弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一安和の変一

承平・天慶の乱が終息し、平安京には平穏な日が戻ってきた。しかしこの争乱が平安貴族に与えた衝撃は大きく、貴族社会の歪みを露呈することになった。今こそ朝廷の立て直しが急務とされた。朱雀天皇を継いだ村上天皇醍醐天皇の第十四皇子で、母君は藤原基経の娘で中宮穏子。朱雀天皇とは同母弟であったため、兄帝の信頼も厚く、皇太子となる前から太宰帥などを歴任し存在感を示されていた。天慶九年(946)四月、譲位により践祚、二十一歳で即位された。即位後しばらくは廟堂を支配していた藤原忠平の牽引に任せておられたが、忠平が没すると、藤原氏の専横を戒めるかのような行動に出られる。周知のとおり平安時代前期は天皇家と諸家vs藤原摂関家の権力闘争、これがパターンであり、主導権争いを繰り返した。軍配は村上天皇の頃までは五分五分であった。

忠平の死去を機に村上天皇は親政を目指された。藤原北家の実頼、師輔兄弟の輔弼を受け、菅原文時らの意見を聴きながら政務をとられた。国司功過や租税確保などの公事を整え、倹約と諸芸文筆が奨励された。天皇御自身も詩歌管弦に優れた文化人であられた。村上天皇は多くの子女を設けられたが、第七皇子の具平親王臣籍降下してその子孫が後に村上源氏の中心を担っていった。親政は形ではうまく運んでいるかに見えたが、徐々に実権は藤原北家に奪われてゆく。実は村上天皇の親政は名ばかりの親政であったとも云われる。それでも御在位十七年間、摂関を置かなかった事実は一定の力を認めなければならない。村上天皇の親政は後に天暦の治と呼ばれ、祖父の宇多天皇の寛平の治、父の醍醐天皇の延喜の治と並び聖代視されたが、これが曲がりなりにも機能した最後の天皇親政であった。ずっと後に、白河天皇後白河天皇が力を有して政をやるが、これは天皇の位を退かれて、院にお成りになってからのことである。

一方の藤原北家は良房、基経、時平、忠平と着実に権門としての道を進み、廟堂を抑えて、公卿のトップに君臨した。忠平の時に、天皇が幼少期には天皇に代わり「万機を摂行」するのが摂政で、天皇元服後に天皇を補佐し、政務に「関り白す」のが関白と云う摂関の使い分けが明確になった。この令外官の最高職を藤原北家が独占する。貴族の中の貴族とは藤原北家のことである。そしてお家芸とも云える他氏排斥を繰り返し、いよいよその地位を盤石たらしめた。忠平を継いだのは嫡男の藤原実頼でこれが左大臣、そして次男師輔が右大臣として実頼を支えた。が、実質は右大臣師輔が政を仕切ったとも云われる。栄花物語には「一くるしきニ」とあり、これは「一の人」すなわち左大臣がその地位にいることが苦しいほど、「ニの人」すなわち右大臣が優れていると云う意味である。風流人だが気難しい兄実頼よりも、弟師輔の方が政治家としても文化人としても、度量の大きな人物であったと云う。師輔は『九暦』と云う日記を残し、『九条年中行事』を著した。また貴族の男子が守るべき日課や生活態度、公卿としての心得を子孫のたみちに家訓として著したのが『九条殿遺戒』である。こうしたことが嫡男実頼より、師輔が藤原北家の中心に据えられてゆくきっかけになった。

村上天皇後宮は華やかであったが、中でも師輔の娘の安子は第二皇子憲平親王、第四皇子為平親王、第五皇子守平親王を産み、他に四人の内親王を産んだ。いかに村上天皇の寵愛を受けていたか知れるが、ここに師輔は大きな期待を抱いたであろう。唯一の気がかりは第一皇子広平親王の存在であった。広平親王藤原南家出身の祐姫で、その父は大納言藤原元方。南家はこの頃には学者貴族になってふるわかなかったが、広平親王が産まれたおかげで、元方は参議から大納言に昇進している。北家に限らず、平安時代を通して外戚と云うものがいかに重んじられたか、この一例からもわかる。祐姫は更衣で、安子は女御であった。後宮での序列は更衣より女御が上である。これが決定打になったのかわからないが、第一皇子の広平親王がいたにもかかわらず、第二皇子の憲平親王が生後わずか三ヶ月で立太子されたのも、師輔の先手によるところ。が、その矢先の天徳五年(960)、桓武天皇以来の内裏が焼失してしまい、同年師輔は他界した。そして五年後に安子が死去、さらに三年後の康保四年(967)五月、村上天皇は四十二歳の若さで崩御された。天皇として崩御され、皇太子憲平親王が十八歳で践祚、即位された。冷泉天皇である。

冷泉天皇は元来が病弱であられた。加えて奇行も多かったと云う説もある。師輔、安子、村上天皇が相次いで亡くなったり、冷泉天皇の狂気は南家の元方の怨霊の仕業であると、『栄花物語』も『大鏡』も後の『平家物語』でも語られてはいるが、いずれも世の人々の付会にすぎまい。この時師輔の子の伊尹、兼通、兼家らはまだ若く、冷泉天皇の大叔父でもある実頼が廟堂のトップに返り咲いて関白となっている。忠平の死去以来関白が絶えて以来十八年ぶりであった。これ以降、藤原北家摂関政治を強固にし、これが連綿と続いてゆく。師輔の子らは北家ことに師輔流の勢力拡大に努めた。冷泉天皇はまったく政に関わることがなく、廟堂の主導権争いは公卿らの間で必然的に激化した。冷泉天皇の次の東宮には同母兄の為平親王ではなく、守平親王が選ばれた。このことが歴史上重大な要素を帯びてくる。安和の変はこのような中で起きる。

廟堂は実頼が関白太政大臣となり、次席の左大臣源高明であった。源高明醍醐天皇の第十皇子で、臣籍降下して源氏性を名乗っていた。英邁であったと云う。二十六歳で参議公卿となり、順調に昇進を重ねて、兄弟である朱雀天皇村上天皇を支えた。実頼や師輔との関係も良好で、藤原北家以外で唯一廟堂にて影響力を高めつつあった。師輔が亡くなった後は高齢の関白実頼ではなく、実質的には高明が政を仕切ろうとした。村上天皇や師輔が亡くなると孤立することもあったが、元来、政治力、経済力も傑出した存在であったのだ。北家の面々、ことに師輔の子らは、廟堂でずっと先をゆく高明の活躍を面白く思わない。加えて高明はこの時点で藤原北家よりも強い外戚関係を天皇家と築いていた。高明は師輔の娘を妻とし、生まれた娘を為平親王に嫁がせていた。為平親王皇位を継ぎ、皇子が産まれて世継ぎとなれば、高明が外祖父になる。藤原北家にすれば他氏が藤原氏以上の外戚関係を持つことは許されないことであった。安和元年(968)、冷泉天皇に入っていた伊尹の娘懐子が第一皇子師貞親王を産んだ。後の花山天皇であるが、北家としては何としてもいずれは師貞親王皇位を継がせたいと画策するのは当然であろう。

翌安和二年(969)の晩春、中務少輔橘繁延や左兵衛尉源連らが東宮守平親王廃太子を企てたと、左馬助源満仲前武蔵介藤原善時らが廟堂に密告、源高明が裏で糸を引いているとされ、高明は六十八年前の菅原道真と同じく太宰府に流された。源高明藤原北家を陥れようとしたと云われたが、この事件の真相は謎である。密告の内容も明確ではなく、企てた者、密告した者も廟堂の中枢ではない者だ。これはやはり陰謀であろう。事実、歴史家の間でも陰謀説は有力で、密謀を企てたのは何おう藤原北家に違いない。実は密告した者は、藤原北家師輔流の従者で、このあとも子々孫々摂関家に仕えている。対して企みを暴露され左遷された連中は、彼らのライバルであった。すなわち源高明を追い落としたい藤原北家が、従者らを使って彼らのライバルに罪を被せた陰謀事件であると云う、この事件の構図が浮かび上がる。関白実頼は七十歳の老齢であり、自らも名ばかりの関白と認めており、安和の変を主導したのは、明らかに師輔流の伊尹、兼通、兼家、師尹の兄弟であった。

