弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一西国巡礼一

年が明けて令和三年。まだ平安時代である。この連載を書き始めて二年になるが、一年前に平安時代に入って、ようやく平安時代半ばにきた。私の余談も挟むゆえなのだが、何せ平安時代は四百年も続いたのだから、まだまだ先は長い。

今回もハナから余談。私は一昨年秋より西国三十三箇所観音巡礼を廻っている。とはいえコロナ禍となってから遠出を控えているため、まだ那智の第一番青岸渡寺紀三井寺粉河寺、槇尾山の四ヶ寺で休止中。昨年は一箇所も参詣できなかった。いつ再開できるか未だわからないが、始めたからにはいつかは必ず結願したい。このブログでも巡礼記を書いてはいるが、まあ、焦らずに私なりの道中で参ろうと思う。西国巡礼は日本最古の巡礼で、始めたのは大和長谷寺の開山の徳道上人と云う坊さん。養老二年(718)、徳道上人は病を得て亡くなり、冥土で閻魔大王に会う。閻魔大王は、「世の中の悩み苦しむ人々を救済せよ 罪業のあまり地獄へ送られる人間を導け そのために三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めよ」と、起請文と三十三の宝印を授けた。三十三は観音菩薩衆生を救うべく、三十三の化身となって現れると云う霊験によるもの。現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築いたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を播磨の中山寺の石櫃に納めた。 それから二百七十年後、途絶えていた観音巡礼は、花山院によって再興される。

花山院は円融天皇より皇位を継がれて十七歳で第六十五代花山天皇となられるが、二年後に譲位され出家、十九歳の若さで法皇となられた。世に無常を感じられた花山天皇比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人を伴い那智山で修行された。熊野に入り、各地の霊場を巡拝され、ついに西国三十三所観音巡礼を再興されたのである。花山院はいかなる困難に遭遇しても観音菩薩は常に慈悲の心で見守っておられると信じ、熊野や那智大自然に分け入り、都では体験できないある種アニミズム的信仰心に目覚められたのであろう。そして畿内一円を巡る観音巡礼には、広大無辺なる観音菩薩の功力に、直に触れられた思いを抱かれたに違いない。世は末法間近。西国巡礼は徳道上人以来、ここまで機が熟すの待っていたのかも知れない。それまでとそれ以後では西国巡礼も花山院の御生涯も明暗がはっきりと分かれていたのである。

花山天皇冷泉天皇の第一皇子で、母は藤原伊尹の娘の女御懐子。父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原北家の策謀により、在位わずか一年十ヶ月で退位させられた人だ。『栄花物語』は花山天皇がおよそ帝王の器量をもたれてなかったと云う節を説く。藤原頼忠や藤原朝光の娘を召し出すも、次々に捨てることを繰り返したと、その奇行ぶりを赤裸々に書き著している。さらには花山天皇は即位礼で高御座に昇られ、側でお世話をする命婦(女官)を高御座に引きずり込まれ犯したと云うのである。私が申すも憚れると言ったのはこの事である。天皇に対して不敬も甚しい限りであるが、これまで述べてきたとおり藤原北家のなりふり構わぬ権力への執着が沸点に達するこの頃において、この件を流布しても表だって咎める者はいなかった。事実、花山天皇御自身は少し奇異な所業が目立ったようで、即位礼では冠が重いと言われ外されたり、清涼殿の中庭で馬を乗り回そうとされた逸話もある。こうした所業を天皇に仕えた権中納言藤原義懐と左中弁藤原惟成が、献身的に火消しに努めた。関白は先代から引き続き藤原頼忠だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、延喜二年(902)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となったのである。律令制解体傾向の抑止に意欲を示されるなど、無事ならば親政が敷かれていたかも知れない。しかし、これを阻んだのはやっぱり藤原北家の面々であった。

ちなみに明治以前の即位礼は唐式に則っていたため、重い冠を頭に乗せられる。現在のように高御座に昇られる天皇が黄櫨染御袍を纏われ、御手に笏を持たれ、立纓の冠をつけられる形式になったの明治以降のことで、孝明天皇までは即位礼のみ戴冠した冕冠(べんかん)と云う四角い宝冠が用いられた。宝飾もされており、たしかに重々しい。ちなみに女帝は冕冠の代わりに金でできた宝冠を用いた。花山天皇が我慢出来なかったと云うのは、天皇としての資質を疑われるのは当然かもしれないが、一方でこう考えたくもなる。私の詮索ではあるが、もし花山天皇がうつけなどではなく、正気であれば、貴族の頂に立ち、廟堂を支配し、天子をも凌駕するほどの権勢をひけらかす藤原北家に対する意趣返しではなかったか。さらに想像を逞しゅうすれば、花山天皇御自身は皇位を継がれることなど決して望んではあられず、早くから荒波の憂世を離れて遁世されたかったのではないかと思うのである。御譲位されてからあたかも水を得た魚の如くいきいきと余生を過ごされ、むしろ出家をされてからの方が、解放感に溢れた生活をされていることからも、御在位中はどうも一芝居打たれた気がしてならないのである。花山天皇にとっては皇位や政には執着も自信もなくて、早く逃れたかったのではないだろうか。果てしない旅である西国巡礼を再興されたのも、諸国を縦横無尽に往来し、天地水明、花鳥風月を全身全霊で感じ取り、自由を得た喜びを観音巡礼と云う壮大なる旅路へ向かうことで表現し、解き放たれたのである。そう考えると花山院とは偉大なる芸術家であり、思想家であり、文学者であり宗教家である。まさにマルチな才をもたれた時代のプロデューサーでもあった。以来千年も続く西国巡礼はそうしたことを結果として示し、自由である喜びと、自由はすなわち不自由であると云うことを巡礼者に伝承しているようにも思う。

花山天皇については他にも様々な多くのスキャンダルが流布された。まことに気の毒で畏れ多いことだが、中でも大納言藤原為光の娘、女御忯子への寵愛ぶりはとくに知られている。忯子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して妊娠八ヶ月の身重で他界した。花山天皇の落胆ぶりは大きく、向後、いかに神仏にすがるべきか悩まれたと云う。抜け殻のようになられた天皇のご様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣藤原兼家だ。めきめきと力をつけて、廟堂において頭角を現していた兼家は、花山天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めたと云う。そして一日も早く自分の外孫懐仁親王へ譲位させようと謀るのである。『大鏡』によると、寛和二年(986)夏の未明、兼家の次男で蔵人として天皇の傍に仕えていた道兼に命じて、天皇を出家に導くという計画を企てた、道兼はある僧と語らって言葉巧みに花山天皇を内裏から連れ出し、空が白む頃に東山の花山寺(今の元慶寺)へ入った。道中は目立たぬように源氏の武士が護衛したと云う。兼家の行動は実にすばやかった。まず内裏を閉門し、長男道隆と三男道綱に命じて清涼殿に置かれていた神器を皇太子懐仁親王の部屋へ移御している。いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せた。そして道兼が剃髪する番になったが、道兼は今一度この姿を父に見せてくると言い残して寺を後にした。花山天皇が騙されたと思ったころには、道兼は洛中に戻っている。そして兼家の末子、道長が関白頼忠に天皇は御出家なされたと報告。七歳の懐仁親王が直ちに践祚されて一条天皇となられたのである。四人の孝行息子の活躍で兼家は外祖父となったのだ。そして五十八歳にして念願の摂政となり、同時に氏長者にもなった。 またしても藤原北家の完璧なる謀略は成功したのである。

