弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 善養寺の老松

松は古くから日本人に愛されてきた。常緑樹で寿命が長く、美しい枝ぶりが我々を魅了する。縁起物の筆頭とされるのも、やはり格別の木であると云う認識があったからに他ならない。徳川家は本流の姓である「松平」の名を重んじ、松平氏は将軍家の一門を成した。また家康と祖先が同じの三河以来の譜代家臣にも称号として松平の姓を許している。江戸期を通して松平を名乗る大名は優遇され老中を幾人も輩出し、幕政に参与した。松平信綱松平定信松平春嶽松平容保らが有名である。東海道の並木に松が植えられたのも、風光を装うだけにあらず、街道を整備した徳川が権威をひけらかすためでもあったのかも知れない。新年の門松や、地蔵盆に行われる「松上げ」などの宗教的行事にも使われているのは、松が神聖視されたゆえで、針葉は邪気を祓い、とこしえに生きると信じて、その漲る力を人々は欲した。まさに日本を代表する樹木と言って良い。日本中方々に名木と云われる松があるが、実は東京23区にも堂々たる松があることを、私は最近知った。自粛生活が続いていた五月晴れの或る日、私はその松に逢いに行った。

その松は「影向の松」と云い、江戸川畔の善養寺の境内にある。善養寺は江戸川区東小岩にある真言宗豊山派の寺で、室町末期の大永七年(1527)の創建。多くの末寺を擁し、地域では「小岩不動尊」の別名でも有名らしいが、お恥ずかしながら私は今まで知らなかった。寺伝によれば、醍醐寺の頼澄法印という僧が、諸国行脚中、夢告に従ってこの地に至り、不動明王を祀ったのが始まりと云うが、諸説あって実際はもう少し古い寺とも云われる。山号を「星住山」と云う。美しい山号だ。境内にかつて生育していた、影向の松とは別の「星降り松」に由来する。その昔、星の精霊がこの松の梢に降り立ち、やがて赤青黄の石に姿を変じた。その石は「星精舎利」と呼ばれて寺の宝とされたが、赤と黄の石は紛失して青い石のみが残った。以来山号を「星住山」としたと伝わる。なお、星降り松は昭和十五年(1940)に枯死し、今はニ代目が、影向の松の後ろでずいぶん高く育っている。慶安元年(1648)、徳川幕府から朱印状を与えられ、善養寺は、小岩、船堀一帯に末寺を持つ、このあたりの中心寺院となった。天明の大飢饉のとどめとなった浅間山の大噴火では、犠牲者の夥しい遺体が利根川から江戸川へと流れてきて、善養寺近くの中洲に漂着した。舟の通行にも支障をきたし、あまりの惨状をみかねた下小岩村の人々は、ボランティアでその遺体を一体一体引き上げて、善養寺の無縁墓地に懇ろに葬ったと云う。

山門をくぐると圧巻の光景が広がる。高さ約八メートル、東西およそ三十一メートル、南北およそ二十八メートル。これが影向の松である。本堂前の庭全体を覆う見事な枝振りだ。樹齢は六百年以上と云われ、室町時代創建のこの寺よりも昔から此処にあるらしい。おそらく寺が建てられた頃には、すでに立派な枝振りであったに違いない。寺はシンボルを求めて建立された。この影向の松は、かつて讃岐の真覚寺の「岡野松」と日本一を争い、何と二十七代木村庄之助の裁きにて双方引き分けとされ、当時の相撲協会の春日野理事長が「日本名松番付」で東西の横綱とした。残念ながら西の横綱は枯死してしまい、令和の当世一人横綱である。東の横綱も一時は根が窒息状態となり衰えかけたが、寺と地元民が一丸となって土壌再生等をしたおかげで今は元気を取り戻している。街中ゆえに松食虫の被害にも遭わずにすんでいるとか。まだまだ存えそうで、まことにありがたい。

「影向の松」は奈良の春日大社にあるクロマツが元来で、影向とは、神仏が此の世にあらわれた姿を云う。春日明神の化身の翁は、この松に降臨して万歳楽を舞ったと云われ、松の木は芸能の神の依り代とされた。能舞台の鏡板に描かれている老松のルーツとも云われる。能は日本人が編み出した極めて日本らしい芸能である。能楽は日本の総合芸術であり、春日大社能楽発祥の地とも云われる。善養寺の逞しい松も能舞台の鏡板の松を彷彿とさせる。ゆえにいつの頃からか「影向の松」と呼ばれるようになった。松は繁栄の象徴であるのだ。ゆえに人は松に憧れ、松を愛でてきた。そして松の木に宿る神を拝んだのである。それは今も変わらない。

大東京の片隅に「日本一の松」がある。それは奇跡であるが、この奇跡が私は嬉しくて堪らない。現在も善養寺の広い境内は地域の人々には安らぎの場所であり、憩いの場であり、影向の松の周りでのんびりと井戸端会議をしている。五月晴れの空の下、今なお青々と繁茂する老松に、私も大きな力を得た。ただ此処にいてくれてありがとうと率直に思った。あまりに神々しい善養寺の影向の松は、私たちに生きることの意味を問うてくる。そして時には木肌に触れ、その声に耳を傾ければ、あなたにもきっと良き答えをくれるであろう。

皇位継承一王朝国家一

醍醐天皇の治世は三十四年続いた。これは平安時代でもっとも長い。父の宇多天皇と、醍醐天皇から一代おいて村上天皇と続くこの間は、摂関を置かずに天皇親政が行われた時代である。宇多天皇の治世を寛平の治、醍醐天皇の治世を延喜の治、村上天皇の治世を天暦の治と称し、後世で理想的な時代とされ聖代視された。逆に言えば藤原北家にとっては不遇の時代で、通算でおよそ六十年も摂関不在の時期があった。しかし現実は天皇親政が完全に機能したとは言い難く、中央集権には程遠い。理由としては地方政治の弛緩、治安の乱れにより律令制が破綻しかけており、天皇親政とは幻想であり、現実的な政治はできなかったと言って過言でないだろう。

延長八年(930)、醍醐天皇は四十六歳で崩御。その一週間前に東宮寛明親王が八歳で即位され朱雀天皇となられた。また稚い幼帝の誕生である。これを見届けるようにして、翌年、宇多法皇も六十五歳で崩御された。朱雀天皇を後見したのが摂政藤原忠平である。忠平は時平の弟で、兄の死後、表舞台に躍り出た。朱雀天皇の母穏子は忠平の妹で、時平や忠平が廟堂で活躍できたのは、この穏子の助力によるもの大であった。果たして国母となった穏子と摂政となった忠平は一致協力して政を主導してゆく。

