弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一大仏開眼一

最強の持統女帝時代に盤石となっていた大和朝廷は、女帝亡き後再び混沌とし始めた。後を継いだのは文武天皇。先に述べたとおり、即位当初は持統上皇が実質的に執政したが、文武天皇在位中に大宝律令が完成し、遣唐使も三十三年ぶりに派遣され、薩南諸島を制圧もした。大和朝廷の威光を高めているのは、聡明な文武天皇の実績であろう。しかし虚弱であった文武天皇は二十五歳の若さで崩御。急遽後を託されたのは母の元明天皇である。文武には嫡子首皇子がいたが、この時はまだ幼年で、文武天皇の遺詔により暫定的に元明女帝即位となる。元明女帝は天智天皇の第四皇女で、草壁皇子の妃となり、文武天皇元正天皇を産んだ。元明女帝は古事記を完成させ、風土記の編纂を詔勅し、和銅三年(710)には都を藤原京から平城京へ遷都した。

この頃、藤原不比等が台頭してくる。平城遷都の際に、左大臣石上麻呂は旧都藤原京の管理を任されて、藤原京に残ることになり、右大臣であった藤原不比等平城京においての最高実力者となる。私の推測にすぎないが、これは不比等の謀略に非ずや。不比等は巧みに元明女帝を取り込み、石上氏の排除に動いたと思われる。不比等ほどの人物ならばやるであろう。そもそも不比等首皇子の外祖父なのである。首皇子すなわち後の聖武天皇は、父が文武天皇で、母は不比等の娘の藤原宮子である。首(おびと)と命名されたことからも、いずれ皇位を継承する子として大切に育てられた。これにて天皇家藤原氏は親戚となった。無論のこと不比等は外孫の首皇子へつつがなく皇位継承されることを望んでいた。石上麻呂の排除は、後の世まで続く藤原氏の他氏排斥の原点であった。このあと藤原氏は紆余曲折しながら千年も臣下の最高位にあるわけだが、その礎は藤原不比等によって築かれたのである。不比等の四人の子が興した南家(藤原武智麻呂)、北家(藤原房前)、式家(藤原宇合)、京家(藤原麻呂)を藤原四家或いは藤原氏四家と云う。後々この四家は、互いを牽制し覇権争いを繰り広げることになるのだが、このことはもう少し後に触れたい。 元明女帝にとって右大臣藤原不比等は頼もしい存在であった。何事にもいちいち不比等に相談したに違いない。孫の首皇子立太子し、自らは譲位しようとしたが、十五歳の皇太子よりも、娘の元正天皇への譲位を薦めたのもおそらくは不比等であったと思う。平安期の摂関時代には幼年や若年の天皇は当たり前になるが、この時代は天皇として即位するのは若くても三十歳前後が望ましいという考え方があった。霊亀元年(715)、中継ぎとして即位された元正天皇も、ほとんど完全に不比等に主導された。不比等の最大の目的は自らの血を引く首皇子の即位である。そのためにはいかなることも厭わずに行ったであろう。残念ながら不比等の存命中に首皇子の即位は実現しなかったが、首皇子不比等の四人の息子たちになんとか守られて聖武天皇として即位された。不比等没後の養老三年(719)に長屋王が右大臣に就任し、皇族によって朝廷を固めて、皇親勢力による執政を目指し、藤原氏の排除に動きだした。この時不比等の息子房前も内臣として元正女帝を輔弼するが、未だ若く長屋王へ対抗するのは難しかった。こうして長屋王皇親勢力対藤原氏の対立構図ができてゆく。さらに、元正女帝の時代に三世一身法が制定されて、「土地と人民は王の支配に属する」という律令制の基本理念は早くも崩れ始めるのである。

