弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

涅槃図

徳川時代の絵師は百花繚乱。絵師としての実力、個性、人気、生き方、いずれも途轍もない光芒を放つ。様々とは彼らのためにある言葉に思えてくる。師宣、春信、清長、栄之、北斎、広重、国芳、私もお気に入りの絵師がたくさんいるが、彼らと一味違う異才が英一蝶である。英一蝶が、先に挙げた絵師たちと異なる最たる点は、いわゆる版画を描かなかったことだ。描かなかったのではなく、描けなかったというのが真相かもしれない。それには、彼の出自と、浮世絵の創始者の一人とされる菱川師宣へのリスペクトがそうさせたのではないかと思う。でも、おそらくはジレンマを抱えていたに違いなく、迷いながらも到達したのが、版画よりも一画入魂を良しとしたのであろう。いかにも英一蝶らしく、彼の人生を覗けばそういう絵師になったのも必然といえる。

そんな彼の経歴はたまらなくおもしろい。英一蝶は、伊勢亀山藩藩医の子として生まれ、藩主石川憲之とともに一家で江戸に出た。早くから絵の才能を認められ、殿様にも知られて、狩野派に入門した。だが、後に頭角を現す破天荒ぶりは、若かりし頃から垣間見られたようで、狩野派を破門されてしまう。以後は、独自に絵描きに専心し、町絵師としての画風を立てていった。吉原通いが好きで、高じてと言ってよいのか?だが、そのまま吉原で幇間として働くようになった。幇間とはいわゆる太鼓持ちのことで、男芸者とも呼ばれた。文字通りの芸者で、女芸者と違い艶っぽい芸ではなく、大道芸やチンドン屋のような見世物芸をして、宴席を盛り上げた。今でも浅草には、何人か幇間がいるらしい。一蝶は、根っからの遊び好きであって、縁あって吉原で働くことが嫌ではなかった節がある。さらには、吉原に来る大名、旗本、豪商、文化人に知己を得ることで、自分のスポンサーを探していたに違いない。一蝶には、そういう計算高い一面もあるのだ。また当時、吉原ほど色彩豊かな所はなく、絵描きとして、色の種類や明暗を学ぶには絶好の場であった。

英一蝶は二度も流罪の憂き目を経験している。理由は諸説あり、幕府を風刺する絵を描いたとか、生類憐みの令に背いたためとも言われるが、流刑地の三宅島でも絵を描くことをやめなかった。そこには、必ず生きて江戸を戻るという信念と、例えそこで朽ち果てようとも、残すものはあるという絵師としての気骨の両方が感じられる。英一蝶とは、実に無駄の無い人生を送った人だと思う。見る物、やる事、出会う人、すべてを己の絵描きの糧と為したのである。一蝶は俳諧にも顔を出し、芭蕉や其角とも親しくなった。私には、当代一の数寄者たる芭蕉と交わることで、英一蝶という絵描きが完成したと思われてならない。英一蝶の絵は、人間として生きる喜びがあり、憂いがある。楽観と悲哀、栄華と没落、俗世と遁世というものが、複雑に入り組んで渾然一体となっている。英一蝶は、紆余曲折の人生を大胆に謳歌しながら、かつて誰も手に入れたことがない絵心を獲得していったのだ。

その最高峰ともいえる作が、ボストン美術館に蔵されている「涅槃図」である。先月、上野の美術館に百何十年ぶりに里帰りしていたので、拝みに行ってきた。懸命に修復された「涅槃図」の前に立って、その圧倒的筆致に、私は我を忘れて佇んでしまった。言うまでもなく涅槃図は宗教画である。寺に掛けられて、経と香を手向け、人々が礼拝する画である。この「涅槃図」も元は、愛宕下の青松寺の塔頭にあったもので、明治期に流出してしまった。 それにしても力漲る凄い涅槃図である。沙羅双樹の下で、涅槃に入る釈迦を取り巻く弟子、菩薩、多くの獣や鳥たちが、目にも鮮やかに丁寧に描かれている。釈迦涅槃という悲しみの極みの場面であるのに、どこか安らぎを感じさせる。極楽浄土とはこういう場所なのではないかと思った。それこそが英一蝶の力量なのである。また、他の涅槃図には描かれていない猫が描かれているのも興味深い。その猫は、周りの弟子たちや動物たちが、釈迦を見つめたり、号泣したりしているのに対して、ひとり此方を見つめているのである。まるで、この状況をただひとり冷静に眺め、何やら悟りすましている様だ。或いはあの猫は、英一蝶のその人なのかもしれない。宗教画であるのに全く抹香臭くない。市井の人や動物の日常を、あたかも浮世絵の如く描いている。とても穏やかに。だが、同時に崇高であって、やっぱり礼拝せずにはいられない。仏画なのである。涅槃図であり仏なのである。仏涅槃図とか釈迦涅槃図は、方々の寺や博物館で拝んできたが、英一蝶の「涅槃図」は、世界一の涅槃図であった。

