弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜吹奏楽の魅力〜

私は中学、高校と吹奏楽部に所属した。私にとっての吹奏楽は、人生でもっとも多感な時を、寄り添うように共に歩いてくれた影のような存在である。思春期、私は己が境遇を逆恨みしかけそうになった。だがそうさせじと、守り育ててくれたのが吹奏楽であった。本当にこう言って過言ではないのである。ありきりたりの言葉しか思い浮かばないが、私は吹奏楽に青春を捧げたのである。

予々書いてきたが、私は物心ついた時分からクラシック音楽に惹かれた。ピアノを習ったり、カラヤンに憧れて、ベルリンフィルのレコードを買って聴き惚れていた。クラシック音楽は誰の影響でもなく、自ら好きになった。南九州の田舎育ちで、当時は近くにオーケストラはなく、生で音楽を聴く機会は滅多になかったが、無心でレコードやCDを聴いたものである。管弦楽をライブで聴くのはずっと後のことであるが、吹奏楽との出逢いは早い。小学一年くらいの頃だと思うが、十歳以上年長の従兄弟が、高校の吹奏楽部でクラリネットを吹いており、アンサンブルコンテストを見に行ったのをかすかに覚えている。が、従兄弟が演奏する光景のみ覚えていて、音楽はまったく覚えていない。同じ頃、今度は陸上自衛隊の駐屯地の祭に行った時、音楽隊のパレードや演奏を聴いた記憶があるが、当時は音楽隊よりも、間近で見た戦車の方に関心があった。音楽隊の方はなんとなく覚えているだけである。余談だが、自衛隊の音楽隊は大人になってからは親しく聴いている。競馬場でダービーや天皇賞の時にファンファーレを演奏したり、昼休みにはコンサートを行うからで、何度聴いたかわからない。競馬場にいる競馬ファンは、予想に熱中しており、音楽隊の演奏にはほとんど無関心だが、私はいつも楽しみに聴いている。小学五年頃、近くの中学の吹奏楽部が小学校の体育館で演奏会を開いた。さすがにこれははっきりと覚えていて、忘れることができない。普段、レコードやテレビで聴いたり観たりしていた金管楽器木管楽器が、目の前でキラキラと輝いている。楽器を見ているだけで、私の胸は高鳴った。そして、指揮者がタクトを振ると、楽器たちは物凄い音で私に迫ってきた。全身浴びるが如く。音楽を聴くとはこうしたことなのか。たかが中学校の演奏でも、当時の私にすれば心震わせる出来事だったのである。およそこれが音楽初体験で、少年の私は感動し、興奮した。その日以来、すっかり管楽器と吹奏楽に魅了されてしまった。

中学では迷わずに吹奏楽部に入部した。ブラスバンドとかブラバンと呼ばれて、カッコイイとも思っていた。中学では始めに先輩からパートを選んでと言われた。私はクラリネットかサックスを希望したが、男子はできれば金管やパーカッションをやって欲しいと言われた。パーカッションも魅力的であったが、どうせなら金管でメロディを奏でたいと思っていたので、トランペットを希望した。今では木管金管で男女の隔たりなどありはしないが、当時は田舎のこととて、木管は女子、金管は男子という暗黙があったように思う。それは肺活量も考慮してのことだったのかもしれない。かくして私の吹奏楽は、トランペットから始まったのである。しかし・・・。このあといろいろあるのだが、その事は次回に。

最近しきりに昔の事が思い出される。若い頃好きだった音楽を聴いて、追憶に耽ることも増えてきた。私も歳をとったものである。そこでふと考え始めたのが、私の青春とは何ぞやということだ。歴史や文学を私なりにやってきたが、それは私の人生そのものと思っていて、青春とは少し違う気がする。今、茶道にのめり込む日々を送っているが、それは四十を過ぎて始めたことで、若い頃に始めたら良かったと少しの後悔もある。私には青春などあったのだろうかと思ったりもしたが、よくよく振り返ってみれば、それはやっぱり吹奏楽であったと思う。いや吹奏楽しかないではないか。これからしばらく月に一度、青春譜と題して、私の経験した吹奏楽と想い出を、吹奏楽への想いを、吹奏楽の魅力を、多角的に存分に綴ってみたいと思っている。

桜花ふたつ

五年前に母の愛犬が死んだ。九年生きたチワワが盛夏に、その秋には十三年生きた柴犬が相次いで逝ってしまった。母はすっかり落ち込んでしまったが、二歳の孫娘と、チワワが死んですぐに生まれた二人目の孫の世話や心配に明け暮れる日々が続き、悲しんでばかりもいられぬ状況でもあった。孫たちが愛犬の死の悲しみを癒してくれたことも事実である。しかし、孫たちが成長し、手がかからなくなってきた最近は、再び長年可愛がっていた愛犬の事が頻りに思い出されるようである。時を経て癒されかけていた悲しみが、時折込み上げてくるのは、母が年老いた所為もある。さらに昨年、祖母も亡くなって、余計に寂寥感が漂い、何かにつけて愛犬の事も追憶してしまうのだ。孫が生まれてからは、「ろくに犬たちの世話をしてあげられなかった。」と言い、「あの時ああしておけばよかった、そうすれば死なずにすんだのかもしれない。」と思うこともあるようで、私は母からそういう話を聞くたびに、「あの子達はあんたには感謝しているはずだよ。ごはんをくれて、いつも傍で可愛がってくれたことをよく覚えているはずだから。」と慰めた。それでも母の気持ちは晴れずに靄っている様であった。母は愛犬二匹を懇ろに弔い、庭の日当たりのよい場所に墓を作った。カトリック教徒である母は、墓に十字架を立て、朝晩祈りを捧げている。昨年亡くなった祖母や、数年前に亡くなった祖父や母の兄に対する、祈りとまったく同じように祈るのである。やはり何年も可愛がっていた小鳥や、二十年以上前に私が飼っていた犬に対しても、同じように祈っている。思えば、母は私の身近でもっとも祈りの人である。決して敬虔なクリスチャンというわけではないが、もう三十年以上、どんなに体調が思わしくなくとも、朝晩の祈りを欠かさない。

愛犬の死の冬、母は彼らの墓に桜を苗を植えた。八重桜である。細い幹の桜の木は、成長も遅く、母の背を越すのに三年かかったが、この一年で急激に成長し始めた。今や背丈は二メートルほどになったと云う。桜の植木から、いよいよ桜の木になり始めたのである。しかし花はいつのことやら、この二月頃に電話で聞いても、「まだまだ咲かなそうだよ。」と言っていた。が、突如一本の枝の一部が鮮やかに赤くなり、蕾が現れたのである。四月に入ってからのことで、八重桜は大島桜やソメイヨシノよりも少し遅れて咲くが、母は今か今かと待ち焦がれていたので、まさに覚めても胸のさわぐなりけりといった心境ではなかったか。

この三月末から日本列島は相当に暖かい日が続いた。桜前線はあっという間に北上してゆく。東京のソメイヨシノも開花発表から三日で満開、花冷えもなく、一週間と持たずに散っていった。こんな年も珍しいが、パッと咲いて、サッと散りゆく花を名残惜しむ心地はやはり名状し難いものがある。一方で近頃の私は、桜の便りを聴くと、少し陰鬱な気分になる。花粉症のピークと重なることや、嫌いな暑い夏がやってくると思うと、うんざりするからだ。業平や西行のように一途に純粋な気持ちであれば良いのだが。

果たしてこの春、母手植えの八重桜はついに花を咲かせた。それもたった二輪だけ。その二輪がまことに健気に見えて美しい。まるで、五年前に逝った愛犬が二匹で寄り添うが如く、たった二輪だけ咲いたのだ。これには、母も私も深く感じ入ってしまった。私には霊能力など微塵もないが、実は今年なんとなく花が咲く予感がしていた。それは昨年、母の母である祖母が亡くなったからだ。亡くなった祖母が咲かせてくれそうな気がする。母にもそう言っていた。花が咲いてそれは確信になった。このところ体調不良が続いて、老いと向き合いながら生きている母への、祖母からの励ましに思えてならないのだ。きっと祖母が咲かせてくれたに違いない。

