弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

正気

七十五年目の終戦記念日

毎年のことだが八月に入ると、お楽しみは甲子園であるが、今年は新型コロナウィルスの影響で大会そのものが中止。交流試合を楽しんではいるが、やはり日本の夏に甲子園がないのはまことに寂しい。甲子園だけではない、文武を問わずあらゆる部活動において、これまでとはまったく違う夏になった。例年夏休みに予選が始まる吹奏楽コンクールやマーチングコンクールも今年は中止である。選手たちやメンバーの無念はいかばかりであろうか。察するに余りある。

お盆。迎え火を焚いてあちらへ行った大切な人をこちらへ迎え、盆の間共に過ごし、そしてまた送り火を焚いてあちらへ送る。私は日本の盆の風習が好きだ。こればかりは全国ほぼ似た形で行われているのをみても、日本の風土で培われたもっとも日本人らしい行いであろう。送り火の総代ともいえる京都の五山の送り火も、今年はかなり小規模にして行われるとか。もっとも主旨は何にも変わりはない。いつもどおりに迎えて、送れば良い。あちらの人々もわかってくれるであろう。八月は慰霊と供養の日々だ。先の大戦で亡くなられた方々への鎮魂も忘れてはならない。

立秋が過ぎた。蝉時雨闌。靖國神社千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ参拝。終戦の日はどちらもかなり混雑するので、なるべくなら混雑を避けて、静かに参拝したい。私は右も左もないが、毎年八月の靖國参拝は欠かさない。誰の為か。自分の為か。未だによくわからないのだが、ここでのお参りは、戦犯とか関係もなく、すべての戦没者を追悼するのみである。靖國神社遊就館の前には、軍馬や軍用犬、伝書鳩の慰霊碑がある。彼らも戦争の犠牲者である。愚かな人間が巻き込んだことを思うと、手を合わせても負い目を感じてしまう。ごめんね。

北の丸の濠端を歩いて千鳥ケ淵戦没者墓苑へ向かう。厳めしい靖國神社と違って、こちらは無宗教の国立墓地。いつ来ても人影まばらで、心静かに戦没者を慰霊できる。東京でこれほど清らかな場所はない。

俘虜記、野火、レイテ戦記など戦争文学の金字塔を打ち立てた大岡昇平は晩年言った。

「戦後日本は一億総中流となった。それはまことに結構なことである。皆、多少浮かれても仕方がない。だが、八月六日の広島原爆の日、八月九日の長崎原爆の日、そして八月十五日の終戦の日、せめてこの三日間だけは、日本人は正気を取り戻さなければならない」と。

大岡は自らもフィリピンのミンドロ島へ従軍し、マラリアに感染しながらゲリラ戦を戦い、ついにアメリカ軍の捕虜となり、奇跡的に生還を果たした。大岡が招集されたのは昭和十九年三月のことで、もはや敗戦濃厚の時、妻子ある三十五歳であった。もう戦地に送り込む若者はほとんどいなくて、中年にも赤紙が届くようになっていた。泥沼の大戦で亡くなった日本人はおよそ三百十万人あまり。このうち二百四十万人が海外の戦地で亡くなっている。途方も無い数だが、実はもっといたに違いない。特にフィリピンと中国本土は凄まじい数だ。止められなかった戦争で、犠牲になられた方々のおかげで私たちは生きている。

上皇さまは大岡昇平の言った三つの日に、六月二十三日の沖縄慰霊の日も加えられて、”忘れてはならない四つの日”とされ鎮魂された。

今や正気を失った日本人。かくいう私もそうだ。大岡昇平の言葉は、八月になると私を覚醒し、この場所へ連れ戻してくれる。日々の暮らしが激変した今年だからこそ、私は靖國と千鳥ヶ淵へ来たのだ。八月六日から八月十六日まで日本は静かになる。高らかに響くは蝉時雨だけ。その声はあたかも戦没者へのレクイエムに聴こえる。

皇位継承一摂関始動と寛平の治一

摂関の歴史は平安時代に始まり、明治維新まで続くが、平安時代は摂政と関白と云う、公家臣下の最高職を巡って数々の権謀術数が図られ、ついに権門と呼ばれて権力を独占し、日本史上もっとも華麗に活躍した時代である。同時に王朝文化を築いた立役者は、何よりもそのパトロンと成り得た藤原氏一門に他ならないのである。日本の歴史、文化を鑑みるにつき、これは極めて重要なことである。中国文化への憧れから自然と脱皮し、国風文化が花開いたのも平安時代。後ろ盾にはむろん藤原摂関家がいた。藤原氏は影に日向に、このあと千年も日本史の中枢にいることになる。

ともあれこうして藤原北家による為政者としての世襲体制が一応は完成した。藤原基経陽成天皇を後見し、実質的に自らが天下に号令する。あとは簡単であると思っていた。しかし陽成天皇は成長するにつれ粗暴になり、奇行も目立つようになる。ついに基経は摂政の辞表を出して出仕しなくなった。これに公卿ら も同調し、一年余りも朝廷は混迷し、政治的空白が生まれてしまった。その矢先陽成天皇が乳母子を手打ちにするという事件が起こる。ここで基経が動いた 。天皇の廃位を決断し公卿らを取りまとめ、表向きは病と称してついに陽成天皇は退位された。御年わずか十七歳である。この事は愚管抄にも書かれており、 信憑性は高い。この後、八十二歳の長寿を全うされるが、何とも長い長い余生である。常人であればおかしくなるところだが・・・。

 後を継がれた光孝天皇は、仁明天皇の第三皇子時康親王で、元慶八年(884)、御年五十五歳で即位された。これは平安王朝では最年長である。この年、仁和と改元された。光孝天皇はいかにもピンチヒッターとしてのご即位であった。当初はまさか御自身が皇位に就かれるとは夢にも思われておらず、固辞されたが、皇族と公卿全員が三種の神器を持参して強く即位を要請したため、ようやく了承された。光孝天皇はさすがに年を重ねて、これまで数限りない宮中の陰謀、謀略を眺めてこられたからか、良識ある穏やかな帝であった。ここで廟堂に再び戻った基経ともたいへん良好な関係で、光孝天皇は基経を立てながら事実頼りとされた。この時基経は実質的な関白であり、関白の始まりとも云われる。しかし、この穏和な帝は仁和三年(887)即位よりわずか三年あまりで崩御される。

光孝天皇は、ピンチヒッターであることをよく自覚されておられたようだ。次の天皇陽成天皇の同母弟の貞保親王嫡流に皇統が戻ることを望まれて、皇太子を立てなかった。子女をことごとく臣籍降下させていることからも、いらぬ争い事は御免被りたかったに違いない。そこには筋道を違えずと云う御人柄も偲ばれる。が、世はそうキレイには運ばない。継がれたのは宇多天皇である。宇多天皇光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘班子。定省王と称したが、例の臣籍降下により源氏姓を賜り源定省となった。陽成天皇に侍従として仕えたが、父帝の容態芳しからず折、藤原基経は、帝の内意は皇位を継ぐべきは源定省であるとして、ただち擁立に動き、瞬時に廟堂もこれを全面的に支持するべく取りまとめた。この裏では基経の妹で後宮を牛耳る尚待藤原淑子の働きもあったとされる。こうして基経に推挙された源定省は、仁和三年(887)八月二十五日に親王、翌二十六日に立太子、同日父帝崩御により践祚、十一月十七日に二十一歳で第五十九代天皇として即位された。同日に立太子践祚が行われるなど異例中の異例であり、そもそも臣籍降下した皇子が皇位を継承することも稀で、これが初めてのことであった。