英一蝶 承応元年(1652)〜享保九年(1724)。大往生。

胡耀邦という人

先日、NHKスペシャルで、中国の胡耀邦元総書記をやっていた。三十年前の中国の指導者について、私はほとんど無知であったが、今回少しばかり胡耀邦のことを知って、あのように親しみやすく、大らかな中国指導者がいたことに感銘を受けた。胡耀邦が掲げた政治スローガンこそが、いわゆる改革開放であった。当時、発展道半ばの中国にとって、何よりも経済成長を遂げることが、人民のためと信じて疑わなかった。それは、胡耀邦自身の政治家として、中国共産党の一員として、てっぺんまで登りつめるまでの苦労と経験から、身をもって悟ったことらしい。若い頃は、田舎の不毛地帯へ赴任して、畑仕事などの農作業にも従事した。そこで貧しい人々と共に、中国の現実を見つめ、地方の疲弊と辛酸を味わった。持ち前の向上心と努力、そしてその人柄から知己を得て、少しずつ頭角を現し、中央政界へと進出。柔和な物腰と思考の反面、中央地方一体で発展させねばならないという強い信念と、反骨精神を併せもっていた。何よりも雑巾掛けを惜しまなかったから、総書記の地位まで昇ったのであろう。戦後目覚ましい発展を遂げ、当時、世界第二位の経済大国となった、かつての敵である日本から、多くを学ぼうと努めた。日本と親しく、優しく、果敢に交流した。北京には、三千人の日本の若者を招待したり、日本人を前にした演説でも、日中友好と両国の互恵繁栄を高らかに叫んだりした。

作家の山崎豊子は、「大地の子」の執筆のため、長らく中国で取材をしていた。その時、胡耀邦に何度かインタビューしており、靖国神社のことまで聴いている。胡耀邦は、靖国に合祀された戦犯全員を分祀すれば、日中関係は安泰だ。少なくとも、まずはA級戦犯だけでも分祀すれば、関係が悪化したり滞ることないと断言した。もっともこうした発言が、保守派の不審と反発を招き、失脚への源になってゆくのだが、胡耀邦は本気であった。靖国問題は今に続く問題で、私自身は戦犯の分祀にこだわりもなく、中韓があまりに騒ぎすぎとも思ってしまうが、胡耀邦の柔軟な考え方や未来志向には感心した。歴史には一時代を四十年という周期で、捉える見方がある。胡耀邦は、あの当時、つまり1980年代当時には、非現実的なことも、四十年先の人には理解できるか、当たり前になっているだろうと言った。或いは、自分の目指す国家像の実現には四十年かかるともとれる。

これまで、私は改革開放路線を邁進したのは、当時の中国共産党の最高実力者である鄧小平だと思っていた。しかし、まことの改革者は胡耀邦であった。胡耀邦を失脚に追い込んだ張本人が、鄧小平である。鄧小平は、結党以来の幹部で八大元老と呼ばれた長老たちを束ね、自らが総書記や、国家主席に就くことはなく、キングメーカーの如く、隠然たる影響力を誇示した。鄧小平が、首を縦に振らねば政治はできない。胡耀邦が勝てる相手ではなかった。八大元老や保守派は、胡耀邦の経済、言論の自由などの改革に異を唱えて、進言や苦言を呈したが、結果的には胡耀邦を引き摺り下ろしてしまう。胡耀邦中国共産党序列一位から、五位に降格し、それこそ戦犯のように扱われてしまう。だが、彼らは意気消沈せず、なおも改革に意欲をみせていた矢先に急死。これが、引き金となり、民主化、改革を求める若者が徒党を組んで、六四天安門事件に発展するのだ。中国は、清王朝末期にも類似の事件が起きている。西太后が、甥の光緒帝に親政を許した途端、光緒帝と側近の若手官僚らは、あまりにも改革を急ぎすきだ挙句、西太后頤和園に幽閉しようとした。だが、事前に察知した西太后は激怒。さっさと頤和園を脱出し、紫禁城に乗り込んだ。クーデターは失敗。逆に光緒帝が幽閉され、若手官僚は失脚した。八十年後の中国でも、形や組織は違えど、そっくりな出来事が起きたのである。 胡耀邦は笑顔の人である。あの面差しは実に良い。あんな穏やかで、友愛に満ち溢れた中国の指導者は、私の知る限り、周恩来胡耀邦だけである。胡耀邦が亡くなって三十年。彼の理想とした国家と、日中関係には程遠い現実。あと何年かしたら、胡耀邦が目指した変革思想から四十年である。果たして、今の私たちは、すんなりとそれに向き合えるのだろうか。折しも、北朝鮮情勢が極めて不安な時、日本は解散総選挙となった。日中両国とも自国のことばかり、党も政治家も、私利私欲を貪り、頼り気もない馬鹿丸出しの輩しかいない。胡耀邦から四十年後とは、おとずれるのであろうか。

松上げ


八月末、私の長年の宿願がひとつ叶った。それは、京都の北の山奥で行なわれる松上げという火祭を観ることであった。松上げのことを知ったのは二十年近くも前、白洲正子の随筆かくれ里の「山国の火祭」という文章を読んだからだ。以来、神秘に満ち溢れた火祭の情景は、白洲さんの臨場感溢れる文章によって、私の脳裏に焼き付いて離れなかった。が、ついにこの晩夏、その火祭を目の当たりにすることができたのである。

