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弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

天賦の奏に解かされて

今日は早くも重陽。残暑厳しい日が続いているが、夜もすがら虫たちの涼やかな合奏を聴いていると、近くに秋を感じてうれしく思う。この夏、紀尾井ホール三浦文彰君のヴァイオリンを聴いた。若くして溢れる才能を滾らせた、実に堂々たる彼のヴァイオリンをついにライブで聴くことが叶った。私にとっては、今年もっともエキサイティングでロマンティックな時間であった。私は心底胸を打たれると、しばし放心状態となり凍り付いてしまうことがある。凍り付く前に何とか文章にしようと試みるが、なかなかうまく言葉を紡げない。それは音楽であったり、絵画であったり、時に風景であったりする。今から七年前になるが、長い間憧れていた京都の高山寺へ初めてお参りした時も同じような気持ちになった。また昨年、敬愛する井伊直弼公の足跡を辿るべく、彦根を旅したのだが、やはり凍り付いてしまっている。何から文章を起こせばよいかわからないのである。簡単には語りたくない、語れない、大切に思えば思うほど書けないことがあるものだ。それは言い換えれば、言葉は余計で必要のないもの、私自身が納得して芯から感じ入っている証でもあった。こういう場合、生涯書けないかもしれないし、ある日ふと書くのかもしれない。そしてまた、三浦君のヴァイオリンは簡単に文章にできぬほど神韻縹渺たるものであった。

しかし、どうやらその三浦君のヴァイオリンが凍り付いた私をゆっくりと解かし始めたようだ。彼のヴァイオリンを聴けば聞くほどに溶解してゆく心地がする。そしてやっと少しずつではあるが、書いてみようという心持ちになってきた。無論、私の拙い文章力では、彼の迸る才能について何も言い表せないのは重々承知している。それでも書いてみようと思うようになったので少しずつ書いてみよう。

パガニーニはその超絶技巧を悪魔と契約し手に入れたと言われ畏れられた。人々は彼がヴァイオリンを奏でると十字を切ったとも言われる。しかし、三浦君のヴァイオリンはそういうものではない。低音は重厚でありながら、高音はどこまでも柔和で優しい。その音色は決して邪悪なものに憑かれた音ではない。喜び、哀しみ、花鳥風月、そして寂莫を切り裂く日本刀のような鋭さ。動はダイヤモンドの様に硬く、静は琥珀の様に柔らかい。聴衆を極限まで惹きつけておきながらも、何者も近づけぬ圧倒的なオーラがある。天賦の才を持ちながら、他の追随を許さないのは、弛まぬ努力と決意に人生を捧げているからであろう。彼のヴァイオリンからはそういうものが澎湃として湧き上がってくるのを、私は感じずにはいられなかった。

三浦君は両親ともにヴァイオリニストの家に生まれた。彼には生まれた時から傍にヴァイオリンがあった。幼少の体験はその後の人生において、多大な影響を及ぼすもの。私如きも、両親が離婚し、決して家庭円満な我が家ではなかったが、菩提寺の付属幼稚園に通ったことが、今の今まで私が仏教に関心を寄せる出発点となったのは間違いない。これも一つの仏縁であったと思う。小学生から高校生にかけては、ピアノを少しばかりと吹奏楽部でクラリネットやアルトサックスを吹いていた。当時の私はひたすら楽器に専心した。青春は楽器を演奏することだったと言って良いだろう。この経験がクラシック音楽への誘いとなり、ほんの入り口には過ぎぬが、西洋音楽に関しては全くの無知ではない。

最初に自分で買ったクラシックがカラヤン指揮のベルリンフィルベートーヴェンの第五番とビゼーカルメンであった。これが私の音楽鑑賞の源である。小学五年生でカラヤンに惚れ込み、ベルリンフィルを聴きこんだものだ。自分でも演奏したことのある、バッハ、ベートーヴェンブラームスホルストは若い頃から本当によく聴いた。それからパガニーニショパンビゼーチャイコフスキードヴォルザークスメタナサンサーンス、リスト、ラフマニノフハチャトゥリアンはずっと好きだ。モーツアルトハイドンは何故か食わず嫌いであったが、大人になってから小林秀雄大岡昇平の文章を読んで、改めてじっくりと聴いてみると、やはり筆舌に尽くしかねるものを感じているところだ。これらの大作曲家についてはいろいろと思うところもあるので、これからは少しずつ入っていきたいとは思っているが、果たしてこの先どうなるかはわからない。私の音楽遍歴は極めて偏重で浅薄であるが、流されるようにその時々の心身が希求したものを聴いてきた。これからもそうなのであろう。

私自身が管楽器を吹いていたこともあり、弦楽器はほとんど踏み込めない領域にあった。中でヴァイオリンはオーケストラの花形。楽器自体が崇高に思えていたので、遠くから拝むといった風なのだが、個人的にはハイフェッツフランチェスカッティを愛聴してきた。私はその術中に嵌り、魔法にかけられたおかげで、すっかりヴァイオリンという楽器のプリンスに魅了されてしまった。そして今、三浦文彰君を知った。もう彼のヴァイオリンの虜である。

今回のコンサートで三浦君が演奏したのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調Op.64。ジュニアオーケストラとのコラボであったが、オケの少年少女たちもまた、三浦君に刺激を受けながらリードされて素晴らしい演奏。円熟とか卓越とかとはほど遠いのだが、むしろ初心で純真な奏は私には好ましかった。それからメンデルスゾーンである。この度の演奏を聴いて、私のメンデルスゾーンに抱いていたものは根底より覆えされてしまった。メンデルスゾーンにはこれまでさほどの関心もなく、金持ちボンボンの道楽の音楽くらいに思っていた。生ぬるい音楽というイメージだ。だが果たしてそんなものではなかった。これほどに荘厳なる悲哀を秘めた音楽であったのかと、今ではすっかりメンデルスゾーンに落ちてしまった。これも三浦君のヴァイオリンが教えてくれたのだ。私はどうもコンチェルトが好きで、ピアノやクラリネット、トランペット、ホルンなども本当に良いのであるが、世界三大ヴァイオリンコンチェルトに挙げられるこの曲を聴いて、個人的にはコンチェルトはやはりヴァイオリンに極まると思った。

私の逢いたい人や尊敬する人は歴史上の人物や作家など、その多くがすでに鬼籍の人ばかりなのだが、三浦文彰という天才と同時代に生きていることに、私は無上の喜びを感じている。彼の存在する時代を生きたことは、後世の人々に誇れる財産である。そう思える人は、好きな競馬の武豊騎手やスポーツ選手やアーティストにも何人かいるが、彼らは皆、およそ一般とはかけ離れた人智を超えた境地にいる。三浦文彰君もまたその中の一人である。これから彼のヴァイオリンはどうなっていくのだろう。とても湧く沸くしている。私に生ある限り、三浦君と同時代に共に在ることは、私の生き甲斐であり続けるだろう。三浦君のヴァイオリンは現在の私の精神を均衡に保つための最良薬なのである。