弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

白河関

司馬遼太郎の「街道をゆく」は、私の旅の友である。司馬さんは世界中を旅され、大紀行を記した。司馬さんならではの視点、考えは実に興味深い。私はいわゆる司馬史観を肯定も否定もしない。司馬さんの本では、司馬さんと同じ目線で歴史を辿れば良い。ゆえに私はその間、司馬史観の虜となっているだろう。「街道をゆく」の追体験をする旅もまた心踊るものだ。司馬遼太郎という巨星の足跡も、私にとっては歴史の一頁である。印象に残る地は多いが、その一つである白河関址を訪ねることができたのは、この秋口であった。

陸奥=みちのくという響きは、まことに旅情に駆られる。そし何となく物寂しい。日本人は古くから、陸奥に畏怖と憧憬を抱いてきた。それは律令時代から未知未開の地であったから、蝦夷に対する警戒と同時に、広大無辺な理想郷を思い描いていたのかもしれない。その陸奥の入口と云われ、また多くの日本人がそう認めてきたのが白河関である。白河関より南が坂東下野、北が陸奥である。それは今も変わることなく、栃木県と福島県の県境であり、関東と東北の境である。 T君の運転で、東北自動車道白河インターから、南に八キロ程行くと、なだらかな丘陵地帯が現れる。丘陵に抱かれるようにして、今、我々は二つの白河関址を見ることができる。不思議なことに白河関址は、ひと丘越えて二箇所に在るのだ。何故か?ミステリアスな関址は私を強く惹きつける。

私たちはまず、旧陸羽街道の白坂峠に在る境の明神へ向かった。この道は、奥羽諸藩が参覲交代の度に通り、幕末には、会津攻めに向かう官軍が行軍した道である。そう思うと何とも複雑な感慨が湧く。この道は実に良い景観だ。丘陵に囲まれた土地には、清々しい秋の空気が揺蕩う。車は陸奥から坂東へ向かって走る。やがて緩やかなカーブの先に坂があって、鬱蒼たる森が現れた。坂の向こう側は、坂東下野である。坂のてっぺんが県境で、まさに白河と下野の境なのである。県境を挟んで各々に境の明神という社が建っている。「街道をゆく」で司馬さんも挙げられた、地政学者の岩田孝三氏の「関址と藩界」を私も読んでみた。それによれば、日本には要所要所に古関があるが、だいたい関を境に男神と女神を対で祀ってきたと云う。女神は内で国を守り、男神は外で敵を防ぐという信仰に基づくものらしい。日本の国境(くにざかい)は、峠の上や、狭隘に多く、坂と坂の合う場所が坂合と呼ばれ、境に転じた。そのような場所には手向という道祖神が祀られ、多くは男女神二つの祠があった。不破、鈴鹿、逢坂、愛発など、名だたる古関にも似たような址があり、今も名残をとどめているところもある。

 車を降りて、境の明神へ参拝する。ここに来たかった。約三十年前に司馬さんが訪れた時は、幽邃の場所だったそうだが、今は国道294号である旧陸羽街道をひっきりなしに車が走る。街道を見守り続けてきた社は、今もここに在って、境神社と称する。陸奥側に祀られている女神は玉津島明神で、紀州和歌の浦より勧進された衣通姫命(ソトオリヒメノミコト)。坂東下野側の男神住吉明神中筒男命(ナカツツオノミコト)である。ことに立派に残るのが玉津島明神で、司馬さんも、戊辰の官軍も、参覲交代の諸侯も眺めたであろう美しい石垣の上に、神さびた社が建っている。亭々と聳える木立の中に、古色蒼然とした楼門と、覆堂に囲まれて三つの社殿が並んでいる。雪国ならではの珍しい様式だろう。石段は少し傾いていた。如何にも道すがらの道祖神いう、神威解けた境内に立ってみれば、立ち去りがたい思いが溢れてくる。司馬さんも「こんな良いところへ来るというのも、生涯何度あるかわからない」と書いておられるが、まったくそんな場所であった。中で私の目を惹いたのは石灯籠であった。猫額の様な小さな境内に、およそ相応しくない立派な石灯籠は異様に見えた。ここを通る大名か、白河楽翁が寄進したものか。

道を挟んで社の反対側には、白河二所之関址の碑が建っている。相撲の二所ノ関部屋は、ここの境の明神からとられたと云う。江戸中期、南部藩お抱えの二所ノ関と云う力士がいて、親方になって部屋の名として残ったと云われる。この石碑を建てたのは、かつて此処にあった南部屋という茶店の子孫石井浩然氏で、父勝弥氏の代から、「関址と藩界」の岩田孝三氏とも交流があったらしい。岩田氏と石井氏は、白河関のことを調べ、由緒あるこの地に誇りを抱き、この白坂峠こそが、古代から続く白河関であると言い続けた。 もう一箇所の旗宿の白河関は、江戸中期の白河藩松平定信によって、白河古関址とされた。以来、旗宿か白坂か、関址を巡る議論は二分する。勿来関、鼠ヶ関とともに奥羽三古関の一つとされる白河関は、律令時代に陸奥と下野の国境に置かれて、人や物の出入りを取り締まった。諸説あるが、この白坂峠の境の明神から東南へ六キロばかり行った旗宿関ノ森と云う所に、松平定信白河藩主となってから、白河古関と断定し石碑を建立する。もっとも定信は、白坂峠にも「従是白河領」なる石碑を建てているから、白坂を軽視したわけではないだろう。議論がついに決着をみたのが、昭和三十四年から三十八年にかけて行われた旗宿の発掘調査によってである。旗宿からは、土木工事の痕跡が見つかり、平安初期のものと推定される縦穴住居群、鍛冶場、土師器、陶器などが多く出土した。白河関は、いつ設けられたのが定かではないが、律令時代の終わりを前にして早くも廃れていたという。しかし、それから後も、奥州の砦として一定の役割を果たしていたと思われる。

将軍になり損ねた松平定信は、白河藩主におさまり、宿敵の田沼意次が失脚すると老中に就任した。田沼時代の粛清に闘志を燃やし、寛政の改革を行うも、それは改革ではなく、極めて保守的な武家社会のための復古政策であった。ゆえに功を見ずに、定信もまた失脚して隠居。白河楽翁と呼ばれた。名は体をあらわすと云われるが、定信という名前からして、彼が革新的な思想とは相容れない人であると想像がつく。しかし、多くのヒール役がそうであるように、定信もまた白河藩主としては名君の誉れ高い。馬産を奨励し藩財政を建て直し、子供の間引きを禁じ、養育に力を入れた。天明飢饉では、江戸、越後、会津、大坂から米を取り寄せ、藩内の庄屋や豪農に寄付を募り、領民に配給したおかげで、白河藩は一人の餓死者も出さなかった。そして白河藩のネームバリューを高めるべく、歌枕の里として白河関を宣伝し、場所の特定をして石碑まで建立したのである。