日本人は山川草木に神が宿ると信じ、花にも心があるとして生きてきた。白洲正子さんは、夕顔と云う随筆で、夕顔の蕾が花開く瞬間を観ようと、夕方からずっと観ていたが、ついに花は開かずに蕾のまま首ごと萎れてしまったと書いておられる。三日間試したが結果はすべて同じであったらしい。花は分かっているのだ。夕顔は淑やかな花なのだろう。故に人に見つめられていると、花は開かないのだ。桜にも心がある。今年咲いてくれたのも、祖母と二匹の愛犬が、桜に成り代わって母に逢いに来たのだと私は信じている。来年はもう少し数を増やして咲くであろうか。花の命もまた短い。今朝、二輪の八重桜は散ったと云う。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(三)

渡良瀬川。美しい川の名だ。九州の田舎にいた高校生の頃から、この川の名はよく知っている。森高千里さんの「渡良瀬橋」を耳にしていたからだ。今でも冬の落日黄昏行きに、この曲を聴きながら私のあの頃を思い出すことがある。渡良瀬川皇海山を水源に、群馬県と栃木県を潤しながら、茨城県古河市にて利根川へと合流する。栃木県南西の中核都市足利は、小京都と呼ばれるに相応しい歴史と風情ある。この町が好きで、私は何度か訪ねている。私が北関東に住むならば、迷わずに足利を選ぶであろう。この町には歴史だけではなく、何故か不思議な魅力がある。そして来るたびに住みたいと思わせる風景や人に出逢う。森高千里の歌があるからだけではなく、「たそがれる」にはこれほど良い町はない。日光の峰々や赤城山から降りてくるからっ風に吹かれながら足利の町を歩くと、この町にしかない時の流れが、私の中にも徐々に流れ始め、やがて芯から満たされてゆく。都会の雑踏から離れると言っても、私などはあまりの辺境では暮らせるわけもない。都会過ぎず田舎過ぎず、ちょうど良い規模の足利の町には、どこか懐古的な情緒があって、郷里を思い出すところもある。それに相乗効果をもたらすのが、かの名曲「渡良瀬橋」。渡良瀬橋足利市の真ん中に架かる橋で、現在の橋は昭和九年(1934)架橋。鉄道橋のような見た目だが、こういう橋の構造をワーレントラス橋というらしい。橋は自動車専用だが、平行して西側に歩行者用も架けられている。二十年以上前、私は初めてこの橋を見た時、無機質な鉄骨に半ばがっかりしてしまった。渡良瀬橋の歌のイメージにそぐわぬ武骨さを感じたのだ。だが歳を重ねて、改めて渡良瀬橋を渡ってみると、なかなか格好良いトラス橋だと思い直した。夕陽の中で眺めると、あの竜の骨のような鉄骨が美しい影となって、それがかえって郷愁を誘うのである。渡良瀬川は足利のあたりでは天井川で、昔から治水には苦労したと思うが、この川がこの地を肥沃にして人々は集った。明治の足尾鉱毒事件の時は、有毒土砂が渡良瀬川を降り、折からの台風で天井川は氾濫、地域を汚染し土砂は堆積したという。鮎が大量に死に、稲は悉く立ち枯れた。日本最初の公害事件である足尾鉱毒事件の現場が、渡良瀬川流域であったことが、今は信じられないような気がする。が、東日本大震災では有毒土砂が堆積した源五郎沢が決壊し、渡良瀬川に流れ出てしまった。あの時下流からは基準値を超える鉛が検出されたのである。発覚から百年以上経過した今でも、この公害は影響しているのだ。これは完全なる人災であって、実に恐ろしいことである。人間が自滅するために、怒りし大自然が働きかけているような気がしてならない。

足利氏は、尊氏が室町幕府を開き、三代義満の時に日本史上、類を見ないほどの権勢を手中にした。義満は左馬頭、征夷大将軍、参議、左近衛中将権大納言、右近衛大将、右馬寮御監、内大臣左大臣、蔵人別当、後円融院別当、源氏長者、准三宮、淳和奨学両院別当と昇進し、太政大臣にまで昇りつめる。明王朝には日本国王であると宣言し、さらに死んだのち、鹿苑院太上天皇諡号まで贈られた。これだけの位人臣を極め尽くした日本人は後にも先にもいない。義満は花の御所と呼ばれた邸宅を禁裏の北に造営し、南面する天子をそれよりも北面から圧するかの如く支配した。足利氏の発祥の地とされるのが、ここ足利である。八幡太郎義家の四男源義国は、下野国足利荘を領した。その長男の義重は上野国新田荘を領し後に新田氏の祖となり、次男義康がここで足利を名乗り祖となった。足利氏は源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力し、北条執権時代も有力御家人として手堅くつきあい、この足利の地を治めた。足利氏は名門中の名門なのである。ゆえに鎌倉幕府が滅んで後、南北朝時代に改めて台頭した。栄枯盛衰の室町幕府が滅んでも、古河公方として上野、下野を領し、その後もしぶとく生き延びて、分家、支流に血をつなぎ、徳川時代にもそれなりに遇されている。ただし足利氏が徳川時代に領したのは、足利市からすこし離れた喜連川藩(現在の栃木県さくら市)であった。喜連川藩の石高はわずか五千石で、万石以上が大名とされた江戸幕藩体制下で、大名ではないがしかし旗本でもない、だが外様大名の格は与えらていると云う、江戸三百諸侯でもまことに特殊な家柄であった。天正十八年(1590)に秀吉の命により、足利国朝が古河公方を継ぎ、喜連川を領したのが、喜連川家のはじまりで、江戸幕府もそのまま幕末までその領地を保証した。石高は少なくとも、古河公方の名跡と足利氏の由緒を慮り、破格の待遇が与えられていたのである。一方で足利も足利藩となり、本庄氏や戸田氏の譜代が治めているから、江戸幕府も枢要な地とみなしていたのだろう。

その足利氏の館跡が今では寺となっている。金剛山鑁阿寺である。鑁阿寺は、元々は足利氏の館であり、現在も堀を廻らし、石垣や土塁があったりして中世の武家の館を彷彿とさせる。建久七年(1196年)に足利義兼が真言密教の僧理真を招き、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂を建立したのがこの寺のはじまりとされる。義兼の戒名から鑁阿の字をもらい鑁阿寺となった。戦前までは真言宗豊山派に属していたが、昭和二十六年(1951)に独立し、真言宗大日派の本山となった。境内は落ち着いた堂々たる古寺であるが、外見はやはり寺という感じがしない。今では足利氏の居館として日本の名城百選にも選ばれているそうだ。鑁阿寺がことに大きくなったのは、やはり足利家が武家の棟梁となってからであろう。将軍家、鎌倉公方家から、足利家の氏寺として手厚く庇護された。正安元年(1299)に建立されて、室町期に大規模な改修が施された本堂は今や国宝である。鑁阿寺密教寺院であるが、本堂はまことに質朴で、禅宗様式が多分に垣間見られる。どこかの禅寺の仏殿のような造りであり、どこまでも坂東らしく、西国にはない唯一無二の趣きが、足利の原点となっている。西国にはないと書いたが、たしかに京都の等持院相国寺も、足利氏縁の寺は質実剛健である。鹿苑寺だって舎利殿以外は質素な佇まいであって、それが金閣を際立たせている。そして足利の無限の極致は必然的に、慈照寺銀閣を生み出したのだと思う。鑁阿寺は本堂以外にも、鐘楼や一切経堂、多宝塔もすばらしいが、何といっても私の目を惹いたのは、正面の楼門と太鼓橋である。威風堂々たる楼門と、屋根のついた優美な太鼓橋は十三代将軍義輝が再建したものらしい。私の想像では、かつて日本の市中の寺というのは、こうした佇まいをみせていたのではないかと思わせるところがある。足利が面白いのは、京都と鎌倉が絶妙のバランスで混在しているという点であろう。それは他の名だたる城下町や門前町とも違う。そして京都や奈良=天皇の御座所のある都ともまた違う。京都と似ているのはあくまでも室町幕府の周囲であろう。鎌倉は城下町にはならず、寺社は多いが門前町というわけでもない。つまりは武家地なのである。その中心が花の御所であり、大倉御所であった。足利もそれに習い踏襲されて、町が造られていったのではないかと思う。或いは鎌倉や京都がそれに倣ったのかもしれない。いずれにしろ昔も今も足利の核は、この鑁阿寺なのである。

