弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 遊行寺

これまで、「日本仏教見聞録」という大層なタイトルでやってきたが、私は異邦人ではないので、今回から「ほとけのみち」と改題した。本山と呼ばれる巨刹を訪ねて、日本仏教の歴史を紐解きながら、今を生きる日本人について、日本仏教、日本の仏道の在り方について考えてみたい。興味本位で極めて私的な目線、浅薄な知識で、愚かな論点も多々あるわけで、ここは片意地張って「ぶつどう」とはせず、やんわりと「ほとけのみち」とすることで、お許しをいただきたい。引き続き、時の赴くままに、日本仏教の本山巡礼を続けてみたいと思う。 今回は神奈川県藤沢市にある遊行寺である。遊行寺は浄土系の一派時宗の総本山である。時宗は同じ浄土系の浄土宗や浄土真宗と比べて少数派で、他宗派に吸収された寺もあると聞くが、阿弥陀信仰と念仏布教においては、太く長い筋をもっている。初夏の眩しい太陽と、爽快な風が似合う湘南へ久しぶりに出かけた。

海とは縁遠い私でも、湘南へ出かけるのは、何となく浮き足立つものだ。かつて一年ばかり藤沢市の片瀬に住んだことがある。目と鼻にある江ノ島には釣りに行ったり、鎌倉の古寺を歩いたりと、湘南での暮らしを満喫した。買い物やレジャーは、藤沢や鎌倉で事足りるため、東京はおろか、横浜にさえ滅多に出かけなかった。思えば、今では考えられないほど贅沢なことだ。湘南には懐かしさと、私なりの愛着がある。当時から遊行寺の存在は知っていたが、時宗総本山とは知らずに、鎌倉の寺ばかり訪ね歩いた。今回、初めての遊行寺参り。

藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名だが、遊行念仏の中心寺院となってからは、遊行寺で通っている。遊行寺といえば、私が真っ先に連想するのは、時宗でもなく、一遍上人でもなく、念仏でもない。箱根駅伝である。箱根駅伝が大好きなことは、散々書いてきたが、遊行寺門前の遊行寺坂は、箱根路の難所のひとつなのでよく知っている。遊行寺坂は、一キロほどのダラダラ坂で、往路は三区で下り、復路では八区で急な上りになる。近年復路は青山学院が引き離して逃げているが、往路では抜きつ抜かれつの攻防が見られる。これからまたこの坂で名勝負が生まれることもあるだろう。私も遊行寺坂を往復してみたが、途中でカーブしているため、上りも下りも見通しはよくない。坂の終わりが見えないのは、選手たちにはキツイだろう。そんな遊行寺坂を凄まじいスピードで、懸命に颯爽と駆ける箱根駅伝の選手たち。私は彼らに改めて畏敬の念を抱いた。

時宗の祖とされる一遍上人は、延応元年(1239)、伊予国道後に豪族河野通広の子として生まれた。祖父河野通信鎌倉幕府の創業に功績があり、北条政子の妹を娶るも、承久の乱以降没落した。一遍は母の死により十歳で出家したが、没落した家に期待なくした父の薦めでもあった。弘長三年(1263)、父の死を機に還俗するも、文永四年(1267)再び出家し、以降は日本中を行脚する。一遍の人生をこと新たに述べることはしないが、一遍が偉大なる旅人であったことは興味深い。その旅は驚くべき広範囲で、伊予から京へ上り、河内、大和、高野山、熊野、丹後、但馬、因幡、美作など近畿一円は言うに及ばず、伊勢、信濃善光寺、果ては陸奥へ、白河関から平泉、松島、南は西海道から大隅を経て豊後まで廻っている。役行者行基菩薩、弘法大師なども各地に足跡があり、それは半ば伝説となっているが、一遍の足跡は確かなもので、あの時代にこれほど日本各地を周った人は一遍しかいないだろう。すべてを鵜呑みにはできないが、生涯を無為の念仏布教に努め、旅を続けたことは、市の聖と呼ばれた空也上人を崇拝していたからだろう。鉦を打ち鳴らしながら、唄い、踊り、ごく自然に南無阿弥陀仏真言を唱える。阿弥陀如来の本願に帰依することは、苦痛を伴うはずはなく、楽しいことなのだ。空也上人はこの踊躍念仏、すなわち遊行の祖といえよう。