宇多天皇は基経の功に報いるべく、「万機巨細皆基経に関白(あずかりもう)させる」旨の詔を発した。これは政のすべてはまず基経を通してから奏上するようにという意味である。天皇に代わって関白が政務を総覧する。先にのべたように、実際は陽成や光孝天皇の時代にすでに始まってはいたが、「関白」と云う言葉が使用されたのはこの時が始まりである。しかしここでひと悶着が起こる。当時、このような詔を受けた場合、謙譲の美徳を表すために、三度辞退を表明する慣わしがあった。極めて東アジアらしい、いや日本ならではの慣習である。基経も型どおりに上奏文を提出し、関白辞退を申し出たが、これに宇多天皇も型どおり、改めて就任を依頼した。その勅答の文章を起案したのが、文章博士橘広相と藤原広世で、その文章に含まれる「よろしく阿衡の任をもって卿の任となすべし」という文言が問題を引き起こした。「阿衡(あこう)」とは、中国の古典に由来する役職名で、殷の宰相の官名である。しかし、この阿衡には特に定まった職掌はなく、名誉職との意味合いも含まれていた。これを家司で文人として有力なブレーンである藤原佐世から聞いた基経は、名誉職では政治をみれないといって、引き篭もってしまい、朝廷に出仕しなくなった。これにより若い宇多天皇を奉戴する廟堂は政治が停滞、実に馬鹿馬鹿しいことだが、何とそんな状態が一年にも及んだ。これを「阿衡の紛議」と云う。が、実はこの引き篭もりこそが基経の策略の一端ともとれるのである。

焦燥の宇多天皇はあらゆる手立てを尽くして、基経が機嫌を直して出仕してくれるように努められたが、基経はいっこうに出てこない。ついには阿衡の文言を使用したことは本意ではなかったとされて勅答を撤回され、広相を解官した。だがこれは宇多天皇の御本意ではなく、日記には「朕ついに志を得ず、枉げて大臣の請に随う、濁世の事かくのごとし」、「朕、これを傷むこと、日に深し」と嘆息されている。本来宇多天皇は自らを皇位に就けてくれた基経に対して好意的であられたし、基経も天皇に対して敵視することはなかったはずが、なぜこうなったのか。それは阿衡の紛議に発展はしたが、実際は藤原北家の専横をよく思わない橘広相ら他勢力の謀を、未然に察知した基経の意趣返しであったと思われる。さらには関白と云う職がこれを契機に名誉職とならないよう、政治の実権を握る最高職であることを明確に世に示す狙いもあったであろう。関白の権威と権力を磐石にするために、基経はあえて一芝居打ったのである。事実、この紛議を口実に、勅答を草案した橘広相を追求し、影響力を弱めることに成功した。橘広相は当時学者官人として名を馳せており、娘の義子を宇多天皇の女御として入内させ、三人の皇子をもうけるなど、着々と廟堂での基盤を固めていた。これに最高権力者の基経が警戒しないわけがない。広相もまた、目の上のたんこぶである基経の追い落としを企図してもおかしくはない。しかし影響力を多少削いでも、いずれ三人の皇子の誰かが皇位を継承すれば、外戚となる広相は基経にとって大いなる脅威である。基経はこの段階ではまだ外戚ではなかった。基経はあくまでも橘広相流罪を求め、以前として職務復帰をしなかった。これに動いたのが 当時讃岐の国守であった菅原道真であった。

基経と親交のあった道真は、基経に手紙を送り基経の徳を称え、橘広相を弁護し、この紛議は藤原氏の将来に悲しむべきものと諌めている。ここでようやく基経は折れて、一年ぶりに朝廷に出仕、宇多天皇のもとに娘の温子を入内させて、天皇と和解した。これにより関白基経の権力が固まったのである。とはいえ、阿衡の紛議を機に、宇多天皇と基経のあいだには大きな溝ができたことは当然であろう。事実、天下の大政は天皇ではなく、藤原氏のものであると云う印象が強まり、廟堂は基経を中心に政が行われた。

寛平三年(891)正月、初代関白藤原基経死去。基経の後は嫡男時平が継いだが、いまだ若年にて、ここにようやく宇多天皇の親政が始まる。時平は若干二十一歳で参議になったばかり。一方、菅原道真に期待を寄せた宇多天皇は、基経亡き後、道真を讃岐国より呼び戻された。道真は四十七歳で蔵人頭に抜擢される。むろん藤原氏抑制のためである。ここから道真は飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進する。蔵人頭就任から二年後に参議となり、二年後に時平と並び従三位中納言となり、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進した。そしてさらに二年後の昌泰二年(899)、成長した藤原時平左大臣に就任し、宇多天皇と時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた菅原道真が右大臣に昇進、廟堂の頂点に立ったのである。こうすることで宇多天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされた。結果、このあと四十年間も摂関が置かれていないので、宇多天皇の目的はひとまず達成されたといえよう。権門藤原氏以外の人間、いわゆる寒門である道真が右大臣に就任するのは極めて異例であったが、この先の話しは次回記そう。

宇多天皇は意気盛んであられた。もともと英明であられたが、菅原道真藤原保則らすぐれた文人派官人を積極登用し、廟堂に新風を吹き込まれたのである。基経が敷こうとした摂関政治のレールはここでいったん途切れかけることになる。それほどに宇多天皇の活力と政治力は大きくなっていた。子女も多く設けられ、後に臣籍降下され源氏姓を賜り彼らは「宇多源氏」と称された。宇多天皇は在位中に綱紀粛正、民政に努められ、文運を興された。その治世は「寛平の治」と呼ばれる。

天皇は深く仏教に帰依されて、厚く真言密教を敬われていた。それは父帝光孝天皇の影響でもあった。「仁和の帝」と呼ばれた父帝は、仁和二年に当時小松と呼ばれていた御室の地に伽藍建立の勅命を下された。が、翌年崩御されたため、宇多天皇がこの伽藍造営を見届けることになった。仁和四年(888)八月、落慶供養が行われ、仁和寺と称される。以来、仁和寺宇多天皇の後半生において、重要な場所となる。仁和寺とはまことに柔らかな響きであり、王朝の雅を感じさせる。京都には門跡寺院が多くあるが、仁和寺はその筆頭として高い寺格を誇ってきた。私も仁和寺が好きで、何度も訪ねている。広い境内はいつ行ってものびのびとした開放感に包まれるが、柔和な気品が随所に鏤められているのは、千年の昔から少し変わってはいないと思う。

ここで宇多天皇は「もう政治に口出ししない」と仰せになり、十三歳の東宮敦仁親王に譲位され出家、仁和寺に入られた。そして上皇ではなく法皇と敬称される。法皇となった天皇宇多天皇が初例である。この後実に三十五年、宇多法皇仁和寺に住されながら、煩わしい政務から逃れて、空海東密を究められ、真言密教の発展に尽くされた。そして和歌や文学に親しまれた。法皇の住された僧坊は「御室御所」と称される。三十一歳の宇多天皇がなぜ突然出家されたのかはいまいち明らかではないが、嵯峨天皇大覚寺に嵯峨御所を営まれた顰に倣い、表向きは隠居とみせながらも、あくまで政治も文化もその中心のサロンは御室に置き、権謀渦巻く廟堂の中枢を離れたほうが、何かとやりやすかったのではないかと思う。事実、政治に口を出さないと言われながらも、譲位された醍醐天皇を補佐し、知識人を御室御所に招いて議論したり、歌会を催された。この頃、御室仁和寺は政治、宗教、文化の中心であった。