藤原氏による他氏排斥は、良房以来、いや古くは乙巳の変を首謀したひとり藤原氏の始祖鎌足にまで遡る。まさにお家芸であると云われる所以である。その総仕上げが安和の変であり、安和の変藤原氏の他氏排斥の最後の事件であった。これでもう北家を中心とする藤原氏に拮抗する勢力はいなくなり、他氏排斥を成し遂げた藤原氏は、以降、兄弟間や叔父と甥との間、つまりは北家内部の同族間で骨肉の争いを繰り広げることになる。

風になる時

世界が注視するアメリカの大統領選挙はかつてない激戦であった。現時点で、民主党のバイデン前副大統領が当確となって、政権移行チームが発足し、世界の首脳もバイデン氏に祝意を伝えてはいるが、トランプ大統領は敗北を認めておらず、未だ大統領選挙は終わっていないという。アメリカ大統領選挙は慣例として、敗者が敗北宣言をし、そのあと勝者が勝利宣言をする。トランプ陣営は選挙で不正があったと一歩も引くつもりはなく、このまま敗北宣言はせずに法廷闘争になる可能性が高い。コロナ禍で行われた大統領選挙は郵便投票が多数を占めた。そこに不正があったと指摘するトランプ氏。これな本当であれば民主主義の根幹を揺るがす事であるが、不正がなかった場合は、逆に民主的な選挙を否定することになる。冷戦後、唯一の超大国として君臨したアメリカは、十九年前の同時多発テロ以降翳りを見せていた。四年前にアメリカファーストと叫び、強いアメリカを取り戻すと豪語した大統領を頂いたが、あまりに極端な保護主義が先行して、国際社会から孤立しつつあった。アメリカ国民は振り子を戻すべくバイデン氏を選んだとは思う。しかしバイデン氏になっても、これほど分断されたアメリカが容易に挙国一致できるとは思えない。これからさらなる混迷の時代が、今、始まったと言わざるを得ない。この間アメリカと経済摩擦を起こし敵対してきた中国が、いよいよ一番の超大国へ変わる日が来るのかも知れないし、沈黙のロシアだってどう出てくるかわからない。欧州もイギリスがEUを離脱して、足並みは揃ってはいないし、コロナの猛威は欧州でも凄まじく、影響力低下は避けられそうもない。これまで地球を支配してきた北半球はあまりに混沌としているのだ。

日本でも歴代最長だった安倍内閣が終わり、菅内閣に変わった。アメリカのように政権交代したわけでもなく、管氏は安倍内閣の継承を謳って総理になった。そもそも日本では政権交代は難しい。戦後、五十五年体制となってから、二度政権交代があったが、いずれも短命で、国民の支持はあっという間に離れている。日本人は長期的安定を好む民族であることは歴史が示している。急激な変化は避けたいがため革命は起こらない。明治維新と昭和の戦後だけは異例であるが、政治体制や経済体制は変わっても天皇制は維持されている。日本人は伝統を重じる。伝統芸能がこれほど多くある国もないだろう。 コロナ禍 今年、新型コロナウィルスはすべての人にとって災禍となった。秋が深まり寒さが増す北半球では日本を含めて、感染者が急増、第三波がやってきた感じだ。コロナはアメリカが提唱してきた民主主義と資本主義経済に打撃を与え、人との距離は広がり、私たちの社会生活は大きく変わった。東京オリンピックは一年延期になったが、果たして開催できるのか。今私たちは数十年どころか、数百年に一度の大変革期に遭遇しているのである。ワクチンや治療薬もまもなくできそうで、少しずつ光射す出口が見えてはいるが、現時点では手探りであることは否めない。ゆえにこれまでと同じ暮らしはできないと各々が心得ねばならない。

占星術では、今年12月22日から、風の時代になると云われる。218年続いた地の時代が終わり、これからおよそ240年ほどは風の時代になるのだそうだ。占星術では、火、地、風、水、この四つのエレメントに分けて、それぞれ周期があるとされ、その節目をグレートコンジャンクションと云うそうだ。グレートコンジャンクションはだいたい二十年周期でやってくるがひとつのエレメントは概ね百年五十年から二百年ほど続く。つまり地のエレメントが二十年ごとに更新されているイメージ。ゆえに次は風のエレメントが二十年周期で更新されてゆく。ところが合間に数年から数十年単位で別のエレメントに変わる時代があったりもする。例えば、現在の地の時代は江戸時代後期の1802年に始まるが、途中1821年から火のエレメントが強くなり、1842年に再び地のエレメントに戻って、今度は1981年から風のエレメントが強くなって、その後2000年から2020年末まで地のエレメントに戻っている。1821年から1842年は、ギリシャオスマン帝国から独立し、これを皮切りに各地でスペインやポルトガルの植民地が独立、フランスでは七月革命があった。日本は徳川十一代将軍家斉の大御所時代で、江戸町人文化の爛熟期であったが、天保の大飢饉が起こり、大塩平八郎の乱が勃発、いわば徳川時代の終幕の始まりが背景として次々にあった。幕末はもうすぐそこと云う時代である。1981年から2000年は20世紀末で、世界では冷戦が終結したが、各地では現代まで尾を引く小競り合いの紛争やテロが多発するようになった。日本は昭和から平成に変わり、バブル期からバブル崩壊があった。次の風の時代も折々で別のエレメントが入ることもあるのだろう。風の時代とはどんな時代なのか。前回の風の時代は鎌倉から室町前半まであったと云う。源平の争乱を経て武家政権が確立された。鎌倉新仏教と云う仏教変革が起こり、喫茶の文化が始まり、猿楽など現代私たちが享受している伝統文化や芸能もこの時代に萌芽した。果たして四年、四十年はどうなるのか。私は星占いはよくわからないが、妙な勘が働くことがたまにある。この冬、間違いなく時代が大きく変わるであろう。私たちは今その大転換点にいるのだ。そんな気がしてならない晩秋である。

皇位継承一承平・天慶の乱一

その場所に行きたくとも行けない場所がある。行こうと思えば今日にでも行けるのに、不思議と足が向かわない。縁遠い場所。東京大手町にある将門塚は、私にとってそんな場所である。自宅からも三十分もあれば行けるし、職場からは歩いても行けるのに、これまで一度もお参りしたことがない。私は勝手に「平将門は私が来ることを拒んでいる」と思い、いつかその機会が来るのではと待っているが、一生その機会は来ないのかも知れない。私にはこんな場所がいくつかあるのだが、将門塚はもっとも強く拒否されている。一方で、平将門を合祀する江戸総鎮守の神田明神には何度もお参りしているのだから、神格を得た将門様には許されているのか。だいぶ前のことだが、口中の病も治癒してもらった。平将門平安京では反乱を起こした謀反人だが、東国では自主独立の英雄なのである。