皮肉なことに花山院は、過去に兼家の息子たちとは思いがけぬ交流もあった。ある不気味な雨の夜のこと、花山天皇は闇夜を所定の場所まで行って戻ってくるという肝試しを思い立たれた。道隆、道兼、道長がこれに応じた。二人の兄は恐ろしくなり途中で戻ってくるが、道長だけは大極殿まで行って柱を削り取って戻って来た。翌日、その柱に破片を合わせてみるとぴたりと当てはまったと云う。天皇より二歳年長の道長には、ことに目をかけられて、信頼されていた節がある。肝の据わった道長をいずれ御自身の側近にと考えてもおられたかもしれない。無念の思いで皇位を追われた花山院。後を追って出家したのは側近中の側近の義懐のみでった。その後は先にのべたとおりだが、生まれながらの色好みは出家されてからも健在で、むしろ大っぴらになられたと云われる。心身に健康を取り戻されたのであろうか。「九の御方」と呼ばれた藤原伊尹の娘のもとに住まわれ、数々の浮名を流されたと云う。もうひとつ、こんなエピソードがある。或る時、花山院は藤原為光の四の君のもとに通われるようになった。世は兼家が亡くなり、その息子や孫たちが権力闘争を繰り広げ始めた頃だ。道隆の子で当時内大臣となっていた藤原伊周もまた為光の三の君のもとに通っており、この時、花山院が通うのが三の君だと誤認し、脅しのために矢を射かけた。ほんの威嚇のつもりが、花山院の袖を射てしまい、これが廟堂で問題となって事件となった。伊周のライバルは右大臣に昇進していた道長道長はこの機会を逃さなかった。結果、伊周は大宰府へ左遷され、後は道長が廟堂と平安貴族の頂点に君臨するのであるが、そのあたりはいずれ。この事件の後も道長は花山院を敬重したと云う。道長自身も花山院を弟のように思っていたのかも知れない。寛弘五年(1008)二月八日、花山院は四十一歳で崩御された。

花山院は歌人としても優れており、多くの和歌を残された。

世の中の憂きもつらきもなぐさめて 花のさかりはうれしかりけり

この歌ほど花山院の人生観が込められた歌はあるまい。そしてまた桜をことのほか愛された。「花山」と云う御追号は花山寺からであることは言うまでもないが、花を愛でた天皇にはまことに相応しい御追号である。京都の平野神社は昔から花の名所として名高い。この社の桜は、花山院によって数千本の桜が植えられたのが始まりであると伝わる。当時は京都御苑並みの広さがあって、咲き誇る千本桜はさぞかし壮観であったに違いない。 花山院の想いを乗せて平野神社を彩る桜たちは現在、六十種、およそ四百本。神紋も桜。今もやっぱり壮観である。今年もその足音が刻一刻と近づいてきている。

木のもとをすみかとすればおのづから 花見る人になりぬべきかな

多摩丘陵に棲む

年明け早々に引越しをした。二十年近く都心を点々とした。途中、高野山に登っていた一年半を除いて、この十数年は新宿近辺に住んでいた。お茶の先生のお宅も近く、隅田川近くの職場へも近すぎず遠すぎず、程良かったが、昨年暮れ、旧マンションの賃貸契約の更新をせずに引越すことを決めた。近頃の私は心身ともに飽和状態。自らの気の流れを変え、整えたい。マインドフルネスのために引越したのである。* 転居を決めた理由は他にもある、母と同居をするためだ。母は九州の田舎で暮らしで、来年七十になる。幸いまだ元気であるが、コロナ禍でずいぶん情緒不安定となってしまった。年老いて身動き出来なくなってからでは、引越しどころか、移動も出来ないため、今のうちにと云うわけで、母も住まえる家に引越ししたのである。しかし現時点でのコロナの感染状況からすれば、母を呼べるのはまだまだ先になりそうだ。真冬の今、巨大な第三波が到来し感染状況はピーク。ワクチンが確立しても、当分は収束しないであろう。せめて暖かくなってから、減少に転じてから迎えたいと思っている。母にはもうずいぶん前から、いずれは私と暮らさないかと伝えていたが、母は迷っていた。が、ついに決心してくれた。母はおよそ七十年一度も九州を出たことがない。ゆえに相当な勇気と覚悟をもって私との暮らしを決めてくれた。迎えるこちらもそれなりに準備をしたい。 高齢者がいきなり大都会で暮らしのは難しい。知り合いは私以外にはいないのだから、せめて住環境は静かで、緑が多くて、安全に暮らせる場所が良い。かと言って、あまりに辺鄙な場所は、普段の買い物やいざ病院にと云う場合不都合である。なによりも、都心へ出勤する私にも辛い。そこで選んだのが多摩地区である。 このブログでも”私の多摩好き“はさんざん書いてきた。私自身、学生の頃、初めて一人暮らししたのも多摩であったから、青春時代を懐古しながら街歩きを楽しめる。最近は磁石に引き寄せられかのように多摩に暮らす人との交流も増えた。多摩は自然も近くて、九州の田舎を彷彿とさせる風景もそこかしこに広がっており、母にとってもビルと人ばかりの都心よりも良いだろう。 上古より人の営みのあった多摩は、23区よりはるかに古い歴史の宝庫でもある。古社寺や古民家が点在し、農地が多く見られるのも気分をほっとさせてくれる。そうなのだ。母のことだけではない。私も疲弊し切った心身を癒したいのである。埼玉や千葉も考えたが、一度も住んだことがなく、何となく足は向かなかった。面白い統計があるそうだが、東京にやってきた他所者が住む場所を決める際に、なるべく自分の出身地寄りの方角を選ぶことが多いと云う。すなわち、北海道や東北出身者は埼玉や千葉、東京23区では城北や城東地区に住み、北陸出身者は埼玉や城北、多摩の一部へ、東海、関西、中国、九州の出身者は城西、城南地区から多摩、神奈川県に住むことが多いそうだ。石川啄木上野駅に故郷の訛りを聴きに行くのも望郷の念に駆られてのことであるが、人は皆、啄木の心境を宿しているのだとすれば、東京で暮らす場所は故郷寄りの方角を選ぶのも、宜なるかなと思う。 転居決めたのは、令和二年も師走に入ってからであった。更新期限までは1ヶ月しかない。本当ならば、じっくりと探して決めたいが、時間の猶予はなかった。ネットでめぼしい物件を検索して、母と暮らせるくらいの広さと部屋数の物件を物色し、これっと思い当たればすぐに内見に行く。五軒くらい見たが、最初から気になっていた物件が、私以外に申込みがなく、すんなり決まった。場所は小田急線の鶴川駅が最寄りの町田市。鶴川駅からは多摩センターや若葉台寄りの山手の高台である。周囲は静かな新興住宅街で、街並も美しいが、いわば多摩丘陵の真っ只中に埋もれるような場所なのである。そして決め手は「武相荘」が程近いことであった。武相荘は言わずもがな、白洲次郎白洲正子が終の棲家とした屋敷である。私は此処が好きで、折々に訪ねてきた。白洲夫妻の息遣いが遺るこの辺りに、京都と同じくくらい住みたいと願っていたのだが、まさか本当に暮らすことになろうとは。母を連れてゆくのが楽しみである。近くには乗馬クラブもあるし、休日は多摩丘陵を歩き回り、まだ見ぬ寺社へも参りたい。 それにしても此処への引越しは今のところ正解であったようだ。都心よりもはるかに静か。一晩中聴こえていた”東京の音(ゴーっと云う都会の雑踏音)“がしないのである。朝は鳥の囀りで目覚め、窓の外には森が見える。空気も水も美味しい。森林浴をしながらの散歩道からは丹沢や富士山を望め、夜空には星の瞬きがくっきりと見える。此処も東京なのかと不思議な気分にもなるが、此処ならば私が次に向かうために、心身を整えてゆけるだろうと確信している。 追伸:お茶の先生のお宅は少し遠くなったが、稽古をやめるつもりはない。