日本は火祭が多い国だ。年中何処かで行われている。山川草木八百万、どんなものにも神が宿ると信じてきた日本人らしく、火もまた神聖視してきた。人が火を手に入れてからは、暮らしに欠かすことができなくなった。今は、ガスやライターで難なく火を使えるが、はじめは火を起こし、燻るまでにも労力と知恵を要した。苦労の果てに火が起これば嬉々として、そこに神の力を見たであろう。同時に火は、ひとたび大きくなれば、人の力の及ばぬ破壊力があり、下手をすればすべてを失う。それに対する畏怖があったから、火伏せの神も祀り、火伏祭も盛んに行われた。また、火を焚いて昇天する煙には、死者の霊魂が宿ると信じた。神仏混淆の日本人は、火を神として敬いながら、いつしか仏教とも結びつき、やがて盆の送り火が生まれたのである。送り火は各地で行なわれるが、俗に大文字焼きと呼ばれ、今では京都の夏の風物詩として、世界中に知られている五山の送り火は、日本の送り火の総代のように思う。各地の火祭は、神仏が交わることで、規模が拡大され、東大寺のお水取りや、吉田の火祭、鞍馬の火祭のように盛大な祭に発展した。火は日にも通ずる。農耕に不可欠な日と水と火。日本人は三位一体として大切にお祀りしたのである。

最近、松上げは有名になったらしい。松上げ鑑賞バスなるモノが京都市内から出ている。私も今回はそのバスを利用した。夕方六時、出町柳駅からバスは一路北へ向かう。比叡山もまだはっきりとてっぺんまで見えているほど、良い天気だ。雨天中止と聞いていたので、晴れて良かったと一安心する。バスは鞍馬越えで花背へ向かうが、鞍馬寺を過ぎると、道は狭く険しくなる。怖い怖いヘアピンカーブの連続を、一時間近くかけて行くのだが、さすがに運転手さんは慣れていて、苦も無く峠まで登ってゆく。途中所々、崖にへばりつくような集落があった。道のキワに家があり、反対側は崖で、崖下は滝つ瀬というようなところだ。車内にも轟々たる水音が聴こえてくる。よくこんな所に家を建てたものだと感心した。家々の軒先には、地蔵盆のお供え物や提灯が出ている。地蔵盆地蔵菩薩の縁日で、本来は毎月二十四日だが、御盆に近い旧暦の七月二十四日は、盂蘭盆会と兼ねて行うようになった。お地蔵さんは、日本全国くまなく信仰されているが、地蔵盆近畿地方と信州や九州の一部以外ではあまり知られていない。近畿地方では、盆の行事として色濃く残っている。松上げも地蔵盆と同じ頃行われるが、もともとは地域の豊作を祈る祭が、いつしか地蔵盆と融合したのではないだろうか。

京都は広い。平安京は、京都盆地の中にすっぽりと収まっているが、市域は拡大して、大まかに見ても、東は山科、南は伏見、西は大原野、北は花背まで。その地域も、今は京都市となっているが、かつては洛外のさらに外側にある僻地で、貴人にとっては隠棲の地であった。松上げの行われる花背のあたりも例外ではなく、古い寺社が点在し、秘された歴史がまだまだ埋まっているようなところだ。松上げは、この辺りに伝承されている祭で、私が訪ねたのは花背峠を越えてから、さらにバスで二十分ばかり降ったところにある広河原という集落である。現在、松上げは広河原、花背、雲ヶ畑に残るが、かつてはこの辺りの村ごとに行われていたとか。白洲さんが観たのも、広河原より少しばかり花背峠寄りの原地という集落の松上げだったが、今では原地の松上げは廃れてしまった。白洲さんは原地を観て、その足で広河原にも廻っているので、一晩に二度松上げを観たらしい。かくれ里で白洲さんは、この辺りの風景を、絵に描いたような美しい村が現れたと書いているが、白洲さんが訪ねてから四十年たった今も、昔話さながらの雰囲気は失われていない。今回、私はすっかりと宵闇になってから行ったので、あたりの景色ははっきりしなかったが、点在する古民家や田畑、そして清らかな瀬音が、微かに闇の中に浮かび上がって見えつ聴こえつしていた。夜空には、東京ではぜったいに見ることの叶わない夏の星座が、手に取るように瞬き始めている。なるほど今度は昼間に来て、絵に描いたような村を眺めながら歩きたいと強く思った。

松上げの会場までの道には、地元の人によってささやかな夜店が出ていて、京野菜なんかを売っている。その先に川が流れていて、橋の手前が我ら野次馬の席。すでに三百人ほどが押しかけていて、今か今かと、火祭が始まるのを固唾を呑んで待っている。川を挟んで向こう側の原っぱが、松上げが行われる聖地である。聖域には結界が張られていて、野次馬はおろか村人でさえ、松上げに参加する男たちしか入ることは許されない。中心には、地上二十メートル近くもある、燈籠木(トロギ或いはトロゲ)と呼ばれる巨大な松明が立てられている。広河原では松上げのことを正式には、トロゲと呼ぶ。燈籠木は松明というよりも、暗がりに見れば大木のようである。燈籠木のてっぺんには、薪をつめた籠が取り付けてある。松上げは、その燈籠木のてっぺんめがけて、地元の男たちが、銘々手作りした火種を投げ入れるのだ。選ばれし男たちを、私は松上げ男子と呼ぶことにする。十九歳になると、松上げに参加できるらしい。松上げ男子になれば、晴れて大人の男として認められるのだろう。火種は放上松(ほりあげまつ)といって、油の多い燃えやすい松の芯を束ねて、藁紐がくくりつけてある。その藁紐を握り、てっぺんめがけて放り投げ、一番点火を競うのである。