私は浄土系宗派の説く易行を、さらに進めたのが遊行ではないかと思う。が、遊行は必ずしも易行にあらず。空也も一遍も、ほとんど乞食のような暮らしをしながら、滾らせた熱い想いを体現した。一遍は阿弥衣(あみえ)という麻や刺草で編んだ筵のような実に粗末な衣を纏い、縄文人の如き出で立ちで行脚する。踊躍念仏を押し付けはせずとも、近づく者は拒まずに、老若男女、貴賎の別なく親しく接したのである。そしていつの日か、一遍の遊行に付き従う連中を時衆と呼ぶようになる。特に底辺の人々には一遍は救世主であった。一遍のゆくところは大盛況となり、踊躍念仏は遊行と言われ、民衆の間で爆発的ブームとなって、法悦のあまり死に急ぐ輩もいたと云う。宗教は時に人を狂わせる。一遍は、「賦算(ふさん)」といって「南無阿弥陀仏、決定六十万人」と記した念仏札を配ることを盛んに行なった。六十万人は人数ではなく、六は南無阿弥陀仏の六字名号、十は阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という時間(仏教やインド哲学では途方もなく長い時間を劫という)、万は阿弥陀如来の徳の数、人は一切衆生が往生することと云われる。この頃には浄土宗や真宗の勢力を凌ぎ、時衆は一向宗と呼ばれた。のちに一向宗真宗門徒を指して呼ばれたが、この時期は時衆門徒のことをいった。 

周知のとおり、一遍は新たに自身の主導する念仏一派を立てる意図はなかった。遊行寺の寺伝によれば、時宗の「時」とは、念仏を中国より伝えた善導大師が、時間ごとに交代で念仏する弟子たちを時衆と呼んだからだと云う。時宗では、阿弥陀如来への信、不信問わず、念仏さえ唱えれば、往生できると説く。時宗総本山とされる遊行寺には、一遍の足跡はない。が、一遍の情熱はしっかりと伝播して、その灯火は消えないでいる。時宗のトップは代々「遊行上人」と呼ばれた。遊行上人第二代真教は、建治三年(1277)、九州を遊行中の一遍と出会い門下となった。以後、一遍の全国遊行に付き従う。正応二年(1289)、一遍が没すると、真教は弟子衆に推されて後継者になる。真教も十六年間遊行したが、一遍のように全国は巡らずに、北陸と関東を往復し布教した。真教は教団の確立と勢力拡大に努め、寺や道場を増やしてゆく。それは百ヵ寺以上に及んだ。そして、帰命戒(きみょうかい)という衆徒の決まりを作った。一遍がどこまでも理想を追う宗教家であったのに対して、真教はその教えを守り、伝えるための仕組みと方法を考えて、実行した組織者であった。鎌倉武士や都の公家衆にも衆徒を得て、時衆は隆盛した。さらに相模国当麻に無量光寺を建立し、布教の拠点とした。

その後、三代智得へ受け継ぎ、智得が没すると、真教から智得の次に遊行上人を継ぐように指名されていた呑海がいたが、呑海は遊行中で、執権北条高時の命により智得の弟子の真光が無量光寺の住持になる。無量光寺に入れなかった呑海は、正中ニ年(1325)、兄の俣野景平の援助を得て、藤沢の地に道場を開いた。これが現在の遊行寺である。以降は対立も起こり、時衆は十二派に分かれたが、主流はあくまで呑海の継いだ遊行派であり、のちに江戸幕府の本末制度が施行されると、遊行寺時宗総本山となった。室町から戦国時代にかけて、廃れかけた時衆は、江戸幕府のおかげで息を吹き返し中興した。時衆から時宗となったのも寛永期のことだ。幕府の膝下近くに中心道場を構えたこと、またこの頃には開創時の一向宗的勢いは薄れ、浄土系の一派でも、比較的穏やかであったことが、為政者からの警戒心を招かずに済んだのだろう。浄土宗と浄土真宗の中間に位置しながら、貴賎を問わずに、遊行を守り伝えたのである。江戸時代、遊行寺東海道名刹として賑わった。が、幕末動乱から明治の廃仏棄釈では再び打撃を受け、大正時代には浄土宗へ転属する派あり、廃れていった派もあったが、昭和二十七年(1952)、時宗の全寺院が包括されて遊行寺を総本山として、少数派ながら現代の日本仏教の一翼を担っている。