私たちは、白坂峠から旗宿の方へ廻った。朝霧漂う狭隘の白坂峠は、陰湿な印象であったが、旗宿のあたりは、明るく開けた田園地帯で、黄金色の稲穂が重そうに首を垂れて広がっている。はるか東南には、霊峰八溝山塊が堂々たる尾根をひいて横たわる。真っ青な空と、なだらかな丘に囲まれた旗宿の里は、まさに桃源郷のように思われた。こちらにも来て良かったと私たちは異口同音した。小さなせせらぎの向こうに、こんもりとした丘があって、その中に定信が建立した白河古関の石碑があるらしい。一帯は白河神社となっていて、入口に鳥居と狛犬があるが、その向こうはまだ薄暗い闇の参道である。中へ進むと、すぐ右手に例の石碑があった。参道は長くゆるい登りになっていて、登ってみると白河神社の社殿があった。遺跡の森のてっぺんに在る不思議な神社だ。だが、参道も杉木立の森も実に素晴らしい。明るくもなく暗くもない。早朝のこととて、誰一人としていない。私たちはしばし浄域に身を沈めた。

道は神社の裏へと続いていて、土塁の尾根を歩けるようになっている。なかなかの高さで、下には濠址が確認できた。歩いてみて、かつて此処が、軍事的要塞であったことがはっきりした。坂上田村麻呂らによって蝦夷討伐がなされ、大和政権の陸奥に対する警戒は緩んだのであろう。だがその後、奥州藤原氏も、ずっと後の奥羽列藩にとっても、白河関は奥州への入口であり、第一関門と考えていたことは間違いあるまい。古代から律令時代にあった白河関は旗宿で、近世になってこの枢要な地にはやはり関所が必要とされて、白坂峠へ新関が成ったのであろう。街道は時々によって変遷し、今では陸羽街道も、東北自動車道もさらに西へと移っている。余談だが、国道4号には白河検問所があって、道路交通を取り締まっているが、検問所を作った当初は、関東から悪い人や物が東北に入らぬために設置されたという。本当かどうか知らないが、現代社会においてもなお、白河という地には関所が置かれているのだ。

都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白河の関

能因法師の有名な歌だが、能因は白河関を訪ねてはいないという逸話がある。能因は数ヶ月も家に引き篭もって、庭で真っ黒に日焼けしてから、陸奥へ行ってきたのだと言ってこの歌を披露したという。歌に対する徹底ぶりには脱帽するばかりだが、歌道徘徊ではよくあることで、望郷や憧憬が歌となり、いつの日か独り歩きを始めて名歌に育つ。やがて詠まれた場所は歌枕の地として、人びとを惹きつけたのである。西行芭蕉もそんな数寄者の一人であった。一方で、能因は実際に陸奥へ旅をしており、先の逸話の方が嘘であるという研究者もいる。事の真相はどうあれ、歌枕の地として白河関の名を高めた能因の功績は大きい。能因は実際に方々の名所旧蹟と訪ね歩き「能因歌枕」を著している。

西行は、青年時代と晩年の二度陸奥へ旅をした。そして白河関では、能因への強烈な憧れと、歌枕の地を訪ねて感慨に浸る西行の喜びと、能因が来ていないとすれば、自らは実際にここへ辿り着いたという自尊心が伝わってくる歌を詠んでいる。

白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むるなりけり

みやこ出てて逢坂越えし折までは心かすめし白川の関

現在、旗宿の白河関址は史跡として美々しく整備されており、広い公園となっている。中央には、芭蕉曽良の小さな銅像まで建てられていた。芭蕉奥の細道で、白河関の印象をこう綴る。

心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心さだまりぬ。いかで都へと便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴れ着かな(曽良

奥の細道で、私はこの白河の関の文章が殊の外見事であると思う。ここでは芭蕉自身の句ではなく、曽良の句を入れたのは、当時はすでに大歌枕の地であった故の感慨と、当代一の数寄者としての拘りの遠慮があったのでないか。芭蕉白河関への憧れを多分に抱いて、足を踏み入れたに違いないのである。人はあまりに感動したり、積年の思いが果たせた時は言葉が出ないものだ。芭蕉にとっては白河関はそういう場所であった。その点、師に寄り添う曽良はクールでもあり、師よりも自由闊達に、また素直に詠む人であった。さらには、これまで坂東を北へと向かって歩き、いよいよ此処から「奥の細道」が始まるという覚悟が、芭蕉の旅心を定めた。松尾芭蕉という人は、実際真面目そのものであった。

芭蕉奥の細道白河関の一節で、この地の歌枕をいくつか例に取り上げて文章にした。

「いかで都へ」とは、平兼盛の、

便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと

「秋風を耳に残し」とは、先に挙げた能因の歌。

「紅葉を俤にして」、「青葉の梢なほあはれなり」とは、源三位頼政の、

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関

「卯の花」とは、藤原季通の、

見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関

「雪にも越ゆる」とは、久我通光の、

白河の関の秋とは聞きしかど初雪分くる山のべの道

これでもかと白河関を歌枕にした例を挙げて、この場所に対する並々ならぬ思慕が感じられる。芭蕉はこの先の須賀川まで行って、ようやく興奮が沈静したのか、土地の俳人等窮に「白河関ではどんな句ができたか」と訊ねられて、こう詠んだ。

風流の初めや奥の田植うた

いにしえの数寄者たちへの澄み渡る尊敬と、自らはそれを超越したと、いささかの疑念なく得心したやもしれない。芭蕉はここで豆柄から弾けて、いよいよ奥の細道へと分け入っていった。

私たちは、芭蕉曽良の像の傍らにある日当たりの良いベンチに腰を下ろして、おにぎりを頬張った。急きょコンビニで調達したおにぎりだったが、悠久の白河古関にて、黄金田を吹き抜ける爽やかな風に吹かれながら食べたおにぎりは、美味かった。

日本仏教見聞録 成田山


千葉県は南関東でもっとも広い。房総半島を丸々抱いて、内陸も奥深い。上総、安房の全域と下総の一部が現在の千葉県である。千葉県には都道府県で唯一、海抜五百メートル以上の山地がない。習志野原と房総の海外線、あとは鋸山ほどの山と、なだらかな丘陵があるだけの穏やかな地形である。東京のベッドタウンとして人も住宅も増え続けているが、街道筋を少し外れると自然の宝庫であり、静かな農村や漁村が顔を出す。近江国が、奈良や京都の舞台裏だと言ったのは白洲正子さんだが、東京湾を挟んで反対側の房総半島には、挙兵した源頼朝が劣勢挽回を図るなど、秘められた歴史が埋もれていて、坂東武士の舞台裏と云えるかもしれない。

成田市は県の北部中央にあって、そこから八の字に千葉県は広がっている。成田空港は、羽田空港の再国際化や、近隣国のハブ空港化に伴い、日本の空の玄関としての名が低下しつつあるが、現時点では日本一の国際空港である。大空港成田山のお膝元にある。私は二十数年ぶりに成田山を訪ねた。T君の運転で、夜中の三時半に東京を出た。早朝六時からの護摩祈祷に参加するためである。松戸、柏、白井を過ぎたあたりから、景色は一変する。長閑な田舎であったこのあたりは、この三十年くらいで北総ニュータウンとして開発された。滑走路のように広々と真っ直ぐに伸びた道路が街を貫ぬき、今後ますます発展する気配が漲っている。

ニュータウンを走り抜けると、ようやく北総らしい丘陵や森が見えてきて、懐古的な牧場や田畑も現れる。車が成田山に近づくに連れて、濃い霧に包まれてゆく。寺に着いても、霧は晴れる気配はない。成田山はまだ霧中に眠っているが、大伽藍は蜃気楼か南画の如く暁天に浮かんで見える。境内には、大本堂へと列を成して朝の護摩祈祷に向う僧たちの下駄音が響く。秋の朝一番にしかお目にかかれぬ、まことに幻想的な光景だ。あの霧の成田山に身を漂わせることができただけで、私たちは幸せであった。此度の成田山詣で、改めて寺参りが私の生甲斐なのだと心から思えた。

