弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一賜姓降下一

嵯峨天皇薬子の変平城太上天皇の変)で揺らぐ朝廷の引き締めを図り、天皇の権威を高めるべく動いた。首謀者の薬子は自害し、兄の藤原仲成は射殺されたが、事件に与した他の者には寛大な処置をとって、ノーサイドとするよう努められた。出家し恭順する平城上皇は変の後も、厚遇し相当の宮廷費を受けている。上皇の皇子の高岳親王は皇太子を廃されたが、父に続き出家して真如と号した。後に弘法大師空海の弟子となり、高野山親王院を開かれて、空海十大弟子の一人に数えられる。空海を宗教顧問として重用した嵯峨天皇の斡旋があったこと言うまでもない。高岳親王に代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立太子した。弘仁十五年(824)に平城上皇崩御。この時既に譲位していた嵯峨上皇は、淳和天皇へ要望して恩赦を行っている。同時に嵯峨天皇は進んで親政されながらも、これまで支えてきた側近に目をかけられることも忘れなかった。

薬子の変の折、空海嵯峨天皇側の勝利を真言密教の呪法を用いて祈念した。果たして勝利した嵯峨天皇は、以来、空海に深く帰依した。空海を何かと頼りにして召し出し、万事につけて相談された。天皇より十二歳年長の空海に多大な信頼と想いを寄せられたのも、幼くして母を亡くし、父帝からの過度な期待、兄帝への猜疑心と情に揺れ動く日々を過ごされてきた嵯峨天皇にとって、空海は新しく清冽な光であった。師であり、父であり、母であり、兄であり、時には恋人のように思われたこともあったかも知れない。空海天皇家の家父長たる嵯峨天皇に、単に取り入っただけとは思えない。高雄事件で伝教大師最澄と仲違いをして後、空海真言密教の真の伝道者として、既存の南都仏教ともうまく共存しながら、図らずも勢力を拡大してゆくのである。官寺であった東寺を賜り、寺名を教王護国寺と呼ばせて平安京での真言密教の拠点とした。そしてついには宮中に鎮護国家のための祈願所である真言院を与えられ、以降、平安仏教界の最高実力者となり、時代さえも先導するオピニオンリーダーになるのである。

平安仏教を語るにもう一人、伝教大師最澄である。嵯峨朝ではすでに比叡山にて一派を形成しつつあった最澄は、南都仏教と決別した桓武天皇が新進の仏教として厚く庇護した。桓武天皇最澄に大いに期待して、日本仏教界の代表として遣唐船に乗せ、還学生として短期留学させた。最澄天台山へ赴き、天台宗の教義と天台密教を見聞した。およそ十ヶ月の修学旅行であった。最澄は帰国してすぐさま桓武天皇に召しだされた。最澄の帰国を心待ちにしていた桓武天皇はその頃不治の病床にあり、最澄は病気平癒のための祈祷を宮中で行った。そして高雄の神護寺において日本最初の灌頂を行う。灌頂とは密教で頭頂に水をかける儀式のこと。古代インドで国王の即位や立太子の儀式で行っていたものを仏教も採用したとされ、キリスト教の洗礼式にも似た儀式である。日本の密教の灌頂には大きくわけて三つあって、出家在家を問わずに曼荼羅に散華をして守り本尊を決める結縁灌頂(投華灌頂)、修行して本格的に密教を学ぶ者に対して行われる受明灌頂(弟子灌頂)、修行をおさめて阿闍梨と呼ばれる指導者の位を授ける伝法灌頂に分けられる。

一方で空海最澄の入唐の時、別の船で留学生として唐に赴いた。還学生は遣唐使に伴って日本と唐を往復するが、留学生は長期間留まって学ぶことが命じられていた。しかし天才空海は、本来は二十年ほどの留学の予定を二年で終えて帰国している。空海は唐に到着するとすぐ西明寺に入り、印度僧の般若三蔵に師事し、密教を学ぶためにもともと少しは勉強していた梵語をさらに磨いた。次いで真言密教の根本道場である青龍寺の恵果和尚を訪ねた。密教第七祖の恵果は空海を一目みるなり、自身の後継と覚り、余命半年間で密教の奥義の悉くを空海に伝授、空海密教の第八祖と定めて亡くなった。空海は伝法灌頂を授かり、この世の一切を遍く照らす者という意の込められた「遍照金剛」の灌頂名を与えられたのである。私たちが口にする「南無大師遍照金剛」はここが由緒なのである。空海はじっとしていられなかった。すぐに帰国して自ら真言密教の新たな可能性を試したかったし、それによって日本を守護し、煽動して導けると確信を抱いていたに違いない。帰国した空海嵯峨天皇は興味津々たる様子で接遇し、あっという間に帰依したのである。最澄もまたすぐに空海の噂を聞いて、あくまで遜って空海真言密教の教えを強く請うた。比叡山と云う一山を率いる最澄は、早く空海から伝法灌頂もしくはせめて受名灌頂を授かりたい。そしてもっと真言密教を学ぼうと希望した。が、空海は簡単なことと考えてもらっては困るといった風でその申し出をはねつけてしまう。そしてまずは結縁灌頂のみしか授けなかったのである。これが神護寺を舞台として繰り広げられた高雄事件の始まりで、仕方なく最澄は愛弟子の泰範を自分の代わりに空海のもとに残して比叡山へ戻ったのである。しかし泰範はこのあと空海に身も心も惹かれてしまい、ついに比叡山には戻っては来なかったのである。