ここで改めて和田秀松氏著『官職要解』より、摂政と関白について確認してみよう。

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである~

関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。

~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~

この関白に最初に就任したのが、忠平の父藤原基経である。 忠平は基経の四男であったが、長兄時平亡き後、次男、三男を差し置いて藤原北家を継いだ。小一条太政大臣と呼ばれ、位人臣を極めたが、幼い頃から聡明で、兄よりも寛大な心の持ち主であり、ゆえに人臣掌握にも長けていた。とこれは藤原摂関家、殊に忠平流の正統史といえる『大鏡』にあることで、いささか脚色はあるだろうが、忠平は有職故実にも深く通じており、いずれにしろ野心的政治家の時平に比べたら、文人肌の温厚な人物であったことは事実であろう。さらに『大鏡』は、菅原道真の左遷は時平の讒言でされたことであり、その罪はすべて時平に向けられている。これにより時平流を封じ込めて、忠平流が廟堂をクリーンにしたかのように正当化した。『大鏡』も『栄花物語』もとにかく忠平を絶賛する。忠平は廟堂のトップに昇ってはゆくのだが、宇多法皇とも良好な関係を築き、他の公卿を気遣うことを忘れなかった。他氏排斥もせずに、敵を作らない和の政治を心がけた。よって忠平は時平に比べて、政治家としては無能であったとみる向きもある。国政改革に自ら乗り出すこともなく、このあと起こる大乱を主導的に鎮圧しようとはせず、難局に立ち向かう姿勢はあまりみえない。むしろ政治は部下の三善清行らに任せて、本人は宇多法皇とともに雅な平安王朝の貴族文化を創出することに腐心した感がある。忠平には歌の才があった。『百人一首』にも選ばれている。貞信公とあるのがそれで、貞信公は忠平の諡名である。同じ歌が『拾遺集』にもあってその詞書にはこう書かれている。

亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべきところがなりと仰せ給ふに、このよし奏せむと申して

小倉山峯のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ

亭子院とは宇多法皇のことで、御幸(ごこう/みゆき)とは上皇法皇女院の外出のこと。天皇の外出は行幸と云う。宇多法皇が嵯峨の大堰川のあたりに紅葉狩りに御幸されたのは延喜七年九月十日のことで、これに供奉した忠平はこの時二十代後半。法皇はあまりにも美しい小倉山の紅葉を、醍醐天皇にもお見せしたいと仰せになった。忠平は法皇のお気持ちを天皇にお伝えしようと、此の歌を奉った。全山燃えるような紅葉に覆われた錦秋の嵯峨野と、それを息を呑んで見つめる王朝人の情景が、かほど実感として迫ってくる歌はない。忠平の歌には彼の生き様が凝縮されているように思う。

穏子を醍醐天皇中宮としたのは兄時平であった。時平には天皇家との外戚関係はなく摂関に就くことなく死んだ。が、妹の穏子を醍醐天皇中宮として入内せしめ、しっかりと布石を打っていた。これを忠平は利用したのである。醍醐天皇には多くの皇子がいたが、東宮立てられたのは穏子の生んだ皇子のみであり、摂関政治の礎はこの時に形を見せ始めた。

宇多法皇の寛平の治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、基本的には時平もこの方針を受け継ぎ、班田を励行する法令が発布されている。また延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり、各地では有力な豪族がその土地と人を支配するようになっていた。律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたのである。結果的に醍醐天皇の延喜の治は律令制復活とはならなかった。忠平の時代には律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築が進展していった。具体的には個別人身支配を基とする体制から、土地課税を基とする体制へと政策転換したのである。このことは朱雀天皇の治世以降に班田収授が実施されていないことが示している。個人を課税対象として把握する個別人身支配において、偽籍や逃亡が頻発すると課税対象である個人を把握することはできなくなるが、土地課税原則のもとでは、土地の存在さえ把握していればそこを実質的に経営している富豪層から収取すべき租税を集めることができる。こうした考えが背景にあった。実際に租税収取を担当する地方の現場では、戸籍や計帳を基盤に置いた課税方式が後退し、土地に対する課税が積極的に行われ始めていた。それを国家体制においても採用したのである。ここに律令国家体制が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。土地課税を基本とする考えは平安時代初期からあったようで、藤原冬嗣以来の為政者は税収をもれなく期待できる土地課税体制への移行を常に目論んでいたふしがある。実現には百年近くかかったが。王朝国家体制は、大和王権の確立した律令制国家から鎌倉時代となる中世国家までの間、すなわち平安中期から末期までを云う。実はこれは政治によって主導的に移行したわけではないことは歴史が語っている。土地への課税が租税収取の基本とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが公田である。律令制における租税いわゆる租庸調は、個人に対して課せられていたが、新たな租税制度のもとでは公田に対して課税がなされた。公田は名田と呼ばれる租税収取の基礎単位へ編成され、現地の豪族が名田経営と租税納入を請け負うという体制が形成されていった。この体制こそが王朝国家の基盤を成す。これにより律令制の班田図は不要となり、新たに公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、国司に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。 体制を確立するため、現地支配に当たる国司の権限は大幅に強化された。租税収取、軍事警察などの分野で中央政府から現地赴任筆頭国司への大幅な権限委譲が行われ、国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち受領が出現することとなった。軍事力を有した受領は発言力も大きくなる。彼らは特に都から遠い東国を中心として、勢力を広げてゆく。桓武平氏清和源氏奥州藤原氏など、彼らの子孫が平安末から活躍する武士へと成長するのだ。 忠平政権はこの時代の社会的背景に適合した王朝国家体制を積極的に構築していった。この時期に後の中世社会の基礎となる要素が多数生まれている。まさに古代から中世への過渡期に当たるといえる。 

忠平時代を支えた三善清行も文章生から立身出世した人物で、父は淡路守三善氏吉である。根っからの文官で優秀な官僚であった。文章博士、大学頭、式部大輔となるが、道真の菅家閥と一線を画す、参議巨勢文雄に学び、道真台頭後は悉く道真閥と対立し、道真糾弾の急先鋒の一人となった人物である。時平の政治を補佐し、時平没後は忠平にも頼りとされ、ついには公卿となる。延喜十四年(914)絶頂の清行は、儒教的な徳治主義に基づく歴史観を背景とした「意見封事十二ヶ条」記し、廟堂の求めに応じる形で奏上した。崩壊しつつある律令制の実態を曝し、地方政治の改善を事細かく述べている。これは律令制国家継続のため国政を正すことを試みた最後の機会であった。むろんこれは忠平がバックにいたからできたことである。「意見封事十二ヶ条」はまことに画期的なものであったが、政治を総理する要の忠平にやる気が欠乏していたことが、朱雀天皇と清行の不運であった。法令はすばらしくともあまり良い方向には向わなかったのである。

朱雀天皇は延長元年(923)醍醐天皇の第十一皇子としてお生まれになった。三歳で立太子され、先に述べたとおり八歳で皇位を継承されたが、元来病弱であられた。女御煕子との間に昌子内親王をもうけられたが、皇子には恵まれず、同母弟の成明親王を皇太弟に立てられた。在位中は天災がしばしば起こり、厄病の流行もあって、律令制の崩壊により治世は乱れていた。頼みとするは摂政から関白となった叔父の忠平であったが、芳しい結果を見れないまま、朱雀天皇御自身も政治には関心が向われなくなっていったと思われる。そして朱雀天皇の御代に、朝廷を震撼させる事変が勃発する。王朝国家体制と朝廷の転覆を目論むその狼煙は、都を挟み東と西で同時多発的にあがった。承平・天慶の乱である。

なおすけの古寺巡礼 大山詣

今年は遠出を控えている。緊急事態宣言以降、宣言が解除されてからも私は都内から出てはいない。昨秋始めた西国巡礼はおろか、好きな寺社参詣にも行かず、茶会も軒並み中止となり、東京でじっとしている。もう少し落ち着いたらと自分にいい聞かせながら、悶々としつつも、まだしばらくは遠い旅には出ない気がする。しかし発見もまた多い。代わりに都内のホテルに泊まってゆっくりする。私にとって旅は日常からの逃避でもあるのだが、東京にいてもホテルに行くだけで大きな気分転換になる。何かひとつ出来なくなれば、また別の何かを見つけられる。人はそうしたものだが、中には見つけられず混迷する人、次に向かうことが諸々の事情で困難な人もいることだろう。でも、ほんの少しアンテナを高くしてみると良い。本当の未知は意外と近くにあるものだ。こういう時こそ、近場の行き忘れた場所、空白地帯を歩いてみる良い機会であると思う。