皇位継承一骨肉相食む摂関家一

安和の変の五ヶ月後、冷泉天皇東宮守平親王に譲位された。冷泉天皇はこのあと四十年もの余生を過ごされ、病弱で狂気であったことが嘘のように長生きをされた。一条天皇の御代、藤原道長の全盛期まで生き抜かれ、寛弘八年(1011)六十二歳で崩御された。守平親王践祚され、円融天皇として即位されたが、十一歳と年少であられたため、引き続いて藤原実頼が摂政となって後見した。が、実質は廟堂では藤原師輔の子、藤原伊尹の時代が始まって、それに続いて師輔の子の兄弟間の権力闘争にも突入していた。平安時代を通しても、かつてこれほど陰湿かつ権謀術数が乱舞した時代はあるまい。この時をもって、平安時代末まで続いてゆく藤原摂関家支配のための同族間による権力闘争のきっかけになる時であった。

円融天皇は天徳三年(959)に御誕生。村上天皇の第五皇子で、母君は中宮安子。安子は師輔の娘である。前述のとおり、藤原摂関家の他氏排斥による謀略で、本来ならば兄宮の為平親王冷泉天皇の皇太弟になるはずが、源高明の娘を妻とされたことで皇位継承レースから外されたのである。藤原摂関家としては、紅顔可憐の守平親王ならば御し易く、摂政として権勢を奮えるのだから当然であろう。高齢の実頼が死去すると、伊尹が摂政に就任した。円融天皇は外伯父の伊尹の言われるままに振る舞われた。そして伊尹の推挙によって、早くも冷泉天皇の第一皇子の師貞親王がわずか二歳で皇太子に立てられた。師貞親王は次の花山天皇である。前述したとおり実頼には実権はなく、形ばかりの摂政であったが、伊尹は外戚として力を発揮しようとした。藤原伊尹は右大臣藤原師輔の嫡男に生まれ、妹安子が村上天皇中宮になったことで、その皇子二代の後見となり得た。しかし、父が死去した時はまだ蔵人頭で、二人の弟兼通、兼家も未だ少納言にとどまっていた。村上天皇の強い意向で伊尹は参議となり、弟たちを相次いで蔵人頭に推挙し、師輔の死で一時衰退しかけた九条流(師輔の血流をこう呼んだ)の地盤を固めることに成功した。そしてついに摂政となるのだが、その矢先、天禄三年(972)に伊尹は四十九歳であっけなく他界した。このあと藤原北家は熾烈な同族間での権力闘争を繰り広げることになる。

伊尹の二人の弟の兼通と兼家の二人は四歳違い。成年に達する頃より不仲となり、長兄伊尹が存命中は、伊尹の仲裁で渋々従うこともあったが、自らが家族を設けるとその関係は修復不能になった。伊尹が亡くなった時、兼通は権中納言なのに対し、弟の兼家は大納言になっていた。同母兄弟間での官位の逆転は異例であると云う。この逆転の官位が二人にとって大きなしこりであり、不仲の決定打となったことは間違いない。兼通の出世が滞った原因は諸説あるが、六男正光が排斥した源高明の娘を妻としていたことが、藤原北家全体から敬遠されたゆえもあると云う。事実、当時、兼通は高明擁護派と目されており、世間体を気にしてか出仕しなくなった。そのため廟堂内でも孤立してゆき、冷泉天皇円融天皇とも疎遠になっていった。こうしたことから当然伊尹の後継は、官位も上位の兼家が有力であると当時も今の我々も思うし、事実その可能性が高かった。しかし実際に関白に就いたのは兼通であった。『大鏡』によれば、兼通は弟に追い抜かれることを見越して、円融天皇の母君で妹の安子皇后から生前に、「関白をば、次第のままにせさせ給へ、ゆめゆめたがへさせ給ふな(関白職は兄弟の順に任じ、決して違えてはなりませぬ)」と書き付けてもらい、これを首にかけて持ち歩いていたと云う。そして伊尹の死に際して、円融天皇にこの書き付けを提示した結果、兼通の内覧および関白就任が実現したのだと云う。母への孝養心と思慕を抱いて、円融天皇は御遺言に従われたのである。

関白に就任した兼通は補佐役として藤原頼忠を抜擢した。頼忠は実頼の次男で、母は時平の娘である。兼通、兼家にはいとこにあたる。小野宮流(実頼の血流)は兄の敦敏が継ぎ、頼忠は藤原保忠へ養子に入っていたが、兄が早世したため実家へ戻り後を継いだ。この頃は藤氏長者になっていた。温厚な人物だったそうだが、右大臣として廟堂をとりまとめて兼通を支えた。兼通が頼忠を重用し、何かにつけて頼忠に相談し、政のあらゆることを二人決めて行っている。天禄四年(973)、兼通は、長女の媓子を円融天皇に入内せしめ中宮に冊立された。ここで兼通は頂点を迎えたのである。兼家も負けじと次女の詮子を入内せしめようとしたが、嫌悪した兼通が円融天皇に讒言したため、詮子の入内はなくなった。廟堂も兼通に追従させた結果、兼家は失脚し、兼通政権の五年間不遇を囲っている。これだけの骨肉の争いを演じた兄弟は平安朝でも藤原摂関家でも空前絶後であった。