一時間ほど待ったであろうか。太鼓と鉦の音が鳴り出し、燈籠木の周囲に立てられた、松明一本一本に点火してゆく。元火は、地域の尾花町の山林に祀られている愛宕大明神の祠から授かる。松明は聖域に千本以上も立てられていて、松上げ男子がものすごい早さで点火するのだが、白洲さんはその様を、まるで火天か韋駄天のようだと記している。 あっという間に、聖域一面が火の海になった。遠く向こうは段々になっていて、その起伏が火の波の如くこちらへ押し寄せてくる。これだけでも一見の価値あり。幻想的な火の海を眺めていると、本当にこれが夢なのか、現なのか境目がなくなってゆくのであった。 やがて、太鼓と鉦の音が早くなると、いよいよ松上げが始まった。男たちは、燈籠木のてっぺんに向けて、「こりゃ、こりゃ、こりゃあ」とか、「こりゃじゃ、こりゃじゃ、こりゃじゃ」などと、独特の声を発しながら、我先にと火種を放り投げる。 野次馬もまた一緒になって歓声をあげる。入りそうで入らない火種が、虚しく地上に落ちる度に、嗚呼と悲鳴をあげたり、もっとこっちだよとか、そっちじゃ入らんよとか、惜しいとか、いちいち叫ぶ。松上げ男子よりも、野次馬の方が熱くなるのが可笑しかった。確かに、聖地とこちら側には結界があるが、松上げに挑む心には、聖域の内外に垣根はなかった。

やがてついに、火種のひとつがてっぺんに乗っかると、甲子園球児がホームランを打ったかのような大歓声が起こって、その神々しい炎を全員が祈るように見つめる。まさしく今、聖火台に聖なる炎が灯ったのである。その後も、松上げ男子が投げた火種がふたつ、みっつと入ると、燻っていた炎は、籠の中の薪に引火し、昇龍の口から吐き出る炎のようになった。その場にいる誰もが、紅蓮の炎に見惚れている。神の降臨か仏の来迎というものも、このような光景なのではないかと思った。それも束の間、太鼓と鉦がひときわ高らかに鳴ると、松上げ男子は燈籠木の下に集まり、支柱を外したかと思うと、一気に地面に引き倒した。その瞬間、物凄い音と、巨大な火炎が一帯を包み、大歓声のあとには、しばしの静寂があって、自然と拍手が沸き起こった。あたりには、煙が充満し、田畑をかすめながら、山、川、そして天へと昇ってゆく。ここで、私は合点した。松上げとは、森林田畑の害虫駆除を兼ねているのだ。あれだけの松明の熱と煙は、あの一晩で、広河原地区の上から下までくまなく廻ったであろう。これから、実りの秋を迎えるにあたって、もっとも原始的だが、もっとも効果的な害虫駆除になるに違いない。神を奉り、感謝するとともに、豊作を願い、災害からの守護を祈念した。その想いが真面目にこの火祭には込められている。一見してそれはとくとわかったつもりだが、古代から続く偉大なる火祭を、たった一度観たとて、すべてを語ることは、野次馬の私には到底できない。第一、この祭を大切に守り伝える松上げ男子や、地元の人々に失礼だと思う。であるから、これ以上は語るのは止そう。でも、間違いなく私は、この夏の夜、ついに松上げを観た。いたく、えらく、物凄く感動した。宿願を果たせてうれしかったのである。

松上げが無事に終わると男たちは、古老の発声に合わせ、「シャンノ、シャンノ、オシャシャンノシャン」「ユオオテ、オシャシャンノシャン」という不可思議な文句を唱える。そして伊勢節を唄いながら、聖地から地域の観音堂へと列を成して、引き揚げる。そして、村人皆で、夜更けまで盆踊りに興じるのだとか。松上げ男子は本当に凛々しく、格好良かった。日本には、まだこんな祭があるのだ。探せばあるのである。こんな面白い火祭を、古代のいったい誰が思いついたのだろう。現代の我々の創造力はすばらしいが、古代の人々の想像力もまた凄いのである。松上げを観て、あらためてそれを痛感した。白洲さんは、松上げを観て、「東京へ帰ってからも、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは信じられない。まだあの夜の酔いからさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。」と書いている。人に騙されるより、狐に化かされたい私も、この夏の夜に見た夢を、生涯忘れぬであろう。