私はかねてより気になっていた大山とその周囲を歩いてみることにした。ここで云う大山とは神奈川県の伊勢原市にある標高1252メートルの山のことだ。丹沢山地の東端にあたる。円錐型の美しい山容は、いかにも神山の風格を備えており、古くから信仰の山であった。ほとんど独立峰ともいえる大山は、東名高速小田急線の車窓からもすぐそれとわかる。冬の晴れた日、東京からも国立や府中の多摩川縁に登れば、富士山と重なるようにして神々しい大山を拝むことができる。私はいつも遠目に眺めながら、いつか登らねばならぬと思いつつ、ようやく宿願果たした。

「大山」と呼ばれる山は方々にあるが、全国的には鳥取県の大山(だいせん)が著名である。神奈川の大山は山頂に大山祇神を祀ったためにそう呼ばれるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」とも呼ばれていた。大山の山頂には巨大な磐座があって御神体とされる。此処に阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社とさらに少し下に大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利(あふり)山」或いは「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。徳川時代になると殊に鳶や火消からも厚い崇敬を受けて、講が組まれて、大山詣は隆盛した。

新宿から小田急線で伊勢原駅まで行って、そこから山麓のケーブル駅まではバスが出ている。小田急ではケーブルまで乗れるフリーパスが販売されているため利用しやすい。バスを降りると石段に沿って土産物や食堂、今も営業する宿坊が立ち並んでいる。ここは通称「こま参道」と呼ばれ、なかなか良い風情。私も名物の豆腐田楽と山菜そばをいただいた。こま参道から脇道へちょっと入った左手に茶湯寺がある。茶の湯に関わりがあるのかと思ったが、左にあらず。寺の案内によれば、死者の霊を百一日の茶湯で供養するそうで、供養に行くと必ず死者に似た人に会えると云う。その思いを込めた石仏が多い。

登りはケーブルカーを利用した。二十五度の勾配を六分ほどかけて中腹の下社まで登る。途中、大山寺駅があるが、このあたりから遥か南東に相模湾が見えてくる。私は一気に下社まで登った。視界はさらに開け、此処では思わず誰もが歓声あげずにはいられないだろう。なるほど噂に違わぬすばらしい眺めだ。境内からは伊勢原、平塚、横浜、そして江ノ島が手に取るように見え、相模湾が驚くほど近く、遠く伊豆大島まで見はるかす。憂さも晴れる絶景である。大山は関八州の展望台とも称される。私もその眺めを堪能した。この日は風の強い日であったゆえに春霞は立たずに遠くまで見渡すこと叶った。

大山阿夫利神社の創建年は不明だが、古くから庶民に信仰された。徳川時代に大山講が盛んに組まれ、鳶職の人々が信仰したのも、木に対する信仰からに違いない。実際に大山詣の際には巨大な木太刀を担いで登り、奉納してきた。登山の前には必ず滝に打たれて精進潔斎をしたと云う。滝は現在も枯れずに、禊の大滝や良弁滝と呼ばれて登山口に幾筋も落ちている。大山詣は歌舞伎や浮世絵にも度々登場し、江戸の人口が百万を超えた頃には、年間二十万人も参詣した。江戸から手形不要で来れたため、大山詣をして、帰りに江ノ島や鎌倉に寄る小旅行が流行った。江戸から大山までは徒で、速い者でちょうど一日がかりの行程。夜明け前に出立すれば、日の暮れる前には大山に着いて数多ある宿坊に逗留できた。もっと速く到着する者もいただろうし、途中の宿場に寄りながら、ゆっくりと旅を満喫する者もいた。江戸も中期以降になると、手軽に行ける行楽地として人気を集め、鎌倉、江ノ島と大山を周遊する旅だけではなく、富士山、伊勢参り善光寺詣り、さらには西国巡礼や坂東三十三箇所巡りとセットで廻る者もあった。

さすがに関東では聞こえた神社らしく社殿も境内の佇まいも風格がある。参拝をすませ本殿の奥に湧く御神水をいただく。阿夫利神社には名水が湧いていることは知っていた。古の人々もいただいた大山阿夫利神社の御神水。此度の参拝はその御神水をいただいて、茶を点てようと思いたってのこと。龍口から落つる御神水は、蒼く冷たく澄んでいる。茶はふわっと点つ。いつも思うがなぜこうも自然の水はまろやかなのか。天然の濾過装置はとても人智には及ばない。

下社から山頂の上社までが本格的な登山道になる。むろん上社こそが阿夫利神社の本宮であるから、ぜひとも参拝したいのだが、登りは下社から一時間半はかかると聞いた。よく調べもせずにやって来た私が愚かであった。今回は装備もあまく、時間も足りず登頂は断念。山は容易に人を寄せ付けない。心がけから真摯に登山に向き合わねば、跳ね返される。上社へ登るのは断念したが、下社から少し降ったところにある大山寺に向かう。歩きでいったん下山したが、この道もなかなかの急峻さで、大岩がゴロゴロと転がる中を脚を踏み外さぬよう慎重に下る。登りはかなりキツそうである。

大山の山中山麓には寺社が多い。いずれも大山を神山として、まるで聖地を取り巻くように点在する。山中に蹲る大山寺は、東大寺や近江の寺々と関わり深い良弁が開基とされる古刹で、修験者や大山講にも信仰を集める。いかにも坂東らしい武骨な本堂には、古い不動明王が奉安されており、阿夫利神社下社の明るく賑やかなイメージとは対照的に、大山寺は静謐に大山信仰が守られているといった感じがする。言わばこの山中においても陰と陽が区別されているのだ。大山には至るところ滝行や水垢離をした滝があると書いたが、愛宕滝や良弁滝はもともとは修験者の行場であった。

日が西へ傾く頃、大山寺から再び中腹の下社までケーブルカーで登って、今度は下社の表参道とは反対側へ山を降りる。この辺りは有名なハイキングコースで、途中の見晴台と云う絶景を堪能できる場所までは、ひっきりなしにハイカーとすれ違う。見晴台までは登りはあるが、緩やかなコースであるためさほどキツくはない。私は見晴台からさらに降って、日向薬師を目指した。明るかった道が次第に木々に覆われてきて、ひとり歩きが心細くなってきた。ちょうど峠のあたりに勝五郎地蔵と呼ばれる大きな地蔵さまが建っていて、その先から九十九曲と云う文字通り九十九折の急峻な山道がある。このあたりからまったく山らしくなって、木々はますます生茂り、昼間でも少々薄気味悪い。勝五郎地蔵は嘉永六年(1853)に地元の石工天野勝五郎が彫像したものとかで、人の大きさほどもあるため、少しびっくりするが、この先の九十九曲を注意せよとでも仰せのようであった。