神亀元年(724)二月、元正女帝は首皇子に譲位され、ここに聖武天皇が即位された。聖武天皇が即位されてからも、左大臣となった長屋王政権の支配は続いていた。長屋王側の皇族たちは、聖武天皇の母宮子が皇族ではないことに多少の不満があった。あまつさえ聖武天皇を蔑ろにして政治を行った。聖武天皇は母藤原宮子に大夫人の尊称を与えたが、長屋王側がこれに異を唱えた。臣下より妃となった宮子を尊称することは不承だったのであろう。ここに両者の亀裂は決定的になった。長屋王側は藤原氏の繁栄を恐れ、藤原氏側は排斥されることを恐れた。そこで不比等の四人の息子は結託して、聖武天皇を全面的に支えるべく、同じく異母妹である光明子(後の光明皇后)の立后に動く。これにより藤原氏の血が天皇家を占めることになる。藤原氏の力の増長は火を見るよりも明らかとなってきた。そうはさせじと、いよいよ長屋王側も藤原氏排斥に動き出す。そもそも歴代の皇后は皇族から選ばれることが慣習であった。これには大きな意味がある。これまでの皇位継承を見ても、天皇崩御し、皇太子や皇子たちが幼い場合は、暫定的に皇后や皇女が女帝として皇位を継いでおり、光明子が皇后となれば、万一の場合の皇位継承が滞る恐れがあるからである。いや藤原氏にとっての万一は、光明子が女帝に即位するようなことがあってはならないという危機感であろうか。長屋王皇親勢力はなんとしてもそれだけは避けたかったのである。そのために光明子の皇后冊立阻止に動くのだが、この長屋王の動きこそが藤原一族の狙いであった。長屋王は国家転覆の謀議を図ったと嫌疑がかかり、自害に追い込まれたのである。これが長屋王の変である。長屋王は藤原一族が仕掛けた権謀術数に嵌り、墓穴を掘らされたのである。続日本紀にも長屋王の変は冤罪であったと記されている。そして長屋王が亡くなると、光明子立后された。藤原氏は臣下ながらも、皇親勢力を抑え込むことに成功し、朝廷権力を掌握したのである。

このようにまことに不穏な空気が充満する朝廷で、幼少期を過ごされた聖武天皇がどんな人物に育ってゆかれたのか。想像に難くはない。また、飛ぶ鳥を落とす勢いで権力闘争に打ち勝ってゆく藤原氏の只中で生まれ育った光明皇后。それぞれが対称的な生い立ちであったことが、後々まで良くも悪くも天平大和朝廷に影響を与えてゆく。聖武天皇はずっと臆病であった。が、理想と意志、そして密やかなる野望は歴代天皇でも五指に入るほど大きく強いものであった。堅実な現実主義者の光明皇后とは、初めは合わなかったであろうが、夫婦になって少しずつ心を通わせるようになる。というよりも、光明皇后はかなり畏まって聖武天皇を支えられたに違いない。本来、心根の優しい聖武天皇もそれをわかっていたであろう。いつしかお二人はまことに仲睦まじい本物の夫婦になってゆかれた。基親王という皇子も授かり、藤原四家の強大なバックアップもあって生後わずか三十二日で皇太子とされたが、祖父や父に似て虚弱であった基親王は一年も経たぬうちに夭逝された。聖武天皇光明皇后の哀しみは深く、天皇親王の菩提を弔うべく平城京の北東に金鐘寺という寺を建立しされた。この寺が東大寺の前身である。

追い討ちをかけるように天変地異が相次ぎ、飢饉で民は疲弊した。これに加えて天然痘が流行して、光明皇后の四人の兄、すなわち藤原四家の当主が皆相次いで亡くなった。これにより藤原氏の政権は瓦解してしまう。藤原四家に守護されていた聖武天皇の動揺は計り知れない。混迷の中、天皇長屋王実弟である鈴鹿王や、橘諸兄吉備真備、帰依していた僧玄昉ら遣唐使として唐の政治、文化を吸収した者たちを急場凌ぎに重用した。これに反発したのが式家の藤原冬嗣で、大宰府にて挙兵した。結果的に冬嗣の乱は鎮圧はされるのだが、聖武天皇は憔悴してしまい、関東行幸(この場合伊勢国や美濃尾張をさす)と称して平城京を出られ、そのまま戻らずに恭仁京へ都を遷されたのである。ここから聖武天皇の流浪が始まる。