鑁阿寺にほとんど隣接して足利学校が在る。ついでに寄ってみた。足利学校は日本最古の学校として有名だが、私は何度か足利に来ているのに、これまで機会がなく入ったことがなかった。鑁阿寺と並ぶ足利観光のハイライトで観光客が多い。足利学校は、奈良朝末か平安初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられるが、明らかでないらしい。確実なのはやはり室町時代になってからで、永享四年(1432年)、関東管領上杉憲実が足利を治めるようになり、衰退していた学校再興し、鎌倉円覚寺から僧快元を招いたり、蔵書を寄贈した。その結果、北は奥羽、南はなんと琉球まで、学徒が集まり、足利学校は東国最高学府としてその名を馳せた。上杉憲実は実に熱意溢れる儒学教育者であった。特筆すべきは、文安四年(1447年)に足利学校で教えるべき学問は、三註、四書、六経、列子荘子史記、文選とし、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであるとしたことだ。教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。足利学校の教育の中心は儒学であって、それを象徴する孔子廟が中央に在る。快元が易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。校内には菜園や薬草園もあり、学校と、近隣の民は互恵関係で結ばれていたのだろう。足利の民はこぞって学生を支え、学校が在ることを何よりの誇りとしたに違いない。一時は三千人もの学生がいて、足利は足利学校によって盛況した。この頃の足利学校の様子を、フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして、最も有名な坂東のアカデミー」と記している。ザビエルが足利学校を訪れたのかは知らないが、日本人の気質を気に入り、褒め称えているザビエルは、日本人の教育にも関心があったに違いなく、足利学校の噂を聴いていろいろと調べていたのだろう。ザビエルによって南蛮にまで足利学校の名が伝えられたのは確かだと思う。天正十八年(1590)の秀吉による小田原征伐で、後北条氏と繋がる足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。衰退極まれりというところで、家康の保護を得て息を吹き返した。江戸期には足利学校へ百石の所領が寄進され、代わりに毎年正月にはその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出した。足利藩になってからも足利近郊の人々が学ぶ郷学として親しまれ、足利は名だたる文教の町になる。だが、朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また天下泰平となって易学、兵学などは学問として衰微していった。しかし江戸期の学者たちが、足利学校は貴重な古典籍を所蔵する図書館として注視しており、それを受けて幕府も足利藩に学校を存続させたのである。明治維新後、廃藩置県を経て廃校。足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により蔵書と孔子廟を含む旧足利学校の西半分が、県から地元に返還され、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立した。大正十年(1921)年にようやく足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は、国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。そしてついに平成二年(1990)に建物と庭園の復元が完了し、往時の美しくも偉大なる足利学校が現出したのである。入徳門という正門を入ると、美々しい石畳の道がまっすぐと孔子廟まで続いており、ちょうど真ん中に有名な「校學」の扁額を掲げた学校門がある。かつて日本の雄藩の城下町にあった藩校は、規模は様々であるが、もしかすると足利学校を手本としたのではあるまいか。方丈などはまったく禅寺のようだが、これが日本の学府のもっとも古典的な佇まいではないかと思う。広々とした庭園からは足利の周囲の山々を遠望できて、実に懐古的な気分に浸ることができる。足利学校は、成立の時期が曖昧で、かねがね論争になってきたが、いずれ上杉憲実が整備した学校であろうと私は思う。が、そんなことは歴史家の考証に任せればよくて、個人的には文教の町として、何とも清浄な空気というものが、この足利学校から足利の町へ、沁み渡っているように思った。足利市は学び舎の町である。

 足利市街を離れて、北の山中や山麓にも古寺が隠れている。有名なのは、関東の高野山とも云われる浄因寺だが、此度は時間がなくて断念。しかし、匹敵するほどの古刹鶏足寺へ行ってみた。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建されたと云う。実に千二百年以上もの歴史ある寺なのに、あまり知られていないところが、私には好ましかった。建立からしばらくは世尊寺と号し、天台と真言の兼学道場であったと云う。天慶二年(939)、将門の乱が起こり、藤原秀郷が鎮圧に赴く。世尊寺の住持は秀郷の勝利を祈願し、密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷した。が、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに将門の乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であるとされる。文永六年(1269)下野薬師寺の慈猛(じみょう)を迎え、真言宗慈猛流総本寺となり、往時は末寺三千もあったと云う。密教の道場として栄えていたのだが、先に挙げた浄因寺にしろ、ここ鶏足寺にしろ、下野は紀州高野山とは何か対角的な真言密教の聖地とされたのであろうか。思えば、下野には天下の三戒壇のひとつ下野薬師寺があり国分寺もあった。中世以前、東国坂東においては下野こそが、政治も、宗教も、文化も中心地であったことを示している。真言密教もこの地に根差す下地のようなものはあったに違いない。鬱蒼たる森に囲まれてひっそりとある鶏足寺は、竹林があり、池があり、桜や楓もさりげなく植わっていて実に雰囲気のある寺である。山門を潜ると長い杉木立の参道で緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのものであって、歩いた人々の足跡が残っていた。寺の正面は石垣に囲われていて、出城か砦の様にも見える。勅使門を入っても境内には誰一人いなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりだが、殊に閻魔堂のあたりは雰囲気が良い。まことに閑寂な今の鶏足寺に、私は魅せられてしまった。さらに奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日も傾きかけたこの時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。そういうこの世ならぬ、ただならぬ雰囲気に充ちた境域は、いかにも真言密教の寺らしいと思ったりした。

知人のKさんに足利に行くならついでに、隣の群馬県太田市にある「どんりゅうさま」にも行ってみたらと言われた。「どんりゅうさま」。恥ずかしながら私は此度初めてその名を知ったのだが、「どんりゅうさま」とは戦国時代から江戸初期の僧呑龍上人のことで、この地域の人々には今も厚く信仰されていることがわかった。慶長十八年(1613)、家康が自らのルーツとし、徳川の祖の一人として中世に上州を領した新田義重を祀る寺として、呑龍を招いて開山した寺が浄土宗義重山大光院新田寺である。この寺が呑龍さまと呼ばれて親しまれているのだ。果たして呑龍さまは、徳川の威光を見せつける大寺であった。だが、至る所に呑龍上人の名を刻んだ碑や板が掲げられていて、東京の増上寺や、京都の知恩院に比べたら徳川色は薄く、むしろ呑龍上人一色の寺であった。境内の一番奥には、新田義重と呑龍の墓がある。呑龍は、弘治二年(1556)武蔵国埼玉郡一ノ割村(今の春日部市)に生まれ、幼くして地元の林西寺という寺に入り、その後、増上寺に入って修学した。やがて増上寺を筆頭とした浄土宗関東十八檀林のひとつ八王子大善寺の三世住持となり、浄土宗壇林の確立と、僧侶の育成に勤めた。その名は浄土宗に深く帰依していた家康にも聞こえたのだろう。呑龍はこの地で、浄土宗の布教に勤め、彼の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、寺は栄えていった。一方、戦乱で人心は乱れ、天災も相次いだこの頃、巷では捨て子や、間引きなどの非道が横行する。呑龍はこのような世憂い、捨て子や貧しい子供を寺で引き取り、弟子として養育した。このため人々からは「子育て呑龍」と呼ばれるようになる。その信仰は呑龍が亡くなってからも、庶民の間で続いてゆき、今も子供の無事の成長や安産祈願の寺として地元民に愛されている。この日も幼子の手を引いて訪れている母、赤ちゃんを抱っこして熱心にお参りする若いお父さんの姿が見られ、とても印象的であった。元和九年、病床にあった呑龍は、八月になるといよいよ明日をも知れぬ状態となる。呑龍は弟子たちにこう言った、「九日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と。そして本当に八月九日の正午、雷鳴がとどろく中、息を引きとったと云う。まさに雷鳴とともに昇龍したかのようである。戦前、太田市には戦闘機を作っていた中島飛行機があった。一○○式重爆撃機の愛称が「呑龍」であったと云う。この地に大光院があることから呑龍上人にあやかって名づけられたのだろう。戦闘機「呑龍」は、太平洋戦争時には中国戦線や南方の激戦地への輸送機としても使われたらしい。自分の名を冠された戦闘機にて多くの尊い命が祖国から遠くの戦地へ運ばれてゆく、そしてその命は再び還ってくることはなかったかもしれない。それを呑龍その人はどう思っていたであろうか。或いは、当時、戦闘機製作に携わった人々が、呑龍の加護を祈念し、せめてもの慰めとしたのであろうか。今となっては知る由もない。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(二)