あの様な言葉もない光景を目にしては、成田山の歴史など、語るに及ばないかもしれぬが、この巡礼は寺の歴史を辿り、今の日本仏教を噛み締めているので、少しばかり述べたい。成田山新勝寺は、川崎大師、高尾山薬王院と合わせて、真言宗智山派の三大本山とされる。平安中期の天慶三年(940)、東国において平将門の乱が勃発した。藤原摂関家に仕えた将門は、検非違使になることを望んだが、忠勤も虚しく、望み叶わず東国へ都落ちした。将門は下総国に陣取り挙兵。自らが新天皇であると宣言し朝敵となった。時の天皇朱雀帝は、嵯峨広沢の遍照寺の僧寛朝に、真言密教護摩祈祷による乱の平定と、将門の調伏を命じた。余談だが、この寛朝という坊さんは、宇多天皇の孫にあたる。天皇家の後継者争いには無縁で、十一歳で仏門入り。仁和寺、東寺、西寺、東大寺別当を務め、高野山座主にまで上り詰めた。さらに、真言宗では初の大僧正の尊号を賜わっている。寛朝は、高雄神護寺弘法大師が彫ったとされる霊験あらたかな不動明王を奉持して、下総へ下った。大坂から船で房総半島の尾垂ヶ浜に上陸。寛朝は、今の成田山から三キロほど離れた公津ヶ原という地に不動明王を奉安して、二十一日間護摩祈祷した。結果、乱は鎮圧され、将門も自害する。寛朝が再び不動明王と共に京都へ帰ろうとしたが、不動明王はその場を動こうとしない。そして不動明王は、寛朝にこの地にとどまると夢告したと云われる。これを聞いた朱雀天皇は、国司に命じて堂宇を建立し、不動明王を厚く祀った。新勝寺という寺号も、戦いに勝ったと云う意味で朱雀天皇が命名した。その後永禄年間に当地へ遷座し、東国の権力者、徳川幕府、歴代の市川團十郎、そして多くの庶民の厚い信仰を受けて今に至る。

真言宗智山派の総本山は京都智積院だが、三大本山がすべて関東にあるのは何故だろうか。この事は私の積年の疑問であったが、昨年から始めたこの本山巡礼で、先に川崎大師、高尾山と訪ね、そして成田山までやって来て、私なりにこう解した。かつて都から遠い関東において、仏教が庶民に浸透し根差す時間は、畿内よりも柔軟かつ早かったように思う。無論、時代でいえば畿内の方がはるかに前から庶民にまで信仰は広がっていたのだが、私が言いたいのは布教のスピードである。関東の寺の王者たる浅草寺の縁起も、二人の漁師がきっかけであるし、ずっと後の世、常陸国に腰を据えた親鸞によって広まった浄土真宗も、庶民仏教を象徴する存在であり続けている。関東仏教は庶民信仰から湧出し、育まれていったというのが、私の持論である。質朴な寺の雰囲気からして、明らかにそうした匂いを強烈に感じるのだ。真言宗智山派を代表する三つの大本山は、川崎が弘法大師、高尾山が天狗、成田山不動明王を尊び、名もなき民に信仰された。確かに真言宗の寺では、心願成就を護摩祈祷に託すが、そこには真言密教の難解な教義はなく、民衆は祈祷僧の読経と護摩の炎に祈りを捧げるのみ。或いはまた不思議と抹香臭もない。すなわち空海の目指した現世利益を、ひたすらにわかりやすく、寺ごと体現してみせているのだ。私が川崎大師、高尾山、成田山に共通して感じたことである。

成田山は末寺三千余り、年間一千万の参詣客、そして正月三ヶ日の初詣客は三百九万人と、明治神宮に次いで全国二位、仏閣では堂々の日本一を誇る。各界の著名人が集う節分の豆撒きも有名だ。これだけの大寺、境内には新旧織り交ぜた多くの伽藍が建ち並び、壮観である。成田山には歴代の本堂が三つもある。現在は大日如来を祀り光明堂と呼ばれるお堂が、元禄十四年(1701)に建立され、安政五年(1858)に現在の釈迦堂が建立されるまで本堂であった。そして釈迦堂も昭和四十三年(1968)に現在の大本堂が落慶するまで、当山の本堂であった。徳川時代から三百年間の本堂が、今もすべて在ることはありがたくもおもしろい。大本堂前の三重塔も正徳二年(1712)の建立で、いかにも密教的な彩色と精緻な彫刻が施されていて、山内随一の気品を放っている。奥之院の先には平和の大塔がある。高野山の壇上伽藍にある根本大塔と、よく似た巨塔からは、成田山全体を見渡すことができて、実に爽快な眺めである。成田山は今も続々と新しい堂宇が建立されており、二十一世紀も進化中である。新旧織り交ぜの伽藍を拝見して、千年以上の歴史ある古刹であって、現代をしっかりと受け止めつつ、未来を見据え、人々を守護する。成田山にはそんな印象が強く残った。

大正から昭和初期に活躍した劇作家の倉田百三は、浄土真宗に帰依し、歎異抄を研究、それをモチーフに「出家とその弟子」という戯曲を著した。「出家とその弟子」が世に出たのは、大正六年(1917)であるから、ちょうど今から百年前である。当時はベストセラーとなったらしい。易行、他力、念仏、およそ浄土真宗の信を突き詰めた倉田であったが、実は易行の仏道、信仰こそが寧ろ難解で、我々のような衆生は、苦行荒行を行って心身を研ぎ澄まし、肉体的に信を得る方が、易しいのではないかと考えるようになる。悩んだ倉田は、成田山に二十一日間参籠し、断食、水行、読経に打ち込み、無事に満行した。元来、病弱だった倉田が良くぞ二十一日もの荒行をこなしたと思うが、果たしてその後、彼がどうした考えに至ったのか。このことは、もう少し調べてみたい。私も「出家とその弟子」は読んだが、あれを著した時と、成田山にて荒行を満行したあとで、倉田百三がどう成ったのか、とても興味がある。そして、何故倉田百三が自らの行場として故郷の広島や、長らく暮らした関西ではなく、ここ成田山を選んだのかも気になるところである。

さて、朝一番に体験した護摩祈祷について触れておきたい。成田山では、一日に何度も護摩祈祷が行われる。密教寺院ではどこも同じく護摩供養や護摩法要が行われているが、この成田山護摩祈祷も、当山の代名詞とも云えるほど有名だ。六時の鐘を合図に紫衣や黄衣を纏った坊さんたちが、続々と大本堂へ上がってゆく。私たちも後へ続いた。大本堂外陣には、まだ薄暗いこの時間でも、すでに三十人ほどの参詣客がいた。中には外国人も数人いる。皆、きちんと正座して待っている。内陣には居並ぶ僧侶。五十人近くはいただろうか。おそらく、朝一番の護摩祈祷は、貫首以下成田山のほとんどの坊さんが参加するのであろう。これだけの坊さんの後姿はなかなか見られない。実に格好良い。私の気分も落ち着き、見惚れていると、突然、ドーンと大太鼓が打ち鳴らされた。私の前に座る外国人の女性は、吃驚仰天して飛び上がった。それも束の間、すぐに勤行が始まる。貫首が中央の台座で、種火から火をとって、護摩壇に焚べる。次第に焔は燃え盛る。同時に坊さんたちの読経の声は高くなる。太鼓が連打され、読経とともに大本堂にこだまする。まるでコンサートホールで、格別のシンフォニーを聴いているかのような錯覚に陥ったかと思った瞬間、読経と太鼓と焔が三位一体となってピークに達した。私たちも皆で不動明王真言を唱えて祈り、僧たちは希望者の持ち物を護摩の焔にかざして厄払いしてくれる。読経も太鼓も焔も少しずつ鎮まり、二十分ほどで朝の護摩祈祷は終わった。居並ぶ坊さん達が整然と退出し、私たちも大本堂の外に出ると、嘘のように濃霧は消え去り、全山が秋の爽やかな光に包まれている。堂宇の軒先や境内の草木には朝露が煌く。恐るべし、これも護摩祈祷の賜物か。