下社や大山寺でちょっとゆっくりし過ぎたようで、日向薬師の閉門時間(17時)が迫っていた。私は一気に九十九曲を降りる。むろん脚元は慎重に。が、やはり九十九曲と呼ばれるだけあって、行けども行けども麓に辿りつかない。ふと、遥か上から女性のハイカーが一人降りてくる。早い。私はちょっと怖くなって、スピードをあげる。転んだら仕方ない。あとから来る女性は、どんどん迫ってきてるようだ。こんなところで追いつかれたくないし、こちらは男一人、万一何かあって、あらぬ疑念が生じられても実に困る。そんな思いもよぎって私は急いだ。ようやく舗装された道が見えてきて、他の三人組のハイカーが前方に見えてきた。私はちょっとほっとして、後ろを振り返ると、なんとあとから来た女性は私のすぐ後ろにいるではないか。私はギョッとして立ち止まり、先を譲った。女性はマスクにサングラスまでしていたが、見るところ年配のようだ。とてつもなく俊足のおばさんである。おばさんは私と前を行く三人を追い越すと、風のようにさらに降っていって、あっという間に見えなくなった。あれはなんだったのだろうか。天狗の様なおばさんであった。はたまた役行者の化身であったか。山では不思議な事があると云う。

日向薬師へ 舗装された道も長かった。ひたすら下りなので脚は前に出るが、脚裏は痛い。やがて平坦になってくると、石雲寺、浄発願寺と立派な寺が現れる。美々しい境内はちょうど花が見頃であった。殊に渋田川沿いの枝垂れ桜が浄発願寺の三重塔と重なる風景は美しく、しばらく眺めていたかったが、私は日向薬師へ急いだ。平坦になった道に安堵していたが、甘かった。最後の最後に急な登りが待っていたのである。もはや間に合わないかとヤキモキしながら、懸命に登ることおよそ十分。なんとか閉門間際の日向薬師に滑り込むことができた。こうした山寺へは生半可な気持ちでは参詣できない。毎度の戒めである。せめてこのくらいの戒めは、私のような者でも課せられねばならない。

日向薬師はこのあたりではもっとも古く、もっとも有名な寺である。迫力ある大きな茅葺の本堂と、美しい薬師仏を一度拝んでみたかった。時間がなくて宝物館の仏像群は拝観叶わなかったが、ここまで来れたことが嬉しく、御仏の導きに感謝した。本堂前の広い庭の池からは冬眠から目覚めたばかりの蛙が、大山に春を告げるようにしきりに鳴いている。日向薬師霊亀二年(716)、行基が開創したと寺伝にある。日向山霊山寺と呼ばれ、往時は山内に十二坊を持つ大寺であった。霊山寺はのちに廃仏毀釈で廃れてしまい、唯一残った宝城坊が、霊山寺を引き継いだ。これが今の寺で、広く日向薬師として知られるようになった。いずれ古い寺に相違ないが、大山信仰とも深く結びついており、それはすなわち修験道と関わりある神仏混淆と、アニミズムを具現化したような寺であったことは、宝城坊と呼ばれることが物語っている。 たった一日で、大山のすべてを知ることはできなかったが、おいしい空気と清らかな水で、私は春の一日を充分に満喫した。

皇位継承一道真左遷一

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ

あまりにも有名な菅原道真の歌である。この歌は、道真が太宰府に左遷されるにあたり、都へは二度と戻れぬと覚悟して詠んだものだ。

しばし道真について。菅原道真は幼い頃からその秀才ぶりを示し、十一歳で漢詩を詠んだ。詩は生涯愛し、歌にも秀で百人一首にも選ばれている。

此のたびはぬさもとりあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに

この歌は古今集の詞書には、朱雀院すなわち宇多法皇に供奉して東大寺の鎮守社の手向山八幡宮で詠んだとある。まさしく「とりあへず」の即興歌であろうが、神に捧げる幣(ぬさ)の用意がなく、代わりに紅葉の枝を奉ると云った。「神のまにまに」は、神の御心のままにお受け取りいただきたいと云う意。宇多法皇の南都行幸は、昌泰元年(898)十月のことで、奈良、吉野へ行き、戻りは竜田山から河内に入り、住吉大社に詣でている。これに供奉した道真も、右大臣に昇進する前年であり、この時が彼の絶頂であった。歌からもその喜びが明るく表されている。

道真は十八歳で当時の大学寮の文章生となり、数年後に官吏登用試験に合格。道真の血筋は土師氏に起源し後に菅原と氏を改めている。菅家は奈良朝、平安朝においては中流貴族ではあるが、代々優秀な文人を輩出。祖父菅原清公は左京大夫従三位まで昇進し公卿に列せられ、父是善は参議になっている。このあたりから道真の才能を花開かせるべく、それをお膳立てできるだけの財と環境は整ってきていた。道真は存分に勉強し、平安王朝随一とも称される学者に育った。貞観十六年(874)、従五位下に叙せられ、兵部少輔、民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877)に菅原家の家職でもある文章博士を兼任した。文章博士令外官で、官僚育成機関である大学寮において主に中国史漢詩を教えた紀伝道の教授である。元慶四年(880)に父が死去すると、祖父が開いた私塾山陰亭を主宰、ここには平安朝の志高い文人文士がこぞって道真に教えを請うた。集まる者は日々増えて、廊下でも講義が行われたため、別名菅家廊下とも称された。こうして道真は朝廷に並ぶ者のない見識高い文章博士として名を馳せるようになる。当時権勢を誇った摂政藤原基経も道真を高く評価しており、度々政の意見を私的に問うた。その矢先の仁和二年(886)、道真は讃岐守に任命され、下向することになる。仁和四年(888)、前回も触れた阿衡の紛議が起こり、ここで道真は朝廷への出仕を拒否していた基経を諌め、対立した宇多天皇の側近中の側近橘広相への赦免を求め、基経も矛をおさめた。その後橘広相が没すると、宇多天皇はそれに代わる者として、藤原氏にも臆することなく物申せる道真を讃岐より召還し、蔵人頭に抜擢する。天皇家の家政機関の長となり、天皇首席秘書官のような役を得た道真は水を得た魚の如く活躍する。やはり地方官では道真には役不足であったのだろう。宇多天皇も殊の外道真を頼りとされ重用された。

ここからの道真の躍進は、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。蔵人頭就任から二年後に参議、その二年後に従三位中納言、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進。道真は宇多天皇藤原時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた。宇多天皇は道真に全幅の信頼を寄せられて、殊の外頼りにされたが、天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされたに違いない。しかしこれが文人いわば学者であった道真の終わりの始まりであった。道真は守旧派からは疎まれ、また同じ学者の側にも妬まれたのである。道真は真面目な人であった。ゆえに頑固一徹な面も兼ねており、その実直さが敵を作り、味方がなかった。道真の生真面目さが、東風吹かば〜の歌にも、百人一首の歌にも、とても良く表れていると思う。

道真は累代の為政者の勢力ではない。対して藤原北家の時平は奈良朝以来天皇家を一番近くで支えながら、もうそろそろ隙あらば天皇は権威だけとして奉り、その権威を背景に全権を掌握するべく、虎視眈々動き出していた。藤原北家を頂点に公卿を輩出してきた上級貴族を権門と云い、中級以下で公卿にはなれない貴族は寒門と云う。道真はその寒門から突如閃光を放ったが、その光はまことに一瞬の輝きであった。

