弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 智積院

空海真言密教は、現在は多くの派に分かれているが、中でも大きいのは十一派ほどである。その一つ真言宗智山派は、百五十万人を超える信者と三千近い末寺を抱える。智山派といえば、成田山新勝寺川崎大師平間寺高尾山薬王院大本山が有名であるが、総本山は京都東山の智積院である。関東では総本山よりも三つの大本山の方がはるかに知られていて、庶民信仰の聖地として賑わう。私も三大本山は幾度も参詣してきたが、智積院の門を潜るのは今回が初めて。智山派総本山の智積院がどんな寺で、信徒や関東の大本山からみればどんな存在なのであろうか。

日本仏教は、どの宗派も紆余曲折の歴史を経て今に至るが、真言宗空海入定後は迷走し、混沌とした時代があった。それは空海という存在があまりにも大き過ぎたことが、最大の要因である。空海の前に空海はいなくて、空海の後にも空海はいない。真言密教において入定とはすなわち、永遠の瞑想に入ることを意味する。空海自身、釈尊入滅から五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現出するまでは、高野山奥の院弥勒菩薩の浄土たる兜率天を往来し、衆生救済にあたると言って入定した。故に日本の今に在る真言宗とはほとんど空海密教であり、弘法大師を尊崇する大師信仰が主である。空海以後に宗教家としての指導者は生まれるはずは無く、現れる必要もなかった。が、少なくとも徳川時代までと、明治の廃仏棄釈を含めれば一進一退、離合集散を繰り返してきたことで、組織を牽引し改革するリーダーは折々にいた。

覚鑁は、現在につながる真言宗において中興の祖といえる存在である。肥前鹿島の地侍の子に生まれた覚鑁は、九歳で修行を始め、十三歳で上洛して、御室仁和寺成就院にて正式に仏門に入った。さらに南都へ行き、興福寺東大寺でも学んだが、空海真言密教に並々ならぬ関心を抱いていた覚鑁は、即身成仏を信じ、自らも空海大日如来と一体化することを念願した。そして二十歳で高野山へ登った。往生院に身を寄せたが、高野山にとどまらず、仁和寺醍醐寺三井寺など方々で師について、東密台密を学び、真言密教や加持祈祷を修した。真言密教は朝廷や時の権力者の尊崇を得て大きくはなったが、天台宗に比べて密教理論の研究は遅れていた。天台宗最澄亡き後も、円仁や円珍などの優れた後継者により、天台密教の研究と延暦寺の増力が進んだが、先に述べたとおり、真言宗空海が偉大すぎたために後が続かなかった。図らずも、袂を分かつことになった平安仏教の両雄が遺したものは、最澄は人と日本仏教であり、空海は即身成仏と真言密教であった。

覚鑁は早くにこのことに気づいていたに違いない。高野山へ戻った覚鑁は大いになる自信と野望を抱き、政治手腕と宗派の経営手腕を発揮した。時の専制君主たる鳥羽院の絶大な帰依を受け、高野山密教の大学の様な大伝法院と、念仏堂の密厳院を建立し、ついには金剛峰寺の座主になった。が、この大伝法院と密厳院の建立が火種となり覚鑁高野山を追われるのである。覚鑁はいろいろなところで、いろいろな師について、真言密教のみならず、浄土信仰の念仏も学んで、高野山ではその経験と学識を活かし、真言念仏の道場を開くことに心血を注いだ。大日如来阿弥陀如来を同名異体とし、真言宗から浄土宗を教理づけるものである。さらには空海という巨星に胡座をかいて、権力との癒着も公然となりつつある真言密教へ再び空海真言密教を取り戻すべく、覚鑁真言宗の立て直しを図るが、何時の世もどんな組織にも抵抗勢力はいるもので、金剛峰寺の在学僧らの反感を買い、覚鑁一派は高野山から追放されてしまう。覚鑁が金剛峰寺の座主となりわずか二ヶ月のことであった。いくら鳥羽院の後楯があったにせよ、覚鑁もまた空海回帰と称して強引に急ぎすぎた感がある。巨星を追い求め、それがやがて覚鑁自身の理想の仏教となり、真言宗のみならず真言密教の広大無辺な境地を持って、比叡山に代わる日本仏教の総本山を目指したのではなかったか。下野した覚鑁は、紀州根来の地に開いていた神宮寺に移り、四年の後の康治二年(1143)に亡くなった。享年四十九であった。