私たちは成田山を総門から出て、風情ある朝の門前町を散歩した。辺りは意外に交通量が多くて驚いた。近所の子供たちは成田山の境内を突っ切って小学校へ登校するらしいが、ひっきりなしに通る車など、気にも留めずに男の子は遊びながら、女の子はおしゃべりしながら、フラからと歩いてゆく。これも毎朝の成田山の風景なのだろう。彼らもまたお不動様に守護されている。門前町を一巡して駐車場に戻った時、成田空港から飛び発ったばかりの銀色の機影が、はっきりと私の目に映った。私たちは幻想から覚めたのであった。

図書館にて

先日、知人から朗読会の誘いを受けて出掛けた。朗読会は私の家の近所の図書館で開かれる。知人は某ラジオ局のパーソナリティーで、時々、こうした朗読会にも出演している。知人の他にも、有志の語りのプロが数人出演した。最近は朗読会が盛んらしい。私は、今回が初めてであったが、なかなかに良いものだと感心した。今回は、作家H氏がこの日のために書き下ろした作品と、山本周五郎藤沢周平の小品が朗読された。それに、ギターの生演奏が彩りを添える。出演者の朗読は、知人を含めてさすがにすばらしかった。目を閉じて、耳を傾けていると、良い心地になってくる。良い声で本を読んでもらうと、ついうとうとしてしまう。それも朗読の魔法であり魅力であろう。自分で読むのとは別の入り方で文学に触れ、物語や文章を追体験できる。それは、視覚から物語を辿る映像や紙芝居とは違う。聴覚のみで人は多くの事が判るのであって、想像も空想もその自由さは視覚を遥かに凌駕はするのではあるまいか。今回の朗読会は図書館で開かれたというのがまた良い。朗読会はホールや寺社でも開かれているが、私は地域の図書館で、少人数を集めて行われるのが、朗読会の趣旨でもあろうし、優しく癒される空間演出にはベストであると思った。時節柄、こうしたイベントに参加してみるのも悪くない。

私自身は時節に関係なく本を読み漁るので、図書館もよく利用する。私の自宅近くにも徒歩圏内に二つの図書館があり、いかにも昭和の昔からそこに在って、地域に根差した図書館である。近年は図書館も様変わりして、明るく開放的な図書館が増えた。カフェを併設したり、古建築をリノベーションしたりと洒落た図書館は人気も高い。無論のこと、蔵書も閲覧検索のシステムも充実しており、大変使い易い。大学の図書館も、ほぼこの様な図書館に生まれ変わりつつある。本離れが叫ばれて久しいが、出版業界、書店業界のみならず、図書館が国や自治体と協力して、良い方向へ進んでいる姿勢には大いに共感できるし、利用者としても応援したい。だが、私は私の街にある地域の小さな図書館も大好きだ。鄙びたと言っては失礼だが、さほど大きくはなくとも地域の人々と共通の蔵書があることで唯一、同じ地域に住まう者同士の連帯と誇りを思うのである。

それにしても、公立図書館の予算は削減されているのだろうか。私の街の図書館もずいぶんと設備が老朽化している。箱自体は耐震補強をしっかりとしていれば建替の必要はないが、トイレや水まわり、閲覧室や座席は、改めていただいても良いのではと思う。東京五輪の影響なのか、ほとんど無駄とも疑問符のつく新しい箱物ばかりに、多額の税金を湯水の如く投入しているが、そんな施設は私達にはちっとも身近ではない。どうせ金を使うならば、私達が普段利用する施設にも、もう少し目配りをしてほしい。が、図書館を利用しない人も大勢いるわけで、むしろ利用者の方が少ないかもしれない。それこそ、図書館に金を使うならば、別に使ってほしいと願う人もいるはずだ。そのあたりがまことに難しい。私は幼い頃から図書館が好きである。本に囲まれて、本の匂いに包まれて、好きな本を読んだり、調べたりする時間ほど大切で、至福の時はない。もっとも落ち着く場所は、意外と住まい近くの図書館かもしれない。私は私なりに、これからも図書館を利用し、地域の図書館が存続できるべく、できることを考えて、行動し、見守り続けていきたいと思う。今の場所を離れても、どこに住もうとも、それは変わらないだろう。

日本仏教見聞録 東本願寺

京都駅から烏丸通りを北へ五分ほど歩くと、巨大な東本願寺の御影堂門が現れる。その甍を見上げるたびに、都の大寺だけに威風堂々と吹く風に私は圧倒される。ところが、門の奥の広い境内からは、真宗寺院独特の庶民的な匂いが漂ってきて、同時に何だか懐かしい。何故であろうか。京都には、早朝からお参りできる寺がいくつかある。西本願寺清水寺南禅寺法然院など。人の疎らな時間に、参詣するのは気持ち良い。最高の贅沢だ。寺参りには、そこを訪うに相応しい季節や時間がある。花の寺、緑陰の寺、苔の寺、月の寺、紅葉の寺、雪の寺。それを堪能できて、かつ静寂な時刻を狙ってみたい。暑気、寒気、空模様は問わず。時節到来、吉日定まれば良い。私の寺参りの基本である。殊に大寺院においては、まだ薄暗い開門直後か、西日傾く閉門間際が望ましい。東本願寺は季節によって少し変わるが、概ね六時前後には開門する。まことにありがたい。八月のおわり、私は花背の奥地の火祭を観に行くために、夜行バスで上洛した。そして、久方ぶりに明け染めの東本願寺へお詣りした。開門と同時に境内へ。この日の一番乗りである。寺の関係者以外誰もいない。晩夏のこととて、日中はうだるような暑さでも、白む空にはうろこ雲。少しずつ秋が忍び寄って来るのを感じた。