 

茶の湯憂患

私は茶の湯の稽古を始めて五年目になる。不器用で飽きっぽい私が、曲がりなりにも五年続いた。それは茶の湯の大いなる魅力に取り憑かれ、茶道という伝統の道の灯を学ぶことに喜びを感じ、その灯を微力ながらも支えていきたいと云う気持ちに駆られたからである。そして尊敬できる師と、良き同志となる茶友に出逢えたこと。これが何よりも大きい。茶道の型を身につけて、頭で考えずとも、手が自然に動く。このところ濃茶手前の稽古をよくつけてもらうようになって、ようやく型と云うものが私も頭ではなく、我が身に沁みてきたところであった。その矢先に、新型コロナウィルスが蔓延して、やむなく茶の湯の稽古は中断された。世界中を震撼させる見えないウィルスに対して、人類は慄いている。有効な治療薬やワクチン開発に懸命に取り組んでいる方々や、自らも危険に晒されながらも、最前線にて患者を受け入れてくださる医療機関と関係者の方々には敬服するばかりであり、無力な自分と自粛してさほどの時間はたっていないのに、こんな体たらくの我が身を恥ずかしくも思う。

しかしコロナ以前、茶の湯は白秋期に入りつつある私の人生においてなくてはならない、何よりも大切なものであった。きっと誰しもそうしたものがあるであろう。茶の湯の世界に少しずつ足を踏み入れてゆくに連れて、私は茶の湯の虜になった。五年目となるこの節目の年に私は自らが亭主となり、先生を御招きしてささやかな茶会を催すつもりであったが、残念極まりない。

今「コロナ禍」としきりにいわれる。禍とはワザワイと読み、災いのことであるが、この禍が続く限り茶道界も大変な危機である。茶の湯は人と人が密接に触れ合う。亭主は一服の茶で客をもてなすために、思考を凝らし、自然な形、詫びた風情、静寂な雰囲気を演出するために腐心する。これを心尽くしと云う。もてなしを受ける客もまた全身で亭主の心尽くしを汲み取り感じるべく、五感を研ぎ澄ます。その日その時その人との茶事茶会はただ一度きり。亭主と客がその座を創りあげる。これを一座建立と云うが、これが茶の湯なのである。さらに一期一会とはまことに真なる意で、茶の極意はこの一語に尽きると思う。

余談であるが、疫病の封じ手として密閉、密集、密室の三密回避が喧伝されているが、密教にも”三密”と云う言葉がある。人間の生命現象は身体、言葉、心という三つのはたらきで成り立つとされる。ちなみに顕教では、これら三つは煩悩にて穢れているとされ”三業”と云う。密教では大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象のすべてが大日如来の現れとす。よって人間の三つのはたらきも本質的には大日如来と同じであるが、大日如来のはたらきは人間には計り知れないため、”密かなるもの”という意味で「三密」と云う。また仏と自己の三密を合致させ、仏と一体になる行を「三密加持」と云う。手に印を結ぶ「身密」、口に真言を唱える「口密」、そして心を仏の境地に置く「意密」の三行である。弘法大師は、この行で授かる功徳と大日如来の加護の力が互いに呼応する時、即身成仏が成ると説いた。

茶の湯は蜜である。茶室は密室であり、亭主と客、客同士は狭い空間に密集する。茶の湯のメインたる濃茶は、亭主が心を込めて練り上げた一碗を客一同が廻し飲みする。茶の湯の真髄は濃茶であって、濃茶でもてなすべく茶事は進行される。茶の湯のもてなしは密接なくしてありえない。コロナ以後、茶道界はかつてない危機であると私は思っている。茶道各流派は江戸期、大名家や武家の茶道師範として仕えた。私の習う表千家は、代々紀州徳川家の茶頭を務めていた。京都のお家元の表門は、紀州十代藩主徳川治宝が御成の際に紀州家によって建てられた。しかし明治維新で武士がいなくなった時、表千家も他流も茶道は一時風前の灯となった。しかし、公家や武家の上流階級や豪商の嗜みであった茶の湯は、広く庶民にも門戸を開き、習い事として普及してゆくことになる。それを支えたのは、明治維新の元勲や新しい財界人たちでもあった。昭和の戦争時代は自粛となり再び灯が消えかけたのだが、戦後、女子の花嫁修行のひとつとして茶道は人気となり、茶道界はかつてない活況を呈した。昭和後期には茶道人口も過去最高となった。

こうして幾多の難を乗り越えてきたのは、茶道界に限ったことではない。それぞれが創意工夫を凝らし、その道に関わり、愛好するすべての人々が一丸となって困難に立ち向かい、超克してきたからこそ遺り、発展したのである。茶道界は今、三度の危機である。まことに僭越かつ微力ではあるけれども、茶の湯文化が廃れてゆくことがないように、お家元をお支えし、これからも師についてゆき、同志と共に稽古に励む所存である。また、茶の湯が世の人々に理解され、再び受け入れられ、日本の大事な伝統文化の一端として、決して廃れることがないように、奮励努力したい。五百年近くもある日本の茶の湯は、そう簡単に廃れはしないし、まして若輩の私ごときに出来うることなど限られてはいるが、これを超越した先に、『私の茶の湯』があるものと信じている。

皇位継承一応天門炎上一

日本人は貴種流離譚が大好きである。貴種流離譚折口信夫が提唱したが、大まかな概念は高貴な身分に生まれながらも時勢が味方せずに虚しく下野したり、敵の陰謀に嵌り低い身分となったりして彷徨い、もがき、その後華々しく復活する物語の事である。源氏物語伊勢物語が代表的な貴種流離譚と云われる。しかし実際は虚無感に堪えかねて憤死する者あり、或いは密かに遁世する者が多かった。こうした人物には「世が世であれば」と云う、余人には計り知れない苦痛が生涯付き纏ったに違いない。実在で代表的な人物を挙げれば、皇族では大友皇子大津皇子淳仁天皇崇徳天皇後醍醐天皇とその皇子たち、後南朝の自天王、臣下では源義朝とその子ら頼朝、木曾義仲義経、思えば源氏は皆貴種流離譚を字でゆく。少し下り足利尊氏の長男に生まれながらも、不遇を囲い続けた足利直冬もまた然り。文徳天皇の第一皇子惟喬親王もそうしたお一人である。

