弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一西国巡礼一

年が明けて令和三年。まだ平安時代である。この連載を書き始めて二年になるが、一年前に平安時代に入って、ようやく平安時代半ばにきた。私の余談も挟むゆえなのだが、何せ平安時代は四百年も続いたのだから、まだまだ先は長い。

今回もハナから余談。私は一昨年秋より西国三十三箇所観音巡礼を廻っている。とはいえコロナ禍となってから遠出を控えているため、まだ那智の第一番青岸渡寺紀三井寺粉河寺、槇尾山の四ヶ寺で休止中。昨年は一箇所も参詣できなかった。いつ再開できるか未だわからないが、始めたからにはいつかは必ず結願したい。このブログでも巡礼記を書いてはいるが、まあ、焦らずに私なりの道中で参ろうと思う。西国巡礼は日本最古の巡礼で、始めたのは大和長谷寺の開山の徳道上人と云う坊さん。養老二年(718)、徳道上人は病を得て亡くなり、冥土で閻魔大王に会う。閻魔大王は、「世の中の悩み苦しむ人々を救済せよ 罪業のあまり地獄へ送られる人間を導け そのために三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めよ」と、起請文と三十三の宝印を授けた。三十三は観音菩薩衆生を救うべく、三十三の化身となって現れると云う霊験によるもの。現世に戻った徳道上人は、閻魔大王より選ばれた三十三の観音霊場の礎を築いたが、当時の人々には受け入れられず、三十三の宝印を播磨の中山寺の石櫃に納めた。 それから二百七十年後、途絶えていた観音巡礼は、花山院によって再興される。

花山院は円融天皇より皇位を継がれて十七歳で第六十五代花山天皇となられるが、二年後に譲位され出家、十九歳の若さで法皇となられた。世に無常を感じられた花山天皇比叡山で修行をした後、書寫山の性空上人、河内石川寺の仏眼上人、中山寺の弁光上人を伴い那智山で修行された。熊野に入り、各地の霊場を巡拝され、ついに西国三十三所観音巡礼を再興されたのである。花山院はいかなる困難に遭遇しても観音菩薩は常に慈悲の心で見守っておられると信じ、熊野や那智大自然に分け入り、都では体験できないある種アニミズム的信仰心に目覚められたのであろう。そして畿内一円を巡る観音巡礼には、広大無辺なる観音菩薩の功力に、直に触れられた思いを抱かれたに違いない。世は末法間近。西国巡礼は徳道上人以来、ここまで機が熟すの待っていたのかも知れない。それまでとそれ以後では西国巡礼も花山院の御生涯も明暗がはっきりと分かれていたのである。

花山天皇冷泉天皇の第一皇子で、母は藤原伊尹の娘の女御懐子。父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原北家の策謀により、在位わずか一年十ヶ月で退位させられた人だ。『栄花物語』は花山天皇がおよそ帝王の器量をもたれてなかったと云う節を説く。藤原頼忠や藤原朝光の娘を召し出すも、次々に捨てることを繰り返したと、その奇行ぶりを赤裸々に書き著している。さらには花山天皇は即位礼で高御座に昇られ、側でお世話をする命婦(女官)を高御座に引きずり込まれ犯したと云うのである。私が申すも憚れると言ったのはこの事である。天皇に対して不敬も甚しい限りであるが、これまで述べてきたとおり藤原北家のなりふり構わぬ権力への執着が沸点に達するこの頃において、この件を流布しても表だって咎める者はいなかった。事実、花山天皇御自身は少し奇異な所業が目立ったようで、即位礼では冠が重いと言われ外されたり、清涼殿の中庭で馬を乗り回そうとされた逸話もある。こうした所業を天皇に仕えた権中納言藤原義懐と左中弁藤原惟成が、献身的に火消しに努めた。関白は先代から引き続き藤原頼忠だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、延喜二年(902)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となったのである。律令制解体傾向の抑止に意欲を示されるなど、無事ならば親政が敷かれていたかも知れない。しかし、これを阻んだのはやっぱり藤原北家の面々であった。

ちなみに明治以前の即位礼は唐式に則っていたため、重い冠を頭に乗せられる。現在のように高御座に昇られる天皇が黄櫨染御袍を纏われ、御手に笏を持たれ、立纓の冠をつけられる形式になったの明治以降のことで、孝明天皇までは即位礼のみ戴冠した冕冠(べんかん)と云う四角い宝冠が用いられた。宝飾もされており、たしかに重々しい。ちなみに女帝は冕冠の代わりに金でできた宝冠を用いた。花山天皇が我慢出来なかったと云うのは、天皇としての資質を疑われるのは当然かもしれないが、一方でこう考えたくもなる。私の詮索ではあるが、もし花山天皇がうつけなどではなく、正気であれば、貴族の頂に立ち、廟堂を支配し、天子をも凌駕するほどの権勢をひけらかす藤原北家に対する意趣返しではなかったか。さらに想像を逞しゅうすれば、花山天皇御自身は皇位を継がれることなど決して望んではあられず、早くから荒波の憂世を離れて遁世されたかったのではないかと思うのである。御譲位されてからあたかも水を得た魚の如くいきいきと余生を過ごされ、むしろ出家をされてからの方が、解放感に溢れた生活をされていることからも、御在位中はどうも一芝居打たれた気がしてならないのである。花山天皇にとっては皇位や政には執着も自信もなくて、早く逃れたかったのではないだろうか。果てしない旅である西国巡礼を再興されたのも、諸国を縦横無尽に往来し、天地水明、花鳥風月を全身全霊で感じ取り、自由を得た喜びを観音巡礼と云う壮大なる旅路へ向かうことで表現し、解き放たれたのである。そう考えると花山院とは偉大なる芸術家であり、思想家であり、文学者であり宗教家である。まさにマルチな才をもたれた時代のプロデューサーでもあった。以来千年も続く西国巡礼はそうしたことを結果として示し、自由である喜びと、自由はすなわち不自由であると云うことを巡礼者に伝承しているようにも思う。