藤原時平は、貞観十三年(871)基経の嫡男に生まれ、幼い頃より政治家としての素養の片鱗を多分にみせ、基経も時平に期待して英才教育を施した。いわば藤原北家の期待のプリンスであり、朝廷廟堂において誰もが一目置く存在であり、エリート街道驀地である。十六歳で元服すると、翌年には従四位下右近衛中将に任命され、宇多天皇が即位時に蔵人頭、二十歳で公卿に列した。翌年基経が死去するが、時平は若年のため摂関は置かれず、宇多天皇はこれ幸いと親政をとられ、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられている。寛平五年(893)、中納言兼右近衛大将となり、敦仁親王東宮になると春宮大夫を兼ね、寛平九年(897)正三位大納言兼左近衛大将に昇進した。また前年に藤原良世が引退し、空席となっていた藤氏長者には時平が就いた。

御室仁和寺にて表向きは隠居された宇多法皇の後を継がれたのが醍醐天皇である。この時十三歳、いまだ紅顔の少年であられた。宇多法皇は譲位に際して醍醐天皇に『寛平御遺戒』という訓戒を授けられている。君主としての振る舞いや日常生活、そして政治の心得が説かれている。そこには若年ながらも政治手腕が期待できる藤原時平と、学問の素養高く政策に精通した菅原道真の併用を指示しながらも、特に道真を頼みとするように諭されている。両名は醍醐天皇の即位時に関白に準ずる内覧となり、醍醐天皇もまた先帝の訓戒を忠実に守ろうとされた。一方で時平と道真のみに政務が委ねられたことにますます反発した他の公卿たちは廟堂に出仕しなくなり、宇多法皇が勅を出すことでようやく復帰したという事件も起きている。ことに寒門道真に対する僻みとバッシングは凄まじいものであった。この事件に乗じたのは他らなぬ時平であった。事実時平は道真が自分と並ぶことを良しとせず、常に宇多法皇と通じていたことに憤りを感じ始めていた。権門たる藤原北家の時平は、藤原氏一門とそれに与する諸氏の反感を巧みに扇動して、自らにも向けられていた矛を道真のみに向かうべく仕向けた。これから道真に対する様々な讒言が飛び交うことになったのである。

昌泰ニ年(899)、時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に道真も右大臣となった。両者が廟堂の頂点に立った。が、やはり両雄並び立たず、道真は宇多法皇の側近の地位を引き続き占め、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に修復不能の亀裂が生じていた。また、時期は明確ではないが同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させているが、これには宇多法皇もさすがに反対されたが、それを押し切ってのことであった。

昌泰四年(901)正月、醍醐天皇は突如、道真を太宰府に左遷する詔を下した。理由は醍醐天皇を廃して娘婿の即位を企てた科である。役職は大宰権帥である。当時の大宰府は、九州の政庁兼軍事的な拠点のみならず、中国や朝鮮半島との交易の窓口であり、京の都に次ぐ枢要な地とされた。貿易盛んで町は活況を呈し、人々も豊かに自由に暮らしていた。大宰府の長官は大宰帥であるが、帥の職は親王など皇族が任命されるも、現地へは赴任せず京都にいた。したがって実際は権官たる大宰権帥もしくは、その次官たる大宰大弐が現場を取り仕切り、実質的長官であった。後の世のことであるが、平清盛も宋との貿易で巨万の富を得ることを悟ると、自ら大宰大弐に就くことを志願した。道真がこの職に左遷されたのは、前例があったからであると云うが、本来なら長官として大宰府を仕切れる権帥も、この左遷と云うケースの場合だけは職務を与えられず、いわばお飾りの閑職とされたのである。したがって道真が赴いたところで何の権限もなく、大宰府を仕切ったのは大弐であった。むろん道真もそれはよく理解していたであろう。『政事要略』には記された道真の罪状は以下の如し。

『右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収まり給へり。而るに止足の文を知らず専権の心あり。』

寒門出身ながら大臣に取立てられたにも関わらず、分をわきまえずに専横の限りを尽くしていると云うもの。

これを「昌泰の変」と云う。また道真の子と、宇多法皇の近臣らも流罪となった。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」と言ったことで、これが時平の陰謀であり、藤原氏ことに北家による他氏排斥をあからさまにした最大の事件であった。菅原家は父菅原是善の時代から藤原北家との関わりが深く、時平と道真は度々詩や贈り物を交わす関係であったのに、それでも時平を警戒させた理由は、宇多法皇醍醐天皇も、かなり道真寄りで、時平が蔑ろにされることが、どこかであったに違いない。基経も時平も文章博士としての道真を高く評価していた。道真の失脚は、藤原氏による他氏排斥の一環ではあるが、しかし時平のみの陰謀にあらず、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があったことが時平を後押しし、支配的な空気を決めていった。権力者たちはいつの世も猜疑心の塊であり、疑わずしては天下は取れず、権力の維持は不可能であることは歴史が示している。源頼朝は弟義経を疑い、足利尊氏は弟直義と息子直冬を疑い、いずれも死に追いやっている。徳川家康正室築山殿と嫡男信康を殺め、次男であるのに後を三男秀忠に譲らざるを得なかった結城秀康や乱行の六男忠輝を勘当し、大御所となってからも譜代の忠臣大久保忠隣が秀忠寄りであればあらぬ疑いをかけて改易し、伊達政宗に対しては死ぬまで警戒し続けている。藤原北家、藤原摂関家平安時代の半分以上を治め、栄華を築いたのは、猜疑心とそれを踏まえての行動がまことに巧みであり、権謀術数に長けていたからに他ならない。

道真の左遷は醍醐天皇のご本意ではなかったに違いないが、時平に屈するしかなかった。これを聞いた宇多法皇仁和寺よりただちに内裏へと向われ、醍醐天皇に翻意を促そうとされるも、内裏の門は固く閉ざされ、先帝とはいえ入ることはできなかった。法皇の参内を阻んだのは、道真とも親しい左大弁の紀長谷雄蔵人頭藤原菅根であったとも云われるが、彼らすら道真を擁護できないほど、朝廷は道真排斥が強い流れになっていた。宇多法皇仁和寺に戻られ、仏道に打ち込まれることになることは前回でも触れた。

失意の道真はありのままを受け入れて太宰府へと赴いた。或いは道真ほどの人物ならばこうなる少し前から、自分を排除する動きに気付いていたであろうし、その時点で弁明する気も失せていたに違いない。道真ならば弁明すれば論破も可能であったかも知れないが、もう道真には余力はなかった。左遷後のわずか二年後の延喜三年(903)、梅の香漂う二月二十五日に彼の地にて没する。享年五十九。

道真の居なくなった廟堂で、藤原時平は意欲的に政治改革に着手した。延喜二年(902)最初の荘園整理令を発布し、班田収受を励行、土地制度の刷新に努めた。また『延喜式』や『古今和歌集』の編纂を行った。醍醐天皇の治世を「延喜の治」と云うが、これは時平が政治力を存分に発揮したこと大である。その時平も道真の死から六年後、延喜九年(909)に三十九歳の若さで死去する。これが道真の怨霊によるとされ、以降はもっぱらその見解が取られるようになった。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落してゆく。時平による陰謀ならば道真は冤罪を被ったわけで、怨霊となって不思議ではない。