重陽

九月九日重陽重陽五節句の掉尾を飾る菊の節句で、徳川時代までは、宮中でも江戸城でも節会が催された。節句は陰陽五行説に起因し、邪気を祓い無病息災を祈念する行事が、様々な形で行われた。本来は五節句以外にも多くの節句があるらしいが、徳川幕府が、特に重要な節句と定めたのが、今日まで残る五節句と云われる。元日を別格として、以下が五節句である。一月七日は人日、三月三日は上巳、五月五日は端午、七月七日は七夕、そして九月九日は重陽。昔は五節句のたびに節会が行なわれ、邪気祓いをし、縁起を担ぐ食材を食す宴があちこちで催された。これが御節料理の起源である。御節料理といえば、今では正月に食べるものとして認知されているが、本来は節句ごとに旬の物を食するのだ。年々、正月ですら御節料理を食べる機会は減ってしまった。現代人は、雛祭や七夕祭はやるが、その日に五節句を意識することはない。端午の節句も含めて、風習として辛うじて残っているのは、まだしも良しとせねばならないか。五節句の中でも一番地味で、五節句であることすら忘れられているが、最大奇数日の重陽こそが、陰陽五行説では最も力が大きく、めでたいとされ、幕末までは盛大に言祝がれた。一般にはほとんど知られていない重陽だが、おそらく宮中や一部の社寺では、今でも何らかの祭祀が行われていると思う。そして伝統や暦を重んじる京都では、重陽節句の催しや食事が大切に残っているところもある。そういう風にして、密かに受け継がれているところが、今の重陽の魅力なのかも知れない。

話は変わるが、朝鮮半島情勢が極めて深刻になってきた。北朝鮮は九月九日が建国記念日だという。毎年、建国記念日には、何かしらの軍事的パフォーマンスや実験を行っており、近隣だけではなく、世界中がいま固唾を飲んで注視している。だが、このところの北朝鮮には、警戒感と同時に楽観視する側面が見出せるのは、我が国だけではあるまい。この一年で何度も弾道ミサイルを打ち上げ、核実験を強行する北朝鮮に対して、今のところのレベル止まりと考えている人も少なくない。しかし、果たしてそうだろうか。本当はかなり危機的状況が、すぐ目の前に迫っているのではないか。私はそう思うのである。日本政府やアメリカ政府は、一般市民がパニックになるのを恐れて、黙っているのではないか。もちろん事が事だけに、かなり慎重にやるだろう。それにしても国民を欺くことも、時として必要だと思う。これまでハリボテ国家とみなされてきた北朝鮮なのだから、楽観的になるのも当然である。事実今でもハリボテの可能性だってある。が、やはりこのまま放置容認するわけにはいかない。一朝事あらば、アメリカはすぐさま北朝鮮を追い込む用意があり、万が一、アメリカが核を使えば、十五分で北朝鮮は地球上から消滅するという。それも本当なのか、ハッタリなのか知らないが、であれば、恐怖しかない。その後も恐怖と遺恨は続くであろう。何時の世も、犠牲になるのは、名もなき市民である。一握の権力者、向こう見ずの独裁者によって始まろうとしている愚かなる戦を、何とか止める手立てはないものか。反戦集会も確かに必要だろうが、権門は耳を貸さない。では、どうしたら良いのだろう。三人寄れば文殊の知恵という。皆で、真面目に、真剣にこの問題を考え、向き合う時は、まさに今である。晴れがましい重陽の日が、今年も無事に終わらんことを。戦など起こらぬことを祈る。平成廿九年重陽

なおすけの平成古寺巡礼 天應寺

盛夏の候、三ヶ月ぶりに坂東巡礼に出かけた。此度は、栃木県の満願寺、中禅寺、大谷寺の三ヶ寺にお参りして、帰りがけに佐野市の天應寺に立ち寄る。江戸期、このあたり一帯は彦根藩の飛び地で、天應寺は井伊家の菩提寺とされた。下野国は奥州道が貫く要衝の地ゆえ、関東の地固めをする者には、まさに鬼門であった。それは徳川幕府にとっても例外ではなく、家康は自ら鬼門を封じるべく東照大権現と相成り、日光山に鎮座した。下野国に封じられた大名も錚々たる顔ぶれで、譜代筆頭の井伊家がこの地を領したのも、宜なるかなと思う。

現在の佐野市は、市町村合併でずいぶん広い町になった。天應寺は佐野市堀米という地区にある。堀米から少し北へ行くと、田沼という駅があって、ここが旧安蘇郡田沼町だ。徳川中期、六百石の小姓から五万七千石の大名に上り詰め、老中首座となり幕政を主導したのが田沼意次である。この時代を田沼時代と呼ぶ。私は田沼意次が好きだ。成り上がりとは彼のことだろうが、成り上がりでも何でも、泰平の徳川幕閣で田沼意次ほど先を見据えて仕事をした政治家はいない。近年では賄賂政治家の疑惑もずいぶん晴れたが、歴史に関心が無ければ、やはり田沼意次=賄賂という印象を持つ人も多い。さらなる疑惑払拭に努めるのが、意次を敬愛する私の役割とも思い始めている。田沼町はその田沼意次に所縁の地である。田沼氏はもとはこの地を領した佐野氏の分流で、家臣筋であった。家祖とされる佐野庄司政俊から六代あとの壱岐守重綱がこの地に移り住み、田沼を名乗ったのが始まりと云われる。その後、鎌倉から室町時代にかけては鎌倉公方に仕え、戦国時代は上杉家、武田家など主家を転々とした。大坂夏の陣から徳川家に仕え、家康からも信頼されて、紀州藩初代となる徳川頼宣の家臣団に加わった。八代将軍吉宗に取り立てられて、意次の父意行の代からさらに芽を伸ばしてゆく。このあたり、平氏が平家にのし上がってゆく経緯と実によく似ており、田沼家もまた似た様な栄枯盛衰を味わうのである。一方、佐野氏の本家は当地に細々と残って、徳川時代もなんとか最下級の旗本として存続した。意次の嫡子で若年寄田沼意知は、天明四年(1784)江戸城内で、佐野氏子孫の佐野善左衛門政言という旗本に切られて死んだ。佐野善左衛門がなぜ殿中で刃傷に及んだのか、憶測は様々で、田沼氏が佐野氏に連なる家系図を借りて返さなかったとか、田沼にあった佐野大明神を田沼大明神に改称したとかいう説がある。佐野善左衛門は、田沼意次の権威に何度も取り入って、自身の出世と佐野家の家格向上を目指したが、田沼家からは無碍にされたという。その恨み、妬み、嫉みは凄まじく、殺意は意次ではなく、敢えて嫡子意知へ向けられた。それはこの先、田沼家を没落させんがために巧妙に企てられた事であったと私は思う。この一件は後に改めて書いてみたいと思う。