まことに悲運な生涯を送られた惟喬親王についてはぜひとも触れておきたい。文徳天皇の後継は藤原氏の策謀によって、第四皇子の惟仁親王が皇太子に立てられた。文徳天皇は惟喬親王立太子を望まれていたが、権勢をゆるぎないものにしつつあった藤原良房は、自分の娘明子の生んだ惟仁親王立太子を強引に推し進めた。惟喬親王は紀名虎の娘静子を母に持つが、もう藤原氏の勢力にはとうてい勝てない。誰が皇位継承するかは、臣下を巻き込んで様々な経緯があるのだが、結局は藤原氏に屈服したのである。惟喬親王は十四歳で元服されると、大宰権師に任命され、その後も大宰師、常陸や上野の太守と遠隔地へ追いやられてしまった。貞観十四年(872)、親王は病と称して二十八歳で出家されたが、事実は世に無常を感じられたに他ならない。それから五十四歳で薨去されるまで、流転の日々であった。叡山の麓、山崎の水無瀬、大原など方々に惟喬親王の放浪の足跡が伝承されている。墓所は京都から大原に行く途中の山中にひっそりとあり、地元の人以外にはあまり知られてはいない。一方で木地師と呼ばれる木工を生業とする人々から、惟喬親王は代々崇拝の対象とされてきた。それを色濃く残しているのが近江の小椋谷で、親王は遁世後すぐにこのあたりに籠居され、高松の御所と呼ばれるつつましい屋敷に住されたと云う。大木の多いこの土地に暮らす人々に、器の木地を作ることを推奨されて、自らろくろを引かれ教えられた。これが木地師の起源とも云われる。白洲正子氏の随筆『かくれ里』の「木地師の村」という章に詳しく書かれている。白洲氏が聞いた村の言い伝えによれば、親王薨去されるまでの十九年間この地に住み、薨去された後、村人たちは君が畑と云うところに親王を祀る社を建てた。そこは今も残る太皇木地祖神社で、入り口には「日本国中木地屋之御氏神」と彫られた石標が建っていると云う。後に日本中に分散していった木地師の総本山とも云えるこの場所に、参拝する木地師たちは、「只今帰ってきました」と言うとか。白洲氏によれば、惟喬親王の伝承は大原から花折峠を越え朽木谷、そこから湖北を経て伊吹山を越え、小椋谷を含めて鈴鹿山中の方々にあると云う。これが流転の惟喬親王の生きられた証拠であり、その最期の地は大原とも小椋谷とも云われるが、どの土地でも崇拝されている。よほど魅力的な人物であり、英明かつ民とも分け隔てなく親しく付き合われたお人柄と推察できる。親王御自身もそうなさらなければ、立つ瀬がなかったに違いない。惟喬親王が生きた時代が藤原摂関時代ではなければ、或いは偉大な帝王となられたかも知れない。人を惹きつけて、導かれることに長けておられたことが、藤原氏を警戒させたのであろう。私もいつか惟喬親王と云う無冠の帝の足跡をくまなく歩いてみたいと思う。

閑話休題

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。和田秀松氏の『官職要解』に詳しい。以下、少し長いが引用する。

~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである。~

天安二年(858)、文徳天皇は三十二歳の若さで崩御された。兄に代わって皇太子となっていた惟仁親王が御年わずか九歳で第五十六代清和天皇として即位される。これまで桓武天皇以来、平安時代に入ってから即位された天皇の平均年齢が三十三歳で、歴代でも二十代半ばから三十代での即位がほとんど、一番若年が十五歳で即位された奈良朝の文武天皇であるから、清和天皇がいかに破格の若さであったか。以降、摂関が力をつけるに連れて、幼帝は大きな意味を持ってくるのである。つまりは外祖父として後見し、天皇に代わって政を行うためには、自ら思考し政を実行をできない幼帝を奉じるのがもっとも容易であり、周囲も屈服せざるを得ない状況なのである。かくして藤原良房は摂政となった。それでもまだこの段階では、良房と藤原氏による政治は磐石なものではなかった。しかしそれをさらに進める事件が起こる。

貞観八年(866)閏三月十日晩春の夜、平安宮朝堂院の正門、応天門が不審火により炎上した。朝堂院は大内裏の正庁で、平安時代からは中国に倣い八省院とも云われた。宮中でもっとも格式が高く、重要な施設である。天皇玉座である高御座が据えられた大極殿を中心に、天皇が早朝に政務を執った朝堂、臣下の待機所兼事務所であった朝集殿があった。唐の官僚機構に倣い設けられた八省とは、左弁官局右弁官局に分かれ、左弁官局中務省式部省治部省民部省の四省を、右弁官局兵部省刑部省、大蔵省、宮内省の四省を管轄した。各省をざっと浚うと、中務省天皇に侍従し、詔勅の作成や宣旨、伝奏、宮中の事務を統括し、戸籍を管理した。今の総務省宮内庁が一つになったような機関である。内部局として図書寮や陰陽寮もある。式部省は、文官の人事、朝議と学校を掌る。後に文部省と云われた時代もあり、今の文科省の前身とも云える。治部省は外交事務、雅楽、葬事をしきり、寺社を掌った。民部省は租税、財政、戸籍、田畑を掌る。兵部省は軍事全般と武官の人事を掌る。刑部省は司法を掌る。大蔵省は財宝、出納、物価などを掌る。宮内省は宮中の衣食住、財物を管理し、祭祀や諸事を統括した。八省院とはこれら官僚機構の集まる場所で、今の霞ヶ関官庁街のようなところである。現代に通ずる日本の官僚機構の原型が、この時代ほぼ出来上がっていたのである。平安時代、八省院には東西に多くの殿舎が建てられ、大臣ら公卿や官吏が執務をとっていた。その正門が応天門であった。平安神宮には立派な応天門が復元されているが、あれでも実際の応天門を縮小したものとかで、この門がいかに平安宮にとっていかに重要な門であったかが知れる。

紅蓮の炎は一瞬にして応天門と左右の楼閣を灰燼にした。出光美術館に蔵されている国宝『伴大納言絵巻』には、この事件のあらましが炎上から後日譚まで詳細に描かれている。この火事を巡り、当時の政権ナンバー4の大納言伴善男は対立していた政権ナンバー2の左大臣源信の仕業であるとして追放しようとした。伴氏はもとは大伴氏と称し、古来より名門の一族であった。大伴の姓が淳和天皇の諱の大伴と重なるのを憚り、大伴氏から伴氏に改めたのである。一方、放火犯に仕立て上げられた源信嵯峨天皇の皇子で、源の姓を賜り臣籍降下した嵯峨源氏のひとりである。当初この事件は政権ナンバー3の右大臣で良房の弟の藤原良相が処理に当たった。良相と善男は政権ナンバー1の良房に諮らずに源信を逮捕しようとした。しかしここで待ったをかけた人物がいた。何おう藤原良房である。良相は、良房の養子であり後継者の藤原基経源信の捕縛を要請するが、基経は良房は承知しているのかと問いただす。良相が否定すると、かかる重大事を良房の了解無しで運ぶことはできないと断り、基経は良房にその経緯を報告した。ただちに良房は「左大臣は陛下にとって大いに功ある人物であり、これを誅するならば、まず先に私が罪に服します」と清和天皇に訴えた。良房の奏上に驚いた天皇は訴えを退けて、源信は逮捕を免れたのである。窮地に立たされたのは良相で、独断で兵を差し向けた責めを負わされ、政権ナンバー3の座から転落してしまう。良相は娘の多美子が清和天皇の女御になり寵愛を受けていたため、着々と勢力を拡大しつつあった。これには兄でありながらも政権ナンバー1の良房が警戒しないはずはない。犯人扱いされた源信嵯峨源氏であるプライドもあいまって、屈辱のあまり籠居し、朝廷に出仕しなくなる。さらに、源信が放火したと訴えた伴善男が今度は真犯人であるとの目撃証言が出てきて、ついに善男は捕縛され、後に伊豆へ流罪となる。政権のトップ4のうちナンバー1以外はすべていなくなり、若い清和天皇が頼りとするのは、良房しかいなくなったのである。