兼通には兼家の他にもう一人、目の上のたんこぶがいた。源兼明である。兼明は醍醐天皇の第十一皇子で臣籍降下していた。源高明の弟でもあるが、安和の変で兄が排斥された時に連座を免れたのは、母が藤原氏の出身(藤原菅根の娘)であったことが大きいだろう。安和の変までに兼明は従二位大納言に出世し、円融天皇の御代となって、右大臣を経ずに左大臣に昇進していた。兄ほど警戒はされていなかったが、兼通だけは次第に兼明が疎ましくなっていた。関白として朝廷のすべての実権を握ると、腹心の頼忠を左大臣にするため、兼明を円融天皇の勅令によって皇籍に入って親王に復させるという、ウルトラCをやってのけた。貞元二年(977)のことである。これにより兼明親王中務卿と云う名誉職に転じ、廟堂での発言力は削がれてしまう。そして頼忠が左大臣に昇進したのである。安和の変で終わったと思っていた藤原氏による他氏排斥であるが、こうしてまた行われたのである。平安時代、藤原摂関家はいつでもこうした陰謀を企てて、実行に移す能力に極めて長けていたのである。ゆえにお家芸とも云われるのだ。臣籍降下されて五十七年、兼明親王は余生を静かに過ごされ、十年後の延元元年(987)、当時としては長命の七十四歳で薨去された。御拾遺和歌集にある一首はまさに藤原氏に翻弄させられ続けた親王のお気持ちがよく顕れている。

七重八重花は咲けども山吹の 実のひとつだに無きぞかなしき

源兼明が兼明親王となられた同じ貞元二年(977)、関白兼通は重い病に伏した。『大鏡』はこの時また兄弟の苛烈極まる争いを伝える。兼家の牛車が兼通邸を素通りして内裏へ向った。兼通危篤と知った兼家は、天皇に後任の関白は自分にと奏請するつもりであった。いくら犬猿の仲であるとは云え、この時ばかりは兼家が見舞いに来たのだろうと思った兼通は激怒し、従者四人に支えられながら病床を出て、兼家を追って内裏へ向かう。ちょうど兼家が御簾越しの天皇に奏上している最中、兼通が到着。苦りきった兄の恐ろしい形相に、兼家は死神か夜叉でも見たように逃げ出してしまう。兼通は蔵人頭を呼びつけて、最期の徐目(諸官を任命すること)を行い、関白には頼忠、そして兼家が兼任していた右大将を取り上げて他の公卿に与え、兼家を治部卿と云う名ばかりの職に落とした。臨終の床を這い出て、ここまで常軌を逸したこの日の兼通の行動ほど、権力に対する凄まじい執念はないであろう。兼通はその執着心のみで存命し動いていたに違いない。兼家は内裏を退出してほどなく他界した。五十三歳であった。兼通が世を去って、ようやく兼家は表舞台へ帰ってくる。

円融天皇は御在位十六年中に元服され壮年に成られたが、政は摂政が関白に変わるだけで、ついに親政の形態には至らなかった。しかし退位されたあと出家されると、勅願寺として洛北の衣笠山に円融寺を建立され、自ら寺の経営を主導された。円融天皇法皇となられてからも多彩な御幸を行ったり、院司を遣わされて花山天皇や、次の一条天皇の御代の政に口入され、御在位中の鬱憤を晴らされるように存在感を示された。これには摂関家もたじろいだと云う。しかし冷泉天皇円融天皇の時代に、摂関常置の慣例がほぼ定まったのも事実である。正暦二年(991)、円融法皇は三十三歳の若さで崩御された。

余談であるが、円融寺は今の龍安寺の前身にあたる。法皇の陵墓も営まれたが、寺は次第に衰退し、いつしか廃寺となった。平安末に藤原実能が址地に山荘を建て、徳大寺という寺を建立、実能の子孫は徳大寺家と称されるようになる。西行(佐藤義清)も祖父の代からこの徳大寺家の家人として仕えていた。義清は北面の武士になってからも、徳大寺公重の菊の会に招かれて、歌を披講し、歌人としての評価を上げていったのである。室町時代管領細川勝元が、徳大寺家より山荘を譲り受けて、この地に龍安寺を建立した。幾重に重なる歴史に思いを馳せること、皇位継承を辿れば、様々な史実が浮き彫りになってくる。

Tribute to Symboli Kris S

先週、シンボリクリスエスが逝った。 彼は私の最強馬であった。 一点の白もない黒鹿毛は、パドックでは光度により青鹿毛にも見えた。あの他馬を威圧するように歩く様は、まさしく王者の風格を纏っていた。 新馬勝ちして、2勝目を挙げるまで4戦を要した。足踏みしたのは、1レースごとに背中に疲れが出て、疲労回復に時間がかかっていた。歯痒いレースが続いたが、陣営はこの馬は必ず大成すると信じていた。外国産馬には珍しいが、こう云う叩き上げっぷりもまた愛嬌さえ感じてしまう。

タニノギムレットにあと一歩及ばなかった日本ダービー青葉賞で騎乗した武豊騎手は「この馬は秋になったらさらによくなる」と、藤澤和雄調教師に伝えたと云うが、それは本当であった。 シンボリクリスエスは三歳で天皇賞秋を制し、岡部幸雄騎手にG1レース最年長勝利をプレゼントした。三歳馬の天皇賞制覇は同厩の先輩バブルガムフェロー以来であった。 そして有馬記念も勝って、彼は年度代表馬の称号を得る。

四歳時はわずか4戦のみ。春の宝塚記念は5着。掲示板は確保するも、生涯唯一の3着以下と惨敗。シンボリクリスエスは追えば右に寄れる癖があったそうで、それは前年の有馬記念でも見せていた。宝塚記念はその癖が一番悪い形で出てしまった。海外遠征のプランもあったが、宝塚記念を負けたため、シンボリクリスエスは再び休養に入る。その間、藤澤厩舎、シンボリ牧場外厩のスタッフはシンボリクリスエスに心身のケアを施しながら、どうすれば直線ゴールまで真っ直ぐ走らせることができるか模索した。藤澤調教師が導いた答えは、レース前はなるべく右回りでは調教しないと云うことだった。シンボリクリスエスが右に寄れるのは、特に右回りでひどくて、左回りではほとんどその癖を見せなかった。右回りが癖を助長するゆえに、左回り、左回りで稽古をし、少しずつ真っ直ぐ走らせることを身体に染み込ませたと云う。成果は歴然であった。四歳秋、シンボリクリスエスは最後の有馬記念まで寄れる癖は一度も見せなかった。