聖武天皇はおよそ五年にわたり、平城京恭仁京紫香楽宮難波宮そして再び平城京と、遷都と還都を繰り返された。これには天皇の大いなる内憂外患が表れている。これを支えたのは右大臣橘諸兄であったと云う。諸兄は光明皇后の異父兄であり、藤原氏が一時衰退したこの頃、天皇がもっとも頼りとした側近であった。平城京から恭仁京へ一時避難のように遷都されたのが天平十三年(741)のことで、大極殿恭仁京へと移された。が、わずか二年で今度はさらに奥の紫香楽宮へ移られる。ここは多分に離宮であり、その間にも恭仁京へ戻られたり、難波宮へも行幸されているため、もうどこがどこなのだか、ややこしいこと極まりない。様々な説がある中、私も同感だと思うのは、結局、都はずっと平城京であったということだ。聖武天皇は、自らの手で政を執ることが困難と悟られたのと同時に、暗澹たる情勢の中、いつ何時暗殺される恐れもあり、身の置き所を定めぬほうが賢明であると思われたに違いない。何度も書いたが、この時代、皇位継承は命懸けであった。また、聖武天皇は曽祖父である天武天皇壬申の乱の折に伊勢を遥拝し、伊勢、美濃、尾張の豪族を味方に引き入れたことをよく知っていて、それに肖った可能性も否定できない。それは平城京の旧態依然とした諸勢力から脱却して、皇祖神たる伊勢を崇拝する地方の新勢力を背景とした天皇親政を手繰り寄せたい思いが、より関東に近い紫香楽までやってきた理由かもしれない。

この春、私は近江の金勝寺と狛坂廃寺を訪ねた。その途中、信楽に立ち寄って紫香楽宮跡を見てきた。そこは内裏野というところで、甲賀寺という寺院の跡であると推測されている。ここから少し離れた宮町というところで発掘された遺跡が、天皇の御座所もあった宮跡であると云われている。信楽ではこうした遺跡があちこちで発掘されている。一説では平城京から遷都したわけではなく、恭仁京紫香楽宮離宮であったとも云うが、発掘されている様々な形跡をみても、一時は天皇を中心に多くの人々の営みが紫香楽宮にあったのは間違いないだろう。他にも勅旨、朝宮、牧などの地名が残っているのも、かつてここに朝廷があったことを語っている。おそらくその時の平城京は、巨大な寺のみがまさに伽藍堂と風に吹かれていたのみであったのだろう。甲賀寺跡には遺構の丸い礎石が点々と残っている。中心の金堂があった場所には「紫香楽宮」と称するささやかな社が建てられていた。規模は東大寺に比ぶべくもないが、多くの堂宇が建っていたようで、このような山奥でも往時は壮観であったと思う。そしてこの甲賀寺が天皇の悲願のひとつである総国分寺として造営されたのある。余談であるが、先に述べた金勝寺や狛坂寺は、平城京恭仁京、そして紫香楽宮の鬼門にあたる場所に建っており、これらの寺の在る金勝山は都の鎮護の山であったことがわかる。ちょうど平安京からみた比叡山と同じである。そのような聖地近くに、聖武天皇が安穏の生活を求めれたことは自然なことであったかもしれない。

聖武天皇紫香楽宮にて大仏建立を発願され詔を発せられた。大仏の鋳造もここで始まったのだが、いかんせん山奥過ぎて、人も、材も、財も不足した。平城京から一歩山へ入った恭仁京から、さらに奥へと分け入り、より狭隘で陰湿な場所に都を造営することは物理的にも困難であり、臣下をはじめ、人々の心情的には容易に受け入れらるべき場所ではなかったはずだ。大仏鋳造の詔を発したものの、この場所では遅々として進まない。いつ完成するともわからない。いつしか大仏は夢物語になりつつあった。天皇自身もそれはひしひしと感じて、このまま紫香楽に留まることはできないと思われていたであろう。唯一の慰めは信楽という土地の陶土が示す明るさではなかったか。それを聖武天皇じかに感じられたのかはわからないが、一度、政治、宗教、すべての南都の規制勢力から離れてみて、この先の卜占をしながら、いっとき心身を休め清めたかったに違いない。紫香楽宮跡の遺された礎石を茫然と見つめていると、聖武天皇の忸怩たる想いが澎湃として浮かび上がってくるのであった。

