弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 本山慈恩寺

八月に山寺を訪ねた夜、山形在住の知人と食事をした。彼は寒河江の人で、生まれてからずっと山形を出たことがない。車でわざわざ山形市内まで出向いていただき、また美味い蕎麦を味わった。食事の後、とっておきの場所があるからと、夜のドライブに連れ出してくれた。山形市から西へ五キロほど走ると、白鷹丘陵にあたる。背後に朝日岳を控えたこの丘陵は、一番高い白鷹山(標高994m)を中心とし、他の山々を含めた丘陵一帯が、県民の森として整備されている。県民の森は、山形市南陽市山辺町、白鷹町の二市二町に跨いだ広大な公園で、ここの山上からの夜景が素晴らしいと云う。寒河江はこの丘陵よりもっと北になるらしい。車は、いろは坂のようなヘアピンカーブをぐんぐん登った。丘陵には大小多くの湖沼があり、車窓からも大きな沼が見えた。てっぺん近くに樹々が開けた場所があり、そこからの夜景は話のとおり美しかった。眼下には明滅する山形市街の灯が、まことに程良い夜景規模で展開している。東京などの大都市は明るすぎて煩い夜景であり、私にはなんとも大味に感じるが、山形の夜景は私好みの豊かな夜景である。目を上げると満天の星空が広がっていた。時折、物凄く近くを流れ星が走り去る。夏の夜空でも流星がこれだけはっきり見えるのに私は嬉々とした。昔、真冬の甲府盆地でこれと似た夜景を堪能した。上にも下にも綺羅星が輝いていた。私は風景も一期一会だと思っている。あの日以来あんな景色は二度と見れまいと思ってきたが、山形へやってきて再びその景色を眺められた。夜の山形盆地は何かに守られるように、安心して眠りに就こうとしている。昼間は小雨が降って蒸し暑かったが、夜はすっきりと晴れて心地良い。夜の山形はもう秋の気配であった。

山を下りながら、「明日は最上川下りをして、慈恩寺へ行こうかと思います。」と私が言うと、慈恩寺は彼の家から目と鼻の先にあるため案内してくださると言う。願ったり叶ったりで、誠に図々しくもお願いした。

翌朝ホテルを出て、ひとまずは奥羽本線で村山まで行き、タクシーで船着場のある碁点橋まで向かった。最上川下りは何箇所かにあるが、私は村山の碁点橋から長島橋までのおよそ十二キロを五十分かけて、碁点、三ヶ瀬、隼と云う三つの難所をゆく急流下りを選んだ。舟下りの運営会社とタクシー会社が協力して、村山駅からワンコインで船着場に連れて行ってくれた。運転手さんは、「このところ最上川の水量が低いから、大丈夫かな。」と言う。水量が低いと危険なので運航中止もあるらしい。先日の台風では橋桁の直ぐ下まで水が上がったらしいが、急流ゆえに引くのも早いのだろうか。最上川は暴れ川で、一雨降れば轟々たる音で逆巻きながら流れてゆくが、あっという間に日本海へと至る。船着場に行ってみたら予定通り舟は出るとのことでホッとした。屋形舟のような座敷舟に、客は私と三人の親子連れのみ。ほとんど貸し切り状態なのはありがたかった。

