弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

Don't forget Nagasaki

長崎の街は美しい。多くの歌になり、文学や映画の舞台にもなった。晴れても、雨でもいい。夜景も見事である。山海が隣り合う街の景色は、刻一刻と表情が変わり、見飽きることはない。異国情緒漂うという響きがまことによく似合う。日本の港町はどこも同じような雰囲気があるが、函館、横浜、神戸など明治維新後に急速に発展した港町よりも、遥かずっと前から、長崎は日本の国際貿易港であった。徳川時代より以前から、中国、朝鮮、南蛮と盛んに交流した。長崎市のみならず、平戸、雲仙、熊本県の天草まで含めると、文化交流規模は相当に広い。そんな長崎にはキリスト教の礼拝堂が多い。いずれも由緒ある教会ばかりだが、欧州のような大聖堂ではなく、こじんまりとした愛らしい佇まい。天主堂と呼ばれ、代々土地の人々に守り継がれている。

現在、長崎は心地良い潮風を感じながら、如何にもぶらりと散歩がしたくなる街だ。この東洋と西洋が美しく混在する街は、今から七十三年前、一瞬で地獄になった。世界で初めて広島に原爆が投下された僅か三日後、昭和二十年八月九日午前十一時二分のことだ。中学の時、あの時間で止まった柱時計を、長崎の原爆資料館で見たことがある。その時の私は、何も考えられずに、しばし茫然と柱時計の前に立ち尽くした。それから被爆者の方にお話を伺った。凄まじい話であった。怖くてたまらなかったが、私の記憶にも残ったことは、これからのためには良かったと思っている。被爆者は年々減り、今は十五万人ほど。ゆえにもう一度話を聴きたい。あの方はどうされたであろう。三十年近く前で、当時すでにおじいさんであったから、おそらくはもう旅立たれたであろう。奇跡的に生き残った方々は、今は語り部として活動されている方もいるが、思えばこれまで残っていることほど、実は辛いことなのではないだろうか。 爆心地の浦上地区の被害は甚大であった。長崎に投下された原爆は、広島よりも威力があったらしいが、平野ではなく山あり谷ありの長崎の地形が壁になり、爆心地から少し離れた大浦天主堂やグラバー邸は奇跡的に倒壊を免れ堪えた。今、あの優美な建築を堪能できるのも、自然の地形が護ってくれたのである。それにひきかえ、人間は何とも愚かなり。一方、爆心地にある浦上天主堂は申すに及ばぬほど破壊された。かの痛々しい被爆マリア像には、涙よりも言い様のない戦慄を覚える。それは原爆の恐怖以上に、愚かな人類がやらかした大罪は、悔い改めることはできないのではないか、ある種祟りのような戦慄である。

神は、仏は、自然は、そしてこの星は、怒り、呆れ、嘆いてもなお赦してくれたのか。広島も長崎も、百年は草木は生えないと言われたが、今ではどちらも日本屈指の緑蔭溢れる街になった。かたじけなさに涙こぼるるが如しである。広島で被爆して、長崎に疎開し、また被爆された方もいる。二重被爆というが、広島でやっとの思いで助かったのに、長崎で亡くなった方もいるのだ。さらには、二重被爆に遭っても助かった方もいる。何という運命だろう。生き存えたことに、奇跡以上の何かがはたらいている気がしてならない。国は長年、二重被爆を認めず、黒い雨の降った地域の徹底調査をしなかった。そのせいでずいぶんと苦労されて、無念のうちに亡くなった方も多いと聴く。まさに踏んだり蹴ったりだ。助かっても、煉獄の火焔は消えなかった。国は最近、ようやく重い腰を上げつつあるが、はたして…。原爆投下は実際にこの国であったことである。私たちは決して他人事で済ませてはいけない。

長崎は美しい。天主堂の鐘の音が今日も高らかに響く。その音は華やかなだけではなく、戦没者への永遠の鎮魂歌であり、人間の犯した罪への警笛と懺悔の響きである。

八月六日夜

平成三十年八月六日夜。台風が接近する東京は、風が強い。日本の夏に欠かせぬ夏の甲子園が百回目を迎え、熱闘が始まった。明日は旧暦で立秋。十五年ぶりに地球に大接近中の火星が、東南の夜空にオレンジ色に輝いてまだよく見えている。

昭和二十年八月六日。広島市の夜はどんなであったか。どんなであったかとは愚言だが、私があの日の惨状について述べるよりも、かえって真に迫る気がする。原爆投下から十二時間以上が経過しても、火災は鎮まらず、加えて黒い雨が降ってきた。彼処にいた人は息をするのもやっとであっただろう。爆発と同時に地表の温度は3,000℃に達し、風速400メートルを超す爆風で、広島の街は一瞬でほぼ壊滅した。実際、何が起きたのかさえ解らぬまま、此の世から消え失せてしまった人がいた。犠牲者として名前すら確認できなかった人が大勢いたはずだ。無常という言葉さえ、虚しく聞こえる。どうしたらあの人たちを思い出すことができるのだろうか。どうすれば一瞬で消えて無くなったあの人たちを、せめて追悼することができるのだろうか。私は、昭和の戦争のことを考える度に、こんなことを思うのである。あの人たちは何のために生まれて来たのか。生まれてきた意味、役割はあったであろうに。あったのか。いや確かにあったはずである。それを一切の抵抗、一瞬の逃避も許されずに粉砕されたのである。一発の原子爆弾に。夢も希望も。恋も愛も。親も子供も。少年も少女も。老人も赤子も。恋人も友達も。生き物も花も木も。文も武も。嘘も誠も。思想までもが、みんなみんな粉砕された。何時間も何日も何年も苦しみながら、もがきながら亡くなっていった人たちからすれば、まだましだったのか。そう思うこともあったが、近頃は果たしてそうとも思えない。少なくとも苦しみながら亡くなった人たちは、何かとんでもないことが起きたが、それが戦争のせいであることはわかっていたであろう。苦しみと悔しさと哀しみに打ちのめされて逝ったに違いない。そういう想いを此の世にきっちりと置いたはずだ。或いは、怨み辛みを吐きながら逝ったであろう。いったいどちらがましな死に方であったかということはない。

こうして書いていても大変苦しい。苦しいが、書かねばならぬ。私では許されないかもしれないが、書かなくてはならない。戦争のない時代をのうのうと生きる私。であるからこそ、戦争を知らないからこそ書かなくてはならないのだ。私にとって、それがあの人たちを思い出して、追悼する唯一無二のことであるから。いったい何が悪かったのか。誰が悪かったのか。時代が悪かったのか。今さら言ったところでどうにもならないが、人類は賢く成りすぎて、自ら滅亡の道を歩み始めた。滅亡への歩みは止まらない。戦争をやめない人類。まだ平和な平成最後の日本の夏。だが、明日は我が身である。全方位的に混沌殺伐とした風潮は、戦前なのかもしれない。一寸先は闇だということを、私たちは肝に銘じておかねばならない。七十三回目の広島原爆忌。あの人たちの御霊よ、戦災で亡くなられたすべての御霊へ、どうか安らかに。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(一)