話がずいぶんと寄り道したが、天應寺は県道から少し入った田圃の奥のささやかな丘の上に建っていた。門前には青い稲穂がすくすくと育ち、田圃のキワには、蓮が植えらていて、ちょうど盛りを迎えていた。寺へのアプローチとしては申し分ない風景である。天應寺は曹洞宗の禅寺で、寛永年間に井伊家二代目の直孝によってこの地に建てられた。今では、地域の檀信徒の寺らしい佇まいだが、楚々とした中に気品が感じられるのも、井伊家菩提寺たる格式を失っていないからであろう。境内は本堂と庫裏があるだけで、あとは裏手に広大な墓地が広がっている。その突き当たりは、ひときわ高い丘になっていて、その場所が井伊家の墓所らしい。長らく佐野家が納めたこの地だが、徳川家にとっては外様の佐野家から没収して、大直参の井伊家に与えた。 墓所の丘へ登ってみた。振り返れば、暑さを忘れる涼やかな風が吹き抜けてくる。さほど高くもない丘だが、あたりが広大な下野の原なので、ここに立つと、下野一円を手にした心持ちになる。この良きところに、井伊の殿様のうち、二代直孝、三代直澄、十三代直弼の三人の墓がある。

安政七年(1860)三月三日、桜田門外の変で散った井伊直弼は、襲撃開始からわずか数分で首級を捕られた。時の最高権力者で、居合の達人でもある直弼にしては、あまりに呆気ない最期であった。最近の研究では、襲撃合図の一発の弾丸ですでに瀕死の重傷を負っていたという。森五六郎という水戸浪士が、直弼の駕籠のわずか数メートルの至近距離から発砲し、弾丸は右の臀部から脊髄へ抜けた。脊髄を損傷したことで、この時点で直弼は下半身が麻痺して、身動きできぬ状態であった。薩摩浪士有村次左衛門に奪われた首は、桜田門から和田倉門近くの近江三上藩遠藤胤統邸前まで持ち去られたが、有村も後頭部に深手を負っており、ここで力尽きて、門番に首を預けると自刃した。誰の首かもわからぬまま、押し付けられた遠藤家ではてんやわんやの大騒ぎとなる。下手をすれば、自藩も騒動に巻き込まれる恐れもあった。すぐに、彦根藩邸から追手が来て、遠藤家に首を引き渡すよう要求。通常こうした場合、然るべき手続きを踏んだ上で、慎重に時間をかけて引き渡す定まりで、この時も彦根藩士の再三の引き渡し要求に、遠藤家側は断固拒否、いったん公儀へ届出し、誰の首かを確認できるまでは渡せぬと引かなかった。幕府、井伊家、遠藤家の三者で相談して、同じくこの事変で亡くなった彦根藩士加賀九郎太の首と偽って、ようやく大老の首を取り戻したという。遠藤胤統は若年寄で直弼の部下でもあり幕閣の一員。最高権力者の顔を知らぬはずもなく、きっと直弼と分かってはいたことだろう。しかし遠藤家としても、これが一大事であることは心得ていたに違いなく、咄嗟に幕府や井伊家と示し合わせて、一芝居打ったのかもしれない。首を引き渡した遠藤家は、正直、ホッとしたことだろう。

かくして井伊直弼の首は、無残に分断された胴体の元へ帰ってきた。すぐ様、藩医の岡島玄建にて検死が行われて、首と胴体を縫合した。このあと、直弼の遺体はしばらく藩邸に霊安され、幕府は公式発表では、瀕死の重傷で伏せているとした。大老暗殺による幕府の権威失墜を恐れたのである。夕方には将軍家より見舞いが届いたが、白昼のこととて、目撃者も多く、大老暗殺のニュースは江戸中に知れ渡っていた。文字通り取り繕うしかない幕府は、とりあえず嫡子直憲が跡目と確定した三月二十八日まで、床に伏せていると誤魔化し、大老の死を隠匿した。

直弼の墓所は世田谷の豪徳寺と定り、現在も正式には豪徳寺が墓となっている。しかし一説によれば、遺体はこの天應寺とか、彦根にある井伊家菩提寺清凉寺、もしくは天寧寺、或いは龍潭寺へ埋葬されたとも云われている。ここからは、あくまでも私の推理であるが、直弼の死を隠匿することと、新たな刺客に備えるために、幕府と彦根藩で談合の上、埋葬地を明らかにせず、様々な噂を振り撒いたのではないか。豪徳寺は江戸近郊すぎるし、彦根はあまりにも遠い。とすれば、この佐野の地は東北の佐幕グループ(奥羽列藩同盟)にも近く、この時は未だ安全な地であったことを考えれば、一時的に遺体を避難させるには絶好の場所であったと思う。天應寺の直弼の墓には、遺髪が埋葬されていると聴いたが、はじめは遺体を仮埋葬し、時勢が落ち着いた後に、遺髪のみを当地に残して、骨は豪徳寺彦根へ分骨改葬されたのではないか。ところが、何年か前に、豪徳寺で直弼の墓の調査をしたところ、何も無かったというから、謎は深まるばかりである。

