弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 高田本山

日本仏教の本山を巡礼するこのシリーズは久しぶりである。まあ、私の人生と同じく気の向くままに訪ねている。先日、伊勢神宮参拝して、その夜は津市に泊まり、翌朝、一身田にある専修寺を訪ねた。専修寺浄土真宗高田派の本山で、通称高田本山と呼ばれている。一身田は津から紀勢本線で一駅であるが、私は津駅からバスで一身田に入った。そしてこの町の実にノスタルジックな佇まいに、いっぺんで虜となったのである。一身田は「いっしんでん」とも「いしんでん」とも読む。一身田とは奈良から平安時代にかけて、律令制の土地公有において、政治的に功績ある者一代に限り朝廷から租を免除されて賜った田地のことで、郷土史ではここの一身田は伊勢神宮の荘園で、神宮に米を献上していたことから、おそらくは伊勢の斎王より賜った可能性があるとされる。今は住宅がずいぶん建て込んでいるが、かつては広大な田園地帯であった。この土地の風光はまことに良い。東に伊勢湾、南に伊勢、北から西へかけては長大な鈴鹿山脈が横たわっている。そこに開けた平野は肥沃で、伊勢の神々に捧げる米を造るには風土的にも適した場所であったに違いない。

京都から伊勢への一番の近道は、東海道草津から鈴鹿峠を越えて、関宿追分から伊勢別街道に入って南下し、窪田宿を経て江戸橋から伊勢街道へ至るルートであろう。一身田はその窪田宿にあり、鈴鹿の嶺を越えて旅人がホッと一息つける地でもあった。名古屋から桑名を経て伊勢へ向かう途中も、中間地点にあたるから、窪田宿の賑わいが偲ばれる。今では鉄道や道路が発達し、一身田を素通りして津市内や伊勢へ行ってしまうため、陸の孤島とまでは言わないが、風情ある古い町並が遺された一身田は、まるで真空地帯である。ここに専修寺がある。現在はあまり観光客には知られておらず、静かなのは私には何よりであった。

浄土真宗は大きく十派に分かれる。門徒数では最大が京都の西本願寺本願寺派、次いで東本願寺大谷派で、その次が高田派である。親鸞は師法然とともに念仏に対する弾圧を受け、法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流された。後に許されるのだが、親鸞は京へは戻らずに妻恵信尼や子供達を連れて、坂東に根を下ろすことにした。越後から信濃を経て、上野、下野を通過し常陸国に入り、筑波連山の北側の稲田の地で、予てより親鸞に帰依していた稲田郷の領主稲田頼重を頼って安住する。親鸞は四十二歳から二十年間東国で布教した。今、稲田御坊西念寺が建っているあたりが親鸞が坂東で最初に住み始めた場所である。稲田と云うところは至近に笠間稲荷神社もあって、昔から神仏と筑波加波の山岳信仰を取り入れた霊地である。筑波嶺の秀麗な姿を眺めながら、親鸞は思索に耽り、この地で親鸞の専修念仏の大綱たる教行信証を著した。西念寺のすぐそばにある稲田神社がその場所と云われている。西念寺から車で三、四十分くらいの栃木県真岡市高田の地で親鸞はさらに教義を広めていった。多くの信者や弟子を獲得しはじめた地とされ、そこにも専修寺がある。実はこちらの専修寺高田本山の祖院であり、本寺専修寺と呼ばれている。

 親鸞は四十二歳頃からおよそ二十年、坂東各地を行脚し専修念仏を広め、徐々に浸透していった。真佛や顕知など多くの門弟を育て、布教の根拠として道場を建立した。それが嘉禄二年(1226)のことで、親鸞五十四歳の時である。坂東各地にそうした草庵があったのだろう。親鸞はそのようにして坂東に専修念仏の種を蒔いていった。高田から親鸞の仏教=浄土真宗は萌芽し、東国から東海地方に及んだのである。坂東こそが浄土真宗の始まりの地なのである。親鸞は自ら一派を率いるつもりはなかった。己が仏道たる専修念仏を信じ、そのありがたさを人々に説き、皆が弥陀の本願を享受できるよう、分け隔てなく布教した。それはあくまで師法然から受け継いだと自負する浄土信仰と念仏なのであった。親鸞法然の仏教の伝道者の一人であったが、往生間際まで生と欲を捨てきれずにいた。この極めて人間らしいところが、人々を惹きつける魅力でもあった。また九十歳までいきた親鸞は、法然の他の弟子たちに比べて長命であったことも、ある意味においては専修念仏の礎を仕上げるには充分な時間であった。長命の親鸞に人々は神仏の加護を見たであろうし、ほとけそのモノであると崇め礼拝したのかもしれず、いつしか阿弥陀如来親鸞が信仰の対象として渾然一体となって、選択的一神教的へと変化していったのではないだろうか。浄土真宗親鸞が起こした宗派ではなく、親鸞を敬愛する子孫と弟子たちによって湧き上がってゆき、難しい教義はなく、ただひたすらに念仏のみがまことであることを説き広めた。ゆえに大衆的であり、我が国の歴史が降るほどに庶民の力が増すのであるから、当世、浄土真宗が日本仏教の最大の門徒や檀信徒を抱えているのも、宜なるかなと思う。

