弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜さらば普門館〜

吹奏楽部員にとって秋は別れの季節である。体育部は概ね夏の大会で引退するが、吹奏楽部は十月から十一月に吹奏楽コンクールやマーチングコンテストの全国大会があるし、全国大会に出場しなくても秋には各地で演奏会や文化祭が開かれるから、それらの晴れ舞台が終われば、最上級生は引退する。この頃に引退式を兼ねて、定期演奏会が開かれる。春先の卒業式前後に定期演奏会を行う学校もあるが、私の通った中学校、高校ともに定期演奏会は十一月であった。送る方、送られる方、悲喜交々である。先輩達の引退を本気で寂しがる者、一見寂しそうに見せても、腹中では目の上のたん瘤がいなくなることに快笑する者様々である。私の場合、中学では尊敬するT先輩が引退することが寂しくてならなかったが、高校では目障り?な三年生が居なくなり、ようやく自分達が仕切れることに心中で北叟笑んだ。もちろんそこには、最上級生となる責任、不安、期待が混在していたわけだが。

先日、普門館に行ってきた。まえに普門館のことは書いた。普門館立正佼成会の所有するホールで、かつては全日本吹奏楽コンクールの会場であった。吹奏楽の甲子園と呼ばれ、吹奏楽経験者やファンには聖地とされている。東日本大震災後、耐震性に難があるとかで、使用中止となり、吹奏楽の甲子園は名古屋のセンチュリーホールに移った。普門館は残念ながら、来月から解体される。そのため立正佼成会の粋な計らいで、今月一週間だけ内部が無料開放された。何と楽器を持ち込み演奏しても良いとのこと。普門館は私の自宅から目と鼻にあり、散歩でよく通る場所である。二、三度吹奏楽コンクールを観に行ったが、ステージには上がったことはない。ここの本選ステージに上がれるのは、厳しいコンクール予選を勝ち抜いた最高峰の楽団のみである。その場所に最後の最期に立てるのみならず、演奏できるとなれば、行かぬ手はない。私はブラバン経験者のクラリネット吹き、サックス吹きの友人を誘ってでかけた。

土曜日のこととて、行ってみると大行列が出来ていた。肌寒い夕方であったが、老若男女が集い、今か今かと入場を待っている。まるでこれからコンサートが開催されるかの様である。入れ替え制で三十分待ったが、ついにその内部に足を踏み入れた。あの黒光りするステージの床の上に、私たちもついに立った。まさかこの歳で、楽器を持ってここへ来れるなんて。しばらく茫然としていたが、それもそのはずである。ステージ前方に広がるのは五千もの観客席である。あまりに大きすぎて声も出ない。誰も座っていなくてもこの緊張感。ここが満席ならばと冷汗する。そして最も後方は遥か彼方に霞んでいる。高い高い天井を眺めれば、プロントサウルスだってこの中に入れそうだと思った。 

普門館は昭和四十五年(1970)に建設された。立正佼成会の集会や講演会の会場であるため、大型バスが何台も駐車でき、一帯は佼成会の聖堂などの施設が林立して公園の様になっている。大人数が大移動する吹奏楽コンクールを開催するには、まことに適した場所であった。普門館では数々のコンサートも開かれており、日本のクラシック音楽吹奏楽の発展期を盛り立ててきた名ホールである。帝王カラヤンも、ベルリンフィルを率いて二度やってきた。最初の公演では、大ホールゆえの音響の悪さが不評であったため、二度目の公演でカラヤンは反響板を置くようにアドバイスしている。この時はベートーベンの第九で、音源も残っており、「普門館の第九」と呼ばれて、伝説となっている。ベルリンフィルの他にも、ウィーン交響楽団ボストン交響楽団など錚々たる楽団が普門館で公演した。仏教では、すべての人に門をひらくことを普門と云うとか。普門館は文字通り世界に開かれたホールであった。

今宵は存分にこのステージを堪能する。青春只中の中高生や大学生がいる、今も変わらぬ青春を謳歌する大人達がいる、そして私の様に吹奏楽を引退してからずいぶんと時間が経った人々がいる。この今は現役引退した人々が、実は一番ここに居ることを噛み締め、喜んでいたりする。私もそうだ。普門館と云えば、最高峰なんだもの。私たちの青春時代はそうであった。思い切り普門館で演奏する者、反響板に謝辞送辞の言葉を綴る者、まるでホールに飲み込まれそうにただ佇む者。皆が思い思いに普門館との別れの時を過ごしている。そして某ツイッターの呼びかけで、楽器を持って集いし人々で、「宝島」を合奏した。「宝島」は何度もリフレインして合奏されたが、この楽しい曲が、別れの曲になっていることは、皆が解っている。私には楽しい曲ゆえにかえって寂しく思えてきた。ひとつのホールが解体されるにあたり、かつてこれほど多くの人々が集い、別れを惜しみ、涙すら流すなんてことはなかったであろう。それは懐古と惜別の涙である。「解体しない方向で何とかならなかったのかな」と何度も思ったが、惨事が起きてからでは遅いと云うのもよく解る。惜しまれながらの今が、一番の引き時であったと思う。さらば普門館。ありがとう普門館。私達はいつまでも去り難く、普門館のステージに立っていた。続。