祇園祭が始まったばかりの京都へ。西日本豪雨のさ中で、京都も相当な被害があったが、夜は茶道の同志との約束もあり上洛する。大変な嵐のあとで、遠出は難しい。昼間どこを彷徨くか考えていたが、夕方には並河靖之記念館に行きたいと思っていたので、久しぶりに東山界隈を歩くことにした。新幹線からJR奈良線に乗り換えて、東福寺駅で下車。東福寺とは反対の北へ向かう。泉涌寺道を通り過ぎて、目指すは九年ぶりの三十三間堂。実は前日に某番組で、三十三間堂をやっていて触発された次第。三十三間堂は朝八時から開門しているらしい。京都の名だたる寺の拝観は、ほとんどが九時からだ。中には東西本願寺や、清水寺のように早朝からお詣りできる寺もあるが、三十三間堂が八時から拝めるのは、時間を有効に使いきりたい旅人にとってはありがたい。
京都も五山の送り火を過ぎれば、秋近しと思いたいが、そうはいかない。だが、京都の寺廻りには、この暑い時期はうってつけかもしれない。暑さと寒さの厳しい京都は、真夏と真冬は意外と空いている。外国人は多いが、春秋に比べたら随分静かなものだ。祇園祭宵山や、送り火当日を除けば、ゆっくりと寺社詣できる。無論例外もあって、東山では清水寺高台寺はいつも混んでいる。知恩院南禅寺もそうだ。私も好きな寺で、何度でも訪ねたいのだが、暑い中、さらに人混みは真っ平御免である。今回は人気の巨刹は避けて歩いてみよう。

途中、新熊野神社へ寄る。ここは後白河院の発願で、平清盛が金を出して建立された。三十三間堂と同じである。後白河院の熊野信仰は崇敬高きもので、生涯に三十四度も熊野詣をされた。ここまで熊野に執着されたことには、別の理由もあったに違いない。源平を巧みに利用した後白河院は、一筋縄ではいかぬ。熊野を信仰をする山伏、木樵などの山人、那智を信仰する海賊や、漁師を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。そして、京へも熊野を勧請されたのが、新熊野神社である。「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。さらには、ほど近い泉涌寺には今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、ここは弘法大師が開いた寺で、京の熊野と呼ばれ信仰を集めていた。後白河院は、この地に新熊野神社を建て、新熊野神社別当寺として、蓮華王院すなわち三十三間堂の建立を発願され、為政者として持ちつ持たれつの平清盛に命じたのである。ゆえにこの社こそが、蓮華王院の縁起そのものと云える。またずっと降って、足利義満世阿弥の舞を始めて観た社とも云われる。こうした観光客のほとんど来ない町中の社にも、幾重にも歴史が伝わっているところが京都である。

開門直後の三十三間堂は静かであった。この日は日曜日であったが、空模様も影響してか、外国人や修学旅行の中学生がちらほらといるばかり。あの目も眩む千手観音の群像と、じっくりと対坐した。これほどの数の仏像を一箇所で拝めるところは他にない。博物館でも無理である。圧倒されるという言葉は、この場所のためにあると言っても過言でないだろう。仏に圧倒される。圧倒という表現が果たして適当かとも思うが、圧倒されても偉大なる包容力が優るのが、三十三間堂である。中尊は殊の外威光を放っていて、燦々と何かを浴びる様に惚けて見ていると、無重力で浮遊する錯覚に陥る。すべての観音様と心身一体になってゆく気分だ。これを観音イオンとでも言ったら良いか。下から一番高い所の観音様の姿を拝むことは難しいが、私には一体一体の尊顔がくっきりと見えた気がした。一見すると同じに見えるが、よく見ると表情、姿に微妙な違いがあって千体千様である。中尊、風神雷神二十八部衆はすでに国宝だが、今年は千体の観音様すべてが国宝になる。

鳥羽院の時、院庁のあった白河の地に得長寿院という寺が建てられ、その本堂が三十三間堂であった。中尊を含めた千一体は聖観音であったと云う。後白河院は、六波羅の南の法住寺に入り、ここが院庁となって法住寺殿と呼ばれるようになる。長寛二年(1164)、法住寺殿の一角に蓮華王院を建立し、鳥羽院に倣い三十三間堂を本堂とした。今、三十三間堂妙法院塔頭になっているが、妙法院はもとは比叡山中にあり、後白河院がこのあたりに比叡山王社を勧請して、新日吉神社とした際、妙法院は山上から法住寺殿へ移った。新日吉神社は今も妙法院の裏手を登ってゆくとあるが、法住寺殿全体の鎮守とされたのである。後白河院と清盛の絶頂期の絆であった三十三間堂は、建長元年(1249)に焼け落ちたが、後深草天皇の勅願により文永三年(1266)に再建された。今、我々が目にするのが七百五十年を経た蓮華王院である。豊臣秀吉は、方広寺大仏殿を造営した際に、三十三間堂方広寺に吸収し、寺域として土塀を築いた。それが今も残る南大門と太閤塀である。思えばこの寺は、いかにも平安京の寺という感じがする。この日本一、いや寺院聖堂としては世界一の長さを誇る三十三間堂の細身で、嫋やかな佇まいは、極めて京都らしい。

三十三間堂と云えば、通し矢が有名だ。通し矢は三十三間堂の南から北へ、百二十一メートルを弓矢を射抜く競技である。様々な種目があったが、的を射通した数を競う「大矢数」という種目がもっとも盛んで人気もあった。通し矢の歴史は保元の頃からというが、はっきりはしない。桃山くらいから正式な記録が残っていて、江戸前期には最盛し、明治後期までは記録が残っている。天下一の記録は、紀州藩士で弓術家の和佐範遠が、貞享三年(1686)四月二十七日に達成した矢数一万三千五十三本、通し矢八千百三十三本である。昔の人はとてつもない。今では通し矢は行われていないが、毎年一月に半分の距離で弓道の全国大会が行われている。三十三間堂は江戸にもあった。徳川家光は江戸に三十三間堂建立を発願、はじめ浅草にあったが火事で焼失。元禄期に深川へ移転した。深川の江戸三十三間堂は広重の名所江戸百景にも描かれており、木場のすぐ隣にあったことがわかる。細長い御堂は画面全部に描き切っていない広重お得意の手法だが、おかげでその規模が察する。千手観音を本尊としたらしいが、おそらく中尊と諸仏が安置されていて、京都のように千体仏が安置されていたわけではないだろう。江戸三十三間堂はあくまで、通し矢をはじめとした武芸奨励を目的として建立されたと思われる。実際、最盛期の五割強が武士であった総城下町たる江戸は、通し矢が京都以上に盛んに行われたと云う。江戸三十三間堂は廃仏棄釈により、残念ながら明治五年(1872)に取り壊された。今も浅草には三十三間堂守護のために建てられた矢崎稲荷神社があり、深川には八幡社の近くにその跡を示す碑と、数矢小学校の校名に残影をとどめている。

後白河院の陵墓は、三十三間堂の目の前にひっそりとある。法住寺と養源院の間に細長い入口があって、頼朝に大天狗とまで揶揄された稀代の専制君主の墓にしては慎ましい。法住寺は今、実に簡素な町中の寺だが、かつて威容栄華を誇った法住寺殿の名前を引き継ぎ、幕末までずっと後白河院陵を護ってきた。明治以降、寺と陵墓は分離されたが、法住寺殿は後白河院が亡くなって、鎌倉以降も時の権力者の関心を集め様々な変遷を辿ってきたことは、考えてみればこの寺が如何に重要な位置を占めたかが知れる。