平将門は自らを「新皇」すなわち「新しい天皇」であると称し、都から隔絶された板東の地で、新たな国を造ろうとした。当初は天皇に反旗を翻すつもりはなく、あくまでも藤原忠平が率いる廟堂と国家の仕組みに対する意趣返しであり、平安朝廷に改革の意識を芽生えさせるきっかけを作りたかったのではなかったか。しかし朝廷はこれを謀反と捉えてた。朝敵として討伐せしめんとした。将門は桓武天皇の血を引くいわゆる桓武平氏である。祖父の高望王は上総の国司となり板東に住みついて、その息子達が勢力を拡大していった。父の平良持下総国を領し、武勇に優れ、鎮守府将軍に抜擢されていた。良持の兄弟は良兼が上総、国香が常陸、良文が武蔵をそれぞれ領した。将門は元服すると上洛し、摂関家の長忠平と主従関係を結ぶ。家人として仕え、忠平の推挙で滝口の武士となった。時は朱雀天皇の御代である。将門は都にて立身出世を目論んだ。朝廷で高みへ昇ってみたい。理想の国家造りか権力への憧れが東国の片田舎から罷り出てきた若武者には多分にあったのかも知れないが、東国の窮乏を何とかしたいとの青雲の志が、彼を駆り立てたに相違ない。平将門とはそんな人のような気がする。それには板東武士のボトムアップをせねばならぬ。その先頭に立ちたいと思った。将門は自らも桓武天皇の五世であったが、忠平が率いる藤原政権が揺るぎなきものと成っていたこの時、将門の身分では「滝口の武士」までが関の山であった。滝口の武士は滝口の武者とも云い、蔵人所に置かれた内裏の警護にあたる武士のことで、天皇の日常生活の場である清涼殿を警備した。清涼殿の東庭北東には、滝口と呼ばれる溝水の落ちるところがあり、その渡廊下を詰所としたことから、滝口の武士と呼ばれ、詰所は滝口の陣と呼ばれた。将門は人柄を忠平に認められていたものの官位は極めて低かった。上洛して十二年、将門は懸命に働き、何とか平安京で出世し、故郷へ錦を飾るつもりでいた。軍事警察を管掌する検非違使佐や検非違使尉を望んだが、忠勤も虚しく望みは叶わず。失意の将門は故郷へと帰った。そして板東にて水を得た魚の如く頭角をあらわしてゆくのである。将門が朝廷で立身出世できない事を恨んで謀反を起こしたとも云われるが、一方では謀反は「制度に対しての行動」であったととる説もある。これは今もって議論を二分している。

棟梁として板東の桓武平氏をまとめていた平良持が亡くなると、弟たちは鎮守府将軍として栄えた良持の所領、館、そして財を手にしようと暗躍した。後継の将門を見縊っていたのである。ことに上総の良兼が首謀して将門を滅ぼそうとしたが、武勇に優る将門は手始めに国香を殺害し、叔父達を返り討ちにして、逆に板東一円を自らの傘下に加えていった。天慶二年(939)、一族内の諍いを機に、将門は常陸国府とも対立し、これを陥落させると、近隣の国府も倒してしまう。そして、八幡神の神託を得たとして「新皇」と称し、板東を中心に独立国家の樹立を企てたのである。事実この頃の将門は関八州をほぼ味方にしていた。当代朱雀天皇は弱冠十七歳。将門は本気で新天皇になれると思った。京では将門が攻めてくると大混乱に陥った。天慶三年、朝廷は藤原忠文征東大将軍に任じて将門征伐軍を編成した。しかし忠文の到着前に下野国押領使藤原秀郷が、板東で将門と交戦していた甥の平貞盛藤原為憲と結託して連合軍を形成し、乱の鎮圧にあたった。

栃木県足利市の北の山麓鶏足寺と云う古刹がある。山門を潜ると長い杉木立の参道で、緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのもの。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建された。往時は板東における真言密教の大伽藍のひとつであったようだが、現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりで、ひっそりとしている。私が行ったのは三年前の秋のことで、境内には誰もいなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。閻魔堂の奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日が傾きかけた時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。北関東にはこんな寺がわりと残っている。将門の乱の折、住持は秀郷の勝利を祈願した。秀郷が下野の押領使であったことで、縁があったのであろう。密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷したが、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であると云う。

破竹の勢いで板東のヒーローになった将門は、怒涛の如く進軍した藤原秀郷軍の放った矢に眉間を貫かれ、敢えない最期を遂げた。あまり抵抗する間もなかったようで、官軍が意外にもあっさりと勝利したのも、板東方が所詮は烏合の衆であったことを語っている。かくして将門の乱はわずか二ヶ月で鎮圧された。武勲を立てた藤原秀郷はこのあと鎮守府将軍に昇進している。将門の夢は儚かった。摂関政治の礎が確固たるものとなりつつあったこの時、まだ脆弱な板東武士たちは朝敵になるのを恐れたのである。およそ二百五十年後、平清盛が政権を取るが、清盛率いる平家も、桓武平氏から板東平氏の流れを汲む伊勢平氏である。武士として初めてこの国の頂きに立ったのが平氏であると云うのも、何か因縁めいたものを感じる。清盛は少しは将門を意識したであろうし、自らが位人臣を極めることが、将門への供養とも心得ていたのかも知れない。板東武士たちも一瞬は将門の新たなる国に期待して乗っかったが、まだ武士の夜明けには早かった。彼らの子孫が華々しく活躍するのは、清盛亡き後、源頼朝が東国にて挙兵するのを待たねばならない。ずっと後の世のことだ。武士が天下を獲ることなど、将門の時代では果たせないとこしえの夢であった。

将門の乱と結びつく寺伝を持つ寺が坂東にはいくつかあるのだが、筆頭はやはり成田山であろう。朱雀天皇は、嵯峨広沢の遍照寺の寛朝に、真言密教護摩祈祷による乱の平定と、将門の調伏を命じた。余談だが、この寛朝という坊さんは、宇多天皇の孫にあたる。天皇家の後継者争いには無縁で、十一歳で仏門入り。仁和寺、東寺、西寺、東大寺別当を務め、高野山座主にまで上り詰めた。さらに、真言宗では初の大僧正の尊号を賜わっている。寛朝は、神護寺弘法大師が彫ったとされる霊験あらたかな不動明王を奉持して、下総へ下った。大坂から船で房総半島の尾垂ヶ浜に上陸。寛朝は、今の成田山から三キロほど離れた公津ヶ原という地に不動明王を奉安して、二十一日間護摩祈祷した。結果、乱は鎮圧され、将門は殺害された。寛朝が再び不動明王と共に京へ帰ろうとしたが、不動明王はその場を動こうとしない。そして不動明王は、寛朝にこの地にとどまると夢告したと云われる。これを聞いた朱雀天皇は、国司に命じて堂宇を建立し、不動明王を厚く祀った。新勝寺という寺号も、戦いに勝ったと云う意味で朱雀天皇命名された。その後永禄年間に当地へ遷座し、東国の権力者、徳川幕府、歴代の市川團十郎、そして多くの庶民の厚い信仰を受けている。

将門が東にて挙兵したのと時を同じく、西の海でもすすんで朝敵の狼煙を上げた者がいた。藤原純友である。藤原純友は大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方に赴任。当初は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあったが、帰任命令が下っても帰京せず伊予に土着した。承平六年(936)頃までには海賊の頭領に成り果て、伊予の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていった。純友の水軍は、九州中国地方及び海外と京都を結ぶ大動脈たる瀬戸内を縦横無尽に暴れ回り、一帯を恐怖に陥れた。将門と純友は互いに連絡を取り合い、東西から平安朝廷を挟み撃ちにしようとしていたとも云われる。真偽は定かではないのだが、一説によれば、二人が勝利した暁には、将門が新皇で、純友がその臣下の首座たる関白になる予定まで立てていたと云う。将門と純友は互いに呼応しながら、一度も会うことはなかったが、戦友としての特別な絆を感じていたのだろうか。

純友の余勢を駆って畿内にまで進出、天慶三年(940)二月には淡路の国府を、八月には讃岐の国府を、さらに十月には大宰府まで西下して襲撃している。しかし純友も敗れる時が来る。朝廷は純友追討のために小野好古を長官として追捕使軍を編成し兵を差し向けた。天慶四年(941)五月の博多湾の戦いで、純友軍は壊滅。純友は息子の重太丸と伊予へ逃れたが、六月には伊予の警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも云われる。また、それらは朝廷や国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて、南方の彼方へ消息を絶ったとも云う。この方が浪漫がある。藤原純友の乱平将門の乱を同時代の元号から承平天慶の乱と云う。将門の乱が二ヶ月で鎮圧されたのに対して、純友の乱は二年の長きに渡り繰り広げられたのも、純友が海を制していたからで、水軍の実力は官軍を凌駕し、自在巧みな操船技術で翻弄したからに違いない。この水軍の残党が、後に村上水軍となり、そこから派生したり引き継がれた熊野水軍毛利水軍、九鬼水軍となる。純友の乱は名だたる日本の水軍を生んだのである。そして為政者には制海権の重要性を認識させた。以降、藤原氏平氏、源氏、北条氏、足利氏、織田信長豊臣秀吉、そして徳川氏と天下人は皆、海を制することに注力した。四方の海に囲まれた日本を治めるために。