すっかり北関東の寺社に魅了されて、別の日にまた出かけた。深夜に東京を発ち、T君の運転で東北道を北に向かう。もう何度このルートを走っているかわからない。奇縁なことに天気はいつも晴朗で、行きは夢のような朝焼けを、帰りには厳かな夕焼けを拝みながらのドライブは、旅の何よりの宝となった。毎回、早朝から夕方まで車を運転してくれるT君のおかげであり、方々つきあってくれた彼には感謝しかない。

 この日はT君の提案で、まず栃木県茂木町にある鎌倉山に雲海を観に行った。雲海の名所は各地にあるが、鎌倉山のことは此度初めて知った。明けの明星の瞬きを見ながら、北へと向かっていた車が、少し東へと方向を変える頃、空にはうろこ雲がたなびき、人間には作り得ない赤い色の朝焼けが、西へ向かって空恐ろしいスピードで流れゆく。鎌倉山の麓に着いた時には、一帯は濃霧に覆われていた。鎌倉山那珂川を見下ろすように立っている。二百メートルほどの低山だが、周りにはこれより高い山はないため見晴らしが良いらしい。那珂川の川面から、もの凄い勢いで水蒸気が昇ってゆく。これが溜まって、雲のように山々を取り巻き、雲海となり、町を包むのだとわかった。車を那珂川のほとりに停めて、沢を渡り、キツイ傾斜の杣道を登る。あたりは鬱蒼たる樹林だ。年若のT君はぐんぐん登る。私もそれに着いて半分ほど一気に登ったが、酸欠になってしまい、だんだん苦しくなる。少し息を整えて、ようやく九合目あたりに来た時、岩場になり視界が開けた。先を歩くT君が歓声をあげる。連れて私も俯瞰して観ると、どうだろう、鎌倉山の首から下はまったく白雲に包まれている。雲とも霧ともつかないのだが、恐らくは濃霧が下から立ち昇っているのだと思う。実に幻想的な光景で、酸欠となっていたことも忘れた。そして思いっきり深呼吸をして、マイナスイオンしかない山の朝霧を身体に充満させた。ちょうど御来光の時であり、遥か遠くに見える山々も首から下はすっぽり雲の中なので、本当に海に浮かぶ島の如く見える。しばらくの間声も出なかった。これほど爽やかな朝は何年ぶりだろうか。頂上まで行ってみると、ささやかな社が。菅原神社とあるから天満宮だろう。後でわかったのだが、私たちが登ってきた道とは反対側にも舗装された広い登山道があって、頂上までは容易に車で登れるらしく、雲海のシーズンは大変な混雑らしいが、この時はまだ雲海も出始めとのことで、人は疎らであった。坂東には鎌倉を冠する鎌倉街道があり、鎌倉山という山もいくつかある。坂東が鎌倉幕府のお膝元であれば宜なるかなだが、茂木町の鎌倉山も、この地を治めた某氏の物見山としての役割を果たしたのではないだろうか。

鎌倉山を降りて、茨城県笠間市西念寺へ向かった。筑波山塊の北側に稲田郷というところがある。今もその名に背かぬ美しい田園地帯である。この一ヶ月ほど前に、すぐ近くの坂東二十三番札所の観世音寺と笠間稲荷に参詣したのだが、その時は時間がなくて寄れずにいた。この辺りは古くから開けた農地であったに違いなく、稲田という地名や、農耕神である稲荷が笠間に鎮座することからも類推できる。国道から木々の間に寺の甍が見えた時、大きな寺に違いないことはわかったが、あとから調べて、ここが親鸞の坂東の布教の拠点となった場所であり、教行信証の執筆を開始し、妻恵心尼とともに子を育て、足かけ二十年も滞在した稲田草庵であることを知り、ぜひとも訪ねたいと思っていた。その願いは一ヶ月あまりで叶った。思えば来るべくして来る寺であったのだろう。その縁を嬉しく思いながら、美々しい敷石の参道を歩き、茅葺の山門を潜った。現在の本堂は平成七年(1995)の築だが、二十年余りの歳月は、すっかりと古寺に馴染んでいる。ひときわ目を惹くのが真宗寺院でよくみかける太鼓楼で、一見すると城の櫓のようである。天保十四年(1843)の建立で、法要の開催などを近隣住民に伝えた。境内はゆるやかな丘陵地にあって、本堂裏手の丘には親鸞が生涯慕った聖徳太子を祀るお堂がある。ここから西念寺の大屋根越しに眺める稲田と筑波の裏山の風景は良い。西念寺は巨刹ではないが、こじんまりとしているわけではなく、程よく立派な寺である。一年中仏教講座や市民講座が開催されていて、宿坊もあり、門徒のみならず、学生の合宿にも使われるらしい。私は圧倒的な巨刹も好きだし、寂寞とした小さな草庵も好きだ。が、西念寺のように大きすぎず小さすぎずの私にとって程よい寺が、なんとなく一番落ち着くのだ。それは私が凡夫故であろう。巨刹は私の様な無知で小心者には威圧され潰れそうになるし、無碍の境地など生涯会得できぬ愚物には、厭世的な草庵もまた似合わぬ。この規模の寺が、覚束ない人生を歩く私には、安心してほとけ様へ心身を委ねることができるのかもしれない。

西念寺は、真宗門徒からは通称稲田御坊とか稲田禅坊と呼ばれ、浄土真宗開祖親鸞聖人の聖地とされている。真宗では珍しくいずれの派にも属さない単立寺院で、稲田の草庵として広く門戸を開いている。承元の法難により、親鸞は師の法然らとともに流罪となり、建永二年(1207)越後に流された。僧籍を剥奪された親鸞は、藤井善信の俗名を与えられるも、自ら「愚禿親鸞」と名乗り、非僧非俗であると宣言した。忸怩たる思いで配流生活を送り、やがて赦免された親鸞は、京都へは帰らずに、東国にて布教活動を行うことを決心した。決心というよりも、己の信ずる仏道は念仏であって、自身もただ念仏にすがりついて生きてゆきたいと思ったのだ。はじめは本当にそれだけであったと私は思う。建保二年(1214)に家族や門弟と越後を発し、信濃善光寺へしばし逗留した。その後、伝手あったのか、常陸国へ向かった。今の下妻市小島に草庵を結び、坂東の地での布教を開始、次第に評判が流れて、稲田郷の領主稲田頼重に招かれて、新たに吹雪谷と呼ばれたこの地へ草庵を結び、東国での拠点とした。親鸞に篤く帰依した稲田頼重が、多分にスポンサーとなったことは想像に難くない。親鸞はここで立て直し、一家や弟子の暮らし向きも落ち着いたことで、地に根差して布教活動ができた。そしてこの地で四年の歳月をかけて、彼の代表作「顕浄土真実教行証文類教行信証」を著した。教行信証には、親鸞が学び、読み、思索してきた浄土信仰の魅力と念仏門の正しさが丹念に書き著されている。全六巻の教行信証は、浄土真宗の根本を成す聖典とされる。親鸞の思う親鸞の仏教を様々なアプローチで書いているが、複雑で膨大な文章を、我々が簡単に理解するのは難しい。むしろ我々には弟子唯円の著した歎異抄にこそ、親鸞をすぐ近くに感じることができるし、易しく真宗の仏教へ誘ってくれる。だが、教行信証が不可思議に面白いことは、あれほど、弥陀の本願にお任せし、ただひたすらに念仏せよという、易行念仏を説いた親鸞が、これほど綿密に多角的に論じているということに、あらためて驚愕することだ。叡山に登り、法然という師を得て、法然と同行と誓った親鸞という人の宗教観、教養、己が見つけた仏道への自信というものを感じずにはいられない。