そしてこの年の八月十九日、ついに清和天皇は良房に「天下の政を摂行せよ」との勅命を下す。ここに臣下として日本史上初めての摂政が誕生した。もう政界に良房のライバルは存在しなかった。果たして応天門の変の真犯人は誰なのか。結果的に一番利益を得た者は、藤原良房なのである。これはやはり彼の陰謀にあらずや。直接手を下してはいないが、藤原氏お得意の権謀術数の限りを尽くし、ライバルを排斥してゆく。良房はこの事件を上手に利用して、自らに有利な展開へと誘導していったのである。彼がこの事件の解決をみないうちに摂政となったことからも、応天門の変藤原氏の陰謀であった可能性が高い。良房以降、摂政は、養子の基経に引き継がれて、やがて令外の官として制度化し、藤原北家に継承されてゆくのである。そして幼帝が成長されて、成人となられると、摂政から関白となって、引き続き政務を取り仕切った。関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。『官職要解』には~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~とある。この関白に最初に就任したのが、藤原基経なのであるが、それはまた次回記すことにしよう。

清和天皇は二十七歳で譲位され、陽成天皇がこれまた九歳で即位された。基経は良房に倣ったわけだが、清和天皇にしても、幼い頃より当たり前のようにいた摂政という存在を、成人してもなお頼りとされたに違いない。もっとも基経とて、「政と云う邪推を孕んだ雑事は我ら臣下にお任せください」などと天皇に吹聴していたかもしれない。余談であり、これもまたいずれ触れるだろうが、清和天皇の十人の皇子のうち四人と、さらにその孫のうち十二人が賜姓降下し源氏を名乗り、清和源氏が誕生した。このうち代々続いてゆくのが、第六皇子貞純親王の子で源経基から始まる流れで、武家の棟梁たる清和源氏の起源と云われる。平安末に武士が台頭するが、その一方の旗頭である源氏の嫡流である。平家を滅ぼして鎌倉幕府を開く源頼朝がそうであり、室町幕府を開く足利尊氏清和源氏の末裔である。

 応天門の変の年、基経は上席七人を飛び越えて中納言となり、二年後大納言を経て右大臣になる。その一週間後に養父良房が亡くなるが、ここまでのスピード出世は良房の影響力の大きさを示している。この時、上席の左大臣には源融がいたが、政権を掌握したのは基経であった。光源氏のモデルとも云われる源融も、嵯峨天皇の皇子で賜姓皇族であり、嵯峨源氏融流の祖である。源融は平安王朝随一の風流人として名高い。彼の六条河原の邸宅はその趣味と粋を集めた屋敷であった。河原院とも河原大臣とも称されるほど、当時の平安京において彼とその邸宅は有名であった。今ある東本願寺渉成園がその跡地である。また嵯峨にあった別荘の跡地に建立されたのが現在の清凉寺で、宇治の別荘が後に平等院になった。いずれも四季を愛で、風流を極めた融の面影は、清凉寺にも平等院にも色濃く残っており、彼の人となりが知れる。能の『融』は、彼を題材とした物語。 都へやってきた諸国一見の僧がある夜、六条河原院の邸宅跡を訪れる。そこに桶を携えた潮汲みの翁が姿を見せる。 海辺でもないのになぜ潮汲みを、といぶかる僧に翁は、此処は亡き融大臣の邸宅河原院の跡であると言い、生前の融が奥州塩竃の光景を再現しようと、難波の浦からわざわざ海水を運ばせ、庭で潮汲み、塩を焼かせていた故事を語る。しかし融の死後は跡を継ぐ人もなく、邸宅も荒れ果ててしまったといい、翁は昔を偲んで涙を流す。後でその翁は融の化身であるとわかり、僧が再び河原院を訪れると、融大臣が貴人の姿で現れて、昔を偲び月下で舞をまって、夜明けと共に消えてゆく。風流人源融の耽美的な生活を現出するのみの能であるが、どこか儚く、物寂しい幽玄さを湛えている。藤原氏の専横を許し、後の世までその栄華を決定的にしたその瞬間にいた源融の忸怩たる思いと云うものを、作者の世阿弥はさすがによく心得ていると思う。

ほとけのみち 建長寺

春先、花所望の茶会へ参席するべく数年ぶりに鎌倉を訪ねた。東京から鎌倉は近い。以前はよく歩いたものだ。江ノ島近くの片瀬に住んでいたこともあり、当時は毎週末鎌倉の寺社巡りをした。近頃は関西にばかり脚が向いて鎌倉は素通りであったが、歩いてみればやはり良い。山海が密接した鎌倉はいかにも堅固な要害で、樹々と潮騒の入り混じる鎌倉独特の匂いがする。三方を山に囲まれ、前面には相模湾を望むこの地形が、鎌倉から歴史を完全に放出させずに済んでいる。地形は実は歴史と云うものとかなり深く結びついていて、例えば関ヶ原などは古代と近世の二度、天下分け目の大戦があったことは、あそこが交通の要衝であったと云うだけの理由ではあるまい。関ヶ原の地形と風土がそういう場所に仕立てたのである。京都があの狭い盆地で千年ものあいだ都であったのも四神相応の鉄壁の布陣であったがゆえに違いない。

鎌倉五山一位の巨福呂山建長興国禅寺は、鎌倉でもっとも大きい堂宇が甍を並べている。関東でも屈指の壮大な寺で、総門、山門、仏殿、法堂、方丈が一直線に配された伽藍を歩いていると、ズドンと胸を貫かれた心地になる。 この寺の境内を歩けば、禅道とは如何なるものか、凡俗の中で悟ることが如何に厳しく困難であるか、おぼろげに伝わわってくる。禅の悟りとは掴みどころなどない壮大な宇宙で、無碍の境地への到達は生涯なく、それはひたすら禅道に打ち込み、己の仏道に励むことが或いは無碍の境地なのかも知れない。臨済禅は、中国唐の時代末の宗祖臨済義玄に始まる。日本には宋の時代に渡った栄西によってもたらされ、鎌倉新仏教の一翼を担った。一翼と云うよりも一時は鎌倉仏教の中心が臨済禅であった。為政者たる北条氏が厚く帰依したからである。臨済宗の教えは、師から弟子への悟りの伝達を重じる。いわゆる公案と云うものだ。同じ禅宗曹洞宗が地方豪族や民衆に広まったのに対して、臨済宗は朝廷や武家政権に支持された。戦国時代に一時衰退しかけたが、徳川時代に明より来日した白隠によって日本の臨済宗は再興された。以降臨済宗白隠禅とも云われている。

北条時頼は十九歳の若さで鎌倉幕府五代執権となるが、北条幕府の転覆を謀る相次ぐ謀略事件の取締りや、三浦氏一族の反乱に忙殺され、なんとかこれを鎮圧し権力を掌握するも心身疲弊していた。この時頼りとしたのが当時永平寺建立の寄進を波多野義重らから受けるべく鎌倉を訪れていた道元であった。接見した時頼もまた道元の教化に感銘を受けて、自ら建立する寺院の開山に迎えようとしたが、権力と距離を置きたい道元にはにべもなく断られてしまう。時頼はがっかりしたが、次に出会ったのが、南宋からの渡来僧である蘭渓道隆であった。蘭渓道隆は宋の純なる臨済禅の伝播に努めて、次第に慕う弟子が増えていった。時頼もまたその一人で、京に滞在していた道隆を鎌倉に招いて留め置き、いつしか師と仰ぐようになる。道隆も鎌倉こそが自分が布教を根差す場所と確信したに違いない。こうして蘭渓道隆は大船の常楽寺に入った。