朱雀天皇は皇子に恵まれず、病弱でもあられた。御在位十六年のうち、承平・天慶の乱があり、藤原忠平が廟堂を掌握し、天皇が親政を望まれることもなかった。その心労はいかばりであったか。天慶九年(946)四月、二十四歳で三歳年少の同母弟成明親王に譲位された。成明親王村上天皇となられた。朱雀上皇は天暦六年(952)三月出家して仁和寺に入られ、同年八月三十歳崩御された。

なおすけの古寺巡礼 善養寺の老松

松は古くから日本人に愛されてきた。常緑樹で寿命が長く、美しい枝ぶりが我々を魅了する。縁起物の筆頭とされるのも、やはり格別の木であると云う認識があったからに他ならない。徳川家は本流の姓である「松平」の名を重んじ、松平氏は将軍家の一門を成した。また家康と祖先が同じの三河以来の譜代家臣にも称号として松平の姓を許している。江戸期を通して松平を名乗る大名は優遇され老中を幾人も輩出し、幕政に参与した。松平信綱松平定信松平春嶽松平容保らが有名である。東海道の並木に松が植えられたのも、風光を装うだけにあらず、街道を整備した徳川が権威をひけらかすためでもあったのかも知れない。新年の門松や、地蔵盆に行われる「松上げ」などの宗教的行事にも使われているのは、松が神聖視されたゆえで、針葉は邪気を祓い、とこしえに生きると信じて、その漲る力を人々は欲した。まさに日本を代表する樹木と言って良い。日本中方々に名木と云われる松があるが、実は東京23区にも堂々たる松があることを、私は最近知った。自粛生活が続いていた五月晴れの或る日、私はその松に逢いに行った。

その松は「影向の松」と云い、江戸川畔の善養寺の境内にある。善養寺は江戸川区東小岩にある真言宗豊山派の寺で、室町末期の大永七年(1527)の創建。多くの末寺を擁し、地域では「小岩不動尊」の別名でも有名らしいが、お恥ずかしながら私は今まで知らなかった。寺伝によれば、醍醐寺の頼澄法印という僧が、諸国行脚中、夢告に従ってこの地に至り、不動明王を祀ったのが始まりと云うが、諸説あって実際はもう少し古い寺とも云われる。山号を「星住山」と云う。美しい山号だ。境内にかつて生育していた、影向の松とは別の「星降り松」に由来する。その昔、星の精霊がこの松の梢に降り立ち、やがて赤青黄の石に姿を変じた。その石は「星精舎利」と呼ばれて寺の宝とされたが、赤と黄の石は紛失して青い石のみが残った。以来山号を「星住山」としたと伝わる。なお、星降り松は昭和十五年(1940)に枯死し、今はニ代目が、影向の松の後ろでずいぶん高く育っている。慶安元年(1648)、徳川幕府から朱印状を与えられ、善養寺は、小岩、船堀一帯に末寺を持つ、このあたりの中心寺院となった。天明の大飢饉のとどめとなった浅間山の大噴火では、犠牲者の夥しい遺体が利根川から江戸川へと流れてきて、善養寺近くの中洲に漂着した。舟の通行にも支障をきたし、あまりの惨状をみかねた下小岩村の人々は、ボランティアでその遺体を一体一体引き上げて、善養寺の無縁墓地に懇ろに葬ったと云う。

山門をくぐると圧巻の光景が広がる。高さ約八メートル、東西およそ三十一メートル、南北およそ二十八メートル。これが影向の松である。本堂前の庭全体を覆う見事な枝振りだ。樹齢は六百年以上と云われ、室町時代創建のこの寺よりも昔から此処にあるらしい。おそらく寺が建てられた頃には、すでに立派な枝振りであったに違いない。寺はシンボルを求めて建立された。この影向の松は、かつて讃岐の真覚寺の「岡野松」と日本一を争い、何と二十七代木村庄之助の裁きにて双方引き分けとされ、当時の相撲協会の春日野理事長が「日本名松番付」で東西の横綱とした。残念ながら西の横綱は枯死してしまい、令和の当世一人横綱である。東の横綱も一時は根が窒息状態となり衰えかけたが、寺と地元民が一丸となって土壌再生等をしたおかげで今は元気を取り戻している。街中ゆえに松食虫の被害にも遭わずにすんでいるとか。まだまだ存えそうで、まことにありがたい。

「影向の松」は奈良の春日大社にあるクロマツが元来で、影向とは、神仏が此の世にあらわれた姿を云う。春日明神の化身の翁は、この松に降臨して万歳楽を舞ったと云われ、松の木は芸能の神の依り代とされた。能舞台の鏡板に描かれている老松のルーツとも云われる。能は日本人が編み出した極めて日本らしい芸能である。能楽は日本の総合芸術であり、春日大社能楽発祥の地とも云われる。善養寺の逞しい松も能舞台の鏡板の松を彷彿とさせる。ゆえにいつの頃からか「影向の松」と呼ばれるようになった。松は繁栄の象徴であるのだ。ゆえに人は松に憧れ、松を愛でてきた。そして松の木に宿る神を拝んだのである。それは今も変わらない。

大東京の片隅に「日本一の松」がある。それは奇跡であるが、この奇跡が私は嬉しくて堪らない。現在も善養寺の広い境内は地域の人々には安らぎの場所であり、憩いの場であり、影向の松の周りでのんびりと井戸端会議をしている。五月晴れの空の下、今なお青々と繁茂する老松に、私も大きな力を得た。ただ此処にいてくれてありがとうと率直に思った。あまりに神々しい善養寺の影向の松は、私たちに生きることの意味を問うてくる。そして時には木肌に触れ、その声に耳を傾ければ、あなたにもきっと良き答えをくれるであろう。

皇位継承一王朝国家一

醍醐天皇の治世は三十四年続いた。これは平安時代でもっとも長い。父の宇多天皇と、醍醐天皇から一代おいて村上天皇と続くこの間は、摂関を置かずに天皇親政が行われた時代である。宇多天皇の治世を寛平の治、醍醐天皇の治世を延喜の治、村上天皇の治世を天暦の治と称し、後世で理想的な時代とされ聖代視された。逆に言えば藤原北家にとっては不遇の時代で、通算でおよそ六十年も摂関不在の時期があった。しかし現実は天皇親政が完全に機能したとは言い難く、中央集権には程遠い。理由としては地方政治の弛緩、治安の乱れにより律令制が破綻しかけており、天皇親政とは幻想であり、現実的な政治はできなかったと言って過言でないだろう。

延長八年(930)、醍醐天皇は四十六歳で崩御。その一週間前に東宮寛明親王が八歳で即位され朱雀天皇となられた。また稚い幼帝の誕生である。これを見届けるようにして、翌年、宇多法皇も六十五歳で崩御された。朱雀天皇を後見したのが摂政藤原忠平である。忠平は時平の弟で、兄の死後、表舞台に躍り出た。朱雀天皇の母穏子は忠平の妹で、時平や忠平が廟堂で活躍できたのは、この穏子の助力によるもの大であった。果たして国母となった穏子と摂政となった忠平は一致協力して政を主導してゆく。