道真の死後、宮中では不吉なことが相次いで起こった。『北野天神縁起絵巻』には雷神となって怒り狂う道真が、清涼殿に落ちようとした時に、時平が抜刀して「そちは存命中は予の次の位にいた。いま雷神となってもこの世では予には遠慮すべきだ」と睨みつけたところ、鎮まったと云う逸話が載せられているが、実際には時平の死後、本当に清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貴が即死し、他にも死傷者が出ている。時平の死の前年に道真左遷に加担した藤原菅根が急死。次いで時平も急死。そして道真の死から二十年後の延喜二十三年(923)、皇太子保明親王が二十一歳の若さで薨去。この親王は時平の妹の穏子が生んだ醍醐天皇の第二皇子で、時平が己の権勢を高めるために一歳で皇太子となられた。保明親王薨去は道真の怨霊に違いないと噂され、醍醐天皇は道真の右大臣への復帰と正二位を追贈し、左遷の証書を破棄せしめ、慰霊鎮魂のため延長と改元された。保明親王薨去に伴い、その皇子の慶頼王が皇太子になられたが、何とその二年後に五歳で薨去されたのである。慶頼王の母は時平の娘仁善子である。その五年後、例の清涼殿落雷があって、その三ヶ月後、ついに醍醐天皇は四十六歳で崩御された。子や孫に先立たれての心労がたたってのことであったことは間違いないであろう。道真の怨霊を鎮めるべく、京都の北野寺の寺内社である北野神社に祀られることとなった。十世紀にはさらに正一位太政大臣が追贈され、北野神社はいつしか北野天満宮と呼ばれるようになった。また大宰府の道真の墓所の上にも社殿が造営され太宰府天満宮になった。この両社が天神信仰の中心であり、歴代の為政者から庶民にまで幅広く崇敬を集め続けている。今では学問の神様として受験生はもとより、海外からも注目されるパワースポットとなった。菅原道真は祟り神から福の神となって、日本人がいる限り生き続けている。

正気

七十五年目の終戦記念日

毎年のことだが八月に入ると、お楽しみは甲子園であるが、今年は新型コロナウィルスの影響で大会そのものが中止。交流試合を楽しんではいるが、やはり日本の夏に甲子園がないのはまことに寂しい。甲子園だけではない、文武を問わずあらゆる部活動において、これまでとはまったく違う夏になった。例年夏休みに予選が始まる吹奏楽コンクールやマーチングコンクールも今年は中止である。選手たちやメンバーの無念はいかばかりであろうか。察するに余りある。

お盆。迎え火を焚いてあちらへ行った大切な人をこちらへ迎え、盆の間共に過ごし、そしてまた送り火を焚いてあちらへ送る。私は日本の盆の風習が好きだ。こればかりは全国ほぼ似た形で行われているのをみても、日本の風土で培われたもっとも日本人らしい行いであろう。送り火の総代ともいえる京都の五山の送り火も、今年はかなり小規模にして行われるとか。もっとも主旨は何にも変わりはない。いつもどおりに迎えて、送れば良い。あちらの人々もわかってくれるであろう。八月は慰霊と供養の日々だ。先の大戦で亡くなられた方々への鎮魂も忘れてはならない。

立秋が過ぎた。蝉時雨闌。靖國神社千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ参拝。終戦の日はどちらもかなり混雑するので、なるべくなら混雑を避けて、静かに参拝したい。私は右も左もないが、毎年八月の靖國参拝は欠かさない。誰の為か。自分の為か。未だによくわからないのだが、ここでのお参りは、戦犯とか関係もなく、すべての戦没者を追悼するのみである。靖國神社遊就館の前には、軍馬や軍用犬、伝書鳩の慰霊碑がある。彼らも戦争の犠牲者である。愚かな人間が巻き込んだことを思うと、手を合わせても負い目を感じてしまう。ごめんね。

北の丸の濠端を歩いて千鳥ケ淵戦没者墓苑へ向かう。厳めしい靖國神社と違って、こちらは無宗教の国立墓地。いつ来ても人影まばらで、心静かに戦没者を慰霊できる。東京でこれほど清らかな場所はない。

俘虜記、野火、レイテ戦記など戦争文学の金字塔を打ち立てた大岡昇平は晩年言った。

「戦後日本は一億総中流となった。それはまことに結構なことである。皆、多少浮かれても仕方がない。だが、八月六日の広島原爆の日、八月九日の長崎原爆の日、そして八月十五日の終戦の日、せめてこの三日間だけは、日本人は正気を取り戻さなければならない」と。

大岡は自らもフィリピンのミンドロ島へ従軍し、マラリアに感染しながらゲリラ戦を戦い、ついにアメリカ軍の捕虜となり、奇跡的に生還を果たした。大岡が招集されたのは昭和十九年三月のことで、もはや敗戦濃厚の時、妻子ある三十五歳であった。もう戦地に送り込む若者はほとんどいなくて、中年にも赤紙が届くようになっていた。泥沼の大戦で亡くなった日本人はおよそ三百十万人あまり。このうち二百四十万人が海外の戦地で亡くなっている。途方も無い数だが、実はもっといたに違いない。特にフィリピンと中国本土は凄まじい数だ。止められなかった戦争で、犠牲になられた方々のおかげで私たちは生きている。

上皇さまは大岡昇平の言った三つの日に、六月二十三日の沖縄慰霊の日も加えられて、”忘れてはならない四つの日”とされ鎮魂された。

今や正気を失った日本人。かくいう私もそうだ。大岡昇平の言葉は、八月になると私を覚醒し、この場所へ連れ戻してくれる。日々の暮らしが激変した今年だからこそ、私は靖國と千鳥ヶ淵へ来たのだ。八月六日から八月十六日まで日本は静かになる。高らかに響くは蝉時雨だけ。その声はあたかも戦没者へのレクイエムに聴こえる。

皇位継承一摂関始動と寛平の治一

摂関の歴史は平安時代に始まり、明治維新まで続くが、平安時代は摂政と関白と云う、公家臣下の最高職を巡って数々の権謀術数が図られ、ついに権門と呼ばれて権力を独占し、日本史上もっとも華麗に活躍した時代である。同時に王朝文化を築いた立役者は、何よりもそのパトロンと成り得た藤原氏一門に他ならないのである。日本の歴史、文化を鑑みるにつき、これは極めて重要なことである。中国文化への憧れから自然と脱皮し、国風文化が花開いたのも平安時代。後ろ盾にはむろん藤原摂関家がいた。藤原氏は影に日向に、このあと千年も日本史の中枢にいることになる。

ともあれこうして藤原北家による為政者としての世襲体制が一応は完成した。藤原基経陽成天皇を後見し、実質的に自らが天下に号令する。あとは簡単であると思っていた。しかし陽成天皇は成長するにつれ粗暴になり、奇行も目立つようになる。ついに基経は摂政の辞表を出して出仕しなくなった。これに公卿ら も同調し、一年余りも朝廷は混迷し、政治的空白が生まれてしまった。その矢先陽成天皇が乳母子を手打ちにするという事件が起こる。ここで基経が動いた 。天皇の廃位を決断し公卿らを取りまとめ、表向きは病と称してついに陽成天皇は退位された。御年わずか十七歳である。この事は愚管抄にも書かれており、 信憑性は高い。この後、八十二歳の長寿を全うされるが、何とも長い長い余生である。常人であればおかしくなるところだが・・・。