親鸞は流転の日々から、この稲田郷においてようやく安穏を得ることができた。おかげでこれまで見てきた人間の業、人間の性というものを改めて考えて、思想思索を整理することができたのである。そして、迷いも完全に払拭され、生涯を己が仏道と、念仏門の布教に捧げることを誓った。寺から少し北へ行ったところに、稲田神社という社があって、どうもそのあたりが教行信証の執筆を始めた場所ではないかといわれている。いかにすれば極楽往生を遂げられるのか、大真面目に考え、悩んだ末に教行信証をまとめ、二十年の間に多くの弟子と信者を得た。都の文化果つるところといわれた常陸国において、成し遂げた親鸞は還暦を過ぎた。そして突如として都へ帰還する。寺伝では、妻の恵信尼と息子善鸞に東国での布教を託して、弟子の何人かとともに京都へ上った。親鸞は東国に根差した念仏門を絶やすことを忘れず、かつやはり日本の中心であって、自分の故郷でもある京都において、余生の余力をすべて注ぎこんでみたい、そういう挑戦の気持ちが沸々と湧いていて、いざ実践しようと思ったのではなかったか。いずれにしても、九十年の親鸞の生涯において、もっとも熱く情熱的に、かつ冷静に生きたのが、ここ稲田郷であったのだと思う。寺の外の田の中に、見返り橋の跡がある。親鸞は京都へ旅立つ朝、稲田の里に名残を惜しんで、その橋の上にしばし佇んでいたと云う。立つ瀬を得た稲田を去りがたい気持ちと、生まれ故郷への望郷の念が、親鸞の心身を複雑に交錯したに違いない。

 稲田御坊から車で四十分ほど西へ走り、再び栃木県へ戻って、真岡市にある高田山専修寺へ向かう。真宗高田派の本山は、三重県津市の一身田に寺内町を構えて勇壮な大伽藍があるが、ここが草創の寺で、高田派では本寺と呼ぶそうである。今は真岡市となったこのあたりは、以前は芳賀郡二宮町で、あの二宮尊徳が小田原からこの地へ赴任して、二十六年間暮らしたとされる桜町陣屋という古民家が残されていたり、二宮神社があったりもする。二宮尊徳は、小田原藩で酒匂川の氾濫の被災復興に尽力し、百姓の子として生まれたにも関わらず、勤勉に勉め、藩の誰よりも農政に精通し、思想もよほど賢かった。経世済民とは何たるかをわかっていた。それを買われて、小田原藩飛地であったこの桜町が荒廃しているため、藩から派遣されたのだという。尊徳が仏教や真宗の専修念仏に関心があったかはともかく、この地で復興事業の傍ら、おそらくは専修寺にも参詣したのではあるまいかと思う。北関東道からほど近くの住宅地の只中に、こんもりとした森がある。このあたりを高田というそうで、寺は森の中に埋もれるようにひっそりと在った。が、さすがに歴史ある寺に違いなく、広々とした境内は風格を備える。茅葺の門や庫裏、スマートな山門などは坂東らしい簡素な趣きである。三重の一身田の専修寺も室町以降に本山となってから、寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残しているが、ここ高田の本寺も、寺の周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成である。また、少し離れてはいるが、真岡鉄道に寺内(てらうち)という駅があって、各地の真宗寺院のように、この一角はひとつの寺内町であったことを示している。

本堂の如来堂と親鸞を祀る御影堂、総門、山門、真佛上人像と顕智上人像はいずれも国の重文。如来堂は元禄十四年(1701)の建立で、小ぶりだが寺の堂宇というよりも、外観は完全に神社の社殿である。きっと神仏混淆の遺産ではないかと思う。本尊の阿弥陀三尊像については諸説あるが、一説では親鸞が夢告により、信濃善光寺より迎えたという。善光寺の前立ち本尊と同じように、一つの光背の中央に阿弥陀如来、向かって左に勢至菩薩、右に観世音菩薩が並ぶ一光三尊仏である。桜町、後桜町、後桃園、光格、仁孝、明治の六人の天皇が拝したとされ、別名は天拝一光三尊仏と云う由緒あるほとけである。秘仏とされ、十七年に一度御開帳されるが、普段は本尊を模した美しいお前立ちを常拝できる。真宗寺院は阿弥陀如来を祀る本堂よりも、宗祖親鸞を祀る御影堂の方が大きいのが特徴だが、この寺も御影堂が阿弥陀堂よりも四倍くらい大きい。昔は御影堂も茅葺だったらしいが、今は銅板葺に変わっている。重厚感溢れる御影堂内部は、シックな外観とは異なり眩しいほどに立派であった。親鸞を祀る須弥壇には精緻な彫刻、絢爛たる装飾があって、本山に劣ることはない。この寺が浄土真宗の聖地の一つであって、真宗十派のうち、本願寺派大谷派を除く八派では最大勢力とされる高田派の歴史の重みと、信仰の力を感じさせるものがある。

真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒や地域の檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。高田の本寺専修寺も多分にその色を強く感じた。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も私たちだけで独占させていただき、坂東の古刹の空気を存分に堪能した。親鸞は四十二歳頃から、およそ二十年、稲田の草庵に腰を落ち着けながら、坂東各地を行脚し専修念仏を広めた。寺伝によればここへ来たのは五十三歳の時で、この地で真佛など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立し、善光寺から迎えた阿弥陀三尊像を本尊としたとされる。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時。建立当初は専修阿弥陀寺と称し、およそ七年間親鸞はこの寺をベースキャンプにした布教活動を行った。小貝川のほとりには、親鸞が寝泊りした三谷草庵があって、道場ができるまでの仮住まいとしていた。坂東には各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそうして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。ここ高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽したのである。真宗の本流というわけである。門弟は高田門徒と呼ばれ、真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除され小さくなり、まことに不遇であった。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院とした。この寺が後に本山専修寺となる。本寺の専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。その後、江戸期にようやく高田の専修寺も復興された。私は浄土真宗の始まったこの寺で、改めて真宗の長く、複雑な歴史に思いを馳せた。今や宗派間の対立などキナ臭い歴史を封印するかのような穏やかで静かな時が流れている。

門を出る前に、涅槃堂というお堂に入ってみた。ここでは誰でもあっと驚きの声をあげずにはいられないだろう。お堂の中で横たわるのは、三メートルに及ぶ大きな釈迦涅槃像である。その大きさに驚き、しばらく拝んでいるとその御姿に感動するはずだ。涅槃像は元禄時代の木像で金箔が施されているが、その御顔はまことに優しい。いつまでも尊顔を拝していたい気持ちになる。作者は江戸湯島九兵衛と墨書にあるらしいが、江戸の湯島九兵衛なのか、江戸湯島の九兵衛なのか、私は知らない。いずれにしても全国的に名の知れた仏師ではなく、江戸期の職人らしい純朴さを涅槃像からも感じることができた。友愛と簡単に言う人がいるが、こちらの御釈迦さまにこそ、私は広大無辺の友愛と、御慈悲を賜ったような気がした。まもなくこの寺は草創八百年を迎える。浄土真宗という日本仏教最大の宗派は、親鸞の波乱に満ちた生涯のおかげといっては失礼かもしれないが、親鸞の境遇、その偶然によって、広大な坂東の平野から、日本全土へ広がっていったのである。いわばここが浄土真宗の核であり、源泉なのであった。よくよく考えてみれば、それは偶然ではなく必然であったのだと思う。

 

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(一)

去年、坂東三十三観音巡礼を結願した。巡礼記は別途書くつもりだが、とにかく関東平野を廻り巡ったことは、私にとって生涯の財産と成り、同時に関東の広さと奥深さに深い感銘を受けた。関東一円を巡ったついでに、私は長年気になっていた北関東の寺社の多くを訪ねる機会を得た。此度は、印象に残ったそのいくつかに触れたいと思う。北関東は首都圏に含まれるが、南関東に比べて、人も時間も齷齪していない。日本最大の平野の雄大な風景を枕にして、寺社は坂東らしく質朴であり、どっしりと落ち着き払って見える。

 白河関に行った朝、その足で八溝山に行った。途中で、栃木県大田原市に在る那須神社、黒羽大雄寺、臨済宗の古刹雲巌寺に立ち寄る。大田原市は、下野国の大田原藩と黒羽藩があったところで、奥州街道において坂東最北の地として枢要な地であった。ゆえに徳川時代には外様とはいえ、細かく領分し、幕府に従属させた。これが幕末までは一応成功したといえるだろう。大田原市内には由緒ある寺社が今も数多く点在する。まずは那須神社に向かう。大田原市の臍の様な場所に鎮座する那須神社は、正式には金丸八幡宮という。八幡神といえば源氏の氏神であり、古来より武家に崇拝されてきた。この社は那須与一と関わりの深い神社だと伝わる。今、神社に隣接して那須与一伝承館まである。源平争乱の屋島で、弓矢の名手として義経に指名された家来の那須与一宗高は、平家方の舟に立てられた扇の的を見事に射抜いて魅せる。この時ばかりは、源平双方破れんばかりの拍手喝采で、源氏は箙を鳴らして喜び、平家は舟板を叩いて称えた。平家物語の見せ場の一つである。与一は弓に鏑矢を掛け、扇の的を見据えた。ここで己が的を外せば、源氏にも自分にも未来はない。我が一矢をもって趨勢が決まると思った。そして、瞼を閉じて祈念した。