かつて建長寺のあたりは地獄谷(じごくがやつ)と呼ばれた処刑場で、死者を葬る場所でもあった。その霊を弔うために古くから地蔵堂があった。そして建長元年には心平寺と云う寺が建立され地蔵堂も残された。時頼はこの心平寺を蘭渓道隆に与えて、建長五年(1253)に建長寺と改め、道隆を開山とした。ゆえに禅寺としては珍しく地蔵菩薩が本尊となったのである。余談だが、心平寺の地蔵堂は横浜の三渓園に移築保存されている。 仏殿に安置されている本尊は丈六の地蔵菩薩坐像で、あまりの大きさに圧倒されるが、よく見ればその表情は地蔵らしいわらべのような面差し。創建当初の仏殿は焼失し、今在るのは正保四年(1647)に江戸の増上寺より移築されたものだ。この建築は寛永五年(1628)に建立された崇源院の霊廟である。崇源院徳川秀忠正室で、家光の生母、浅井三姉妹の三女お江の方である。仏殿の天井や壁面には桃山文化の名残をみせる江戸初期の華麗な装飾が施されている。今は経年剥落してはいるが当時の壮観は充分に偲ばれる。

国宝の梵鐘も大きい。高さ二メートルの鐘は時頼の発願で、当時鎌倉大仏を鋳造に成功した鋳物師の物部重光が鋳造したもの。創建当時の数少ない遺構で、大きさは円覚寺の鐘にわずかに及ばないが、藤原様式伝えながらも鎌倉仏教の新しい息吹を感じさせる。円覚寺常楽寺の鐘と併せて鎌倉三名鐘と称されている。

仏殿のすぐ後方に法堂。禅宗では住持がほとけに代わって説法する講堂を法堂と呼ぶ。鎌倉五山で法堂が現存するのは建長寺だけである。関東屈指の大きな堂宇の中央には千手観音が祀られ、天井にはこれも禅堂お決まりの雲龍図。禅宗寺院で法堂の天井に水神である龍を描くのは、この下で修行する雲水に法{教え)の雨を降らすと云う意味が込められているのだとか。我が国最初の本格的な禅宗寺院として発足したのが建長寺である。確かに鎌倉五山第三位の寿福寺こそが日本最初の禅寺とも云えよう。宋より帰国して寿福寺を開山した栄西が最初に臨済禅をもたらしたからだ。ところが寿福寺や京都最古の禅院建仁寺は創建こそ建長寺より早いが、元は天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。寿福寺の創建から半世紀後、坂東武士の心と蘭渓道隆の理想がひとつに結実して建長寺が創建されたのである。ここに純粋な禅の新しい時代が開かれていった。満を持して日本の禅宗がスタートしたのが建長寺であった。蘭渓道隆は大覚禅師と称されて、宋の厳格な禅風を取り入れ、建長寺は往時千人以上の修行僧が起居し、道隆の教えに導かれた。

今も山内では雲水たちがその法灯を守り、日夜厳しい修行が続けられている。基本的に自給自足の修行道場。雲水はまだ払暁前の午前三時に起床する。朝課と呼ばれる読経と坐禅、朝食の粥座(しゅくざ)、山内を掃き清める日典掃除(にってんそうじ)と続き、世間一般の朝が始まる午前七時過ぎには托鉢に出かけてゆく。托鉢から戻れば作務や寺務作業、或いは個々に課した行などで午後九時の消灯まで休む暇はない。消灯後も、夜坐(やざ)と呼ばれる屋外での坐禅を自主的に行う。雲水の一日が終わるのは時に午前一時前後になることもあると云う。平均睡眠時間が三時間と云うから驚きだが、常人には到底成せない境域に達すると、こうしたことができるようになるのであろうか。ちなみに建長寺の台所典座(てんぞ)が発祥とされるのが精進汁の建長汁である。建長汁は普茶料理が起源と云う。昔、建長寺の修行僧が、豆腐を運んでいて誤って落としてしまい、豆腐はくずれてしまった。それを見ていた老師はくずれた豆腐を洗って鍋に入れ、咎めなかったと云う。これが建長汁のはじまりで、けんちょう汁とかケンチャン汁と呼ばれていたのが、やがて「けんちん汁」となったとか。 門前の点心庵では建長寺直伝の建長汁をいただける。 味は薄いが滋味深くとても美味しかった。

五山制度は臨済宗の格式を示すために宋国に倣い設けられた。日本では鎌倉幕府建長寺を五山第一としたが、それ以外はまだ曖昧であった。鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇建武政府が、鎌倉を中心とした五山を京都中心に改めて、南禅寺を第一とし、以下東福寺建仁寺建長寺円覚寺と定めた。つまり当時の五山は京都と鎌倉混在であった。建武政府が未だ東国と鎌倉を完全に掌握できていなかった証拠でもある。事実、倒したはずの北条氏の残党が、東国の各地であげた狼煙が常に燻り続けていた。後醍醐天皇はその牽制と討伐に北畠顕家を差し向けるも抑えきれなかった。鎌倉には足利尊氏の世子千寿王(のちの足利義詮)がいて、尊氏の命で弟の足利直義がこれを補佐していた。北条氏の残党は鎌倉奪還のために攻めてきた。足利軍は敗れ、千寿王と直義は命からがら鎌倉を脱出している。後醍醐天皇から鎌倉出陣を堅く止められていた足利尊氏は、しばらく我慢していたが、高師直らの進言により出陣を決意。千寿王と直義を救出した。その後は後醍醐天皇と仲違いしてしまい、ついには南北朝時代が始まるのであるが、五山もここでまた変わってくる。室町幕府を開いた尊氏は直義に寺院統制を任せた。直義は五山第一を建長寺南禅寺、第二を円覚寺天龍寺、第三に寿福寺、第四に建仁寺、第五に東福寺、准五山に浄妙寺と定めた。これより五山は数ではなく寺格になる。その後も五山の順位は度々変わったが、これを確立し、今に継承された五山を整備したのが、室町幕府を満開に花開かせ、自らも日本史上最高ともいえる権勢を手にした三代将軍足利義満である。義満は南禅寺を「五山の上」に置き、京都五山天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺鎌倉五山建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺と定めた。自ら開基となった相国寺を五山に組み込むための強引な策であるが、朝廷さえ傘下にし、自ら日本国王と称した義満にしかできなかったことであろう。鎌倉にはかつては尼五山も存在したが、今は第二位の東慶寺が残るのみで、第一位の太平寺以下四ヶ寺は廃寺となった。五山の僧侶は漢詩文をよく学び、日本の漢文学の黄金期を築いた。詩文のほかに、日記、紀行文、随筆など多彩で、五山文学として確立された。 

関東には臨済宗建長寺派の末寺が多く、お膝元の神奈川県や東京の多摩地区には特に多い。その大本山建長寺は縦に長く深い寺である。創建時に中国五山第一位の万寿寺を手本にされ、今よりもっと巨大な伽藍であったそうだ。今でもたいへん掴みどころのない巨刹である。禅宗寺院の魅力はこの掴みどころがないところである。禅寺はどこにいっても私を覚醒する。しかしそれとは表裏一体何か空虚さも感じる。七堂伽藍を一直線に配した禅宗特有のレイアウトだけがそうさせるのではない。きっとこの掴みどころのないところが禅なのである。禅寺とは虚空より何かを掴むための修行道場なのだから、余分を排除して然るべきなのである。個性などいらないのだ。私のような愚物に、禅のことなど一語も語る資格もなく、また語る術も知らないが、これだけはわかる。禅の道は厳しく果てしない。境内最奥の山上にある半僧坊からの眺めは格別だった。 西に真っ白な富士を仰ぎ、東には紺碧の空と海。 二月の風はまだ冷たかったが、身も心も研ぎ澄まし、 私は正気を取り戻した。