かつて平安京の正面には羅城門があり、東西に東寺と西寺が建っていて、都を守護したが、今は形と場所を変えて、京都駅から北を仰げば、東本願寺西本願寺が洛中を見守る。京都人は親しみをこめて、それぞれをお東さん、お西さんと呼ぶ。それにしても御影堂のなんと大きなことか。東本願寺御影堂は、間口七十二メートル、奥行五十八メートル、世界最大の木造建築である。創建以来何度か火災に遇い、どんどん焼けと言われた禁門の変で焼けたあと、維新後は廃仏棄釈の煽りも受けて放置されていたが、時勢落着し始めた明治十三年(1880)より、十五年もの歳月をかけて明治二十一年(1895)に落慶した。これだけ巨大であるのに重苦しさはない。構造は二重屋根だが単層で、下層は裳階である。この構造のおかげで、まるで鳳凰が翼を広げて飛び立つ様に見える。豪壮なのに優美である。瓦はおよそ十七万六千枚。堂内は内陣、外陣、拝座に分かれ九百二十七畳もの広さだ。こちらの壁から向こうの壁が霞んで見える。天井や欄間、須弥壇などは眩いばかりの金箔と精緻な彫刻で彩られ、ここに座す誰もが、現世での束の間の浄土に誘われる。これほどの建築を建てることは、明治のあの時分だからこそできたことで、当世は資材を調達するのも難しいのではないかと思う。ただ、日本の宮大工には、古代より卓越した技術が継承されているから、資材さえ揃えばやれぬことはないだろう。外国人は京都へ降りてすぐに、この大伽藍を観て何を思うだろうか。壮大かつ繊細な美の殿堂たる日本の寺院建築を、まざまざと魅せつけられよう。

真宗寺院は本堂である阿弥陀堂よりも、宗祖親鸞聖人を奉る御影堂の方が大きいのが特徴である。阿弥陀堂は、幅五十二メートル、奥行四十七メートル。御影堂より一回り小ぶりだが、御影堂があまりに大きいため、そう見えるだけで、他の寺であれば大本堂だ。渡廊下で繋がれた両堂は、棟こそ違え、一体と見てよい。両堂合わせれば、小駅のプラットホームよりも長い。浄土系寺院の本尊は阿弥陀如来である。だが本願寺の場合、知らなければ御影堂こそが本堂だと誰もが思うだろう。それほど真宗は、宗祖親鸞を大切に思っている。御影堂は門徒や京都人、或いはこの寺を訪ねる人々にとって、信仰と安らぎの場であると同時に、公会堂のような役割を担っているように思う。これが浄土真宗本願寺の布教であった。

阿弥陀堂と御影堂を繋ぐ渡廊下には、明治の再建時の遺産が展示されている。中で、毛綱という材木を切り出した時に使われた太い綱には感銘を受けた。毛綱は、麻と門徒の女性が提供した髪の毛を縒り合わせて編み込んである。そうすることで強度が増して、切れない綱になるのだとか。昔から髪は女性の命とも云う。いや、昔であれば尚更である。門徒の女性たちは、それを惜しげも無く、我先にと提供した。今のように重機のない時代、再建には相当な苦労があった。越後の材木伐採の現場では、死者も出る大事故が起きている。山に入ったり、建築現場に踏み込めない女性たちにとって、自分たちに何ができるのか考えた末、せめてもの一助としたのが毛綱であった。私はこの毛綱に、どんなものよりも強く深い信心をみた。薄気味悪いほどリアルな信仰である。あまりにもストレートである。色褪せて黄緑色にトグロを巻いた毛綱は、何とも不気味であり何とも美しい。立派な御影堂や阿弥陀堂も結構だが、東本願寺は何と言ってもこの毛綱があることが、最大の光明と力の源泉の様な気がしてならない。

廃仏棄釈で一度は廃れかけた日本仏教は、こういう名もなき庶民の中で再び発芽して、新たな道を歩み始めた。 現在、浄土真宗全体の門徒は一千三百万人を超え、日本仏教で一番である。師法然が説いた専修念仏、易行という仏道に深く共鳴し帰依した親鸞は、さらにその教義を深め、進め、広めた。だが、師弟はともに既成の仏教勢力から排斥される。法然は四国へ、親鸞は越後へ流される。一説では、親鸞は死刑になるところを、自身が中級貴族日野氏の出身であり、親族には公卿がいたため免罪になったと云う。幾多の不遇の時を送った青年期だが、親鸞の念仏と他力信仰はますます熱を帯びた。越後での幽閉を解かれ、沸々と湧きあがる思いを、流転の地である坂東は常陸国の稲田にて「教行信証」に著した。そして親鸞は、当時の僧としては前代未聞の妻帯者となる。当然再び既存の仏教勢力から激しく非難を受けて、ついに強制的に還俗させられてしまう。親鸞は僧に非ず、俗に非ず、自らを愚禿と称するようになった。これは決して諦めではなく、親鸞なりの不屈の誓いではなかったか。

親鸞は九十年のその生涯で、阿弥陀如来を真に信じた瞬間から、往生が約束されると説き続けた。だが、親鸞が自ら、浄土宗から新たに浄土真宗を起こしたわけでなく、後に分派していったのである。親鸞は六十を過ぎて再び生まれ故郷の京都へ帰った。坂東での布教は多くの門弟門徒を得て、一応は成功したが、やはり当時としては辺境である常陸国稲田では限界を感じたのだろう。そしてまた、生まれた場所であり、師法然との想い出多き京都への望郷の念が、棄て去ることはできなかったに違いない。どこまでも人間臭い親鸞らしい。親鸞はこのあと都でおよそ三十年、教義の構築に努め、多くの弟子と門徒へそれを面授した。自らはあまり積極的に布教はしなかったとみられる。無論その間も、様々な横槍が入ったであろうが、信念は死ぬまで失うことはなかった。親鸞は最晩年まで、子息善鸞との義絶、末娘覚信尼母子の生活、門弟入り乱れた後継争い、教義の歪み、また自分自身の信仰、自らはどう往生するのかなど悩みが尽きなかった。自分が亡き後、日本仏教と浄土教、さらには我が子や弟子たちの行く末を案じていた。が、奈良国立博物館に蔵されてある親鸞聖人画像からは、静謐の内に秘める凄まじい気迫と自由が感じられる。そうなのだ。親鸞は生涯自由の人なのだ。信仰の自由、衣食住の自由、妻帯の自由、表現の自由、学問の自由、移動の自由。自由こそが親鸞が自ら体現して見せた最大の信証だと思う。

弘長二年(1262)親鸞聖人入滅。遺体は、東山大谷で荼毘にふされた。その地に覚信尼によって、廟堂が作られ、本願寺の由緒となる。後に、浄土宗から分かれて浄土真宗となり、ひたすらに阿弥陀如来のみを信じ、他力信仰を標榜する、日本仏教の中でも、特異な宗派となっていった。しかし、既成勢力からは特異でも、名もなき庶民にとっては大いにわかりやすく、まさに易行であり、信者を増やしていった由にもなる。その頑な信仰集団は、一向宗と呼ばれ、室町時代には中興の祖蓮如によって、越前の吉崎に広大な寺内町を築いて、勢力を伸ばした。戦国期には一向一揆を起こし、戦国武将からも恐れられ、信長とは石山合戦を八年に渡り繰り広げるなど、鉄の団結力を見せつけた。信長の跡を継いだ秀吉とは和解して、石山本願寺から、京都堀川七条の地を与えられて、本願寺は都で再び花開き始めたのである。ここが今の西本願寺である。秀吉から天下人が家康に変わると、今度は本願寺内部で主導権争いが燻り始めた。それを敏感に察知した家康は、巨大勢力として警戒していた本願寺を分断するには、勿怪の幸いとばかりに、本願寺十一世顕如の長男教如へ烏丸七条の地を与えて分派した。西本願寺顕如の三男准如が継ぎ、その後、徳川時代は東西本願寺は両立する。だが、明治以後今日まで、東本願寺の内部は分裂を繰り返してきた。昭和のいわゆるお東騒動以来、大谷派は京都の東本願寺と、東京の東本願寺、どちらも本山と云い、大谷派本流を譲らない。今もって、和解には至っていないのである。自らも真宗門徒の作家である五木寛之さんは、真宗浄土教の中でも鬼っ子のような存在だと言われたが、鬼っ子の魂は今も継承されているようだ。