親鸞は晩年を生まれ故郷の京都で過ごし亡くなったが、坂東高田の門弟や信者は高田門徒と呼ばれ、いずれ真宗最大の教団になってゆく。一方、京都の本願寺派は、当時の日本仏教界において強大な力を有していた比叡山から睨まれ続け、事あるごとに排除された。比叡山から遠く離れた高田派は、さほど睨まれることもなく、東国において大きくなっていったのである。ところが、室町時代蓮如上人が北陸において本願寺を中興すると、雪崩の如く真宗各寺が本願寺へとなびき、本願寺派へ吸収されていった。そして本願寺専修寺も対立するようになる。高田派は本願寺派よりも先に北陸の地に教義を広めていたが、ほとんどを本願寺派に奪われてしまったのである。寛正五年(1464)、このことを危機と感じた当時の高田派のトップ真慧上人は、やはり高田派の道場が多くあった伊勢から程近い一身田に堂宇を建立し、西日本における根拠として無量寿院という寺を開いた。この寺が後に高田派本山専修寺となる。坂東高田の本寺専修寺は大永年間(1521~1528)に伽藍が焼失し、衰退の危機に立った高田派は、思い切って本山を一身田に移したのである。高田派は比叡山ともうまく渡り合い、その証として阿弥陀如来像を贈られている。それが、現在如来堂に祀られている本尊で「証拠の如来」と呼ばれている。その後江戸期にようやく本寺も復興された。

先年私は、稲田や高田の親鸞の足跡を歩いてみた。詳しくは前に書いた(2018/3/21の記事参照)ので省くが、稲田の西念寺には未だに親鸞の草庵の趣が見出されたし、真岡の専修寺は高田派の本寺としての風格漂っていた。高田のあたりも一身田ほどの規模ではないが、本寺専修寺を中心とした寺内町の面影がある。周囲には高田川(穴川)と小貝川が寺域を取り巻くように流れており、あたかも寺を守る濠のような形成をみせていたから、小規模な寺内町はあったと思う。

その寺内町に注目したい。室町以降に高田本山となってから、一身田には寺内町が形成され、今もその面影を色濃く残している。真宗寺院では、寺と町が共同体となって生活をする自治都市のスタイルが早いうちから確立されていた。このあたりが極めて閉鎖的でもあり、いかなる宗派や為政者とも一線を画し、門徒や壇信徒は寺へ奉仕し、寺を支えながら自給自足で暮らしたのである。寺もまた門徒を守り、仏縁を約束し、死者を弔い、先祖を供養し、人々の幸せを祈念する精神的な支柱となった。寺内町に住む子供達は寺で学び、寺で遊んだ。中世、近畿や北陸の浄土真宗の寺院は、方々に寺内町が形成された。ことに北陸の吉崎、井波、古国府城端畿内では石山や山科などが大規模な寺内町があったところである。為政者や他宗のみならず夜盗や山賊から、自分たちと信仰を守るために周囲を環濠で囲い、自衛したのである。常に寺と壇信徒は密接であって、寺が滅ぶ時は自分たちも滅びるという覚悟で生きていた。この運命共同体の思想が一向宗と呼ばれ、専修念仏や選択的一神教であると云われる由縁である。それは為政者からは危険な思想として嫌われ、織田信長などは徹底的に排除しようとした。それが諸大名にも浸透し、各地にあった寺内町は戦国時代の国盗り合戦を経て、いずれ城下町へと変わっていった。