ついに聖武天皇は大仏鋳造を成し遂げるべく、再び平城京へと還られたのである。総国分寺の役割は甲賀寺から東大寺へと引き継がれ、大仏の鋳造も東大寺で行われることになった。平城京に還られてからの聖武天皇東大寺創建に余生を捧げられたといってよい。国家の威信と天皇の権威を示しながらも、寺の造営と大仏鋳造のため、延べ二百六十万人という民の力を結集し、これまでに類のない破格の大寺院を誕生させたのである。当時の日本の総人口は六百万人ほどと云われるから、日本人の三分の一以上が東大寺と大仏建立に関わったことになる。日本一の寺に祀る本尊盧舎那仏はとてつもないものでなくてはならない。聖武天皇の情熱は、妻の光明皇后はもちろん、臣下廷臣、南都仏教界、ひいては民草にもじわりじわりと浸透してゆき、いつしか天平時代を生きた人々の願いとなった。

 聖武天皇は、「篤く三宝を敬え」という聖徳太子の言葉を胸に刻まれていたのではあるまいか。仏教に深く帰依され、鎮護国家のため神道より仏教を重んじられた。仏教を国家的宗教と位置づけ、その宗主となるべく各地に寺を建立し、天皇の威光を高めるために大いに仏教を利用した。歴代天皇の仏教への傾倒は、聖武天皇より始まったと云ってよいだろう。聖武天皇は仏教に縋り、頼った。今、南都六宗といわれる三論宗華厳宗法相宗成実宗倶舎宗律宗は奈良仏教とも言われ、平城京を中心に繁栄した。聖武天皇は唐に倣い、全国に官寺である国分寺国分尼寺を建立された。国分寺のある場所が今の県庁所在地のような所となった。平城京から各地の国分寺へ向けて道が整備され、国分寺統治機構の手段のひとつとしたのである。繰り返し述べるが、平城京の鬼門には鎮護国家の拠点とすべく金鐘寺を金光明寺と改めて総国分寺とされた。これが後に東大寺となるのである。光明皇后天皇に倣われて自らの御座所たる皇后宮を寺に改められ法華寺とされ、総国分尼寺となった。光明皇后は他に悲田院や施薬院を設けて、民や病人の救済に心を砕かれた。自ら病人を世話し、蒸し風呂に入れて介抱されたと云われる。有名な話に、体中膿だらけの病人が風呂にやってきて、光明皇后に体の膿を口で吸い取ってくださいと懇願する。初めはたじろいだ皇后は、これも人助けであり、神仏の思し召しであると信じて、病人の膿を残らず口で吸い取られた。すると病人はたちまち眩い光を放つ阿閦如来に姿を変えて、皇后の徳を湛えたと云う。この話を流布したのは藤原氏なのであろうが、それにしても光明皇后の慈悲深さは本物であったのではないかと私は思っている。

大仏鋳造を統率したのが後に東大寺の初代別当となる良弁僧正である。良弁は相模国の鎌倉で生まれたと云うが、一説では若狭にいた帰化人の末裔とも云われる。乳飲み子の時に鷲に連れ去られて、二月堂の傍らにある杉の木に引っ掛けられているところを、義淵という僧に助けられ、そのまま義淵に師事して僧になったとも云われている。この杉が良弁杉である。良弁は謎に満ちた人物で、もっともらしい伝説が多いが、いずれにしても百済人をはじめとし、大陸の金工や木工の技術者集団を率いたことは間違いないだろう。彼らの拠点は近江であり、金勝山を基点にしてこの大事業を成し遂げたのである。また石山寺縁起には、大仏建立の際、良弁が資材を運ぶため瀬田川の畔に、中継地点を設けた。この場所が後に石山寺となったとされる。良弁は聖武天皇にこの世をあまねく照らし、広大無辺な智恵と慈悲の光明を放つ盧舎那仏の徳をこんこんと説いた。聖武天皇もまた良弁の説く仏教に深く帰依していったのである。