今年、東本願寺で働く人のサービス残業のことが問題となった。西本願寺や他の真宗諸派に比べて騒動が尽きないが、人々の信仰が薄れる事はない。意外に東本願寺こそが、二十一世紀の現代日本を、もっとも鏡の如く映し出しているのではないか。世の人々に仏教とは、信仰とは、生きるとは、そして往生とは何ぞやという事を親鸞に代わって体現しているのではないか。であれば、実にわかりやすい。私はこの夏から、歎異抄を愛読し始めた。歎異抄は、親鸞の弟子唯円が著した、浄土真宗ではもっとも身近で有名な著作だが、親鸞自身の著作ではないことから、賛否は昔から分かれる。でも私自身は、歎異抄を繰り返し読んでみて、そこに親鸞のまことの声を確かに聴いた気がする。浄土真宗の祖は親鸞だが、本人は露ほども分宗分派などは考えていなかったし、そんなことはどうでも良いことだと、誰よりも思っていたに違いない。何よりも争い事は好まなかった。私はあえてこれを「親鸞聖人の本願」と呼びたい。ならば、我ら衆生は安心して良い。諍い揉めているのは、いつの世もどの組織でも上層部だけで、名も無き庶民たちには、迷い相違なく親鸞の本願は伝播されている。私の実家の菩提寺浄土真宗で、本山はお東さんではなくお西さんである。私の通った幼稚園は、菩提寺の附属幼稚園で、朝な夕なに御念仏の日々を過ごした。これが私の仏教とのファーストコンタクトであり、今日まで仏教に関心を抱くきっかけとなっている。私自身、熱心に浄土真宗に帰依はしていないし、むしろ信仰心は希薄だと思う。しかし信仰に東も西も無く、諸派も他宗派も関係ないことだけは、いつどの寺に行っても失わない唯一の信心である。東本願寺でもそれは変わらない。

涅槃図

徳川時代の絵師は百花繚乱。絵師としての実力、個性、人気、生き方、いずれも途轍もない光芒を放つ。様々とは彼らのためにある言葉に思えてくる。師宣、春信、清長、栄之、北斎、広重、国芳、私もお気に入りの絵師がたくさんいるが、彼らと一味違う異才が英一蝶である。英一蝶が、先に挙げた絵師たちと異なる最たる点は、いわゆる版画を描かなかったことだ。描かなかったのではなく、描けなかったというのが真相かもしれない。それには、彼の出自と、浮世絵の創始者の一人とされる菱川師宣へのリスペクトがそうさせたのではないかと思う。でも、おそらくはジレンマを抱えていたに違いなく、迷いながらも到達したのが、版画よりも一画入魂を良しとしたのであろう。いかにも英一蝶らしく、彼の人生を覗けばそういう絵師になったのも必然といえる。

そんな彼の経歴はたまらなくおもしろい。英一蝶は、伊勢亀山藩藩医の子として生まれ、藩主石川憲之とともに一家で江戸に出た。早くから絵の才能を認められ、殿様にも知られて、狩野派に入門した。だが、後に頭角を現す破天荒ぶりは、若かりし頃から垣間見られたようで、狩野派を破門されてしまう。以後は、独自に絵描きに専心し、町絵師としての画風を立てていった。吉原通いが好きで、高じてと言ってよいのか?だが、そのまま吉原で幇間として働くようになった。幇間とはいわゆる太鼓持ちのことで、男芸者とも呼ばれた。文字通りの芸者で、女芸者と違い艶っぽい芸ではなく、大道芸やチンドン屋のような見世物芸をして、宴席を盛り上げた。今でも浅草には、何人か幇間がいるらしい。一蝶は、根っからの遊び好きであって、縁あって吉原で働くことが嫌ではなかった節がある。さらには、吉原に来る大名、旗本、豪商、文化人に知己を得ることで、自分のスポンサーを探していたに違いない。一蝶には、そういう計算高い一面もあるのだ。また当時、吉原ほど色彩豊かな所はなく、絵描きとして、色の種類や明暗を学ぶには絶好の場であった。

英一蝶は二度も流罪の憂き目を経験している。理由は諸説あり、幕府を風刺する絵を描いたとか、生類憐みの令に背いたためとも言われるが、流刑地の三宅島でも絵を描くことをやめなかった。そこには、必ず生きて江戸を戻るという信念と、例えそこで朽ち果てようとも、残すものはあるという絵師としての気骨の両方が感じられる。英一蝶とは、実に無駄の無い人生を送った人だと思う。見る物、やる事、出会う人、すべてを己の絵描きの糧と為したのである。一蝶は俳諧にも顔を出し、芭蕉や其角とも親しくなった。私には、当代一の数寄者たる芭蕉と交わることで、英一蝶という絵描きが完成したと思われてならない。英一蝶の絵は、人間として生きる喜びがあり、憂いがある。楽観と悲哀、栄華と没落、俗世と遁世というものが、複雑に入り組んで渾然一体となっている。英一蝶は、紆余曲折の人生を大胆に謳歌しながら、かつて誰も手に入れたことがない絵心を獲得していったのだ。

その最高峰ともいえる作が、ボストン美術館に蔵されている「涅槃図」である。先月、上野の美術館に百何十年ぶりに里帰りしていたので、拝みに行ってきた。懸命に修復された「涅槃図」の前に立って、その圧倒的筆致に、私は我を忘れて佇んでしまった。言うまでもなく涅槃図は宗教画である。寺に掛けられて、経と香を手向け、人々が礼拝する画である。この「涅槃図」も元は、愛宕下の青松寺の塔頭にあったもので、明治期に流出してしまった。 それにしても力漲る凄い涅槃図である。沙羅双樹の下で、涅槃に入る釈迦を取り巻く弟子、菩薩、多くの獣や鳥たちが、目にも鮮やかに丁寧に描かれている。釈迦涅槃という悲しみの極みの場面であるのに、どこか安らぎを感じさせる。極楽浄土とはこういう場所なのではないかと思った。それこそが英一蝶の力量なのである。また、他の涅槃図には描かれていない猫が描かれているのも興味深い。その猫は、周りの弟子たちや動物たちが、釈迦を見つめたり、号泣したりしているのに対して、ひとり此方を見つめているのである。まるで、この状況をただひとり冷静に眺め、何やら悟りすましている様だ。或いはあの猫は、英一蝶のその人なのかもしれない。宗教画であるのに全く抹香臭くない。市井の人や動物の日常を、あたかも浮世絵の如く描いている。とても穏やかに。だが、同時に崇高であって、やっぱり礼拝せずにはいられない。仏画なのである。涅槃図であり仏なのである。仏涅槃図とか釈迦涅槃図は、方々の寺や博物館で拝んできたが、英一蝶の「涅槃図」は、世界一の涅槃図であった。