平安時代に日本人の信仰のかたちが出来たことは前にも書いた。それは神仏混淆という日本独自のかたちである。神と仏の習合は仏教伝来以来、徐々に濃いものとなってゆく。ゆえに信仰のかたちが出来たのではなく、出来上がったが正しいのかもしれない。これに大きく寄与したのが、平安仏教を興した二人の天才的な巨人、最澄空海である。この天才的な二人が桓武天皇嵯峨天皇の信任を得たからこそ花は咲いた。双璧の巨人についてここではあまり多くは述べないが、この二人が日本にいたことを日本人はもっと意識せねばならない。そして誇りに思うべきである。

 さて文化人としても一流であった嵯峨天皇上皇となってからは嵯峨野に隠棲と称しながらも、一大サロンを展開した。今の大覚寺がその場所で、嵯峨御所と呼ばれた当時は日本の文化の拠点であった。三筆にも数えられるその書は、男性的な力強さと女性的な柔和さ、そのどちらも持ち合わせており、これぞ天皇の書であると云う手本のような秀麗さ。嵯峨天皇空海橘逸勢を三筆と称するが、逸勢は力強く勢いが繊細さも垣間見え、空海は柔らかいが芯の強い書。嵯峨天皇はそのどちらもを兼ね備える。私はむしろ三筆をはじめに選んだ人の均等確かな目に感心する。嵯峨御所は後に大覚寺となり、その栄華の名残は大覚寺を訪れれば今も感じることができる。文化的には嵯峨天皇の御世に平安時代が始まったと云え、弘仁文化は確かに唐風ではあるが、後の国風文化への萌芽が随所にある。これも一重に嵯峨サロンの賜物である。

賜物と云えばもう一つ、氏がある。皇族がその身分を離れることを臣籍降下、或いは賜姓降下と云う。天皇より姓、氏を賜わると賜姓皇族と呼ばれた。ちなみに皇族女子が臣下に嫁すことは臣籍降嫁とも云う。律令においては四世王までは皇親となり、五世王までは皇親とはならないが、王号を有し、従五位下の位階を受けた。さらには歴代天皇から一定の距離を経た者は、臣籍に入り皇親皇族とはされない。 再三述べてきたが、奈良朝の血腥い皇統争いを経て、平安朝では兄弟への禅譲など、安定的な皇位継承が望まれた。また兄弟よりも争いが少なく、父帝の意が反映しやすくなるため、天皇は多くの皇子をもうけられた。しかし、実際に皇位継承できる皇子は限られ、平安中期にかけては、皇族があふれかえったた。皇族はその地位と格式を保証するだけの金品が与えられたが、ややもすればこれが財政逼迫の要因のひとつにもなっていた。さらには一部の皇子や皇女が、その厚遇にかこつけて問題を起こすこともあったと云う。例えば臣下と共謀して謀反を企む可能性をも秘めていたのである。よって、安定した皇位継承をつよく望まれた桓武天皇は、皇位継承の可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる賜姓を行ったのである。桓武天皇は一世皇親を含む百名余りに対して、姓を与えて臣籍降下を行っている。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父帝の例に倣って多くの子女に対して賜姓を行った。

これだけ皇族が増えると、就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったため、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から、皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。これには藤原氏ら廷臣の策略が見え隠れするが、その詳細はまた後に述べよう。賜姓皇族臣籍降下して一、二代は上流貴族として朝廷での地位を保証されたが、三代以降はほとんどが没落している。彼らは都落ちするように地方に下向し、そのまま土着して武士や豪族となった。このあと南北朝から室町、戦国時代くらいまでは鳴りを潜めるしかなかったが、それでも日の目を見れたのもほんの一握りにすぎない。奈良朝からあった貴種流離譚は平安朝ではさらに増えてゆく。

臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び姓(かばね)が与えられる。様々な賜姓が与えられたが、中でも『源氏と平氏』は我々もよく知っており、この後ずっと日本史に深く関わってくる。源氏は嵯峨天皇が、弘仁五年(814)に自らの皇子三名に皇親賜姓を行い、源の氏を授けたことに始まる。源氏の出典については諸説あるが、すなわち天皇が源流の血筋であると云う意味も込められているに違いない。元々は中国の五胡十六国時代南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来するとも云うが、もう少し単純なことであったかも知れない。 

嵯峨天皇を祖とする源氏を「嵯峨源氏」と称する様になり、以後源氏はそれぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって仁明源氏文徳源氏清和源氏宇多源氏など増えていった。 嵯峨天皇は最終的には皇子や皇女三十二名を臣籍降下させ、源信、源常、源融左大臣にまで昇り、源潔姫は人臣最初の摂政となった藤原良房の妻となっている。『源氏物語』の光源氏のモデルが源融であるとの説は有名だ。一方、平氏は、淳和天皇の御世の天長二年(825)年に桓武天皇の第五皇子の葛原親王の子女に平氏を賜ったことに始まる。これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏なのである。いずれこの源平が平安時代の終わりを告げる争いを繰り広げることになるが、その前に邪魔者を次々に排して、平安時代の中期に全盛を誇ってゆくあの一族の話に入ってゆかねばならない。藤原氏藤原氏による藤原時代がやってくる。