 後を継がれた光孝天皇は、仁明天皇の第三皇子時康親王で、元慶八年(884)、御年五十五歳で即位された。これは平安王朝では最年長である。この年、仁和と改元された。光孝天皇はいかにもピンチヒッターとしてのご即位であった。当初はまさか御自身が皇位に就かれるとは夢にも思われておらず、固辞されたが、皇族と公卿全員が三種の神器を持参して強く即位を要請したため、ようやく了承された。光孝天皇はさすがに年を重ねて、これまで数限りない宮中の陰謀、謀略を眺めてこられたからか、良識ある穏やかな帝であった。 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ 百人一首にも挙げられているこの歌は、光孝天皇が詠まれた。光孝天皇は廟堂に再び戻った基経ともたいへん良好な関係で、天皇は基経を立てながら事実頼りとされた。この時基経は実質的な関白であり、関白の始まりとも云われる。しかし、この穏和な帝は仁和三年(887)即位よりわずか三年あまりで崩御される。

光孝天皇は、ピンチヒッターであることをよく自覚されておられたようだ。次の天皇陽成天皇の同母弟の貞保親王嫡流に皇統が戻ることを望まれて、皇太子を立てなかった。子女をことごとく臣籍降下させていることからも、いらぬ争い事は御免被りたかったに違いない。そこには筋道を違えずと云う御人柄も偲ばれる。が、世はそうキレイには運ばない。継がれたのは宇多天皇である。宇多天皇光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘班子。定省王と称したが、例の臣籍降下により源氏姓を賜り源定省となった。陽成天皇に侍従として仕えたが、父帝の容態芳しからず折、藤原基経は、帝の内意は皇位を継ぐべきは源定省であるとして、ただち擁立に動き、瞬時に廟堂もこれを全面的に支持するべく取りまとめた。この裏では基経の妹で後宮を牛耳る尚待藤原淑子の働きもあったとされる。こうして基経に推挙された源定省は、仁和三年(887)八月二十五日に親王、翌二十六日に立太子、同日父帝崩御により践祚、十一月十七日に二十一歳で第五十九代天皇として即位された。同日に立太子践祚が行われるなど異例中の異例であり、そもそも臣籍降下した皇子が皇位を継承することも稀で、これが初めてのことであった。

宇多天皇は基経の功に報いるべく、「万機巨細皆基経に関白(あずかりもう)させる」旨の詔を発した。これは政のすべてはまず基経を通してから奏上するようにという意味である。天皇に代わって関白が政務を総覧する。先にのべたように、実際は陽成や光孝天皇の時代にすでに始まってはいたが、「関白」と云う言葉が使用されたのはこの時が始まりである。しかしここでひと悶着が起こる。当時、このような詔を受けた場合、謙譲の美徳を表すために、三度辞退を表明する慣わしがあった。極めて東アジアらしい、いや日本ならではの慣習である。基経も型どおりに上奏文を提出し、関白辞退を申し出たが、これに宇多天皇も型どおり、改めて就任を依頼した。その勅答の文章を起案したのが、文章博士橘広相と藤原広世で、その文章に含まれる「よろしく阿衡の任をもって卿の任となすべし」という文言が問題を引き起こした。「阿衡(あこう)」とは、中国の古典に由来する役職名で、殷の宰相の官名である。しかし、この阿衡には特に定まった職掌はなく、名誉職との意味合いも含まれていた。これを家司で文人として有力なブレーンである藤原佐世から聞いた基経は、名誉職では政治をみれないといって、引き篭もってしまい、朝廷に出仕しなくなった。これにより若い宇多天皇を奉戴する廟堂は政治が停滞、実に馬鹿馬鹿しいことだが、何とそんな状態が一年にも及んだ。これを「阿衡の紛議」と云う。が、実はこの引き篭もりこそが基経の策略の一端ともとれるのである。

焦燥の宇多天皇はあらゆる手立てを尽くして、基経が機嫌を直して出仕してくれるように努められたが、基経はいっこうに出てこない。ついには阿衡の文言を使用したことは本意ではなかったとされて勅答を撤回され、広相を解官した。だがこれは宇多天皇の御本意ではなく、日記には「朕ついに志を得ず、枉げて大臣の請に随う、濁世の事かくのごとし」、「朕、これを傷むこと、日に深し」と嘆息されている。本来宇多天皇は自らを皇位に就けてくれた基経に対して好意的であられたし、基経も天皇に対して敵視することはなかったはずが、なぜこうなったのか。それは阿衡の紛議に発展はしたが、実際は藤原北家の専横をよく思わない橘広相ら他勢力の謀を、未然に察知した基経の意趣返しであったと思われる。さらには関白と云う職がこれを契機に名誉職とならないよう、政治の実権を握る最高職であることを明確に世に示す狙いもあったであろう。関白の権威と権力を磐石にするために、基経はあえて一芝居打ったのである。事実、この紛議を口実に、勅答を草案した橘広相を追求し、影響力を弱めることに成功した。橘広相は当時学者官人として名を馳せており、娘の義子を宇多天皇の女御として入内させ、三人の皇子をもうけるなど、着々と廟堂での基盤を固めていた。これに最高権力者の基経が警戒しないわけがない。広相もまた、目の上のたんこぶである基経の追い落としを企図してもおかしくはない。しかし影響力を多少削いでも、いずれ三人の皇子の誰かが皇位を継承すれば、外戚となる広相は基経にとって大いなる脅威である。基経はこの段階ではまだ外戚ではなかった。基経はあくまでも橘広相流罪を求め、以前として職務復帰をしなかった。これに動いたのが 当時讃岐の国守であった菅原道真であった。

基経と親交のあった道真は、基経に手紙を送り基経の徳を称え、橘広相を弁護し、この紛議は藤原氏の将来に悲しむべきものと諌めている。ここでようやく基経は折れて、一年ぶりに朝廷に出仕、宇多天皇のもとに娘の温子を入内させて、天皇と和解した。これにより関白基経の権力が固まったのである。とはいえ、阿衡の紛議を機に、宇多天皇と基経のあいだには大きな溝ができたことは当然であろう。事実、天下の大政は天皇ではなく、藤原氏のものであると云う印象が強まり、廟堂は基経を中心に政が行われた。

寛平三年(891)正月、初代関白藤原基経死去。基経の後は嫡男時平が継いだが、いまだ若年にて、ここにようやく宇多天皇の親政が始まる。時平は若干二十一歳で参議になったばかり。一方、菅原道真に期待を寄せた宇多天皇は、基経亡き後、道真を讃岐国より呼び戻された。道真は四十七歳で蔵人頭に抜擢される。むろん藤原氏抑制のためである。ここから道真は飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進する。蔵人頭就任から二年後に参議となり、二年後に時平と並び従三位中納言となり、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進した。そしてさらに二年後の昌泰二年(899)、成長した藤原時平左大臣に就任し、宇多天皇と時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた菅原道真が右大臣に昇進、廟堂の頂点に立ったのである。こうすることで宇多天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされた。結果、このあと四十年間も摂関が置かれていないので、宇多天皇の目的はひとまず達成されたといえよう。権門藤原氏以外の人間、いわゆる寒門である道真が右大臣に就任するのは極めて異例であったが、この先の話しは次回記そう。

宇多天皇は意気盛んであられた。もともと英明であられたが、菅原道真藤原保則らすぐれた文人派官人を積極登用し、廟堂に新風を吹き込まれたのである。基経が敷こうとした摂関政治のレールはここでいったん途切れかけることになる。それほどに宇多天皇の活力と政治力は大きくなっていた。子女も多く設けられ、後に臣籍降下され源氏姓を賜り彼らは「宇多源氏」と称された。宇多天皇は在位中に綱紀粛正、民政に努められ、文運を興された。その治世は「寛平の治」と呼ばれる。