そのまま養源院に入った。ここは血天井俵屋宗達の絵で有名な寺だが、周囲は三十三間堂、法住寺、智積院、ホテルに囲まれていて、正門の前まで廻らないとわからない。が、門を潜ってから本堂へ続く緩やかな坂道は、蒼葉の桜並木が美しく、さすがに由緒ある寺だと思った。

慶長五年(1600)、徳川家康は再三の召喚に応じない上杉景勝を討征すべく、大軍を率いて奥州へ下向した。大坂城西の丸に陣取っていた家康が動いたことで、家康成敗を目論む石田三成ら西軍首脳は、毛利輝元を総大将として、西の丸を占拠した。当時、石高、軍事力、財力で諸大名を圧倒し、豊臣家を除いて並ぶ者ない家康は、秀吉亡き後の国政の一切を取り仕切り、大坂城西の丸と伏見城にて政務を行なっていた。この時点で太閤秀吉の建てた伏見城は、ほとんど徳川の居城となっていた。大坂城を発した家康は、まず伏見城に立ち寄る。この後三成が挙兵することを先読みして、伏見城をいかにするか懸念していた。徳川の本隊は、ほとんどが江戸より北へ向かうことになり、伏見城を護る手勢はわずか二千三百ほどであった。留守居役の鳥居元忠は、何としても伏見城を死守せんと家康に誓う。伏見城宇喜多秀家小早川秀秋大谷吉継長宗我部盛親島津義弘ら四万の大軍に包囲されるも、城方は籠城奮戦。七月十九日に開戦し、八月一日の落城まで、十日以上持ち堪えたのである。関ヶ原の前哨戦ともいえる伏見城の戦いは、結果的には東軍の結束を強め、西軍は四万の大軍でも攻めあぐねたことから、烏合の衆であることを露呈した。落城の砌、名将鳥居元忠以下は、城内で自刃、多くの男たちの血が伏見城には漂った。この時の伏見城の血染めの床が、養源院の天井の一部に使われている。養源院は、戦国の花と云われた浅井三姉妹の父浅井長政法名である。三姉妹の長女淀殿が、父長政、祖父久政の菩提を弔うため、秀吉に頼んで文禄三年(1594)に建立した。豊臣家滅亡後、淀殿の意思を引き継いだ三女お江は、夫秀忠に頼み養源院を再興、その時に伏見城の戦いで散った者の弔いも兼ねて、養源院に血天井が使われたと云う。やはり昔の人は凄いことをする。いくら供養とはいえ、血天井など現代人には考えもつかない。戦の果ては敵も味方もなく弔い、慰霊をした。今の我々は、戦国時代にある種の浪漫を抱くが、当時を生きた人々には、戦地は血腥くて、遺族には辛苦以外の何でもなかった。小谷城と北ノ庄城で、二度の落城を経験し、父、母、叔父、姉、甥を戦乱で失ったお江にとって、徳川には何としても泰平の世を築いて欲しいと願ったに違いない。夫秀忠もそれを、よく受け止めて、養源院を血天井にした。私も初めて養源院の血天井を見せていただいたが、寺の人の話ではおそらくらしいがと示されたところに、鳥居元忠その人が自刃し倒れたその姿がはっきりと残っていて驚いた。真っ黒に残る血痕は、不思議と気味の悪さはなくて、何か神聖な感じさえ受けた。

血天井の下には俵屋宗達の杉戸絵があった。有名な白象、麒麟、唐獅子である。いずれも宗達若き日の傑作で、これほど躍動感溢れる杉戸絵は他にあるまい。特に白象は圧巻である。宗達の想像で究極にデフォルメされた姿だが、睥睨する眼は、見る者を捉えて離さぬであろう。私もこの二頭の白象に逢いたくてたまらなかった。念願の対面を果たして感無量である。この寺でもっとも格式高い部屋が、浅井家と徳川歴代将軍の位牌所で、両側の襖絵も宗達の筆になる「金地着色松図」である。宗達らしい大胆と微細が混在し、あくまで位牌所の襖絵の域を超えない配慮を感じる。当時はまだ無名の扇絵職人であった宗達を、引き抜いたのは本阿弥光悦とも云われる。宗達はこの養源院の杉戸絵と襖絵によって、一流絵師として羽搏いていった。風神雷神図や、源氏絵、西行法師絵詞など、近世日本画壇で宗達は私も敬愛する絵師の一人である。大胆な構図を繊細な筆致で描いた宗達は、彼以降の画壇に影響を与えたのは間違いないが、宗達自身はあまりそう云うことに拘る性格ではなく、自由に好きな絵を描いていたかったと私は思う。翌日、建仁寺で改めて「風神雷神図屏風」の複製をじっくりと観せていただいたが、宗達の描いた人物、動物、花、樹木、風景、どれを見ても闊達で、何物にも縛られたくないという気持が現れている。才能と自由が絶妙のバランスで迸る俵屋宗達の絵は、見る者を元気にさせる。

 

青春譜〜viva クラリネット〜

目論見通りにクラリネットへのパート替えを果たした中一の私。トランペットの時は休みがちであった練習に、嘘のように打ち込むようになった。人数の多い吹奏楽部のクラリネットパートは大集団である。当時中学の吹奏楽部は、クラリネットパートだけで総勢二十名近くいた。私以外は全員が女子であった。が、私は意に介さずに練習に励んだ。憧れのクラリネットが吹けるだけで、存分に幸せであった。私が水を得た魚の心持ちを知ったのは、あの時が初めてであった。青春を賭けた私の吹奏楽は、ここからが始まり。

当時クラリネットパートのリーダーT先輩は、生徒会役員、成績優秀な正統派美人で、誰もが一目置く存在であった。後輩の面倒見もよく、誰からも慕われた。クラリネットも中学生にしては確かな腕前で、私は尊敬していた。太く柔らかい音色。女性らしいまるく優しい音がした。私の当面の目標はT先輩であった。T先輩の様に吹けるようになりたいと思った。

吹奏楽では合奏する際、指揮者をセンターに最前列はクラリネット、二列目は左からピッコロ、フルート、オーボエ、右にサックスやバスクラファゴットなどが続く。その後ろにホルン、ユーフォニアム、最上段にトランペット、トロンボーンが並ぶ。正面右手奥にチューバ、弦バス。左手奥がパーカッション。この並びがオーソドックスであるが、編成によっては最前列にピッコロ、フルート、オーボエ。二列目にクラリネットが勢揃いし、三列目からサックスというパターンもある。さらには、最後方にパーカッションが陣取ることもある。私は、中学ではこのパターンで、高校では最前列がクラリネットであった。管弦楽と同じく吹奏楽も指揮者をセンターに、左手が高音、右手が低音というパターンが一般的である。人数や音の鳴りを指揮者が考えて決めている。 一定の人数が揃った吹奏楽は各パートで、異なる譜面を奏でる(その限りではない楽器や編成もある)。