舟はゆるりと下りだした、水嵩が少ないとはいえ、やはり羽州の母なる大河最上川。流れは早く、舟が時々蹴る波飛沫はまことに豪快であった。護岸工事がほとんどされていない緑溢れる岸辺を横目に、舟は翡翠の如く流れゆく。水は清冽にして雄渾。進行方向には葉山(標高1461m)が見えつかくれつし、遥か西方、雲の向こうには出羽三山(主峰月山1984m)があろうことを想像しながらの舟旅は、これ以上ないロケーションで旅情を駆られる。ガイドのおじいさんが、また何とも言えず味のある語り口で、山形弁を織り交ぜながら、最上川の歴史を語る。ゆるりとした話を聴いていると、暑さも忘れて眠くなってきた。様々な語りの中で私の興味をそそったのは鳥の話であった。川面から顔を出す岩の上に黒羽を広げて休んでいるのは川鵜。たくさんいる。何でも昔は川鵜は東北にはいなかったそうだが、最近はよく見かけるらしい。確かに東北には鵜飼いはない。これも温暖化の影響であろうか。動植物は少しずつ北上しつつある。本物の翡翠も姿を見せてくれた。岸辺には時々大きな青鷺がジッと川面見つめて立っていたかと思うと、急に飛翔して、舟の上を滑空していった。おじいさんの話では、青鷺が集まってくると雨になると、昔から伝承されているらしい。水嵩が増して、川上から青鷺の餌となる魚が多く流れてくるのだろうか。今でも最上川流域で暮らす人々にとって、青鷺や川鵜の動向が気候や空模様を知る上で、大切な手がかりになっていることに私は感心した。自然の呼吸に逆らわずに暮らしているのだ。有史以来最上川は、この地域の人々が生きてゆくのに欠かせぬ川であった。飲み水、稲作、畑作はもちろん、魚も採った。舟運は平安時代から始まったらしいが、時代が降るに連れて物流の大動脈となり、酒田から北前船が出るようになると、出羽国のみならず、北の大動脈の役割を最上川は担っていた。地産の米、大豆、小豆、紅花は西回り航路で上方や江戸に大量輸送され、戻り船では、塩、魚、茶、上方や江戸の文化が届けられた。最上川は吾妻山に源を発して、右往左往を繰り返しながら、羽州を潤して、酒田にて日本海へ注いでゆく。

やがておじいさんの最上川舟歌が始まった。最上川舟歌は、盛んであった舟下りを彷彿とさせるが、男歌なのに、どこか切ない節回しで、聴きながら最上川を下ると、それが実感として胸に迫ってくる。そこにはきっと雪深いこの土地で、命懸けの仕事をしていた男達と、無事の帰りを待つ女房や、酒田にいる女達の気持ちが込められているからではないか。最上川と共に生きて、働いてきた人々の姿が瞼に浮かぶようであった。舟は巨巌を超える碁点を越え、周囲の岩礁により鳴門の渦のように流れが逆巻く三ヶ瀬をスリル満点ですり抜けてゆく。隼は最上川最大の難所で、近くまで行って見せてくれるが、さすがに越えることは安全を考えると困難とのこと。下船して対岸の公園からその場所を見せてもらったが、浅い段々の岩肌が見えており、水量が低いのにその先は黒々とした淵で、急な早瀬になっている。此処を越えるのはまさに命懸けであったろう。

おくのほそ道をゆく松尾芭蕉は、山寺を後にして、最上川を下っている。私の拙い文章なんかより、端的にわかりやすく最上川の情景を感じることができよう。

最上川は、みちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん、はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ひまに落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

五月雨をあつめて早し最上川

現代人は舟下りを観光として楽しむが、かつては大事な交通機関であった。とは言うものの、松尾芭蕉はずっと歩いてきたおくのほそ道の旅路で、ここでかの最上川を舟下りできることを、本当に喜び、曾良と二人楽しんだに違いない。この一句には、彼らの浮き足立つ様子がよく反映している。人は川に対してある種の憧れを抱いている。芭蕉も同じで、最上川に対する想いは深い。後に酒田に到達した芭蕉は、最上川をもう一句詠じた。

暑き日を海に入れたり最上川

これぞおくのほそ道の最高の句であると私は思う。今回は行けなかったが、この句の追体験はいつか酒田に出向いて果たしたい。

ありがたいことに船着場まで知人が車で迎えに来てくれた。ここから寒河江慈恩寺までは、車で三十分くらいらしい。途中また蕎麦を食べる。慈恩寺も蕎麦が有名で、美味い店がたくさんある。寒河江と云えばさくらんぼも有名だ。さくらんぼの旬は初夏であるため、私の行った頃はもぎたてをいただくことは叶わなかったが、知人が道の駅に連れて行ってくれたので、さくらんジェラートやゼリーを食べることができた。お土産で月山の栃餅を買って、帰りの新幹線で食べたが、これが実に美味かった。歯応えある餅とほのかな甘さの餡子が絶妙で、私は取り寄せしようと思っている。