遊行寺は、藤沢駅から歩いて十五分ほどの丘陵の斜面にある。遠くからでも、本堂の大甍はすぐにわかるほど大きく、時宗総本山の名に相応しい。正面総門を潜ると、桜並木のなだらかな石段が続く。私が行った日は青葉が眩しかったが、花の盛りの壮観が偲ばれる。石段の両側には子院塔頭があって、上がりきったところに、今は焼け落ちてない山門の土台が残っている。土台を抜けると山門の代わりに、天然記念物にもなっている推定六百年の大銀杏が、枝を大きく広げて元気に迎えてくれた。方々の寺社で、こうした巨木や御神木に出逢ってきたが、その圧倒的な存在にいつも感動する。よくぞここまで生きていてくれたと心から感謝する。多くの人と同じく、私も樹木や花から漲る力をいただくのだ。 大きな銀杏の奥に、大きな本堂がある。本尊阿弥陀如来は修復中とのことだが、本堂には自由に出入りして参拝できる。寺の若い坊さんが何人もいて、掃除をしていたが、禅寺のように厳粛に規則正しくやるわけではなく、会話をしながら和やかな様子。訪れる参拝者を快く本堂へ招き入れてくれる。堂内は須弥壇をのぞけば、装飾が排された、いかにも道場といった雰囲気である。真宗の寺も念仏道場として、広く門徒に開放しているが、時宗はさらに簡素に見えた。総本山にしてこの雰囲気が、実に居心地が良い。信仰の糸が切れずにここまで紡がれてきたのが、寺全体から伝わってくる。時宗は今、庶民仏教の代表として在るべき姿を見せている。遊行寺には立派な書院もあるが、入る者を萎縮させない佇まいである。書院の中庭はちょうど花菖蒲が盛りであった。渡り廊下にはお茶が置いてあって、花を眺めながら薫風にあたるのは、それだけで浄土にいる心地がした。

最近は多くの寺に、ペットや家畜の墓や供養塔を見かける。遊行寺にも美しく立派な供養塔があった。寺を歩く時、墓地へと足を踏み入れることも多い。その度に私は、亡くなった先人達が、羨ましく思う。人も動物も花も草も木も。彼の世へ逝ったことは偉大である。此の世に生を受けし万物に死は必ず訪れる。死は俗世ではもっとも恐ろしく、不浄とされているが、実はそれは大きな誤りで、我らのいる此の世こそが不浄ではないか。生きることは苦海を彷徨い泳ぐこと。息を引き取る瞬間まで、その苦しみは続き、引き取る瞬間に最大の苦しみを乗り越えて、彼の世へと旅立つ。それぞれの定命を全うし、死の苦しみを乗り越えて行った人々は凄いと思う。我々は今、苦海の只中にいる。仏教はそんな迷える衆生に生きる希望、勇気を与えながら、時には叱咤し、時には慈悲深く寄り添う。阿弥陀如来は遍くすべての衆生極楽往生へ導く来迎仏である。一遍上人はそれを解った瞬間から、嬉しくて、飛び跳ねて、心身は踊り、楽しく念仏を唱えることを広めた。時宗へ引き継がれてきた一遍の想いは、此の世から彼の世へ逝く途中さえ、楽しく行こうと呼びかけている。遊行寺を訪ねて、私は新たに日本仏教の核心に触れた思いがした。