これも邪推にすぎないが、遺髪は天應寺、遺体はより安全で静かな彦根のどこかへと運ばれたのでないかと思う。正式には豪徳寺が墓であるが、直弼の本当の墓は、もしかすると永久にわからないかもしれない。しかし、直弼の魂は彦根に在り、江戸に在り、ここ天應寺にも密かに在る。少なくともこの日天應寺を訪ねてみて、私はそう感じたのであった。幕末の一時期、この国の最高権力者は相違なく井伊直弼であった。彼ほどの人物でも本当の墓場がどこかなのかわからない。藤原道長もそうらしいが、日本史に確かな足跡を残した人物が、どこで眠っているのか知れないというところが、私などには底知れぬ興味と、大いなる空想を掻き立てられる。謎めいた現地を訪ね歩いてみれば、尚更その思いは増してゆくのであった。

甲子園礼賛

今年で99回目の夏の甲子園もいよいよ決勝。今年は強烈なスラッガー揃い。準々決勝でホームランの大会新記録が出たり、大会史上初の代打満塁ホームランが出たり、ついには広陵高校の中村奨成選手が、準決勝で個人のホームラン新記録を有言実行で出してみせた。今大会はヒットも多彩で、とても見応えがあったと思う。一方で投手陣は、絶対的エースはいないが、何枚も看板がいるチームが増した印象。プロ野球のように分業となってきた。やはり、エース一人に背負わせれば、体力的にも精神的にも、下手をすれば、甲子園後が無になってしまいかねないほど消耗してしまうもの。そのあたりが、長年の課題にもなっていたが、ここへきて指導者たちにもそうした考えが浸透してきたのか、或いは今後は常識になるのではなかろうか。観ている方は、絶対エースの華々しい活躍に見惚れたい気もするが、選手のことを思えば、やはり分業が望ましい。その方が投手陣の打撃にも磨きをかけられるだろうし、彼らも自分こそがエースとなるために精進するに違いない。投手分業は、チーム全体に誠に良い相乗効果をもたらすであろう。 どんなスポーツも年々進化しているが、野球は近年はサッカー人気にやや押され気味だった。でもやはり伝統はそう簡単には廃れない。個々のレベル、体型、メンタル面、指導方法に至るまで飛躍的に進歩している。逞しく楽しみな高校球児達が、毎年育っているのだ。

日本人は野球が好きだ。プロ野球は無論のこと、社会人野球や大学野球にもファンは多い。だが、なんといっても高校野球の熱気には敵わない。その雰囲気、熱視線は時にプロ野球さえも凌駕する。 高校野球はその直向きな純朴さと、まさしく青春真っ盛りを体現して魅せてくれるから、日本人の誰もが酔いしれるのだ。年少の者は高校球児に憧れ、年長の者はひとときあの頃の我に還ってしまう。プロ野球に比べたら、エラーやミスが多いのは当然だが、そんな波乱万丈があるからこそ、優劣が一瞬で入れ替わるドラマが度々あり、名勝負が生まれ、将来期待の選手が彗星の如く現れる。

高校球児はガタイも良いせいか、いくつになっても自分よりずっと大人に見えることがある。アスリートには同じことがいえるが、高校球児には特にそうしたものを感じる。サインを読み合う表情ひとつにしても、守備のファインプレーにしても、私が幼い頃、夏休みに観た高校生の兄ちゃんたちとオーバラップする瞬間が何度もある。日本の夏に高校野球は必要な風景。先から書いているが、八月は盆がきて、国民総供養の月。でも高校野球があることで、全く暗い気持ちにならずに済む。高校野球が無ければ、日本の八月は非常に重くて、抹香臭い夏になっていたことだろう。静謐な祈りのあとに、元の日常に戻してくれるのが高校野球なのである。

夏の甲子園はなぜかくも美しいのか。勝つ花、散る花どちらも爽快で、熱く、気高く、美しい。勝ち上がってゆくチームは、攻走守の実力があることは勿論だが、抽選、組み合わせ、天候、展開すべてにおいて、幸運を引き寄せるパワーを兼ね備えているように思えてならない。そして、どこかチーム全体が泰然自若としている。それは、勝ち上がる度に増してゆき、王者の風格を身に纏ってゆくのだ。そうした彼らの成長を見守ることも、また高校野球の醍醐味であろう。夏の甲子園は、都道府県の代表ということもあり、おらが国を応援したくなる。普段、地元には見向きもしない輩も、ここぞとばかりに応援する。まるで国取合戦だが、高校野球とは郷土愛を改めて思い出させてくれるものなのだ。しかし、戦い終われば選手も、応援団も、ファンも互いの健闘を心から讃える。間違ってもフーリガンなど生れない。こんなビッグイベントは、この国には他にない。国体よりも遥かに甲子園は盛り上がる。また応援合戦も名物である。メンバー入りできなかった部員、応援団、チアリーダー、家族、友人、そしてブラスバンドが一体となる。アルプスにこだまする大声援は、まさに甲子園の花といえよう。