花山天皇については他にも様々な多くのスキャンダルが流布された。まことに気の毒で畏れ多いことだが、中でも大納言藤原為光の娘、女御忯子への寵愛ぶりはとくに知られている。忯子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して妊娠八ヶ月の身重で他界した。花山天皇の落胆ぶりは大きく、向後、いかに神仏にすがるべきか悩まれたと云う。抜け殻のようになられた天皇のご様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣藤原兼家だ。めきめきと力をつけて、廟堂において頭角を現していた兼家は、花山天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めたと云う。そして一日も早く自分の外孫懐仁親王へ譲位させようと謀るのである。『大鏡』によると、寛和二年(986)夏の未明、兼家の次男で蔵人として天皇の傍に仕えていた道兼に命じて、天皇を出家に導くという計画を企てた、道兼はある僧と語らって言葉巧みに花山天皇を内裏から連れ出し、空が白む頃に東山の花山寺(今の元慶寺)へ入った。道中は目立たぬように源氏の武士が護衛したと云う。兼家の行動は実にすばやかった。まず内裏を閉門し、長男道隆と三男道綱に命じて清涼殿に置かれていた神器を皇太子懐仁親王の部屋へ移御している。いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せた。そして道兼が剃髪する番になったが、道兼は今一度この姿を父に見せてくると言い残して寺を後にした。花山天皇が騙されたと思ったころには、道兼は洛中に戻っている。そして兼家の末子、道長が関白頼忠に天皇は御出家なされたと報告。七歳の懐仁親王が直ちに践祚されて一条天皇となられたのである。四人の孝行息子の活躍で兼家は外祖父となったのだ。そして五十八歳にして念願の摂政となり、同時に氏長者にもなった。 またしても藤原北家の完璧なる謀略は成功したのである。

皮肉なことに花山院は、過去に兼家の息子たちとは思いがけぬ交流もあった。ある不気味な雨の夜のこと、花山天皇は闇夜を所定の場所まで行って戻ってくるという肝試しを思い立たれた。道隆、道兼、道長がこれに応じた。二人の兄は恐ろしくなり途中で戻ってくるが、道長だけは大極殿まで行って柱を削り取って戻って来た。翌日、その柱に破片を合わせてみるとぴたりと当てはまったと云う。天皇より二歳年長の道長には、ことに目をかけられて、信頼されていた節がある。肝の据わった道長をいずれ御自身の側近にと考えてもおられたかもしれない。無念の思いで皇位を追われた花山院。後を追って出家したのは側近中の側近の義懐のみでった。その後は先にのべたとおりだが、生まれながらの色好みは出家されてからも健在で、むしろ大っぴらになられたと云われる。心身に健康を取り戻されたのであろうか。「九の御方」と呼ばれた藤原伊尹の娘のもとに住まわれ、数々の浮名を流されたと云う。もうひとつ、こんなエピソードがある。或る時、花山院は藤原為光の四の君のもとに通われるようになった。世は兼家が亡くなり、その息子や孫たちが権力闘争を繰り広げ始めた頃だ。道隆の子で当時内大臣となっていた藤原伊周もまた為光の三の君のもとに通っており、この時、花山院が通うのが三の君だと誤認し、脅しのために矢を射かけた。ほんの威嚇のつもりが、花山院の袖を射てしまい、これが廟堂で問題となって事件となった。伊周のライバルは右大臣に昇進していた道長道長はこの機会を逃さなかった。結果、伊周は大宰府へ左遷され、後は道長が廟堂と平安貴族の頂点に君臨するのであるが、そのあたりはいずれ。この事件の後も道長は花山院を敬重したと云う。道長自身も花山院を弟のように思っていたのかも知れない。寛弘五年(1008)二月八日、花山院は四十一歳で崩御された。

花山院は歌人としても優れており、多くの和歌を残された。

世の中の憂きもつらきもなぐさめて 花のさかりはうれしかりけり

この歌ほど花山院の人生観が込められた歌はあるまい。そしてまた桜をことのほか愛された。「花山」と云う御追号は花山寺からであることは言うまでもないが、花を愛でた天皇にはまことに相応しい御追号である。京都の平野神社は昔から花の名所として名高い。この社の桜は、花山院によって数千本の桜が植えられたのが始まりであると伝わる。当時は京都御苑並みの広さがあって、咲き誇る千本桜はさぞかし壮観であったに違いない。 花山院の想いを乗せて平野神社を彩る桜たちは現在、六十種、およそ四百本。神紋も桜。今もやっぱり壮観である。今年もその足音が刻一刻と近づいてきている。

木のもとをすみかとすればおのづから 花見る人になりぬべきかな