ここで改めて和田秀松氏著『官職要解』より、摂政と関白について確認してみよう。

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである~

関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。

~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~

この関白に最初に就任したのが、忠平の父藤原基経である。 忠平は基経の四男であったが、長兄時平亡き後、次男、三男を差し置いて藤原北家を継いだ。小一条太政大臣と呼ばれ、位人臣を極めたが、幼い頃から聡明で、兄よりも寛大な心の持ち主であり、ゆえに人臣掌握にも長けていた。とこれは藤原摂関家、殊に忠平流の正統史といえる『大鏡』にあることで、いささか脚色はあるだろうが、忠平は有職故実にも深く通じており、いずれにしろ野心的政治家の時平に比べたら、文人肌の温厚な人物であったことは事実であろう。さらに『大鏡』は、菅原道真の左遷は時平の讒言でされたことであり、その罪はすべて時平に向けられている。これにより時平流を封じ込めて、忠平流が廟堂をクリーンにしたかのように正当化した。『大鏡』も『栄花物語』もとにかく忠平を絶賛する。忠平は廟堂のトップに昇ってはゆくのだが、宇多法皇とも良好な関係を築き、他の公卿を気遣うことを忘れなかった。他氏排斥もせずに、敵を作らない和の政治を心がけた。よって忠平は時平に比べて、政治家としては無能であったとみる向きもある。国政改革に自ら乗り出すこともなく、このあと起こる大乱を主導的に鎮圧しようとはせず、難局に立ち向かう姿勢はあまりみえない。むしろ政治は部下の三善清行らに任せて、本人は宇多法皇とともに雅な平安王朝の貴族文化を創出することに腐心した感がある。忠平には歌の才があった。『百人一首』にも選ばれている。貞信公とあるのがそれで、貞信公は忠平の諡名である。同じ歌が『拾遺集』にもあってその詞書にはこう書かれている。

亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべきところがなりと仰せ給ふに、このよし奏せむと申して

小倉山峯のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ

亭子院とは宇多法皇のことで、御幸(ごこう/みゆき)とは上皇法皇女院の外出のこと。天皇の外出は行幸と云う。宇多法皇が嵯峨の大堰川のあたりに紅葉狩りに御幸されたのは延喜七年九月十日のことで、これに供奉した忠平はこの時二十代後半。法皇はあまりにも美しい小倉山の紅葉を、醍醐天皇にもお見せしたいと仰せになった。忠平は法皇のお気持ちを天皇にお伝えしようと、此の歌を奉った。全山燃えるような紅葉に覆われた錦秋の嵯峨野と、それを息を呑んで見つめる王朝人の情景が、かほど実感として迫ってくる歌はない。忠平の歌には彼の生き様が凝縮されているように思う。

穏子を醍醐天皇中宮としたのは兄時平であった。時平には天皇家との外戚関係はなく摂関に就くことなく死んだ。が、妹の穏子を醍醐天皇中宮として入内せしめ、しっかりと布石を打っていた。これを忠平は利用したのである。醍醐天皇には多くの皇子がいたが、東宮立てられたのは穏子の生んだ皇子のみであり、摂関政治の礎はこの時に形を見せ始めた。

宇多法皇の寛平の治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、基本的には時平もこの方針を受け継ぎ、班田を励行する法令が発布されている。また延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり、各地では有力な豪族がその土地と人を支配するようになっていた。律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたのである。結果的に醍醐天皇の延喜の治は律令制復活とはならなかった。忠平の時代には律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築が進展していった。具体的には個別人身支配を基とする体制から、土地課税を基とする体制へと政策転換したのである。このことは朱雀天皇の治世以降に班田収授が実施されていないことが示している。個人を課税対象として把握する個別人身支配において、偽籍や逃亡が頻発すると課税対象である個人を把握することはできなくなるが、土地課税原則のもとでは、土地の存在さえ把握していればそこを実質的に経営している富豪層から収取すべき租税を集めることができる。こうした考えが背景にあった。実際に租税収取を担当する地方の現場では、戸籍や計帳を基盤に置いた課税方式が後退し、土地に対する課税が積極的に行われ始めていた。それを国家体制においても採用したのである。ここに律令国家体制が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。土地課税を基本とする考えは平安時代初期からあったようで、藤原冬嗣以来の為政者は税収をもれなく期待できる土地課税体制への移行を常に目論んでいたふしがある。実現には百年近くかかったが。王朝国家体制は、大和王権の確立した律令制国家から鎌倉時代となる中世国家までの間、すなわち平安中期から末期までを云う。実はこれは政治によって主導的に移行したわけではないことは歴史が語っている。土地への課税が租税収取の基本とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが公田である。律令制における租税いわゆる租庸調は、個人に対して課せられていたが、新たな租税制度のもとでは公田に対して課税がなされた。公田は名田と呼ばれる租税収取の基礎単位へ編成され、現地の豪族が名田経営と租税納入を請け負うという体制が形成されていった。この体制こそが王朝国家の基盤を成す。これにより律令制の班田図は不要となり、新たに公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、国司に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。 体制を確立するため、現地支配に当たる国司の権限は大幅に強化された。租税収取、軍事警察などの分野で中央政府から現地赴任筆頭国司への大幅な権限委譲が行われ、国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち受領が出現することとなった。軍事力を有した受領は発言力も大きくなる。彼らは特に都から遠い東国を中心として、勢力を広げてゆく。桓武平氏清和源氏奥州藤原氏など、彼らの子孫が平安末から活躍する武士へと成長するのだ。 忠平政権はこの時代の社会的背景に適合した王朝国家体制を積極的に構築していった。この時期に後の中世社会の基礎となる要素が多数生まれている。まさに古代から中世への過渡期に当たるといえる。 

忠平時代を支えた三善清行も文章生から立身出世した人物で、父は淡路守三善氏吉である。根っからの文官で優秀な官僚であった。文章博士、大学頭、式部大輔となるが、道真の菅家閥と一線を画す、参議巨勢文雄に学び、道真台頭後は悉く道真閥と対立し、道真糾弾の急先鋒の一人となった人物である。時平の政治を補佐し、時平没後は忠平にも頼りとされ、ついには公卿となる。延喜十四年(914)絶頂の清行は、儒教的な徳治主義に基づく歴史観を背景とした「意見封事十二ヶ条」記し、廟堂の求めに応じる形で奏上した。崩壊しつつある律令制の実態を曝し、地方政治の改善を事細かく述べている。これは律令制国家継続のため国政を正すことを試みた最後の機会であった。むろんこれは忠平がバックにいたからできたことである。「意見封事十二ヶ条」はまことに画期的なものであったが、政治を総理する要の忠平にやる気が欠乏していたことが、朱雀天皇と清行の不運であった。法令はすばらしくともあまり良い方向には向わなかったのである。

朱雀天皇は延長元年(923)醍醐天皇の第十一皇子としてお生まれになった。三歳で立太子され、先に述べたとおり八歳で皇位を継承されたが、元来病弱であられた。女御煕子との間に昌子内親王をもうけられたが、皇子には恵まれず、同母弟の成明親王を皇太弟に立てられた。在位中は天災がしばしば起こり、厄病の流行もあって、律令制の崩壊により治世は乱れていた。頼みとするは摂政から関白となった叔父の忠平であったが、芳しい結果を見れないまま、朱雀天皇御自身も政治には関心が向われなくなっていったと思われる。そして朱雀天皇の御代に、朝廷を震撼させる事変が勃発する。王朝国家体制と朝廷の転覆を目論むその狼煙は、都を挟み東と西で同時多発的にあがった。承平・天慶の乱である。

なおすけの古寺巡礼 大山詣

今年は遠出を控えている。緊急事態宣言以降、宣言が解除されてからも私は都内から出てはいない。昨秋始めた西国巡礼はおろか、好きな寺社参詣にも行かず、茶会も軒並み中止となり、東京でじっとしている。もう少し落ち着いたらと自分にいい聞かせながら、悶々としつつも、まだしばらくは遠い旅には出ない気がする。しかし発見もまた多い。代わりに都内のホテルに泊まってゆっくりする。私にとって旅は日常からの逃避でもあるのだが、東京にいてもホテルに行くだけで大きな気分転換になる。何かひとつ出来なくなれば、また別の何かを見つけられる。人はそうしたものだが、中には見つけられず混迷する人、次に向かうことが諸々の事情で困難な人もいることだろう。でも、ほんの少しアンテナを高くしてみると良い。本当の未知は意外と近くにあるものだ。こういう時こそ、近場の行き忘れた場所、空白地帯を歩いてみる良い機会であると思う。