判官贔屓の日本人は、負けたチームに対する賞賛も惜しまない。テレビ放送でさえ、勝ったほうのみならず、しっかりと負けた方にもカメラを向け、熱闘を讃える。劣勢でも最後まで笑顔の選手、試合終了のサイレンと同時に泣崩れる選手、さらに監督やチームメイトに号泣しながら詫びる選手、涙ひとつ見せず真一文字に口を結び、マウンドの土を掻き集め甲子園を去ってゆく選手。私は彼らを見る度に、感動し涙腺が緩む。勝敗を超えた賛歌は、何とも気持ちが良いものだ。

私も、毎年応援するチームが現れる。今年は、西東京代表の東海大菅生高校を応援した。西東京大会から、総合力の高い大人びたチームと感心していたが、エースの松本君の好投にも目を奪われた。菅生は、昨年まで三年連続で西東京大会準優勝。三年生は先輩達と味わった悔しさを晴らし、積年の望みを見事に叶えてみせた。惜しくも、花咲徳栄高校との準決勝には破れたが、互いに最後まで譲らず、延長11回まで戦い抜いた。高校野球史に残る名勝負であったと思う。監督や先輩達と培った想いを現役生は背負って戦ったのである。そのビッグウェーブに、ファンである私達も乗っけてもらって、共に夢舞台へ連れて行ってくれた。だからこそ、惜しみなく大声援を送りたい。そしてまた、私も彼らと一緒にすばらしい夏を過ごせたことにお礼を言いたい。今年もいよいよ甲子園の決勝だ。王者は一校だが、出場するだけでも大変な栄誉。野球を愛する誰もが夢見る晴舞台へ上がったのだから、全校みんな胸を張って地元へ帰ってきてほしい。甲子園が終わり、高校球児が凱旋すれば、日本の夏が終わる。秋はもうすぐそこまでやってきている。

秋が来る前に

旧暦ではもう秋でも、当世暑さの真っ盛り。日本の八月は鎮魂総供養の夏。お盆がきて先祖を偲び、迎え、送るという習わしは、古くから日本の夏の風景である。八月には、五山の送り火をはじめ、霊魂を慰める祭が方々で行われる。そして、八月は広島と長崎の原爆の日がきて、今日は終戦記念日。もう七十二年が経った。それにしても、長崎に原爆が投下されてから、八月十五日まで六日間もあることに、改めて驚嘆させられる。その間にも本土が方々で焼かれ、満州樺太、南方の痛ましき戦地では犠牲者が増え続けたのである。六日は長すぎる。広島からはさらに三日間もあるのだ。キリなどないが、ポツダム宣言受諾後も、満蒙開拓団の集団自決をはじめ、至る所で戦争は終結しておらず、逃げ惑い祖国の地を踏めず命果つる同胞が、知られているだけでも夥しくいた。何とも愚かとしか言い様がない。

愚かなことは今も続いていたりする。先月、国連では核兵器禁止条約が賛成多数で可決した。今後ひとまず五十ヶ国が批准する。しかし、核保有国や、日本や韓国など核の傘に守られている国は、条約に反対、不参加、棄権した。国連もここまでなのかと痛感したのは今さらだが、日本が参加しないことに、私は憤りを覚える。これまで散々、唯一の戦争被爆国などど声高に叫んできたのは、何だったのか。もっとも、おとなしい日本政府はあまり積極的に主張はしなかった。昭和の大戦に敗れた対米従属の国には、致し方ないことでもある。でもそれは、七十二年を経ても遅々として変わらず、むしろさらに何もできず、言えなくなりつつある。そして沖縄の問題。有ってはならぬモノなのに、無くてはならないモノであるから、沖縄は永久に出口無き戦後を彷徨い続けている。叫び続けるのは、戦争を体験した人や賛同する一部の人々ばかり。その声は皆まで届いてはいない。 もしくは聴こえないフリをしていたり、どうしようもないところが本音かもしれない。しかしどうしたって、今回の核兵器禁止条約ばかりは、どの国よりも、いかなる理由や妨げがあろうとも、日本こそが真っ先に参加し批准すべきであった。米朝が緊迫するなか、先の大戦後、かつてないほどの危機、脅威が目前に迫りくるのを、見て見ぬふりはもうできない。ゆえに武力で威嚇せねばならぬこともまたよくわかる。しかし、それでいいのだろうか。後にはきっと後悔と虚しさのみしか残らぬであろう。私はこれまでも、八月がくれば日本人は先の大戦のことを思い出さなくてはいけないと思ってきた。事実また、多くの日本人が戦争の恐ろしさを追憶し、戦没者を慰霊している。まだ今ならば、間に合うはずだ。春の桜から夏至を過ぎて盛夏となり、いよいよ浮かれて弛緩する日本には、考えるべき八月がある。暑いのは苦手な私だが、八月は何故か好きだ。高校野球を観戦しながら、ホッと一息をつき、立ち止まって、現在過去未来をじっくりと見据え、計り、描く。それが私の八月であり、日本人の八月だと思っている。