ここ一身田の寺内町は、往時のままにほとんど完全な姿で町割が遺っている。私が先にノスタルジックな佇まいに魅了されたと言ったのも、新旧混在した建物や町割が、城下町でも門前町でもない寺内町独自のものが多分に遺されているからである。なぜ遺ったのか。それは高田派が一向一揆を起こした旧本願寺派と敵対していたからだと云われる。一身田の寺内町の始まりは、言うまでもなく真慧上人がこの地に無量寿院を建立してからで、それまでは先に書いたとおり広大な田地で、梵天宮と呼ぶ小社がぽつんと在るだけであった。梵天宮は今も町の鎮守として在る一御田神社のことで、ここには田楽で使われる古面や多数の棟札が残っている。一身田が高田派の中心と定まってからは少しずつ寺内町も発展してゆく。が、ここまで大規模になるのは、江戸期にこの地を領した藤堂家の力による。関ヶ原の戦いの武功により藤堂高虎徳川家康から津藩(または安野津藩)二十二万石を与えられた。さらに江戸城の天下普請や大坂の陣での尽力により藤堂家は外様でありながらも最終的には三十二万石にまで大きくなった。高虎亡き後、二代目の藤堂高次の四女いと姫が当時の専修寺門主堯円上人に嫁ぎ、寺の西側の土地が藤堂家より寄進されたことにより広大な境内となった。以来藤堂家の庇護を受けて巨大伽藍を建造されていったのである。環濠も整備され、今の町割の原形ができたのもこの頃であろう。環濠はおよそ五百メートル四方で、南側は毛無川を利用している。入り口は南の伊勢方面に黒門、西の京都方面に桜門、東の江戸方面に赤門の三箇所で、明け六ツに開門し、暮れ六ツに閉門した。かつてはこの風情ある町で時代劇や映画の撮影がよく行われたとか。

 真宗寺院はどこの寺でも感じることだが、寺は門徒檀信徒のための念仏道場であり、集会所であり、広く一般の人にも解放された公会堂なのである。この日も観光で訪れる人はおらず、境内も堂宇も独占させていただく。

私はまず鎮守である一御田神社に参拝し、環濠を廻りながら遠回りをして正面から境内に入った。山門前にはずいぶんと寂びた釘抜き門と云う矢来と石橋があって、山門まで続く石畳が風情を添えている。この釘抜き門と石橋が、寺の境内と人々の暮らす町との境であった。山門を仰ぎ見る。この大きな山門は仰ぎ見なくてはならない。さすがに日本仏教の一翼を担う高田本山らしい堂々たる山門である。山門は宝永元年(1704)の建立で、二階建ての入母屋造、楼上に釈迦三尊を安置する。専修寺には他に如来堂の前に勅使門である唐門と、境内の東に四重の櫓を持つ太鼓門がある。太鼓門には最上部に太鼓が吊られていて、昔はこの太鼓を鳴らして寺内町に時を知らせていたと云う。真宗の寺にはこうした太鼓門とか太鼓楼が設置されているところが多く、常は時を知らせ、一朝事あれば危急を知らせる役目を果たした。まるで城の天守か櫓を思わせる太鼓門はこの境内でもひときわ目を惹いた。

本願寺派大谷派では親鸞を祀るお堂を「御影堂ごえいどう」、阿弥陀如来を祀る本堂を「阿弥陀堂あみだどう」と呼ぶが、高田派では御影堂をみえいどう、阿弥陀堂如来堂(にょらいどう)と呼んでいる。ついでながら真宗では信者を門徒というが、高田派では壇信徒といい、真宗でいう同朋は同行ともいわれる。真宗寺院では本堂である阿弥陀堂如来堂よりも、御影堂の方が大きく造られている。専修寺もそうである。阿弥陀堂如来堂が祈りの場であるのに対し、御影堂は親鸞を慕い、親鸞に会える場、同時にそれは先に述べた門徒や檀信徒の念仏道場であり集会所なのである。一見アンバランスにも見えるのだが、浄土真宗寺院は、本堂である如来堂や阿弥陀堂よりも、親鸞を祀る御影堂のほうが倍以上大きく造られているのも、そうした理由からであろうし、真宗にとって親鸞と云う存在の大きさを堂宇によっても物語っているのかもしれない。本願寺派と高田派は経て来た歴史によって微妙な違いはあるが、宗祖は同じ親鸞であり、教義はほとんど同じである。山門を入ると一目では全体が見えないほど巨大な御影堂が圧倒的な重量感で目の前に迫ってくる。確かに本堂は如来堂であるが、どうしてもこの寺の中心伽藍はこの御影堂なのである。木造建築としては全国で五番目の大きさという御影堂内は、七百八十畳もあり、一度に二千人が参拝できる。内陣は金襴の柱や欄間で彩られており、シックな外観とは正反対の荘厳さに目が眩む。正面には明治天皇より親鸞聖人へ贈られた諡号「見真」の扁額。明治天皇は伊勢へ行かれる道中、専修寺を行在所とされた。内陣中央の宮殿(くうでん)と呼ばれる壇上には親鸞聖人の木像が安置され、その周りに高田派歴代上人の肖像が掛けられている。宮殿には扉が付いており、朝のお勤めの時に開かれる。これは如来堂本尊の証拠の如来を祀る宮殿も同じで、高田派の特徴であると云う。この大広間に参詣人は私一人であったが、寒々しいものは感じず、不思議と気持ちは落ち着いていった。この広さが広大無辺の阿弥陀如来親鸞という日本仏教に大いなる革新をもたらし、底辺まで下りてきた親鸞と云う人物の大きさを示しているような気がした。