王政復古の秋。シンボリクリスエス天皇賞秋と有馬記念を連覇して、サンデーサイレンス産駒の全盛期に2年連続で年度代表馬となったのである。2つのG1レースを連覇した馬は彼しかいない。有終の美を飾って、惜しまれつつ引退したが、格好良すぎる最高の引き際。まさしく”天高く馬肥ゆる秋”を体現した名馬であった。

有馬記念連覇はスピードシンボリシンボリルドルフグラスワンダーに続く史上4頭目で、シンボリ牧場の御家芸であると世に知らしめた。 9馬身ぶっちぎりのラストランも凄かったが、私は三歳の時の有馬記念が一番印象に残っている。大逃げしたタップダンスシチーは4コーナーでもまだ10馬身はあって、絶望的な差。しかしシンボリクリスエスは、ゴール板10mほど手前で捕まえて、抜き去った。彼はあたかも獲物を捕らえる黒豹の如く見えた。あの日、私は彼の虜になった。

 種牡馬としてはエピファネイアを輩出し、2017年のダービ馬レイデオロの母の父としても血を繋いだ。今年、無敗で牝馬三冠を達成したデアリングタクトは孫である。タラレバが許されるのなら、シンボリクリスエスが、サイレンススズカエルコンドルパサーディープインパクト、アーモンドアイら歴戦の優駿と走る姿が見たかった。仮にそのレースが有馬記念ならば、何度走ってもシンボリクリスエスが一番強いと私は思う。今頃は天国で彼らと競争しているかな。

シンボリクリスエスは私にサラブレッドの強さと美しさを教えてくれた至高の駿馬であった。 さらば漆黒の帝王。君を忘れない。安らかに眠れ。

皇位継承一安和の変一

承平・天慶の乱が終息し、平安京には平穏な日が戻ってきた。しかしこの争乱が平安貴族に与えた衝撃は大きく、貴族社会の歪みを露呈することになった。今こそ朝廷の立て直しが急務とされた。朱雀天皇を継いだ村上天皇醍醐天皇の第十四皇子で、母君は藤原基経の娘で中宮穏子。朱雀天皇とは同母弟であったため、兄帝の信頼も厚く、皇太子となる前から太宰帥などを歴任し存在感を示されていた。天慶九年(946)四月、譲位により践祚、二十一歳で即位された。即位後しばらくは廟堂を支配していた藤原忠平の牽引に任せておられたが、忠平が没すると、藤原氏の専横を戒めるかのような行動に出られる。周知のとおり平安時代前期は天皇家と諸家vs藤原摂関家の権力闘争、これがパターンであり、主導権争いを繰り返した。軍配は村上天皇の頃までは五分五分であった。

忠平の死去を機に村上天皇は親政を目指された。藤原北家の実頼、師輔兄弟の輔弼を受け、菅原文時らの意見を聴きながら政務をとられた。国司功過や租税確保などの公事を整え、倹約と諸芸文筆が奨励された。天皇御自身も詩歌管弦に優れた文化人であられた。村上天皇は多くの子女を設けられたが、第七皇子の具平親王臣籍降下してその子孫が後に村上源氏の中心を担っていった。親政は形ではうまく運んでいるかに見えたが、徐々に実権は藤原北家に奪われてゆく。実は村上天皇の親政は名ばかりの親政であったとも云われる。それでも御在位十七年間、摂関を置かなかった事実は一定の力を認めなければならない。村上天皇の親政は後に天暦の治と呼ばれ、祖父の宇多天皇の寛平の治、父の醍醐天皇の延喜の治と並び聖代視されたが、これが曲がりなりにも機能した最後の天皇親政であった。ずっと後に、白河天皇後白河天皇が力を有して政をやるが、これは天皇の位を退かれて、院にお成りになってからのことである。

一方の藤原北家は良房、基経、時平、忠平と着実に権門としての道を進み、廟堂を抑えて、公卿のトップに君臨した。忠平の時に、天皇が幼少期には天皇に代わり「万機を摂行」するのが摂政で、天皇元服後に天皇を補佐し、政務に「関り白す」のが関白と云う摂関の使い分けが明確になった。この令外官の最高職を藤原北家が独占する。貴族の中の貴族とは藤原北家のことである。そしてお家芸とも云える他氏排斥を繰り返し、いよいよその地位を盤石たらしめた。忠平を継いだのは嫡男の藤原実頼でこれが左大臣、そして次男師輔が右大臣として実頼を支えた。が、実質は右大臣師輔が政を仕切ったとも云われる。栄花物語には「一くるしきニ」とあり、これは「一の人」すなわち左大臣がその地位にいることが苦しいほど、「ニの人」すなわち右大臣が優れていると云う意味である。風流人だが気難しい兄実頼よりも、弟師輔の方が政治家としても文化人としても、度量の大きな人物であったと云う。師輔は『九暦』と云う日記を残し、『九条年中行事』を著した。また貴族の男子が守るべき日課や生活態度、公卿としての心得を子孫のたみちに家訓として著したのが『九条殿遺戒』である。こうしたことが嫡男実頼より、師輔が藤原北家の中心に据えられてゆくきっかけになった。

村上天皇後宮は華やかであったが、中でも師輔の娘の安子は第二皇子憲平親王、第四皇子為平親王、第五皇子守平親王を産み、他に四人の内親王を産んだ。いかに村上天皇の寵愛を受けていたか知れるが、ここに師輔は大きな期待を抱いたであろう。唯一の気がかりは第一皇子広平親王の存在であった。広平親王藤原南家出身の祐姫で、その父は大納言藤原元方。南家はこの頃には学者貴族になってふるわかなかったが、広平親王が産まれたおかげで、元方は参議から大納言に昇進している。北家に限らず、平安時代を通して外戚と云うものがいかに重んじられたか、この一例からもわかる。祐姫は更衣で、安子は女御であった。後宮での序列は更衣より女御が上である。これが決定打になったのかわからないが、第一皇子の広平親王がいたにもかかわらず、第二皇子の憲平親王が生後わずか三ヶ月で立太子されたのも、師輔の先手によるところ。が、その矢先の天徳五年(960)、桓武天皇以来の内裏が焼失してしまい、同年師輔は他界した。そして五年後に安子が死去、さらに三年後の康保四年(967)五月、村上天皇は四十二歳の若さで崩御された。天皇として崩御され、皇太子憲平親王が十八歳で践祚、即位された。冷泉天皇である。