クラリネットは主に高音域を担当しメロディとハーモニーを奏でる1st(ファースト)、中音域を担当しメロディとハーモニーを奏でる2nd(セカンド)、低音域を担当しメロディやハーモニーさらには伴奏を奏でる3rd(サード)に分かれる。それぞれに大切なパートを任されており、優劣はないが、花形はやはり1stであり、クラリネットパートの誰もが憧れるのは1stであろう。T先輩は1stであった。T先輩の演奏を間近で見たのは、一年生の吹奏楽コンクール県予選であったが、音色、運指スキルの高さは傍目からでもよくわかり、私は食い入るように見入った。そしてクラリネットを吹きたい気持ちは、抑えられない気持ちとなったのである。私は3rdから始まり、二年生で2nd、三年生のコンクールから1stになった。重ねて言うが、1st、2nd、3rdに優劣などない。しかしやっぱり1stを託された時は、うれしくてたまらなかったし、同時にクラリネットパートを率いている責任を感じた。この様な経験を経て、人は少しずつ社会の片鱗を覚え、処世を学ぶのである。私にとって吹奏楽は、ただ青春の一頁のみではないのである。

クラリネットは、オーケストラでいえば、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリンそしてヴィオラにあたる。1stや2ndも低音で全体の伴奏を奏でることもあるし、3rdも低音域でメロディを奏でるので、いずれもにしても奥深い楽器だと思う。クラリネットは菅の長さにより音域が変わる。その種類も多い。一般的に私たちが目にするクラリネットで、また吹奏楽でも主力となるのはB♭菅=ソプラノクラリネットである。ソプラノクラリネットはB♭菅より1センチ長いA菅もあるが、日本の吹奏楽では概ねB♭菅が一般的。その他にE♭菅=通称エスクラリネット(B♭菅より1オクターブ高い音色が出る)、アルトクラリネットバスクラリネット、水道管の様なコントラバスクラリネットなどがあるが、細かくわければもっとある。

 日本の吹奏楽はプロ集団、自衛隊や警察の音楽隊、アマチュアでは一般、職場団体、大学生、高校生、中学生、小学生に分別される。それぞれが独自のカラー、ハーモニー、スキルを持っており、どの部門もその部門なりの演奏を楽しめるだろう。前にも書いたが、アマチュア団体が目指す吹奏楽の大会は、吹奏楽コンクール、マーチングコンテスト、アンサンブルコンテストの三大大会である。合奏のハーモニー、スキル、表現力を競う最高峰の舞台が全日本吹奏楽コンクールで、まもなく今年も都道府県予選が始まる。ここから十月末の本選まで、長いようで短い。最上級生にとっては尚更である。甲子園を目指す球児と同じく、吹奏楽部も熱い夏が始まった。続く。

ほとけのみち 遊行寺

これまで、「日本仏教見聞録」という大層なタイトルでやってきたが、私は異邦人ではないので、今回から「ほとけのみち」と改題した。本山と呼ばれる巨刹を訪ねて、日本仏教の歴史を紐解きながら、今を生きる日本人について、日本仏教、日本の仏道の在り方について考えてみたい。興味本位で極めて私的な目線、浅薄な知識で、愚かな論点も多々あるわけで、ここは片意地張って「ぶつどう」とはせず、やんわりと「ほとけのみち」とすることで、お許しをいただきたい。引き続き、時の赴くままに、日本仏教の本山巡礼を続けてみたいと思う。 今回は神奈川県藤沢市にある遊行寺である。遊行寺は浄土系の一派時宗の総本山である。時宗は同じ浄土系の浄土宗や浄土真宗と比べて少数派で、他宗派に吸収された寺もあると聞くが、阿弥陀信仰と念仏布教においては、太く長い筋をもっている。初夏の眩しい太陽と、爽快な風が似合う湘南へ久しぶりに出かけた。

海とは縁遠い私でも、湘南へ出かけるのは、何となく浮き足立つものだ。かつて一年ばかり藤沢市の片瀬に住んだことがある。目と鼻にある江ノ島には釣りに行ったり、鎌倉の古寺を歩いたりと、湘南での暮らしを満喫した。買い物やレジャーは、藤沢や鎌倉で事足りるため、東京はおろか、横浜にさえ滅多に出かけなかった。思えば、今では考えられないほど贅沢なことだ。湘南には懐かしさと、私なりの愛着がある。当時から遊行寺の存在は知っていたが、時宗総本山とは知らずに、鎌倉の寺ばかり訪ね歩いた。今回、初めての遊行寺参り。

藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名だが、遊行念仏の中心寺院となってからは、遊行寺で通っている。遊行寺といえば、私が真っ先に連想するのは、時宗でもなく、一遍上人でもなく、念仏でもない。箱根駅伝である。箱根駅伝が大好きなことは、散々書いてきたが、遊行寺門前の遊行寺坂は、箱根路の難所のひとつなのでよく知っている。遊行寺坂は、一キロほどのダラダラ坂で、往路は三区で下り、復路では八区で急な上りになる。近年復路は青山学院が引き離して逃げているが、往路では抜きつ抜かれつの攻防が見られる。これからまたこの坂で名勝負が生まれることもあるだろう。私も遊行寺坂を往復してみたが、途中でカーブしているため、上りも下りも見通しはよくない。坂の終わりが見えないのは、選手たちにはキツイだろう。そんな遊行寺坂を凄まじいスピードで、懸命に颯爽と駆ける箱根駅伝の選手たち。私は彼らに改めて畏敬の念を抱いた。

時宗の祖とされる一遍上人は、延応元年(1239)、伊予国道後に豪族河野通広の子として生まれた。祖父河野通信鎌倉幕府の創業に功績があり、北条政子の妹を娶るも、承久の乱以降没落した。一遍は母の死により十歳で出家したが、没落した家に期待なくした父の薦めでもあった。弘長三年(1263)、父の死を機に還俗するも、文永四年(1267)再び出家し、以降は日本中を行脚する。一遍の人生をこと新たに述べることはしないが、一遍が偉大なる旅人であったことは興味深い。その旅は驚くべき広範囲で、伊予から京へ上り、河内、大和、高野山、熊野、丹後、但馬、因幡、美作など近畿一円は言うに及ばず、伊勢、信濃善光寺、果ては陸奥へ、白河関から平泉、松島、南は西海道から大隅を経て豊後まで廻っている。役行者行基菩薩、弘法大師なども各地に足跡があり、それは半ば伝説となっているが、一遍の足跡は確かなもので、あの時代にこれほど日本各地を周った人は一遍しかいないだろう。すべてを鵜呑みにはできないが、生涯を無為の念仏布教に努め、旅を続けたことは、市の聖と呼ばれた空也上人を崇拝していたからだろう。鉦を打ち鳴らしながら、唄い、踊り、ごく自然に南無阿弥陀仏真言を唱える。阿弥陀如来の本願に帰依することは、苦痛を伴うはずはなく、楽しいことなのだ。空也上人はこの踊躍念仏、すなわち遊行の祖といえよう。

