弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

Don't forget Nagasaki

長崎の街は美しい。多くの歌になり、文学や映画の舞台にもなった。晴れても、雨でもいい。夜景も見事である。山海が隣り合う街の景色は、刻一刻と表情が変わり、見飽きることはない。異国情緒漂うという響きがまことによく似合う。日本の港町はどこも同じような雰囲気があるが、函館、横浜、神戸など明治維新後に急速に発展した港町よりも、遥かずっと前から、長崎は日本の国際貿易港であった。徳川時代より以前から、中国、朝鮮、南蛮と盛んに交流した。長崎市のみならず、平戸、雲仙、熊本県の天草まで含めると、文化交流規模は相当に広い。そんな長崎にはキリスト教の礼拝堂が多い。いずれも由緒ある教会ばかりだが、欧州のような大聖堂ではなく、こじんまりとした愛らしい佇まい。天主堂と呼ばれ、代々土地の人々に守り継がれている。

現在、長崎は心地良い潮風を感じながら、如何にもぶらりと散歩がしたくなる街だ。この東洋と西洋が美しく混在する街は、今から七十三年前、一瞬で地獄になった。世界で初めて広島に原爆が投下された僅か三日後、昭和二十年八月九日午前十一時二分のことだ。中学の時、あの時間で止まった柱時計を、長崎の原爆資料館で見たことがある。その時の私は、何も考えられずに、しばし茫然と柱時計の前に立ち尽くした。それから被爆者の方にお話を伺った。凄まじい話であった。怖くてたまらなかったが、私の記憶にも残ったことは、これからのためには良かったと思っている。被爆者は年々減り、今は十五万人ほど。ゆえにもう一度話を聴きたい。あの方はどうされたであろう。三十年近く前で、当時すでにおじいさんであったから、おそらくはもう旅立たれたであろう。奇跡的に生き残った方々は、今は語り部として活動されている方もいるが、思えばこれまで残っていることほど、実は辛いことなのではないだろうか。 爆心地の浦上地区の被害は甚大であった。長崎に投下された原爆は、広島よりも威力があったらしいが、平野ではなく山あり谷ありの長崎の地形が壁になり、爆心地から少し離れた大浦天主堂やグラバー邸は奇跡的に倒壊を免れ堪えた。今、あの優美な建築を堪能できるのも、自然の地形が護ってくれたのである。それにひきかえ、人間は何とも愚かなり。一方、爆心地にある浦上天主堂は申すに及ばぬほど破壊された。かの痛々しい被爆マリア像には、涙よりも言い様のない戦慄を覚える。それは原爆の恐怖以上に、愚かな人類がやらかした大罪は、悔い改めることはできないのではないか、ある種祟りのような戦慄である。

神は、仏は、自然は、そしてこの星は、怒り、呆れ、嘆いてもなお赦してくれたのか。広島も長崎も、百年は草木は生えないと言われたが、今ではどちらも日本屈指の緑蔭溢れる街になった。かたじけなさに涙こぼるるが如しである。広島で被爆して、長崎に疎開し、また被爆された方もいる。二重被爆というが、広島でやっとの思いで助かったのに、長崎で亡くなった方もいるのだ。さらには、二重被爆に遭っても助かった方もいる。何という運命だろう。生き存えたことに、奇跡以上の何かがはたらいている気がしてならない。国は長年、二重被爆を認めず、黒い雨の降った地域の徹底調査をしなかった。そのせいでずいぶんと苦労されて、無念のうちに亡くなった方も多いと聴く。まさに踏んだり蹴ったりだ。助かっても、煉獄の火焔は消えなかった。国は最近、ようやく重い腰を上げつつあるが、はたして…。原爆投下は実際にこの国であったことである。私たちは決して他人事で済ませてはいけない。

長崎は美しい。天主堂の鐘の音が今日も高らかに響く。その音は華やかなだけではなく、戦没者への永遠の鎮魂歌であり、人間の犯した罪への警笛と懺悔の響きである。