こうして、紀州の神宮寺は根来寺となり、東寺や高野山古義真言宗に対して、新義真言宗という一派が形成された。戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、六千人の僧侶、寺領七十万石と拡大した。智積院はこの根来寺の学坊の一つで、もう一つの妙音院と双璧の学頭であった。天正年間には、智積院を率いた玄侑と、妙音院を率いた専誉の二派に分かれ、前者を客衆、後者を常住衆と呼んだ。これが後に智山派と豊山派となるのである。 畿内の一大勢力となった根来寺は、天下統一目前の秀吉から疎まれ、天正十三年(1585)に攻められる。玄侑と専誉は衆徒を率いて高野山へ逃れた。玄侑はしばらく醍醐寺神護寺などへ移りながら、鳴りを潜めたが、秀吉が死ぬと、家康から許しを得て京都北野の地に智積院を再建した。

関ヶ原合戦の翌年の慶長六年(1601)に、東山七条の豊国神社の付属寺院と寺領二百石を与えられた。さらに豊臣家滅亡後の元和元年(1615)には、秀吉が創建した祥雲寺と、豊国神社の 境内、堂舎、宝器具のすべての寄進を受けて、智積院は京都に於ける新義真言宗の拠点として整備されていったのである。奇しくも秀吉に攻め込まれた根来寺は、京都の豊臣家の聖地を飲み込む様にして拡大したわけである。智積院背後には東山三十六峯の阿弥陀ヶ峰があり、ここに秀吉は眠っている。徳川幕府は豊臣家の遺構封じも兼ねて、敢えて此の地を与えたに違いない。明治の廃仏棄釈では智積院も波を受けて、往時からは相当に縮小され今の寺域となった。古義真言宗新義真言宗は統一され真言宗として、高野山、東寺、智山派、豊山派の四本山から管長を出したが、明治三十三年(1900)に真言宗智山派として独立、戦時中再び統一されたが、戦後はまた独立して今に至っている。

智積院三十三間堂の東、七条通りの坂上にあり、門前からは京都タワーがよく見える。長い武骨な石垣や総門は、京都にあって武家風の感じが色濃い。広々とした境内は観光客も少なく爽快である。祇園祭が始まったばかりの京都は息苦しい蒸し暑さであったが、智積院の境内へ一歩踏み込めば、涼風が吹いてきてホッと一息つける。智積院は花の寺である。春の桜、秋の紅葉はもちろん、私の行った日は、正門から本堂まで誘うように桔梗が並び咲いていた。桔梗は智山派の宗紋なのである。明王堂の真下の蓮池には蓮華が咲き誇り、本堂裏手の紫陽花の群落も蟬しぐれの中、残んの花を魅せてくれた。講堂奥の書院には池を配した美しい庭園がある。高低差を利用した庭は変化に富み、刈り込まれた躑躅は盛りの頃は見事であろう。池には一羽の大きな青鷺が、まるで石の彫刻のように微動だにせずに立っていた。

智積院には数多の寺宝があるが、何と言っても長谷川等伯と久蔵親子の襖絵は必見。今は収蔵庫にあるが、間近で鑑賞することができる。長谷川等伯は天文八年(1539)、能登国七尾で、当地を領した畠山氏に仕える奥村宗道の子として生まれた。下級武士の奥村家の経済事情はよくなく、幼い等伯は親戚を介して、染物屋の長谷川宗清の家に養子に出された。等伯は染色を通して色や絵柄に親しみ、絵心も備わっていた。幸か不幸か家庭環境が複雑ゆえに天才を育んでいったのだろうし、神仏はそうした等伯に天賦の才能を与えた。青年になると日蓮宗寺院の仏画や人物画を描いて、その腕は能登国では有名になりつつあったが、其処に飽き足らない等伯は、養父母の死を機に、己の求める絵の追求のために、四十一歳にして家族を連れて上洛する。当時の四十一歳といえば、もはや隠居して余生を楽しむ頃だが、等伯の絵に対する情熱と執念こそが、絵師の真骨頂なのであって、長谷川等伯という巨人はこの時に誕生したのである。やはり京都で勝負したいと強く思ったに違いない。長谷川等伯は、当時御用絵師集団として圧倒していた狩野派に対し、まったく独自の画風を確立した。一時は狩野派に入るも、そこに己の求めるものはなく離脱、伝手を頼り本法寺の日通と知り合い、都に腰を据えて絵を描くことに専念できた。その評判が広がるのにあまり時を要していない。日蓮宗寺院に関わらず方々の寺から仏画肖像画、襖絵などの依頼があり、長谷川等伯は京都でも人気の絵師となった。この頃には息子の久蔵をはじめ、弟子というか狩野派に対して長谷川派のような絵師一派ができつつあったが、等伯自身は絵師集団を組織することには、あまり関心を示さなかったように思う。また、堺出身の日通からは千利休を紹介されて親交を深めていった。本法寺から程近くの表千家不審庵には等伯の描いた「利休居士像」が蔵されているが、茶人としての風体、気品に満ちたその表情から、今や私たちがもっとも千利休を思い浮かべる像であろう。まるで狩野派に挑む様な等伯の絵は、能登から京へ来て、色やモチーフが格段に増え、画風は広がりをみせた。京都中にその偉大なる足跡を残している。智積院にあるのは先にも述べた元この地にあった祥雲寺の襖絵で、「楓図」、「雪松図」、「松に秋草図」、「松に黄蜀葵図」、「松に草花図」、「松に梅図」である。いずれも秀吉の命により描かれた。この頃には天下人にも狩野派と対を成す絵師としてその存在を認められ、等伯は絶頂を迎えた。