私は浄土系宗派の説く易行を、さらに進めたのが遊行ではないかと思う。が、遊行は必ずしも易行にあらず。空也も一遍も、ほとんど乞食のような暮らしをしながら、滾らせた熱い想いを体現した。一遍は阿弥衣(あみえ)という麻や刺草で編んだ筵のような実に粗末な衣を纏い、縄文人の如き出で立ちで行脚する。踊躍念仏を押し付けはせずとも、近づく者は拒まずに、老若男女、貴賎の別なく親しく接したのである。そしていつの日か、一遍の遊行に付き従う連中を時衆と呼ぶようになる。特に底辺の人々には一遍は救世主であった。一遍のゆくところは大盛況となり、踊躍念仏は遊行と言われ、民衆の間で爆発的ブームとなって、法悦のあまり死に急ぐ輩もいたと云う。宗教は時に人を狂わせる。一遍は、「賦算(ふさん)」といって「南無阿弥陀仏、決定六十万人」と記した念仏札を配ることを盛んに行なった。六十万人は人数ではなく、六は南無阿弥陀仏の六字名号、十は阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という時間(仏教やインド哲学では途方もなく長い時間を劫という)、万は阿弥陀如来の徳の数、人は一切衆生が往生することと云われる。この頃には浄土宗や真宗の勢力を凌ぎ、時衆は一向宗と呼ばれた。のちに一向宗真宗門徒を指して呼ばれたが、この時期は時衆門徒のことをいった。 

周知のとおり、一遍は新たに自身の主導する念仏一派を立てる意図はなかった。遊行寺の寺伝によれば、時宗の「時」とは、念仏を中国より伝えた善導大師が、時間ごとに交代で念仏する弟子たちを時衆と呼んだからだと云う。時宗では、阿弥陀如来への信、不信問わず、念仏さえ唱えれば、往生できると説く。時宗総本山とされる遊行寺には、一遍の足跡はない。が、一遍の情熱はしっかりと伝播して、その灯火は消えないでいる。時宗のトップは代々「遊行上人」と呼ばれた。遊行上人第二代真教は、建治三年(1277)、九州を遊行中の一遍と出会い門下となった。以後、一遍の全国遊行に付き従う。正応二年(1289)、一遍が没すると、真教は弟子衆に推されて後継者になる。真教も十六年間遊行したが、一遍のように全国は巡らずに、北陸と関東を往復し布教した。真教は教団の確立と勢力拡大に努め、寺や道場を増やしてゆく。それは百ヵ寺以上に及んだ。そして、帰命戒(きみょうかい)という衆徒の決まりを作った。一遍がどこまでも理想を追う宗教家であったのに対して、真教はその教えを守り、伝えるための仕組みと方法を考えて、実行した組織者であった。鎌倉武士や都の公家衆にも衆徒を得て、時衆は隆盛した。さらに相模国当麻に無量光寺を建立し、布教の拠点とした。

その後、三代智得へ受け継ぎ、智得が没すると、真教から智得の次に遊行上人を継ぐように指名されていた呑海がいたが、呑海は遊行中で、執権北条高時の命により智得の弟子の真光が無量光寺の住持になる。無量光寺に入れなかった呑海は、正中ニ年(1325)、兄の俣野景平の援助を得て、藤沢の地に道場を開いた。これが現在の遊行寺である。以降は対立も起こり、時衆は十二派に分かれたが、主流はあくまで呑海の継いだ遊行派であり、のちに江戸幕府の本末制度が施行されると、遊行寺時宗総本山となった。室町から戦国時代にかけて、廃れかけた時衆は、江戸幕府のおかげで息を吹き返し中興した。時衆から時宗となったのも寛永期のことだ。幕府の膝下近くに中心道場を構えたこと、またこの頃には開創時の一向宗的勢いは薄れ、浄土系の一派でも、比較的穏やかであったことが、為政者からの警戒心を招かずに済んだのだろう。浄土宗と浄土真宗の中間に位置しながら、貴賎を問わずに、遊行を守り伝えたのである。江戸時代、遊行寺東海道名刹として賑わった。が、幕末動乱から明治の廃仏棄釈では再び打撃を受け、大正時代には浄土宗へ転属する派あり、廃れていった派もあったが、昭和二十七年(1952)、時宗の全寺院が包括されて遊行寺を総本山として、少数派ながら現代の日本仏教の一翼を担っている。

遊行寺は、藤沢駅から歩いて十五分ほどの丘陵の斜面にある。遠くからでも、本堂の大甍はすぐにわかるほど大きく、時宗総本山の名に相応しい。正面総門を潜ると、桜並木のなだらかな石段が続く。私が行った日は青葉が眩しかったが、花の盛りの壮観が偲ばれる。石段の両側には子院塔頭があって、上がりきったところに、今は焼け落ちてない山門の土台が残っている。土台を抜けると山門の代わりに、天然記念物にもなっている推定六百年の大銀杏が、枝を大きく広げて元気に迎えてくれた。方々の寺社で、こうした巨木や御神木に出逢ってきたが、その圧倒的な存在にいつも感動する。よくぞここまで生きていてくれたと心から感謝する。多くの人と同じく、私も樹木や花から漲る力をいただくのだ。 大きな銀杏の奥に、大きな本堂がある。本尊阿弥陀如来は修復中とのことだが、本堂には自由に出入りして参拝できる。寺の若い坊さんが何人もいて、掃除をしていたが、禅寺のように厳粛に規則正しくやるわけではなく、会話をしながら和やかな様子。訪れる参拝者を快く本堂へ招き入れてくれる。堂内は須弥壇をのぞけば、装飾が排された、いかにも道場といった雰囲気である。真宗の寺も念仏道場として、広く門徒に開放しているが、時宗はさらに簡素に見えた。総本山にしてこの雰囲気が、実に居心地が良い。信仰の糸が切れずにここまで紡がれてきたのが、寺全体から伝わってくる。時宗は今、庶民仏教の代表として在るべき姿を見せている。遊行寺には立派な書院もあるが、入る者を萎縮させない佇まいである。書院の中庭はちょうど花菖蒲が盛りであった。渡り廊下にはお茶が置いてあって、花を眺めながら薫風にあたるのは、それだけで浄土にいる心地がした。

最近は多くの寺に、ペットや家畜の墓や供養塔を見かける。遊行寺にも美しく立派な供養塔があった。寺を歩く時、墓地へと足を踏み入れることも多い。その度に私は、亡くなった先人達が、羨ましく思う。人も動物も花も草も木も。彼の世へ逝ったことは偉大である。此の世に生を受けし万物に死は必ず訪れる。死は俗世ではもっとも恐ろしく、不浄とされているが、実はそれは大きな誤りで、我らのいる此の世こそが不浄ではないか。生きることは苦海を彷徨い泳ぐこと。息を引き取る瞬間まで、その苦しみは続き、引き取る瞬間に最大の苦しみを乗り越えて、彼の世へと旅立つ。それぞれの定命を全うし、死の苦しみを乗り越えて行った人々は凄いと思う。我々は今、苦海の只中にいる。仏教はそんな迷える衆生に生きる希望、勇気を与えながら、時には叱咤し、時には慈悲深く寄り添う。阿弥陀如来は遍くすべての衆生極楽往生へ導く来迎仏である。一遍上人はそれを解った瞬間から、嬉しくて、飛び跳ねて、心身は踊り、楽しく念仏を唱えることを広めた。時宗へ引き継がれてきた一遍の想いは、此の世から彼の世へ逝く途中さえ、楽しく行こうと呼びかけている。遊行寺を訪ねて、私は新たに日本仏教の核心に触れた思いがした。