英一蝶 承応元年(1652)〜享保九年(1724)。大往生。

胡耀邦という人

先日、NHKスペシャルで、中国の胡耀邦元総書記をやっていた。三十年前の中国の指導者について、私はほとんど無知であったが、今回少しばかり胡耀邦のことを知って、あのように親しみやすく、大らかな中国指導者がいたことに感銘を受けた。胡耀邦が掲げた政治スローガンこそが、いわゆる改革開放であった。当時、発展道半ばの中国にとって、何よりも経済成長を遂げることが、人民のためと信じて疑わなかった。それは、胡耀邦自身の政治家として、中国共産党の一員として、てっぺんまで登りつめるまでの苦労と経験から、身をもって悟ったことらしい。若い頃は、田舎の不毛地帯へ赴任して、畑仕事などの農作業にも従事した。そこで貧しい人々と共に、中国の現実を見つめ、地方の疲弊と辛酸を味わった。持ち前の向上心と努力、そしてその人柄から知己を得て、少しずつ頭角を現し、中央政界へと進出。柔和な物腰と思考の反面、中央地方一体で発展させねばならないという強い信念と、反骨精神を併せもっていた。何よりも雑巾掛けを惜しまなかったから、総書記の地位まで昇ったのであろう。戦後目覚ましい発展を遂げ、当時、世界第二位の経済大国となった、かつての敵である日本から、多くを学ぼうと努めた。日本と親しく、優しく、果敢に交流した。北京には、三千人の日本の若者を招待したり、日本人を前にした演説でも、日中友好と両国の互恵繁栄を高らかに叫んだりした。

作家の山崎豊子は、「大地の子」の執筆のため、長らく中国で取材をしていた。その時、胡耀邦に何度かインタビューしており、靖国神社のことまで聴いている。胡耀邦は、靖国に合祀された戦犯全員を分祀すれば、日中関係は安泰だ。少なくとも、まずはA級戦犯だけでも分祀すれば、関係が悪化したり滞ることないと断言した。もっともこうした発言が、保守派の不審と反発を招き、失脚への源になってゆくのだが、胡耀邦は本気であった。靖国問題は今に続く問題で、私自身は戦犯の分祀にこだわりもなく、中韓があまりに騒ぎすぎとも思ってしまうが、胡耀邦の柔軟な考え方や未来志向には感心した。歴史には一時代を四十年という周期で、捉える見方がある。胡耀邦は、あの当時、つまり1980年代当時には、非現実的なことも、四十年先の人には理解できるか、当たり前になっているだろうと言った。或いは、自分の目指す国家像の実現には四十年かかるともとれる。

これまで、私は改革開放路線を邁進したのは、当時の中国共産党の最高実力者である鄧小平だと思っていた。しかし、まことの改革者は胡耀邦であった。胡耀邦を失脚に追い込んだ張本人が、鄧小平である。鄧小平は、結党以来の幹部で八大元老と呼ばれた長老たちを束ね、自らが総書記や、国家主席に就くことはなく、キングメーカーの如く、隠然たる影響力を誇示した。鄧小平が、首を縦に振らねば政治はできない。胡耀邦が勝てる相手ではなかった。八大元老や保守派は、胡耀邦の経済、言論の自由などの改革に異を唱えて、進言や苦言を呈したが、結果的には胡耀邦を引き摺り下ろしてしまう。胡耀邦中国共産党序列一位から、五位に降格し、それこそ戦犯のように扱われてしまう。だが、彼らは意気消沈せず、なおも改革に意欲をみせていた矢先に急死。これが、引き金となり、民主化、改革を求める若者が徒党を組んで、六四天安門事件に発展するのだ。中国は、清王朝末期にも類似の事件が起きている。西太后が、甥の光緒帝に親政を許した途端、光緒帝と側近の若手官僚らは、あまりにも改革を急ぎすきだ挙句、西太后頤和園に幽閉しようとした。だが、事前に察知した西太后は激怒。さっさと頤和園を脱出し、紫禁城に乗り込んだ。クーデターは失敗。逆に光緒帝が幽閉され、若手官僚は失脚した。八十年後の中国でも、形や組織は違えど、そっくりな出来事が起きたのである。 胡耀邦は笑顔の人である。あの面差しは実に良い。あんな穏やかで、友愛に満ち溢れた中国の指導者は、私の知る限り、周恩来胡耀邦だけである。胡耀邦が亡くなって三十年。彼の理想とした国家と、日中関係には程遠い現実。あと何年かしたら、胡耀邦が目指した変革思想から四十年である。果たして、今の私たちは、すんなりとそれに向き合えるのだろうか。折しも、北朝鮮情勢が極めて不安な時、日本は解散総選挙となった。日中両国とも自国のことばかり、党も政治家も、私利私欲を貪り、頼り気もない馬鹿丸出しの輩しかいない。胡耀邦から四十年後とは、おとずれるのであろうか。

松上げ


八月末、私の長年の宿願がひとつ叶った。それは、京都の北の山奥で行なわれる松上げという火祭を観ることであった。松上げのことを知ったのは二十年近くも前、白洲正子の随筆かくれ里の「山国の火祭」という文章を読んだからだ。以来、神秘に満ち溢れた火祭の情景は、白洲さんの臨場感溢れる文章によって、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。が、ついにこの晩夏、その火祭を目の当たりにすることができたのである。

日本は火祭が多い国だ。年中何処かで行われている。山川草木八百万、どんなものにも神が宿ると信じてきた日本人らしく、火もまた神聖視してきた。人が火を手に入れてからは、暮らしに欠かすことができなくなった。今は、ガスやライターで難なく火を使えるが、はじめは火を起こし、燻るまでにも労力と知恵を要した。苦労の果てに火が起これば嬉々として、そこに神の力を見たであろう。同時に火は、ひとたび大きくなれば、人の力の及ばぬ破壊力があり、下手をすればすべてを失う。それに対する畏怖があったから、火伏せの神も祀り、火伏祭も盛んに行われた。また、火を焚いて昇天する煙には、死者の霊魂が宿ると信じた。神仏混淆の日本人は、火を神として敬いながら、いつしか仏教とも結びつき、やがて盆の送り火が生まれたのである。送り火は各地で行なわれるが、俗に大文字焼きと呼ばれ、今では京都の夏の風物詩として、世界中に知られている五山の送り火は、日本の送り火の総代のように思う。各地の火祭は、神仏が交わることで、規模が拡大され、東大寺のお水取りや、吉田の火祭、鞍馬の火祭のように盛大な祭に発展した。火は日にも通ずる。農耕に不可欠な日と水と火。日本人は三位一体として大切にお祀りしたのである。

最近、松上げは有名になったらしい。松上げ鑑賞バスなるモノが京都市内から出ている。私も今回はそのバスを利用した。夕方六時、出町柳駅からバスは一路北へ向かう。比叡山もまだはっきりとてっぺんまで見えているほど、良い天気だ。雨天中止と聞いていたので、晴れて良かったと一安心する。バスは鞍馬越えで花背へ向かうが、鞍馬寺を過ぎると、道は狭く険しくなる。怖い怖いヘアピンカーブの連続を、一時間近くかけて行くのだが、さすがに運転手さんは慣れていて、苦も無く峠まで登ってゆく。途中所々、崖にへばりつくような集落があった。道のキワに家があり、反対側は崖で、崖下は滝つ瀬というようなところだ。車内にも轟々たる水音が聴こえてくる。よくこんな所に家を建てたものだと感心した。家々の軒先には、地蔵盆のお供え物や提灯が出ている。地蔵盆地蔵菩薩の縁日で、本来は毎月二十四日だが、御盆に近い旧暦の七月二十四日は、盂蘭盆会と兼ねて行うようになった。お地蔵さんは、日本全国くまなく信仰されているが、地蔵盆近畿地方と信州や九州の一部以外ではあまり知られていない。近畿地方では、盆の行事として色濃く残っている。松上げも地蔵盆と同じ頃行われるが、もともとは地域の豊作を祈る祭が、いつしか地蔵盆と融合したのではないだろうか。