私はかねてより気になっていた大山とその周囲を歩いてみることにした。ここで云う大山とは神奈川県の伊勢原市にある標高1252メートルの山のことだ。丹沢山地の東端にあたる。円錐型の美しい山容は、いかにも神山の風格を備えており、古くから信仰の山であった。ほとんど独立峰ともいえる大山は、東名高速小田急線の車窓からもすぐそれとわかる。冬の晴れた日、東京からも国立や府中の多摩川縁に登れば、富士山と重なるようにして神々しい大山を拝むことができる。私はいつも遠目に眺めながら、いつか登らねばならぬと思いつつ、ようやく宿願果たした。

「大山」と呼ばれる山は方々にあるが、全国的には鳥取県の大山(だいせん)が著名である。神奈川の大山は山頂に大山祇神を祀ったためにそう呼ばれるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」とも呼ばれていた。大山の山頂には巨大な磐座があって御神体とされる。此処に阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社とさらに少し下に大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利(あふり)山」或いは「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。徳川時代になると殊に鳶や火消からも厚い崇敬を受けて、講が組まれて、大山詣は隆盛した。

新宿から小田急線で伊勢原駅まで行って、そこから山麓のケーブル駅まではバスが出ている。小田急ではケーブルまで乗れるフリーパスが販売されているため利用しやすい。バスを降りると石段に沿って土産物や食堂、今も営業する宿坊が立ち並んでいる。ここは通称「こま参道」と呼ばれ、なかなか良い風情。私も名物の豆腐田楽と山菜そばをいただいた。こま参道から脇道へちょっと入った左手に茶湯寺がある。茶の湯に関わりがあるのかと思ったが、左にあらず。寺の案内によれば、死者の霊を百一日の茶湯で供養するそうで、供養に行くと必ず死者に似た人に会えると云う。その思いを込めた石仏が多い。

登りはケーブルカーを利用した。二十五度の勾配を六分ほどかけて中腹の下社まで登る。途中、大山寺駅があるが、このあたりから遥か南東に相模湾が見えてくる。私は一気に下社まで登った。視界はさらに開け、此処では思わず誰もが歓声あげずにはいられないだろう。なるほど噂に違わぬすばらしい眺めだ。境内からは伊勢原、平塚、横浜、そして江ノ島が手に取るように見え、相模湾が驚くほど近く、遠く伊豆大島まで見はるかす。憂さも晴れる絶景である。大山は関八州の展望台とも称される。私もその眺めを堪能した。この日は風の強い日であったゆえに春霞は立たずに遠くまで見渡すこと叶った。

大山阿夫利神社の創建年は不明だが、古くから庶民に信仰された。徳川時代に大山講が盛んに組まれ、鳶職の人々が信仰したのも、木に対する信仰からに違いない。実際に大山詣の際には巨大な木太刀を担いで登り、奉納してきた。登山の前には必ず滝に打たれて精進潔斎をしたと云う。滝は現在も枯れずに、禊の大滝や良弁滝と呼ばれて登山口に幾筋も落ちている。大山詣は歌舞伎や浮世絵にも度々登場し、江戸の人口が百万を超えた頃には、年間二十万人も参詣した。江戸から手形不要で来れたため、大山詣をして、帰りに江ノ島や鎌倉に寄る小旅行が流行った。江戸から大山までは徒で、速い者でちょうど一日がかりの行程。夜明け前に出立すれば、日の暮れる前には大山に着いて数多ある宿坊に逗留できた。もっと速く到着する者もいただろうし、途中の宿場に寄りながら、ゆっくりと旅を満喫する者もいた。江戸も中期以降になると、手軽に行ける行楽地として人気を集め、鎌倉、江ノ島と大山を周遊する旅だけではなく、富士山、伊勢参り善光寺詣り、さらには西国巡礼や坂東三十三箇所巡りとセットで廻る者もあった。

さすがに関東では聞こえた神社らしく社殿も境内の佇まいも風格がある。参拝をすませ本殿の奥に湧く御神水をいただく。阿夫利神社には名水が湧いていることは知っていた。古の人々もいただいた大山阿夫利神社の御神水。此度の参拝はその御神水をいただいて、茶を点てようと思いたってのこと。龍口から落つる御神水は、蒼く冷たく澄んでいる。茶はふわっと点つ。いつも思うがなぜこうも自然の水はまろやかなのか。天然の濾過装置はとても人智には及ばない。

下社から山頂の上社までが本格的な登山道になる。むろん上社こそが阿夫利神社の本宮であるから、ぜひとも参拝したいのだが、登りは下社から一時間半はかかると聞いた。よく調べもせずにやって来た私が愚かであった。今回は装備もあまく、時間も足りず登頂は断念。山は容易に人を寄せ付けない。心がけから真摯に登山に向き合わねば、跳ね返される。上社へ登るのは断念したが、下社から少し降ったところにある大山寺に向かう。歩きでいったん下山したが、この道もなかなかの急峻さで、大岩がゴロゴロと転がる中を脚を踏み外さぬよう慎重に下る。登りはかなりキツそうである。

大山の山中山麓には寺社が多い。いずれも大山を神山として、まるで聖地を取り巻くように点在する。山中に蹲る大山寺は、東大寺や近江の寺々と関わり深い良弁が開基とされる古刹で、修験者や大山講にも信仰を集める。いかにも坂東らしい武骨な本堂には、古い不動明王が奉安されており、阿夫利神社下社の明るく賑やかなイメージとは対照的に、大山寺は静謐に大山信仰が守られているといった感じがする。言わばこの山中においても陰と陽が区別されているのだ。大山には至るところ滝行や水垢離をした滝があると書いたが、愛宕滝や良弁滝はもともとは修験者の行場であった。

日が西へ傾く頃、大山寺から再び中腹の下社までケーブルカーで登って、今度は下社の表参道とは反対側へ山を降りる。この辺りは有名なハイキングコースで、途中の見晴台と云う絶景を堪能できる場所までは、ひっきりなしにハイカーとすれ違う。見晴台までは登りはあるが、緩やかなコースであるためさほどキツくはない。私は見晴台からさらに降って、日向薬師を目指した。明るかった道が次第に木々に覆われてきて、ひとり歩きが心細くなってきた。ちょうど峠のあたりに勝五郎地蔵と呼ばれる大きな地蔵さまが建っていて、その先から九十九曲と云う文字通り九十九折の急峻な山道がある。このあたりからまったく山らしくなって、木々はますます生茂り、昼間でも少々薄気味悪い。勝五郎地蔵は嘉永六年(1853)に地元の石工天野勝五郎が彫像したものとかで、人の大きさほどもあるため、少しびっくりするが、この先の九十九曲を注意せよとでも仰せのようであった。

下社や大山寺でちょっとゆっくりし過ぎたようで、日向薬師の閉門時間(17時)が迫っていた。私は一気に九十九曲を降りる。むろん脚元は慎重に。が、やはり九十九曲と呼ばれるだけあって、行けども行けども麓に辿りつかない。ふと、遥か上から女性のハイカーが一人降りてくる。早い。私はちょっと怖くなって、スピードをあげる。転んだら仕方ない。あとから来る女性は、どんどん迫ってきてるようだ。こんなところで追いつかれたくないし、こちらは男一人、万一何かあって、あらぬ疑念が生じられても実に困る。そんな思いもよぎって私は急いだ。ようやく舗装された道が見えてきて、他の三人組のハイカーが前方に見えてきた。私はちょっとほっとして、後ろを振り返ると、なんとあとから来た女性は私のすぐ後ろにいるではないか。私はギョッとして立ち止まり、先を譲った。女性はマスクにサングラスまでしていたが、見るところ年配のようだ。とてつもなく俊足のおばさんである。おばさんは私と前を行く三人を追い越すと、風のようにさらに降っていって、あっという間に見えなくなった。あれはなんだったのだろうか。天狗の様なおばさんであった。はたまた役行者の化身であったか。山では不思議な事があると云う。