なおすけの平成古寺巡礼 赤山禅院

京都が好きで年に数度は訪れる。寺社へ参詣し、興味の尽きぬ千年の都の風雅を存分に楽しんでいる。帰りはいつも去りがたく、寂しい気持ちになる。いつかあの街に暮らせる日を、夢見つつ過ごす日々だ。好みの寺社は数多あるが、ここ数年は比叡山直下の修学院近辺を歩いている。このあたりも名だたる名刹があるのだが、観光客は少なく、静かなものである。

三年前の秋、彦根を旅したついでに、井伊直弼の愛妾村山たか女の縁の寺を廻った。 叡山電鉄一乗寺駅から歩いて十分ほど東へ歩くと、住宅地の奥に金福寺がある。村山たか女は、直弼が部屋住みの頃からの愛妾で、大老就任後は隠密となって攘夷論者の動向を探り、長野主膳を介して大老に密告、安政の大獄に加担した。直弼が桜田事変で討たれると、たか女は勤王志士に捕らえられ、三条河原で生晒しにされた。三日間耐え抜いて解き放たれたが、文久二年(1862)に尼となって妙寿と名を改めた。この寺はたか女が、余生を過ごした寺で、ささやかな佇まいは、いかにも栄枯盛衰を見尽くした女が、浮世から逃れるようにして隠れ住んだ寺といった風である。芭蕉もここを訪れている。

憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

と詠み、当時の鉄舟和尚と親交を深めた。和尚は後に草庵を芭蕉庵と名づける。芭蕉を崇拝する与謝蕪村は長く金福寺に逗留して多くの句を残し、荒廃した芭蕉庵を再興しこう詠んだ。

耳目肺腸ここに玉巻く芭蕉

蕪村の墓も芭蕉庵のそばにある。私が行った時は、ちょうど紅葉が盛りで白砂の美しい枯山水に、深紅の紅葉がはらはらと舞い散る様は、村山たかの憐れな余生を彷彿とするには、出来過ぎであった。

村山たか女の墓は、金福寺の少し北へ行った圓光寺にある。この寺も巨刹ではないが、石庭と紅葉の美しい寺である。開基は徳川家康で、下野足利学校から学頭の三要閑室禅師を伏見へ招き、学校として関ヶ原の合戦の翌年に創建。後にここへ移転した。臨済宗南禅寺派の寺である。寺の裏手は山だが、なだらかに整備されて墓地になっている。目印があるので、その墓はすぐにわかった。直弼への愛を貫いた村山たか女の末路は、悲惨なものであったが、あの激動の時代をいっときの間、燦々と生きた情愛は、生涯失わずにいたであろう。あはれな怨嗟よりも、恍惚のうちに死んでいったのではなかろうか。墓の少し上に登ると、ささやかな東照宮があって、そこからの眺めは格別であった。夕霞の彼方には愛宕山から西山が遥かに見渡され、こんな気分の良い場所に眠る村山たか女が羨ましくさえ思った。

 昨年、花背の奥の広河原に松上げを見に行ったが、その前に修学院のあたりを歩いてみた。曼殊院修学院離宮赤山禅院と廻る。比叡山は黒々と光り、夏の顔で見下ろしている。残暑厳しい日で、暑さを誤魔化しながら散策したが、寺の境内に入ると急に涼しくなるのは、気のせいではないだろう。曼殊院道比叡山の方へ緩やかに登っていて、住宅地を抜けると、麦畑やとうきび畑が広がり、京都市街からすぐなのに、長閑な場所である。鷺森神社を通って、山の麓まで来ると、やがて曼殊院の慎ましやかな山門が見えてきた。京都には仁和寺三千院、青蓮院など門跡寺院が多い。いずれもその名にそぐわぬ雅やかな佇まいをみせるが、この曼殊院は場所柄か、さらに奥ゆかしき閑雅な趣である。庫裏、大書院、小書院など連なる堂宇は江戸初期の建築というが、桃山時代の色が濃く反映されている。紅葉の名所として名高いが、今の時期は静かなものであった。曼殊院門跡は、元は比叡山西塔北谷にあって伝教大師が草創した東尾坊が始まりだとされる。のちに曼殊院と称するようになるが、今の地に移ったのは明暦二年(1656)のことで、後水尾天皇の猶子で、桂宮智仁親王の次男良尚法親王が門跡の時である。比叡山を降りた曼殊院は、一時御所の近くに移転したが、良尚法親王がこの地へ移したのは、修学院離宮の造営に心血を注いだ後水尾天皇のために、助力なされようとされたのではないか。曼殊院は、あたかも修学院離宮造営の前線基地の様である。

 曼殊院で涼しくなったが、外はやっぱり暑い。修学院離宮は、宮内庁のホームページから観覧予約を受付ている。私は十一時から予約。他の参観者はほとんど外国人。桂離宮に比べたら修学院離宮は、そんなに知られてはいないが、スケールは桂離宮をはるかに凌ぐ。比叡山を借景にして、上、中、下の三つの離宮は、通称御茶屋と呼ばれる。それぞれに淑やかで、侘びた佇まいの御殿、客殿、茶室、御休所が、絶妙の配置で点在する。上、中、下の御茶屋を結ぶ松並木や、上の御茶屋の大刈込みは、一帯の自然と見事に調和している。驚いたのは松並木の両側は、田畑になっていて、稲や野菜が育てられていたことだ。修学院離宮のハイライトは、何といっても上の御茶屋である。下からの高低差は四十メートルもあり、最高所にある隣雲亭からの眺めは、天に昇りつめた心地であった。眼下には浴龍池が満々と水を湛え、碧空を写している。上も下も紺碧で、周囲の深緑と渾然一体となっている。奥には右手に洛北の山々、左手には洛中、ずっと向こうには西山が霞んでいる。灼熱の中を、熱中症になりかけながら上がってきたが、暑さも忘れて天下一の眺めを独占し、まことに爽快な気分であった。

藤原時代、ここに修学院という寺が建てられた。南北朝時代に廃寺となるが、地名として修学院の名は残った。ずっと下って徳川時代、幕府は法に拠って武家、寺院、禁中公家を支配し、徳川三代はこれを盤石のものとして、泰平の世が成った。その時、この国でもっとも権威の高みにおわした後水尾天皇は、禁中並公家諸法度に拠って両翼をもがれた気分であった。専横の限りを尽くす江戸幕府と再三対峙するも、虚しい抵抗に終わる。唯一の慰めとされたのは、秀忠の五女和姫が入内し和子と称され、後に中宮とされて、相思相愛となられたことであろう。紫衣事件などで、天子の位に愛想が尽きた天皇は、幕府の反対を押し切って中宮との間に生まれた明正天皇へ譲位され、上皇となられた。明正天皇は、称徳天皇以来の八百五十九年ぶりの女帝であり、この譲位こそが、幕府に対する後水尾天皇の最大の意趣返しであった。上皇は院と呼ばれ、和子中宮東福門院となられる。後水尾院は明暦元年(1659)から修学院離宮の造営を始められる。およつ御寮人に生ませた文智女王が尼となられ、この地に円照寺を創建していたが、造営時に大和へ移転した。後水尾院は、修学院離宮造営に並々ならぬ情熱を注がれた。それは幕府に対しての無抵抗な憂さ晴らしであった。足繁く通い、御自ら普請を差配された。完成後、仲の良かった東福門院を伴い気兼ねなくここへやってきては、俗世の喧騒から離れて、自由を謳歌されたであろう。だが、今、改めて修学院離宮を俯瞰してみると、ここには後水尾院の静謐な執念が、そこはかとなく宿っているような気がした。