「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて給ばせ給へ これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず 今一度本国へ帰さんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな 」

と心の中で呟いた。風が止んだ。凪も止まった。瞬く間であった。鏑矢は金色に輝く扇の日の丸を射抜き、静寂の夕凪に扇がはらはらと舞い落ちていった。この時、源平の盛衰は定まったのである。史実でも伝説でも構わない、文学的にはまさしく的を得た場面である。私は中学の古典の授業で、この一文を覚えてから、那須与一のことが気になっていた。中世に那須氏は下野国北部一帯を統治した。那須与一はその祖と云われるが、そもそも与一自身が実在したのかも謎で、出生地も定かではない。だが、後日談から湧いた那須与一像は、那須一族の誇りであり、今もって大田原市民の自慢なのである。神社は街道筋にあるため、周囲は車がよく走るが、境内へ一歩入れば森閑としている。まず参道が良い。一の鳥居から二の鳥居まで長い一直線で、端から端までは霞んで見える。流鏑馬も行われるらしいが、林間の一本道には、如何にも勇猛果敢な坂東の騎馬武者が、颯爽と走ってきそうな雰囲気がある。一説によれば、社としては仁徳時代(313年〜399年)の創建の古社で、延暦年間に坂上田村麻呂蝦夷討伐の折、八幡神を勧請したと伝わる。その後代々この地の領主に厚く信仰された。江戸期の領主黒羽藩も例外ではなく、風格漂う楼門は寛永期に黒羽藩が寄進したとか。このあたりでは珍しいのが楼門前に架かる石橋で、神域に威厳を添えている。この神社の格式と、昔から貴賎を問わずに大切にされてきたことを語るような佇まいである。社殿は簡素だが精緻な彫刻があって、社殿を取り囲む木塀は一部朽ちかけているものの、この規模で造られた事を考えれば、やはり崇敬篤き神社であったことがわかる。

 中世、下野一帯を支配した那須氏はこの地で連合組織を作った。主家たる那須氏のほか、那須一族の盧野、伊王野、千本、福原の四氏と、重臣の大関、大田原の二氏である。合わせて那須七騎と呼ばれた。六氏は、主家那須氏とは持ちつ持たれつの関係で、時に反抗もした。その那須七騎の一つ大関氏が、徳川幕藩時代に黒羽藩一万石を治めた。その城址那須神社から東へ少し行ったところにあり、その城内に菩提寺の大雄寺もある。高校野球で有名な作新学院は、幼稚園から大学まであるが、元は黒羽藩の藩校作新館であった。特に一昨年の夏の甲子園を優勝した作新学院高校は、日本一の生徒数を誇る大規模な学校で、今も文武盛んである。黒羽藩は小藩ながら江戸後期には若年寄まで務めた由緒があるが、動乱渦巻く幕末において、こうした異例人事は珍しくもない。会津藩京都守護職を筆頭に、勝海舟幕府陸軍総裁、北陸敦賀にて天狗党を討伐した田沼意尊は、田沼氏では意次以来久々に表舞台に登場する。(もっとも田沼家は意次失脚後も代々若年寄を務めてはいる)。新撰組も、彰義隊も、見廻組も、遊撃隊も、封建泰平の世ならばあり得ない組織である。思えば北関東は、上野国下野国の諸藩は、幕末の最終局面ではほとんどすべてが官軍に寝返っており、此処、黒羽藩も倒幕に傾いている。おそらく幕府は、事前に若年寄というアメを与えて懐柔を図ったのだろう。しかしその恩は報われなかった。黒羽藩は小藩でも、上野、下野の他藩と一連托生し、力を蓄えた。その藩主大関家の菩提寺が大雄寺なのである。寺は黒羽城址に閑雅な趣で建っている。創建は応永四年(1404)。森の中の緩やかな坂道の参道を昇ると、どっしりとした茅葺の本堂が現われる。野趣溢れる寺の佇まいは、いかにも坂東に似つかわしい。昔話の世界に惹き込まれたような、美しい大屋根は、武家菩提寺という厳しさよりも、禅の古刹としての風格が漂う。本堂を取り囲む茅葺の回廊は、寺というより学校の様で、明るく開放的で良い。背景には城山の緑と紺碧の晴天。茅葺の寺は方々で見てきたが、こんな雰囲気の良いお堂はなかなかない。北関東にはこうした寺が、まだまだたくさん隠れているのである。

禅宗は我が国に伝来して以来、日本独自に発展を遂げた。禅は日本の風土、日本人の性格にまことに適した宗派であったと思う。臨済禅は、宋から栄西によって我が国にもたらされ、鎌倉にて萌芽し、京にて広められた。その後、鎌倉幕府室町幕府に庇護されて、武家の仏教としての地位を確立した。現在、臨済宗は多くの宗派に分かれていて、京都五山鎌倉五山の各派、南禅寺派大徳寺派妙心寺派、向嶽寺派、永源寺派、方広寺派、仏通寺派、興聖寺派、国泰寺派がある。中で妙心寺派は、最大派閥である。日本の臨済宗寺院の総数は六千余りだが、実に三千五百ヵ寺以上が妙心寺派だと聴く。なるほど日本仏教の一大勢力に違いない。その妙心寺派に属し、越前の永平寺、博多の聖福寺紀州の興国寺とともに、日本禅宗の四大道場と云われるのが、東山雲巌寺である。門前には武茂川という急流が流れており、いかにも清冽な瀬音が、寺の足下から境内全山を包みこんでいる。禅の道場とはいえ、坂東の果ての山中に、このように立派で美しい寺が現れたことに私は歓心した。朱塗りの橋を渡ると、石段の上には堂々たる山門が、訪う者を迎える。確かに厳粛な禅刹であって、かつては多くの雲水が、日夜厳しい修行に勤しんだことを彷彿とさせる。私の様な興味本位の無頼の徒は、驚懼して山門を潜らねばならない。それにしても静かである。今でも修行の寺に違いなく、観光寺院ではない。人知れず、しかしどっしりと在る雲巌寺には、風と鳥の声のみが時折しじまを切るが、境内には庭仕事をする寺男がひとりいるばかりで、参拝者はおろか雲水一人見かけなかった。雲巌寺の本尊は釈迦牟尼仏で、釈迦三尊を祀る仏殿が本堂にあたる。仏殿はてっぺんに宝珠を頂く様式で、禅刹には珍しいものだろう。山奥に密かに祀られている美しい御仏は、こうして書いている今も、そしてこれからも、あの場所で優美に座して、雲水を先導し、衆生を守護している。仏殿から少し登ったところに方丈や禅堂があって、山の斜面を巧みに利用した伽藍となっている。雲巌寺の創建は大治年間(1126~1131)と云われ、叟元和尚の開基とされる。開山は高峰顕日で、寺格を整えたのは夫人が高峰顕日に帰依し、自らも禅の影響を受けた北条時宗である。時は移り天正六年(1578)年には、無住妙徳が住職となって妙心寺派となった。 天正十八年(1590)、秀吉の小田原征伐で、烏山城那須資晴は抵抗し、城攻めの際、領民は雲巌寺にて匿われたと云う。小田原北条氏もこの寺を庇護したため、豊臣方は堅牢な要塞と判断し、火を放った。以来荒れ寺となっていたが、江戸期に復興し、 芭蕉奥の細道で立ち寄った寺でもある。芭蕉は黒羽に二週間あまり滞在し、那須神社にも行っているし、おそらく大雄寺も訪ねたであろう。名所旧蹟、その土地の名の知れた神社仏閣をくまなく廻っていることには、改めて感心するし、根っからの旅人であり、数寄者であった。境内には住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑がある。奥の細道には次のように記されている。

当国雲巌寺の奥に仏頂和尚の山居の跡あり。

 竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば 

と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと雲巌寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある気色にて、谷道遥かに、松、杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。