日向薬師へ 舗装された道も長かった。ひたすら下りなので脚は前に出るが、脚裏は痛い。やがて平坦になってくると、石雲寺、浄発願寺と立派な寺が現れる。美々しい境内はちょうど花が見頃であった。殊に渋田川沿いの枝垂れ桜が浄発願寺の三重塔と重なる風景は美しく、しばらく眺めていたかったが、私は日向薬師へ急いだ。平坦になった道に安堵していたが、甘かった。最後の最後に急な登りが待っていたのである。もはや間に合わないかとヤキモキしながら、懸命に登ることおよそ十分。なんとか閉門間際の日向薬師に滑り込むことができた。こうした山寺へは生半可な気持ちでは参詣できない。毎度の戒めである。せめてこのくらいの戒めは、私のような者でも課せられねばならない。

日向薬師はこのあたりではもっとも古く、もっとも有名な寺である。迫力ある大きな茅葺の本堂と、美しい薬師仏を一度拝んでみたかった。時間がなくて宝物館の仏像群は拝観叶わなかったが、ここまで来れたことが嬉しく、御仏の導きに感謝した。本堂前の広い庭の池からは冬眠から目覚めたばかりの蛙が、大山に春を告げるようにしきりに鳴いている。日向薬師霊亀二年(716)、行基が開創したと寺伝にある。日向山霊山寺と呼ばれ、往時は山内に十二坊を持つ大寺であった。霊山寺はのちに廃仏毀釈で廃れてしまい、唯一残った宝城坊が、霊山寺を引き継いだ。これが今の寺で、広く日向薬師として知られるようになった。いずれ古い寺に相違ないが、大山信仰とも深く結びついており、それはすなわち修験道と関わりある神仏混淆と、アニミズムを具現化したような寺であったことは、宝城坊と呼ばれることが物語っている。 たった一日で、大山のすべてを知ることはできなかったが、おいしい空気と清らかな水で、私は春の一日を充分に満喫した。

皇位継承一道真左遷一

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ

あまりにも有名な菅原道真の歌である。この歌は、道真が太宰府に左遷されるにあたり、都へは二度と戻れぬと覚悟して詠んだものだ。

しばし道真について。菅原道真は幼い頃からその秀才ぶりを示し、十一歳で漢詩を詠んだ。詩は生涯愛し、歌にも秀で百人一首にも選ばれている。

此のたびはぬさもとりあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに

この歌は古今集の詞書には、朱雀院すなわち宇多法皇に供奉して東大寺の鎮守社の手向山八幡宮で詠んだとある。まさしく「とりあへず」の即興歌であろうが、神に捧げる幣(ぬさ)の用意がなく、代わりに紅葉の枝を奉ると云った。「神のまにまに」は、神の御心のままにお受け取りいただきたいと云う意。宇多法皇の南都行幸は、昌泰元年(898)十月のことで、奈良、吉野へ行き、戻りは竜田山から河内に入り、住吉大社に詣でている。これに供奉した道真も、右大臣に昇進する前年であり、この時が彼の絶頂であった。歌からもその喜びが明るく表されている。

道真は十八歳で当時の大学寮の文章生となり、数年後に官吏登用試験に合格。道真の血筋は土師氏に起源し後に菅原と氏を改めている。菅家は奈良朝、平安朝においては中流貴族ではあるが、代々優秀な文人を輩出。祖父菅原清公は左京大夫従三位まで昇進し公卿に列せられ、父是善は参議になっている。このあたりから道真の才能を花開かせるべく、それをお膳立てできるだけの財と環境は整ってきていた。道真は存分に勉強し、平安王朝随一とも称される学者に育った。貞観十六年(874)、従五位下に叙せられ、兵部少輔、民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877)に菅原家の家職でもある文章博士を兼任した。文章博士令外官で、官僚育成機関である大学寮において主に中国史漢詩を教えた紀伝道の教授である。元慶四年(880)に父が死去すると、祖父が開いた私塾山陰亭を主宰、ここには平安朝の志高い文人文士がこぞって道真に教えを請うた。集まる者は日々増えて、廊下でも講義が行われたため、別名菅家廊下とも称された。こうして道真は朝廷に並ぶ者のない見識高い文章博士として名を馳せるようになる。当時権勢を誇った摂政藤原基経も道真を高く評価しており、度々政の意見を私的に問うた。その矢先の仁和二年(886)、道真は讃岐守に任命され、下向することになる。仁和四年(888)、前回も触れた阿衡の紛議が起こり、ここで道真は朝廷への出仕を拒否していた基経を諌め、対立した宇多天皇の側近中の側近橘広相への赦免を求め、基経も矛をおさめた。その後橘広相が没すると、宇多天皇はそれに代わる者として、藤原氏にも臆することなく物申せる道真を讃岐より召還し、蔵人頭に抜擢する。天皇家の家政機関の長となり、天皇首席秘書官のような役を得た道真は水を得た魚の如く活躍する。やはり地方官では道真には役不足であったのだろう。宇多天皇も殊の外道真を頼りとされ重用された。

ここからの道真の躍進は、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。蔵人頭就任から二年後に参議、その二年後に従三位中納言、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進。道真は宇多天皇藤原時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた。宇多天皇は道真に全幅の信頼を寄せられて、殊の外頼りにされたが、天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされたに違いない。しかしこれが文人いわば学者であった道真の終わりの始まりであった。道真は守旧派からは疎まれ、また同じ学者の側にも妬まれたのである。道真は真面目な人であった。ゆえに頑固一徹な面も兼ねており、その実直さが敵を作り、味方がなかった。道真の生真面目さが、東風吹かば〜の歌にも、百人一首の歌にも、とても良く表れていると思う。

道真は累代の為政者の勢力ではない。対して藤原北家の時平は奈良朝以来天皇家を一番近くで支えながら、もうそろそろ隙あらば天皇は権威だけとして奉り、その権威を背景に全権を掌握するべく、虎視眈々動き出していた。藤原北家を頂点に公卿を輩出してきた上級貴族を権門と云い、中級以下で公卿にはなれない貴族は寒門と云う。道真はその寒門から突如閃光を放ったが、その光はまことに一瞬の輝きであった。

藤原時平は、貞観十三年(871)基経の嫡男に生まれ、幼い頃より政治家としての素養の片鱗を多分にみせ、基経も時平に期待して英才教育を施した。いわば藤原北家の期待のプリンスであり、朝廷廟堂において誰もが一目置く存在であり、エリート街道驀地である。十六歳で元服すると、翌年には従四位下右近衛中将に任命され、宇多天皇が即位時に蔵人頭、二十歳で公卿に列した。翌年基経が死去するが、時平は若年のため摂関は置かれず、宇多天皇はこれ幸いと親政をとられ、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられている。寛平五年(893)、中納言兼右近衛大将となり、敦仁親王東宮になると春宮大夫を兼ね、寛平九年(897)正三位大納言兼左近衛大将に昇進した。また前年に藤原良世が引退し、空席となっていた藤氏長者には時平が就いた。