 さて、今日は夏越の大祓。上半期の邪気を祓い、下半期を無事に過ごすために、各地で形代を流したり、茅の輪くぐりなどの夏越の神事がおこなわれる。私も近所で茅の輪くぐりをやるが、夏越の祓については、昨年書いたので詳しくは省きたい。それにしても日本人は清めが好きだ。貴賎の別なく邪気、穢れを忌み嫌い、徹底的にお清めをする。茶道でも露地、茶室、道具を徹底して清める。王城の地平安京では、殊の外盛んに邪気祓いが行われた。鎮護国家、疫病退散、天変地異、怨霊調伏、庶民のささやかな願いまで祈祷された。京都は風水を基に町づくりが成され、四神相応は世界的にも類をみない鉄壁の守護である。陰陽道が発展し、陰陽師は平安貴族のみならず、幕末まで暗躍したのである。陰陽師の代名詞は安倍晴明であろう。今年の冬季五輪は、羽生結弦君がフリースケーティングで晴明をテーマに演技した。まさに平成の陰陽師降臨といった感じであった。安倍晴明を我々はアベノセイメイと呼ぶが、当時は訓読みでアベノハルアキといったらしい。藤原道長の日記「御堂関白記」にも陰陽師晴明と記述があり、時の最高権力者からも重宝されていたことは明白である。晴明の邸跡には晴明神社が鎮座し、今でも京都市中で最強のパワースポットとして人気がある。すぐそばには、堀川に架かる一条戻橋があるが、晴明はこの橋の下に自らが呪術で使う式神を置き、好きな時に召喚したと云う。 実のところ陰陽師とは、どんな存在であったのか。私も以前から関心があったので、いろいろ調べてはいたが、事実は小説より奇なりで、調べれば調べるほど不可思議で、謎めいている。陰陽師は幕末まで当たり前にいたし、今でも末裔がいて陰陽師を名乗る人がいるが、やはり平安時代がもっとも活躍した時期であることは間違いない。それは日本の陰陽道が確立して、発展した時期と重なるからである。ゆえにここでも平安時代陰陽道陰陽師に焦点を絞ることにする。

陰陽師は朝廷に仕える貴族であり、陰陽寮という役所で日夜働く役人であった。陰陽寮の仕事は、陰陽道に基づいた国家鎮護の加持祈祷、卜占、さらには天体観測を行い、都と貴人の有為転変を予測し、さらには気象予報、暦の作成、病気平癒まで行った。これを官人陰陽師と云う。ちなみに、官人陰陽師の他に、法師陰陽師なるもいたらしい。法師陰陽師は僧形の陰陽師で、巷ではむしろほとんどが法師陰陽師であったとか。官人陰陽師は役人で、朝廷や貴人のために働き、法師陰陽師は庶民が頼りにした。が、中には法師陰陽師も公家や武家に頼まれて、卜占や祈祷を行なった者もいたと云う。想像するに、密教護摩法要の様なことをやったのであろう。安倍晴明はれっきとした官人陰陽師。彼らはほとんどが朝廷や貴族たちのために仕え働いていた。大晦日には宮中で、国内の鬼を全方位の境界へ追放する追儺の儀式が行われた。追儺陰陽師最大の年行事であり、彼らの腕の見せ所である。長保三年(1001)、一条天皇の母藤原詮子が亡くなったため、宮中は追儺を中止したが、晴明は自邸にて私的に平安京の人々のために追難を行った。この出来事は陰陽師安倍晴明の名を大いに高め、貴賎を問わずに崇める様になる。安倍晴明は、陰陽師としての自分に絶対的な自信を持っていた。そしてまた、自らの背負う役割が何なのかと追求し、試行錯誤し続けた結果、伝説となったのではないか。

平安京は鉄壁の四神相応が縄張りされていることは述べた。北(玄武)に船岡山、東(青龍)に鴨川、南(朱雀)に小椋池、西(白虎)に山陰道がある。千年間も都であり続けたのも、宜なるかなである。風水で鬼門に当たるのが北東で、方角的に忌み嫌われている。平安遷都の詔を発した桓武天皇は、平安京の鬼門に当たる比叡山を拠点にしていた伝教大師最澄延暦寺建立を許し、天台宗最澄を庇護した。これはひとえに平安京の鬼門封じのためであり、邪気を調伏する狙いがあったに相違ない。余談だが、江戸の町も京都を手本に町づくりがされたが、江戸城の鬼門には神田明神寛永寺、日光山があり、裏鬼門には山王権現、増上寺、久能山がある。比叡山の麓に、平安京の鬼門封じの赤山禅院がある。冥府の王泰山府君を赤山明神とも称するが、その泰山府君を祀る寺である。寺であるが、入り口には鳥居が建っていて、神仏混淆が色濃い。長い石畳の参道は趣深く、暑さを忘れる涼やかな風が吹いている。観光客もここまでやってくることは稀の様で、私のように陰陽道や風水に関心のある人以外には、あまり知られていないのかも知れない。

寺の中心には泰山府君を祀る御堂がある。御堂の入り口の門は、巨大な数珠になっていて、赤山禅院にやってきたという感慨が湧いてくる。泰山府君は中国の東岳泰山の神であり、人々の生死を司り、冥府の王とされる。閻魔大王と双璧を成すと云うが、陰陽道では主祭神閻魔大王よりも力が上とされ、崇拝されている。泰山府君祭という呪術は、小説や映画では蘇りの儀式とされていたが、文献にはそうした記述はない。京都市上京区清浄華院に蔵されている「泣不動縁起絵巻」には、安倍晴明泰山府君祭を行う様子が描かれている。悪霊邪神の面を並べ、護摩を焚きながら、なにやら呪文をよみあげる晴明の背後には、式神が二神いて、一心に祈っている。とても印象に残る絵だ。実際、陰陽師による泰山府君祭は行われていたが、専門家によれば、おそらくは病気平癒、治療、予防、さらには健康長寿を祈念したのではないかと云われる。赤山禅院は冥府の王のおわす場所であり、泰山府君が君臨するところなのである。私の推測にすぎないが、比叡山塔頭であり、回峰行のルートの一つにもなっている赤山禅院は、比叡山を天上の極楽に準えて、山麓のここが冥府の入り口という意味もあるのかもしれない。赤山禅院は王城の鬼門封じであり、実は此処からが冥府の始まりであるならば、平安京は冥府の真っ只中となる。魑魅魍魎の跋扈する怖るべきところだ。ゆえに人々は、鬼門封じを怠らなかった。