冷泉天皇は元来が病弱であられた。加えて奇行も多かったと云う説もある。師輔、安子、村上天皇が相次いで亡くなったり、冷泉天皇の狂気は南家の元方の怨霊の仕業であると、『栄花物語』も『大鏡』も後の『平家物語』でも語られてはいるが、いずれも世の人々の付会にすぎまい。この時師輔の子の伊尹、兼通、兼家らはまだ若く、冷泉天皇の大叔父でもある実頼が廟堂のトップに返り咲いて関白となっている。忠平の死去以来関白が絶えて以来十八年ぶりであった。これ以降、藤原北家摂関政治を強固にし、これが連綿と続いてゆく。師輔の子らは北家ことに師輔流の勢力拡大に努めた。冷泉天皇はまったく政に関わることがなく、廟堂の主導権争いは公卿らの間で必然的に激化した。冷泉天皇の次の東宮には同母兄の為平親王ではなく、守平親王が選ばれた。このことが歴史上重大な要素を帯びてくる。安和の変はこのような中で起きる。

廟堂は実頼が関白太政大臣となり、次席の左大臣源高明であった。源高明醍醐天皇の第十皇子で、臣籍降下して源氏性を名乗っていた。英邁であったと云う。二十六歳で参議公卿となり、順調に昇進を重ねて、兄弟である朱雀天皇村上天皇を支えた。実頼や師輔との関係も良好で、藤原北家以外で唯一廟堂にて影響力を高めつつあった。師輔が亡くなった後は高齢の関白実頼ではなく、実質的には高明が政を仕切ろうとした。村上天皇や師輔が亡くなると孤立することもあったが、元来、政治力、経済力も傑出した存在であったのだ。北家の面々、ことに師輔の子らは、廟堂でずっと先をゆく高明の活躍を面白く思わない。加えて高明はこの時点で藤原北家よりも強い外戚関係を天皇家と築いていた。高明は師輔の娘を妻とし、生まれた娘を為平親王に嫁がせていた。為平親王皇位を継ぎ、皇子が産まれて世継ぎとなれば、高明が外祖父になる。藤原北家にすれば他氏が藤原氏以上の外戚関係を持つことは許されないことであった。安和元年(968)、冷泉天皇に入っていた伊尹の娘懐子が第一皇子師貞親王を産んだ。後の花山天皇であるが、北家としては何としてもいずれは師貞親王皇位を継がせたいと画策するのは当然であろう。

翌安和二年(969)の晩春、中務少輔橘繁延や左兵衛尉源連らが東宮守平親王廃太子を企てたと、左馬助源満仲前武蔵介藤原善時らが廟堂に密告、源高明が裏で糸を引いているとされ、高明は六十八年前の菅原道真と同じく太宰府に流された。源高明藤原北家を陥れようとしたと云われたが、この事件の真相は謎である。密告の内容も明確ではなく、企てた者、密告した者も廟堂の中枢ではない者だ。これはやはり陰謀であろう。事実、歴史家の間でも陰謀説は有力で、密謀を企てたのは何おう藤原北家に違いない。実は密告した者は、藤原北家師輔流の従者で、このあとも子々孫々摂関家に仕えている。対して企みを暴露され左遷された連中は、彼らのライバルであった。すなわち源高明を追い落としたい藤原北家が、従者らを使って彼らのライバルに罪を被せた陰謀事件であると云う、この事件の構図が浮かび上がる。関白実頼は七十歳の老齢であり、自らも名ばかりの関白と認めており、安和の変を主導したのは、明らかに師輔流の伊尹、兼通、兼家、師尹の兄弟であった。

藤原氏による他氏排斥は、良房以来、いや古くは乙巳の変を首謀したひとり藤原氏の始祖鎌足にまで遡る。まさにお家芸であると云われる所以である。その総仕上げが安和の変であり、安和の変藤原氏の他氏排斥の最後の事件であった。これでもう北家を中心とする藤原氏に拮抗する勢力はいなくなり、他氏排斥を成し遂げた藤原氏は、以降、兄弟間や叔父と甥との間、つまりは北家内部の同族間で骨肉の争いを繰り広げることになる。

風になる時

世界が注視するアメリカの大統領選挙はかつてない激戦であった。現時点で、民主党のバイデン前副大統領が当確となって、政権移行チームが発足し、世界の首脳もバイデン氏に祝意を伝えてはいるが、トランプ大統領は敗北を認めておらず、未だ大統領選挙は終わっていないという。アメリカ大統領選挙は慣例として、敗者が敗北宣言をし、そのあと勝者が勝利宣言をする。トランプ陣営は選挙で不正があったと一歩も引くつもりはなく、このまま敗北宣言はせずに法廷闘争になる可能性が高い。コロナ禍で行われた大統領選挙は郵便投票が多数を占めた。そこに不正があったと指摘するトランプ氏。これな本当であれば民主主義の根幹を揺るがす事であるが、不正がなかった場合は、逆に民主的な選挙を否定することになる。冷戦後、唯一の超大国として君臨したアメリカは、十九年前の同時多発テロ以降翳りを見せていた。四年前にアメリカファーストと叫び、強いアメリカを取り戻すと豪語した大統領を頂いたが、あまりに極端な保護主義が先行して、国際社会から孤立しつつあった。アメリカ国民は振り子を戻すべくバイデン氏を選んだとは思う。しかしバイデン氏になっても、これほど分断されたアメリカが容易に挙国一致できるとは思えない。これからさらなる混迷の時代が、今、始まったと言わざるを得ない。この間アメリカと経済摩擦を起こし敵対してきた中国が、いよいよ一番の超大国へ変わる日が来るのかも知れないし、沈黙のロシアだってどう出てくるかわからない。欧州もイギリスがEUを離脱して、足並みは揃ってはいないし、コロナの猛威は欧州でも凄まじく、影響力低下は避けられそうもない。これまで地球を支配してきた北半球はあまりに混沌としているのだ。

日本でも歴代最長だった安倍内閣が終わり、菅内閣に変わった。アメリカのように政権交代したわけでもなく、管氏は安倍内閣の継承を謳って総理になった。そもそも日本では政権交代は難しい。戦後、五十五年体制となってから、二度政権交代があったが、いずれも短命で、国民の支持はあっという間に離れている。日本人は長期的安定を好む民族であることは歴史が示している。急激な変化は避けたいがため革命は起こらない。明治維新と昭和の戦後だけは異例であるが、政治体制や経済体制は変わっても天皇制は維持されている。日本人は伝統を重じる。伝統芸能がこれほど多くある国もないだろう。 コロナ禍 今年、新型コロナウィルスはすべての人にとって災禍となった。秋が深まり寒さが増す北半球では日本を含めて、感染者が急増、第三波がやってきた感じだ。コロナはアメリカが提唱してきた民主主義と資本主義経済に打撃を与え、人との距離は広がり、私たちの社会生活は大きく変わった。東京オリンピックは一年延期になったが、果たして開催できるのか。今私たちは数十年どころか、数百年に一度の大変革期に遭遇しているのである。ワクチンや治療薬もまもなくできそうで、少しずつ光射す出口が見えてはいるが、現時点では手探りであることは否めない。ゆえにこれまでと同じ暮らしはできないと各々が心得ねばならない。

