弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

八月六日夜

平成三十年八月六日夜。台風が接近する東京は、風が強い。日本の夏に欠かせぬ夏の甲子園が百回目を迎え、熱闘が始まった。明日は旧暦で立秋。十五年ぶりに地球に大接近中の火星が、東南の夜空にオレンジ色に輝いてまだよく見えている。

昭和二十年八月六日。広島市の夜はどんなであったか。どんなであったかとは愚言だが、私があの日の惨状について述べるよりも、かえって真に迫る気がする。原爆投下から十二時間以上が経過しても、火災は鎮まらず、加えて黒い雨が降ってきた。彼処にいた人は息をするのもやっとであっただろう。爆発と同時に地表の温度は3,000℃に達し、風速400メートルを超す爆風で、広島の街は一瞬でほぼ壊滅した。実際、何が起きたのかさえ解らぬまま、此の世から消え失せてしまった人がいた。犠牲者として名前すら確認できなかった人が大勢いたはずだ。無常という言葉さえ、虚しく聞こえる。どうしたらあの人たちを思い出すことができるのだろうか。どうすれば一瞬で消えて無くなったあの人たちを、せめて追悼することができるのだろうか。私は、昭和の戦争のことを考える度に、こんなことを思うのである。あの人たちは何のために生まれて来たのか。生まれてきた意味、役割はあったであろうに。あったのか。いや確かにあったはずである。それを一切の抵抗、一瞬の逃避も許されずに粉砕されたのである。一発の原子爆弾に。夢も希望も。恋も愛も。親も子供も。少年も少女も。老人も赤子も。恋人も友達も。生き物も花も木も。文も武も。嘘も誠も。思想までもが、みんなみんな粉砕された。何時間も何日も何年も苦しみながら、もがきながら亡くなっていった人たちからすれば、まだましだったのか。そう思うこともあったが、近頃は果たしてそうとも思えない。少なくとも苦しみながら亡くなった人たちは、何かとんでもないことが起きたが、それが戦争のせいであることはわかっていたであろう。苦しみと悔しさと哀しみに打ちのめされて逝ったに違いない。そういう想いを此の世にきっちりと置いたはずだ。或いは、怨み辛みを吐きながら逝ったであろう。いったいどちらがましな死に方であったかということはない。

こうして書いていても大変苦しい。苦しいが、書かねばならぬ。私では許されないかもしれないが、書かなくてはならない。戦争のない時代をのうのうと生きる私。であるからこそ、戦争を知らないからこそ書かなくてはならないのだ。私にとって、それがあの人たちを思い出して、追悼する唯一無二のことであるから。いったい何が悪かったのか。誰が悪かったのか。時代が悪かったのか。今さら言ったところでどうにもならないが、人類は賢く成りすぎて、自ら滅亡の道を歩み始めた。滅亡への歩みは止まらない。戦争をやめない人類。まだ平和な平成最後の日本の夏。だが、明日は我が身である。全方位的に混沌殺伐とした風潮は、戦前なのかもしれない。一寸先は闇だということを、私たちは肝に銘じておかねばならない。七十三回目の広島原爆忌。あの人たちの御霊よ、戦災で亡くなられたすべての御霊へ、どうか安らかに。