 木啄も庵はやぶらず夏木立 

と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。

仏頂和尚は芭蕉と昵懇の臨済僧で、参禅の師であったとも云われるが、この時はもう亡くなっていたのではなかろうか。昔、芭蕉は仏頂和尚から自らの和歌を、庵に松の炭で岩に書き付けたことを聴いていて、それを見るために雲巌寺を訪ねた。その話を道中に誰かに話したのか、芭蕉曽良を案内する若者の連中がいた。卯月が陰暦の四月で、陽暦では初夏であるが、その頃でもこのあたりは陰気で寒い場所であると語る。十景とは雲巌寺十景のことで、霊石の竹林、海岸閣、十梅林、竜雲洞、玉几峰(たまきみね)、鉢盂峰(はちうみね)、玲朧岩(れいろういわ)、千丈岩、飛雲亭、水分石(みまくりいし)のことらしいが、今その十景がどこなのかは私にはわからず、芭蕉もさしたる興味は示さずに十景のみで片付けている。仏頂和尚の山居跡は、仏殿の方丈のさらに上の山中にあるというが、さすがにそこまで探そうとは思わなかった。が、山の木啄さえも、仏頂和尚の徳を慕い、その庵に穴をあけることはないのだと詠んだ芭蕉は、大切な友人であり、禅師であった仏頂和尚への尊敬と、手向けの一句を捧げるために、ここまで足労したに違いない。芭蕉は歌枕の地を訪ね、名所旧跡に歓喜感涙しながら奥の細道を旅をしたが、雲巌寺は、俳人としてよりも、自らの想い出を振り返りつつ、師を偲ぶために訪ねたように思われてならない。芭蕉は人間関係を極めて大切にしていた。名うての数奇者であり、当代一の俳人であって、伊賀者とも噂される松尾芭蕉の、まことに情け深い一面をここに見たように思いがする。

日本一の参道

昨年秋の信州旅行で、かねてから気になっていた戸隠神社まで足を伸ばした。善光寺の御朝事に参加して、雪解けの山道を戸隠へ向かう。本当ならば前日に戸隠に行くはずであったが、大雪のために断念。幸いに良く晴れたので路面の雪解けは進んだようだ。善光寺の裏手から七曲峠を登る。昨日は峠のてっぺんまで来て断念したが、今朝はノーマルタイヤでも先へ進めるほどになっていた。が、慣れぬ雪道、慎重にゆっくりと峠を越えた。車窓から見える山々の雪景色は素晴らしかった。十一月末であったが、戸隠の山峰が近づくに連れて雪深くなり、広がる雪原と白樺の樹氷が朝陽に映えて眩しい。山はもう冬の眠りについていた。

同行してくれたT君から戸隠の事は予々聴いていた。何しろ参道がすばらしいという。私は寺社の参道が好きだ。清潔な参道は歩いていて実に気分が良い。参道が長ければ長いほど私はうれしい。本堂や社殿へ向かうアプローチを歩いている時、この先にまだ見ぬ何かがあると思うと胸が高鳴る。あの高揚感に勝るものはなかなかあるまい。歴史好きが昂じて、日本の寺社を巡っているうちに、いつの間にか寺社の魅力に取り憑かれてしまった。目紛しく風景が変わりゆく当世において、まだ少しばかり昔の佇まいを遺してくれているのは寺社くらいである。寺社は史実を探り、追憶に耽るには絶好の場所なのである。さらには美々しい境内や参道を歩けば、心が躍り洗われる。寺社は薄汚い人や町から逃れるためのシェルターであり、文字通りの駆け込み寺なのだ。

さて戸隠である。戸隠山は太古から神山として崇められている。ことに修験道の霊山として有名で、戸隠連峰飯縄山などを含めて大規模な結界があり、一帯を戸隠曼荼羅と称した。私の故郷の日向国は、神話と伝説の国と呼ばれ、古事記や日本書記、風土記に著されている物語の舞台が彼方此方にある。神社や神宮が多く、仏閣は小規模で大寺院はない。幕末までは仏教もあまり盛んではなく、南九州を統治した島津家は、念仏を禁教としたため、信者は洞穴や床下で秘かに隠れ念仏をした。私の生家の本家にも隠れ念仏洞が残っていて、幼い頃の遊び場となっていた。その反動で明治維新以降、南九州には各地からの宣教者がなだれ込む様にやってきて、特に北陸からは盛んに浄土真宗を布教したため、今では浄土真宗の寺ばかりになった。曹洞宗、浄土宗、日蓮宗なんかもあるが、寺は浄土真宗が圧倒している。が、今でも寺よりも神さびた社の方が多いのではないかと思う。その様な場で生まれると、日本の神話にはずいぶん親しんで育った。幼稚園や小学校では、日本神話の紙芝居や絵本をよく見たものだ。古事記の上つ巻は、神武天皇以前の神代から天孫降臨までの物語が記されていて、日本神話の源泉に触れることができる。

日本の神話でもっとも有名なシーンは、イザナギイザナミの国生みと神々の生成、黄泉の国、スサノオの八岐大蛇退治、天孫降臨、そしてアマテラスの岩戸隠れであろう。アマテラスは弟のスサノオの悪行に堪えかねて、岩屋に引きこもってしまう。太陽神が隠れてしまったため、此の世は彼の世の如く昼が消え失せ、闇夜となってしまった。天地は凍てつき、作物は枯れ、疫病が蔓延し、魑魅魍魎が跋扈した。困り果てた高天原の神々は、相談して、岩屋の前で宴を催した。アメノウズメが乳房も露わにして妖気に踊ると、神々からは歓声があがった。岩屋の中のアマテラスは、光である自分が居なくて外は闇黒の世界なのに、皆は何故あんなに楽しそうなのかと不審に思った。アマテラスは岩屋の戸をほんの僅かに開けて外を覗いてみた。すると正面には、自分とそっくりの光り輝く女神が立っている。これは鏡に映ったアマテラスなのだが、自分の代わりがいることに驚いたアマテラスは再び岩戸を閉じようとした。その瞬時、高天原一の力持ちのタヂカラヲが、岩戸の隙間に手をかけて豪快に戸をこじ開けてアマテラスを外へ迎えた。そしてタヂカラヲは、岩戸を剥ぎ取って、遥か彼方に投げ飛ばしてしまった。これにて、高天原にも下界にも再び光が満ち溢れて、神々は安堵したという話である。高天原での出来事であるが、この岩戸隠れの現場は伊勢をはじめ日本の各地に伝承されている。日向国の高千穂にも天岩戸神社があって、岩屋とされる洞窟があり御神体とされている。

タヂカラヲが遥か彼方に投げ飛ばした天の岩戸が落ちた場所も各地にあるが、信濃の戸隠にもそういう伝説がある。岩戸を隠した場所であるから戸隠なのか。修験道が盛んになって後に、岩戸伝説が付与されたに違いないが、修験道では不動明王蔵王権現、天狗など屈強で強面の神仏が崇拝されるから、戸隠は手力雄命を拝し、同時に戸隠連峰の九頭龍山の九頭龍社を勧請して拝んだのであろう。戸隠山には九頭龍伝説も残っていて、その昔、人々を恐怖に貶めた九頭龍を、学門という僧が戸隠山に封印した。以来、九頭龍は水神となり、邪神から善神に生まれ変わって人々に崇められたという。いずれ古くから信仰の地として名高い戸隠には、聖地ならではの張り詰めた気が充満している。下社にあたる宝光社に着いた時から、そうした空気があたりを覆い、さらには清白の雪が、此の場所が潔斎の域であることを高めている。宝光社、火之御子社、中社の順にお参りする。宝光社の二百七十段あまりの急勾配の階段には、誰も踏まない大雪が降り積もっていて、慎重に足を運んだ。だが、もしここで足を滑らせて転げ落ち、死んでしまっても、それが私の命運であると、神妙に納得した。雪は戸隠全体を覆い隠すが、社殿と雪のコントラストは絶妙であった。日本の古い寺社建築は、この国の四季折々の風情というものを、細微に考えて造られたのではないかと思わせるところがある。私はそうした風景に出逢う度に、いつも唸って感動している。