御室仁和寺にて表向きは隠居された宇多法皇の後を継がれたのが醍醐天皇である。この時十三歳、いまだ紅顔の少年であられた。宇多法皇は譲位に際して醍醐天皇に『寛平御遺戒』という訓戒を授けられている。君主としての振る舞いや日常生活、そして政治の心得が説かれている。そこには若年ながらも政治手腕が期待できる藤原時平と、学問の素養高く政策に精通した菅原道真の併用を指示しながらも、特に道真を頼みとするように諭されている。両名は醍醐天皇の即位時に関白に準ずる内覧となり、醍醐天皇もまた先帝の訓戒を忠実に守ろうとされた。一方で時平と道真のみに政務が委ねられたことにますます反発した他の公卿たちは廟堂に出仕しなくなり、宇多法皇が勅を出すことでようやく復帰したという事件も起きている。ことに寒門道真に対する僻みとバッシングは凄まじいものであった。この事件に乗じたのは他らなぬ時平であった。事実時平は道真が自分と並ぶことを良しとせず、常に宇多法皇と通じていたことに憤りを感じ始めていた。権門たる藤原北家の時平は、藤原氏一門とそれに与する諸氏の反感を巧みに扇動して、自らにも向けられていた矛を道真のみに向かうべく仕向けた。これから道真に対する様々な讒言が飛び交うことになったのである。

昌泰ニ年(899)、時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に道真も右大臣となった。両者が廟堂の頂点に立った。が、やはり両雄並び立たず、道真は宇多法皇の側近の地位を引き続き占め、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に修復不能の亀裂が生じていた。また、時期は明確ではないが同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させているが、これには宇多法皇もさすがに反対されたが、それを押し切ってのことであった。

昌泰四年(901)正月、醍醐天皇は突如、道真を太宰府に左遷する詔を下した。理由は醍醐天皇を廃して娘婿の即位を企てた科である。役職は大宰権帥である。当時の大宰府は、九州の政庁兼軍事的な拠点のみならず、中国や朝鮮半島との交易の窓口であり、京の都に次ぐ枢要な地とされた。貿易盛んで町は活況を呈し、人々も豊かに自由に暮らしていた。大宰府の長官は大宰帥であるが、帥の職は親王など皇族が任命されるも、現地へは赴任せず京都にいた。したがって実際は権官たる大宰権帥もしくは、その次官たる大宰大弐が現場を取り仕切り、実質的長官であった。後の世のことであるが、平清盛も宋との貿易で巨万の富を得ることを悟ると、自ら大宰大弐に就くことを志願した。道真がこの職に左遷されたのは、前例があったからであると云うが、本来なら長官として大宰府を仕切れる権帥も、この左遷と云うケースの場合だけは職務を与えられず、いわばお飾りの閑職とされたのである。したがって道真が赴いたところで何の権限もなく、大宰府を仕切ったのは大弐であった。むろん道真もそれはよく理解していたであろう。『政事要略』には記された道真の罪状は以下の如し。

『右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収まり給へり。而るに止足の文を知らず専権の心あり。』

寒門出身ながら大臣に取立てられたにも関わらず、分をわきまえずに専横の限りを尽くしていると云うもの。

これを「昌泰の変」と云う。また道真の子と、宇多法皇の近臣らも流罪となった。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」と言ったことで、これが時平の陰謀であり、藤原氏ことに北家による他氏排斥をあからさまにした最大の事件であった。菅原家は父菅原是善の時代から藤原北家との関わりが深く、時平と道真は度々詩や贈り物を交わす関係であったのに、それでも時平を警戒させた理由は、宇多法皇醍醐天皇も、かなり道真寄りで、時平が蔑ろにされることが、どこかであったに違いない。基経も時平も文章博士としての道真を高く評価していた。道真の失脚は、藤原氏による他氏排斥の一環ではあるが、しかし時平のみの陰謀にあらず、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があったことが時平を後押しし、支配的な空気を決めていった。権力者たちはいつの世も猜疑心の塊であり、疑わずしては天下は取れず、権力の維持は不可能であることは歴史が示している。源頼朝は弟義経を疑い、足利尊氏は弟直義と息子直冬を疑い、いずれも死に追いやっている。徳川家康正室築山殿と嫡男信康を殺め、次男であるのに後を三男秀忠に譲らざるを得なかった結城秀康や乱行の六男忠輝を勘当し、大御所となってからも譜代の忠臣大久保忠隣が秀忠寄りであればあらぬ疑いをかけて改易し、伊達政宗に対しては死ぬまで警戒し続けている。藤原北家、藤原摂関家平安時代の半分以上を治め、栄華を築いたのは、猜疑心とそれを踏まえての行動がまことに巧みであり、権謀術数に長けていたからに他ならない。

道真の左遷は醍醐天皇のご本意ではなかったに違いないが、時平に屈するしかなかった。これを聞いた宇多法皇仁和寺よりただちに内裏へと向われ、醍醐天皇に翻意を促そうとされるも、内裏の門は固く閉ざされ、先帝とはいえ入ることはできなかった。法皇の参内を阻んだのは、道真とも親しい左大弁の紀長谷雄蔵人頭藤原菅根であったとも云われるが、彼らすら道真を擁護できないほど、朝廷は道真排斥が強い流れになっていた。宇多法皇仁和寺に戻られ、仏道に打ち込まれることになることは前回でも触れた。

失意の道真はありのままを受け入れて太宰府へと赴いた。或いは道真ほどの人物ならばこうなる少し前から、自分を排除する動きに気付いていたであろうし、その時点で弁明する気も失せていたに違いない。道真ならば弁明すれば論破も可能であったかも知れないが、もう道真には余力はなかった。左遷後のわずか二年後の延喜三年(903)、梅の香漂う二月二十五日に彼の地にて没する。享年五十九。

道真の居なくなった廟堂で、藤原時平は意欲的に政治改革に着手した。延喜二年(902)最初の荘園整理令を発布し、班田収受を励行、土地制度の刷新に努めた。また『延喜式』や『古今和歌集』の編纂を行った。醍醐天皇の治世を「延喜の治」と云うが、これは時平が政治力を存分に発揮したこと大である。その時平も道真の死から六年後、延喜九年(909)に三十九歳の若さで死去する。これが道真の怨霊によるとされ、以降はもっぱらその見解が取られるようになった。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落してゆく。時平による陰謀ならば道真は冤罪を被ったわけで、怨霊となって不思議ではない。

道真の死後、宮中では不吉なことが相次いで起こった。『北野天神縁起絵巻』には雷神となって怒り狂う道真が、清涼殿に落ちようとした時に、時平が抜刀して「そちは存命中は予の次の位にいた。いま雷神となってもこの世では予には遠慮すべきだ」と睨みつけたところ、鎮まったと云う逸話が載せられているが、実際には時平の死後、本当に清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貴が即死し、他にも死傷者が出ている。時平の死の前年に道真左遷に加担した藤原菅根が急死。次いで時平も急死。そして道真の死から二十年後の延喜二十三年(923)、皇太子保明親王が二十一歳の若さで薨去。この親王は時平の妹の穏子が生んだ醍醐天皇の第二皇子で、時平が己の権勢を高めるために一歳で皇太子となられた。保明親王薨去は道真の怨霊に違いないと噂され、醍醐天皇は道真の右大臣への復帰と正二位を追贈し、左遷の証書を破棄せしめ、慰霊鎮魂のため延長と改元された。保明親王薨去に伴い、その皇子の慶頼王が皇太子になられたが、何とその二年後に五歳で薨去されたのである。慶頼王の母は時平の娘仁善子である。その五年後、例の清涼殿落雷があって、その三ヶ月後、ついに醍醐天皇は四十六歳で崩御された。子や孫に先立たれての心労がたたってのことであったことは間違いないであろう。道真の怨霊を鎮めるべく、京都の北野寺の寺内社である北野神社に祀られることとなった。十世紀にはさらに正一位太政大臣が追贈され、北野神社はいつしか北野天満宮と呼ばれるようになった。また大宰府の道真の墓所の上にも社殿が造営され太宰府天満宮になった。この両社が天神信仰の中心であり、歴代の為政者から庶民にまで幅広く崇敬を集め続けている。今では学問の神様として受験生はもとより、海外からも注目されるパワースポットとなった。菅原道真は祟り神から福の神となって、日本人がいる限り生き続けている。