智積院には等伯の息子久蔵の「桜図」も残る。等伯は久蔵の絵を眺める時、確かに我が子の絵であるとしみじみ思ったであろう。それほどに等伯と見紛う筆致である。が、よくよく見ると、等伯より深慮で繊細な印象である。その中で桜花はぼうっと浮かび上がる夜桜の如く柔らかで、実に優しい。いかに若い久蔵とて一端の絵師。存分に自分の絵を追求したかったであろう。久蔵はこの「桜図」を描いたあと、わずか二十六歳で夭逝した。いわばこの絵が、彼の咲かせた一代の花であった。実はこの「桜図」と、等伯の「楓図」は「桜楓図」という一双の屏風で、父子合作の国宝であるが、本当は久蔵がすべてを描くつもりだったのではないか。久蔵が病に倒れて、描ききれなかった楓を等伯が描いたのかもしれない。等伯を踏襲し長谷川派の次の棟梁として周囲からも一身に期待を集めた久蔵だが、誰よりも等伯が久蔵に期待していたであろうし、成長してゆく息子を見ているのが何よりも嬉しいことであっただろう。久蔵の死に等伯は堪えた。そしてあの絵を描いた。等伯のもっとも有名な作品のひとつ。六曲一双の「松林図屏風」である。あの寒々しい風景はどうしたって能登の風景に違いないが、一切をそぎ落とし、余白に美を見出そうとしたのは、絵師としての己の越し方行く末を思いながらも、何よりも愛息を失くした深い哀しみが揺曳していると思う。ここに至り等伯は、絵師から父になっていた。

 智積院は圧倒的な量感の金堂を中心に、明王堂、大師堂、密厳堂、講堂、宿坊でもある智積院会館などが曼荼羅図の様な配置で建っている。いずれもかなり大きな造りで、非常に開放感がある。関東にある三大本山はいずれも骨太の庶民信仰が根付く寺として、その佇まいにもそうした雰囲気が現れているが、ここ智積院はさすがに京都にある総本山らしく、どこか雅やかな趣きを兼ねている。金堂の裏手から阿弥陀ヶ峰へとゆったりと登っている。紫陽花園の奥には、山の斜面を利用した墓地があった。本堂を見下ろして在る無数の墓碑は、智積院や智山派の僧侶の墓で、立て札にはほとんどが病で早世した修行僧の墓だと記されていた。徳川時代半ばになると、智積院では講学が隆盛し、ここで学ぶ僧侶は三千人以上、学寮も六十を越えた。新義真言教学にとどまらず、唯識、倶舎、印度哲学、国学、漢学、天文暦学、算術、兵学などの講義も行われ、智積院は総合大学であった。仏門、宗派、智山派は組織であり、智積院もまた組織である。この場に葬られている墓碑の一石一石を眺めていると、日々厳格な修行に励んでいた若い僧侶の面影が時空を超えて浮かんでくるようで、何とも切ない想いに駆られた。志半ばで倒れた彼らは、二十一世紀の日本をどんな気持ちで見ているであろう。