さらに上へと登ってゆき、やがて念願の奥社参道の入り口へ達する。この少し手前には女人堂跡や女人結界碑がある。例によって戸隠も、かつては女人禁制であった。奥社までの参道は全長ニキロほど。緩やかに登ってゆく。天は碧空、道は白道。まことに幻想的かつ、神仏混淆の光が射した様な参道は、私がこれまで歩いてきたどの道よりも美しく、清浄であった。同行してくれたT君は以前来たのは夏で、その時とはまったく別の参道に、感激を新たにした様だ。我々は童子の如くはしゃいでしまい、興奮しながら歩いていった。参道のちょうど半分ほどのところに、茅葺で朱塗りの隋神門がどっしりと、厳かに建っている。あたりは風も止み森閑としている。雪を冠る隋神門の佇まいは、極めて日本らしい風景であり、戸隠もいつかきっと世界遺産となるであろう。

隋神門までと隋神門から先とでは、全く改まった趣となる。隋神門より内は、さらに厳粛な雰囲気に満ち溢れ、深呼吸をすれば確かに浄域の透明な空気が味わえるのだが、油断をするとその浄域に我も呑み込まれてしまいそうだ。どうやら隋神門は結界のようである。ここまでの一キロの道のりもとても素晴らしいのだが、どうしても序章であり、茶事に喩えれば初座で、隋神門を潜り抜けたその先こそが後座といえようか。或いは戻りの反対側から見れば、隋神門より内が濃茶、隋神門より外は薄茶といった感じである。隋神門を潜り先へ進もう。道の両側には杉の巨木が並び、それがずっと先まで続いていて、終点は見えない。ここが私がずっと歩いてみたいと願っていた、戸隠神社参道なのだ。杉並木は、四百年ほど前に有志によって植林されたというが、亭々と並ぶ巨木には、途轍もない神力が宿っているようで本当に圧倒される。しかし、きっとあの日見た参道は、あの日限りの参道であったに違いなく、次に来た時はまったく別の顔を魅せるであろう。戸隠の参道を見ずして、参道を語るなかれである。

戸隠神社は、奥社、中社、九頭龍社、火之御子社、宝光社の五社からなり、創建年は定かではないが、少なくとも二千年余りの歴史がある。神代から崇められ、平安末には修験道の霊地として都にまで知れ渡るようになる。やがて神仏混淆の道場となって、天台宗真言宗が戸隠の覇権を競い合ったというが、いずれも信濃から北上するための中継拠点としたかったのではなかろうか。幕末までは戸隠山顕光寺と称し、境内には多くの堂宇坊舎が建ち、戸隠谷三千坊とも呼ばれた。その坊舎は、私たちが歩く奥社参道の両側にびっしりと建ち並び、向かって左手が真言宗、右手が天台宗であったという。比叡山高野山と共に三千坊三山と言われ隆盛した。徳川家康からも手厚く保護されて、江戸幕府から一千石の朱印状をもらい、東叡山寛永寺の末寺となって、水神と農耕の神として江戸庶民にも崇敬された。おそらく善光寺と併せてお詣りに来たはずである。当時の坊舎が建ち並ぶ参道は想像するに壮観で、神仏混淆の象徴的な聖地として稀有の存在であったに違いない。その様子は今は知る由もなく、〆縄張りの隋神門だけが往時を偲ばせるのみで、静謐な神の森となっている。かえってそれが今の戸隠の神秘性を守護している様に思えてならない。

雪は奥へ進むほど深くなる。奥社はまだ見えない。行けども行けどもたどり着かない。それにしても、どこまでも長く美しい参道である。やがて、やや急な登りがあって、おそらく雪の下は岩場であろうが、それを上り詰めると、左手に九頭龍社、右手に手力雄命を祀る奥社が鎮座していた。社は普請中であったが、すぐ裏にはもう戸隠山の荒々しい岩肌が迫っていて、真下から見上げると、なるほど巨大な岩戸がすっくと立っている。戸隠はやはり堂々たる神山だ。ここまで辿り着いた安堵と喜びが、澎湃として湧き上がってくる。何とも清々しく心地良い時であった。参拝をして振り返ると、冬の優しい陽光がさんざめいていた。

帰りがけに、奥社参道の入り口に構える戸隠そばの店に入った。店名が何と「なおすけ」であった。名物の蕎麦をカケでいただく。雪の参道を往復四キロも歩いて、すっかり冷えきっていた身体には、殊の外温かく、美味かった。窓の外には、戸隠神社の鳥居と今来た雪の参道があって、その向こうにはもう見えない奥社と、その上にそそり立つ戸隠の峰々が壁の如く見える。感無量の贅沢なひとときであった。私たちは其処を去り難く、いつまでも飽かずに眺めていた。

至高の行方

羽生結弦君が五輪連覇を果たした。私はこれまでにも何度か書いてきたが、スポーツ観戦ほど心を震わせ、誠の感動を貰える出来事はない。世の中何でも斜から眺めている捻くれ者には、スポーツ観戦は唯一真っ直ぐに目を逸らさずに、無心になれる事である。今冬季五輪でも平野歩夢君の二大会連続銀メダルをはじめ、選手の活躍に躍起となっている。私は時に、禅寺にて参禅させていただくこともあるが、仏教への関心から様々に私考を巡らしたり、己の未熟さから邪念の塊となってしまうのが常である。私など無碍の境地には生涯到達できぬであろう。一方、仏像、書画、茶道具などの美術品を観て歩くことも好きで、それこそ血眼で観ている時もある。物を見るのにあまりに力み過ぎている感があって、かえって雑念が働いてしまい、見たままの印象は薄れてゆき、趣味鑑賞の枠を超えない。これでは本物を見極める事などできないだろう。実にこうしたことを文章にしていること自体が私の程度とも言える。しかし、頭で観ずして心で見る事は、凡人には簡単ではなく、よほどの修練が必要である。余談が長くなったが、つまりは私には余念が多すぎるのだ。だから何でも片手間になってしまう。スポーツ観戦はそうした余念を湧かさずに、無心になれる。故に感動して、涙腺が緩むのだろう。

 羽生結弦君は、昨年十一月のNHK杯の練習中に右脚を負傷、オリンピックシーズンに痛恨の戦線離脱となってしまう。これほどの試練があろうか。ナショナルトレジャーたる彼のことを日本中が心配した。何よりも本人の心中は如何許りであったか。おそらく、心身ともに想像絶する苦しみであったに違いない。あの様な試練を乗り越えることは、常人には不可能かもしれない。四年に一度の最高峰、オリンピックの目前である。彼は他の追随を許さぬ大本命の金メダル候補である。下手をすれば精神を病み、再起不能に陥るかもしれない。だが、彼は乗り越えてみせたのである。逆境を撥ね付けて、一昨日のショートプログラムをノーミスで滑走。その直後、彼はこう言い放つ。

「僕はオリンピックを知っている。」

この言葉を聞いて、私は勝つだろうと思った。それは試合に勝つだけではなく、彼自身が言う様に、羽生結弦羽生結弦を超克してみせたのである。あの言葉は決して自信過剰から出たたのでもなく、ハッタリの強気でもない。彼が言いたかったのは、「何が起こるか解らない」、それがオリンピックであるということではないかと、彼のフリーを見て改めて感じ入ったのである。

彼には天賦の才能があり、努力を惜しまず、不屈の精神の持ち主でもある。度胸も満点、根性も備わっている。と同時に理論家でもあり、彼ほど石橋を慎重に叩いてゆくアスリートも珍しい。それは決して臆病なことではない。事実翌日の会見では、右脚のケガは完治などしておらず、痛み止めを打ってなんとか誤魔化しながら滑っていたという。だが、あのケガがなければ、金メダルは取れなかったとも語る。それがどういうことなのかは、彼のみが知っていることであり、外野が詮索することでもないだろう。一つひとつ、一歩ずつの積み重ねが、今の羽生結弦を創り上げていった。彼自身がセルフプロデュースして。天才が弛まぬ努力をしているのだから、誰も彼より先へは行けないのである。少なくとも現時点では…。

羽生結弦君は千両役者でもある。それも彼が判ってやっていることだろう。己の見せ方と、魅せ方を実に巧くやってみせる。フリーの滑走後、喜びを爆発させ、右脚とリンクに感謝の手当てをする。彼と同時代に居るということを誇りとしたい。彼のこの先はあるのか。この至高の先はあるのだろうか。あるならば見たい。が、ここでサッと引退するというのも羽生結弦らしい気もする。でも、やっぱりこの先が見たいのが、私だけではなく多くの人々の本音であろう。