天皇は深く仏教に帰依されて、厚く真言密教を敬われていた。それは父帝光孝天皇の影響でもあった。「仁和の帝」と呼ばれた父帝は、仁和二年(886)に当時小松と呼ばれていた御室の地に伽藍建立の勅命を下された。が、翌年崩御されたため、宇多天皇がこの伽藍造営を見届けることになった。仁和四年(888)八月、落慶供養が行われ、仁和寺と称される。以来、仁和寺宇多天皇の後半生において、重要な場所となる。仁和寺とはまことに柔らかな響きであり、王朝の雅を感じさせる。京都には門跡寺院が多くあるが、仁和寺はその筆頭として高い寺格を誇ってきた。私も仁和寺が好きで、何度も訪ねている。広い境内はいつ行ってものびのびとした開放感に包まれるが、柔和な気品が随所に鏤められているのは、千年の昔から少し変わってはいないと思う。

ここで宇多天皇は「もう政治に口出ししない」と仰せになり、十三歳の東宮敦仁親王に譲位され出家、仁和寺に入られた。そして上皇ではなく法皇と敬称される。法皇となった天皇宇多天皇が初例である。この後実に三十五年、宇多法皇仁和寺に住されながら、煩わしい政務から逃れて、空海東密を究められ、真言密教の発展に尽くされた。そして和歌や文学に親しまれた。法皇の住された僧坊は「御室御所」と称される。三十一歳の宇多天皇がなぜ突然出家されたのかはいまいち明らかではないが、嵯峨天皇大覚寺に嵯峨御所を営まれた顰に倣い、表向きは隠居とみせながらも、あくまで政治も文化もその中心のサロンは御室に置き、権謀渦巻く廟堂の中枢を離れたほうが、何かとやりやすかったのではないかと思う。事実、政治に口を出さないと言われながらも、譲位された醍醐天皇を補佐し、知識人を御室御所に招いて議論したり、歌会を催された。この頃、御室仁和寺は政治、宗教、文化の中心であった。

 

茶の湯憂患

私は茶の湯の稽古を始めて五年目になる。不器用で飽きっぽい私が、曲がりなりにも五年続いた。それは茶の湯の大いなる魅力に取り憑かれ、茶道という伝統の道の灯を学ぶことに喜びを感じ、その灯を微力ながらも支えていきたいと云う気持ちに駆られたからである。そして尊敬できる師と、良き同志となる茶友に出逢えたこと。これが何よりも大きい。茶道の型を身につけて、頭で考えずとも、手が自然に動く。このところ濃茶手前の稽古をよくつけてもらうようになって、ようやく型と云うものが私も頭ではなく、我が身に沁みてきたところであった。その矢先に、新型コロナウィルスが蔓延して、やむなく茶の湯の稽古は中断された。世界中を震撼させる見えないウィルスに対して、人類は慄いている。有効な治療薬やワクチン開発に懸命に取り組んでいる方々や、自らも危険に晒されながらも、最前線にて患者を受け入れてくださる医療機関と関係者の方々には敬服するばかりであり、無力な自分と自粛してさほどの時間はたっていないのに、こんな体たらくの我が身を恥ずかしくも思う。

しかしコロナ以前、茶の湯は白秋期に入りつつある私の人生においてなくてはならない、何よりも大切なものであった。きっと誰しもそうしたものがあるであろう。茶の湯の世界に少しずつ足を踏み入れてゆくに連れて、私は茶の湯の虜になった。五年目となるこの節目の年に私は自らが亭主となり、先生を御招きしてささやかな茶会を催すつもりであったが、残念極まりない。

今「コロナ禍」としきりにいわれる。禍とはワザワイと読み、災いのことであるが、この禍が続く限り茶道界も大変な危機である。茶の湯は人と人が密接に触れ合う。亭主は一服の茶で客をもてなすために、思考を凝らし、自然な形、詫びた風情、静寂な雰囲気を演出するために腐心する。これを心尽くしと云う。もてなしを受ける客もまた全身で亭主の心尽くしを汲み取り感じるべく、五感を研ぎ澄ます。その日その時その人との茶事茶会はただ一度きり。亭主と客がその座を創りあげる。これを一座建立と云うが、これが茶の湯なのである。さらに一期一会とはまことに真なる意で、茶の極意はこの一語に尽きると思う。

余談であるが、疫病の封じ手として密閉、密集、密室の三密回避が喧伝されているが、密教にも”三密”と云う言葉がある。人間の生命現象は身体、言葉、心という三つのはたらきで成り立つとされる。ちなみに顕教では、これら三つは煩悩にて穢れているとされ”三業”と云う。密教では大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象のすべてが大日如来の現れとす。よって人間の三つのはたらきも本質的には大日如来と同じであるが、大日如来のはたらきは人間には計り知れないため、”密かなるもの”という意味で「三密」と云う。また仏と自己の三密を合致させ、仏と一体になる行を「三密加持」と云う。手に印を結ぶ「身密」、口に真言を唱える「口密」、そして心を仏の境地に置く「意密」の三行である。弘法大師は、この行で授かる功徳と大日如来の加護の力が互いに呼応する時、即身成仏が成ると説いた。

茶の湯は蜜である。茶室は密室であり、亭主と客、客同士は狭い空間に密集する。茶の湯のメインたる濃茶は、亭主が心を込めて練り上げた一碗を客一同が廻し飲みする。茶の湯の真髄は濃茶であって、濃茶でもてなすべく茶事は進行される。茶の湯のもてなしは密接なくしてありえない。コロナ以後、茶道界はかつてない危機であると私は思っている。茶道各流派は江戸期、大名家や武家の茶道師範として仕えた。私の習う表千家は、代々紀州徳川家の茶頭を務めていた。京都のお家元の表門は、紀州十代藩主徳川治宝が御成の際に紀州家によって建てられた。しかし明治維新で武士がいなくなった時、表千家も他流も茶道は一時風前の灯となった。しかし、公家や武家の上流階級や豪商の嗜みであった茶の湯は、広く庶民にも門戸を開き、習い事として普及してゆくことになる。それを支えたのは、明治維新の元勲や新しい財界人たちでもあった。昭和の戦争時代は自粛となり再び灯が消えかけたのだが、戦後、女子の花嫁修行のひとつとして茶道は人気となり、茶道界はかつてない活況を呈した。昭和後期には茶道人口も過去最高となった。

こうして幾多の難を乗り越えてきたのは、茶道界に限ったことではない。それぞれが創意工夫を凝らし、その道に関わり、愛好するすべての人々が一丸となって困難に立ち向かい、超克してきたからこそ遺り、発展したのである。茶道界は今、三度の危機である。まことに僭越かつ微力ではあるけれども、茶の湯文化が廃れてゆくことがないように、お家元をお支えし、これからも師についてゆき、同志と共に稽古に励む所存である。また、茶の湯が世の人々に理解され、再び受け入れられ、日本の大事な伝統文化の一端として、決して廃れることがないように、奮励努力したい。五百年近くもある日本の茶の湯は、そう簡単に廃れはしないし、まして若輩の私ごときに出来うることなど限られてはいるが、これを超越した先に、『私の茶の湯』があるものと信じている。