占星術では、今年12月22日から、風の時代になると云われる。218年続いた地の時代が終わり、これからおよそ240年ほどは風の時代になるのだそうだ。占星術では、火、地、風、水、この四つのエレメントに分けて、それぞれ周期があるとされ、その節目をグレートコンジャンクションと云うそうだ。グレートコンジャンクションはだいたい二十年周期でやってくるがひとつのエレメントは概ね百年五十年から二百年ほど続く。つまり地のエレメントが二十年ごとに更新されているイメージ。ゆえに次は風のエレメントが二十年周期で更新されてゆく。ところが合間に数年から数十年単位で別のエレメントに変わる時代があったりもする。例えば、現在の地の時代は江戸時代後期の1802年に始まるが、途中1821年から火のエレメントが強くなり、1842年に再び地のエレメントに戻って、今度は1981年から風のエレメントが強くなって、その後2000年から2020年末まで地のエレメントに戻っている。1821年から1842年は、ギリシャオスマン帝国から独立し、これを皮切りに各地でスペインやポルトガルの植民地が独立、フランスでは七月革命があった。日本は徳川十一代将軍家斉の大御所時代で、江戸町人文化の爛熟期であったが、天保の大飢饉が起こり、大塩平八郎の乱が勃発、いわば徳川時代の終幕の始まりが背景として次々にあった。幕末はもうすぐそこと云う時代である。1981年から2000年は20世紀末で、世界では冷戦が終結したが、各地では現代まで尾を引く小競り合いの紛争やテロが多発するようになった。日本は昭和から平成に変わり、バブル期からバブル崩壊があった。次の風の時代も折々で別のエレメントが入ることもあるのだろう。風の時代とはどんな時代なのか。前回の風の時代は鎌倉から室町前半まであったと云う。源平の争乱を経て武家政権が確立された。鎌倉新仏教と云う仏教変革が起こり、喫茶の文化が始まり、猿楽など現代私たちが享受している伝統文化や芸能もこの時代に萌芽した。果たして四年、四十年はどうなるのか。私は星占いはよくわからないが、妙な勘が働くことがたまにある。この冬、間違いなく時代が大きく変わるであろう。私たちは今その大転換点にいるのだ。そんな気がしてならない晩秋である。

皇位継承一承平・天慶の乱一

その場所に行きたくとも行けない場所がある。行こうと思えば今日にでも行けるのに、不思議と足が向かわない。縁遠い場所。東京大手町にある将門塚は、私にとってそんな場所である。自宅からも三十分もあれば行けるし、職場からは歩いても行けるのに、これまで一度もお参りしたことがない。私は勝手に「平将門は私が来ることを拒んでいる」と思い、いつかその機会が来るのではと待っているが、一生その機会は来ないのかも知れない。私にはこんな場所がいくつかあるのだが、将門塚はもっとも強く拒否されている。一方で、平将門を合祀する江戸総鎮守の神田明神には何度もお参りしているのだから、神格を得た将門様には許されているのか。だいぶ前のことだが、口中の病も治癒してもらった。平将門平安京では反乱を起こした謀反人だが、東国では自主独立の英雄なのである。

平将門は自らを「新皇」すなわち「新しい天皇」であると称し、都から隔絶された板東の地で、新たな国を造ろうとした。当初は天皇に反旗を翻すつもりはなく、あくまでも藤原忠平が率いる廟堂と国家の仕組みに対する意趣返しであり、平安朝廷に改革の意識を芽生えさせるきっかけを作りたかったのではなかったか。しかし朝廷はこれを謀反と捉えてた。朝敵として討伐せしめんとした。将門は桓武天皇の血を引くいわゆる桓武平氏である。祖父の高望王は上総の国司となり板東に住みついて、その息子達が勢力を拡大していった。父の平良持下総国を領し、武勇に優れ、鎮守府将軍に抜擢されていた。良持の兄弟は良兼が上総、国香が常陸、良文が武蔵をそれぞれ領した。将門は元服すると上洛し、摂関家の長忠平と主従関係を結ぶ。家人として仕え、忠平の推挙で滝口の武士となった。時は朱雀天皇の御代である。将門は都にて立身出世を目論んだ。朝廷で高みへ昇ってみたい。理想の国家造りか権力への憧れが東国の片田舎から罷り出てきた若武者には多分にあったのかも知れないが、東国の窮乏を何とかしたいとの青雲の志が、彼を駆り立てたに相違ない。平将門とはそんな人のような気がする。それには板東武士のボトムアップをせねばならぬ。その先頭に立ちたいと思った。将門は自らも桓武天皇の五世であったが、忠平が率いる藤原政権が揺るぎなきものと成っていたこの時、将門の身分では「滝口の武士」までが関の山であった。滝口の武士は滝口の武者とも云い、蔵人所に置かれた内裏の警護にあたる武士のことで、天皇の日常生活の場である清涼殿を警備した。清涼殿の東庭北東には、滝口と呼ばれる溝水の落ちるところがあり、その渡廊下を詰所としたことから、滝口の武士と呼ばれ、詰所は滝口の陣と呼ばれた。将門は人柄を忠平に認められていたものの官位は極めて低かった。上洛して十二年、将門は懸命に働き、何とか平安京で出世し、故郷へ錦を飾るつもりでいた。軍事警察を管掌する検非違使佐や検非違使尉を望んだが、忠勤も虚しく望みは叶わず。失意の将門は故郷へと帰った。そして板東にて水を得た魚の如く頭角をあらわしてゆくのである。将門が朝廷で立身出世できない事を恨んで謀反を起こしたとも云われるが、一方では謀反は「制度に対しての行動」であったととる説もある。これは今もって議論を二分している。