専修寺の御影堂と如来堂は数年前に国宝に指定された。建造物としては三重県初だと云う。両御堂はこれも重要文化財の通天橋と呼ばれる美しい橋で結ばれている。如来堂は御影堂の半分弱の大きさであるが、高さは御影堂と合わせてあり二十五メートルもある。軒を組み物で支えた禅宗様式お堂は、一見二階建てに見えるが、屋根に裳階がつけられていて、さほど大きさの違いを感じないような工夫がなされている。屋根にも精緻な鶴の彫刻があって、私個人的には御影堂よりもこの如来堂のほうが仏堂としては美しいと思った。内部も御影堂に劣らぬ壮麗さで、ここでも私は一人で本尊の「証拠の如来」を拝むことができた。

如来堂の奥には親鸞聖人の御廟がある。廟所には親鸞聖人の歯が五本埋められているそうだ。御廟のさらに奥が壇信徒の納骨堂と雲幽園という庭園になっている。池が配されたこの庭には、安楽庵という茶室もあって、実に広々としているが、あまり手を加えず作りすぎていないところが気持ちいい。この庭は昔からあまり変わっていないような気がする。

専修寺には数多の寺宝があるが、中で親鸞真筆の「西方指南書」と「三帖和讃」は国宝で著名である。西方指南書には師法然の言葉、消息、行状が記されている。三帖和讃は七五調のメロディーに浄土や念仏について平易に表現したもので、いずれも親鸞が八十歳を過ぎてから記したものだと云う。親鸞は常に単純で平易、誰にでもわかるように専修念仏、易行念仏の教えを説き続けた。それを自らの生活で体現し、時には身を賭しても己の信ずる仏道を貫かんとした。ゆえに中世の人々を感動させて、長くここまで数珠繋ぎとなって、多くの壇信徒を得てきたのである。繰り返しになるが専修寺の大きな伽藍はそのまま親鸞聖人その人の大きさを感じさせてくれる。

それにしても静かな寺である。場所柄なのか、この日も観光客など一人もおらず、遠くに鈴鹿の青い峰々を眺めながら、興味津々と境内を歩いて廻るのは不躾な私のみであった。こんなに静かな本山も珍しい。境内の一角に高田幼稚園がある。無論、この幼稚園は高田本山の附属幼稚園である。私が行った時はちょうど幼稚園では親子ふれあいデーなるイベントが開かれていた。この古い寺内町の中で、子供たちはののさま(ほとけさまのこと)、親鸞さまに見守られて伸び伸びと育っている。何度も書いてきたことだが、私の生家の菩提寺浄土真宗本願寺派で、私はその寺の付属幼稚園に通った。朝に夕にののさま、親鸞さまに感謝しなさいと教えられ、南無阿弥陀仏と合掌しながら、賛美歌のような歌をみんなで唄うのが日課であった。あの歌は今でも口ずさめるし、死ぬまで忘れないだろう。子供の頃はそんな規律正しい生活を強制する幼稚園に辟易したものだが、大人になってみればあの幼稚園で通ったことはありがたいことであったと思う。私が今、日本仏教に関心があるのも、この幼児体験が多分に影響しているのは間違いない。かといって私は決して浄土真宗の熱心な門徒ではなく、念仏のみに依拠しているわけでもない。私は私の好きな日本の寺巡りを私の視点観点で廻っているにすぎないのである。今のところは他宗や他宗派の寺を巡りながら、日本仏教を多角的に見つめている。いずれ最期は浄土真宗に還ってくるのか来ないのか今の私にはまだ想像できないでいる。

この高田本山専修寺を訪ねて一番印象に残ったのは、寺と人のつながりである。寺内町という特殊な町並から生まれたその絆は、当初はその町内だけのものであったが、長い年月を経て、それは自然に町外へと波及しているように思う。 専修寺では坊さん方、寺で働く人や壇信徒の方々、寺内町に暮らす人たち、大人も子供も皆すれ違い様に気持ちよく挨拶を交わしてくれる。これほどの巨刹にして、高田本山には何とも穏やかな時が流れていた。私は晴々とした気持ちで初夏の専修寺をあとにした。