境内は静寂そのものであったが、時折、何処からともなく子供の笑い声が聞こえてくる。しかし、境内には私しかいない。ほかには寺の人がいるだけで、家族連れの参詣者はいないのである。笑い声のする方へ行っても、また別の場所から同じく笑い声がする。ひょっとして、泰山府君なのか。式神の悪戯か。或いは冥府の人々の嘲笑なのか。私はだんだん薄気味悪くなってきた。いや、ホトトギスとか、ひぐらしだったのかもしれないが、何度耳をすましても、子供の笑い声にしか聴こえない。境内は思った以上に広いが、背後は山のきわで、点々と御堂が建っている。薄気味悪くとも、小一時間ばかり赤山禅院を独占できたことは、何とも良い気分であった。自宅の鬼門封じのために、清めの砂を買った。普段の寺参りでは、あまりやらないが、護摩供養をお願いしてきた。私のささやかな願いを木札に書いて納める。極上の神仏混淆赤山禅院ならば、効果覿面に違いないと思った。帰りがけ、もう一度、耳をすましてみたが、あの笑い声はもう聴こえなかった。 

青春譜〜課題曲と自由曲〜

全日本吹奏楽コンクールは、毎年十月に開催される。全日本を目指す団体は、概ね二度の予選を通過せねばならない。第一関門の都道府県予選は、ちょうど夏の甲子園の頃に始まり、勝ち抜くと、夏休み明けまもない九月に支部予選がある。支部は北海道、東北、東関東、東京、西関東、北陸、東海、関西、中国、四国、九州に分けられる。支部予選を勝ち抜いて、晴れて全日本の大舞台へと駒を進めるのだ。コンクールは編成によってA、B、Cに分けられる。編成は簡単にいえば人数である。中学が五十人以内、高校、大学が五十五人以内、一般、職場が六十五人以内の大編成がA、三十五人以内がB、少人数の団体のジョイントをCとするが、Aのみが全国大会へいける。コンクール参加団体のほとんどはAであると思ってよい。予選から審査は厳しい。各大会に審査員は九人いて、時代によって審査方法は少しずつ変わってきたが、参加団体は金銀銅で評価される。タイムオーバー等で失格しない限り、参加団体すべて、いずれかの賞を授かるのだ。つまり最低でも銅賞はもらえるわけだ。私は銅賞を貰うくらいのレベルならば、コンクールには出場しなくても良いと思っている。いや、皆がんばっているわけだから、どんな結果であれ、出場することに意義があるという意見も、吹奏楽経験者としては、誠にごもっともと思う。が、コンクールに出場するからには、上を目指すべきだ。志し高くなくば、上手くはならない。それは団体全体も、奏者一人ひとりであってもである。コンクールで上を目指すことは、技術、表現、ハーモニーを限界まで追求することだ。それは個々と全体が上達する最良で、最短の道であると私は信じて疑わない。プロにも負けぬ素晴らしい演奏を披露することこそが、楽器を演奏し、合奏して、聴衆を沸かせる最高の殊勲であるからだ。

 コンクールでは課題曲と自由曲を一曲ずつ演奏する。制限時間は併せて十二分。課題曲は毎年発表され、基本的に五曲あるが、団体で選ぶことになる。課題曲はマーチが二曲と、マーチではない曲が三曲のパターンが多いが、時々によって全曲マーチであるとか、奇数偶数年で変えたりしたこともあった。課題曲は三分から四分前後。課題曲には吹奏楽の魅力がすべて詰まっている。マーチ以外の曲はクラシックの様に壮大な曲あり、ポップス、ジャズ、日本民謡を主題にした曲などあって多彩である。難易度が高く、団体の真の実力が問われる。マーチは難易度は低いが、その分だけ曲解釈の振り幅が広く、かえって難しい場合もある。が、ほとんどの団体がマーチを選択するのも、課題曲を着実に演奏し、自由曲で難易度の高い曲にチャレンジするというのが、吹奏楽コンクールの主流といえよう。毎年春先に課題曲が発表されると、五月頃には課題曲クリニックが各地で開催される。課題曲クリニックは、課題曲の演奏指導会で、まず全国向けクリニックを開き、さらに支部都道府県単位で行われる。課題曲にも名曲は数多あり、吹奏楽経験者や、吹奏楽ファンからも熱烈に支持されている。歴代課題曲は、日本の吹奏楽界にとって枢要なレパートリーとなっている。私も、風紋、交響的舞曲、カーニバルのマーチ、ターブルマーチなどお気に入りの課題曲がいくつもある。それらはいずれ少しずつ紹介したい。 一方、自由曲は六分から七分半前後。各団体が自由に決めるが、多分に顧問指揮者の色が反映される傾向が強い。吹奏楽ならではのクラシックはたくさんあって、リード、バーンズ、ミッチェル、小長谷宗一、兼田敏、松尾善雄などは、私の学生時代には競って演奏された。高校の時の顧問指揮者は、多分にキリスト教色の強い曲を好んだし、管弦楽のクラシックを多用した。コンクールでもヴェルディのオペラ「シチリア島の夕べの祈り」を演奏した。無論、管弦楽曲吹奏楽のために書かれたわけではないから、弦楽器を管楽器で補うのは至難の技で、編曲されているとはいえ、全体の難易度も高く、個々の演奏技術を求められる。実際それをさらりとやってのける楽団もあるが。自由曲はまことにその団体と、指揮者のカラーが如実に表れる。課題曲と自由曲は、フィギュアスケートショートプログラムと、フリースケーティングと思えば、わかりやすいかと思う。

さて、中学一年生の夏、コンクールでは県大会で金賞を獲るも、九州大会へは進めなかった。いわゆるダメ金である。支部大会や全日本へ進めない金賞を、「ダメ金」とか「タダ金」とかいうが、思えばずいぶんと酷い言い方である。それほど実力本位のシビアな世界なのだが、この言い方には中高生は傷つくだろう。コンクールが終わり、九月の初めにマーチングフェスティバルに参加、そのあと私は部活を休むようになった。当時、両親の離婚とか、家庭内の不和があって、暗澹とした気分であった。そのもやもやを何処へどう発散したらよいやらわからず、私の心は自ら吹奏楽から離れていった。今思えば、十三歳の少年には耐え難いことであったかもしれないが、やっぱりトランペットより、クラリネットが吹きたいという気持ちが、日々高まっていったことが最大の理由である。一ヶ月ほど部活を休んでいたら、顧問に呼び出された。やる気はあるのかと叱責を受ける。家の事情など話す気はなかったが、私は何故か涙が流れてきて、その場で号泣してしまった。叱られたから泣けたのでない。自分でもよくわからなかったが、いろいろ我慢していたことが、あのタイミングで決壊したのであろう。一頻り泣いた後、明日から部活へ戻ると約束した。そして、正直にクラリネットへ移籍したいと申し出てみた。先生はしばし考えて、トランペットを続けるように言った。さもありなん、トランペットパートはすでに固定されつつあり、私も及ばずながら一員として、先輩達から指導されていた。今はどうか知らないが、当時の吹奏楽部で、自らの我儘でパート替えを望む部員はいなかった。ましてや、ろくに演奏も出来ないひよっこ一年生である。しかし、私は一歩も退かなかった。パート替えが許されないならば、退部するとまで言ってしまった。何とまあ、不躾極まりない物言いか。思い出せば、汗顔の至りである。最終的に顧問は折れた。私が本気で取り組むならば、クラリネットへの移籍を許すと言われた。無論、それだけは本気であった。あの日あの時の私には、本気になれるものなど、クラリネット以外にはあり得なかった。続。