棟梁として板東の桓武平氏をまとめていた平良持が亡くなると、弟たちは鎮守府将軍として栄えた良持の所領、館、そして財を手にしようと暗躍した。後継の将門を見縊っていたのである。ことに上総の良兼が首謀して将門を滅ぼそうとしたが、武勇に優る将門は手始めに国香を殺害し、叔父達を返り討ちにして、逆に板東一円を自らの傘下に加えていった。天慶二年(939)、一族内の諍いを機に、将門は常陸国府とも対立し、これを陥落させると、近隣の国府も倒してしまう。そして、八幡神の神託を得たとして「新皇」と称し、板東を中心に独立国家の樹立を企てたのである。事実この頃の将門は関八州をほぼ味方にしていた。当代朱雀天皇は弱冠十七歳。将門は本気で新天皇になれると思った。京では将門が攻めてくると大混乱に陥った。天慶三年、朝廷は藤原忠文征東大将軍に任じて将門征伐軍を編成した。しかし忠文の到着前に下野国押領使藤原秀郷が、板東で将門と交戦していた甥の平貞盛藤原為憲と結託して連合軍を形成し、乱の鎮圧にあたった。

栃木県足利市の北の山麓鶏足寺と云う古刹がある。山門を潜ると長い杉木立の参道で、緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのもの。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建された。往時は板東における真言密教の大伽藍のひとつであったようだが、現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりで、ひっそりとしている。私が行ったのは三年前の秋のことで、境内には誰もいなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。閻魔堂の奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日が傾きかけた時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。北関東にはこんな寺がわりと残っている。将門の乱の折、住持は秀郷の勝利を祈願した。秀郷が下野の押領使であったことで、縁があったのであろう。密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷したが、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であると云う。

破竹の勢いで板東のヒーローになった将門は、怒涛の如く進軍した藤原秀郷軍の放った矢に眉間を貫かれ、敢えない最期を遂げた。あまり抵抗する間もなかったようで、官軍が意外にもあっさりと勝利したのも、板東方が所詮は烏合の衆であったことを語っている。かくして将門の乱はわずか二ヶ月で鎮圧された。武勲を立てた藤原秀郷はこのあと鎮守府将軍に昇進している。将門の夢は儚かった。摂関政治の礎が確固たるものとなりつつあったこの時、まだ脆弱な板東武士たちは朝敵になるのを恐れたのである。およそ二百五十年後、平清盛が政権を取るが、清盛率いる平家も、桓武平氏から板東平氏の流れを汲む伊勢平氏である。武士として初めてこの国の頂きに立ったのが平氏であると云うのも、何か因縁めいたものを感じる。清盛は少しは将門を意識したであろうし、自らが位人臣を極めることが、将門への供養とも心得ていたのかも知れない。板東武士たちも一瞬は将門の新たなる国に期待して乗っかったが、まだ武士の夜明けには早かった。彼らの子孫が華々しく活躍するのは、清盛亡き後、源頼朝が東国にて挙兵するのを待たねばならない。ずっと後の世のことだ。武士が天下を獲ることなど、将門の時代では果たせないとこしえの夢であった。

将門の乱と結びつく寺伝を持つ寺が坂東にはいくつかあるのだが、筆頭はやはり成田山であろう。朱雀天皇は、嵯峨広沢の遍照寺の寛朝に、真言密教護摩祈祷による乱の平定と、将門の調伏を命じた。余談だが、この寛朝という坊さんは、宇多天皇の孫にあたる。天皇家の後継者争いには無縁で、十一歳で仏門入り。仁和寺、東寺、西寺、東大寺別当を務め、高野山座主にまで上り詰めた。さらに、真言宗では初の大僧正の尊号を賜わっている。寛朝は、神護寺弘法大師が彫ったとされる霊験あらたかな不動明王を奉持して、下総へ下った。大坂から船で房総半島の尾垂ヶ浜に上陸。寛朝は、今の成田山から三キロほど離れた公津ヶ原という地に不動明王を奉安して、二十一日間護摩祈祷した。結果、乱は鎮圧され、将門は殺害された。寛朝が再び不動明王と共に京へ帰ろうとしたが、不動明王はその場を動こうとしない。そして不動明王は、寛朝にこの地にとどまると夢告したと云われる。これを聞いた朱雀天皇は、国司に命じて堂宇を建立し、不動明王を厚く祀った。新勝寺という寺号も、戦いに勝ったと云う意味で朱雀天皇命名された。その後永禄年間に当地へ遷座し、東国の権力者、徳川幕府、歴代の市川團十郎、そして多くの庶民の厚い信仰を受けている。

将門が東にて挙兵したのと時を同じく、西の海でもすすんで朝敵の狼煙を上げた者がいた。藤原純友である。藤原純友は大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方に赴任。当初は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあったが、帰任命令が下っても帰京せず伊予に土着した。承平六年(936)頃までには海賊の頭領に成り果て、伊予の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を伸ばしていった。純友の水軍は、九州中国地方及び海外と京都を結ぶ大動脈たる瀬戸内を縦横無尽に暴れ回り、一帯を恐怖に陥れた。将門と純友は互いに連絡を取り合い、東西から平安朝廷を挟み撃ちにしようとしていたとも云われる。真偽は定かではないのだが、一説によれば、二人が勝利した暁には、将門が新皇で、純友がその臣下の首座たる関白になる予定まで立てていたと云う。将門と純友は互いに呼応しながら、一度も会うことはなかったが、戦友としての特別な絆を感じていたのだろうか。

純友の余勢を駆って畿内にまで進出、天慶三年(940)二月には淡路の国府を、八月には讃岐の国府を、さらに十月には大宰府まで西下して襲撃している。しかし純友も敗れる時が来る。朝廷は純友追討のために小野好古を長官として追捕使軍を編成し兵を差し向けた。天慶四年(941)五月の博多湾の戦いで、純友軍は壊滅。純友は息子の重太丸と伊予へ逃れたが、六月には伊予の警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも云われる。また、それらは朝廷や国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて、南方の彼方へ消息を絶ったとも云う。この方が浪漫がある。藤原純友の乱平将門の乱を同時代の元号から承平天慶の乱と云う。将門の乱が二ヶ月で鎮圧されたのに対して、純友の乱は二年の長きに渡り繰り広げられたのも、純友が海を制していたからで、水軍の実力は官軍を凌駕し、自在巧みな操船技術で翻弄したからに違いない。この水軍の残党が、後に村上水軍となり、そこから派生したり引き継がれた熊野水軍毛利水軍、九鬼水軍となる。純友の乱は名だたる日本の水軍を生んだのである。そして為政者には制海権の重要性を認識させた。以降、藤原氏平氏、源氏、北条氏、足利氏、織田信長豊臣秀吉、そして徳川氏と天下人は皆、海を制することに注力した。四方の海に囲まれた日本を治めるために。

朱雀天皇は皇子に恵まれず、病弱でもあられた。御在位十六年のうち、承平・天慶の乱があり、藤原忠平が廟堂を掌握し、天皇が親政を望まれることもなかった。その心労はいかばりであったか。天慶九年(946)四月、二十四歳で三歳年少の同母弟成明親王に譲位された。成明親王村上天皇となられた。朱雀上皇は天暦六年(952)三月出家して仁和寺に入られ、同年八月三十歳崩御された。