皇位継承一承和の変一

藤原氏の起源を改めて振り返ってみたい。藤原氏天皇家に次ぐ高貴な一族であるが、その出自はイマイチはっきりしない。日本書紀の神代上にある天の岩屋戸の神話で、天照大御神を岩屋から引っ張り出す策を練る一人に名を連ねて活躍する天児屋命は、中臣氏の祖先神であると云う。確かに古代氏族に違いなく、忌部氏とともに神事や祭祀を司り、京都山科の中臣町あたりを本拠とした。しかしこのあと鎌足の登場まで中臣氏の活躍はない。ことに蘇我氏天皇を凌ぐほどの権勢にて幅を利かせている当時、中臣氏は鳴りを潜めているが、いよいよ崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が始まると、代々神官司祭としての家である中臣氏は物部氏と共闘するようになった。そしてついに天智天皇の決起に中臣鎌足がつき従い乙巳の変を経て、大化の改新を成し遂げたことで、後に続く権門の礎ができた。しかし権門となるのは鎌足の子孫のみで、鎌足の死に際し、天智天皇は藤原の姓を賜ったのである。鎌足の子孫以外の中臣氏は引き続き中臣氏を名乗り、神祇官となったり、伊勢神宮の神官を務めている。わかりきったことであるが、改めて申せば藤原氏の始祖はまさしく鎌足であることはゆるぎない。鎌足以来、藤原氏天皇家にずっとくっついてきたのである。よく言えば忠孝の臣として天皇を守護し、悪く言えば傀儡師の如く天皇を操って癒着した。

さて平安時代初頭に話しを戻そう。嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位され、淳和天皇嵯峨天皇の第二皇子の正良親王に譲位された。仁明天皇である。すでに述べたことだが、嵯峨天皇は父帝に倣い専制君主となられたが、淳和天皇は兄帝の隠然たる影響力を無視することはできずに、窮屈な思いをされたであろう。院政とは平安末期に白河院より始まるのだが、すでに奈良朝の持統上皇あたりからその萌芽がみられ、嵯峨上皇には大いにその兆しが垣間見える。嵯峨上皇天皇家の長として三十年も君臨し、平安京平安時代の礎を完成した。政治は安定し皇位継承のトラブルも起きなかった。歴代天皇の御心を痛めてきた皇位の安泰、この皇室の平安こそが思わぬ歪みを生んでゆくのである。逆に言えば、皇位継承の争いが激化すればするほどに、それを勝ち得た天皇の力と権威は増すわけで、泰平であれば神聖なる権威のみが高まってゆくが、為政者としての権力は削がれてゆくものである。藤原氏はその隙を見逃さなかった。

この頃、藤原氏の中でもっとも力をつけていたのが北家である。その長たる藤原良房は嵯峨上皇と壇林皇后の厚い信任を得ていた。これには良房の父である藤原冬嗣の影響がかなり大きい。冬嗣は娘の順子を仁明天皇に嫁がせ、生まれた皇子が後の文徳天皇となる。さらに良房を嵯峨天皇の皇女潔姫と娶わせる。臣下が天皇の娘を娶るなど前代未聞の出来事であったが、これにより勢力拡大を確実にした。薬子の変の直前に嵯峨天皇は尚待の権限を縮小し、代わって蔵人所を設置した。律令制度の規定にない新設の官職を令外官と云う。既存の律令や官制のみにとらわれない機動性重視の特別職ともいえ、江戸幕府でいえば大老のような非常置の職であった。時代を降るごとに増え、次第に権力も常置の官職を凌ぐようになる。摂政、関白、内覧、内大臣中納言、参議、征夷大将軍鎮守府将軍勘解由使検非違使文章博士押領使蔵人所などが令外官で、云わば天皇の私設の機関あるいは天皇家の家政機関と認識されていた。同時に蔵人所天皇と公卿の間を取り持つ役所であり、天皇の秘書官的な役割を果たすことになる。冬嗣はその初代長官である蔵人頭に抜擢された。冬嗣は北家初代の藤原房前の曾孫で、嵯峨天皇が皇太子時代から仕えており、即位後も後見役の最側近であった。

藤原北家の野望は果てしなく、それを実現するために図った数々の陰謀は凄まじいものがある。権謀術数の限りを尽くした。権謀術数と云う言葉は藤原北家のためにあると言って過言ではない。その中で最たる謀が天皇家と姻戚関係を結ぶことと他氏排斥である。冬嗣からバトンを託された良房は、それを実行に移してゆく。先に述べたとおり良房の妻は嵯峨天皇の皇女潔姫であるが、潔姫は臣籍降下した賜姓源氏の一人であった。当時廟堂は藤原氏より嵯峨源氏の勢力の方が大きかった。冬嗣はこれにも目を付けて、最大勢力である嵯峨源氏と姻戚関係を結んだ。これにより藤原北家の権勢は磐石への道を確実に進める。が、以前として嵯峨上皇は隠然たる影響力を保持していた。そもそもこの時点で嵯峨上皇仁明天皇の次は、弟の淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としている。恒貞親王藤原北家と姻戚関係はない。ゆえに良房としては妹の順子が生んだ道康親王皇位を継承することを望んでいた。しかしどういう意図なのか私にはわからないが、嵯峨上皇は良房に信頼を寄せつつも、破竹の勢いで権力の階段を駆け上がってくる藤原北家に対して、恐れと嫌悪を持ち始めていたのかもしれない。次第に良房との間にもすきま風が吹くようになっていたが、その矢先、さしもの大家父長嵯峨上皇は五十七歳で崩御された。承和九年(842)のことである。

上皇崩御のわずか二日後、事件が起こる。伴健岑橘逸勢らが皇太子恒貞親王を奉じて東国に赴き、謀反を企てていると捕縛されたのである。伴健岑恒貞親王の警固役を務めており、親王もあらぬ嫌疑をかけられ廃太子と相成った。この事件が承和の変である。承和の変こそが藤原氏による最初の他氏排斥である。当時、良房の叔父の藤原愛発が大納言の地位にあったが、愛発は娘を恒貞親王に嫁がせていたため、承和の変により失脚を余儀なくされた。代わって良房が中納言から大納言に昇進。結果、良房の目論見どおり道康親王皇位を継承されて文徳天皇となられたのである。良房は外戚として大きな力を得た。承和の変では恒貞親王廃太子、同じ北家の叔父藤原愛発は解官されて京外追放、伴健康は隠岐へ、橘逸勢は伊豆へと流れされ、関係者六十人余りが厳しい処罰を受けている。良房はこれより先、自らの血筋以外を廟堂より排除することに執心する。名族の伴氏や橘氏を追いやり、同族の競争相手をも退ける執念はまさに凄まじい。良房は道康親王に自分の娘明子を嫁がせた。その間に惟仁親王が生まれる。文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのだが、良房はわずか生後八ヶ月の惟仁親王を皇太子に立てたのである。文徳天皇の第一皇子惟喬親王はまさに帝王に相応しい資質を備えておられたが、あえなく皇位継承のレースから外されて、失意の日々を過ごすことになるのだが、惟喬親王にまつわる多くの興味あるエピソードについては次回記すことにする。