余談が長くなったが、昼下がり慈恩寺に到着した。慈恩寺は、慈恩宗本山となっている。この寺を知るまで慈恩宗のことは知らなかった。寺伝によれば、行基が諸国行脚してこの地の景勝を聖武帝に奏上、勅命により印度僧婆羅門が天平十八年(746)に精舎を建立したのが始まりとされる。婆羅門は行基の推挙で東大寺大仏開眼供養の導師を務めた菩提僊那のことである。この真偽はともかく、古い文献には慈恩寺の平安期のことが記されており、かなりの古刹であることは間違いない。藤原期にはこの地に広大な荘園を有した摂関家の庇護を受け、法相宗の寺として弥勒菩薩を本尊とした。その後、天台、真言、修験、時宗と多くの宗派が入ってきたが、法相の教義がこの寺の真髄にある。慈恩寺の慈恩とは、法相宗の祖である慈恩大師からであり、何より本尊はずっと弥勒菩薩である。鎌倉以降は地頭の大江氏、室町以降は最上氏が慈恩寺を庇護した。その最上氏によって寺域は拡大、保証され茅葺の立派な本堂や、三重塔も建立された。江戸期にもその勢いは継承されて、幕府からはみちのく最高の二千八百十二石を寺領とすることを許されている。が、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れた明治の初め、寺領はほとんど接収され、かつて四十八あった坊舎は、ほとんどが帰農した。それでも今は十七の坊舎が残っている。坊舎は今は完全な寺ではなく、農業をはじめ何らかの仕事を持ちながら、寺を兼ねているようだ。その本山が慈恩寺なのである。慈恩寺が慈恩宗として独立したのは戦後のことで、今は三院十七坊の本山である。

重厚な茅葺の本堂、山門、三重塔、薬師堂、鐘楼、伽藍は小高い丘の斜面に不規則に並ぶ。堂宇はいずれも端正ながら、太く逞しいみちのくの質朴な気骨が垣間見える。小ぶりだが実に優美な薬師堂、澄んだ音色の釣鐘を下げる鐘楼、今は本山としての威厳よりも、寒河江の街を見守るように、包むように静かなる寺は在る。慈恩寺と云う寺名に背かない。

私たちは本堂に上がった。外陣には古色蒼然たる茅葺の本堂からは想像できないほど、鮮やかな色彩の天井画が残っている。外陣の端には四体の鎧兜が座っていた。春に当寺で行われる慈恩寺舞楽で、若者がこれらの鎧兜を身に付けて、刀剣を振りかざしながら勇壮に舞うと云う。舞楽四天王寺から伝来したらしいが、邪気払いと豊作を祈念した祭祀なのであろう。同時に今も昔も雪国に春を告げる祭であって、人々は楽しみにしている。舞い手や舞楽の演奏者は一子相伝であると云う。慈恩寺を本山とする坊舎の人々が継承する慈恩寺舞楽は、国の重要無形文化財に指定されている。同行してくれた知人の先輩は、慈恩寺舞楽の舞い手を務めるらしく、鎧兜を纏った姿はあたかも野武士を彷彿とさせるとか。これらの鎧兜は最上義光が三重塔を寄進した際に贈ったのではないかと思う。山形のヒーローは何と言っても最上義光である。母なる最上川の名を氏とした、最上氏最高の人物である最上義光は、経世済民に心を砕き、慈恩寺弥勒菩薩にも殊の外帰依したと聞く。その義光が、慈恩寺舞楽を大切にしなかったはずはない。鎧兜とは何となく薄気味悪いモノだ。私の曽祖父の家にもあったが、幼い頃はその部屋に入ることを躊躇った。が、慈恩寺の四体の鎧兜からはそんなモノは感じなかった。きっと聖なる祭で晴れ舞台に上がるからであろう。神仏と人々を守護する武者たちである。 