大仏の鋳造には膨大な資材と、高度な技術、多くの労働力が必要である。良弁とともにこれを主導したのが、行基菩薩や、やはり渡来人の子孫である国中公麻呂である。行基南都六宗とは距離をおいて、民のために心から動く僧であった。当時は民に直接布教することは禁じられていたのだが、行基はそれを意に介さずに民衆も豪族も問わずに布教し、困窮者を支援し、土地の開墾、治水や架橋など社会的見地で土木事業まで成した。ずっと後に現れる弘法大師空海行基を尊敬していたに違いない。が、行基空海ほど権威権力に近づいて利用することはなかった。しかし、聖武天皇の大仏建立の詔には大いに賛同したのであろう。でなければ、あれほど熱心に東大寺と大仏建立のために勧進をするはずはない。いずれにしでも、聖武天皇は良弁と行基をうまく使い分けされた。国中公麻呂は資材集めから、大仏建立のための下地造り、整地から大仏殿の建立まで細かく指示をした。そして鋳込みをし、最後は鍍金をして、衆生が見たら目が潰れるといわれるほどに、燦然と眩しい黄金の盧舎那仏を完成させたのである。天平の大仏殿は今ある江戸期再建の大仏殿よりも、横幅がさらに三十メートル以上も大きかった。ここに聖武天皇の治世はまさに仏法により守護されて、ついに絶頂を迎えたのである。あの弱々しかった首皇子は、今やゆるぎない権勢を手にした。これもひとえに仏教のおかげであった。仏教を利用したことで政治的な着地は柔和になり、あからさまにその権力に楯突くものはいなくなった。もはや聖武天皇を脅かす影は鳴りを潜めた。事実、人々もまた安定と平和を切に望んでいたに違いない。

聖武天皇は人々が大仏建立に向いて、人心が安定したのを機に、娘の阿部内親王に譲位された。阿部内親王孝謙天皇として即位されたが、聖武上皇が政治を後見された。この頃になると長年の心労からか、ずいぶんと弱っておられたのも譲位された理由であろう。そして病平癒も願って、東大寺と大仏建立への執心は増したはずである。

東大寺には「四聖御影」という南北朝時代に描かれた人物画がある。そこには東大寺の建立に尽くした願主の聖武天皇大仏開眼導師の菩提僊那勧進聖の行基菩薩、そして開山の良弁僧正の四人が描かれている。天平勝宝四年(752)四月九日、大仏開眼供養は大和朝廷発足以来最大の祝典として、かくも盛大に挙行された。中国からはるばる招かれたインド僧の菩提僊那が開眼導師を務め、正装した文武百官と一万人もの南都の僧侶が居並び、巨大な大仏殿には金色の鴟尾が輝いていた。大仏殿の前にはカラフルな五色幡と宝珠飾られ、大屋根の上からの散華が薫風に乗ってどこまでも高く広く舞い散っていった。続日本紀には「仏法が東に流伝してからこのかた、斎会がこれほど盛んだったことはいまだかつてなかった」とある。想像するだけで、とてつもない。こんなことが天平時代の日本で行われたのである。

 日本仏教が大きく躍進したのは天平時代である。それは間違いなく聖武天皇光明皇后の影響である。南都六宗はさらに興隆し、中国から苦難の末に招聘された鑑真和上は真の仏教の戒律を示した。鑑真和上は、東大寺に築かれた戒壇で、聖武上皇孝謙女帝以下四百人に菩薩戒を授けた。しかし、これが後に仏教僧の増長を招き、政治と仏教の癒着が始まる。この事に鑑真和上は嘆き、真の戒律を伝えるべく唐招提寺を創建した。しかし平和で豊かになればなるほど政治も宗教も腐敗してゆくもの。そしてついに道鏡なる野心家の出現にいたるのである。