良房はこの時右大臣。そのあと左大臣を経ずに、天安元年(875)、従一位太政大臣に昇進する。従一位平安時代になってから初めてのことで、太政大臣も臣下ではこれまで恵美押勝道鏡以外に例はなく、この二人は失脚しているため、位人臣を極めた最初の臣下が藤原良房であると云ってよいであろう。翌天安二年(876)、文徳天皇が三十二歳で崩御。惟仁親王は九歳で即位され清和天皇となられた。むろん後見役には外祖父である良房が就き、政治の実権を掌握した。事実上の摂政であった。摂政とは「天下の政を摂行する」者の意で、元来は皇族しか就くことはなかったが、もはや良房のする政に異を唱える者は廟堂には誰もいなくなった。

西国巡礼 第四番 槙尾山

寺名は施福寺と云うが、槇尾山とか槇尾寺とも通称される。西国巡礼屈指の難所で、麓から本堂までは、胸突き八丁の山道を小一時間かけて登らねばならない。槙尾山の標高は六百メートルほどで、施福寺はおよそ五百メートルのところに在る。山としては大した高さではないが、それでも街中の寺からすれば相当な山寺で、一歩参道に入ると深山幽谷の気に包まれており、やはり観音霊場に相応しい場所だ。

京都から巡礼バスに乗って、山麓の駐車場までは連れて行ってくれたので、昔に比べたらそれでも楽なものである。バスを降りるとすぐに登りが始まるが、途中の山門近くまでは舗装された部分も多く、さほど大変ではない。なんだこんなものかとタカを括っていたが、山門の先がまったく違った。山門より奥からが本当の山道の始まりである。ちなみにこの堂々たる山門は豊臣秀頼の寄進だそうで、まわりには楓が多い。紅葉には少し早くて盛りの頃はさぞかしと想ったが、青楓が山門に幾重にも重なるも風情もなかなか良い。参道には至る所に小さな滝があって、滔々たる水音が全山にこだまする。滝の音を伴にして参道を歩くだけで、俗世を離れてゆくと云う気配が次第しだいに濃くなる。身も心も西国巡礼の気分が高まってゆく。それは札所から札所へと「ひたすら無心にゆく」という気分である。この気分は実際に巡礼を始めてみないとわからない。単なる憧れや想像ではぜったいにわからないのだ。巡礼が小利口な綺麗事ではないことが、こうした大変な思いをしてみて初めてわかると思う。

私が行った日は大雨で、泥濘の参道は歩き難いこと夥しい。昨秋は台風洪水の連続であったが、その直後のこととて、今にしてみればよくまあ何事もなく帰って来れたと思う。観音様に護っていただいたと素直に思った。参道の上りは右手が山、反対の左は沢である。途中、鎖場もあったりして、急な斜面は夜来の雨でかなり地盤が緩んでいるように見える。麓にある茶店のおばさんによれば、先日も巡礼の方が転落し、救急車で運ばれたとか。私も恐るおそる一歩ずつ慎重にゆく。巡礼も命がけであるが、それは俗世を離れる覚悟を問うてる気がしてならない。時にはこうした難所があるのも、気を緩めるな、注意散漫になるなと云う戒めなのだと私は思っている。 雨中ひたすら登り続けて四十分、ようやく頭上が明るくなり、点々と堂宇が見えてきた。 そこからさらに昇ると本堂の大屋根が現れる 。雨と汗とでずぶ濡れになるも感無量であった。 残念ながら山頂からの視界は悪くて何も見えなかったが、 晴れていれば雄大かつ神々しい葛城連峰を裏側から拝めるそうだ。

施福寺欽明天皇勅願寺で、創建は我が国に仏教が伝来して直後と云うから、西国札所では無論、日本でも古寺中の古寺である。寺伝によれば播磨国の行満上人が弥勒菩薩を本尊としたのが始まりで、その後、役行者法華経を葛城の峰々に納めた際、巻尾をこの山に納めたとの伝承より「まきお」の山号となったと云う。往時は千もの坊舎を構えたと云うが、南北朝時代南朝方の拠点のひとつとなり、戦国末期には信長によって焼き討ちに遭うなど、幾度もの戦火で衰退した。が、西国札所であったがゆえにかろうじて残ったのである。山上の堂宇は、信徒や巡礼者の寄進で幕末の安政年間に再建されたもの。古い建築ではなくとも槙尾山中に漂う歴史はまったく褪せてはいない。

今は天台宗の寺だが、弘法大師がこの山で得度剃髪したと云われる。よって槙尾山は大師信仰も篤く、真言密教修験道が深く根差している。参道途中には弘法大師の剃髪所跡に愛染堂が建っており、愛染明王空海像が安置されている。愛染堂から急な石段を少し登ると空海の髪を納めた髪堂がある。若き日の空海は此処で修行しながら、葛城金剛の山野を駆け巡った。後に高野山霊場を開くのもこのあたりの地理に詳しく、峰々の霊験に深く帰依していたからに違いない。入唐から帰朝した空海はすぐに入洛せず、九州大宰府に二年ほど逗留した。そして畿内へ戻ってくるとまず槙尾山に登り、さらに二年ほどしてから上洛している。空海なりの算段があったのであろうが、空海の僧としての原点である此処で、自らの来し方行く末に様々なる思いをめぐらせていたに違いない。空海は静かな此処で思索に耽り、このあとの進むべき道を定めた。後に深く関わる高野山や東寺と比べると、山深くて簡素で、いかにも地味な槙尾山であるが、此処にこそ弘法大師空海という巨人の本心が眠っている気がしてならない。先ほどから槙尾山に漂うただならぬ気と云うものがあること述べているが、それは弘法大師空海の発した気がいまだに充満しているのかもしれない。

納経して本堂に上がらせていただく。内陣の”ほとけさま”は聴きしにまさる傑作ばかり。本尊の弥勒菩薩、西国巡礼本尊の千手観音、文殊菩薩、方違観音、馬頭観音伝教大師像に弘法大師像、堂内ぐるりと枚挙に暇もない大群像である。なかで印象的であったのが五メートルもある巨大な方違観音で、内陣のさらに奥にどっしりと座しておられる。宝冠を戴くそのお姿は小さなお堂に不似合いであるが、それがゆえに圧倒される。「方違」とは陰陽道に基づき方角の吉凶を占う風習で、凶の方角を避けるため、目的地へ赴くのにいったん別の方角へ出て、目的地の方角が悪い方角にならないようにする。方違は平安時代に盛んに行われるようになった。こちらの方違観音は生きる道を良い方向へと導いてくださる観音様だそうで、方違観音を祀るのはここだけだそうである。それにしてもこんな山奥にあれほどの数の美しい仏像群が在ることに、私は驚嘆し感銘を受けた。西国の奥深さを改めて痛感する。此処まで苦労して登ったが、誰しもあのほとけさまを拝めば、疲れは一瞬で癒されるであろう。 馬頭観音も合祀されているため、馬に携わる仕事、とりわけ競馬関係者の信仰も篤いとかで、本堂の桜の下には立派な馬の像が奉納されている。

本堂で先達とご一緒に般若心経と観音経をあげた。去り際に先達は、 「貴方が生まれてきた時、貴方は泣いて、周りの人たちは笑っていたでしょう。だからいつか貴方が死ぬ時は、貴方が笑っていて、周りの人たちが泣いている。そんな人生にしてください。」と言われた。ネイティブ・アメリカンの教えらしいが、私の中に深く残る言葉となった。

御詠歌 深山路や檜原松原わけゆけば槇の尾寺に駒ぞ勇める