京都は広い。平安京は、京都盆地の中にすっぽりと収まっているが、市域は拡大して、大まかに見ても、東は山科、南は伏見、西は大原野、北は花背まで。その地域も、今は京都市となっているが、かつては洛外のさらに外側にある僻地で、貴人にとっては隠棲の地であった。松上げの行われる花背のあたりも例外ではなく、古い寺社が点在し、秘された歴史がまだまだ埋まっているようなところだ。松上げは、この辺りに伝承されている祭で、私が訪ねたのは花背峠を越えてから、さらにバスで二十分ばかり降ったところにある広河原という集落である。現在、松上げは広河原、花背、雲ヶ畑に残るが、かつてはこの辺りの村ごとに行われていたとか。白洲さんが観たのも、広河原より少しばかり花背峠寄りの原地という集落の松上げだったが、今では原地の松上げは廃れてしまった。白洲さんは原地を観て、その足で広河原にも廻っているので、一晩に二度松上げを観たらしい。かくれ里で白洲さんは、この辺りの風景を、絵に描いたような美しい村が現れたと書いているが、白洲さんが訪ねてから四十年たった今も、昔話さながらの雰囲気は失われていない。今回、私はすっかりと宵闇になってから行ったので、あたりの景色ははっきりしなかったが、点在する古民家や田畑、そして清らかな瀬音が、微かに闇の中に浮かび上がって見えつ聴こえつしていた。夜空には、東京ではぜったいに見ることの叶わない夏の星座が、手に取るように瞬き始めている。なるほど今度は昼間に来て、絵に描いたような村を眺めながら歩きたいと強く思った。

松上げの会場までの道には、地元の人によってささやかな夜店が出ていて、京野菜なんかを売っている。その先に川が流れていて、橋の手前が我ら野次馬の席。すでに三百人ほどが押しかけていて、今か今かと、火祭が始まるのを固唾を呑んで待っている。川を挟んで向こう側の原っぱが、松上げが行われる聖地である。聖域には結界が張られていて、野次馬はおろか村人でさえ、松上げに参加する男たちしか入ることは許されない。中心には、地上二十メートル近くもある、燈籠木(トロギ或いはトロゲ)と呼ばれる巨大な松明が立てられている。広河原では松上げのことを正式には、トロゲと呼ぶ。燈籠木は松明というよりも、暗がりに見れば大木のようである。燈籠木のてっぺんには、薪をつめた籠が取り付けてある。松上げは、その燈籠木のてっぺんめがけて、地元の男たちが、銘々手作りした火種を投げ入れるのだ。選ばれし男たちを、私は松上げ男子と呼ぶことにする。十九歳になると、松上げに参加できるらしい。松上げ男子になれば、晴れて大人の男として認められるのだろう。火種は放上松(ほりあげまつ)といって、油の多い燃えやすい松の芯を束ねて、藁紐がくくりつけてある。その藁紐を握り、てっぺんめがけて放り投げ、一番点火を競うのである。

一時間ほど待ったであろうか。太鼓と鉦の音が鳴り出し、燈籠木の周囲に立てられた、松明一本一本に点火してゆく。元火は、地域の尾花町の山林に祀られている愛宕大明神の祠から授かる。松明は聖域に千本以上も立てられていて、松上げ男子がものすごい早さで点火するのだが、白洲さんはその様を、まるで火天か韋駄天のようだと記している。 あっという間に、聖域一面が火の海になった。遠く向こうは段々になっていて、その起伏が火の波の如くこちらへ押し寄せてくる。これだけでも一見の価値あり。幻想的な火の海を眺めていると、本当にこれが夢なのか、現なのか境目がなくなってゆくのであった。 やがて、太鼓と鉦の音が早くなると、いよいよ松上げが始まった。男たちは、燈籠木のてっぺんに向けて、「こりゃ、こりゃ、こりゃあ」とか、「こりゃじゃ、こりゃじゃ、こりゃじゃ」などと、独特の声を発しながら、我先にと火種を放り投げる。 野次馬もまた一緒になって歓声をあげる。入りそうで入らない火種が、虚しく地上に落ちる度に、嗚呼と悲鳴をあげたり、もっとこっちだよとか、そっちじゃ入らんよとか、惜しいとか、いちいち叫ぶ。松上げ男子よりも、野次馬の方が熱くなるのが可笑しかった。確かに、聖地とこちら側には結界があるが、松上げに挑む心には、聖域の内外に垣根はなかった。

やがてついに、火種のひとつがてっぺんに乗っかると、甲子園球児がホームランを打ったかのような大歓声が起こって、その神々しい炎を全員が祈るように見つめる。まさしく今、聖火台に聖なる炎が灯ったのである。その後も、松上げ男子が投げた火種がふたつ、みっつと入ると、燻っていた炎は、籠の中の薪に引火し、昇龍の口から吐き出る炎のようになった。その場にいる誰もが、紅蓮の炎に見惚れている。神の降臨か仏の来迎というものも、このような光景なのではないかと思った。それも束の間、太鼓と鉦がひときわ高らかに鳴ると、松上げ男子は燈籠木の下に集まり、支柱を外したかと思うと、一気に地面に引き倒した。その瞬間、物凄い音と、巨大な火炎が一帯を包み、大歓声のあとには、しばしの静寂があって、自然と拍手が沸き起こった。あたりには、煙が充満し、田畑をかすめながら、山、川、そして天へと昇ってゆく。ここで、私は合点した。松上げとは、森林田畑の害虫駆除を兼ねているのだ。あれだけの松明の熱と煙は、あの一晩で、広河原地区の上から下までくまなく廻ったであろう。これから、実りの秋を迎えるにあたって、もっとも原始的だが、もっとも効果的な害虫駆除になるに違いない。神を奉り、感謝するとともに、豊作を願い、災害からの守護を祈念した。その想いが真面目にこの火祭には込められている。一見してそれはとくとわかったつもりだが、古代から続く偉大なる火祭を、たった一度観たとて、すべてを語ることは、野次馬の私には到底できない。第一、この祭を大切に守り伝える松上げ男子や、地元の人々に失礼だと思う。であるから、これ以上は語るのは止そう。でも、間違いなく私は、この夏の夜、ついに松上げを観た。いたく、えらく、物凄く感動した。宿願を果たせてうれしかったのである。

松上げが無事に終わると男たちは、古老の発声に合わせ、「シャンノ、シャンノ、オシャシャンノシャン」「ユオオテ、オシャシャンノシャン」という不可思議な文句を唱える。そして伊勢節を唄いながら、聖地から地域の観音堂へと列を成して、引き揚げる。そして、村人皆で、夜更けまで盆踊りに興じるのだとか。松上げ男子は本当に凛々しく、格好良かった。日本には、まだこんな祭があるのだ。探せばあるのである。こんな面白い火祭を、古代のいったい誰が思いついたのだろう。現代の我々の創造力はすばらしいが、古代の人々の想像力もまた凄いのである。松上げを観て、あらためてそれを痛感した。白洲さんは、松上げを観て、「東京へ帰ってからも、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは信じられない。まだあの夜の酔いからさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。」と書いている。人に騙されるより、狐に化かされたい私も、この夏の夜に見た夢を、生涯忘れぬであろう。