本堂内陣へと入る。まず驚いたのは、秘仏の本尊弥勒菩薩がおわす厨子須弥壇が漆黒に輝いていて、まことに立派であったことだ。さすがにみちのく随一の古刹である。須弥壇には前立ち本尊の弥勒菩薩が少年のような面差しで、手を合わせる者を見つめている。仏前には、今朝摘まれたばかりの蓮の花が生けられていて、芳しい香りが内陣に漂っている。少し小ぶりのこの蓮は、慈恩寺蓮と云い、他の蓮に比べて開花が少し遅く、晩夏に花ひらく。慈恩寺の近くには、慈恩寺蓮の群生する池があって、今を盛りに美しく咲き誇っていた。一時この蓮は途絶えかけたらしいが、地元の人の努力で、今また可憐な花をたくさん咲かせている。厨子の周囲は菩薩や天部のほとけたちが守護しているが、それらがすべて圧巻の彫像であった。みちのくらしい荒削りさは皆無で、柔和で線のはっきりした姿は、近畿地方に見られる様な典雅さを備えている。それもそのはずで、寺の人によれば、これらの仏像は、摂関時代以来、京都をはじめとした西国の仏師の手になるそうだ。須弥壇だけでなく、須弥壇の下や須弥壇の奥の部屋、回廊にまで、多くのすばらしい仏像が、まるで博物館のように安置されている。慈恩寺は京都や奈良の名だたる寺院に匹敵する仏像の宝庫なのである。仏師が此方へ来たのか、彼方で製作して運んだのかは知らないが、平安、鎌倉、南北朝、室町と時代時代の特色がよく表れた美しいほとけたちである。中で私の目を惹いたのは、十六歳の聖徳太子であった。髪を鬟に結った凛々しい立像で、一文字に引いた口元には少年の立志と迷いが同居している。崇高さの中に、親しみを感じることのできる聖徳太子である。弥勒菩薩阿弥陀如来聖観音、天部、聖徳太子弘法大師がこの一堂に祀られているのは興味深い。これらの仏像群は慈恩寺が経てきた歴史の変遷を如実に示している。

本堂を出て、薬師堂へ上がる。小ぶりなお堂には、鮮やかに黄金が残る薬師三尊像と、その背後には薬師如来を守護する十二神将が並んでいる。穏やかな薬師三尊とは対称的に、十二神将は躍動感に満ち満ちており、拝する者を元気付けてくれる。十二神将は兜に十二支を載せていて、めいめい干支の守護神でもある。この十二神将は平成四年に海を渡った。ワシントンの彫刻展に展示されて、その精緻さに世界の人々をも驚嘆させたと云う。慈恩寺は仏像の宝庫と予々聞き及んでいたが、これほどの見事な仏像群が、山形の奥座敷の様なこの場所にひっそりとあることに私は感動した。戦乱や天災で失われずに済んだのは、寧ろ雪深いこの場所であったからである。慈恩寺のほとけたちは、この地に根差して生きる人々を護り、その人々によって守られている。

帰りがけ私は知人にお願いをして、慈恩寺裏手の山に登った。車で林道を上がると、てっぺんが開けていて展望台になっている。ここは山王台と呼ばれている。山王は日吉大社山王権現である。察するに慈恩寺に天台が入ってきたときに、鎮守として山王権現を祀ったのであろう。少し彷徨いてみたが、社らしきものは見つからなかった。ひょっとすると慈恩寺の境内のどこか、もしくは今も残る坊舎のどこかに祀られているのかもしれない。山王台からの眺めはすばらしかった。北から南面を広々と眺めると、滔々たる寒河江川の流れが横たわり、その向こう遥か彼方まで山形盆地全体が見渡される。東には山形市街から蔵王の峰々、南にはそろそろ穫り入れが近い黄緑色の稲田と、さくらんぼ畑が点在する美しい寒河江の街並、西の月山はさすがに見えなかったが、時々雲間の間からこちらを見下ろしているであろう。この地形を改めて見てみると、慈恩寺が天然の要害に建っていることがはっきりとわかる。推測だが、慈恩寺は大江氏や最上氏にとっては、いざという時の出城だったのではあるまいか。そして慈恩寺もかつての威容から想像して、率いた坊舎共々、浄土真宗寺内町のような一大コミュニティを形成していたのだと思う。盆地と云う地形は、夏は酷暑、冬は極寒というまことに厳しい自然環境であるが、こうして高所から俯瞰すると、巨大な掌の内側に守られているように思う。私は京都盆地甲府盆地でも同じようなことを感じた。その度にこの巨大な掌は、神の掌、或いは、ほとけの掌ではないかと思えてくる。慈恩寺はその掌のど真ん中に在る。足下から慈恩寺の鐘が聴こえてきた。鐘の音は風にのって山形盆地のずっと奥まで染み渡ってゆく様だ。こんな気持ちの良い所はそうはない。この抜けるような風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育んだに違いない。山形は偉大なり。偉大な風景が、偉大な人々を創造する。この風景に勝る場所など東京にはない。私は山形盆地に「威張るな東京」と言われた気がした。