすと云う言葉からも楽器とはまず打楽器であることがわかる。テクニカルなスキルは後回しにして、音を出す或いは鳴らすと云うことにおいては、これほど容易な楽器はない。私の推測であるが初めは樹木の枝とか獣の骨などを使って、木や石を叩いて音を出したであろう。それから、動物や植物の皮を張ったり、動物の骨を叩いてみることもあったと思う。打楽器は多種多様である。

トランペットが吹奏楽器の花ならば、打楽器の真打ちはスネアドラムであろう。スネアドラムとはすなわち小太鼓である。マーチならばこの楽器は必須で、楽曲全体を誘導するのがスネアドラムである。スネアドラムはかっこいい。しかしそのスキルも必要であり、スネアドラムの如何は楽曲と楽団の出来を左右するといってよいだろう。そしてまたその軽快で華々しい音は聴衆はもちろん打ち鳴らす奏者をも魅了する。パーカッションのメンバーは皆スネアドラムに憧れているし、最上級生になるまでにスネアドラムを担当することを目指す。パーカッションの主役であるからだ。

バスドラムはいわゆる大太鼓である。地味なようだが、バスドラムがないと楽曲に重厚なリズムは生まれない。つまり締まりがなくなるのだ。そしてバスドラムはスネアドラムを下支えする。スネアドラムとバスドラムは対なのである。パレードでの曲間や、マーチングの入退場では管楽器が音を出さずに整然と行進する。この時はスネアドラムとバスドラム(時にシンバルも含む)だけが一定のリズムをとるが、これをドラムマーチという。ドラムマーチは吹奏楽においては、音とリズムの根源といってよく、特にマーチにおいては骨格ということになる。いわばバスドラムは骨盤であり、スネアドラムが背骨だと思う。バスドラムは一見地味ながらなくてはならない、まさに縁の下で支える太鼓なのである。

なんだか打楽器を骨に比喩したくなった。続いてはティンパニティンパニは太鼓に違いないが音色を持っており、チューニングもする。実に不思議な楽器で、見た目からして物凄い存在感。もともとはオスマン帝国などの中世アラブの軍楽隊が、馬の両側につけた太鼓が原型である。今でもトルコの軍楽隊や、イギリス王室の近衛連隊の楽団でも、それに近い太鼓が使用されている。ティンパニは楽曲に華麗かつ力強い荘厳さを与え、その迫力ある音で楽曲を抱合するのだ。ゆえにティンパニは大切な内臓を守る胸骨だろうか。また同時に楽曲の品格を押し上げている。打楽器では珍しくティンパニ協奏曲まである。私はティンパニこそが打楽器の王であると思う。

シンバルは楽曲に句読点を与えてくれる。言うなれば骨と骨を繋ぐ関節の様だ。またドラムセットのハイアットはビートを刻む重要な楽器なのである。両手に持って互いを打ち鳴らすわけだが、接する瞬間に空気が入るとモワッとした音になってしまう。空気を如何に抜いて打ち鳴らすかにかかってくるわけだが、良い音、納得の音を出すにはそれなりの練習をしなければならない。意外と打楽器においてはその奏法がもっとも難しい楽器がシンバルではないかと思う。

他に吹奏楽で使用される主な打楽器としてはトライアングル、タンバリン、カスタネット、マラカス、木琴、鉄琴、ベルや鐘の類などひとつのパートでこれだけ種類が豊富なのもパーカッションだけである。これらが細かい手脚や指の骨となって楽曲を隅々まで支えているのである。パーカッションはまことに独自の存在ある。一部のアンサンブルをのぞいて、管弦楽団でも吹奏楽団でもなくてはならぬし、パレードやマーチングではパーカッションこそ主役と云ってよい活躍をする。ひとつひとつの楽器がこれまた個性豊かであり、あたかも動物園か水族館の様で楽しい。パートのメンバーも他のパートとは一線を画した人々が多く、職人といった感じがする。皆総じて明るい。いかにもパーカッションのメンバーは「おらが村」といった風の雰囲気があるが、かと言って閉鎖的ではなくて、寧ろ開放的。常にリズムをとり、楽曲の進行を導くのはパーカッションであると私は思う。カゲにヒナタに必要とされるパーカッションは楽器の中の楽器と云えよう。

吹奏楽でほぼ唯一レギュラーで使われる弦楽器がコントラバスである。吹奏楽では弦バスと呼ぶことが多い。弦バスがいない楽団も多いが、大所帯の吹奏楽団ではだいたい2〜3人の弦バスがいる。オーケストラでは10人近くもいるが、吹奏楽では脇役中のワキ役。弦楽器があることに編成として違和感すら覚える人までいるかもしれない。弦バスは概ねチューバと同じ低音の旋律を奏でるが、管楽器にはない弦楽器独特のシャープで柔和な音色。またどっしりと落ち着いた響音を持っていて、その音は腹の底から響いてくる。その音は意外にもよく聴こえてくるものだ。正直、弦バスはいてもいなくても問題はないのだが、やはりいた方が、私的には良いと思う。弦バスが入ることにより、楽曲はマイルドになり、同時に苦みと渋みを与えてくれる。人体は腎臓をひとつ摘出したり、万一脾臓や盲腸を摘出しても生きてゆけるらしいが、本来は何らかの役割があるから存在する臓器なわけで、必要ない臓器や骨はひとつとしてないはずである。吹奏楽にとって弦バスは低音の管楽器では出せない澄み切った低音を奏でながら、ステージ右端から楽団全体を俯瞰し見ている。指揮者が監督ならば、演奏中の弦バスが助監督のようなものだと私は思っている。吹奏楽では稀にピアノやハープその他の弦楽器をコラボレートすることもあるが、概ねこのくらいであろう。これにてひとまず吹奏楽部の楽器総覧を終わりたい。続。